Blog. 「クラシック プレミアム 26 ~[ニューイヤー・コンサート] シュトラウス・ファミリー~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2014/12/25

クラシックプレミアム第26巻は、ニューイヤー・コンサート特集です。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による元旦恒例の「ニューイヤー・コンサート」。その歴史は1939年に始まり、綺羅星のごとき指揮者が登場して話題に。その名指揮者たちの極め付けの名演ばかりを集めた贅沢なアルバムとなっています。

ウィーン・フィルが新年の贈り物として演奏する「ニューイヤー・コンサート」は、今や世界各国にライブ中継されており、世界遺産的行事と呼ぶにふさわしいものであろう。何よりも素晴らしいのは、ヨハン・シュトラウスII世を核とするウィーンの調べの数々であるし、それを演奏するのがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団という世界最高のオーケストラなのである。しかも、指揮者は世界的な名声を誇る名演奏家なのだ。

と解説冒頭にあります。

 

【収録曲】
ヨハン・シュトラウスII世
ポルカ《雷鳴と電光》 作品324
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
録音/1987年

《常動曲》 作品257
小澤征爾指揮
録音/2002年

ワルツ《春の声》 作品410 (ヴァーカル・ヴァージョン)
キャスリーン・バトル(ソプラノ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
録音/1987年

《トリッチ・トラッチ・ポルカ》 作品214 (ヴォーカル・ヴァージョン)
クラウディオ・アバド指揮
ウィーン少年合唱団
録音/1988年

ヨハン・シュトラウスII世&ヨーゼフ・シュトラウス共作
《ピツィカート・ポルカ》
リッカルド・ムーティ指揮
録音/1993年

ヨハン・シュトラウスII世
《チク・タク・ポルカ》 作品365
ヴィリー・ボスコフスキー指揮

ワルツ《ウィーンの森の物語》 作品325
カール・スヴォボダ(ツィター)
ロリン・マゼール指揮
録音/1983年

ポルカ《狩り》 作品373
ヴィリー・ボスコフスキー指揮

ワルツ《皇帝円舞曲》 作品437
クラウディオ・アバド指揮

ワルツ《芸術家の生活》 作品316
小澤征爾指揮

ワルツ《美しき青きドナウ》 作品314
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
録音/1987年

ヨハン・シュトラウスI世
《ラデツキー行進曲》 作品228
ヴィリー・ボスコフスキー指揮
録音/1979年

 

「久石譲の音楽的日乗」第25回は、
「ユダヤ人」と芸術表現をめぐって

前号での伏線をはった結びから、いよいよユダヤ人と視覚・聴覚のお題について佳境へと進みます。かなり話が多岐にわたり難しいのですが。

一部抜粋してご紹介します。

 

「前に「視覚と聴覚のズレを埋めるために、人は時空という概念を発生させた」という養老孟司先生の言葉を引用したが、「この視覚と聴覚のズレの問題こそ、ユダヤ教思想の確信なのだ」と内田樹氏は語り、自身の著『私家版・ユダヤ文化論』でさらに詳しく書いている。この本は何度も読み返したのだが(つまにそれほど難しいとも言えるが)まさに眼からうろこ、ユダヤ人を考えることは日本人、あるいは日本という国を考えるひとつの「ものさし」になるのではないかと思う。このことはまた後で触れるが、とにかく前回書いたように多くの音楽家を排出しているのだからクラシック音楽を考える上でも有意義なはずだ。」

「周知のこととして、ユダヤ教では偶像を作ることが禁じられている。偶像というのは空間的な表現なので、ここでは絶対的な禁忌とされるのだが、他方、時間というのはユダヤ教の宗教性の本質とされている。つまり時間的に神が先行していて人間は遅れてやってきた。この時間差が神の神聖性の重要なところで、「神を見てはならない」と言われる所以でもある。だから視覚的な神像を持つと、同一空間に同時的に存在することになるから禁止なのである。」

「このように造形芸術が原理的に禁圧されているから「いきおい信仰の表現が音楽に向かった」と内田氏は述べている。だが、空間的なものに対しての人間の欲求は強い。世界を見たい、経験したいという視覚的な確認は心を安心させるし、「百聞は一見に如かず」のとおり、強いインパクトを持つ。このためユダヤ教徒には強いストレスがあったと推察される。」

「彼らには伝統的に音楽や舞踏のような時間性を含んだ芸術表現は許されている。だからシャガールの絵がユダヤ人世界で許容されえたのは、その表現に時間性があるからではないか?フェルメールのように、と僕は考える。シャガールの絵には音、あるいは音楽が流れている。」

「また映画や演劇、ダンスは視覚芸術なのだが、時間性があるから許容されている。20世紀になって映画産業が急速に成長したとき、雪崩を打って参入したのはユダヤ人たちだった。おそらく伝統的な産業には人種的な壁があり、新規に立ち上がった映画産業が積年の(ユダヤ教としての)欲求不満を含めて解消してくれたのではないか。ハリウッドのメジャー8社のうち7社までがユダヤ人が作った会社なのはその表れである。」

「次に「ユダヤ人」とは誰なのかを考えてみる。第1にユダヤ人というのは国民名ではない。ユダヤ人は単一の国民国家の構成員ではない。第2にユダヤ人は特定の人種ではない。ロシア系、ドイツ系、フランス系など世界のあらゆる人種に混じっていて特定できない。第3にユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。キリスト教徒のユダヤ人は欧米ではかなり存在する。それではユダヤ人とは誰なのか?何をもってユダヤ人とするのか?」

「さらに内田氏は「ユダヤ人」の定義について疑問を呈し、「『ユダヤ人』というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念である」とし、「この概念を理解するためには、私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除することが必要である」と説く。」

「つまり日本人の常識では「『国民』というのは、原理的には、地理的に集住し、単一の政治単位に帰属し、同一言語を用い、伝統的文化を共有する成員のこと」であって、「外国に定住する日本人、日本国籍を持たない日本人、日本語を理解せず日本の伝統文化に愛着を示さない日本人、そのようなものを私たちは『日本のフルメンバー』にカウントする習慣を持たない。それは私たちにとっても『自明』である」と。だが、この考え方をユダヤ人に当てはめると「自明」ではなくなる。」

「ユダヤ人というのは国民でもなく、人種でもなく、ユダヤ教徒のことでもない。このあと、内田氏はかなり抽象的な、あるいは哲学的な命題として「ユダヤ人とは誰か」について書いているのだが、中途半端な引用は、かえって誤解を招く怖れがあるので、興味のある人は前述の本を読んでいただきたい。」

「我々日本人は、できるだけ人種や宗教の話を避けているように思う。いや、興味がないともとれる。それは一億総親戚のような国民なのだから、隣の人と肌の色も違い、生活習慣や考え方も違うなかでどう折り合っていくか、を考えなくても済んでいたわけだから、ある意味当然だと言える。つまり平和な国なのである。「言わずもがな、わかるだろう」的な日本人特有の感性が、この風土で生まれたわけだ。しかしユダヤ人は各国に散らばり、各人種と混じりながらホロコーストなど2000年にわたる迫害の中で生き延びた。そしてノーベル賞受賞者の20%は彼らであり、彼らの作った音楽は我々に生きる意味を今でも問うている。僕らはユダヤ人から学ばなければならないことがたくさんある。」

 

うーん、部分抜粋だと前後の脈略ふくめ、より理解しずらいため、今回はほぼ書き起こしましたが、それでも難しいですね。さながら、音楽の講義なのか歴史?哲学?宗教?人類論?その範囲がわからなくなってしまいますが、いや、音楽は音楽のみで語るべからず、多角的に広く深く捉えること、知ることが、どの分野でも大切なことですね。

 

クラシックプレミアム 26 ニューイヤー・コンサート

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