第4回:「ねぇ、順調なの?」

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第4回:「ねぇ、順調なの?」

2003年10月17日。午前9時30分、久石譲は、翌日から録音が行われるプラハ市内のドボルザークホールに向かった。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者、マリオ・クレメンスと打ち合わせをするためだ。

2人が会うのは、1998年にチェコ・フィルが演奏したアルバム「交響組曲 もののけ姫」の録音以来。久しぶりの再会に、固く握手する。「オーケストラが早く学ぶよう、私が最大限の努力をする」とマリオ。

さっそく楽譜を広げ、打ち合わせが始まった。

まず、3日間で4セッションを行うことを確認。1セッションは3時間だから、12時間で全10曲を録音しなければならない計算だ。

クラリネットから始まる曲がある。「チェコ・フィルのクラリネット奏者は?」と聞く久石に、マリオは「安心して。とても素晴らしいよ」。久石は「よかった。この曲は冒頭のクラリネットが大切だから」と胸をなでおろす。

2人は、気になる部分があると1音たりとも曖昧にしない。普通なら行き詰まってしまう部分も、限られた時間の中でベストの結論を導き出す。一流の現場で様々な経験をしてきた2人だからこそ可能な「プロの打ち合わせ」だ。まるで、会話そのものが演奏のようだった。

午前11時30分。打ち合わせ終了。久石は集中して臨んだせいか、一度、天井をあおいだ。この打ち合わせ中、出されたコーヒーには一度も手をつけなかった。

午後、ホテルで最後の譜面直し。作業を終え、ロビーに現れた久石は、ずいぶん穏やかな表情になっていた。「疲れているだけだって」と笑う。
プラハ城内にある聖ビート大聖堂
「せっかくだからプラハ城へ行こう」と久石が言い出した。ホテルから見える城の景色が気になっていたようだ。

プラハ城は、9世紀に建設が始まった歴史的建造物。ゴシック様式の聖ビート大聖堂などをはじめ、様々な建築様式で増築されてきた。

久石は、アール・ヌーヴォー画家アルフォンス・ミュシャが制作した2万枚もの色ガラスを使ったステンドグラスに見入っていた。「すごい。圧倒されるね」

プラハ城を出たところで、名物のビールを堪能。笑顔が絶えない。休暇が設定されていないこの旅で、唯一の気分転換となったようだ。

ホテルに帰ると、プラハ市街に効果音の採集に出かけていたスタジオジブリの稲城和実、津司紀子が戻っていた。稲城らは、「ハウルの動く城」で音楽に限らず音に関するすべての作業を担当しているため、合間を見て時計台の鐘や雑踏の音を採取しているのだ。

ジブリ作品は、効果音にもこだわることで知られている。必要であれば、既成のライブラリー音源に頼らず、様々な場所に足を運び、音を採取する。「ハウル」では、物語の舞台となるヨーロッパの空気を表現するために、稲城ら以外にも、フランスやスイスに録音部隊が飛んでいるという。稲城は「雑踏の音を豊富に取れました」と満足そう。

ホテルに、今回の録音でエンジニアを務める江崎友淑がやって来た。江崎は以前、チェコ・フィルでトランペットを吹いていた経験があり、現在はエンジニアとして年に何度もチェコを訪れている。チェコ・フィルを知り尽くした強い味方だ。

夜はプラハ市内の日本料理の店へ。寿司からラーメンまで、日本料理というよりも、“日本人が好きそうな料理”を出す店。味は……様々な意見があったとだけ記しておこう。

「ところで」と久石が稲城に切り出す。「ねぇ、順調なの?」。もちろん「ハウル」の進行状況のことだ。しかし稲城はすかさず「何がですか?」ととぼける。「何がって、決まってるじゃない」とさらに久石が突っ込むと「分かっているんですけど、いや、まぁ」と煮え切らない。「だからどうなのよ」と久石が笑う。稲城は「順調に」と前置きした上でこう答えた。「遅れています」

プラハの夜が更けていく。いよいよ明日から録音が始まる。(依田謙一)

(2004年2月1日 読売新聞)

 

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