Blog. 「ユリイカ 2004年12月号」 スタジオジブリ特集より 映画『ハウルの動く城』 音楽:久石譲 解読

Posted on 2016/12/6

雑誌「ユリイカ 2004年12月号」は、特集「宮崎駿とスタジオジブリ」が組まれています。ちょうど同年公開の映画『ハウルの動く城』についてがメインとなっています。そのなかから音楽を担当した久石譲に関する評論家の考察がとてもおもしろい内容でした。

久石譲のオリジナル・アルバムやコンサート・パンフレットなどでの楽曲解説、近年ではそのほとんどでおなじみの前島秀国さんによる「ハウルの動く城」音楽紐解きです。こんな分析力や文章力がほしい!と思わず唸ってしまうほどの濃密な内容でした。

そのほかにも、いろいろな角度からハウルを読み解いたり、対談があったりと、映画『ハウルの動く城』が好きな人にはぜひ多角的に必読してほしい「ユリイカ 2004年12月号」となっています。(目次は最後に掲載しています)

前島秀国さんの項だけでも8ページにわたるぎっしりな内容、ハウルの音楽をイメージ交響組曲・サウンドトラック・Mナンバー・主題など音楽表にまとめたものもあったりと、かなり深く掘り下げて解説されてあります。

 

  • 宮崎駿☓久石譲コンビが確立された必然性 !?
  • イメージアルバムが久石譲音楽・コンサートの根幹をつくった !?
  • 世界観を先に完成させてしまった『ハウル』音楽 !?
  • タブーを犯した幸いの副産物《人生のメリーゴーランド》誕生 !?
  • 計算しつくされた《人生のメリーゴーランド》(楽曲名・旋律・映像・論理)!

 

こんなキーワードを連想しながら、読みながら、驚嘆しながら、一気に引き込まれる内容でした。それでは、文章を完全版で余すところなくご紹介します。これを読んだあとには、きっと映画をCDを再び手にとってみたくなるはずです。

 

「映画音楽の核心」への回帰
《人生のメリーゴーランド》の意味するもの 前島秀国

作曲家の久石譲が宮崎駿監督と初めてコンビを組んだ1984年の『風の谷のナウシカ』公開から、最新作『ハウルの動く城』の公開まで、ちょうど20年。この間、ふたりが手がけた作品は長篇8本と短編1本と本数こそ多くないものの、これだけの長期間に亘って監督と音楽家が共同作業を継続すること自体、すでに異例とも言うべき現象である。現役で作品を発表し続け、かつある程度の影響力を維持している例を他に探せば、スティーヴン・スピルバーグ監督とジョン・ウィリアムズ、ティム・バートン監督とダニー・エルフマン、デヴィッド・クローネンバーグ監督とハワード・ショア、ややマイナーなところでゴッドフリー・レジオ監督とフィリップ・グラスなどが並ぶ程度だろう。

これらコンビのフィルモグラフィーを見直してみると、コンビ第一作となる作品が監督か作曲家か、どちらかの劇場用長篇映画の第一作もしくは第二作にあたるという興味深い事実が明らかになってくる。つまり、監督か作曲家のどちらかが映画音楽制作の既成概念に捉われていない”処女作”こそが、長期の共同作業を維持するために不可欠な”コンビ固有の方法論”を懐胎するための必要条件となっているのだ。

このことを念頭に置きながら宮崎と久石のコンビを振り返ってみると、『ナウシカ』が宮崎の長篇第二作にして久石の長篇第一作だったという、誰もが知るところの事実が、いやが上にも重要な意味を帯びてくるだろう。宮崎の第一作『ルパン三世 カリオストロの城』での大野雄二の音楽は、あくまでもテレビ『ルパン三世』(第二シリーズ)の延長線上に位置するものであり、必ずしも映画音楽独特の表現や面白さを追及した作品とは言えない。一方の久石は国立音楽大学を卒業した1974年以降、スタジオ・ミュージシャンとして数多くのテレビ・アニメ音楽に関わるが、音楽監督として映像作品全体の音楽演出を采配する経験は全く積んでいなかった。つまり宮崎と久石双方にとって『ナウシカ』という作品は、好むと好まざるとにかかわらず、映画音楽の方法論の模索を余儀なくされた”処女作”だったのである。

 

よく知られているように、宮崎と久石のコラボレーションの始まりは1982年、久石のソロ・アルバム『インフォメーション』が徳間ジャパンより発売され、これを宮崎と『ナウシカ』のプロデューサーを務めた高畑勲、それに鈴木敏夫の三人が聴いたことがきっかけとなっている。当初、久石は『ナウシカ』公開を盛り上げるために制作されたイメージアルバムのみに携わる予定であり、スポンサーサイドの意向から本篇そのものの音楽は別の作曲家が担当することになっていた。しかし、イメージアルバムの出来上がりに強い感銘を受けた宮崎は、もはや久石以外の作曲家は本篇にあり得ないと判断、そのまま久石の続投を決めたというわけである。以後、『ハウルの動く城』に至るまでの宮崎の全長篇作品において、なんらかのイメージアルバムが本篇作曲前に録音・発売されるのが慣例となったが、これこそが宮崎=久石の共同作業の根幹をなす”コンビ固有の方法論”にほかならない。

アニメ文化を取り巻く市場原理を考えた場合、劇場用長篇や原作からインスパイアされた音楽作品を事前に録音・発売するのは、ごく自然な商業活動である。しかし映画音楽制作の現場の立場から見れば、”イメージアルバム”という秀逸なネーミングこそあれ、その実態は本篇の音楽に取って代わられることを運命づけられた”デモ音源”に過ぎない。常識的に考えれば、”デモ音源”はあくまでも未完成作品だから、これを本篇公開前に公表するのは作曲家にとって必ずしも好ましい事態とは言えないのである。久石がイメージアルバムの方法論をごく自然に受けいれることができたのは、映画音楽作曲家としてのキャリアをスタートさせた時点で、こうした常識に全く捉われていなかったためだろう。

ここで注目すべきは、久石が手がけた宮崎作品のイメージアルバムと本篇のサントラ盤を聴き比べてみた時、両者の間にそれほど大きな隔たりが存在していないという点である。もちろん、アレンジの仕方や楽器用法など細部において相違点はあるが、作品の中心(ハート)に位置するメインテーマの旋律的要素や楽曲構造において、両者が大きな食い違いを見せることは、ほとんどない。つまり、久石はイメージアルバムの段階で本篇の音楽の核心(ハート)となるべき主要部分の作曲を完了してしまっているのであり、これは久石が宮崎のメモ書きや絵コンテを参照しながら作曲を進めていく制作過程に起因するのではないかと思われる。誤解を恐れずに書けば、久石は宮崎作品の”映像”に音楽をつけているのではない。あくまでも宮崎の”世界観”に音楽をつけているのである。「僕の映画音楽の作り方というのは、監督の作りたい世界を根底に置いて、そこからイメージを組み立てていく」という久石独特の映画音楽論は、このイメージアルバムの手法を前提にして培われたものと見るべきだ。

このような宮崎=久石独特の方法論は「イメージアルバム=デモ音源/本篇の音楽=作品の完成形」という従来の図式を切り崩すばかりか、本篇完成後も宮崎の世界観を音楽的に発展させる可能性を久石にもたらすことになるだろう。例えば『もののけ姫』公開の翌年に発表された交響組曲《もののけ姫》などは全八楽章、演奏時間は約50分の堂々たる大曲に仕上げられ、もはや”映画音楽のコンサート用アレンジ”の範疇を完全に逸脱してしまっているし、大掛かりな追加作曲が施された『天空の城ラピュタ』アメリカ公開版では、オリジナル版の音楽素材を用いながらも本篇に新たな意味づけを与える注目すべき試みがなされている。

もしもジョン・ウィリアムズが『スター・ウォーズ』を演奏会で指揮するたびに新たなアレンジを施したら、おそらく人々は奇異な印象を受けるに違いない。ある特定の映像と音楽の響きが、置換不能の強固なアマルガムを形成しているためである。これに比べれば、宮崎作品における久石の音楽は特定の映像との結びつきが(相対的に)より希薄だというべきだろう。だからこそ、監督の世界観を繰り返し音楽化する自由度も生まれてくる。久石がコンサートツアーのたびに自作に新たなアレンジを施すのは、宮崎との共同作業を通じ、”ワーク・イン・プログレスとしての映画音楽”という極めてユニークな考え方を徐々に形成していったためではないか。

 

以上が『ナウシカ』から『千と千尋の神隠し』までの音楽にほぼ共通して見られる原則論だが、『ハウルの動く城』においては、この原則論が大きく崩されることになった。本来ならば、本篇の中核(ハート)をなす音楽はすべてイメージアルバムに収められているはずなのに、『ハウル』のイメージアルバムに聴かれる楽曲はどれも本篇の中で副次的な役割を担うに留まり、メインテーマにふさわしい牽引力を獲得するに至っていない。より事態を正確に記すなら、イメージアルバム制作後、宮崎の意向でメインテーマが新たに作曲され、それによって『ハウル』全体の音楽設計が大きな変容を被ったのである。

Yomiuri On Lineに連載されている取材レポートによれば、宮崎と久石が本格的な音楽打ち合わせをおこなったのが03年8月。同年10月にイメージアルバム用の楽曲を完成させた久石は、これを三管編成の管弦楽スコアにまとめ、わざわざプラハまで出向いてチェコ・フィルとの録音を敢行した。この録音は翌04年1月『イメージ交響組曲』としてアルバム発売されるが、2月に持たれた音楽打ち合わせで宮崎から「(『ハウル』本篇のスコア全体を)ひとつのテーマ曲だけで(作曲してほしい)」との要請を受け、久石は新たに三曲のメインテーマ候補曲を作曲。久石自らが宮崎の前でピアノ演奏した結果、二番目に弾かれたワルツの楽曲を監督が選択し、このワルツを『ハウル』全体のメインテーマに据えて本篇の音楽設計が組み立てられていったとのことである。

多くの場合、作曲家が一度構想した音楽設計をボツにして新たに作曲を試みるのは大変な負担を強いられる作業であり、最悪の場合には(ハリウッドではしばしば見られるような)作曲家降板と代打登用という非常事態を招くことにも繋がりかねない。特に『ハウル』の場合は、イメージアルバム用の楽曲が管弦楽作品として非常に洗練された、完成度の高い音楽だったため、久石の苦労には並々ならぬものがあったと推察される。

だが冷静に考えてみれば、本来デモであるべきイメージアルバムを音楽的に”完成”させてしまうこと自体、久石がそれまで築き上げてきた”ワーク・イン・プログレス”的な宮崎作品の音楽の方法論を真っ向から否定する行為だったと見るべきではないか。あからさまに言ってしまえば、宮崎はこの『イメージ交響組曲』に不満を示し、より普遍的な表現を音楽に求めたのである。最終的に宮崎が選択したワルツのシンプルな旋律が、何よりもそのことを雄弁に物語っている。

このワルツのメインテーマは宮崎により《人生のメリーゴーランド》と命名されることになるが、この楽曲名が『ハウル』の物語構造と密接な関連を持っていることは後に詳述することとして、まずは《人生のメリーゴーランド》の最初の8小節をここに記しておこう。 *8小節記 省略

多少の歌心さえあれば誰でも口ずさめる素朴な主題であり、事実、この主題が本篇で最初に登場するのは指一本で弾けるピアノの単旋律の形であって、複雑な和声づけは一切施されていない。『イメージ交響組曲』に聴かれる豊穣なサウンドと、まったく正反対である。『ハウル』本篇の音楽で驚嘆すべきは、このあまりにもそっけないテーマ(以後、拙稿では《メリーゴーランド》主題と呼ぶ)に様々な変奏や展開を加え、愛のテーマだろうが大掃除の音楽だろうがアクション音楽だろうが、すべてこの《メリーゴーランド》主題から紡ぎ出してしまったところにある。別掲の表1に示したのは『ハウル』のロール1(最初の約17分間)に聴こえてくる音楽をMナンバー順(登場順)に列挙したものだが、これだけでも《メリーゴーランド》主題がいかに頻繁に登場するか、おわかりいただけるはずだ。 *表1 省略

これに対し、表2は《メリーゴーランド》主題以外に耳にすることができる特徴的な主題を一覧にしたものだが、いずれも使用場面や登場回数が限られており、特定のキャラクターや集団など、『ハウル』の世界観のごく一部をライトモティーフ的に指し示す用法に留まっている。本篇のなかで何十回となく繰り返される《メリーゴーランド》主題に比べれば、これらの主題が担っている役割は遥かに小さいと言わざるを得ない。 *表2 省略

となると、やはり興味の中心(ハート)は《メリーゴーランド》主題ただ一曲に向かうわけだが、この主題に込められた重層的な意義を明らかにするため、《メリーゴーランド》主題が初めて登場するM1の場面を細かく検証してみよう。M1において《メリーゴーランド》主題はピアノで2回繰り返されるが、この間、カメラはタイトルの題字から街の俯瞰図へとパンダウンし、帽子屋の一室にカットが切り替わって、主人公ソフィーを映し出す。ソフィーの背後から妹レティーとその友達の会話が聴こえてくるが、その会話では①ハウルの動く城が街に近づいていること、②ハウルが他人の心臓(ハート)を取ってしまう魔法使いであること(=すなわちハウルにとって心臓が重要であること)、③どうやらハウルが美人好みであること、といった話題が触れられている。《メリーゴーランド》主題が2回繰り返される、わずか2分間のあいだに伝えられる情報こそ、実は『ハウル』の物語の核心(ハート)をなす最も重要な要素にほかならない。音楽用語のアナロジーを用いれば、この2分間は物語的にも音楽的にも”主題提示部”の役割を果たしており、以後、『ハウル』本篇で展開される物語は、この主題を用いた”変奏曲”ということができるだろう。

このM1でもうひとつ注目すべき特徴は、観客がピアノ演奏によって《メリーゴーランド》主題を初めて耳にするという点である。このピアノという楽器の選択に関しては、久石自身がピアニストとしての演奏活動に非常に力を入れていること、さらに『ナウシカ』や『千と千尋の神隠し』などのメインテーマがピアノで演奏された前例などから、宮崎作品の音楽においてはごく当たり前のトレードマークだと、つい見過ごされがちである。

しかし『ハウル』本篇全体の音楽を俯瞰してみると、《メリーゴーランド》主題の演奏にピアノが使用されるのは、ある特定の場面に限定されていることが明らかになってくる。M1以後、二度目にピアノで《メリーゴーランド》主題が鳴らされるのは、表1のM4に示した《ときめき》だが、この場面ではハウルとの出会いの余韻に浸るソフィーが恋心を抱き始めたことが暗示されている。三番目にピアノが用いられるのは、ソフィーがハウルの城で眠りにふける場面だが、九十歳の老婆に変身させられていたはずのソフィーは、ハウルへの恋の気持ちの高まりから、十八歳の少女に姿が戻ってしまっている。

つまり《メリーゴーランド》主題のピアノ演奏は、ソフィーの恋愛感情と意識的に結び付けられており、ピアノという楽器が《メリーゴーランド》主題に”愛のテーマ”の性格を付与する機能を果たしているのだ。したがって、M1の冒頭から《メリーゴーランド》主題がピアノでわざわざ演奏されるのは、《メリーゴーランド》が究極的に”愛のワルツ”だと宣言しているようなものである。ある特定の主題論的要素を際立たせるため、こうした厳密な楽器用法を久石が試みた例は、これまでほとんどなかったのではないか。

 

男女がペアになって円環運動を繰り広げるワルツという舞踏の特性上、いま述べたような”愛”の要素に加え、”円環の運動性”もしくは”円環性”の主題が本篇のなかで深く掘り下げられた時、映画におけるワルツのリズムはより一層の輝きを増す。わかりやすい実例を挙げれば、『ドクトル・ジバゴ』でモーリス・ジャールが作曲した《ララのテーマ》のワルツがその典型であり、ここでのワルツはジバゴと愛人ララの関係を表徴する”愛のテーマ”の役割を果たしているばかりか、本篇全体がジバゴの異母兄の回想で始まり、終わるという物語上の円環構造とも厳密な対応関係を見せている。

宮崎作品のメインテーマがワルツの形式で書かれたのは今回の『ハウル』が初めてではなく、すでに『魔女の宅急便』のメインテーマにワルツが用いられた先例が存在する。しかし『魔女の宅急便』のワルツと『ハウル』のワルツのあいだには、本篇の中に”愛”の要素と”円環性”の双方が存在するかどうか、あるいは宮崎と久石のどちらかがこのふたつの要素を等しく意識していたかどうか、その決定的な違いが存在することをここで是非とも強調しておきたい。リコーダーやアコーディオンでほのぼのと演奏される『魔女の宅急便』のワルツは親しみやすい魅力を備えたテーマであり、ヒロインのキキとトンボ少年の淡い恋愛感情を反映していると言えなくもないが、こと”円環性”に関して言えば、視覚的なイメージからも、あるいは物語の構成要素からも、『魔女の宅急便』にワルツが用いられた必然性を見出すことは著しく困難である。『ハウル』において、宮崎がワルツの”円環性”にことのほか自覚的だったことは、わざわざ楽曲名に”メリーゴーランド”という単語を選んだ事実からも明らかだ。ここで宮崎は、単に舞踏形式としてのワルツの”円環の運動性”を”メリーゴーランド”という表現で言い換えたかっただけでなく、『ハウル』の物語の中心(ハート)をなす”円環性”の主題を”メリーゴーランド”というメタファーに込めているのである。それを筆者なりに解読すれば、呪いが解けたソフィーが元の十八歳の姿に”戻り”、失われていた心臓(ハート)をハウルが”取り戻す”という”回帰”もしくは”回復”の主題ということになるだろうか。

驚くべきことに、この”回復”の主題とワルツを関連付ける試みは、すでに『千と千尋』終盤の飛行シーンに最初の萌芽を見出すことができる。すなわち、竜の姿に変わっていたハクが元の少年の姿に”戻り”、自らの名前を”回復”すると《千尋のワルツ》と名づけられたテーマがオーケストラで壮麗に演奏されるのであるが、観客はこの場面で初めてワルツのテーマを耳にするため、いささか唐突に登場したという印象を拭いきれない。

これに対し、ソフィーがハウルにかけられた呪いを解く『ハウル』終盤のクライマックスでは、主題論的要素と音楽構造のあいだに、より有機的な関連付けが仕掛けられている。この場面全体を伴奏するのは当然のことながら《メリーゴーランド》主題だが、ハウルが心臓(ハート)を”取り戻す”瞬間、音楽はM1の冒頭部分、すなわち《メリーゴーランド》主題がピアノで鳴らされる前の短い序奏部に”回帰”してしまう。ただひとつの主題(=メインテーマ)が何度も反復し、最後にはメリーゴーランドよろしく”一回りして”音楽の始まりに”回帰”してしまう『ハウル』の音楽構造。これでは、久石がかつて音大生時代に心酔していたテリー・ライリーのミニマル・ミュージックの構造そのままではないか! これこそ、宮崎が「ひとつのテーマ曲」にこだわることで、久石の音楽の中に再び”回復”したかった心臓(ハート)なのではあるまいか。

ソフィーがハウルの心臓(ハート)を”回復”できた裏には、宮崎と久石というふたりの魔法使いが操る《人生のメリーゴーランド》のワルツの魔法が存在する。その魔法の秘密こそ、「映画音楽の核心(ハート)はメインテーマにあり」という大原則への”回帰”と、久石の音楽的原点たるミニマル・ミュージックの精神(ハート)への”回帰”にほかならない。そして、この魔法を可能にしたのは、ふたりが二十年の歳月のうちに育んできた”共同作業の愛”だったのである。

*表および註はすべて省略しています

(雑誌「ユリイカ 2004年12月号」より)

 

ユリイカ 2004年12月号 目次より

特集*宮崎駿とスタジオジブリ

ジブリの舵取りかく語りき
「動く城」の一言で、アニメは始まる 鈴木敏夫☓稲葉振一郎

エッセイ
宮崎アニメのコツ 藤森照信
無敵の少女戦争 やなぎみわ

『ハウルの動く城』解読
魔法使いは誰だ!? 小谷真理
スタンダードはお好き? 『魔法使いハウルと火の悪魔』の宮崎流アレンジ術 青井汎
文脈に抱かれ、自由を夢見ること 茂木健一郎
動く城の系譜学 心的ネットワークのトポスとして ドミニク・チェン
2004年アニメーション巡礼 『ハウル』と動かなかった城 大塚ギチ

ポストジブリの胎動
スタジオジブリとそれ以外!? 神山健治☓鶴巻和哉☓藤津亮太
「強度ある物語」を求めて 新海誠☓藤津亮太

宮崎アニメの構成要素
プロデューサーの正体 スタジオジブリ、宮崎駿と鈴木敏夫 氷川竜介
島本須美の系譜 ジブリ作品と声優 小川びい
「映画音楽の核心」への回帰 《人生のメリーゴーランド》の意味するもの 前島秀国
魂のジャンルのために 宮崎作品におけるアニメーションとアレゴリー 池田雄一

アニメーションの名匠による翻訳作法
プレヴェールというリアル 高畑勲訳および注解『ことばたち』をめぐって 高畑勲☓中条省平

社会体としてのスタジオジブリ
生きるということと、あたたかさの記憶。 宮崎駿のなかの「労働」と「仲間」 木村立哉
〈宮崎駿論〉解析攻略必勝ガイド 『千と千尋の神隠し』がソープランド映画だって!? 栗原裕一郎
ジブリ美術館の挑戦 幻想空間は何を誘発するか 高橋瑞木
ネズミとモンスター ポスト冷戦とソフトパワーの地政学 清水知子

年譜
スタジオジブリの歩み ハイコスト、ハイリスク、ハイリターンの二十年 藤津亮太

 

ユリイカ 2004年12月号 ハウルの動く城 ジブリ 久石譲

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