Blog. 「ストレンジ・デイズ 2015年12月号」 久石譲 MF Vol.2 コンサート紹介記事

Posted on 2015/12/19

2015年10月21日発売 雑誌「ストレンジ・デイズ 2015年12月号 No.193」

2015年9月24、25日開催「久石譲プレゼンツ ミュージック・フューチャー Vol.2」コンサート・レポート記事が掲載されていました。

執筆家によるプロ目線でのそのレポート内容をご紹介します。

 

コンテンポラリー・ミュージック
MUSIC FUTURE VOL.2

「JOE HISAISHI presents MUSIC FUTURE VOL.2」というコンサートがよみうり大手町ホールで、2015年9月24日(木)、25日(金)、2日にわたって行われた。演奏されたのは以下の5曲。

スティーヴ・ライヒ 《エイト・ラインズ》 (1983)
ジョン・アダムズ 《室内交響曲》 (1992)
ブライス・デスナー 《Aheym》 (2009)
久石譲 《Single Track Music 1》 (2014-15)
久石譲 《室内交響曲》 (2015)

久石譲が映画の音楽で知られた人物であることは、あらためて言うまでもないだろう。北野武の作品や宮崎駿のアニメーションで特に多くの人びとに記憶されているし、ほかにもフランス映画『プセの冒険 真紅の魔法靴』(監督:オリヴィエ・ダアン)、香港映画『海洋天堂』(監督:シュエ・シャオルー)、中国映画『スイートハート・チョコレート』(監督:篠原哲雄)といった海外作品にも参加している。

わたしにとっては、しかし、映画の音楽は後からのものだ。「久石譲」と名のる以前、本名の藤澤守での作品を70年代、記憶が間違っていなければ、ふれたことがある。そしてアルバム『MKWAJU』(81年)のインパクトは、赤ーとオレンジのあいだくらいの色だろうか?ーとグリーンとがコントラストをなす色鮮やかなジャケット・デザインとともに、大きい。すでに上記のライヒやフィリップ・グラスなどの「ミニマル・ミュージック」が、都会的な洗練とシステマティックなつくりになったことに対し、アフリカの大地に根差したような力強さを回復する、というようなことが謳われていたのではなかったか。一度デジタル・マスタリングされ再発してはいるが、そちらは手にしていないので、確認してはいないのだけれども。

久石譲のオフィシャル・サイトをみると、81年の『MKWAJU』が「初の作曲・プロデュース作品」としてある。そして翌82年がファースト・アルバム『INFORMATION』、83年が映画公開に先がけてのイメージ・アルバム『風の谷のナウシカ』とつづく。そして以後、数々の映画の音楽が年ごとに並ぶことになる。そしてそれぞれのなかには『MKWAJU』で響いていた音色が、反復される音型が、いつも、というわけではないかもしれないが、垣間みられた。特にその親しみやすいメロディの背景に。

話をMUSIC FUTUREに戻す。

久石譲はここで、新たに自らが同時代と感じ、親しみを持ってきた音楽を、自らの手であらためてプログラミングしている。それは、映像とともにある音楽とは別の、映像がないことで成りたつ、音楽のみでのコンサートで体験される音楽であり、それはヨーロッパ由来ではあるかもしれないが、現在は世界に広がっている「コンサート音楽」だ。そして、久石譲自身とほかの作曲家の作品が、照応されるべく、組みたてられている。

確かに作曲家たちは親近性のある作品を自ら企画するコンサートで並べてきたし、いまでもそういうことは多い。だが、それが多くの聴き手を集めることは難しい。たとえどれかの作曲家に興味があっても、情報そのものがその聴き手まで届かないことだってありうる。おそらく、ライヒやアダムズ、デスナーを並べて2回のコンサートを開き、聴き手を集めることができる人物はけっして多くない。久石譲が「presents」してこそこれだけの人びとが集まると言ってもいいだろう。それは大きな意味がある。わざと意地悪な言い方をするなら、もしかしたら聴き手のなかにはそれぞれの作曲家の名は知らない人がいるかもしれない。それぞれの作品が持っているいろいろなテクニカルだったり思想的だったりすることはぴんとこないかもしれない。それでも、そこで響く音楽は、いわゆる「難解な現代音楽」ではなく、それなりにノれ、楽しめることがわかる。久石譲が企画するコンサートで名を知ることになって、それが少しずつでも、広まっていくかもしれない。

コンサートのことだけではなく、久石譲の作品についても紹介しておこう。「VOL.2」で初演された2作品は、楽器編成も構成も大きく異なっている。

《Single Track Music 1》はサクソフォン・クァルテットとパーカッションのための作品だが、全5人の演奏者がいて、同時に音を発しながらも、和音というか重音というか、になることがなく、タイトルどおり、響いている音は「シングル」。だから、聴く側からすると、何が起きているのかはっきりと耳で追っていくことができる。だが同時に、ホケット(=分奏)とみなすなら、それは初期ライヒの作品にあったような、音の受けわたし、メロディの生成するプロセスそのものが音楽作品化しているのであり、また、奏者同士の音を「聴きあう」ものとして提示されている。似たような試みは清水靖晃の『ペンタトニカ』に見いだすことができるけれども、ここではパーカッションによる音色の変化やアクセントが加えられるおもしろさもある。

《室内交響曲》は、作曲者自身が「エレクトリック・ヴァイオリンのための協奏曲」と呼ぶべきかもしれないとMCで語っていたもので、6弦のエレクトリック・ヴァイオリンが小編成のアンサンブルにソロとして加わる(ソロは西江辰郎)。この楽器は通常のヴァイオリンの音域よりも低い方が広くなっていること、また、アンプリファイアとして、シーケンサーのような「重ね」方が可能になっている。アンサンブルの書法として特に珍しいことではないけれど、金管楽器の3人はところどころでマウスピースだけを楽器本体からはずし、声を重ねることで特殊な効果を生みだしもする。

久石譲のコンサートは、もちろん映画の音楽を演奏するコンサートもあるし、それらをもとにしながら別のかたちに組みかえた『WORLD DREAM ORCHESTRA』のコンサートがあり、《第九》を指揮するものもある。より多くの聴き手を動員できるコンサートに隠れ、ともすれば「MUSIC FUTURE」は地味に、また「色もの」のようにみてしまう人もいるかもしれない。だが、これらを全体を見渡してみたときにこそ、現在の、久石譲の方向性が浮かびあがってくる、あるいは、より広い音楽の世界のなかでのこの音楽家の位置がみえてくる、のではないだろうか。

小沼純一

(雑誌「ストレンジ・デイズ 2015年12月号 No.193」より 書き起こし)

 

ストレンジ・デイズ 2015年12月号

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