Blog. 「クラシック プレミアム 35 ~モーツァルト5~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/5/5

クラシックプレミアム第35巻は、モーツァルト5です。

全50巻中、5回にわたって特集されてるモーツァルトも、今号がその最後となります。第2巻モーツァルト1にて、《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》、ピアノ協奏曲 etc、第6巻モーツァルト2にて、交響曲 第39番・第40番・第41番《ジュピター》、第12巻モーツァルト3にて、ピアノ・ソナタ集 第8番・第10番・第11番、第27巻モーツァルト4にて、5大オペラ名曲集《フィガロの結婚》 《魔笛》 etcとなっています。今号収録の協奏曲たちも、聴いたことのある旋律ばかりです。

 

【収録曲】
クラリネット協奏曲 イ長調 K.622
ザビーネ・マイヤー(バセット・クラリネット)
ハンス・フォンク指揮
ドレスデン国立管弦楽団
録音/1990年

フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299
ジャン=ピエール=ランパル(フルート)
リリー・ラスキーヌ(ハープ)
ジャン-フランソワ・パイヤール指揮
パイヤール室内管弦楽団
録音/1963年

ホルン協奏曲 第1番 ニ長調 K.412・514
ヘルマン・バウマン(ホルン)
ニコラウス・アーノンクール指揮
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
録音/1973年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第34回は、
シェーンベルクの天才ぶりとその目指したものは……

前号では、2015年台湾コンサートでも演奏された、「ショスタコービッチ:交響曲 第5番 ニ短調 作品47」についての考察が、指揮者として、そして作曲家としての久石譲ならではで語られていました。今号では、シェーンベルク作曲:『浄められた夜』 op.4(弦楽合奏版)について。この作品も2015年5月5日開催コンサート「新・クラシックへの扉・特別編 「現代の音楽への扉」」で演奏されるもので、その準備段階、久石譲の楽曲研究・指揮勉強の時期に、執筆された内容となっています。とても充実したエッセイ内容となっています。

一部抜粋してご紹介します。

 

「アルノルト・シェーンベルク(1874~1951)の《浄められた夜》は弦楽のための作品で、約30分かかる大作だ。もともとは1899年に弦楽六重奏曲として作曲されたのだが、1971年、それから1943年にもそれぞれ手を入れ、いずれも出版されている。」

「この連載との関連性でいうと、まずシェーンベルクはユダヤ人、それから作曲家は時間が経つと手直しをしたくなる変な習性があることか(笑)。」

「実は5月5日にこの曲を演奏することになっている。新日本フィルハーモニー交響楽団の「新・クラシックへの扉」というシリーズでの出演だが、他にリヒャルト・ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の前奏曲、ホーリーミニマリズムのアルヴォ・ペルトさん(去年、高松宮殿下記念世界文化賞で来日したときにお会いした)が書いた交響曲第3番というなんとも大変なプログラムだ。まあ現代の音楽入門編といったところだが、よく考えると「なんで『こどもの日』にこんなヘビーな選曲なの? 《となりのトトロ》を演奏したほうがいいんじゃないか!」と自分でも思う。でも観客のことを考えるとそうなるのだが、作曲家はやはり自分の興味のあることがやりたいことなので、仕方ない。」

「それで今猛勉強中なのだが、とにかく各声部が入り組んでいるため、スコアと睨めっこしても頭に入ってこない。いろいろ考えたあげく、リハーサルの始め頃は連弾のピアノで行うので、そのための譜面を自分で書くことにした。やはり僕は作曲家なので自分の手で音符を書くことが覚える一番の近道だと考えたのだが、それが地獄の一丁目、大変なことになってしまった。」

「《浄められた夜》は室内楽なので、音符が細かい。例えば4/4拍子でヴィオラに6連符が続くと4×6=24、他の声部もぐちゃぐちゃ動いているので一小節書くのになんと40~50のオタマジャクシを書かなければならない(もちろん薄いところもある)。それが全部で418小節あるのである! そのうえ、4手用なので、弾けるように同時に編曲しなければならない。全部の音をただ書き写しても音の量が多過ぎて弾けないので、どの声部をカットするか? もう無理なのだが、どうしてもこの音は省けないからオクターヴ上げて(下げて)なんとか入れ込もうとかで、とにかく時間がかかる。実はこの作業は頭の中で音を組み立てているのだから、最も手堅い、大変だが確実に曲を理解する最善の方法なのだ。」

「年が明けてから、映画やCMの仕事をずっと作ってきて、台湾のコンサートが終わってからこの作業に入ったのだが、昼間は作曲、夜帰ってから明け方まで譜面作りと格闘した。それでも一晩に2~3ページ、小節にして20~30くらいが限度だった。毎日演奏者に定期便のように送っているのだが、他にもすることが多く、実はまだ終わっていない、やれやれ。」

「もしかしたらこれは多くの作曲家が通ってきた道なのかもしれない。マーラーやショスタコーヴィチの作品表の中に、過去の他の作曲家の作品を編曲しているものが入っている。リストはベートーヴェンの交響曲を全曲ピアノに編曲している(これは譜面も出版されている)。これからはもちろんコンサートなどで演奏する目的だったと思われるが、本人の勉強のためという側面もあったのではないか? モーツァルトは父親に送った手紙の中で、確か「自分ほど熱心にバッハ等を書き写し、研究したものはいない」と書いていたように記憶している。モーツァルトは往復書簡などを見る限りかなり変わった人間ではあるが、天真爛漫な大人子供のイメージは映画『アマデウス』などが作った虚像だったのかもしれない。」

「そんなことを考えながら、何度も書いては消し、書いては消している最中にふと「久石譲版《浄められた夜》を出版しようかな」などと妄想が頭をよぎる。もちろんシェーンベルク協会みたいなものがあったらそこに公認されないと無理だろうけど。」

「それで改めてシェーンベルクの天才ぶりがわかった。ピアノ版に直していく過程でどの音域でも音がかぶることろがほぼ見当たらなかった(もちろん半音をわざとぶつけてはいるが)。ベートーヴェンは意外に頓着がなく、交響曲第5版の第2楽章の中に出てくるのだが、第2ヴァイオリンとヴィオラが和音を刻んでいる中を、同じ音域で第1ヴァイオリンが結構平気で駆け上がっていく。要はそんな細かいことはどうでもいいというくらい音楽が強いのだが、こと技術的なことを言えばシェーンベルクは歴史上最も優れた作曲技術の持ち主だった。しかも作品番号4ということは若い頃の作品だ。普通は一生かかっても身に付かない技術をこんなに若いときに手に入れるなんて、その先どうやって……ワーグナーも影響下にあった彼が次に目指すものは……。結局、無調に走り、十二音音楽を始めるしかなかった。それを僕は強く実感した。」

 

 

作曲家、指揮者、ピアノ、あらゆる音楽的側面をもつなかで、「自分の肩書は作曲家である」と最近もよく公言している久石譲です。そんな作曲家の久石譲が、他作曲家の作品を伝えたいという思いから演目に入れること、指揮者としての水面下での研究と勉強、エッセイにもあるとおり《久石譲の仕事》としても忙しいなか、ひとつの楽曲・ひとつのコンサートに臨むために、こんな膨大な経過があるのかと唸ってしまいます。それでも他作曲家・他作品を久石譲が今取り上げる所以、本人としては確固たる想いがあるのだろうと思います。

こういう秘話を垣間見ることで、久石譲コンサートに行く姿勢が変わるといいますか、久石譲作品であっても、そうでない楽曲であったとしても、心して聴かなければと襟を正される思いです。そして、こういった指揮活動やクラシック音楽の研究・勉強という蓄積が、次の久石譲作品に昇華されていくのだと思います。それがなによりも一番楽しみなところです。

シェーンベルク《浄められた夜》も久石譲コンサートで演奏されると知ってから、初めて耳にし、今ではよく聴いています。まさに美しい旋律、弦楽が織りなす美です。遠く近く、広く深く、ストリングスの響きにのみ込まれます。

 

 

クラシックプレミアム 35 モーツァルト5

 

Blog. 「久石譲 ~Piano Stories 2008~」 コンサート・パンフレット より

Posted on 2015/5/1

2008年開催コンサート・ツアー「Joe Hisaishi Concert Tour ~Piano Stories 2008~」全国全11公演にて、久石譲のピアノと12人のチェリストという斬新的な編成で、パーカッションなどもまじえたアコースティック・コンサートです。

どういう時代の楽曲たちがプログラムに並んでいるかというと、映画「崖の上のポニョ」や映画「おくりびと」から、このツアー後の翌年に発売されたオリジナル・アルバム、『Another Piano Stories ~The End of the World~』に収録されることになる、まさに発売に先駆けてのコンサートお披露目となった楽曲たちです。実際にインタビューにもあるとおり、このツアー中にレコーディングされている、熱量そのままの作品です。

 

久石譲 『Another Piano Stories』

 

Joe Hisaishi Concert Tour 〜Piano Stories 2008〜
Presented by AIGエジソン生命

[公演期間]43 Joe Hisaishi Concert Tour
2008/10/13 – 2008/10/29

[公演回数]
11公演
10/13 長野・まつもと市民芸術館
10/15 東京・サントリーホール
10/17 東京・東京芸術劇場 大ホール
10/18 新潟・りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館
10/19 神奈川・ミューザ川崎シンフォニーホール
10/22 愛知・愛知県芸術劇場 コンサートホール
10/24 大阪・ザ・シンフォニーホール
10/25 奈良・マルベリーホール 新庄町文化会館
10/27 兵庫・アワーズホール 明石市立市民会館
10/28 広島・広島厚生年金会館
10/29 福岡・福岡シンフォニーホール

[編成]
指揮・ピアノ:久石譲
12人のチェロ:
ルドヴィート・カンタ、古川展生(10/13以外)、諸岡由美子、唐沢安岐奈、海野幹雄、ロバン・デュプイ、三森未來子、小貫詠子、大藤桂子、堀内茂雄、中田英一郎、櫻井慶喜、羽川真介(10/13のみ)
マリンバ:神谷百子
パーカッション:小松玲子(10/24,27以外)、服部恵(10/24,27のみ)
ハープ:ミコル・ピッチョーニ、田口裕子
コントラバス:イゴール・スパラッティ

[曲目]
第1部
Oriental Wind

[ETUDEより]
Moonlight Serenade ~ Silence
Bolero
a Wish to the Moon

[V.Cello Ensemble]
Musée Imaginaire

Departures

第2部
[Piano solo]
夢の星空
Spring
Zai-Jian

The End of the World
Movement 1
Movement 2
Movement 3

[Woman of the Era]
Woman
la pioggia
崖の上のポニョ
Les Aventuriers
Tango X.T.C.

—–アンコール—–
Summer
Madness
スジニのテーマ (大阪・兵庫・福岡)
あの夏へ (奈良・福岡)

 

 

コンサート会場で販売されたツアー・パンフレットに、このコンサートにかける久石譲の想いが綴られています。それをご紹介します。

 

 

久石譲 コンサートを語る

-まず、今回のコンサートの大きな特徴であるチェロアンサンブルを起用した理由、チェロ12人を選んだわけとは?

久石:
5年前に、ピアノとチェロ9人の編成で[ETUDE ~a Wish to the Moon~]というツアーを行ったんですが、とてもうまくいったので、いつかまたやりたいと思っていたんです。それで、2008年のコンサートはチェロ主軸でいこうかと考えていたときに、今公開中の「おくりびと」という映画のお話をいただいて、偶然にも主人公がチェロ奏者という設定だった。そこで、思い切ってこの映画の音楽は、チェロ12人+ソリストを主体にしたサウンドトラックをつくったんです。通常、映画の場合にはたくさんの曲が必要とされ多くの楽器を用いることが多いのですが、敢えてチェロをメインに据えたことが効果を奏し、監督をはじめ関係者の皆さんも非常に喜んでくれましたし、自分の中でも満足できる出来ばえだった。尚かつ、映画自体も数々の賞をいただいて、大勢の皆さんが観てくれている。そういうきっかけもあって、自分の中では、そろそろチェロを主体にした、チェロ × ピアノのツアーを行う時期ではないかと思っていたんです。

 

-[ETUDE]ツアーのときはチェロ9人でしたが、今回は12人に増えてさらにパワーアップしていますね、それは何か意図的なものが?

久石:
12という数字に特別な思い入れがあった訳ではないんですが、最近のチェロアンサンブルというと、”ベルリン・フィル12人のチェリストたち”に代表されるように、12人で組む形態が主流になってきている。例えば、”弦楽四重奏”や、”木管五重奏”と同じように、”チェロ12人”というのがクラシックの一つの形態として定着しています。そこで、このチェロ12人の編成を採用したんですが、そのために非常に苦しむ大変な目に遭いました。

というのも、通常の弦楽器セクションの書き方では、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ(+コントラバス)と4部のパートがあって、例えばド/ミ/ソ/ド/という風に4つの音による和音を演奏します。そして音の数を増やしたいときにはそれぞれのパートを更に二手に分け、計8つの音による和音を演奏するんです。もちろん色々な場合がありますが、全体のバランスを考えるとそれが基本です。

ですから、今回のツアーのように12人いる場合、弦4部と捉えて4パートに分けると1パートが3人ずつ。でも、この3人というのが鬼門で、8つの和音を各パートに2音ずつ振り分けると、どうしても1人ずつ余ってしまうんです。この通常の書き方が通用せずに、やはり難しくて、どうしよう!困った!……と(笑)。これでは、あまりにも難しい書き方になってしまうので、悩んだ挙句、自分の解決策として、4人1組のチェロ”カルテット”が3組あるという考え方に辿り着いたんです。要するに、第1カルテット、第2カルテット、第3カルテットという発想で書くことによって、全く違う動きをもたせることが出来るようになった。その上で、一人一人の奏者が更に独立したり共同したりという様々な動きを見せることによって、タペストリーのように非常に細かい動きを出していこうと思ったんです。

 

-3人のトリオ×4組と、4人のカルテット×3組といった組み替えが起こることで、緻密な動きと様々な表情が楽しめるということですね。

久石:
そうなんです。でもそのアレンジには大きな難点があって、細かな動きを一人一人指定していく、それも12人のチェリストに指定するのには莫大な時間がかかってしまって……。こんなにもこの編成で書くのが大変なことで、オーケストラの作品を1曲書くのと同じくらいの時間がかかってしまうとは、当初は予想していませんでしたね。

実は、この秋ツアーの直前には、200名のオーケストラをはじめ総勢1200人近い大規模編成のアレンジをしたんですが、そのときに費やした労力と同じくらい時間を要してしまったんです。確かに、大きい編成の方が複雑で難しいと思われがちだけれども、実は、今回のように少人数の編成でも、優れたチェロ奏者がそれぞれ独立して、あるいは共同しながら音楽をつくっていくような譜面を書くのは、非常に複雑な作業で……。

一見、小さい世界なんだけれども、その中にはそういう巨大な編成と同じくらいの世界があると。だから、それぞれのパートをしっかり書くことで、緊張感がさらに増してオーケストラのフル編成に負けないぐらいのスケールの大きい曲が書けたと思っています。

 

-12人のチェロとピアノに加えて、今回のコンサートではパーカッション、ハープ、コントラバスという新しい要素が取り入れられていますね。

久石:
やはり、前回よりも更に進化している必要がありますよね。普通、大規模なオーケストラでないとハープ2台は使わないと思うんですが、そこを敢えてこの小さい編成で取り入れ、マリンバ、ティンパニまで入ったパーカッションが2人と、そしてコントラバスを付け加え、全く新しい編成で、世界にもないスタイルでの挑戦です。

 

-新曲「The End of the World」について、強いメッセージ性が感じられます。

久石:
この曲は、もう本当に一言で表わせば、「After 9.11」ということなんです。「9.11(アメリカ同時多発テロ)」以降の世界の価値観の変遷と、その中で、政治も経済もそこで生きている人々も、今の時代は、どこを向いてどう頑張っていけばいいのか分からなくなってしまっているんじゃないかと、最近とみに考えるようになって。

今年はたくさんの作品や映画音楽を書かせていただき、監督たちとコラボレーションすることで自分を発見する楽しい作業に数多く恵まれましたが、それとは対極の、ミニマル作曲家である本来の人という立場から、自身を見つめる時期も必要であると。そして、今回の限られたわずかな時間しかない中でも、どうしてもつくらなければならないと、個人的な使命感にも似た感覚を強く感じて、書いた作品なんです。

今回は優れたチェリスト12人とハープとパーカッション、コントラバスという特別な編成で、せっかく演奏できる機会でもある。ならば、単に書きためたものを発表するだけではなくて、今どうしても聴いてもらいたい作品をつくりたかった。それで、書いた曲です。

 

-「世界の終わり」という非常にインパクトあるタイトルも目を引きます。

久石:
実は、直前まで決定するのに苦しんでいて、やっと「The End of the World」というタイトルに決まったんです。この「The End of the World」には同名のスタンダード曲も存在して、「あなたがいないと私の世界が終わる」というような意味のラブソングです。でも、この曲のあなたを複数形でとらえ、あなたたちが存在していなければ、世界は終わってしまうといった、もっと広い意味で捉えると、たぶん今、僕が考えている世界観にとても近いんじゃないかと感じて、敢えてこの同じタイトルを用いた理由です。

楽曲は、1楽章は4分の6拍子から始まり、最終楽章が8分の11拍子という、大変難しい曲。おまけに、絶えずピアノが鳴らす基本リズムがあり、それに他の楽器が絡み合う、本当に”世界のカオス”、まさに”混沌”を表現するような、アンサンブル自体がカオスになってしまうんじゃないかというくらいの難曲になってしまいました。

 

-対して、もう一つの新曲「Departures」は、非常に柔らかなイメージが湧いてくるのですが。

久石:
これは、映画「おくりびと」のために書いた楽曲を、今回、約14分の組曲風に仕立て上げました。どちらかというとこちらの新作は、精神的な癒し、あるいは究極の安らぎをテーマにした楽曲でもあるんです。

 

-世界中に拡がる不安な時代を象徴した「The End of the World」と、精神世界の柔和と安寧を印象づける「Departures」、そこに「Woman of the Era」というコーナーが加わることにも注目できますね。

久石:
「Era」という言葉は、ある特定の時期を表す言葉なんだけど、タイトルをそのまま直訳すると「時代の女」。もっと言うと「オンナの時代」(笑)。今の時代は、男性よりもやはり女性が強いということなんですよね。基本的に社会を含めた世の中の構造は、男社会の構造になっていると思うのですが、結局今の時代、それでは機能しなくなってきてしまった。特に、「9.11」以降、機能自体が崩壊したというか……、やはりこの世界をきっちり生き抜いていくには、そして不安な時代の中でもちゃんと力を発揮しているのは女性特有の強さなんだなと思うんです。

で、このコーナーに「崖の上のポニョ」が入っているのは意外かと思われるかもしれませんが、ポニョは5歳といえども立派なレディ、あるいは”Woman予備軍”。そう位置づけると、ひたすら自分が思った行動に忠実に生きているポニョも、力強く生きる女性像として、男性も見習わなきゃいけない原動力を持っているんだよ、という。その意味でいうと「ポニョ」も、この「Woman of the Era」の括りの中に入ってくるんですよね。

このツアー中にレコーディングを予定しているのですが、来年初頭に発表する予定の次回作のアルバムタイトルには「Woman of the Era」でいければいいなぁと、今は思っているんです。

(久石譲 コンサート・ツアー ~Piano Stories 2008~ コンサート・パンフレットより)

 

ピアノ・ストーリーズ コンサート2008 P

 

Blog. 久石譲 「日本経済新聞 入門講座 音楽と映像の微妙な関係 全4回連載」(2010年) 内容紹介

Posted on 2015/4/23

2010年日経新聞夕刊に全4回連載された入門講座「音楽と映像の微妙な関係 久石譲」です。

この連載では、久石譲が映画音楽について語っています。しかしながら、そこには自身が手掛けた映画音楽ではなく、他の映画作品、他の映画音楽をテーマに考察しています。登場する作品は、『ベニスに死す』『グラン・トリノ』『2001年宇宙の旅』『アバター』新旧織り交ぜた不朽の名作たちばかりです。

どういう視点で映画および映画音楽を見ているのか?今日の日本映画音楽における巨匠ともなっている久石譲による貴重な映画音楽講座になっています。末尾に、雑誌インタビューで語っている「グラン・トリノ」や「2001年宇宙の旅」の話も紹介していますので、興味のある方はご参照ください。

 

 

 

音楽と映像の微妙な関係 1

映画音楽は映像の伴奏ではない__。宮崎駿監督らの作品を華麗な旋律で彩ってきた作曲家、久石譲さんは明確な信念を持つ。古今の名作を検証。映画音楽の神髄が表れたケース、逆に表現が萎縮した例などについて熱く筆を振るう。

 

「かけ算」の美学に昇華

「普通の音楽と映画に付ける音楽とは何が違うんですか?」
インタビューで受ける質問ベスト10ではかなり上位に入る。

「”ふつう”の音楽はそれだけで100%、映画なら映像と音楽を足して100%になるようにします」などと答えているが、人間は「百聞は一見に如かず」というくらい視覚のインパクトが強いので聴覚側の音楽はやはり肩身が狭い。理想は「映像と音楽が100%ずつ発揮したうえで成立する映画」なのだが、そんな不可能なことを可能にした作品を僕は知っている。

『ベニスに死す』だ。
音楽はグスタフ・マーラー、監督はルキノ・ヴィスコンティ。もちろんマーラーがこの映画のために書いたのではなく交響曲第5番の第4楽章アダージェットとして書かれた名曲を使用しているので厳密に言えば映画音楽ではない。が、まちがいなくここでは映像と音楽が足しあうのではなく、かけ算にしてみせて我々の度肝を抜くのである。

といっても、派手なものではなく冒頭の船のシーンを観るだけでわかるように、マーラーの切々とした孤高の音楽と画面の隅々まで神経を配った無駄のない映像が、晩節を迎えた老作曲家を通し人間というものを、人が生きるということを描くのではなく深く体感させるのである。

以下具体的に見ていくと音楽の入っている箇所は約12カ所でそのうちこのアダージェットが5カ所、しかもかなり長く使用している。他はホテル内での生演奏や教会の賛美歌、広場の流し芸人や美少年の弾く「エリーゼのために」などで、状況内音楽が多い。状況内音楽とはそのシーンのどこかで流れているであろう音楽のことだ。例えば喫茶店で流れるクラシック音楽、飲み屋さんの演歌、野球場での応援歌などで映像の一部に映っていることも多いので無理なくドッキングする。

それに対する状況外音楽が我々の言う映画音楽で日常流れることはあり得ない。つまり映画音楽というもの自体が不自然で非日常なのだが、映画自体がフィクション(作りもの)なのだから映画音楽が最も映画的というレトリックも成り立つ。この場合アダージェットがそれに相当する。他にマーラーの歌曲と思われる(残念ながら失念)曲も重要だ。

トーマス・マンの原作では主人公グスタフ・アッシェンバッハは老作家なのだが映画では老作曲家に変更している。しかも風貌を含めて限りなくマーラーのイメージに近づけていて追い打ちはマーラーのアダージェットなのである。これではこの主人公がアダージェットの作曲家であるグスタフ・マーラーだと言わんばかりなのだが、このイメージをダブらせるような演出こそが最大のトリックであり最大の映画的効果なのである。ヴィスコンティ恐るべし。

次回はイーストウッド症候群というプロの映画音楽家を絶滅させんばかりの強いウイルス性を持つクリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」を検証する。

(日本経済新聞(夕刊)2010年(平成22年)4月1日付 夕刊文化 より)

 

 

音楽と映像の微妙な関係 2

「監督、この殺人シーンの音楽どんなイメージですか?」
「うーん、やっぱりミスティック・リバーみたいな感じですかね」。

「ラスト、ヴォーカル入ってもいいですね、グラン・トリノみたいな」と僕。吉田修一原作、李相日監督の「悪人」という映画の音楽打ち合わせの会話である。そして話題に挙がった2本ともクリント・イーストウッドの作品だ。

「許されざる者」から最新作「インビクタス」までこれといった派手な仕掛けはなく淡々としているのだが細部に神経が行き届き、やたら感情を煽るでもないのだが深く感動させる。御年79歳、このところ精力的に映画を発表している最も旬な監督である。

それはいいのだが、大きな問題がある。音楽がヘタウマなのだ。良く言うと素朴、悪く言うと素人っぽい。白たま(全音符のこと)にピアノがポツポツみたいな薄い音楽が主体だから映像を邪魔するようなことはない。しかも監督自ら作曲することが多いので映像と音楽の呼吸感も見事なものだ。だがそれは両方兼業(特に近年)する彼にしかできないことで、修練を積んで来たプロの作曲家にヘタウマ風に書けと言っても無理なのだ。この手の音楽が主流になったら大変、そこで「グラン・トリノ」を検証してみる。

 

絶妙な抑制の響き

全部で23曲、冒頭のクレジットに流れるメインテーマはフレットレスベースのシンプルなメロディーでこの映画の音楽の要である。正直僕はこの手の先の読めるメロディー、つまりあるフレーズがありそれが和音進行に従いお決まりのコースを辿るのが嫌いだ。やれやれと思いながら見ていくと、その後インストゥルメントで、歌詞なしのスキャットで、そして歌でと6シーンにわたって流れるのだが、だんだん良く聞こえてくるのである。特にラストシーンではイーストウッド自身が1コーラス渋く歌いそのままジェイミー・カラムの歌でエンド・ロールに繋がっていくところが感動的なのだ。うまい、ちょっと参った。

原因はやはりシンプルなメロディーにある。冒頭に流れたものがストーリーの進展とともに成長していくのである。これは誰も意識してないのに確実に情動を煽る。しかもイーストウッドの場合は下品ではない。むしろ抑制を利かしている分、映画全体の品格を上げている。この他には計6回使われるサスペンス調の曲と悲劇的な曲で、以上が状況外音楽いわゆる映画音楽だ。後は基本的に先週説明した状況内BGMで、アジアン暴走族の車からのラップ、隣家の室内シーンの民族音楽などだ。

確かに映像と音楽の関係は両者を生かし素晴らしい作品となっている。が、基本的には映像を邪魔しないものに主眼が置かれているのは「映像と音楽は対等であるべきだ」と考えている僕にはやはり物足りない。

そう考えているとき「悪人」の劇場用5.1サラウンドミックスの音楽がリテイクになった。原因はエコーを多用し包み込むような優しい音響にし過ぎたせいだ。そうイーストウッドの映画のように。李監督は「録音のときの弦のすさまじい音が忘れられないんです。つまりイーストウッドというより久石さん風ですかね」。未来の大監督は清々しく笑った。

次回は巨人中の巨人、スタンリー・キューブリックを検証する。

(日本経済新聞(夕刊)2010年(平成22年)4月8日付 夕刊文化 より)

 

 

音楽と映像の微妙な関係 3

わかりやすいということは決して良いことではない。難解な映画や音楽、絵画などに接したとき「これは何?」という畏怖にも似た疑問がおこる。だから頭を働かせる。わかろうとするからだ。あるいは自分の感覚を最大限広げて感じようとする。そこにイマジネーションが湧く。もちろん優れた作品であることが前提だ。何も大衆性を否定しているわけではない。その両方がない作品に接する時間ほど無駄なものはないと考えるのだが、作る側としてはそのさじ加減が難しい。

スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」はその答えの一つである。冒頭の古代の人猿から有名な宇宙を航行する宇宙船のシーン、そして舞台は月に移りコンピューターのHALが暴走し、その後木星に行く。謎の物体「モノリス」をめぐる展開だが一貫した主役はなく各シークエンスも関連性に乏しくわかりづらい。最初予定していた解説やナレーションをキューブリックが過剰な説明は映画からマジックを奪うと考え削除したせいもある。僕は最初これは映画ではないとさえ思ったのだが、何度か見ていくうちに映像と音楽の関係性に圧倒され、今では僕の「名作中の名作」である。マーラーやブルックナーの交響曲のように何度も接しないと良さはわからないのだ。

 

突き抜けた芸術 大衆に届く

映画全体の音楽は15曲(メドレーは1曲として)で数は多くはないが一旦鳴りだすと長く使っている。その関係は映像に付けるのではなくてむしろ映画自体を引っ張っていくエンジンのような役割だ。ちなみに「博士の異常な愛情」は10曲と多くなく、オープニングとエンディングの4ビートのスタンダードナンバーを除くと爆撃機に流れる西部劇のような曲だけというシンプルさだ。

話を戻して、まず驚くのは宇宙航行にヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」を使っていることだ。無重力の漆黒の宇宙に浮いた宇宙船がワルツのリズムに乗って現れたときは仰天した。それまではホルストの「惑星」まがいの曲が主流だったのに(その後はジョン・ウィリアムズ風か)、ワルツである。今ではそれがスタンダード化したが、メインタイトルのリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」も原曲は知らなくとも誰もがこの映画で知るようになった。

その他ハチャトゥリアンの「ガイーヌ」のアダージョもあるが、なんといっても衝撃を受けるのはジェルジ・リゲティの曲の使用である。20世紀後半のもっとも重要な現代音楽の作曲家だが難解である。早い話が不協和音なのである。オープニングでは画面は何も映らず結構長く名曲「アトモスフェール」がかかり、月面の低空飛行では「ルクス・エテルナ」、それに「レクイエム」が頻繁に使われラストの白い部屋では「アヴァンチュール」である。圧巻は木星と無限の彼方(異次元への突入)で15分にわたり流れる3曲ほどのメドレー。多くの監督が望む大衆性とは真逆の姿勢をキューブリックは音楽でも貫く。そしてこの作品以降クラシック音楽を多用するようになる。

決してわかりやすい音楽と映像の関係ではないが、そこには新鮮な「何?」が必ずあり、我々のイマジネーションを駆り立てるのである。

次回は「アバター」を通してエンターテインメント映画での音楽を検証する。

(日本経済新聞(夕刊)2010年(平成22年)4月15日付 夕刊文化 より)

 

 

音楽と映像の微妙な関係 4

「アバター」を見た。監督自ら”もののけ姫”を参考にしたシーンもあると発言していたが、僕は”ラピュタ”も参考にしたと思う。雲間から見たナヴィの国は間違いなく天空の城と同じカットだった。ジェームズ・キャメロン監督はおそらく宮崎さん(宮崎駿監督)に尊敬の気持ちを込めて引用したのだろう。

彼の特徴は「ターミネーター」のロボットや「エイリアン2」の地球外生物に感情移入させることができる演出にある。「アバター」のキャラクターも最初は気が引けたがすぐ感情移入できた。では大ヒットした「タイタニック」にそういう存在はあったか? 船です、タイタニック号自体がその役目をしていた。

ドラマ設定の時間と空間が多重になっていることも良い。主人公ジェイクの現実世界と彼がシンクロするアバターが活躍する国の二重構造があり、最初はそれぞれ別のシークエンスになっているが徐々に接近し、最後はそれが一つになりクライマックスになる。これはうまい。「ターミネーター」でも時間軸を捻った同じ構造がみられる。

ただし登場人物は善と悪がはっきりしすぎていてドラマが平板。対立構造はわかりやすいが深みが感じられない。典型的なハリウッド映画だ。

「アバター」を見終えた感想は、そんな単純構造を捨てて映画を作り続ける宮崎さんの世界はいかにクオリティーが高いかということだった。

 

大衆性と芸術 共存めざせ

音楽はジェームズ・ホーナー、前回登場したジェルジ・リゲティに英国で師事する。スコットランド的などこか懐かしいメロディーラインと節度のあるオーケストレーションがいい。

2時間42分の映画のほとんどに音楽が付いているので、前回までのように全部で何曲というように数えられない。エンターテインメント映画の宿命か。こういう鳴りっぱなしの場合は音楽密度を薄くし劇と馴染ませる工夫がいる。逆に音楽が少ない場合は瞬間の凝縮力(音の厚さではなく)が要求されるわけで、どちらも難しさは変わらない。

ナヴィの住む国のテーマは耳に残るが、「ターミネーター」のパーカッションと「タイタニック」のメロディーを合わせたような音楽は新鮮味に欠ける。一番気になったのはナヴィの世界のコーラス(これは状況内音楽)がエキゾティズムを出すため第三世界、特にアフリカ系の音楽をベースにしているのが音楽帝国主義のようで好きではない。

エンターテインメント映画の場合、ストーリーで引っ張るケースが多いので音楽はそれに寄り添うしかなく、場面チェンジでの音合せが多くなる。それぞれのシーン(状況)と主人公(感情)に音楽を対立させるようなこともあまりできない。早い話が「スター・ウォーズ」のダースベイダーのテーマのように登場人物に付けることも多い。だからここには「音楽と映像の微妙な関係」は存在しない。

大勢の人に楽しんでもらうことがエンターテインメント映画の主な目的だが、多くの映画人はそれで終わらせず、何か一つ心に響くものを見る人に伝えたいと思っている。音楽も全く同じで、映像の制約の中で作品性を追求する。前回書いたわかりやすい(大衆性)ということと芸術性は共存することができるのではないか?と僕は考える。その答えを探しつつ、とりあえず今は中国映画の音楽を書いている。

(日本経済新聞(夕刊)2010年(平成22年)4月22日付 夕刊文化 より)

 

 

Related page:

 

Blog. 「クラシック プレミアム 34 ~リスト ピアノ作品集~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/4/20

クラシックプレミアム第34巻は、リストです。

誰もが耳にしたことがある「愛の夢」から、村上春樹の長編小説でも一躍脚光を浴びた「巡礼の年」など、リストのピアノの世界へひきこまれていきます。

ピアノだけの音色とは思えないほどの色彩豊かな世界、そして一人で弾いているとは思えない難易度の高い楽曲の数々。リストの魅力は、そういった超絶技巧を駆使したなかにも、しっかりと聴かせる、心に響く旋律があるところでしょうか。

 

【収録曲】
《パガニーニによる大練習曲》 LW-A173 (S141) より 第3曲 〈ラ・カンパネラ〉
《愛の夢》 LW-A103 (S541) 第3番 変イ長調
ホルヘ・ボレット(ピアノ)
録音/1982年

《ハンガリー狂詩曲集》 LW-A132 (S244) 第6番 変ニ長調
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
録音/1960年

《超絶技巧練習曲集》 LW-A172 (S139) 第5番 〈鬼火〉・第8番 〈死霊の狩り〉
ホルヘ・ボレット(ピアノ)
録音/1985年

《3つの演奏会用練習曲》 LW-A118 (S144) 第3曲 〈ため息〉
《2つの演奏会用練習曲》 LW-A218 (S145) 第1曲 〈森のざわめき〉
ホルヘ・ボレット(ピアノ)
録音/1978年

《巡礼の年 第1年 スイス》 LW-A159 (S160) より
第4曲 〈泉のほとりで〉・第8曲 〈ノスタルジア〉
ラザール・ベルマン(ピアノ)
録音/1977年

《巡礼の年 第2年 イタリア》 LW-A55 (S161) より
第5曲 〈ペトラルカのソネット 第104番〉
《巡礼の年 第3年》 LW-A283 (S163) より
第4曲 〈エステ荘の噴水〉

アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)
録音/1986年、1979年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第33回は、
クラシックは演奏するたび新しい発見がある

前号ではクラシック音楽を指揮する久石譲が指揮者としてのあれこれや体験談をまじえた内容でした。今号でもその続きとなるわけですが、2015年今年初のコンサートとなった台湾(台北/台南)でのコンサート舞台裏を垣間見ることができます。演奏プログラムでもあった「ショスタコービッチ:交響曲 第5番 ニ短調 作品47」についての考察もめぐります。

一部抜粋してご紹介します。

 

「台湾でショスタコーヴィチ作曲の交響曲第5番を指揮した。2月の終わりで中華圏では旧正月明けの華やいだ時期だった。台北と台南の2回公演だったが、おかげさまでチケットは両日とも即日完売。台南はホールの外でもスクリーンを設置し、約1万人以上の人が詰めかけた、ロックコンサートでもないのに。実は昨年の5月もそこでコンサートを行ったのだが、同じく数万人の人が押し寄せた。もちろん台湾でも異例なことだ。ただそのときはベートーヴェンの第9交響曲だったのでまだわかるが(それもよく考えると何だか変だが)、ショスタコーヴィチと僕の曲でこれほど人が詰めかけるとは、僕自身が驚いている。ちなみに台湾は世界の名だたるオーケストラのツアーサーキットに入っていて観客の耳は肥えている。その観客はとても素直で熱心に聴いてくれて、オーケストラ(国家交響楽団)と僕はかなりハイテンションの演奏ができた。」

「もう一つ、忘れられない出来事!それはコンサートが終わってから駅までパトカーに先導されて移動したこと。去年、人が大勢出過ぎて交通渋滞を起こし、共演したウィーンの合唱団の人たちが危うく列車に乗り遅れるところだった。その反省からか今回はパトカーが待機。コンサート終了を待って、駅まで誘導していただいたのである。」

「だいぶ脱線したが、台湾では音楽家としてパトカー先導されたのだからこれはちょっとうれしい。だから駅に着いてから運転していた警察官たちと記念写真を撮った。もちろん頼まれたからではあるが。」

「ショスタコーヴィチの交響曲第5番は、前回、読売日本交響楽団と演奏したのだが(これは当時の「深夜の音楽会」という番組でオンエアされた)、そのときより僕自身だいぶ進化し、全体のテンポ設計や、細部の表現、何よりも何が行いたいのかより明確にオーケストラに伝えられたのではないか、と思っている。」

「そして一番わかったことは「革命」というタイトルを持つこの楽曲が(これは日本だけでしか呼ばれていない)、実はとてつもなく暗く、表の表現とはかけ離れているところにショスタコーヴィチ本人はいたということだ。つまり苦悩から歓喜へ、闘争から勝利へ、というベートーヴェンの第5番、第9番やマーラーの第5番交響曲と同じ図式に従って全体は構成しているが決して歓喜でも勝利でもないのである。表面上をそうすることで党から睨まれている状況から脱出したが、本人の心はいたってクール、冷めて見ているのがよくわかった。だからといってこの楽曲を適当に書いたのではなくて、むしろ裏に託した批判の精神、孤独などが痛いほど僕には感じられた。だから第4楽章ラストのテンポは色々議論の的なのだが、これは遅ければ遅いほどよいというのが僕の結論。凱旋パレードのように華やかに盛り上げるのは以ての外。まるであたりを埋め尽くしている戦車軍団がゆっくり進軍していくようなA音(ラ)の連打がここの決め手になる。もちろんこれは僕の考えで、人に押し付けられるものではない。やはりクラシックは演奏するたびに新しい発見がある。」

「そういえば僕の指揮の師でもある秋山和慶先生はベートーヴェンの第9番をなんと400回以上指揮されたと伺った。恐るべし、と言いたいのだが、もっと凄いことを先生は仰った。「これだけ演奏してもまだ毎回新しい発見があるんだよね、それで頑張ろうと……」 やはり、クラシック音楽は奥が深い。」

 

 

ショスタコーヴィチの交響曲第5番は、ムラヴィンスキー指揮やレナード・バーンスタイン指揮などで名盤があります。うえのふたつはどちらもライブ録音(しかも東京公演)が、よくレビューなどで話題にあがっています。もちろんエッセイにもあるようにテンポのことでもいろんな感想など。

気に入ったクラシック音楽に出会えたときに、そういった聴き比べをしてみるのもおもしろいですね。明らかに「これが同じ楽曲とは思えない!」という感動に出逢えるときがあります。

 

また、2月に開催された台湾公演での、セットリスト(アンコールまで)、および久石譲も語っていたその”熱狂的な様子”は現地写真付で公開しています。

こちら ⇒ Info. 2015/02/27 《速報》 久石譲 「世紀音樂大師-久石譲」 台北コンサート プログラム

 

そうこうしているうちに、2015年日本での久石譲の熱い夏がやってきそうです!

 

クラシックプレミアム 34 リスト

 

Blog. 「NHK SWITCH インタビュー 達人達 久石譲×吉岡徳仁」 番組内容紹介

Posted on 2015/4/10

2014年3月8日放送 NHK Eテレ「SWITCH インタビュー 達人達(たち) 久石譲×吉岡徳仁 ~考える音 感じる形~」

最近ではあまりテレビ番組に出演しない久石譲だけに、こういった特集を組まれた番組はすごく貴重な放送でした。放送から約1年以上が経過しようとしていますが、ようやくまとめることができましたので保存版として。

 

なにを書きとめておきたかったというと

久石譲のインタビュー内容
久石譲の紹介のされかた(言葉)
久石譲の紹介のされかた(音楽)

 

長年ファンをやっていますと、どうもある意味で感覚が普通ではないところもあり、一般的に皆さんが見るテレビ番組などで久石譲が紹介されるとき、どういう肩書や紹介で言われるんだろう?どの音楽がピックアップして紹介されるんだろう?という感覚のバランスというものを確認したいところもあります。

番組プログラムの流れにそって要点をご紹介します。(久石譲を軸にしていますので、対談お相手の吉岡徳仁さんについては割愛しています。予めご了承ください。)

 

 

 

久石譲紹介(ナレーション)
大人から子どもまでジブリ映画の音楽は誰もが知っている。宮崎駿監督最新作「風立ちぬ」まで30年にわたりその世界を音楽で支えてきた男、作曲家久石譲。宮崎駿は語っている。「自分たちの作品にふさわしい才能を探していくと、いつも久石さんに辿りつく」これまで久石が手がけた映画は70本以上、作った曲は数千曲に及ぶ。

*ジブリ武道館コンサート(2008年)の映像やトゥーランドット・ピアノ曲BGMにて

SWITCH 達人達 久石譲 1

 

【東京都現代美術館にて】

吉岡徳仁が久石に興味をもつ理由
音楽は人の感情に直接訴えかけるもの。僕もそのようなデザインをやってみたい。人間の感覚というものに興味がある。久石さんのクリエイションをみると、人間の感情とかがそういったものにリンクしているんじゃないかなあと。

久石譲が吉岡に興味をもつ理由
デザインは発注があってしか成立しない。その中でぎりぎり自分のアート性を出す。作品のアイデンティティを追究するわけだから。すると当然思い通りにいかないこともいっぱいある。それは僕らがやっている映画も一緒。そういうところを見てみたい。

 

SWITCH 達人達 久石譲 2

 

時間軸と空間軸の話
音楽は時間軸と空間軸のなかにつくる。時間軸の構造をもつものは論理的である。音楽は「ド」だけでは意味がなく「ドレミ」とか「ドミソ」などと続けて初めて意味を持つ。音が連なるためには時間の経過がいる。だから論理性が成立する。一方絵画などは空間軸のうえに成り立っている。ビジュアル系は時間の経過が絶対必要ではない。ところがそのなかでフェルメールなんかは、左から当たってくる光、時間を感じさせる。時間の観念を持っている作品はすごくいいなといつも思う。

 

このあたりのことは自身の著書や、雑誌クラシックプレミアム内エッセイなどでも、よく語られています。

参考1)

「「音楽は時間軸と空間軸の上に作られた建築物である──久石譲」なんてね。」

「時間が絡むと、そこには論理的な構造が成立する。つまり言葉は「あ」だけでは意味がなく「あした」とか「あなた」などと続いて初めて意味を持つ。その場合、どうしても「あした」と読むために時間経過が必要である。このように時間軸上の前後で関係性が決まるものは論理的構造をもつ。音楽でも「ド」だけでは意味がなく「ドレミ」とか「ドミソ」などと続けて初めて意味を持つ。だからこれも論理性が成立する。」

「一方、絵画は論理的構造を持たない。絵を観るのに時間がかかったというのは本人の問題であって表現自体に時間的経過は必要ない。よって絵画は論理的構造を持たない。「百聞は一見に如かず」。見えちゃうんだからしょうがないだろうということはやはり論理性は感じられない。断っておくが絵が単純だと言っているわけではない。だからこそ論理を超えた体感という何かを感じるわけだ。」

Blog. 「クラシック プレミアム 22 ~メンデルスゾーン / シューマン~」(CDマガジン) レビュー より)

 

参考2)

「音楽を構成する要素は小学校で習ったとおり、メロディー(旋律)、ハーモニー(和音)、リズムの3要素だ。座標軸で考えるととてもわかりやすいのだが、横のラインが時間軸、縦のラインが空間軸となる。リズムというのは刻んでいくので時間の上で成り立ち、ハーモニーは響きなのでそれぞれの瞬間を輪切りで捉える、いわば空間把握だ。そしてメロディーはと言えば時間軸と空間軸の中で作られたものの記憶装置である。時間軸上の産物であるリズムと空間の産物であるハーモニー、それを一致させるための認識経路として、メロディーという記憶装置があるわけだ。そしてこれはあらゆる音楽に適合する。例えばあの難解な現代音楽にも当てはまる。不協和音や特殊奏法も響きとしての空間処理であるし、十何連音符のような細かいパッセージも聴き取りやすいリズムではないが時間軸上でのことであるし、覚えやすいメロディーではないとしても基本の音形や何がしかの手がかりがあるし、セリー(十二音列)などでもやはり時間と空間軸の上での記憶装置にはなっている(もちろんわかりにくいが)。そして多くの現代音楽が脳化社会のように込み入ってしまって、本来メロディーが持つ説得力やリズムの力強さ、心に染み入るハーモニーなどを捨て去ったために、力を失ったことは歴史が証明している。今こそ音楽の原点を見直し、多くの人たちに聴いてもらえる「現代の音楽」を必要とする時がきたのである。」

Blog. 「クラシック プレミアム 30 ~ストラヴィンスキー / プロコフィエフ~」(CDマガジン) レビュー より)

 

 

久石譲作品『フェルメール&エッシャー』紹介(ナレーション)
久石がフェルメールの作品を手がかりに作曲した音楽。時を閉じ込めたような絵画に、久石の音楽が共鳴する。(ナレーション)

*BGM「Sense of the Light」

Disc. 久石譲 『フェルメール&エッシャー Vermeer & Escher』

 

スイッチ フェルメール

 

 

発注とやりたいことの話
デザインの仕事って、僕らの映画音楽とかも一緒で、クライアントがあって発注があってからしか成立しない。見えない闘いがある。その中であるクオリティを保っていくのはすごく大変なこと。そういうときに実験的な精神を忘れたら終わってしまう。逆に、発注をうけてそれ用に書いたりしていない。そのときにやりたいものを強引に合わていくことがある。つまり、自分がいま書きたいものと発注をすりあわせていく。

 

このあたりのこと、雑誌インタビューでも詳しく語られています。

参考3)

「アーティストというのは、モーツァルトだってハイドンだって、発注があってしか書いていないんです。発注なしで作っていたのは、シューベルトとプーランクくらいじゃないかな。「浮かんだら書く」なんてそんな呑気な話はありません(笑)。」

「依頼は、作品をつくる手がかりにもなります。「お金がない」と言われたらオーケストラではなく小編成にするし、「アクション映画だ」と言われたらラブロマンスみたいな曲を書くわけにはいかない。このように、どんどん限定されていきますよね。そういった制約は決してネガティブなことではなく、「何を書かなければいけないか」ということがより鮮明に見えてくるだけなので、僕は気にしていません。」

「大事なのは、映画のために書いているふりをして、実は本当に映画のためだけではないこと。つまり、自分がいま書きたいものと発注をすりあわせていくんです。アーティストが書きたいと思っているものでなければ、人は喜んでくれない。いま自分が良いなと思っている音楽の在り方──それは幅広いジャンルにあるので、その中で、いま発注の来ている仕事と自分の良いと思うものとを照らし合わせるんです。」

Blog. 久石譲 『WORKS IV』 発売記念インタビュー リアルサウンドより より)

 

【吉岡徳仁作品「虹の教会」にて】

スイッチ 虹の教会

 

何かを連想しませんか?

そうこの2014年3月放送のTV対談を経て、同年10月に発表された久石譲『WORKS IV -Dream of W.D.O.-』には、吉岡徳仁さんの”The Gate”に一目惚れした久石譲がメインデザインに熱望したというCDジャケットが使用されています。

 

久石譲 WORKS IV

Disc. 久石譲 『WORKS IV -Dream of W.D.O.-』

 

なにがきっかけで、どんなコラボが実現するのかわかりませんね。分野は違えど、アートの世界も一期一会、共鳴しあっている結晶です。

以上、余談でした。

 

 

感覚は信じない
人間の感覚ほどあてにならないものはない。僕は感覚を信じない。まったく信じないというより、最後の最後では信じるんだが、過程では信じることはない。人間はたえず変わっていく。変わっていく人間の感覚なんてあてにならない。

たとえば朝起きてコーヒーをいれたら寝起きなんだけどピアノを弾く。大体1ヶ月くらい同じ曲を弾く。それをクイックっていう…テンポを出すやつをかけながらやる。そうすると何か今日はすごく遅く感じたりするわけ。すごく疲れてた時はテンポを上げたくなるから遅く感じるんだ。毎日違う。要するに、同じ曲で同じテンポで物理的に何も変わってないのに、こちらの感覚は毎日変化している。その感覚をあてにしながら観客相手にコンサートなんてできない。そうするとどうするか? 徹底的に自分を鍛えるしかない。鍛え方としては、どんな時でも同じテンポで弾けるようにしなければならない。

 

SWITCH 達人達 久石譲 3

 

脚本家のタイプ
映画の脚本家は2タイプいる。全体のストーリーを決めてそのストーリーに合わせて人物を動かしていく脚本家。もう一方は全くストーリーを決めてなくて、最初にシーンだけ浮かべて、そこから考えていく。最終的にストーリーなんて後からくっつけりゃあいいと。後者の脚本家の方が面白い。なぜなら、人物が生きているから。「偶然性を取り入れてるからですかね」(という吉岡さんのあいの手に)、だと思う。

 

95%は論理的、残りの5%が感覚
「夕日をイメージして作曲したんですか?」みたいなまねは死んでもしない。冗談じゃないよと。こっちが書いたものがよければ、それがちゃんと構成されていれば、そこから朝焼けを感じる人も夕焼けを感じる人もいる。こっちがイメージを押し付けるのは一番よくない。極力フラットに書く。感覚(的)だと思っていることの95%は論理的に解明できる。ただ残り5%ができない。その残りの5%を指して感覚と言いたい。

 

SWITCH 達人達 久石譲 4

 

 

これはもう名言、有名な久石譲語録に入るものなのですが、自身の著書にも詳しく書かれていますし、インタビューでもよく出てきます。

参考4)

久石によると「作曲の95%はテクニック」だ。95%までは理詰めで緻密に構築していく。残りの5%は、いわば直感の領分。論理を超えた何かを掴むまで自分を追い込み、まだ形にならないアイデアを頭の底に泳がせておく。すると思わぬところでブンと、たとえばトレイや布団の中でメロディや音の形が浮かぶ。その後は95%の枝葉をばっさり切ったり、1音の上げ下げに何日も悩んだり、あらゆる試行錯誤を繰り返し、「これだ」と確信できてはじめて曲の誕生となる。2週間徹夜することもざらである。それだけの複雑を経由して久石はようやく自分の「シンプル」を手に入れるのだった。

作家性にこだわる人だ。「悪人」(2010年)で久石の胸を借りた監督の李相日は久石とがっぷり組んだ組み心地を「開きながらもプライドの高い方です」と語ってくれたが、そのプライドが彼の作家性である。「映像と音楽は対等」という構えを崩さない。注文通りの作曲なら95%ですむ。しかしそんな予定調和の仕事からは何のダイナミズムも生まれない。対等な関係で「監督のテーマをむき出しにする」のが彼の仕事であり、その作家性を担保しているのが彼の5%だった。

Blog. 久石譲 雑誌「AERA」(2010.11.1号 No.48) インタビュー より)

 

参考5)

「感性に頼って書く人間はダメですね。2~3年は書けるかもしれないけれど、何十年もそれで走っていくわけにはいきません。自分が感覚だと思っているものの95%くらいは、言葉で解明できるものなんです。最後の5%に行き着いたら、はじめて感覚や感性を使っていい。しかし、いまは多くの人が出だしから感覚や感性が大事だという。それだけでやっているのは、僕に言わせると甘い。ムードでつくるのでなく、極力自分が生みだすものを客観視するために、物事を論理的に見る必要があります。」

「そうですね。とはいえ、言葉で説明できる段階というのは、まだ作曲にならないんです。無意識のところまでいかないと、作品化するのは難しい。ある程度はつくっているけどピンと来ない、ほぼできているけど納得できない…というものが、一音変えただけでこれだ!という曲もあるし、どこまでやっても上手くいかないから、ゼロからもう一度、という場合もある。「残りの5%」のような解明できないところ、つまり無意識の領域にまでいかないと、作品にするのは難しいです。」

Blog. 久石譲 『WORKS IV』 発売記念インタビュー リアルサウンドより より)

 

参考6)

「話が脱線した。もう一度昨日の自分と今日の自分について考える。僕の場合は同じではないという認識で行動する。例えば毎朝起きたらまずピアノを弾く。目的は2つ。この起き上がりの意識がまだボーッとした状態は、コンサートで弾くときの様々なマイナス要因(緊張したり体調が悪かったり)を抱えた状態と同じと考えるから、その状態できちんと弾けたら、コンサートでほとんど問題は起きない。2つ目はいつもと同じテンポで弾いているかどうかの確認だ。これはクリック音に合わせて弾くのだが、同じテンポなのに日によって速く感じる自分と、遅く感じる自分がいる。遅く感じる場合は明らかに速く弾きたいからそう思うのであり、主に寝不足のときや精神状態が良くない場合が多い。速く感じる場合はその曲が身体に入っていないか、まだ身体が眠っているのか(笑)。いずれにせよ昨日の自分と今日の自分は違うのである。」

Blog. 「クラシック プレミアム 24 ~ベートーヴェン5~」(CDマガジン) レビュー より)

 

 

久石譲紹介(ナレーション)

(この時点で一番新しいNHK番組の音楽担当作品から)

スイッチ イカ

Disc. 久石譲 『NHKスペシャル 深海の巨大生物 オリジナル・サウンドトラック』

 

北野武監督をはじめ国内外の監督たちとタッグを組んできた。

*BGM「Summer」 および映画「菊次郎の夏」より本編映像

EXILEのATSUSHIが歌う「懺悔」。去年東京国立博物館で開催された特別展「京都」の公式テーマソングとして作曲したものだ。

*BGM「懺悔」 およびPV映像

映画にドラマ、CMまで、感動を生み出すために久石はどのように音楽と向き合っているのか。今度は吉岡が久石マジックの秘密に迫る。(ナレーション)

*過去NHK出演番組より「Oriental Wind」の演奏シーンにのせて

 

スイッチ 伊右衛門 Oriental wind

 

 

プレッシャー
あの監督とできたら別の刺激が来るんじゃないか。新しい自分の何かが出てくるんじゃないか。そこがやってて一番おもしろいところ。プレッシャーはたしかにある、だけど自分は制約があるほうが発想のとっかかりになることがある。

 

このことについても例え話をまじえてよく語られています。

参考7)

「僕はソロでの活動も行っているが、その楽しさは映画音楽のそれとは大きく異る。ソロ活動は広いサッカー場に一人で佇んでいるようなもので、何の制約も受けないが、すべての判断を自分で下さなければならない。ところが、映画では座の中心に監督がいて、その意見は絶対だ。周囲には多くのスタッフがおり、音楽もさまざまな制約を余儀なくされる。しかし、彼らと時に激しく意見の交換をするうち、予定調和に終わらない、思わぬ発想を得ることもしばしばである。そこに共同作業ならではの面白さを感じるのだ。」

Blog. 「文藝春秋 2008年10月号」「ポニョ」が閃いた瞬間 久石譲 より)

 

参考8)

「映画やドラマの音楽は制約の中で作ります。台詞や効果音があり、尺も意識しなくてはいけません。さらに、厳しい締め切りもあります。ただし、こうしたシバリは必ずしも作品にマイナスではありません。たとえば、大平原で、自由に遊びなさい、と言われたとしましょう。ほとんどの人はどうしていいかわからなくなるはずです。でも、テニスコートで、ボールをひとつ渡されて、仲間が3人いたら、いろいろな楽しみ方ができる。それと同じです。多少なりとも制限があったほうが、発想は広がることもあります。」

Blog. 久石譲 『WORKS IV』 クロワッサン 2014年11月10日号 インタビュー内容 より)

 

参考9)

「普段、ひとりで音楽をやっている時は、他人の意見が介入してくると音楽が成立しなくなる可能性が出てきます。ところが映画音楽の場合は、幸運なことに、発想の基準は常に監督の頭の中にある、というのが僕の考えです。特に、映画は監督に帰属するという意識が強い邦画の場合は、そうですね。例えば、僕らが映画音楽を書く場合、その期間は長くて半年か1年くらいです。ところが監督に関しては、その人が職業監督でない限り、自分で台本を書く場合にせよ、脚本家に注文をつけながら撮影稿を練っていく場合にせよ、ひとつの作品にだいたい2、3年の時間を費やすわけです。それだけの時間をかけた強い思いが、監督の頭の中にある。その意図を考えながら作曲していくというのが、僕のスタンスですね。監督から注文されたことに対し、明らかにそれは違うと感じた場合は意見を申し上げますけど、それ以外は、監督の意図を自分なりに掴み、音楽的にそれを解決しようと努力します。すると、ひとりで音楽をやっている時には予想もつかなかった、新たな自分が出てくるんですよ。『俺にはこういう表現ができるんだ』という。もっとダークなやり方でも音楽がいけそうだとか、メインテーマさえしっかり書いておけば、30曲あるうちの5、6曲は実験しても大丈夫そうだ、といったことが見えてきます。そういう意味で、映画音楽というのは、普段気になっている方法を実験する機会を監督に与えていただく場所でもあるのです。自分にとっては、非常に理想的なスタンスですね」

Blog. 「オールタイム・ベスト 映画遺産 映画音楽篇 」(キネ旬ムック) 久石譲 インタビュー内容 より)

 

 

アイデア
最初に話しているときに、アイデアが浮かぶ仕事は幸せ。映画『崖の上のポニョ』のときは最初の打ち合わせのときにメロディが浮かんだ。そしてそのメロディーは最後までそのままだった。

 

この逸話も有名ですね。

参考10)

「宮崎監督との最初の打ち合わせを思い出す。台本の裏側に五線譜を引き、あの旋律を残した。しかし僕はこのメロディをいったん忘れ、しばらく寝かせておくことにした。本当にこれが主題歌にふさわしいのか自信がなかったし、いろいろな可能性を検討してみたかったからだ。情感豊かなバラードはどうかと考えてみたり、二ヶ月ほど試行錯誤を繰り返した。しかし、最初に閃いたあの旋律が一番だという結論に至った。」

「ソーミ、ドーソソソの六音からなるこのフレーズは単純だけれども、だからこそさまざまにアレンジすることができる。この機能性は映画音楽では最高の武器だ。困ったらこのメロディに戻ればいいわけで、水戸黄門の印籠のようなものである。この瞬間、迷いは霧散した。」

「僕はこれまで50本を超える映画音楽を担当し、多くの監督と仕事をしているが、第一感がベストだったというケースが結果的には多い。」

Blog. 「文藝春秋 2008年10月号」「ポニョ」が閃いた瞬間 久石譲 より)

 

参考11)

「4年ぶりの『ハウル(の動く城)』以来の作品で、今回音楽をやるのにとても緊張していたんですが、絵コンテのA・Bパートを見せてもらった段階で、最初の打ち合わせの時にもうこのテーマのサビが浮かんできました。あまりにもシンプルで単純なものですから、これはちょっと笑われちゃうかなと思って、2~3ヶ月くらい寝かしたんですけど、やはりそのメロディーが良いなと思って、思い切って宮崎さんに聴いてもらったところ、「このシンプルさが一番いいんじゃないですか」ということで。結構、出足は非常にスムースです。「出足は」ということろを強調している理由ですが(笑)、来年の8月までまだまだ時間があって、3つか4つくらい山がくるだろうと思いつつ、今のところ年は越せそうだと思っています。そういう状況です。」

Blog. 久石譲 「崖の上のポニョ」 インタビュー ロマンアルバムより より)

 

 

久石譲スコア(ナレーション)
久石が他人にはめったに見せることがないという自分用の楽譜。宮崎駿監督の最新作『風立ちぬ』のレコーディングに使ったものだ。

大正から昭和へ、日本が戦争へ突き進んでいった時代。「風立ちぬ」は零戦を設計した天才技師堀越二郎が主人公。飛行機づくりへの夢と挫折、後に妻となる女性との出逢いと別れ。久石は音楽の制作に1年2ヶ月を費やした。(ナレーション)

*BGM「旅路(夢中飛行)」 映画「風立ちぬ」プロモーション映像にのせて

スイッチ スコア

 

映画音楽の制作について
最初にメインテーマを考えるほうが多い。人間でいうと顔の部分にあたるから。これが明確じゃないと。苦しいんだけどメインテーマをあげておかないと全体の構成なんて。軸がないと全体が見えない。

 

映画「風立ちぬ」のメインテーマについて(ナレーション)
「風立ちぬ」の冒頭、主人公の堀越少年が夢のなかで空を飛ぶシーン。久石は当初このメインテーマをフルオーケストラで作曲した。しかし収録直前宮崎が「夢の中の話だから、もっとシンプルな小編成がよい」と言い出した。久石はロシアの民族楽器バラライカを主軸とした音楽に書き換える。このメインテーマが映画全体の世界観を決定づけることになった。(ナレーション)

 

スイッチ 風立ちぬ メインテーマ

 

監督について
監督が持っている生理的なテンポってすごく大事。それが映画全体のテンポになる。これと自分が書く音楽が一致していかないと、なにやってもうまくなじまない。話をして台本を見て、どういう世界観をつくっていくか、そういった考える時間が僕はすごく必要。

 

映画音楽の制作について 2
通常の映画音楽は登場人物の気持ちを説明する、状況を説明する。僕はそれを両方やらない、やりたくない。そんなの映像見ればいいだろっていう話で、興味ない。登場人物とどのくらい距離をとったところで、音楽が観客の間でどこに位置するか。そういうことを考えてるんですよ。

映画音楽は、映画のなかでもっともウソくさい。例えば、恋を語っている時に現実に音楽が流れるわけがない。流れるわけがないウソを映画音楽はやっている。もっともフィクション。映画自体はフィクションなわけで、そのなかでフィクションである映画音楽がもっとも映画的とも言える。その代わり、使い方を間違うと超陳腐になる。

 

ここも詳しく紐解く文献が多数あります。

参考12)

「まずは、オーケストラを小さな編成にしたことです。宮崎さんも「大きくない編成が良い」と一貫して言っていました。それから鈴木プロデューサーから出たアイデアで、ロシアのバラライカやバヤンなどの民族楽器や、アコーディオンやギターといった、いわゆるオーケストラ的ではない音をフィーチャーしたことです。それによっても、今までとは違う世界観を作り出せたんじゃないかと思います。」

「オープニング曲は、飛行機が飛び立つまでは、ピアノがちょっと入るくらいで、あとは民族楽器だけです。大作映画では、頭からオーケストラでドンと行きたくなりますけど、それを抑えたのが凄く良かったですね。二郎の夢の中なので、空を飛んだとしても派手なものになるわけではないと、宮崎さんは言っていましたし、僕としても、観る人の心を掴むオープニングに出来たと思っています。この曲があったから、映画全体の音楽が「行ける!」と感じました。」

Blog. 久石譲 「風立ちぬ」 インタビュー ロマンアルバムより より)

 

参考13)

「これは非常に重要なところなんですが、高畑さんから持ち出された注文というのが「一切、登場人物の気持ちを表現しないでほしい」「状況に付けないでほしい」「観客の気持ちを煽らないでほしい」ということでした。つまり、「一切感情に訴えかけてはいけない」というのが高畑さんとの最初の約束だったんです。禁じ手だらけでした(笑)。例えば「”生きる喜び”という曲を書いてほしいが、登場人物の気持ちを表現してはいけない」みないな。ですから、キャラクターの内面ということではなく、むしろそこから引いたところで音楽を付けなければならなかったんですね。俯瞰した位置にある音楽といってもいいです。高畑さんは僕が以前に手がけた『悪人』の音楽を気に入ってくださっていて、「『悪人』のような感じの距離の取り方で」と、ずっとおっしゃっていました。『悪人』も登場人物の気持ちを表現していませんからね。」

Blog. 久石譲 「かぐや姫の物語」 インタビュー ビジュアルガイドより より)

 

参考14)

「舞台やテレビとは違うところなのですが、例えば、Larkという銘柄が刻まれたライターでたばこに火をつけるとします。舞台だと、客席から舞台まで距離があるので「Larkのライターで、たばこに火をつけた」という台詞が必要です。テレビだとライターでたばこに火をつけるのは説明の必要がないのですが、銘柄は見えないので、それを言う必要がある。映画の場合は、大画面でしかもアップで映りますから一目ですべてが分かる。ですから、劇伴のように走るシーンでは速いテンポ、泣いたら哀しい音楽という場面の説明ではなく、一歩進んで哀しいシーンでも、妙に楽しい音楽をつけると、哀しさが増していくこともある。それは映画音楽的な表現です。私は映画的な表現と音楽の関係について常に考えながら作曲しています。」

Blog. 「モーストリー・クラシック 2007年9月号」 久石譲インタビュー内容 より)

 

参考15)

では、そんな久石の映画音楽の秘訣(ひけつ)はというと、「エンターテインメント性が強い作品はできるだけ音楽を多く、実写としてのリアルな作品には極力付けない」ことだという。それは「映画音楽は虚構中の虚構なんです。リアルなこの現実世界で、恋人とワインを飲んでいたからといって音楽は流れてくれないでしょう? 音楽は実際には見えない心情を語るのが得意な分野で、だからこそ、これほどうそくさいものはないと思うんですよ」という自身の哲学にのっとってのことだ。

「でも、映画自体がフィクションですから、僕は『一番映画的であるというのは、映画音楽だ』とも思っています」と話す久石からは、自身の仕事に対する誇りもうかがうことができた。

Blog. 「シネマトゥデイ」 久石譲 Webインタビュー内容 より)

 

 

映画「小さいおうち」紹介
(映画シーンを見ながらの対談)

最初の音楽が登場するのは冒頭から1分後だ。(ナレーション)

昭和と平成を生きていきたある女性の過程の物語。同時に昭和と平成を見てきた運命のテーマみたいなかたちで書いた曲。実はここはほかの音楽を書いたんだけれども、最終的に山田監督がやっぱりこれがいいということになり、非常にシンプルなピアノだけにした。(久石)

同じテーマが顔を出すのはさらに1分半が経過してからだ。(ナレーション)

もう1回同じテーマを出すわけですけども。少しずつビルドアップ(増殖)させてくるんだけれども、極力、音楽は入ったという印象を与えないようにやりたい。積み重ねていくことで、いつのまにかメロディーが通奏低音みたいに残るという方法をとった。(久石)

 

山田洋次監督インタビュー
映画音楽っていうのは、いい意味で画面を邪魔しちゃいけない。画面のなかからすーっと、気がついたら音楽が聴こえてくる、そんな入り方をする音楽が僕にとってのいい音楽。

たとえば女中のタキさんが坊っちゃんを背負って雨の日も風の日も治療院に通ったシーン。そういうところにも音楽が必要なんだけれども、どんな音楽か検討もつかないし久石さんに考えてくれって言ったら、とても軽やかなワルツ、懐かしいようなアコーディオンの響きでね。それはちょっと思いもかけない音楽でしたね。

タキという女中さんが、奥様の手紙を恋人に届けにいくという重要な場面。しかし同時にここは音楽的にもうんと膨らんでほしいと思っていた。例えばどんな音楽なんだろうなと思っていろいろな音楽をはめてみる。既成の音楽、ジャズからクラシックからボーカルまで。そして「こういうのだったら合うな」と思った音楽を実際に撮影セットでも流してみる。そこまでやって、久石さんに「この音楽だったら合うんですよ」というようなことを伝える。作曲者にそういうことを言うのは酷なことかもしれないけれど。しかし見事に久石さんはそれを消化してくれた。

 

久石譲紹介(ナレーション)
久石譲の名を一躍有名にしたのは1984年の「風の谷のナウシカ」。文明社会が崩壊して1000年後の物語に、久石の音楽が奥行きをあたえた。

*BGM「風の伝説」 および映画「風の谷のナウシカ」本編映像

久石の出発点は現代音楽だった。同じようなリズムの繰り返しのなかで、少しずつ和音がずれていく、ミニマル・ミュージック。

*BGM「MKWAJU」

久石の音楽には今でも前衛的な要素が散りばめられている。このCMもそのひとつ。(ナレーション)

*BGM「I will be」 および日産スカイランCM映像

 

 

久石譲スコア 2
実は20代なんかは「即興演奏の集団的管理」というのをやっていた。

良い音楽は絶対譜面が美しい。1ページが2ページ見たらだいたいその人の才能はわかる。

クラシック音楽の譜面、「第九」なんか70分かかるので譜面もすごく分厚い。それを作るのに何年かかったんだろうということになる。そうするとそのなかの(作曲家の)思考過程を見ている感じがする。僕は作曲家の目線でしか見ない。たとえば第1主題から第2主題へ移っていく譜面の流れを見ていくと、「あ、ここで詰まってるな」「あ、もうやりようがなくなっていったな」という目線で見ちゃうので、普通の方とはちょっと違うかもしれない。

 

久石譲紹介(ナレーション)
近年クラシック音楽の指揮に精力的に取り組んでいる久石。オリジナル曲「Orbis」は、ベートーヴェンの交響曲第9番に捧げる序曲として書き上げた。実はこの曲にもミニマル・ミュージックの実験的な手法が用いられている。久石の持ち味とベートーヴェンを研究した成果が結びついて生まれた曲だ。(ナレーション)

*BGM「Orbis」 コンサート演奏映像とともに

 

スイッチ オルビス

 

”いい音楽”の定義
養老孟司さんがおっしゃるには「長い年月を経て時間がたっても生き残るのがいい音楽だ」と。たしかにモーツァルトやベートーヴェンなど、長い時間を経て生き残った音楽があります。今それを自分が指揮すると、なんて自分が今書いている曲がつまんないもん書いてんだろう、といつも反省するから、永久に書き続けるしかないような気がしている。

シンプルな構造でものを言い切ることほど難しいことはない。例えば「運命」(ベートーヴェン)だって、「タタタターン」しかない。あれだけでできている。シンプル、それが一番強い。

そういうものを書いてみたい、それが僕の夢。

*BGM「Muse – um」 『フェルメール&エッシャー』収録

 

ここにも補足説明できるインタビューがあります。

参考16)

ミニマル音楽というのは最小限の音形を反復しながら微妙にズラしていく音楽だ。最初から最後まで主旋律がシンプルな四つの音だけで展開される「運命」が究極のミニマル音楽だというゆえんである。

「音楽にはたぶん、いい音楽とそうでない音楽しかないんですよ。いい音楽はシンプルです。ベートーヴェンは最大のキャッチーな作曲家ですね。タタタターンでしょ。彼の『運命』は究極のミニマル音楽です」

Blog. 久石譲 雑誌「AERA」(2010.11.1号 No.48) インタビュー より)

 

参考17)

「自作の《フィフス・ディメンション》は、ベートーヴェンの《運命》のリズム動機(有名なダダダダー)と音程を音列化し、ミニマル楽曲として作ろうとしたのだが、作曲していた最中に東日本大震災がおこり、それが影響したのか激しい不協和音とエモーショナルなリズムに満ちていて演奏がとても難しい。今回はさらに手を加えてより完成度を上げたのだが、難易度も計り知れないほど上がった。指揮していた僕が「この作曲家だけはやりたくない!」と何度も思った、本当に。」

Blog. 「クラシック プレミアム 6 ~モーツァルト2~」(CDマガジン) レビュー より)

 

参考18)

「最終的に僕が言いたいことは一点。クラシックが古典芸能になりつつあることへの危機感です。そうでなくするにはどうしたらいいかというと、”今日の音楽”をきちんと演奏することなのです。昔のものだけでなく、今日のもの。それをしなかったら、十年後、二十年後に何も残らない。前に養老孟司先生に尋ねたことがあります。「先生、いい音楽って何ですか」。すると、養老先生は一言で仰った。「時間がたっても残る音楽だ」と。」

「例えばベートーヴェンの時代、ベートーヴェンしかいなかったわけではない。何千、何万人とい作曲家がいて、ものすごい量を書いている。でも、ベートーヴェンの作品は生き残った。今の時代もすごい数の曲が書かれているけれど、未来につながるのはごくわずか。つまらないものをやると客が来なくなる。だが、やらなかったら古典芸能になってしまう。」

Blog. 「考える人 2014年秋号」(新潮社) 久石譲インタビュー内容 より)

 

 

最後に
今日吉岡さんの作品を見て、「もっと広げようかな」と思った。この辺の空間で、たとえばこのなかにあるものをたたくなり、こするなり、吹いたりして、それで映画1本やれと言われたら、僕やりますよ。

 

SWITCH 達人達 久石譲

 

 

【編集後記】
久石譲を語るうえでの代名詞、キーワードとなる作品や楽曲
*映画「風の谷のナウシカ」はじめスタジオジブリ作品
*映画「菊次郎の夏」はじめ北野武作品
*現代音楽/ミニマル・ミュージック/「Orbis」 etc
*作曲家/演奏家/指揮者
♪ 「Oriental Wind」サントリー京都福寿園 伊右衛門CM曲
♪ 「Summer」映画「菊次郎の夏」/ TOYOTA CM曲

他、放送当時直近で手がけた作品たちより
(映画/CM/コラボ楽曲/企画作品/NHK番組 etc)

 

 

『ジブリ』『宮崎駿』『北野武』『Summer』『Oriental Wind』やはりこれが久石譲の代名詞となっていることがよくわかりました。同時に、このNHK番組では久石譲の大衆性(エンターテイメント)だけでなく、芸術性(アート)な部分もバランスよく紹介してくれていました。

上の代名詞をもとにその大衆性で「あ、これね、久石譲の音楽ね」となるわけですが、そこに直近作品やオリジナル作品という芸術性(アート)で「あ、これも久石譲だったのか」「こんな曲もつくってるんだ」となります。

この両輪があって久石譲音楽の広がりと奥ゆきが生きてきます。そんなことを思った良質なTV特番「NHK SWITCH インタビュー 達人達」でした。

 

Blog. 「クラシック プレミアム 33 ~エルガー/ホルスト~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/4/5

クラシックプレミアム第33巻は、エルガーとホルストです。

どちらもイギリスを代表する作曲家で、それぞれ代表曲の「威風堂々」と「組曲 惑星」が特集されています。

 

【収録曲】
エルガー
行進曲 《威風堂々》 作品39
アンドレ・プレヴィン指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1985年

ホルスト
組曲 《惑星》 作品32
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
フィルハーモニア管弦楽団
モンテヴェルディ合唱団女声コーラス
録音/1994年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第32回は、
オーケストラに何をどのように伝えるか

今号でも、指揮者としてのあれこれが、興味深く語られています。

一部抜粋してご紹介します。

 

「音楽が音楽になる瞬間のことについて、前回書いた。指揮者はその瞬間のために、何をどのようにオーケストラに伝えたらいいのか、さらに考えてみたい。」

「まずは、伝える手段である言葉について。僕は、アジア・ツアーなどで海外のオーケストラを振ることもあるが、そんな時、音楽用語と片言の英語でほぼ伝わる。「モア・ピアノ(もっと弱く)」「ユー・ラッシュ(あなた、走っているよ)」……。カルロス・クライバーは《こうもり》序曲を指揮したとき、ある箇所でオーケストラに「この8分音符にはニコチンが足りない。タールや毒が必要だ」と言ったそうだが、クライバーのように文学的な人は話したほうがいいのだろう。僕の場合はとてもシンプルだ。」

「「これはこうで……」と、長いセンテンスで言葉を投げかけるのではなく、具体的な指示をする。作曲家としてクラシック音楽に向かって指揮をするので、その観点から端的に伝えていく。例えばメロディーラインのほかに、第2ヴァイオリンやヴィオラにこまかい音符が書いてあると、せっかく作曲家がここまで書いたのだから大切にしよう、立体的に作ろうと考える。だから多くの場合、メロディーを振るよりも内声部やリズムを整えるほうに神経を使う。」

「でも、こんなこともあった。僕の《World Dreams》という曲がある。朗々とメロディーが歌う曲だ。これを新日本フィルハーモニー交響楽団と録音していた時のこと。いい演奏だったのだが、もっとぐっと迫ってきてほしかった。そこでなぜこの曲を作ったのかという話をした。作曲当時、僕が脳裏に描いていたのは、2001年の9.11、飛行機が突っ込んだ世界貿易センタービルの映像と、戦争に巻き込まれた子供たちの飢えて泣いている顔だった。そうした悲惨な映像しか浮かんでこなかった。それをイメージしながら、いつか平和という「世界の夢」が果たせればという気持ちで作った曲だと話した。すると、オーケストラの音がまったく変わった。たしかに言葉は有効なのだ。」

「今度、久しぶりに、ショスタコーヴィチの交響曲第5番を指揮する。そこで、いろいろ勉強している最中なのだが、オーケストラに強弱やテンポのことばかり言っていると、音楽としていったい何をやりたいのかが伝わらないだろうなと痛感している。単純に強弱やテンポについてなら、楽譜にしっかり書いてあるわけだから、それを繰り返して指示したって「そんなことは言われなくてもわかっている」ということになる。しかも、第5番でいえば、金管楽器が全奏するある箇所で、全体としては大音量になるのだけれど、じつは各楽器で強弱記号が微妙に違っていたりする。そこで指揮者は、その楽譜の微妙な違いをきちんと把握したうえで、実際のオーケストラから出てくる音を冷静に聴きわけ、さらにオーケストラにどのような音楽を作っていきたいのかを示さなければならないのだ。ところが、どうしても即物的に、そこは抑えて、ここはもっと出して……となりがちだ。そうなると、音楽が伝わらない。ピアノの箇所で、いくら「ピアノで」と言ったところで何も伝わらない。ところが、「ここは甘い音ではないのです。ピアノでも、ロシアの厳しい大地のようにすべて冷たく」と言えば、オーケストラも、ああ、そういう音がほしいのかとなる。」

「この曲で何をしたいのかを伝えられずに、こまかいことだけを指示していくと、オーケストラは守りに入る。言われたとおりに、間違えないように……。そうなると音楽が音楽になる瞬間には辿りつけない。だからといって、こまかいことは一切言わなくていいというわけでもない。」

「例えば、ベートーヴェンの交響曲第9番第1楽章の冒頭。多くの指揮者の場合、ピアニッシモで抑えに抑えて、深淵から音が現れるように演奏するが、僕は第2ヴァイオリンとチェロが6連符を刻み続けるリズムを大事にしたいので、あまり弱くはしない。第2主題になるとだいたい遅くなるのだが、そこはどうしてもリズムをキープしたい、ソリッドな構造が見えるベートーヴェンにしたい。それは最初の練習の時にはっきり伝える。そうすると、オーケストラの奏者も、この指揮者は全体を通して何をやるたいのかが見えてくる。2日か3日のリハーサルしかない中で、極論すれば、指揮者は自分のやりたいことを最初の10分で伝えなければならない。」

「ところで、最近、指揮をするのが、ほんの少々だがつらくもなってきた。なぜなら、同じ曲でも初めてのときと2回目、3回目では出来上がりが全然違うのだ。1回目よりも2回目、2回目よりも3回目とよくなっていく。新たな発見もある。つまり、もっともっと膨大な時間が必要だと思い知ってしまったからだ!」

 

 

クラシックプレミアム 33 エルガー ホルスト

 

Blog. 「オトナの!格言」 鈴木敏夫×久石譲×藤巻直哉 対談内容紹介

Posted on 2015/4/2

TBSトークバラエティ番組「オトナの!」

関東ローカル番組ですが、2014年2月5,12,19日と3週間にわたって、トークゲストで鈴木敏夫、久石譲、藤巻直哉が登場しました。そして、2014年12月20日に、番組のゲストトークを集めた書籍が発売されています。

 

 

「オトナの! 格言 いとうせいこう×ユースケ・サンタマリアPresents」

各界を代表する23人による、今を生きる僕たちのための最新格言集!!「オトナとは…」をテーマに、仕事・芸術・生き様・サブカルについて、生きる達人たちが贈る、他では聞けない話の数々。クスッと笑えて、きっと人生の参考になること必至!!

【掲載人】
鈴木敏夫/久石譲/藤巻直哉/道尾秀介/森田恭通/本田直之/岸博幸/猪子寿之/西野亮廣/中村佑介/会田誠/枡野浩一/筒井康隆/みうらじゅん/杉作J太郎/劒樹人/吉田豪/カンニング竹山/高須光聖/坂口恭平/園子温/蜷川実花/紀里谷和明

 

 

この書籍のなかから、久石譲たちの対談内容をご紹介します。

なにせ3週分、全トークが文字起こしされたのかは番組を観れなかったためわかりませんが、結構なボリュームと濃密内容でした。そこから久石譲や音楽にまつわるエピソードだけを抜粋してご紹介します。とってだしの秘話やこの番組だけの話というよりも、鈴木敏夫さんの著書やポッドキャスト「ジブリ汗まみれ」などでも語られてきた、珠玉の秘話たちです。

もちろん「そうだったのか!」と新発見するそのときの経緯やお話も登場します。トークというその場の空気感や勢いもあってか、より話し言葉でリアルに当時の場面が浮かんでくる内容です。メディアインタビューで語っていることも多いです。そこには活字にするかしこまった感がある、でもここにはもっとフランクな、まんまの状況や言葉が伝わってくる。

久石譲が語ったジブリのこと、監督たちのこと、指揮者としてのこと、など、さかのぼっても1-2年前の話ですので、わりと旬な久石譲を垣間見ることができます。ジブリと久石譲、その30年の歴史を総括するような、そのときどきの重要なマイルストーンを発見できる対談内容です。

 

 

 

天才たちとシゴトをする
鈴木敏夫 × 久石譲 × 藤巻直哉

ジブリが大好きで、僕はプロデューサーの鈴木敏夫さんに長年お話を聞いてみたかった。いや当然宮崎駿監督にも高畑勲監督にもものすごくお会いしたいですが、僕が鈴木敏夫さんにすごく惹かれたのは、実は鈴木敏夫さんは最初は徳間書店の『週刊アサヒ芸能』の記者だったという経歴です。そのころアニメは全然詳しくない門外漢だったのにアニメ雑誌『アニメージュ』を創刊するにあたって、初めてアニメの世界に触れることになり、そこで宮崎駿さんと高畑勲さんに出会い、やがて皆でスタジオジブリを設立し、いまや数々のヒット作を生んだ日本一のアニメプロデューサー、その彼の遍歴にビジネスマンとしてプロデューサーとしてさらにひとりの男として、ものすごく興味が湧いたのです。

ジブリ作品は日本テレビが製作会社のひとつですし、なかなかご出演が叶わなかったのですが、何度か交渉した挙句、憧れのスタジオジブリにおじゃまして、ご本人に熱く僕の想いを語ると、『かぐや姫の物語』の公開のタイミングで出演を快諾いただけました。鈴木さんがそのときおっしゃっていたのは、実は日テレだと逆になかなか話せない裏話があるとのこと。それは日テレの氏家元会長とジブリのエピソードです。「それがTBSで話せますか?」。僕は即答しました。「はい、ぜひお話しください!僕はそれが聞きたいのです」。

一緒に出演する方は、鈴木さんがお話ししやすい方で……とお伝えすると、藤巻直哉さんのお名前が最初に挙がりました。でもすぐに「いや、藤巻さんと一緒だと話しやすいけど『オトナの!』出演のインパクトがないな(笑)。考えます」と言われ、すぐさま、なんと作曲家の久石譲さんのご出演をご自身でブッキングしてくださったのでした。さらに収録場所は、なんと恵比寿の鈴木さんの隠れ家、通称”れんが屋”。まさに鈴木プロデューサーご本人にプロデュースしていただいた収録になったのでした。

(2013年11月29日恵比寿にて収録)

 

鈴木:最悪の出会いが運命を変えた
徳間書店の編集者として、アニメーション雑誌『アニメージュ』を担当。宮崎駿が『カリオストロの城』を作り始めたばかりのときに、紹介したいので話を聞きたいと取材に行ったら、口をきいてくれないんですよ。「どうせ、いろんな作品を並べて紹介するんだろう、子供相手に。そんな雑誌に協力できるか!」と言われ、頭にきました。でも、言われっぱなしで帰ったら僕の負け。そばにあった椅子を持ってきて、彼の横に座りました。それでも彼は知らん顔。ヒドイ男でしょう。その日は午前4時まで、ずっといましたね。その間、彼も僕にひとことも口をきかず。まあ、宮さん(宮崎駿)は一生懸命、作業に没頭しているから、「帰れ」とも言いませんでした。

そんなんだから、初めて口をきいてもらったときのことは、よく覚えています。『カリオストロの城』にカーチェイスのシーンがあって、そのことについて質問してくれました。「車が競っていて、後ろの車が前の車を追い抜くことを専門用語で何ていうんですか?」と。「捲り(まくり)といいます」と同行した編集者が答えたら、「捲りっていうんですか。あぁ…」とつぶやきながら、シナリオの台詞に入れたんです。それが3日目のコト。そこからは、いろんなことをしゃべりだして、なんとなく毎日、会いに行くようになって。僕も途中からはそこに仕事を持ち込んで、原稿を書いたりしていて、気がついたら映画完成までつきあって……今日に至るわけです。

当時、僕は彼を「デキルやつだな」と思いましたが、彼は僕に対する第一印象を「胡散臭いヤツだ」と感じていたそうですよ(笑)。

 

鈴木:プロとしての意地の張り合いが縁を結ぶ
高畑勲との出会いは、宮さんのすこしあと。彼が『じゃりン子チエ』の制作中に、取材に行きました。この人も、一番最初の台詞をよく覚えているんですが、僕に「どうせあなたは」と言ったんです。

「どうせあなたは、『じゃりン子チエ』の原作を読んで、ここが良かったので、それを根拠にして映画を作っている……って、こんなような答えが聞きたいんだろう?」と因縁をつけられました。これまた、頭にきましたね。でも、そうは言いつつ、映画制作について3時間もしゃべってくれた。

僕も機嫌が良くなって、この人とはうまくやれそうだなと思っていたら、彼が突然「これを原稿にまとめるんですか?まとめられないでしょう」と。僕も「これが商売ですから、まとめますよ!」とムキになって、もちろん原稿を書いた。

そんなところから、つきあいが始まりました。

 

鈴木:一流の本質を見抜く、一流の眼
『風の谷のナウシカ』の作曲者を決めるとき、当時はまだ新進気鋭だった頃の久石譲さんを最終的に推したのは高畑さん。「久石さんの作る曲がいいのもさることながら、あの人には音楽的素地に加えて教養がある。いろんな曲を知っていると、映画音楽として助かるんだ」と言ったプロの意見を、いまでもよく覚えています。

 

久石:一つひとつ、丁寧につくる
映画音楽を作曲する際、まず、実写は台本を、アニメーションは絵コンテを読みます。どんなものを作るのかとイメージしつつ、監督とディスカッションをしながら作っていく。

一作品でだいたい30~40曲、作曲します。どのシーンにどんな曲を挿れるのかを構想するのと同様に、実は、シーンをどう切り取るかもとても重要。いまは長い曲を作って、その中から切り貼りしてはめていくような選曲スタイルもありますが、それでは嫌なんです。

一つひとつ、丁寧に作業するので、時間がかかりますね。

シーンや感情に合わせるようなものは作りません。だって、走っているシーンにテンポの速い音楽をかけるなんで、アホでしょう。たまにはやりますけど(笑)。

男女が見つめ合っていて、十分、好き同士だとわかるのに、「好きだ」という台詞を言わせ、「二人は好き合っている」というナレーションをかぶせて、ロマンティックな曲を要求されることもあるのですが(笑)。

基本は、画面を上塗りしても仕方ないのだから、泣いているシーンに悲しい音楽は必要ないと思います。観ている人に感じてもらうためには、表現しているものと同じことをしないほうがいい。

悲しいシーンに、あえて明るい音楽をつけると切なくなる。よりリアルさを出すための技法をふまえたうえで、そこまで計算した映画のための音楽にしたいと考えながら制作しています。

 

鈴木:最高の作品は、運も味方につける
『ナウシカ』と『天空の城ラピュタ』で、宮崎×久石の名コンビが世間にも認知された。どちらも音楽担当をしていた高畑さんは、「だから自分が映画を制作するときには、久石さんに音楽を頼むことはできない」と話していたんです。ところが、突如『かぐや姫の物語』の音楽は、久石さんにお願いしたいと言い出した。

当初、『風立ちぬ』との同日公開を目論んでいた僕は、困ってしまった。その両作を久石さんがやるのはどうかと。

そこで宮さんがどう思うかと話しに行きました。「久石さんもかぐや姫の音楽をやりたがってるし、高畑さんもお願いしたいと言っている」と。そういうとき、宮さんはすこしキレ気味に、決まってこう言うんです。

「そんなことは、久石さんが決めればいいんだ!俺の知ったこっちゃない」

このときもそう話した途端に、「久石さんやっちゃうよな~。マズイよ、鈴木さん。久石さんを阻止してよ。『風立ちぬ』だけでいいよ!パクさん(高畑勲)は他の人がいっぱいいるじゃん」と言うんですよ。

結局、『かぐや姫』のほうの制作が遅れて、公開が4ヵ月延期されることになり、改めて久石さんにお願いしました。同日公開はできなかったけれど、作品として、これは本当に運が良かった。同日公開は僕の夢でした。その夢が破れてしまったので、後日宮さんと高畑さんに冗談をいったんです。

「もうひとつ、やりたいことがある。2人の葬式を、同じ日にしたい」

 

久石:監督・高畑勲
宮崎さんの作品は30年以上一緒にやって来ましたが、実は高畑さんとご一緒したのは『かぐや姫の物語』が初めて。高畑さんはどんな目上の人でも若い人でも同じように丁寧に接するし、どんな場合でもニコニコと対応する。でもジブリの他の人に聞いたら、宮崎さんだと何かあるとすぐカッとなって「何やってんだ、コラ!」って怒ってすぐ済むんだけど、高畑さんは「違いますよ、君は……」って始まるとそこから3時間真綿で首を締めるように懇々と言われるらしいんです。どっちが辛いって言われると高畑さんのほうが辛いって言う方もいます(笑)。

 

鈴木:やり直しさせても結果が良ければ信頼を得る
でも高畑さんは人が持っている能力を引き出す天才。名演出家なだけでなくまさに彼は名プロデューサーなんです。

アニメーターが描いた原画を見て、「これは違う、その理由は……」ときちんと説明する。それを受けて直した原画を見て、また注文を出す。これを何回も繰り返すうちに、そのアニメーターは上手になるんです。だから、たくさんのアニメーターからの信頼が厚い。

初めて高畑さんと久石さんが組んだ『かぐや姫の物語』でも、同じように音楽の直しの指示を幾度も入れていた。そして気がつかないうちに久石さんの創る音楽がどんどん高畑さんの表現したい世界に近づいて行くんです。

その裏で、「久石さんという人は、これだけの人じゃない。もっと出せるはずだ。このまま世に出したら、悔いが残るに違いない」、こんなふうに話していました。

 

藤巻:ジブリには曲者がいっぱい
僕は博報堂の社員として長年ジブリ映画の広告のお手伝いをさせていただいてきたんですが、この鈴木敏夫ってのはコミュニケーションに長けた本当に名プロデューサーなんです。だって宮崎駿さんや高畑勲さん、久石譲さんといった巨匠の方たちや、まわりにいらっしゃる日本テレビの故・氏家齊一郎会長、徳間書店の故・徳間康快社長などといった、まさに猛獣、5人の曲者をたやすく転がしちゃうんですよ。でもその鈴木さんが実は一番の曲者でして、この男の陰謀で、僕が『崖の上のポニョ』の主題歌を歌うことになったのです。

 

久石:信頼が傑作を生み出す
『崖の上のポニョ』の主題歌を、大橋のぞみちゃんが歌うのはいいとして、一緒に藤岡藤巻というオジサン2人が歌うという。「宮さんが気に入っているから、この人でいく」と、この鈴木敏夫さんに騙されたんです。「それなら、仕方がないですね」と返事をしたことを覚えています。なんだかなあ~……と思いました。レコーディングが始まっても、最後までつきあう気になれなかったほど。

ところが後日、記者会見で歌っているのを見たら、すごく良かった。ああいう、シンプルで童謡のようなメロディは、うまい歌手が歌ってもおかしいじゃないですか。じゃあ、誰が歌うのか?と考えても、ぴったりの人がいない。そう思うと、大橋のぞみちゃんとオジサンたちはまるで親子のようで、これが良かったんだと納得できました。

また、作曲後に少し不安があり、宮崎さんに聞いてもらう前に鈴木さんに聞いてほしいとお願いしたことがありました。鈴木さんの意見を求めましたが、「これは宮さんも感動する」、「これだと宮さんはどう思うかなあ」という発言ばかり。自分がどうかではなく、宮崎さんならどうかを考えるコメントを聞いて、鈴木さんは、最高のマネージャーで、最高のプロデューサーだと感心しました。

宮崎さんのような作家そのものという人たちは、思い込みが激しいもの。その意見を忍耐強く、その場では何も言わずに聞いている。受け止めたような顔をしておいて、裏工作に入る。また、困ったなぁという雰囲気を出しながら頼まれるので、みんな鈴木さんに協力してしまうんです。人の動かし方も天才的ですね。

 

鈴木:コトを運ぶには、動くことも動かないことも重要
まわりから、コミュニケーション能力に長けているという評価をもらうことがあります。かつて、『大菩薩峠』という小説がありました。主人公の最大の特徴は、刀を抜いてストンと落として、相手が来るまで待つ”音無しの構え”。たいがい相手は動くから、そこを斬ってしまう。この音無しの構えを身に付けようと努力してきたことが、参考になっているのかもしれませんね。

映画監督にはそういうところがあるものですが、一番大事なシーンに音楽を挿れずに画だけで見せたがる。『となりのトトロ』でサツキがトトロに出逢う雨のシーンがそうでした。子どもはトトロの存在を信じてくれるけど、大人まで巻き込むにはどうしようかと考えて、あのバス停のシーンが重要だと。それなのに宮さんは「画だけで」と言って。それを聞いた久石さんも「ハイ」と答える。

そこで、トトロの横で『火垂るの墓』を制作中の高畑さんに相談。音楽にも久石さんのことも詳しい彼は「あそこには音楽があったほうがいいですよ。ミニマル・ミュージックがいい。久石さんの一番得意なものができる」とアドバイスしてくれました。その高畑さんが言ったことは内緒にして久石さんに頼みに行きました。「でもここは宮崎さんはいらないって言ったけど、そんなことしてイイの?」と言う久石さんに、僕は言いました。「宮さんは、いいものができれば気が付かないから」。そして作曲してもらった。ジブリで完成した曲を聞く日、宮さんは「あっ、いい曲だ!」と喜び、あの幻想的なシーンが完成しました。僕は思うんですけど、久石さんはそんな綱渡りの状態のほうが、かえって名曲を生み出してくれるんです。

 

鈴木:亡き人がいたから作れた物語もある
日本テレビの会長だった氏家さんが、あるとき「高畑勲の作品が見たい」と言ってきました。高畑さんが映画を作ると大変だから、はじめのうちはうっちゃっておいた。そうしたら氏家さんが「高畑が映画を作らないのは、お前が原因だな」と詰め寄ってくるので、僕は正直に言いました。「もう嫌なんです。あの人と作品を作るということは、大袈裟ではなく、1日24時間つきあわなきゃいけない。しかもお金も時間もかかる」と。

すると氏家さんは「俺は高畑勲に惚れている。70いくつになるまで、俺はこうやろうと思ってやったことはひとつもない。その男の寂しさがわかるか?」と言われたんです。「そんな、いろいろやっているじゃないですか」と驚きながら反論する僕を、「ばかやろう!読売グループはすべて正力松太郎さんが作ったもので、俺はそれを受け継いでやっているだけだ。俺だって、死ぬ前にひとつ何かやりたい。俺の死に土産に、高畑の作品を作ってくれ」と諭すんです。

その話を高畑さんにしましたが、なかなか決めてくれない。かぐや姫が題材に決まってから8年というだけで、本当は制作に14年かかりました。「高畑さんの作品で一番好きなところは”詩情”だ」と言う氏家さんのコメントに、高畑さんは大層喜んだ。結局、完成前に亡くなられてしまいましたが、脚本ができればすぐに見せて、絵コンテも実はれんが屋で目を通してもらっていた。2時間かけて『かぐや姫』の絵コンテを見た氏家さんは、「かぐや姫ってわがままな女だな。でもな、女はわがままに限るんだ」っておっしゃいました。完成した映画を見せたかったですけどね。氏家さんがあって出来上がった映画が、この『かぐや姫の物語』なんです。

故人を製作総指揮にしたのは2人目で、『千と千尋の神隠し』の徳間康快がそうでした。なので2人とも、エンドロールの一番はじめに名前が登場するんです。

 

 

オトナの”モノを創る現場”

鈴木:個人的なつきあいはしない
たとえば、久石さんとは仕事をして長いが、あまり個人的なつきあいはしていない。高畑さんと宮さんも、2人で食事になど行かないという。なぜなら、プライベートのつきあいが始まると、仕事上での関係性がダメになってしまうから。

 

鈴木:「おい、お前」の関係性ではモノを創れない
まさしく高畑×宮崎がそう。50年つきあっている2人だが、お互い丁寧語でしゃべっている。「おい、お前」と呼び合うような、近しい関係性になってしまうと、違うと思ったときに、批判ができなくなってしまうからでしょうか。

 

久石:自信がないことを前提に創作する
自信がないことを前提にモノを創るべきだと考えています。

僕は、自分に才能があるとは思っていません。だから、努力しなければ何もできなくなってしまう。聞いた話によると、宮崎さんもそう思っていらっしゃるそうですよ。

創作し続けるためには、勉強が大切。一にも二にも勉強ですね。

 

久石:いくつになっても、努力して、勉強する
指揮者としての活動もしていますが、職業指揮者を目指したいわけではなく、作曲のこやしになると思ってのこと。譜面を見るだけでは、構成やメロディやハーモニーを頭の中でイメージするのみ。遠くから眺めるだけで終わってしまいます。でも、オーケストラの指揮をして、演奏者に指示を出すとなると、そうはいかない。自分がしっかり譜面を読み込み、勉強しておかないと。

僕の場合は、昼から夜の11時くらいまで作曲し、家に帰ってから明け方までスコアを見て、指揮の勉強をします。そうやって覚えて、実際にオーケストラに指示を出すと、目の前かつ、リアルタイムでプロの音楽家が音を出してくれる。そこで浴びるパワーがあって、ようやく曲を深く理解できるわけです。

たとえばそれがブラームスの曲だとして、ブラームスのすごさを体感すると、次の創作にはね返すことができる。そうやって、結局は努力をするしかありません。

 

藤巻:考えに考えて考え抜くと、運がいいと神様がアイデアをくれる
宮崎駿さんも自分は才能がないと言っています。以前娘が夏休みの宿題で宮崎さんに「おもしろいお話はいったいどういう風に作るんですか?」とインタビューしたら、「考えに考えに考えに考えに考えに…ってもう何回考えるんだろうってくらい考えて考え抜くと、運がいいとポッと神様がアイデアをくれるんだけど、ほとんど運が悪いんだよね(笑)」と言っていました。

 

オトナとは?
収録の最後に”あなたが思うオトナとは何か?”を一筆、白紙の本に書いてもらう。それが『オトナの!格言』です。

 

鈴木敏夫

大人とは、
どうにもならんことは
どうにもならん
どうにかなることは
どうにかなる

あるがままに。
レット・イット・ビーですね。

 

久石譲

大人とは
子供であることを
忘れないこと。

僕自身はこう思って行動しているのですが、まわりから「久石さんは、子供であることを忘れる能力に欠ける」とか、「すこしは大人になったほうがいい」と言われて、心外です(笑)。

 

藤巻直哉

大人とは
長い物には巻かれろ

僕はまさに巻かれっぱなしです。

 

(書籍「オトナの!格言」より)

 

 

Related page:

 

オトナの!格言 久石譲

 

Blog. 「クラシック プレミアム 32 ~バロック名曲集~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/03/28

クラシックプレミアム第32巻は、バロック名曲集です。

優雅な宮廷音楽たちです。春の訪れのこの季節にもぴったりです。

 

【収録曲】
シャルパンティエ
《テ・デウム》 ニ長調より 前奏曲
サー・ネヴィル・マリナー指揮
アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

パッヘルベル
《カノン》
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮
パイヤール室内管弦楽団

リュリ
歌劇 《イシス》 より 二重唱〈恋をなさいな〉
ウィリアム・クリスティ指揮
エマヌエル・ハリミ(ソプラノ)
イザベル・オバディア(ソプラノ)
レザール・フロリサン

クープラン
《恋の夜鳴きうぐいす》
オリヴィエ・ボーモン(チェンバロ)

ラモー
《6声のコンセール》 より 〈めんどり〉
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮
パイヤール室内管弦楽団

スカルラッティ
ソナタ ホ長調 K.380
スコット・ロス(チェンバロ)

マルチェッロ
オーボエ協奏曲 ハ短調より 第2楽章
ピエール・ピエルロ(オーボエ)
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮
パイヤール室内管弦楽団

コレッリ
合奏協奏曲 ト短調 《クリスマス協奏曲》
イル・ジャルディーノ・アルモニコ

グルック
歌劇 《オルフェオとエウリディーチェ》 より 〈精霊の踊り〉
ヴォルフガング・シュルツ(フルート)
ヤーノシュ・ローラ指揮
フランツ・リスト室内管弦楽団

ヘンデル
歌劇 《セルセ》 より 〈オンブラ・マイ・フ〉
マリリン・ホーン(メゾ・ソプラノ)
クラウディオ・シモーネ指揮
イ・ソリスティ・ヴェネティ
歌劇 《リナルド》 より 〈私を泣かせてください〉
アンジェラ・ゲオルギュー(ソプラノ)
イオン・マリン指揮
コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団
ハープ協奏曲 変ロ長調
リリー・ラスキーヌ(ハープ)
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮
パイヤール室内管弦楽団
オラトリオ 《メサイア》 より 〈ハレルヤ・コーラス〉
ニコラウス・アーノンクール指揮
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
ストックホルム室内合唱団

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第31回は、
音楽が音楽になる瞬間のこと

この「クラシックプレミアム」を通してクラシック音楽が身近なものになってくると同時に、指揮者、演奏者、録音ホール、スタジオ録音、ライブ録音、、など、同じ作品や同じ楽曲であっても、まったく鳴っている音や響き、印象や感動が変わってくるということを、身をもって体感している今日この頃です。そこがクラシック音楽を掘り下げる楽しみということが少しずつわかってきたような気がします。そして、今号のエッセイでは、そんな音楽の本質や醍醐味について久石譲の視点で語られています。

一部抜粋してご紹介します。

 

「僕がオーケストラを指揮するとき、楽譜をどこまで読み解くことができるか、作曲家が作りたかった音をどこまで読み取れるかが最大のポイントになる。とはいえ、ピッチ(音程)やリズムの乱れはどうしても気になるので、こまかく調整することになる。乱れない、間違えない、というのはアンサンブルの前提なのだ。ところが、ピッチが合っていて、リズムが正確で、強弱がしっかりしていれば感動する演奏になるかというと、それだけではならない。では、音楽が音楽になる瞬間ってどこなんだ。これがすごく難しい。」

「作曲でも同じことが言える。論理的な視点と感覚的な視点があれば音楽は作れるはずなのだが、実はそれだけでは音楽は成立しない。そこに作曲家の強い意志がなければならないのだ。これを作りたい、作らねばならないという強い思い、つまりインテンシティ(意志、決意、専心)が必要だ。演奏でもそこが問題になるのだろう。そして演奏に関して言えば、音楽が音楽になるための最後の砦、最後のチャンスがある。それが本番。観客を前にしたとき、ある種の沸騰点に達する。するとそれまで見えなかったスイッチが入り、音楽になる。僕がオーケストラを指揮するとき、最も大切にしていることはこのことだ。」

「そして、日本やアジア、ヨーロッパのさまざまなオーケストラを指揮してみて改めて思うのは、現在の日本のオーケストラのレベルの高さだ。団員それぞれの技術も優れているので、良い指揮者がいて、集中した演奏ができればどこのオーケストラも素晴らしい演奏をする。それをコンスタントにできれば一流のオーケストラだ。」

「外国のオーケストラは、みな自分のやりたいことを最大限やる。だからリハーサルでは、指揮者とオーケストラが互いに折り合いをつけながら進めていく。当然、演奏はしばしば中断することになる。いっぽう日本のオーケストラは、リハーサルのはじめからあまり止まることがない。合わせることに注力するからだ。ピッチとリズムを合わせようとする。個人個人の存在を主張するというよりは「合わせ」に入る。だからなのか、最終的にどうしてもスケール感が出なくなることがある。そういう点では、最初はハチャメチャでもなんとか折り合いをつけて一つの曲を作っていくほうが、最後はスケールが大きなものになるのではないだろうか。」

「例えば中国のオーケストラを指揮していたときのこと。とにかく団員一人一人が自己主張して、まとめるのが一苦労だった。ところが、朗々とした音を出させたら、こんな音は日本のオーケストラでは出ないのではないかというような、素晴らしくスケールの大きな音を出した。これはこれで国民性なのかなと思うのである。」

「そうした国民性の違いの上に、さらにそれぞれのオーケストラによってカラーのようなものがある。品のある音を出すオーケストラだとか、野武士のような音のオーケストラだとか、あるいは弦の鳴り方がきれいだとか……。奏者が違うのだから、各奏者の個性も当然出てくる。それが集まることでオーケストラの個性にもなっていく。」

「最後に一つ。同じ曲を同じ指揮者、オーケストラで、レコーディング用に収録したCDとライヴ演奏を聴き比べてみるとテンポが違うことがあるが、それはなぜか。」

「音だけのレコーディングでは、完璧なものをめざそうとして、とても慎重になり、テンポも正確に計算されたもので進む。いっぽうライヴでは、その時のオーケストラの調子、指揮者の体調、観客の反応、その場にしかない特別な雰囲気のなかで音楽が生まれる。いわば一期一会。だから同じ曲でも何度でも聴きに行きたくなるのだ。その時、CDをコピーするような演奏がいいはずはない。場合によっては、テンポを速めて、あえて激しくすることもある。その時のライヴ感がコンサートの醍醐味である。そこには、たしかに音楽が音楽になる瞬間の秘密が隠されている。」

 

 

聴く側としては、いろいろと考えさせられる内容でした。レコードからCDと、音楽をコンパイルし、パッケージ化して、それが主流となり定着。日常的に、どこでも音楽を楽しめる反面、機械的というか無機質、変化のない音楽を聴きつづけることにも。そうするとエッセイに書かれているような”音楽をとおしての一期一会”そんな巡り合いは減っていくのは当たり前なわけで。

スピーカーから鳴る音楽で満足してしまった現代社会。もっといえばオーディオファンも過去の話、今はスマホの小さいスピーカー。コンサートにわざわざ足を運んででも聴くことの醍醐味。ほんと遠ざかっている社会だなと自分を鑑みても思います。

そんななか、お気に入りのクラシック音楽を、指揮者、演奏者、録音方法、年代、などなど、聴き比べをしているのが最近の楽しみです。ひとつの作品でも10枚くらいのCD、つまり10パターンくらいの演奏を聴き比べてみると、ほんとおもしろい発見があります。そして自分はこういうテンポ感や鳴り方が好きなんだな、ということもわかってきたりします。

もうひとつ言えば、これはデジタル音楽ではなく、クラシック音楽、つまりはアコースティック楽器だからこそ生まれる、その瞬間の響きの違いが楽しめる醍醐味なのかもしれません。まずは日常的なところから耳を肥やして(CDなどで聴き比べ)耳や感性を育てて、次は臨場感あるライヴを体感していきたいですね。

 

クラシックプレミアム 32 バロック名曲集

 

Blog. 久石譲 箱根駅伝テーマ曲「Runner of the Spirit」 CD作品紹介

Posted on 2015/3/24

2009年に箱根駅伝の新しいテーマ曲として誕生した「Runner of the Spirit」です。久石譲書き下ろし、しかも初の吹奏楽作品として、以降毎年正月にTV中継番組で聴くことのできる楽曲です。一度は耳にしたことがある人も多いと思います。

 

久石譲 箱根駅伝 Runner of the Spirit

 

この楽曲は久石譲によるCD作品化はされていません。

 

つい先日、この「ランナー・オブ・ザ・スピリット」のCDを見つけました。

 

東京佼成ウインドオーケストラ
『吹奏楽燦選/嗚呼! アフリカン・シンフォニー』
(2014/10/22発売)

東京佼成ウインドオーケストラ

1.音楽祭のプレリュード (アルフレッド・リード)
2.コンサートマーチ 《アルセナール》 (ヤン・ヴァンデルロースト)
3.ロマネスク (ジェイムズ・スウェアリンジェン)
4.海の男達の歌 (船乗りと海の歌) (ロバート・W・スミス)
5.マゼランの未知なる大陸への挑戦 (樽屋雅徳)
6.百年祭 (福島弘和) 2012年改訂版
7.嗚呼! (兼田敏)
8.吹奏楽のための《ランナー・オヴ・ザ・スピリット》 I. オープニング (久石譲)
9.吹奏楽のための《ランナー・オヴ・ザ・スピリット》 II. エンディング (久石譲)
10.ラ・フォリア ~吹奏楽のための小協奏曲(伊藤康英)
11.ボレロ(イン・ポップス) (モーリス・ラヴェル/岩井直溥)
12.アフリカン・シンフォニー (ヴァン・ マッコイ/岩井直溥)

演奏:東京佼成ウインドオーケストラ
指揮:藤岡幸夫

録音:2013年9月9~10日、江戸川文化センター(東京) [96kHz/24bit録音]

 

 

このCDに久石譲楽曲が収録されています。

「吹奏楽のための《ランナー・オヴ・ザ・スピリット》」
Runner of the Spirit for Symphonic Band
I. オープニング Opening
II. エンディング Ending

 

詳しい解説はCDライナーノーツも参考に紹介しています。

 

 

久石譲はこの作品の制作にあたってこう語っています。「オープニングはこれから走る高揚感を、エンディングは感動を伝えるものにしたい」。オープニングはファンファーレのように高らかに鳴り響く序奏から印象的です。箱根駅伝TV中継番組のCMジングルとしても使用されています。

エンディングは、しっとりとトランペットを中心にメロディーを奏で、ドラマを振り返るような勇壮で雄美な曲調となっています。そしてラストはオープニングで鳴り響いた管楽器たちが再びその勇姿を讃えている。スポーツマンシップを象徴するような晴れやかでエネルギーが湧き上がる作品です。

CD化されていないながらも人気は高く、多くの久石譲オフィシャルスコアを担っているショット・ミュージックより、2012年に楽譜レンタルも開始されています。もちろんオリジナル・スコアです。

 

 

 

CDに収められているこの楽曲について大切なこと。

本作品に収録されているこの2楽曲は、2009年から箱根駅伝のTV放送で流れているオリジナル音源ではありません。けれど、2009年からTV使用されているオリジナル版も東京佼成ウインドオーケストラが演奏していています。スコアにも忠実にほぼオリジナル音源に近いかたちで収録されています。

オリジナル版と差異があるというのは、指揮者の違いによる楽曲のダイナミクス、テンポ、演奏表現方法という点です。パートごとに前面にフィーチャーされている楽器の違いやバランスによる印象と響きの違いです。

オリジナル版の指揮者は久石譲本人です。また本作CDの録音は2013年ともクレジットされていますので、2009年のオリジナル版音源でないことになります。指揮者は違うものの、演奏団体は同じ、スコアも同じオリジナル・スコア、ということになると思います。藤岡幸夫さんの指揮はとてもダイナミックでかっこいい仕上がりです。

2009年発表から現時点(2015年)までに久石譲名義として作品化されていないだけに、ほぼオリジナル版と言える程のバージョンがCD化されたことは、貴重でありうれしい限りです。CD販売だけでなく、Amazonやappleにて音楽配信もされています。試聴して確かめるもよし、単品で購入できるのもいいですね。

 

 

初の吹奏楽作品となった、この「Runner of the Spirit」から6年を経て、2015年にはバンド維新2015のために新しい吹奏楽作品を書き下ろしています。久石譲による吹奏楽作品は、「Runner of the Spirit」と「Single Track Music 1」の2作品のみになります。

毎年正月を楽しみにしていたのですが、1年に1回しか聴くことのできない「ランナー・オヴ・ザ・スピリット」。これからはいつでもクオリティの高いパフォーマンスと高音質をオーディオで楽しむことができます。TVスピーカーでしかも聞き耳をたてて楽しむしかなかった楽曲が、です。

ぜひこの東京佼成ウインドオーケストラのCD作品を参考にしてください。またこの曲を演奏しようと思っている吹奏楽団体の方も、ショット・ミュージックからのオフィシャル・スコアとあわせて、模範演奏としても参考にできるのかもしれません。

なによりも、聴くだけでもエネルギーが沸きあがる、そんな力があります。

 

 

Related page:

 

久石譲 箱根駅伝 Runner of the Spirit

 

Blog. 黒澤映画の作曲家たち (モーストリー・クラシック 2007年9月号より)

Posted on 2015/3/22

クラシック音楽誌「モーストリー・クラシック 2007年9月号 Vol.124」に久石譲インタビューが掲載されました。

こちら ⇒ Blog. 「モーストリー・クラシック 2007年9月号」 久石譲インタビュー内容

 

特集が「音楽と映画 成熟した関係」というテーマだったこともあり、ほかにも興味深い記事がたくさんありました。そのなかから黒澤明監督と作曲家たちをめぐる記事がありました。久石譲とは直接的には関係ないのですが、久石譲インタビューでもよく登場するキーワードがあります。

「対位法」 「ライトモチーフ」

これらの言葉の意味や、映像と音楽における対位法的関係がわかりやすく述べられています。またいかに、映画監督×音楽監督というものが一期一会の巡り合わせなのか、そこから生まれる化学反応やはたまた苦悩や一触即発なかけひき。

映像と音楽、監督と作曲家、黒澤明と早坂文雄、宮崎駿と久石譲、etc 置き換えて俯瞰的に見ることで、日本映画音楽の歴史がわかります。

そして黒澤映画時代に切り拓いた映画音楽の新しい世界を、現代の映画音楽巨匠久石譲がどのように継承しているのか、継承しつつもまた違った新しい世界を切り拓いたのか。そういうことに思いを巡らせながら興味深く読んだ特集でした。

 

 

MUSIC × CINEMA

黒澤映画の作曲家たち

映画における音楽の重要性を認識していた黒澤明。
完璧主義であり、何事にも妥協を許さない姿勢が、
映画製作だけではなく、映画音楽にも新しい方向性をもたらした。
情感を増長させる響き、内面から湧き出る旋律を思い描きながら映像を作る黒澤映画は、日本の映画音楽の分岐点となった。

(文:西村雄一郎 映画評論家)

 

「映像と音楽の関係は”映像+音楽”ではなく、”映像×音楽”でなければならない」

これは、黒澤明が音楽について述べたキーワードのような言葉である。この考えを具体的に実践してくれたのは、黒澤にとって唯一無二の作曲家だった早坂文雄である。1948年の映画「酔いどれ天使」のなかで、親分に裏切られた肺病やみのヤクザ(三船敏郎)が、闇市をとぼとぼ歩くシーンに、陽気で活発な「カッコウ・ワルツ」を流したのだ。

悲しい場面には悲しい音楽、楽しい場面には楽しい音楽を流すのが通例であるのに、あえて逆の音楽を使用する。つまり場面を説明し、装飾し、なぞっていくような前者の映画音楽の付け方を”映像+音楽”、場面の雰囲気とは正反対の音楽をぶつけることによって、その場の感情を増幅させる後者の方法を、”映像×音楽”と呼んだのである。

こうした掛け算ともいうべき音楽の使い方を”対位法”という。もともと音楽用語であって、全く異なるメロディーを同時進行させる技術のことを意味するが、これを映画に応用させたのだ。以後、対位法は、音と映像が絡み合う、黒澤の自家薬籠中のテクニックとなっていく。

それまで、デビュー作「姿三四郎」を担当した鈴木静一や、終戦直後の「わが青春に悔なし」の音楽を書いた服部正といった年長者の作曲家には、そうした大胆な実験精神はなかった。黒澤は早坂と組むことによって、自分の考える音楽設計が実現できることを大いに喜んだ。

早坂の代表作というべき「七人の侍」では、ワーグナーが使用した”ライトモチーフ”という手法を生かしきる。ある人間、感情などを象徴する短い楽句を状況に合わせて発展させ、楽器を変えて演奏するのだ。特に勇ましくも哀しい「侍のテーマ」は、外国でも最も親しまれた日本の映画音楽となった。

さて、黒澤の映画音楽のもう一つの特徴は”テンプトラック”という点である。つまり音楽の具体的なイメージが強い黒澤は、既成のクラシック音楽のレコードを作曲家に提示して、「こんな音楽を書いてくれ」と注文する。しかし、似て非なるものを出せと言われた作曲家にとって、これは苦渋の方法だ。にもかかわらず、早坂は全霊を傾けて、黒澤の要求を受け入れた。

最もいい例が「羅生門」。真砂(京マチ子)が証言しながら陶酔感に陥っていくシーンで、黒澤はラヴェルの「ボレロ」のレコードを持って来た。作曲家は見事な早坂「ボレロ」に仕立てたが、ヨーロッパで公開後、フランスの楽譜出版元から「ラヴェルの剽窃(ひょうせつ)ではないか」という抗議の手紙が届いた。

55年、早坂が41歳で病死してからは、弟子の佐藤勝が音楽を引き継いだ。バーバリズム溢れる「用心棒」は、一世一代の傑作となった。「赤ひげ」では、第九や「びっくり」交響曲をモデルとしながらも、佐藤は堂々たる音楽を書いた。しかし「影武者」では、あまりのモデル曲の多さに閉口し、音楽監督の座を自ら降りている。

武満徹も被害に遭った作曲家だった。「どですかでん」は問題なく録音できたが、「乱」の三つの城炎上シーンでは、マーラーの「大地の歌」の〈告別〉に執着した黒澤と、険悪な関係になる。武満は「僕とか佐藤さんは、早坂の弟子という思いが強いんでしょうね」と苦笑した。

最晩年の作品を担当した池辺晋一郎の場合は、モデル曲で悩むことはなかったが、黒澤はすでにクラシック曲そのものを使うようになっていた。もはや作曲家は要らないのだ!「夢」では「コーカサスの風景」の〈村にて〉が、「八月の狂詩曲」ではヴィヴァルディの「スターバト・マーテル」が、そして遺作「まあだだよ」では、同じくヴィヴァルディの「調和の霊感」第9番第2楽章がラストで流されて、黒澤映画のフィナーレを飾ったのである。

 

内「乱」勃発寸前!?
信頼を勝ち取った音楽家たち
「乱」 作曲:武満徹 指揮:岩城宏之 演奏:札幌交響楽団

談:竹津宜男 元・札幌交響楽団ホルン奏者/事務局長

ロンドン交響楽団が演奏する予定だった「乱」の音楽は、武満さんが「僕の音が出せるのは札響だ」と言い張り、黒澤さんが折れる形で札響の演奏で収録しました。「田舎のオケでは3日かけても1曲も録れないだろう」と、録音に立ち会った黒澤さんは、無愛想でまともな挨拶もないまま、音楽について細かく指示していました。一方、自分の音楽をいじくり回されている武満さんは、表面上は気にせず、石の人のようでした。

テイク40くらいでしょうか。「いただきます」の声がかかり、一番長く最も重要な曲のレコーディングを初日の午前中だけで録り終えたのです。黒澤さんは、オケに深々とお辞儀をして「千歳まで来た甲斐がありました」とおっしゃって、その後は武満さんに指示を任せるようになりました。

武満さんの音楽に慣れていて、違和感なく音に入っていった札響と自然にさり気ないながら、何回、演奏し直しても何分の1秒と狂わず同じニュアンスを表現する岩城さんとのコンビネーション。それが武満さんの選択を黒澤さんに納得させたようです。

(モーストリー・クラシック 2007年9月号 Vol.124 より)

 

 

黒澤映画の歴史を紐解くと、音楽家たちの系図がわかります。早坂文雄の弟子が佐藤勝だったのと同じく、佐藤勝の弟子(のような存在)にあたるのが久石譲です。そうやって受け継がれているなにか、もあるのかもしれません。

また「テンプトラック」の話の補足です。映画監督が映画製作中に聴いている音楽が影響することは多々聞きます。何気なく聴いているものだったり、意図して聴いているものだったり。意図して聴くものとしては、映画シーンのイメージを膨らませるため、もしくはイメージにぴったりでそのまま使いたいか「テンプトラック」として注文するか。

 

 

宮崎駿監督作品では、こういったエピソードはあまり出てきません。映画製作中、作業中に聴いていた音楽の話。もちろんそこには先行してイメージアルバムを制作している、久石譲の作品用音楽モチーフがすでにある時期だから、ということもあるのかもしれません。

それでも、映画『崖の上のポニョ』に関しては、公式サイトにておもしろい製作現場話が公表されています。

 

 

”ワーグナーの「ワルキューレ」”を聴きながら”

宮崎監督がこの作品の構想を練っている最中にBGMとして良く聴いていた音楽は、ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」の全曲盤でした。「この音楽を聴くとアドレナリンがでる」とスタッフに話していたという証言もありますが、かのヒットラーが第二次世界大戦のドイツのプロパガンダに使用したように、ワーグナーの音楽は人間の精神を高揚させる力に溢れています。

そんな「ワルキューレ」が作品に影響を与えたとしても不思議なことではありません。
ポニョの本名が“ブリュンヒルデ”という設定で、それがワルキューレという空駆ける9人の乙女たちの長女の名前から来ていることや、娘を心配する父ヴォータンの魔法で眠らされてしまうこと、そもそもワルキューレの世界観が、今まさに終わりの時を迎えようとしている神々の世界が舞台であることからも推察できます。楽劇に登場するヴォータンは神々の長であり、世界の終焉を回避しようとあれこれ奔走する設定。そこにはポニョの父親フジモトの姿が浮かび上がってくるではありませんか。

(出典:映画『崖の上のポニョ』公式サイト より)

 

 

ワーグナーの「ワルキューレ」が、映画製作中の宮崎駿監督に図らずも?!大きな影響を与えたことはここで明らかです。さてここで、宮崎駿監督から久石譲に「テンプトラック」として注文があったのか。つまり、ワーグナーのワルキューレの第◯幕に出てくる◯◯ような音楽をあのシーンで書いてほしい、など。

それは想像の域を超えませんが、ジブリ音楽初の本格的混声合唱も取り入れ、「ロマン派や印象派の作風をイメージした」ともポニョ音楽に関して語ったことのある久石譲。これは久石譲が宮崎駿監督の製作現場風景を見聞きしていて、敬意を表して取り入れることを自ら決断したのか、はたまた宮崎駿監督から深からず浅からずそういったオーダーがあったのか。そういったことに思いを巡らせることも、またおもしろい聴き方です。

 

やはり監督×音楽の化学反応の一期一会を感じるエピソードです。才能と才能のコラボレーションもそうですが、その時だからこそこういうふうに化学反応したんだ、というのが必ずあります。そんないろいろな過程や背景の結晶としてカタチになっていくのですね。かけがえのない映画、かけがえのない映画音楽。あらためてそんなことをおもった特集でした。

 

 

Related page:

 

モーストリー・クラシック 2007.9