Blog. 次のステージを展開する久石譲 -2013年からの傾向と対策- 1

Posted on 2016/05/27

久しぶりにテーマを掲げて進めようと思います。

先日5月8日、長野市芸術館グランドオープニング・コンサートが開催されました。そこでお披露目されたのが久石譲書き下ろし新作「TRI-AD」(トライ・アド) for Large Orchestra です。

コンサート・レポートはすでにアップしていますが、実は当日会場にてもらうことができたコンサート・パンフレットには、次のような紹介頁がありました。それは、映画音楽やCM音楽ではない、久石譲オリジナル作品をまとめたものです。

 

久石譲 近年におけるアンサンブル・オーケストラ主要作品

DA・MA・SHI・絵
初演:1996年10月14日 Bunkamuraオーチャードホール
演奏:金洪才(指揮)、新日本フィルハーモニー交響楽団

Links
初演:2007年9月9日 東京国際フォーラムC
演奏:久石譲(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団

MKWAJU 1981-2009 for Orchestra
初演:2009年8月15日 ミューザ川崎シンフォニーホール
演奏:久石譲(指揮)、新日本フィルハーモニー交響楽団

Divertimento for string orchestra
初演:2009年5月24日 サントリーホール
演奏:久石譲(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団

Sinfonia for Chamber Orchestra
1.Pulsation / 2.Fugue / 3. Divertimento
初演:2009年8月15日 ミューザ川崎シンフォニーホール
演奏:久石譲(指揮)、新日本フィルハーモニー交響楽団

弦楽オーケストラのための《螺旋》
初演:2010年2月16日 サントリーホール
演奏:久石譲(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団

5th Dimension
初演:2011年4月9日 サントリーホール
演奏:久石譲(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団

交響曲第1番 (第1楽章)
初演:2011年9月7日 サントリーホール
演奏:久石譲(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団

Shaking Anxiety and Dreamy Globe
[2台ギター版]
初演:2012年8月19日 Hakujuホール
演奏:荘村清志、福田進一
[2台マリンバ版]
2014年9月29日 よみうり大手町ホール
演奏:神谷百子、和田光世

Single Track Music 1
[吹奏楽版]
初演:2014年2月22日 アクトシティ浜松 大ホール
演奏:加藤幸太郎(指揮)、浜松市立開成中学校
[サクソフォン四重奏と打楽器版]
初演:2015年9月24日 よみうり大手町ホール
演奏:林田和之、田村真寛、浅見祐衣、荻島良太、和田光世

String Quartet No.1
1.Encounter / 2.Phosphorescent Sea / 3. Metamorphosis / 4.Other World
初演:2014年9月29日 よみうり大手町ホール
演奏:近藤薫、森岡聡、中村洋乃理、向井航

Winter Garden for Violin and Orchestra
初演:2014年12月31日 フェスティバルホール(大阪)
演奏:久石譲(指揮)、岩谷祐之(ソロ・ヴァイオリン)、関西フィルハーモニー管弦楽団

祈りのうた ~Homage to Henryk Górecki~
初演:2015年8月5日 ザ・シンフォニーホール(大阪)
演奏:久石譲(指揮)、新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ

The End of the World for Vocalists and Orchestra
1.Collapse / 2.Grace of the St.Paul / 3.D.e.a.d / 4.Beyond the World
初演:2015年8月5日 ザ・シンフォニーホール(大阪)
演奏:久石譲(指揮)、新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ、高橋淳(カウンターテナー)、W.D.O.特別編成合唱団

室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra
初演:2015年9月24日 よみうり大手町ホール
演奏:久石譲(指揮)、西江辰郎(エレクトリック・ヴァイオリン)、Future Orchestra

コントラバス協奏曲
初演:2015年10月29日 東京芸術劇場
演奏:久石譲(指揮)、石川滋(ソロ・コントラバス)、読売日本交響楽団

Orbis for Chorus, Organ and Orchestra
1.Orbis ~環 / 2.Dum fāta sinunt ~運命が許す間は / 3.Mundus et Victoria ~世界と勝利
初演:2015年12月11日 東京芸術劇場
演奏:久石譲(指揮)、読売日本交響楽団

「TRI-AD」 for Large Orchestra
初演:2016年5月8日 長野市芸術館
演奏:久石譲(指揮)、読売日本交響楽団

(「長野市芸術館グランドオープニング・コンサート」パンフレットより)

 

これを眺めるだけでもそうそうたる作品群です。スタジオジブリ作品やTV・CM音楽を除いたとても、これだけの大作たちがすでにそびえ立っているんだと再認識させられたのが第一印象です。もちろん「主要」とあるとおり、これらがすべてではありません。ただラインナップを頭の中で整理するとても参考になりました。

「あっ、これはまだCDになってないな」(チクッ、と)とか、「そうか、この作品はあのコンサートのときか」とか、いろいろな見方ができるのですが、それはひとまず置いておきます。

 

「TRI-AD」 for Large Orchestra を聴いて抱いた違和感

コンサート・レポートでもこの作品の感想は記しませんでした。もちろん消化できていないという理由が大きく、一度聴いただけで中途半端な感想を書いてしまうことで、未聴の方へ先入観を与えてしまうリスクを避けたかったためです。CDやTV/CM音楽であれば、ある程度同時期に聴くことができますので、個人的見解は書きやすいですね。それぞれが聴いて違うと思われることもあるでしょう。「あの人はああ言っていたけど、自分はそうは思わない」と。でも、この作品のようにコンサートでしか聴くことができない一期一会な作品、そして次いつ再会できるかわからない作品に対しては、やはりレビューは慎重になります。一個人の解釈が、他の意見に精査されることのないままに、ひとり歩きしてしまった先には、一見解が一般的見解へと飛躍してしまうリスクが潜在してしまうためです。

・・・? そんなことが言いたかったわけではないのです。

コンサートで聴いたあとにずっとひっかかるものがありました。素直に消化できていない自分がいる。手放しにすっきり感動できていない自分がいる。このモヤモヤ、ひっかかっているものはなんだろう、と。そんな思いを数日ひきずったまま、改めてコンサート・パンフレットの上記作品紹介ページに目をおろしました。

・・・? ・・・!!!

そうか!そういうことだったのか!
頭の中で、作品リストがパズルのように交錯し、違う形(配置)を描きだしました。

 

「ヤバイ!自分がついていけていなかった」 閃光走る!

このファンサイトでもよく記しますが、久石譲には大衆性(エンターテインメント)と芸術性(アート)の二面性があり、それぞれの制作環境によって作品が生み出されています。前者は映画・TV・CMなど依頼されてつくる音楽であり、後者はオリジナル性を追求する音楽。これまでは7:3くらいの比率で音楽活動をしていたのでしょうか、その分エンターテインメント界で制約をうけたことや葛藤・ストレスが、折に触れ自分の原点を突き詰めたくなるという動機へと掻き立てられ、その結晶が上記オリジナル作品群ということになります。

・・・結論から言ってしまいます!

「2013年以降に書き下ろした新作(および改訂新楽章含む)は、明らかに作風が変わっており、久石譲が次のステージに入った創作活動をしている証です」

結論に至った考察点。

1.宮崎駿監督長編引退(2013)が与えた影響と分岐点

2.エンターテインメントの制約がなくなったときに、自ら創り出す制約=作品コンセプト

3.クラシック方法論による作風が、新たな一面を引き出す

4.「ミュージック・フューチャー」シリーズと「アメリカ」が与えた影響

5.大衆性と芸術性がクロスオーバー、象徴する2作品

6.交響曲を完成させる時期(とき)がきた (WDO2016初演予定)

7.シブリ交響作品化にも影響を及ぼすのか

8.まとめ ~すべてはこの作品が大きな布石だった~

 

さて、これらの仮説を立て、順番に検証していこうと思います。

 

1.宮崎駿監督長編引退(2013)が与えた影響と分岐点

映画「風立ちぬ」(2013)を最後に長編映画を引退すると会見した宮崎駿監督。四方八方の推測を抜きにしても、この出来事が久石譲にとって影響を与えていないことはない、という前提で進めます。ちょうど同時期のメディア・インタビュー各種で「自分の本籍をクラシックに戻す」との発言が増えたのもこの時期です。つまりは、4-5年に一度の宮崎駿監督との仕事というサイクルに区切りがついたとき、立ち止まってこれからの方向性を見据えなおした分岐点になったであろう、そのくらい大きく振り子を動かすには十分すぎる出来事だったと思っています。

そしてその方向性とは、自分のベーシックなスタンスをクラシックに戻し、ミニマル・ミュージックという原点を突き詰めた、いやミニマルの発展系であるコンテンポラリーな作品をつくっていく、ということになってきます。

 

2.エンターテインメントの制約がなくなったときに、自ら創り出す制約=作品コンセプト

エンターテインメント音楽が依頼されて作る仕事であることは、過去の久石譲インタビューでも多く語られています。作品ごとの性格・注文・条件が制約となり、その制約のなかで音楽を創作する、というのが久石譲の作曲スタイルです。

これを逆説的に見たときに、オリジナル作品は”自由に創作できる”、つまり制約がないということになります。もちろんここでいう制約とは、いわばルールのようなものですね。このルール・条件で作ってくださいとなるのか、無条件でお好きにどうぞ、となるのか。作曲における着想点とも言っていいかもしれません。

これまではエンターテインメント音楽(大衆性)7:オリジナル作品(芸術性)3の割合くらいだったでしょうか、と前述したのもポイントになってきます。2013年以降「クラシックに本籍を戻す」ということは、必然的にオリジナル作品(芸術性)の比率が高くなってきます。

エンターテインメント界で制約をうけたことや葛藤・ストレス、今自分が作りたいもの、折に触れオリジナル作品をつくる動機へと掻き立てられてきた従来の創作活動スタイルが大きくそのバランスを崩します。依頼されて作ることよりも、自らの作品を残すことに比重が傾くわけですから、いつも好き勝手につくっていいでは、おそらく続きません。その都度にテーマ性をもうけること、コンセプトを明確にすること。はたまた点(作品)で終わることのないよう、線(作品群)へと自ら大きな指針や道標をつくる。

「自ら創り出す制約」、それはクラシックの方法論にのっとった「作品コンセプト」ということになるのではないか、という見方です。『コントラバス協奏曲』は「コントラバスの表現の可能性を追求」という明確なコンセプトがあり、『TRI-AD for Large Orchestra』は「3和音でつくる」というコンセプト、『Single Track Music 1』は「単旋律のユニゾン」というコンセプト、『祈りのうた』は「3和音を基調としたホーリー・ミニマリズム」などというように。

結論で述べた「作風が変わった」という表現は、作曲におけるスタート・着想点がそもそも従来と違う、そういうことが言いたかったわけです。

長らく商業ベース・エンターテインメント音楽に携わり、一長一短制約の中で作曲活動をしてきた久石譲。「制約があったほうが発想が広がることもある」と過去語っていたように、今度は自ら制約(ルール)をつくることで、自らの創作意欲を掻き立てる、あくなき挑戦の姿勢。そして作曲するとっかかりをクラシックの手法による様々なコンセプトを”お題”とし、おそらくはその先の大きな構想までもすでに描いているのかもとさえ。

そうなったときに、従来よりも情感に訴える旋律は影をひそめ、コンセプトにふさわしい、もしくはコンセプトで進めて八方塞がりにあわない、しっかり発展して出口が見える、作品として着地できる核(メロディ・モチーフ・主題)が必要ということにもなるのかもしれません。

 

3.クラシック方法論による作風が、新たな一面を引き出す

その一

いかなる作曲においても、核が必要となります。メロディーやモチーフです。約1時間にも及ぶ古典クラシック交響曲においても、主題(メロディ・モチーフ)をどう位置づけどう発展させていくか、ということになるんだと思います。(専門的知識はありませんので少し濁した言い方になります)

これを従来の久石譲オリジナル作品でみたときには、基本は同じです。ミニマル・ミュージックでいえば、作品の核は、同じくメロディーやモチーフであり、音型とも言われます。シンプルにズラしたり微細な変化をかけていくのがミニマル・ミュージック。この場合リズムが肝となるそれにおいて、ある種グルーヴ感を失うことなく、作品は構成されてきました。『DA・MA・SHI・絵』『Links』『MKWAJU 1981-2009 for Orchestra』などが典型です。

ただしクラシックという広義での手法となった場合は、やはり主題を発展・再現させていくことが必要になってきます。単一楽章で構成されない多楽章な交響曲・協奏曲などの多くは、急・緩・急、全4楽章構成であれば急・緩・舞曲・急などと構成されます。急は急速楽章、緩は緩徐楽章、舞曲はメヌエットやスケルツォという表現もします。

また循環主題といわれる全楽章にまたがって主題が登場するような交響作品もあります。第1楽章では短調だった主題が、第4楽章では長調となったり、それだけでも主題を発見しずらくなることもありますし、主旋律ではなく副旋律に主題を隠している場合や、わざと数小節にまたがってあるパートに主題を担わせ、聴いただけではわからない、スコアを見なければ、ということも出てくるんだろう、と思っています。

クラシックの話はここまでにして、ということは、今までの久石譲の作風にはなかった引き出しが持ち込まれることになります。このことは、一方では”久石譲らしさ”を排除することにもなりかねませんが、一方では”新しい久石譲”を発見することもできるわけです。”らしさ”を癖と表現するならば、自分の癖をおさえて、新しい可能性を探り、新しい表現ができる、ということになります。

これは失礼な話、『コントラバス協奏曲』を聴いたときに、「あっ、作品が作りやすくなったのかもな」と思ったことがありました。とんだ上から目線ではなく、クラシック方法論、クラシックの方程式に、自らのオリジナル性をブレンドしたときに、今まではやらなかった旋律・展開・オーケストレーションなどが出てきて、作家性に大きな広がりができたのではないか、という生意気な意見です。

久石譲初期オリジナル作品は単曲として成立していますが、近年のオリジナル作品は、全3楽章など作品の世界観が大きく広がっています。全3楽章構成の作品の多くにおいて、第2楽章は緩徐楽章という見方もできます。ただし、”交響曲”とはうたっていないこともあり、緩徐楽章+リズムセクションを盛り込んだ楽章という独特な世界観を構成しています。『室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra』『コントラバス協奏曲』『Orbis for Chorus, Organ and Orchestra』など。(※室内交響曲は、エレクトリック・ヴァイオリン協奏曲の体であることは本人も語っています)

 

そのニ

古典クラシック音楽において、作曲家が自らの作品やモチーフを違う作品にも使用することはよくあります。気に入っている旋律・メロディを複数の作品で使用する。また過去に一旦の完成をみた作品を新作のなかで新たに再構成する場合もあります。

現代ではあまりなじみがない手法かもしれませんので、やもすると「使い回しですか?手抜きですか?」と思われてしまうかもしれませんが、これは立派な手法のひとつとして古典クラシック音楽にも幾多あります。もっと言えば、作曲家によるこの手法は、オリジナル性やアイデンティティが確立されているからこそできることであり、それだけ強力なカラーをもった作家性だからこそです。

久石譲においては、『The End of the World for Vocalists and Orchestra』における「第3楽章 d.e.a.d」は、『DEAD組曲』(2005)の第2楽章を新たに再構成したものであり、『Orbis for Chorus, Organ and Orchestra』における「第3楽章 Mundus et Victoria ~世界と勝利」は、『Prime of Youth』(2010)を大胆に組みこんで生まれた新作です。

 

その三

クラシックならではの編成や奏法について。ほとんど詳しくなたいめ掘り下げるに及びません。久石譲のオーケストラ編成は古典クラシックに基本的には準じており、作品ごとのアクセントとして独奏楽器や特殊楽器、パーカッションなどがふんだんに盛り込まれています。

また近年の全3楽章作品の多くでは、フィーチャーされた楽器によるカデンツァ風の独奏が終楽章に配置されています。『室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra』『Winter Garden for Violin and Orchestra』『コントラバス協奏曲』など。もちろんこれには作曲家が表現したいことに対して、それを具現化して演奏することのできる優秀なソリストの存在と、信頼関係があってこそです。クラシック作曲家たちが協奏曲をつくる場合の大きな動機となったのは、信頼できる優秀な奏者が近くにいて、その人のために作品を書いたからです。

カデンツァとはソリストが妙技を発揮できるべく挿入される即興的独奏パートです。ここで作品に対する華麗な装飾を披露することで作品全体を豊かにします。カデンツァ風と書いたのは、従来カデンツァはその名のとおり即興だったのですが、古典派以降~現代にいたるまで、その多くは即興ではなくなり、作曲家の意図する譜面があることが増えたためです。ただし奏者によって得意な技法や”らしさ””クセ”はあると思いますので、自由に差し替えれる即興パート部はあるかもしれませんね。

協奏曲はあるひとつの独奏楽器を主役にむかえて構成される作品。そして協奏曲形式だからこそカデンツァが醍醐味となります。久石譲作品において、これからこれらの作品がいろいろなソリストによって奏でられたときに、色彩豊かなカデンツァ・セクションを聴き比べられる日がくるのかもしれません。

 

古典クラシック音楽と同じくオーソドックスな編成による作品が多かったなかで、微細に、でも確実に変化している奏法もあったります。それが次項の「アメリカ」や「現代の音楽」を象徴しているような気がしてならないわけです。

つづく

 

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