Blog. 「モーストリー・クラシック 2016年2月号」 日本映画音楽の歴史 記事

Posted on 2016/1/5

クラシック音楽専門誌「モーストリー・クラシック MOSTLY CLASSIC」
2016年2月号 vol.225

本号特集は「クラシックと映画音楽の魅力」で、映画のなかで使われたクラシック音楽、また映画音楽作曲家の特集となっています。本号に掲載された映画音楽作曲家としての久石譲の紹介記事は別頁にて紹介しています。(雑誌目次含む)

Blog. 「モーストリー・クラシック 2016年2月号」 久石譲紹介記事

 

ここでは、久石譲にスポットを当てるのではなく、日本の映画音楽の歴史を垣間見ることができる特集記事をご紹介します。いかにして音楽ジャンルのなかで映画音楽が地位を築いてきたのか、そして大きな功績を担ってきた過去の作曲家たち。相関図や師弟関係など、脈々と受け継がれてきた歴史がわかります。

久石譲の映画音楽作曲家としてのバックボーンは、受け継いできた手法と、新たに導き出した久石譲の世界。まさに日本映画音楽における久石譲の守破離とも言えます。久石譲は佐藤勝氏に師事していますが、その元をたどると・・・。興味深い日本音楽家の歴史をたどることができます。

過去を知ることで、引き継ぎ守ってきたもの、発展させたもの、久石譲の映画音楽へのこだわり。直接語られた内容ではありませんが、なにかつながってくるものがあるような気がします。

 

日本の映画音楽作曲家たち

まだ”映画音楽”が創造活動の主流とは認められていなかった時代、日本にはいかなる作曲家がその礎を築いてきたのだろうか。そしてこれから、どのような発展を見せていくのだろうか?

◆黒澤明との出会い~早坂文雄

「18世紀は交響曲の時代、19世紀はオペラの時代、20世紀は映画音楽の時代」と言ったのは早坂文雄(1914~55)である。多くの作曲家が手を抜いて、いいかげんにしか書いていなかった映画音楽を、一つの芸術ジャンルとして認識して、全力を傾注したのが早坂だった。

彼はもともと北海道で純音楽を書いていた作曲家だった。ところが東宝の社長にその才能を見出され、1939年に上京。東宝に入社して、映画音楽を書き始める。第1作の「リボンを結ぶ夫人」(39年)以後、早坂の書いた映画音楽は常に話題を呼んだ。終戦直後の46年に新設された毎日映画コンクールの映画音楽賞を、第1回から第4回まで立て続けに受賞したことからも、そのレベルの高さが推測できる。

彼が更にステップアップして、映画音楽の幅を大きく広げたのは、黒澤明との出会いによってだった。「酔いどれ天使」(1948年)での出会いは日本、いや、世界映画史における最も幸福なコラボレーションだったといえるかもしれない。「羅生門」(50年)の「ボレロ」、「生きる」(52年)の「ゴンドラの歌」。黒澤の音楽に対する異常なまでの探究心と要求を受け入れ、見事に具体化してくれたのが早坂だった。

一方、巨匠・溝口健二も早坂を離さなかった。早坂の純粋な仕事ぶりは、むしろ溝口作品の方で垣間見られる。なぜなら、黒澤は自分の確固とした音楽のイメージを作曲家に押し付けるが、溝口は「僕は音楽は分からない」と言って、すべてお任せだったからだ。

「雨月物語」(1953年)、「山椒大夫」(54年)も優れているが、何と言っても最高傑作は「近松物語」(54年)だろう。ここでは歌舞伎の下座音楽を総動員して、革新的な音楽を創り出している。和楽器を使った実験精神は、早坂を尊敬していた武満徹に引き継がれていく。

◆早坂の斡旋で映画界に~伊福部昭

北海道で早坂の良き親友であり、ライバルだった伊福部昭(1914~2006)は、終戦直後、失業の憂き目に遭っている。その時、早坂は東宝に斡旋して、伊福部を映画音楽家として東宝に入社させる予定だった。ところが、直前に(旧制)東京音楽学校の作曲科の仕事が決定し、伊福部は音大の先生となった。

しかし彼もこれをきっかけに、「銀嶺の果て」(1947年)で映画音楽に手を染める。「ビルマの竪琴」(56年)、「日本列島」(65年)、「十三人の刺客」(63年)といった音楽は、聴けば一発で分かる”伊福部節”といわれるトーンをもっている。それは彼が生涯頑なに”フリギア旋法”と呼ばれる音楽話法によって、重厚で民族的な音楽を作曲した結果であった。

2人の頂点は、図らずも1954年にやって来る。世田谷の東宝砧撮影所の正面玄関の左側には、早坂が担当した「七人の侍」(54年)の壁画、右側には伊福部が担当した「ゴジラ」(54年)の縫いぐるみが設置されている。これらは、東宝という会社を象徴するだけでなく、日本の映画音楽を席巻したこの2大巨頭を記念するオブジェなのだ。

戦後日本の映画音楽は、北海道から出て来たこの2大巨頭を両車輪として、進められていった。実際、この2人から教えを受けた弟子たちが、優秀な映画音楽を次々に生み出していくのである。

◆早坂の直弟子~佐藤勝

佐藤勝(1928~99)は、早坂に映画音楽を学ぶために入門した直弟子だった。早坂亡き後、「蜘蛛巣城」(1957年)や「用心棒」(61年)といった黒澤映画の音楽を、ダイナミックに書き上げた。また「肉弾」(68年)の岡本喜八や、「陽暉楼」(83年)の五社英雄とコンビを組んで、派手で明快な音色を使って、華麗な映像を彩った。

彼は映画音楽の道一筋を貫いた珍しい作曲家だ。「僕はアナタとかコナタとかソナタとかいうのは嫌いなんだよ」の言葉には笑ってしまう。同時に、「僕は映画を通して、音楽の大衆化運動をやってるんだ」の言葉は忘れられない。

◆伊福部の2人の弟子~黛敏郎と芥川也寸志

かたや、東京芸大における伊福部の直弟子は、黛敏郎(1927~97)と芥川也寸志(1925~89)だった。彼らは早坂の家にも足繁く通い、早坂の薫陶も受けている。パリ音楽院に留学した黛敏郎は、電子音楽による前衛音楽を次々に発表。「赤線地帯」(1956年)では、その前衛さ故に、映画評論家”津村Q”と論争し合った。

巨匠や新進監督たちは、この時代の旗手を次々に起用する、ジャズを巧みに使った「張込み」(1958年)、小津安二郎作品としては異色の音楽「小早川家の秋」(61年)、スケールの壮大な「黒部の太陽」(68年)…。最もよく知られた黛作品は「東京オリンピック」(68年)だろう。

忘れてならないのは「天地創造」(1966年)。彼の代表作「涅槃交響曲」のレコードを聴いて、ジョン・ヒューストン監督はハリウッド超大作の音楽を依頼してきた。

芥川也寸志の音楽は、リズミックで抒情的なところに特徴がある。五所平之助の「煙突の見える場所」(1953年)、市川崑の「野火」(59年)、森谷司郎の「八甲田山」(77年)、野村芳太郎の「鬼畜」(77年)など、センチメンタルともいえる情感を引き出して、日本人の感性に直接訴えてくる。

◆松村禎三と林光

東京芸大で学んだ松村禎三(1929~2007)も伊福部門下だった。「竜馬暗殺」(1974年)や「美しい夏キリシマ」(2002年)などの黒木和雄作品、「忍ぶ川」(72年)や「千利休・本覚坊遺文」(89年)などの熊井啓作品を一手に引き受け、琴線に触れるような繊細な音を創出している。

林光(1931~2012)といえば、新藤兼人監督とのコンビである。誰もが口ずさめるような歌を作ることを身上とし、なかでも「裸の島」(1960年)のメロディーは、海外にまでとどろいている。新藤作品以外では、「名もなく貧しく美しく」(61年)や「秋津温泉」(62年)の音楽が、きらめくように美しい。

◆現役の作曲家たち

池辺晋一郎(1943~)は、武満徹の門下である。「僕は若い時に、多くの天才監督と出会えて仕事ができた」と語っている。「復讐するは我にあり」(1979年)の今村昌平、「影武者」(80年)の黒澤明、「ひめゆりの塔」(82年)の今井正といった巨匠作品の音楽を若くして担当し、どんな作品でもソツなくこなす器用さを見せている。

その他、「飢餓海峡」(1965年)、「息子」(91年)の冨田勲(1932~)、「それから」(85年)、「不夜城」(98年)の梅林茂(1951~)、「失楽園」(97年)、「椿三十郎」(2007年)の大島ミチル(1961~)など、映像を引き立たせ、質の高い映画音楽を誕生させた作曲家を忘れることはできない。

文/西村雄一郎

(雑誌「モーストリー・クラシック 2016年2月号 vol.225」より)

モーストリー・クラシック 2016年2月号

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