Blog. 「考える人 2014年秋号」(新潮社) 久石譲インタビュー内容

Posted on 2014/10/24

2014年10月4日 発売
雑誌「考える人 2014年秋号」(新潮社)

【特集】「オーケストラをつくろう」にて、久石譲の7ページにおよぶインタビューが掲載されています。

たとえば、映画作品や音楽作品発表時などのインタビューでは、その作品への話題に特化しています。今回のロングインタビューでは、”オーケストラ”を切り口に、様々な角度から久石譲の思いや考えを読み解くことができます。

作品や販促宣伝にとわられない、まさに久石譲が今語りたいことを語ったインタビューだと思います。かつ特集テーマを軸に、かなり掘り下げた専門的な内容にもなっています。

作曲家や音楽家はメディアにおいてその多くは「言葉の力」ではなく、発信する”音楽そのもの”で自身を表現することが多いなか、今回のインタビューは大変貴重な言葉の記録です。

要点などはまとめませんので、先入観なしに読んでみてください。

抜粋してご紹介します。

 

オーケストラを未来につなげるために僕は”今日の音楽”を演奏する

クラシックから映画音楽までジャンルに囚われることなく幅広い楽曲を作曲し、指揮し、ピアノ演奏する久石譲氏。今日のオーケストラが抱える問題に真摯に向き合い、「アートメント」をきちんとやりたい語る。芸術を「日常にする」ための挑戦を尋ねた。

久石 映画音楽を含めて、僕の仕事の八割から九割はオーケストラとの作業です。作曲したものも八割強がオーケストラとの仕事。指揮もする。となると、自分にとってオーケストラは、あえて何かと考える必要がないくらいに、日常的なものなわけです。昔はシンセサイザーで曲の半分を作っていた。でも今は、基本的に生の演奏を中心に考えていますから、ほとんどオーケストラです。

常任指揮者というのは、オーケストラ側の意思を一番反映してくれて、あるいは自分たちを変えてくれる人を任命するわけです。何度もコンサートを重ねていく中で、お互いに音楽をつくりあげていくというリスペクト関係ができる。それで初めて常任としての役割も果たすし、オーケストラも変わっていく。しかし、間違いや乱れのない、音程もしっかりしている音楽をつくったらいい指揮者かというと、そうではない。みんなのメンタリティの部分を全部引き出した上で、どういう音楽をつくっていくかがわかっていることが大事です。ある種、現場監督的なことも指揮者にとって大きな役割です。映画監督と指揮者=音楽監督、それと野球の監督というのは一緒なんです。

この三つに共通しているのは、何もしないこと。指揮者は舞台に上がっていながら唯一音を出さない。野球の監督は、打ちはしないし守りもしない。映画監督は画面に映っていない。ところが、監督がどういうものを目指すかが明確でないと、野球のチームはボロボロになり、映画だって何だかわからないものができてしまう。音楽も一緒。みんなをこっちの方向に引っ張りますということをきちんと言う。ベートーヴェンならどういうベートーヴェンをつくりたいかを明確に示すのがいい指揮者です。

古典芸能にしないためには

いま僕が一番考えているテーマは、オーケストラの現状、それを未来につなげるにはどうしたらいいのかということです。現在のオーケストラは問題を多く抱えている。何より収益性。百人以上の団員がいて、一回のコンサートで大体二千人の客が入るとする。一人六千円だとしても収入は一千二百万円です。オーケストラだけのギャランティから言うと収支は合うかもしれないが、練習場や移動費などの諸経費を考えあわせると全くペイしない。

オーケストラの収入は、基本的に三分の一がチケット収入。定期演奏会などオーケストラが主催するコンサートのチケット売り上げですね。それから、歌手のバックやテレビ番組など依頼されて演奏するときの出演料が三分の一。残りの三分の一が、いわゆるスポンサード(後援のついた公演)なんです。この三つがないと、オーケストラは成立しない。

最終的に僕が言いたいことは一点。クラシックが古典芸能になりつつあることへの危機感です。そうでなくするにはどうしたらいいかというと、”今日の音楽”をきちんと演奏することなのです。昔のものだけでなく、今日のもの。それをしなかったら、十年後、二十年後に何も残らない。前に養老孟司先生に尋ねたことがあります。「先生、いい音楽って何ですか」。すると、養老先生は一言で仰った。「時間がたっても残る音楽だ」と。

例えばベートーヴェンの時代、ベートーヴェンしかいなかったわけではない。何千、何万人とい作曲家がいて、ものすごい量を書いている。でも、ベートーヴェンの作品は生き残った。今の時代もすごい数の曲が書かれているけれど、未来につながるのはごくわずか。つまらないものをやると客が来なくなる。だが、やらなかったら古典芸能になってしまう。

未来につなげる努力をプログラムに取り入れなければいけないのに、その努力が足りない。年に数回、現代音楽祭という、”村社会”のコンサートのようなものはあるけれど、必要なのはそれではない。通常のプログラムの中で現代音楽を入れていかないといけない。ところが日本では圧倒的に少ない。だから、作曲家であり、指揮する自分のやり方は、必ず現代音楽をプログラムに入れて、接するチャンスを提供することです。例えば、九月二十九日に開催した「Music Future」と題するコンサートでは、ヘンリック・グレツキの「あるポーランド女性(ポルカ)のための小レクイエム」(一九九三年)や、アルヴォ・ペルトの「スンマ、弦楽四重奏のための」(一九七七/九一年)を演奏しました。

ところが、過当競争の中にある日本の指揮者は実験できないのです。多くのオーケストラが公益法人になって赤字を出すことが許されない中で、集客できる古典ばかりを演奏することになる。ベルリオーズの「幻想」が一番新しい曲になってしまう。それ以降のストラヴィンスキーなど組もうものなら集客は難しい。バルトークですら敬遠されていると聞きます。多分、今一番人気があるのはチャイコフスキーやドヴォルザークでしょう。

日本には優秀な指揮者が大勢いるから、みんな本当は新しい曲を演奏したい。でもチャンスがない。常任になると何回かは実験できるけれど、その肩書きがない限り実験はしづらい。ますます保守化する。もちろん、僕がかかわる新日本フィルハーモニー交響楽団をはじめ意欲的に組んでいる楽団はあります。だがトータルで言うと、”今日性”につなげる努力はものすごく少ない。このままだと、先細りすると心配しています。オーケストラのあり方を考えるのは、日本の音楽、文化としての音楽について考えることと一緒だと思うのです。

知れば知るほどおもしろくなる

これは日本人が直面している結構根の深い問題かもしれない。全ての物事が即物的になっていますから。もしかしたら、アマチュアオーケストラに入っている人たちの目的が、クラシック音楽を知ることではなく、人とのつながりや経験を得ることなのかもしれない。音楽をする喜びを感じたくてオーケストラに参加するなら、聴くことにも喜びがあるし、勉強もする。これも養老先生が仰られていたことですが、今、学生に例えばニーチェについて論文を書けと言ったら、ニーチェの本ばかり二十冊ぐらい読む。本当は、ニーチェの本は一~ニ冊にしてその前後の哲学者も読まなければいけない。幅を広げて読むべきなのに、今の人は棒グラフのようにそれだけを読む、と。

もうひとつ、音楽が十分楽しまれていない背景に、現代人の脳が芸術野ではなく、論理的な方の脳で音楽を聴いている可能性があるかもしれません。つまり、コンピュータのように音楽を「情報」として「処理」している。ならばこれを逆手にとって、交響曲のような長い曲は、言葉を駆使して情報として伝える方策を考えないと普及しないかもしれない。

いずれにせよ、妙薬はない。たまたま僕は二十代まで現代音楽、誰も来ないようなコンサートをして、それからエンターテイメントに行った。映画も含めていろいろ担当してきた中で、もう一回クラシックに戻ってきたから客観的に見ているのですが、やはり一番大きな問題は垣根が高いことだと思うのです。それを壊す作業をしなければいけない。

ただ、それは夏休みに子供向けプログラムを提供すればいいとか、そういう問題ではない。日常的に垣根を壊していかなきゃいけない。昔ロンドンでは、ロンドン・シンフォニー・とアンドレ・プレヴィンがテレビでレギュラー番組を持った。あれでロンドン・シンフォニーのファンが増えた。山本直純さんの「オーケストラがやって来た」もそうでしょう。一般の人と触れ合うための、マスコミの使い方も踏まえた垣根の修正作業にもっと努めなければいけない。

僕が今一番思っているのは、「アートメント」をきちんとやろうということです。アートとエンターテイメントを組み合わせた言葉です。知的な喜びを、もっと日常にするということ。町を歩いている女の子のハンカチの模様がフランク・ステラやアンディ・ウォーホルの作品で、「これいいよね」とか言っているような感じ。それはたとえば、片方で「きのう、ゆずのコンサート行ったんだ」という女の子がいたら、隣で「私はベートーヴェンの第九に行った」という子もいて、それが普通の会話になる日常がいい。

クラシックも同じ。ベートーヴェンってまずおもしろいんですよ、本当に。あのパワーは、恐らく他の作曲家は到達し得なかったものです。金字塔ですよ。何ですごいのかと考えると、本当の意味でキャッチーなのです。ベートーヴェンが持っているのは、通俗的と言っていいほどキャッチーなものをベースに、それを徹底的に組み立てていく意志力でしょう。

大概の作曲家が言うことですが、第九はフォームがよくない。五番や七番に比べると、一、ニ、三楽章はいいけれど、四楽章はバランスが変。交響曲としての完成度で言うと、第九ってどうなの?と、僕を含めて多くの作曲家が疑問を持っていた。それはベートーヴェン自身にもあった。

でも、何回か第九を指揮しているうちに、そんなことは吹っ飛びました。あの四楽章の持っているカタルシス。まるでマリオブラザーズの一面クリア、二面クリア(笑)・・・・・という感じの、あの興奮。それから合唱が持つ圧倒的なエネルギーなどを考えていくと、やはり音楽は理屈じゃないのだと最後に気づきますよ。構成だ、論理的構造だとか言っていたことは一体何だったんだというのを最後に感じます。そのぐらい第九はすさまじい。

話は飛びますが、第九は日本人に合うのですよ。あれは演歌です。任侠映画と言ってもいい。耐えに耐えた主人公が、最後の最後で演歌のテーマが流れる中、刀を持って出かけていって、ちょうどワンコーラス終わると、敵相手にたどり着く。で、バーッと全部斬って終わるという。第九にはそのカタルシスがある。要するに、闘争から勝利、苦悩から歓喜へといった耐えた挙げ句のカタルシスです。

もともと日本で第九がはやった理由というのは、団員の餅代だったそうです。アマチュア合唱団を使うと、合唱団員一人一人に家族と親戚がついてくる。券を買ってくれる。それで多少のお金を稼いで団員に餅代を払って正月を迎える。それがいつの間にか定着した、と。だが、僕はそれだけではここまで定着しないと思うのです。やはり日本人の心に食い込むものがあったのでしょう。

これは民族音楽を訪ね歩いた小泉文夫さんという音楽学者が書いた『人はなぜ歌をうたうか』という本にあるのですが、スリランカの奥地で歌を歌う。音程は、高い音と低い音の二つしかないらしい。相手が一生懸命歌うと、その人よりもっと一生懸命大きい声で返す。また返す。こういうやりとりが歌うことの原点であり、小泉さんは感動したというのですね。実はベートーヴェンの方法も同じ気がするのです。きれいなメロディをどう料理して、どう展開するかみたいなことは余り考えてない。余り好きな言い方ではないけど、どの曲も、魂の叫びというか心の叫びというか、自分の考えていることと直裁的につながっている。ベートーヴェンは直裁的で非常に闘争的な男だから、抑圧からの解放が基本にある。

音楽史をたどると、ベートーヴェンの時代は古典派の終わりに当たります。ということは、ベートーヴェンの時代には、物語的(後の交響詩)なものがいっぱいできている。ウェーバーをはじめ、みんなつくっている。そこで音楽に初めて文学が重要になるわけです。それ以前は、純粋にフォームのある音楽を書いてきた。ソナタ形式とか。でも、もうこれ以上やってもベートーヴェンに勝てないとなった瞬間以降は、音楽に文学の要素が入ってくる。ボロディンの交響詩「中央アジアの草原にて」のように、向こうから来てあっちに去っていったり、シュトラウスの「アルプス交響曲」のように、夜が明けて嵐が来てみたいなアルプスの一日の情景描写など、構成に文学的な要素が入ってくるのです。この辺りから音楽のあり方が変わった。

これを論じたのが、Th・W・アドルノの『新音楽の哲学』という本で、これは読みづらいけれど読んでおいたほうがいい本です。ストラヴィンスキーとシェーンベルクを論じている本ですが、そこでの警鐘は、二十世紀における芸術音楽のあり方の問題です。要するに、商業化した音楽が主流になる今日の状況でそれが可能なのか?を論じている本ですが、現在はもっと深刻な状況だと僕は思っている。

音楽が抱えている問題は本当に大きい。だからそこで自分は何をするのか、ずっと考えています。

おもしろいとは、チャレンジすること

-久石さんがやってこられた映画音楽についてはどうお考えですか?

久石 過去には興味がないんだよね。それは昔の僕が書いた曲であって、今の僕と違うと思うから。

-でも、多くの人が多大な影響を受けたことは疑う余地がないと思います。

久石 もしそういう結果が出ているのだとしたら、本当に幸せなことだと思います。だって、もともと映画のためにつくってきていたわけだから、そういう結果を望んでつくったわけではない。そういう音楽ができたことはすごくうれしいけれど、自分から狙ってつくったことは一度もない。

もちろん、それはもう全身全霊でつくってきました、どの曲もね。ただ、これは作家の性で、「代表作は次だ」という意識は絶えずあるんだよね。過去のものを褒められると照れくさいし、あのときはあのときで一生懸命つくったよという気持ちでいるしかないんですよ(笑)。

ひとつ、わかっていることがあるのです。絶えずチャレンジし続けていないと観客はついてこない。僕のところに来てくれている人たちも、みんなそうです。一回でも気を抜いたコンサートをすると、離れるでしょう。最初の聴衆は自分。自分がおもしろいと思っていないものをやっても、誰にも伝わらない。おもしろいとは、チャレンジすることです。チャレンジすると、観客が一緒に育って、一緒に聴いてくれる。逆に、僕が前と同じことをしているような姿勢を見せた瞬間、観客は見事に離れます。

観客って正直ですよ。この夏と秋の二つのコンサート。「World Dream Orchestra」の方は僕の映画音楽中心。すると、二ヵ所四千枚のチケットが発売後五分で完売。一方、現代の音楽を組んだ「Music Future」の方は五百枚が二ヵ月すぎても売り切れませんでした。露骨でしょう。自分がやりたい方が全然売れない(笑)。でも、僕はすごくうれしい。つまり、観客は、僕がやったら何でもオッケーじゃないんですよ。どういう内容か見て、知らないと思ったら引く。ならば、今後我々が取り組まなくちゃいけないのは、これをおもしろいと思う人間を増やしていくこと。急激にやりがいを感じて、これは来年もやるぞ、と思っています。

-「Music Future」では、世界初演の久石作品「Escher」を演奏されました。

久石 これはもう大変だった。弦楽四重奏なんだけど、メンバーに「弾けない」と言われて。「すみません」と言いながら演奏したけれど、楽しかった。僕は作曲家だから、こういう自分のやるべきことを今後もしていくけれども、オーケストラも同じだと思うのです。お客さんは実は知識で聴いていない。頭で聴くのではなくて、「何かわけがわからなかったけどおもしろかった」「今日のは、つまらなかった」と、考え方はこの二種類しかないと思うのです。その段階では、アルヴォ・ペルトであれ、グレツキであれ演奏していいと思う。何だかすごい不協和音だったけど、打楽器をいっぱい使っていておもしろかったとか、そういう感覚は残るでしょう。だから、そういうきちんとしたおもしろいものを提供していけば、今日の音楽を演奏するのは全然マイナスではない。それがアートメントです。でも実際は大変です。たとえば「World Dream Orchestra」で演奏したペンデレツキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」。演奏も大変。図形楽譜(五線譜でなく図形などで書かれた楽譜)だから。それをバッハの「G線上のアリア」と並べて演奏する。

-二つのギャップがすごいですね。

久石 それを狙ったというか、その化学反応をみたかったんです。ところで、この「広島の犠牲者に捧げる哀歌」に、未来につながるヒントがあると思っています。「超不協和音でおもしろいから聞いてよ」。僕がこう説明すると「そうですね」と言って、百人中九十五人は来ない。でも、「実はこのタイトルは後づけなんだよ。佐村河内と一緒」と言うと、これで二十人ぐらい来る(笑)。さらに、「実はこれは『哀歌 八分二十六秒』ってタイトルだったんだ」と加える。「エレジーという感情的な部分と頭で考える即物的な八分二十六秒がぶつかり合っている曲で、後で松下眞一さんという日本人作曲家の勧めで、日本公演のために『広島の犠牲者に捧げる哀歌』というタイトルをつけたんだ」。そして、こう締めくくる。「ペンデレツキはユダヤ人だから、広島、長崎、そしてアウシュビッツが結びついた。それで、このタイトルでいいと思ったんじゃないか」。これで大体六十人ぐらいが「あ、聴いてもいいわ。一回は」と思う。

-村上春樹さんの小説の中に出てくる音楽を聴きたくなるのと共通していますね。

久石 そう。潜在的にみんな聴きたいんですよ。だけど、どこから入っていいかわからない。だから僕は言葉の力を借りても、まず聴いてもらいたいと思いますね。

(雑誌「考える人 2014年秋号」 新潮社 より)

考える人 久石譲

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