Blog. 久石譲 「かぐや姫の物語」 インタビュー ビジュアルガイドより

Posted on 2014/12/6

2013年公開 映画『かぐや姫の物語』
監督:高畑勲 音楽:久石譲

スタジオジブリ映画作品では恒例の書籍です。

高畑勲監督14年ぶりの新作『かぐや姫の物語』の完全解説本です。ビジュアル満載のストーリーガイドや、キャスト、スタッフインタビューのほか、本作品限りのジブリ「第7スタジオ」にも潜入しています。

そのなかに、今回高畑勲との初タッグとなった音楽久石譲のインタビューも見開き2ページにてぎっしりと掲載されています。映画の制作過程や高畑勲監督、久石譲のバックボーンを垣間見ることができる貴重な鮮度の高いインタビューとなっています。

 

 

「一切感情に訴えかけてはいけない」というのが高畑さんとの最初の約束だった。

- 今回のオファーはどのような経緯で受けられたのですか?

久石 「2012年の暮れに鈴木(敏夫)さんから「『かぐや姫の物語』の公開が延期されたので、『風立ちぬ』共々ぜひやってほしい」とご依頼をいただきました。そのときはビックリしましたね。まさか高畑さんとご一緒できるとは思ってもいませんでしたから。でも、僕は高畑さんをとても尊敬していましたし、高畑さんとご一緒できるのだったら、ぜひやりたいと、返事をさせていただきました。」

- その「監督・高畑勲」との仕事というのはいかなる体験でしたでしょうか。どのような人物と見受けられましたか。

久石 「高畑さんは非常に明快で論理的な方なんです。すべてがハッキリしていて、それを具体的に推し進められる方ですね。今回は高畑さん自身がお書きになった “わらべ唄” が映画のなかでしっかりした構造を持っていて、例えばオープニングにしても、「出だしをなよたけのテーマでワンフレーズ演奏したら、わらべ唄に移って、そしてテーマに戻って、またわらべ唄に…」という具合に、かなり具体的な注文をいただいていたんです。でも、そのまま交互にはせず、結果として対旋律のように同時進行させています。問題だったのは、そのわらべ唄が五音音階(1オクターブに5つの音が含まれる音階)だということです。この唄が重要な部分を占めている以上、劇中の僕の音楽もそれに合わせて整合性をとらなければなりません。でも、一歩間違えると、五音音階というのは陳腐になりやすい。なので、同じ五音音階を使っても日本人が考えるものとは全く違うものを作ろうと。生きる喜びのリズムに関しても、もしかしたら中国の曲と思われてしまうくらいのものを持ってきています。高畑さんも別にドメスティックな日本情緒にこだわっていませんでしたし、ちょっと異世界観も欲しかったんですね。」

- 音楽が謳いすぎていない感じがしました。

久石 「打ち合わせでは、Mナンバーで53まであったんですよ。53曲もあるということは、裏返せば、音楽が絶えず映像と共存していて、鳴っていることを意識させない書き方をしていかなければいけないということですね。ですから、音楽の組み立て方も大変でした。曲数が多い場合、メロディーを強調したりして音楽が主張し過ぎると、浮いちゃうんですよ。映像もムダをはぶいた省略形ですし、効果音も決して多くない。その意味でも、音楽は極力エッセンスみたいなもので勝負しないと映像との共存ができなくなってしまいますし、全体を引き算的な発想で作っていかないといけませんでした。そして、音もできるだけ薄く書く方法をとりました。もちろん、薄く書くというのは決して中途半端に書くということではありません。逆に、それに見合うメロディーを書かなければなりませんし、和音とか一切なくても成立するものを作らなければいけません。ワンフレーズを聴いただけで特徴が捉えられるようなものを、ですね。ペンタトニックのフリをしているんですけれども、実はコードに関してはかなり高等なことをやっています。」

- 音の際立ちも印象的です。例えば竹藪で翁が「光」を発見するときの響き。

久石 「高畑さんさんは音楽への造詣が深い方です。前に高畑さんが書かれた映画音楽についての文章を拝読したことがあるんですが、そこでは最終的な映画音楽の理想として「音楽と効果音が全部混ざったような世界」というようなことを書かれていました。なかなかそういうところまで理解する人はいませんし、そういうことも今回はできるという嬉しさを感じましたね。「光の音」についてはピアノを中心に、ハープ、グロッケン、フィンガーシンバル、ウッドブロックなどを掛け合わせて表現しています。今回は弦の特殊奏法も多いです。それは最近、現代音楽も手がけていることも含めた自分のパレットの中で、やれることは全部やろうとした結果ですね。その意味では比較的、自由に書いています。トータルで、今まであまりなかった世界に持ち込めたらいいなというのはありましたね。」

- かぐや姫を迎えに来る「天人の音楽」にも、ご覧になる方は皆、ビックリされるのではないですか。

久石 「皆さん、気に入ってくださっているみたいですね。そういう声をよく伺います。あの部分に関しては、最初から高畑さんは全くブレていませんでした。いわく「月の世界には悩みがない。喜びも悲しみもなく、皆、幸せに生きているのだから、幸せな音楽でなければいけない」と。つまり「悩みのない人たちの音楽」であると。最初「サンバみたいなものを考えている」とおっしゃっていて、それを伺ったときには本当にすごい方だなと思いましたね。発想が若いといいますか。わらべ唄にしても初音ミクでデモを作っているんですよ。あり得ないですよね?新しいものに貪欲というか、手段にこだわっていない姿勢といいますか。だから、天人の音楽にもそういう発想が持てるんですよね。結局、半年くらい寝かせた後に、今の天人の音楽を書いたんですけれども、却下されるかなと思っていたデモを高畑さんが「いいですね。気に入りました」とおっしゃってくださって。リズムとしてはアフロ系ですね。チャランゴやケルティック・ハープも使っていて、ちょっと民族音楽がかったものも入っているし、サンプリングでも邦楽の音とか入れています。できるだけ無国籍な、カオスのようなものにしようかなと思って作りました。作曲ではちょっと苦しみましたけれども。」

- 高畑さんは映像を驚くほどじっくりこしらえたわけですが、音楽の面でも同様の練り込みがあったのでしょうか。

久石 「ありました、かなり。高畑さんはこの企画を8年やっていらっしゃるでしょう?それに対して、僕は1年もかかわっていない。せいぜい10ヶ月くらい。高畑さんは一個一個のシーンの意味を全部考えていらっしゃるじゃないですか。ここでなぜ音楽が必要なということも含めて。音楽を作るにはせめてもう1年くらい欲しかった。そうでないとかなわないというか、話ができない(笑)。」

- 個々のキャラクターについての目配りなどはあったのでしょうか。

久石 「これは非常に重要なところなんですが、高畑さんから持ち出された注文というのが「一切、登場人物の気持ちを表現しないでほしい」「状況に付けないでほしい」「観客の気持ちを煽らないでほしい」ということでした。つまり、「一切感情に訴えかけてはいけない」というのが高畑さんとの最初の約束だったんです。禁じ手だらけでした(笑)。例えば「”生きる喜び”という曲を書いてほしいが、登場人物の気持ちを表現してはいけない」みないな。ですから、キャラクターの内面ということではなく、むしろそこから引いたところで音楽を付けなければならなかったんですね。俯瞰した位置にある音楽といってもいいです。高畑さんは僕が以前に手がけた『悪人』の音楽を気に入ってくださっていて、「『悪人』のような感じの距離の取り方で」と、ずっとおっしゃっていました。『悪人』も登場人物の気持ちを表現していませんからね。」

- 今回の音楽は、久石さんのファンからすると、ある意味でショックかもしれません。最近の久石音楽には見られない音が確かにここに刻まれています。

久石 「今回は五音音階を使いながら、ありきたりじゃないものを一所懸命やろうとしたわけじゃないですか。その結果、もし新しい音楽が生まれているとしたら、それは高畑さんとの化学反応で生み出されたものだと思います。高畑さんはやはり素晴らしかった。論理立てていながら、かといって論理だけの人ではない。そこが山田洋次監督にも似ていらして、作家としてズバ抜けているところですよね。やりとりを重ねる中で、非常に刺激を受けました。僕がこう言うのもおこがましいですが、自分が音楽を組み立てていく方向と、高畑さんが思考される方向がとても似ていたといいますか。そういう感触もありましたので、ものすごく大変でしたけれど、やりがいがありましたし、本当にいい機会をいただいたなと。モノ作りをしている人間なら、この映画を観たらショックを受けるでしょうね。それくらい完成度が高いですから。僕自身もかなりできたなという実感があります。もちろん、そこまでできた理由は、やはり高畑さん。高畑さんのおかげでこの高みに上ることができました。」

(かぐや姫の物語 ビジュアルガイド より)

 

 

「かぐや姫の物語 ビジュアルガイド」
目次
VISUAL STORY
CAST INTERVIEW
第7スタジオの記憶
STAFF INTERVIEW
ANOTHER STORY
SPECIAL CROSS TALK

 

 

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かぐや姫の物語 ビジュアルガイド

 

Blog. 久石譲 「かぐや姫の物語」 インタビュー ロマンアルバムより

かぐや姫の物語 ロマンアルバム

Posted on 2014/12/5

2013年公開 スタジオジブリ作品 映画『かぐや姫の物語』
監督:高畑勲 音楽:久石譲

映画公開と同年に発売された「ロマンアルバム」です。インタビュー集イメージスケッチなど、映画をより深く読み解くためのジブリ公式ガイドブックです。

高畑勲監督最新作であり、久石譲と初めてタッグを組んだ作品です。

”従来のアニメーションと違い、セル画と背景画の境界線をなくして絵画が動き出すような独特の技法をとっていることから、人物造形・作画設計の田辺修さん、作画監督の小西賢一さん、美術の男鹿和雄さんら20人以上の制作スタッフにロングインタビューを敢行し、新しい表現がどのように成り立ったかを設定資料をもとに細かく解説している。また、今作で初めてタッグを組んだ久石譲さんと高畑監督による特別対談や、声を演じた朝倉あきさん、宮本信子さんらのインタビューも収録している。”

というわけで、高畑勲 × 久石譲 による貴重な特別対談内容です。

 

 

特別対談 [監督] 高畑勲 × [音楽] 久石譲
映画と音楽、その”到達点”へ。

高畑勲がプロデューサーとして参加した『風の谷のナウシカ』以来、30年の時を経て映画監督・高畑勲と作曲家・久石譲の初タッグが実現した。はたして、映画と、映画音楽の理想像を追い求め、挑み続けた2人が辿り着いた場所とは……。『かぐや姫の物語』の制作秘話と、2人が本作に込めた熱い思いを、特別対談で語ってもらった。

 

観客の心に寄り添う音楽と「わらべ唄」

-これまでお二人での対談は?

高畑:
初めてですね。

-1984年の『風の谷のナウシカ』(宮崎駿監督)で高畑さんがプロデューサーを務めていた時に久石さんと会ってから30年。初めて監督と作曲家という形で仕事をされましたね。

高畑:
僕はこれまで久石さんにわざとお願いしてこなかったんです。『風の谷のナウシカ』以来、久石さんは宮崎駿との素晴らしいコンビが成立していましたから、それを大事にしたいと思って。でも今回はぜひ久石さんに、と思ったのですが、諸事情で一度はあきらめかけた。しかし、やはり、どうしても久石さんにお願いしようという気持ちが強くなったんです。

-依頼を受けた久石さんは?

久石:
最初にお会いした時から尊敬していましたし、ぜひご一緒したいという気持ちはずっとあったので嬉しかったです。

―音楽作りはどう進めていったのですか?

高畑:
僕がたまたま音楽好きだったこともあり、宮さんがやった『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『魔女の宅急便』では、監督が作曲家に対して話すような役割を僕が負っていたものですから、初めてという感じはあまりなくて。

久石:
確かに。まずは絵を描くために必要な琴の曲を作るところから始めましたよね。

高畑:
その琴の曲がものすごくよかったんです。大事なテーマとして映画音楽としても使っていますが、初めて聴いたとき、お願いしてよかったと、心から安心したのを覚えています。

久石:
ビギナーズラックみたいなものですよ。大変だったのはそのあと。高畑さんから「登場人物の気持ちを表現してはいけない」「状況につけてはいけない」「観客の気持ちをあおってはいけない」と指示があったんです。

―映画音楽として求められそうなところが全部禁じ手。

高畑:
久石さんは少しおおげさにおっしゃっています(笑)。でも主人公の悲しみに悲しい音楽というのではなく、観客がどうなるのかと心配しながら観みていく、その気持ちに寄り添ってくれるような音楽がほしいと。久石さんならやっていただけるなと思ったのは『悪人』(李相日監督)の音楽を聴いたからです。本当に感心したんですよ。見事に運命を見守る音楽だったので。

久石:
普段は喜怒哀楽みたいな感情的な表現を求められることがとても多いんです。例えば「夕焼けを見て感動した気持ち」とか。でも、極力そういうところではなく、ムードに流されずに作ってきたつもりですし、『悪人』はそれがうまくいった作品でした。しかし高畑さんの指示はその上をいっているので大変でした。山水画のように省略されている絵が多く、音楽でも同じことを望まれました。そこでまず核となる部分を作ったほうがいいだろうと「生きる喜び」と「運命」という二つのテーマに取り組むことにしました。

―高畑さんの中では絵コンテが上がった段階で、どこに音楽を入れるか明確なプランがあったのですか?

高畑:
絵コンテではあまり考えないで最後の段階で計画します。で、書いていただいた音楽はどれもよかったのですが、どの程度入れていくかということについては最後まで悩みました。このシーンはこう観てほしいと音楽が先行するのは本当に嫌なんです。しかし今度は「ここにも入れたい」と欲張った。そうすると音楽が素晴らしくても過剰になってしまうのではないかと心配になる。それでいろいろ抑え気味にとか、間をあけつつとか、久石さんにもご苦労をおかけしました。これでよかったんだと思えたのは初号試写の時ですね。もう考えても無駄ですから、いろいろ考えずに観られたんです。

久石:
高畑さんが持っている創造性がこちらに影響した結果ですよね。僕の場合、音楽の組み立て方は論理的に考えるんですよ。高畑さんが自ら書かれた「わらべ唄」が重要なところに何回か出てきますが、この曲は民謡などで使う5音音階的な方法を使っていて、気をつけないと非常に安直に聞こえてしまう。そこで整合性をとるために「わらべ唄」に乗せる和声やリズムを工夫したりして。

高畑:
久石さんの作られた旋律と「わらべ唄」に一体感が出たのはうれしかったですね。

-作曲家である久石さんにあの曲を提案するのは勇気が要ったのでは?

高畑:
そうですね。おずおずと出しました(笑)。

久石:
あははは。

高畑:
ごく自然に聞ける「わらべ唄」のくせに、山川草木とか四季とか、具体的観念を網羅するというありそうもないものがほしくて、言葉とメロディーが切り離せなかったんです。それでつい自分で作っちゃった。内容的には主題だけど、どのくらい映画にこの曲を出すかどうかということは悩みました。音楽をお願いしているのに「ここに入れてもらえませんか」なんて(笑)。

―久石さんは「わらべ唄」を聴いてどう思われたのですか。

久石:
もし自分が書いたとしても、どこまでシンプルに書くかという点では同じだったと思うので、抵抗はなかったですね。むしろ状況内の音楽として「わらべ唄」と琴のために作った曲が共存できることが分かったし、あの唄があったおかげで全体が立体的になりましたね。

 

化学反応を起こした二人の創造性

―物語の最後、かぐや姫が天上に上がっていく曲はそれまでの流れと違っていて驚きました。

高畑:
阿弥陀来迎図という阿弥陀さまがお迎えにきてくれる絵があります。平安時代以来、そういう絵がたくさん残っているんですけれど、その絵の中で楽器を奏しているんですね。ところが描かれている楽器は正倉院あたりにしかないような西域の楽器ばかりで、日本ではほとんど演奏されていない。だから絵を見ても当時の人には音が聞こえてこなかったと思います。でも、打楽器もいっぱい使っているし、天人たちはきっと、悩みのないリズムで愉快に、能天気な音楽を鳴らしながら降りてくるはずだと。最初の発想はサンバでした。

久石:
サンバの話を聞いたときは衝撃的でした。「ああ、この映画どこまでいくんだろう」と(笑)。でも、おかげでスイッチが入っちゃいましたね。映画全体は西洋音楽、オーケストラをベースにしたものなんですけど、天人の音楽だけは選曲ミスと思われてもいいくらいに切り口を替えようと。ただ完全に分離させてしまうのもよくないので、考えた結果、ケルティック・ハープやアフリカの太鼓、南米の弦楽器チャランゴなどをシンプルなフレーズでどんどん入れるアイデアでした。却下されると思って持っていったのですが、高畑さんからは「いいですね」って。

高畑:
これは、久石さんも心がけておられる、映画音楽の基本は絵に対して対位法的でなければいけないというのと関連はありそうですけど。

久石:
日本の映画で言ったら「野良犬」のラストが典型的ですよね。刑事と犯人が新興住宅地の泥沼で殴り合っている時に、ピアノを弾いている音が聞こえてくる。当時ピアノを持っている家はブルジョワなわけで、若奥さんが弾いている外の泥沼で刑事と犯人が殴り合いをすることで、二人とも時代に取り残されている戦争の被害者だということが浮き彫りになる。天上の音楽を悩みのないものとして描くのも同じアプローチの対比ですよね。

高畑:
むしろ難しかったのは、捨丸とかぐや姫が再会する場面の曲です。それまで出てくる生きる喜びのテーマより、もうひとつ別のテーマが必要だと思ったんです。命を燃やすことの象徴として男女の結びつきを描いているので、幼少期の生きる喜びのテーマとは違う喜びがそこに必要ではないかと。それで別のテーマを依頼して書いていただいたのですが、やっぱり違うと思ってしまった。それで元に戻って、再び生きる喜びのテーマをここで高鳴らした方がいいと久石さんにお伝えしたら「最初からそう言ってましたよ」って(笑)。

久石:
直後に天人の音楽という今までの流れとはまったく違うテーマが出てきますからね。捨丸との再会シーンで切り口を替えちゃうと、ちょっと過剰になるんじゃないかという印象を持っていました。それで元通りでいきましょうということになったら、逆にものすごい勢いの曲が生まれましたよね。

 

きっと、それでも生きる価値がある

―監督は「この映画が日本のアニメーションを一歩進めた」と語っていますが、久石さんがこの仕事を終えて感じたことは。

久石:
自分にとって代表作になったということです。作る過程で個人としても課題を課すわけです。これまでフルオーケストラによるアプローチをずいぶんしてきたのが、今年に入って台詞と同居しながら音楽が邪魔にならないためにはどうしたらいいかを模索していて、それがやっと形になりました。

―いつか高畑さんとやってみたいという気持ちは久石さんの中にもあったのですか?

久石:
当然。30年前からずっと思っていましたよ。30年越しの夢が叶かなった気分。

高畑:
久石さんはすごく誠実な方なんです。いい音楽を書いてくださるというだけでなくて、こんなに映画のことを考えて、細部までしっかりちゃんとやってくださる方はなかなかいません。

―思い起こせば30年前、初めて久石さんにお会いしたときのことは覚えていますか。

高畑:
もちろん。でも久石さんのことは何も知らなかったんです。それが『風の谷のナウシカ』のイメージアルバムを作っていただき、それを繰り返し聴いているうちに、映画に必要なものがこの中に全部入っているんじゃないかと気がついた。これは驚きであり喜びでしたね。

久石:
それがあったから僕は今こうしているんですよね。

高畑:
久石さんの音楽で僕が感心したことがあるんです。それは『となりのトトロ』で「風のとおり道」という曲を作られたのですが、あの曲によって、現代人が“日本的”だと感じられる新しい旋律表現が登場したと思いました。音楽において“日本的”と呼べる表現の範囲は非常に狭いのですが、そこに新しい感覚を盛られた功績は大きいと思います。

久石:
今回の音楽もその路線上にあるんですよ。「わらべ唄」の5音音階を主体にした新しいアプローチを『かぐや姫』では取り組んでみたかった。「竹取物語」ではかぐや姫とはどういう思いで地上に降りて、なぜ帰っていったのかという説明がほとんどない。これは距離をとって見ていくことで感じるものじゃないかと思うようになった。

高畑:
まさにそうですね。今存在している「竹取物語」は不完全なもので、その裏側に隠された本当の物語があるんじゃないかという仮説を思いついてしまったんです。だから真実の裏ストーリーを作れば、かぐや姫の気持ちはわかるだろうと。ただわかるんだけど、見る人が自分と主人公を同一視していくような感じではなく、距離を持って見つめる方がじわっとくると思いました。“思い入れより思いやり”と言っているのですが、自分がぞっこん惚ほれ込んで思い入れてしまうより、想像力によって他人の気持ちがわかる映画にしたかったんです。

久石:
この映画を観たあとに深い感動があるのは、多分それなんですよ。その場その場で感情をあおったりしないけど、2時間じっと観てきて最後に天上に去ってく時に、それでも人間っていいなと感じる。

―高畑さんの作品はこれまでもある特定の時代とか状況を描きながらそこから写し鏡のように“今”が見えてきます。制作期間が長いと現代が抱えている課題と作品の接点をどうとらえようとしていたのですか。

高畑:
制作が本格化した頃に東日本大震災がありました。それによって内容が影響されたわけではありませんが、人がたくさん亡くなられたり、家が流されたりするのを見て、無常観というか、この世は常ならないんだとあらためて思い知らされました。生き死にだってあっという間に訪れる。にもかかわらず強く生きていかなくちゃならない。そこに喜びもある。そういうことと、この作品も無関係じゃないんです。

久石:
東洋の発想だと魂は死なずに、また生まれ変わる…。人間になるのか牛になるのかわからないんだけど繰り返す。ふと思ったのですが、つまりかぐや姫というのはそれをデフォルメしている物語なのかもしれませんね。「いつか帰らなきゃいけない」という命題に生と死が凝縮されている。

高畑:
そうですね。この土地、要するに地球は、すごく豊かで命に満ちあふれているわけですよね。それを考えたとき、月は対照的なものとしていいですよね。光はあるかもしれないけど太陽の光に照らされているだけで、色もなければ生命もない。そこにあるのは原作にも出てくる“清浄”だけ。地球は清浄無垢より大変かもしれないけど、生きる価値がある。そのことをもっと噛かみ締めたいという思いで作ったつもりです。

久石:
限りある命だからこそ、ですよね。

※この対談は、2013年11月25日付の読売新聞東京本社版にて、広告特集として掲載されたものの再録です。

(かぐや姫の物語 ロマンアルバム より)

 

久石譲 x 高畑勲

 

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かぐや姫の物語 ロマンアルバム

 

Blog. 久石譲 「風立ちぬ」 インタビュー スポーツ報知特別号より

スポーツ報知「スタジオジブリ特別号」

Posted on 2014/12/2

2013年公開 映画『風立ちぬ』
監督:宮崎駿 音楽:久石譲

連動企画として2013年8月2日スポーツ報知「『風立ちぬ』公開記念 スタジオジブリ特別号」が主要コンビニ、駅売店、一部地域を除くYC(読売新聞販売店)、映画館で発売されました。

主題歌「ひこうき雲」を歌う松任谷由実をはじめ、庵野秀明氏、瀧本美織らのロングインタビューを収録。「永遠の0」の百田尚樹氏、直木賞作家の朝井リョウ氏らが、その魅力を語っています。「風の谷のナウシカ」から足かけ30年のスタジオジブリの歴史をスポーツ報知の紙面で振り返るなど永久保存版です。

 

そこに収められた久石譲のインタビュー内容です。

 

 

ナウシカから全作タッグ30年 毎回、これが最後という思い

現代を代表する作曲家の久石譲さんは映画音楽家としてのデビュー作となった「風の谷のナウシカ」(1984年)以降、すべての宮崎監督作品を担当している。「振り返ってみれば、そうなっていたというだけ。毎回、これが最後という思いです。クリエイティブなことでの真剣に向き合った結果がこうなったのは、本当に奇跡的」と話した。

宮崎監督の徹底した音へのこだわりを受け、久石さんも真骨頂で応えた。宮崎監督から出たのは「モノラル録音」と「効果音は人間の声で」ということだった。イメージアルバムを作らなかったのも異例だ。

 

宮崎さんは「音楽はできるだけ、そぎ落としたシンプルなものを」と

久石:
「モノラル?『なんで?』って思いましたね。そのうち考えが変わるだろうと思ったけれども、変わらなかった(笑)。5.1チャンネルとかサラウンドだと何でも詰め込めちゃうんですよ。それがモノラルだと、スピーカー1個。そこにセリフも効果音もすべて入る。宮崎さんは最初から『音楽はできるだけ、そぎ落としたシンプルなものを』とおっしゃっていた。僕の方もそれがいいと思っていた」

絵コンテを見て、イメージを膨らませ、いつも以上に打ち合わせを重ねた。

久石:
「結構苦しみましたし、大変でした。というのも、今までのファンタジーとは違って、今回は実写に近い。そういう場合、テーマ曲はどうあるべきなのかをつかむまでに時間がかかった」

そのテーマ曲はロシアの代表的な弦楽器「バラライカ」が切なくも美しい主旋律を奏で、ロシアのアコーディオン「バヤン」がもり立てるエスニック風の組み立て。映像に寄り添い、あまり主張しない音楽を心がけたという。

久石:
「宮崎さんの作品は世界中の人が待っていますからね。音楽にも格が必要だと思っていたので、今回もですが、ホール録音が多いんです。でも、『今回は大きくない編成がいいんだ』というので、そのスタイルを切り替えた。これはかなり難しかった。オーケストラにはないものをフィーチャーし、結果的に一番小さい編成になった。今までとは違う世界観を持ち込んだつもり」

元来、映画好き。自身も監督経験があるだけに、映像の視点でも作品を見ている。

久石:
「主人公が設計士だと、本人があまり動かない。観客は感情を乗せにくいが、大丈夫なのかなと思いました。こういう設定はものすごく難しい。映像にしづらいものなのかもしれない。だとすると、このクオリティーで、新しい地平線を切り開くような作品を、しかもこれだけ力強く描いた宮崎さんはすごい。今でも新たな道を進もうとしている宮崎さんを心から尊敬します」

 

ずっと背中を追っかけている

宮崎監督とのタッグは約30年。

久石:
「たまたま続いているだけ。毎回、これが最後という思いでやっています。宮崎さんが好きなんです。少年の気持ちをそのまま持っている人で、すごく周りに気を使う。僕にとっては人生のお兄さんみたいなものです。ずっと宮崎さんの背中を追っかけている。迷った時に、宮崎さんなら、どういうふうに結論を出すんだろうと思うんです。」

2008年8月には「久石譲 in 武道館 -宮崎アニメと共に歩んだ25年間-」と題した記念公演も行ったが、好きな作品は?と聞くと、「ナウシカ!」と即答。最初の作品だけに思い入れがあるという。

久石:
「普段、昔のことは考えない。『代表作は何ですか?』と聞かれて、『次回作』と言うのが一番答えとして正しいと思う。そんな気概がなかったら、いいものは作れない。作るときは全精力を傾けている。『ポニョ』を作った頃の自分と今の自分はまったく違うし、『ナウシカ』の時とも違う。人間は変わっていく。とどまっていたら、ダメですからね」

宮崎アニメを手がけることは他の作品にも作用している。

久石:
「作曲というのは点ではなく線。一つの仕事をすると、必ずやりきれなかったことや反省が出てくる。弦の使い方が良くなかったなとか、ちょっとうるさく書きすぎた、とか。それを次の作品でクリアしていく。クリアしても、次の問題が出てくる。宮崎さんの作品はほぼ4年に1度。オリンピックのようなもの。節目節目でクリアしなければいけない課題が出てくるんです」

最近は「東京家族」で山田洋次監督、「奇跡のリンゴ」で中村義洋監督と組み、ますます幅を広げている。

久石:
「以前は音楽家である自分の方が大事だったから、音楽として評価されたいとも思ってしまっていたが、今は映像と一体化する、映像用でしか書けないものを、と徹底するようになった。映画音楽として極めたい」

目下、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」(2013年)、山田洋次監督の「小さいおうち」(2014年)など巨匠の新作を作曲し、夜はクラシックを学ぶ多忙な日々だ。

久石:
「宮崎さんは72歳、高畑さんは77歳、山田監督は81歳。ちゃんと生きている人はすごい。創作意欲は衰えず、むしろ強くなる。『年を取るって悪くないな』と本当に思いました。この組は助かるんですよ。(62歳の)自分は若手になるから(笑)。ものを作るって、簡単にはいきません。高畑さんは10年くらい『かぐや姫の物語』をやっている。そんな長い期間、ずっと集中し続けられるって、とんでもないことですよね。そういう人が心血を注いで、一つの作品を作っている。そのそばにいて、音楽を提供していく責任と、その人たちに育てられながら、ここまできたんだなと思います」

(スポーツ報知「『風立ちぬ』公開記念 スタジオジブリ特別号」 より)

 

 

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スポーツ報知「スタジオジブリ特別号」

 

Blog. 久石譲 「風立ちぬ」 インタビュー 月刊ピアノ2013年8月号より

月刊ピアノ 8月号

Posted on 2014/12/2

2013年公開 スタジオジブリ作品 映画『風立ちぬ』
監督:宮崎駿 音楽:久石譲

「月刊ピアノ 2013年8月号」に久石譲インタビューが掲載されています。

 

 

今はまだ『風立ちぬ』のことはうまく話せないんです

『風立ちぬ』の音楽について聞くべく訪ねたのは、つい1週間前に、その音楽制作が終わったばかりの久石譲。インタビュー開始直後の第一声は、「今はまだ話せないんですよ」。語れるほどの整理がついていないと言う。この音楽制作にはかなり悩み、長い月日を費やした。最後には、映画の世界から抜け出せなくなるくらい作品と同化した。「だからすぐには冷静には振り返れない」。作品と真剣に向き合う作曲家の生の声が聞けた。

 

映画と同化するくらい、真剣に書いている

-『風立ちぬ』の音楽はどんな思いで書かれたのですか?

久石 「うーん……難しいな。ついこのあいだまで作っていたから、まだ客観的に振り返ることができない状態なんですよ。あまりにも大変だったから(笑)。もう少したったら、冷静に話せるのかもしれないですけどね。ひとつの作品にこれだけ長く時間をかけたのは初めてだし、一番苦しんだ作品かもしれない。終わったらボロボロになっちゃって、じつはまだ抜けきれていないんですよ。最近は”映画1本作るって、こんなに難しいことなのか”と思うようになりましたね」

-それはどうしてですか?

久石 「自分と映画が同化するくらい真剣になって書くようになったんですよね。音楽家として映画に携わったというスタンスよりも、自分が映画の一員になり、監督の分身になるくらいに入り込む。以前は音楽家としての野心みたいなものも強かったけれど、『悪人』(2010年)以降かな、引くことを覚えた。映画と音楽が一体化したとき、どう観客に訴えかけるか、どう伝えるかを中心に考えるようになったんです。音楽はドレミファソラシドと半音を足して、12個の音の組み合わせでしかない。それにリズムとハーモニーでしょ。しかも映画音楽では調性やメインテーマが求められるわけだし、映像やセリフ、効果音などとのバランスや制約もある。やれる範疇が決まってるんです。非常に限定されているなかでオリジナリティを出すのは、本当に大変な作業なんですよ」

-『風立ちぬ』のサントラは、映画の世界観、テーマに同化していることはもちろん、ひとつの音楽作品としても成り立っていますよね。

久石 「自分ではわからないけど、結果として、そうなっているといいなとは思いますね。『奇跡のリンゴ』(2013年)までは二管編成のフルオケで書くことが多かったんですよ。今回もそれで臨む予定だったんだけど、途中で宮崎監督から”小編成がいい”という話があって、急遽変更したんです。小オーケストラというのかな、その小さくした感じはうまく出せましたね。今回の特徴でいうと、ロシアのバラライカやバヤンという民族楽器、ギターなどをオーケストラと対等になるほど重要なところに入れていること。そういう意味ではオープニングが勝負だったんですよ」

 

『風立ちぬ』はオープニングが勝負だった

-オープニングで流れる「旅路」がポイントだった、と。

久石 「そう、(飛行機が)飛び立つまでは民族楽器だけなんです。あとはピアノが少し入るだけで、そのあと、弦が入ってくる。『風立ちぬ』のような大作だと、頭でドーンと派手にいきたくなるんだけど、今回はグッとこらえているんです。結果としては、それが功を奏したんじゃないかなと思っています。そこはね、宮崎監督の指示も非常に明快だったんですよ。”空を飛んだりするけれど、すべては主人公、二郎の夢のなかの話。夢の思いで統一する、それはイコール、空を飛んだからといって、派手な音楽になるわけではない”っていう」

-なるほど。

久石 「おそらく、観客をあそこでつかんじゃうんじゃないかと思うんですよね。もうひとつ、今回はモノラルだったんですよ。ステレオの場合、あのオープニングはバヤンのメロディとギターが聴こえていえればOKなんだけど、モノラルだと(音が聴こえてくる場所が)1ヵ所しかないでしょ?そうすると、全体のバランスを細部にわたって楽器ごとに直していかなくてはいけないんです。通常よりも細かい作業が必要で、それは本当に大変でした。ただ、それがうまくいくと、空間が広がっていくんですよね。レコーディングの基本はモノラルにあるんだなということを再認識したし、とてもいい経験になりました」

-最後に今後の活動予定について教えてもらえますか?

久石 「自分のベーシックなスタンスをクラシックに戻すつもりでいます。もともとは現代音楽の作曲家でスタートしているからね」

-映画音楽家としての活動は…?

久石 「そちらをやめると言ってるわけではないよ。”久石に音楽を書いてほしい”と望まれるのは、作家として最高の喜びですから。そのときは全力を傾けて、映画と同化するくらいの気持ちで作る…そのスタンスは変えないです」

(月刊ピアノ 2013年8月号 より)

 

 

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月刊ピアノ 8月号

 

Blog. 久石譲 「風立ちぬ」 インタビュー ロマンアルバムより

風立ちぬ ロマンアルバム

Posted on 2014/12/1

2013年公開 スタジオジブリ作品 映画『風立ちぬ』
監督:宮崎駿 音楽:久石譲

映画公開と同年に発売された「ロマンアルバム」です。インタビュー集イメージスケッチなど、映画をより深く読み解くためのジブリ公式ガイドブックです。

宮崎駿監督最新作であり、最後の長編映画となる作品です。音楽制作における久石譲の貴重なインタビューも収録されています。

 

 

「『風の谷のナウシカ』以来、宮崎監督作品の音楽を手掛けてきた久石譲だが、ファンタジーではない今作は世界観を掴むのに苦心したという。『風立ちぬ』の音楽、その核心とは?」

ロシアの民族楽器を使ったオープニング曲「旅路」

-『風立ちぬ』の音楽には、いつ頃から着手されたのでしょうか?

久石 「2年以上前ですね。『風立ちぬ』は今までの宮崎監督にはないリアルな時代設定、ある意味実写に近い作品だったので、その中で音楽がどうあったら良いのか、感覚を掴むのに時間が掛かってしまったんです。まず絵コンテを見ながら音楽の世界観を考えるのですが、すぐに核心が掴める時とそうでない時があるんですよ。例えば『崖の上のポニョ』はその場でモチーフが浮かびましたが、『風立ちぬ』は結局1年と2か月くらい掛かりました。その間、宮崎さんとも何度も会って、曲を聴いてもらっては話し合いを重ねました。」

-『風立ちぬ』の音楽の特徴を挙げるとすれば、何がありますか?

久石 「まずは、オーケストラを小さな編成にしたことです。宮崎さんも「大きくない編成が良い」と一貫して言っていました。それから鈴木プロデューサーから出たアイデアで、ロシアのバラライカやバヤンなどの民族楽器や、アコーディオンやギターといった、いわゆるオーケストラ的ではない音をフィーチャーしたことです。それによっても、今までとは違う世界観を作り出せたんじゃないかと思います。」

-民族楽器は、オープニング曲の「旅路」から使われていますね。

久石 「オープニング曲は、飛行機が飛び立つまでは、ピアノがちょっと入るくらいで、あとは民族楽器だけです。大作映画では、頭からオーケストラでドンと行きたくなりますけど、それを抑えたのが凄く良かったですね。二郎の夢の中なので、空を飛んだとしても派手なものになるわけではないと、宮崎さんは言っていましたし、僕としても、観る人の心を掴むオープニングに出来たと思っています。この曲があったから、映画全体の音楽が「行ける!」と感じました。」

-宮崎監督が、オーケストラを小さな編成にしたがった理由はなんだと思いますか?

久石 「一番大きかったのは、モノラルレコーディングをしたということです。台詞も効果音も音楽も、一つのスピーカーから全部聴こえることになるので、音楽はあまり主張し過ぎないものになるのだろうなと思っていました。音の情報量を出来るだけそぎ落としたものを作りたいんだろうなと。それは成功したと思いますが、作業的にはモノラルは大変でしたね。」

-モノラル録音の大変さとは、どういうところなのですか?

久石 「モノラルは一カ所から音が出るから、それぞれの楽器の微妙なバランス調整が必要になるんです。通常よりも細かい作業が必要で、不眠不休の状態が続きました。でも左右が無く、遠近だけというところに面白さがあって、上手く行くとパァッと音の空間が広がるんです。やっぱりレコーディングの基本はモノラルにあると思いました。良い経験をすることが出来ました。」

-効果音が人の声を加工した物だということは、音楽に何か影響を及ぼしましたか?

久石 「効果音というのは、普通は人間の生理とは無関係の音なんです。でも、それを人間が口で作ると生理的な音になって、音楽に割り込んで来る。そこは宮崎さんとも話をして、色々調整しました。最終的には効果音も加工が入ってシンプルになり、音楽、セリフと調和して良い感じになったと思います。ここでも、モノラルで音の出どころを一点に集中したことが良かったですね。」

 

宮崎さんは僕にとって兄のような存在です。

-完成した映画を観て、いかがでしたか?

久石 「トータルとして、間違いなく良い作品になったと思います。宮崎さんの新たな第一歩と言いたいですね。タイトルに「の」も入っていないし(笑)。あの年齢になって、新しいことを今でもやろうとしていることには、心から尊敬します。実は最初、主人公の設計技師があまり行動的なタイプでは無いから、大丈夫かなと思ったんです。例えばナウシカは積極的に動いたじゃないですか。そうすると主人公の行動力に導かれて、観客もすぐに映画に入り込めるんだけど、今回のような設定はもの凄く難しいなと。でもそういったハードルを越え、高いクオリティで新しい地平線を切り開いた宮崎さんは凄いと思います。ただ音楽主体で観ると、個人的にはもっと出来たんじゃないかなと思うところもあるんです。中途半端にやっていないからこそ、心の中には何かがくすぶっていますね。」

-宮崎監督とは30年にわたるお付き合いになりましたね。

久石 「気付いたら、ここまで続いていたという感覚です。同じ音楽は一つとして無かったし、毎回毎回、これが最後だと思ってやって来たし。クリエイティブな仕事に真剣に向き合ってきた積み重ねがこの30年なんですね。一つ言えるのは、僕は宮崎さんが好きなんです。少年の気持ちをそのまま持ち続けている人ですし、僕にとっては人生のお兄さんみたいな存在です。」

-久石さんの映画音楽に向かう姿勢には、何か変化がありましたか?

久石 「以前は音楽家としての野心みたいなものが強かったですが、今は映像と音楽が一体となった時に、どう観客に訴え掛けられるかを中心に考えられるようになりました。映画音楽として、より徹底して作れるようになって来たなと思っています。」

(風立ちぬ ロマンアルバム より)

 

 

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風立ちぬ ロマンアルバム

 

Blog. 久石譲 「崖の上のポニョ」 インタビュー ロマンアルバムより

Posted on 2014/11/30

2008年公開 スタジオジブリ作品 映画『崖の上のポニョ』
監督:宮崎駿 音楽:久石譲

映画公開と同年に発売された「ロマンアルバム」です。インタビュー集イメージスケッチなど、映画をより深く読み解くためのジブリ公式ガイドブックです。

最近ではさらに新しい解説も織り交ぜた「ジブリの教科書」シリーズとしても再編集され刊行されています。(※2014.12現在「崖の上のポニョ」は未刊行 2016年以降予定)

今回はその原典ともいえる「ロマンアルバム」より、もちろん2008年制作当時の音楽:久石譲の貴重なインタビューです。

 

 

「宮崎駿監督 『崖の上のポニョ』を語る」

主題歌発表とされながらも、実質的には『ポニョ』という作品そのものの初お披露目となったこの会見。宮崎監督が公の場に、しかも作品の製作中に姿を現したのも久々ということもあり、大きな話題となった。また、この時まだ明らかにされていなかったポニョのビジュアルが、ハンドパペットという形でさり気なく披露されていたことに、果たしてどれだけの人が気づいたであろうか!?

 

宮崎駿 × 久石譲 × 大橋のぞみと藤岡藤巻

2007年12月3日
『崖の上のポニョ』主題歌 発表記者会見 於:スタジオジブリ

 

藤巻「全国のジブリファンに謝りたいです(笑)」

司会:
それでは会見の方を始めさせていただきます。最初に映画『崖の上のポニョ』原作・脚本・監督、そして主題歌では補作詞も担当されておられます宮崎駿監督から一言ご挨拶を頂きたいと思います。

宮崎:
仕事中で抜けてきたものですから、こんな格好(=エプロン姿)をしております(笑)。とても良い歌ができて良かったと思っています。この歌に負けないようなちゃんとしたハッピーエンドに辿り着かなきゃいけないと思ってるんですけど、まだ絵コンテが残っておりまして、ハッピーエンドになるかならないかというところでございます。

司会:
それでは続きまして、映画『崖の上のポニョ』では音楽を担当、また主題歌で作曲と編曲を担当されました久石譲さん、宜しくお願いします。

久石:
4年ぶりの『ハウル(の動く城)』以来の作品で、今回音楽をやるのにとても緊張していたんですが、絵コンテのA・Bパートを見せてもらった段階で、最初の打ち合わせの時にもうこのテーマのサビが浮かんできました。あまりにもシンプルで単純なものですから、これはちょっと笑われちゃうかなと思って、2~3ヶ月くらい寝かしたんですけど、やはりそのメロディーが良いなと思って、思い切って宮崎さんに聴いてもらったところ、「このシンプルさが一番いいんじゃないですか」ということで。けっこう、出足は非常にスムースです。「出足は」ということろを強調している理由ですが(笑)、来年の8月までまだまだ時間があって、3つか4つくらい山がくるだろうと思いつつ、今のところ年は越せそうだと思っています。そういう状況です。

~中略~

 

久石「宮崎さんは最高の作詞家です。」

司会:
皆様の質疑応答をお受けする前に、私の方からいくつか主題歌の制作に関しての代表した質問をさせて頂きますので、よろしくお願い致します。まず宮崎監督にお聞きしたいのですが、久石さんにどのような作品のイメージをお伝えしたのでしょうか。

宮崎:
さっきこういう質問をするというのを貰ったんですが……(と、ポケットから紙を出す)。久石さんにメモを渡したような気がするんですが、忘れちゃいました(一同笑)。久石さんが覚えているかもしれない(笑)。

久石:
強力なラブレターのような手紙を頂きまして……いや、作品に関してのラブレターですよ?(笑)我々が理解しやすいようにストーリーと現実の世界に関するいろいろなメモを頂きました。おそらく作家の方って最初に全て見えてて始まるのではなくて、歩みながら「ああ、そうだったんだ!」とすごく大事なものを生きてるように掴んでいく、そういう作業の一環として書かれたんじゃないかな、と僕は思うんですが。その中に「海のおかあさん」とか「ポニョ来る」とか、色々と散文詩的、あるいはメモ的なものが今回いつもより非常に長くて、十何ページありました。実際イメージアルバムを作っていた時にも……覚えていませんか?(と、宮崎監督を見る。宮崎監督は首をかしげ、(一同笑) 全てはそこ(=メモ)から出発して、そこに戻って……そういう作業を繰り返しました。そこに宮崎さんは歌になるとは思っていない、いくつかの詩があります。ただし、これは『ラピュタ』以来だと思いますが、『(天空の城)ラピュタ』の時もそういうのを貰いまして。僕としては宮崎さんは最高の作詞家と思っていまして、いわゆるプロの作詞家が書いた詩ではないんですけれども、宮崎さんから頂く詩っていうのは、何故かこうメロディーが浮かんでしまうものですから、先週完成したイメージアルバムでは結局歌が6曲入っています。これは全部宮崎さんの詩から作りました。結局、考え方としてはいつも宮崎さんの詩からスタートする、そういうことでした。

司会:
ありがとうございました。監督、それで宜しいですか?

宮崎:
私の隣で仕事をしてます近藤勝也という作画監督ですがね、ちょうどまだ3歳にならないかの子を横にしながら、子育てに悲鳴を上げつつ、この映画に関わっているんですが、(その状況が)映画の内容に非常にリンクしていたんですね。それで「詞をやらないか?」と言ったら「やりたい」と言うものですから。(僕は)補作詞ということになっていますが、焚き付けただけで「これはお前さんがやった方がいい」ということになりまして、主題歌は近藤勝也が作詞をしました。本人はもの凄く儲かるんじゃないかと思っているんですが(一同笑)、そこは何も言わないようにしていますけど。そういう訳で、これは近藤勝也という人間が自分の子供を思い浮かべながらやったものです。とても面白いですね。

~中略~

藤巻:
補足説明させて頂きます。ポニョの歌は童謡みたいに可愛い曲なのに、『フジモトのテーマ』は非常に暗い曲で「どうして2曲カップリングなんですか?」とプロデューサーの鈴木敏夫さんに伺ったところ、「お父さんが会社から帰って、お風呂に入って、その後フト独りになった時の歌が『フジモトのテーマ』なんだ」と。「両方ともお父さんを貫くテーマなんだ」という話でした。

宮崎:
フジモトっていうのは、ポニョっていう……(と、後ろに貼ってあるキービジュアルを指して)ここに絵がありますけど、その人間の父親なんですよ。話をするとややこしいので省きますけど、作詞をした近藤勝也はまさにフジモトそのままなんです。日本のお父さんの非常に大きな部分を象徴しているようなキャラクターなんです。フジモト、フジモトって言ってるんですが、実はポニョの父親なんです。

司会:
(『ポニョ』主題歌は)「お父さんと娘が一緒にお風呂に入って歌うイメージだ」という話がありましたが、そのようなイメージをお持ちですか?

宮崎:
いや、それは久石さんの曲ができて、それにあてて作詞をしようとした時に、当然のように湧いて出てきたものです。小さい子というのは身体性というか、心の問題ではなく、とても物理的というか、肉体的なものですから、そういう気分を歌の中に盛り込めたらいいな、と。そのためにはこの曲は幼稚園や保育園のお遊戯のようでとても良いんじゃないか……「お遊戯のような」というのは久石さん自ら最初に言ったんですが(笑)、僕も「そうだなぁ、これはいいや」と思いました。

 

宮崎「この主題歌は幸せな曲です」

~中略~

質疑:
とっても楽しいリズミカルな曲ですが、今、監督の中でこの曲はオープニングなんでしょうか、それともエンディングなんでしょうか?

宮崎:
いや、最終決定はまだしてませんけど、オープニングでこれを流すと、その後は皆でピクニックに行って、楽しい映画にしかならないような気がするので(一同笑)、どちらかといったらエンディングだと思うんですけど。この曲がエンディングに流れて、気持ちにギャップが生まれないような映画を作ることが、久石さんからこの曲を渡された、のぞみちゃんが歌ってくれた歌に対するこちらの責任だと思います。

~中略~

質疑:
3人で歌っている声を聴いて久石さんの率直な感想をお聞かせください。また、苦労した点もお聞かせください。

久石:
(苦笑しながら)何と答えたらいいんですかね……最初にこの3人で行くと聞いた時は「……本気?」と思ってました(一同笑)。やはりプロではないので、それはやっぱり色々問題はあるんですが、考えてみるとこの曲のコンセプトは「子供たちが幼稚園で歌ったりできる曲」ということで考えたメロディーなので、その時に「プロの人や売れてる歌手が歌ったら成立するのか?」といったら、逆にそれはおかしいと思ったんですね。藤岡藤巻さんとのぞみちゃんが歌うということは、イコール一般の代表者──誰でも歌えるというコンセプトで理解しました……ああ、上手く言えて良かった(一同笑)。

~中略~

 

宮崎「映画と主題歌の基盤は共通している」

~中略~

質疑:
今までのジブリ作品の主題歌は、もはや世代を越えたスタンダードナンバーとなっていますが、そういった状況をどのようにお考えでしょうか?

久石:
歌というのは、どうしてもメロディーだけではなくて言葉と一緒になって響きますよね。プラスそこに映像が加わることで、頭で理解するよりも(心で)感じてしまう世界がありますよね。それって多分宮崎さんが作られた映像と言葉、メロディーがすごく幸せに今まで上手くいっていたから、皆さんに届いていると僕個人は思っています。

宮崎:
『(となりの)トトロ』の時も「歌を作って子供たちに歌ってもらおう」とイメージアルバムを作る段階でハッキリ方針を立てていたんです。色々な幼稚園で歌ったり、使ってくれているんですけど、なんか作曲家の方には全然お金が入らないようなので(一同笑)、気の毒だな、と少し思っています。

久石:
いえ、大丈夫です(笑)。

(崖の上のポニョ ロマンアルバム より)

 

 

掲載収録されているのは、主題歌発表記者会見であり、インタビューも複数人数です。ここではあえて、「崖の上のポニョ」の音楽に関する、主に久石譲にフォーカスしたインタビュー箇所のみを抜粋しています。予めご了承ください。

 

なお「ジブリの教科書 15 崖の上のポニョ」(2017刊)にも同内容が再収録されています。

 

 

そのなかに本書のために語り下ろし、鈴木敏夫プロデューサーによる映画『崖の上のポニョ』当時を振り返ったインタビュー。主題歌エピソードも必見です。

 

 

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崖の上のポニョ ロマンアルバム

 

Blog. 久石譲 「ハウルの動く城」 インタビュー ロマンアルバムより

Posted on 2014/11/29

2004年公開 スタジオジブリ作品 映画『ハウルの動く城』
監督:宮崎駿 音楽:久石譲

映画公開と同年に発売された「ロマンアルバム」です。インタビュー集イメージスケッチなど、映画をより深く読み解くためのジブリ公式ガイドブックです。最近ではさらに新しい解説も織り交ぜた「ジブリの教科書」シリーズとしても再編集され刊行されています。(※2014.11現在「ハウルの動く城」は未刊行 2016年以降予定)

今回はその原典ともいえる「ロマンアルバム」より、もちろん2004年制作当時の音楽:久石譲の貴重なインタビューです。

 

 

「タイミングより感情の動きを大切にしたサウンドトラック」

宮崎アニメには欠かすことの出来ない作曲家、久石さん。宮崎監督も立ち会ったレコーディングは、かつてない規模で行われたという。外見も内面も大いに揺らぐソフィーのために作られた、あるメロディとは?

 

イメージアルバムは本格的な交響組曲に

-音楽制作に際して、ソフィーたちの町のモデルになっているフランスのアルザス地方に取材旅行に行かれたということですが、現地で何を感じましたか?

久石 「現地の空気感みたいなものが自分で分かったから、直接的な影響はなかったんだけど、『ハウル』の世界観を掴むのには、役に立ちましたね。とてもきれいなことろで、これはちょっと音楽的に奇をてらったことをするのはやめようと。オーソドックスに作ってみようと思いました。」

-そして、まずはイメージアルバムに取りかかるんですよね。

久石 「そうなんだけど、今回は最初からオーケストラの音というひらめきがあったので、いつものようなイメージアルバムではなく、本格的な三管編成のオーケストラで、音楽的にも完成度の高いアルバムを作ろうと考えました。それで、『もののけ姫』でもやったことがあるチェコ・フィルハーモニーとやることにしたんです。」

-なぜ最初からフルオーケストラで作ろうと思ったんですか?

久石 「ここ数年、個人的にもオーケストラとコンサートで回る機会が多くなっているので、頭の中でオーケストラが響きやすくなっているんだと思います。サウンドトラックというのは、シーンの長さやタイミングにどうしてもしばられてしまう、映像のための音楽なんですけど、交響組曲『ハウルの動く城』は、音楽だけで100%イメージできる世界を目指しました。特徴としては、普通サウンドトラックではセリフの邪魔をしてしまうためにあまり使わないブラスを、かなりフィーチャーしています。それぞれの楽器を、テクニカルな面で限界近くまで引き出すことができたので、自分としても満足がいく作品になりました。」

-その分、ピアノがあまり使われていない印象がありました。

久石 「オーケストラ作品に徹したので、なるべくピアノは排除しました。逆に、サウンドトラックは主人公ソフィーの世界に寄り添って、もっと個人的な語り口になるので、そちらではピアノの出番が多くなるだろうと考えていました。」

-交響組曲の制作中は、ヨーロッパを移動していたということですが?

久石 「そう。プラハでチェコ・フィルのレコーディングをして、その後、ロンドンのアビーロードスタジオで、ミックスダウンとマスタリングをやりました。アビーロードを使うのは、10年ぶりくらいなんですけど、かつてアシスタントエンジニアだった青年が、今では世界的なエンジニアに成長していて、交響組曲を世界の第一線の音に仕上げてくれたんです。『ハウル』の交響組曲を巡る旅は、僕にとってかなりエキサイティングな旅になりました。」

 

自分の感覚と映画の接点となったワルツ

-さて、交響組曲の後で、今度はサウンドトラックに入っていくわけですが、その時、宮崎監督からは何か要望が出たんですか?

久石 「いろいろなやり取りをする中で、メインとなるテーマを一曲作って、そのバリエーションを中心にサウンドトラックを構成してほしいという話が出ました。ソフィーが18歳から90歳のおばあちゃんまで、それぞれのシーンで表情が変わっていくので、宮崎さんとしては、同じテーマを流し続けることによって、映画に統一性をもたせようとしたんだと思います。ただ、僕が意図するサウンドトラックというのは、キャラクターではなくシーンに付けるものなので、キャラクター的な説明を音楽に含ませていくのは、なかなか大変でしたね。」

-今おっしゃったメインのテーマが『人生のメリーゴーランド』ですが、あの曲はどうやって出来上がっていったのでしょうか?

久石 「今回は宮崎さんの音楽に対する要求が高くて、いつもより主体的に音楽を物語に参加させようとしているのが伝わってきました。なので、いつもはデモを作ってそれを送るだけなんですけど、今回は3曲スケッチを書いて、実際にジブリで自分でピアノを弾いて、宮崎さんと鈴木さんに聞いてもらいました。」

-それらはどんな曲だったんですか?

久石 「1曲目は、わりと誰が聴いても「いいね」と思えるオーソドックスなテーマでした。2曲目は、自分としては隠し球として用意していったワルツで。これは採用されないだろうと思って演奏したんですけど、途端に宮崎さんと鈴木さんの表情が変わって、すごく気に入ってくれたんです。それが『人生のメリーゴーランド』で、結局3曲目は演奏せずに終わりました。」

-なぜ、ワルツにしてみようと思ったんですか?

久石 「その理由はちょっと難しいんだけど、最近、個人的に音楽への要求度が高くなってきていて、映像に付けるには、自分のやっている音楽は強すぎるんですよ。でも、今自分が最も求めていることをやるのが作曲家としては正しいのだから、その落としどころをどうしようかと考えていて出てきたのが、ワルツだったんです。ワルツなら、自分がやりたい音楽と『ハウル』の映像の接点になってくれると。だから、宮崎さんに気に入ってもらえたのは、すごく嬉しかったです。」

 

デジタル時代を経たネオクラシカル

-サウンドトラックの演奏は、新日本フィルハーモニーで、東京・墨田区のすみだトリフォニーホールでレコーディングが行われたということですが、これはどのようなレコーディングだったんですか?

久石 「フルオーケストラで、ステージの後ろに大きなスクリーンを設置して、『ハウル』の映像を流しながら、僕が指揮を取りました。あれはすごくよかったですよ。日本では、いや世界でも最大級の規模のレコーディングになったと思います。」

-宮崎監督もレコーディングに立ち会われたんですか?

久石 「全ての曲をチェックしてもらいました。いつもだったら、確認のためだけに来て、黙って見ていることが多いんですが、今回は積極的に意見を出していただいて、それがとてもありがたかったです。レコーディングのディレクションを一緒にやっているという感覚が、いつもに比べて断然強かったですね。」

-スクリーンに実際の映像を映し出して、それを見ながら指揮を取ることのメリットは何ですか?

久石 「ふつうはテンポを管理するクリックという音を聴きながら、1/30秒のタイミングまでぴったり合わせて録るのが、サントラなんです。でも今回は、実際に映像を見ながら指揮を取ることで、画面の感情の流れと音楽の感情の流れをより大切にすることができました。キャラクターの感情が表現できていれば、タイミング的にはぴったり合わなくてもかまわないという考え方で、そのほうが『ハウル』という映画にはいいんじゃないかと思ったんです。」

-かなり感覚的な要素が強いレコーディング方法ですね。

久石 「最近、僕はオーケストラの指揮を執る機会が増えて、自分の指揮に自信がついてきたから取れた方法なのかな、と。それに当然ながら、宮崎さんが立ち会ってくれたからこそ出来たことです。演奏するたび、映像とのタイミングが違ってくるので、宮崎さんの判断がいつも以上に重要になってくるんですね。」

-映像もそうなんですけど、音楽もどこかアナログな、いい意味での曖昧さがあるのが、『ハウル』だと思うのですが?

久石 「そうですね。絵のほうもかなりCGを使うようになったし、我々もシンセサイザーとかコンピュータを駆使するようになった。そういう最先端の技術を使うだけ使った上で、アコースティックな、人間的な部分でしか表現できない何かを抽出したのが、今回の作品だと思います。だから、サウンドトラックとしては、オールドスタイルなハリウッドの感じと同じように聞こえるかもしれないけど、前の時代に戻ったわけではないんですよ。今やることが意味のある音楽、デジタル時代を経たネオクラシカルというような方法論の音楽になっていると思います。」

 

ケイマル氏のトランペット

-サントラのレコーディングでは、チェコフィルから一人だけトランペット奏者の方を招いたということですが?

久石 「ええ。交響組曲の中の「ケイブ・オブ・マインド」という曲のソロを吹いてくれたミロスラフ・ケイマルさんという方です。この曲は、サウンドトラックの打ち合わせの時に、試しにある重要なシーンに流してみたら、あまりにもぴたっりハマってしまったのでそのまま使おうということになったんです。でも、サウンドトラックの中に、チェコフィルの演奏を入れるわけにはいかないので、ケイマルさんをこの1曲のために呼ぼうということになりました。」

-他の方ではダメだったんですか?

久石 「ケイマルさんはこの曲を完全に自分のものにして吹いていたし、宮崎さんの心の中にも、ケイマルさんのトランペットの音が染みついていました。この曲を使うなら、ケイマルさん以外に考えられない、と。楽器というものは、他の奏者が演奏すると、全く音の表情が違ってしまうものなのですが、特にトランペットはそれが顕著なんです。」

-交響組曲もサウンドトラックも、完成度が高く、それぞれ違った魅力を持つ作品になったんじゃないでしょうか?

久石 「サウンドトラックは「人生のメリーゴーランド」を、これが同じ曲なのかと思えるくらい、いろいろ変奏しているので、そこを中心に楽しんでいただければ、と。交響組曲は、三管編成のフルオーケストラ作品としてかなり完成度が高いので、ぜひ聴いていただきたい。僕も、いつかコンサートで全曲まとめて演奏してみたいと思っているんです。」

(ハウルの動く城 ロマンアルバム より)

 

 

イメージ交響組曲「ハウルの動く城」から、「ハウルの動く城 サウンドトラック」まで、どちらも壮大なフルオーケストラサウンドを楽しめる作品です。かつ趣の違う作品になっているのは、やはり「人生のメリーゴーランド」。

イメージアルバムでは、「人生のメリーゴーランド」のメロディがないなかで、ひとつの『ハウル』の世界観をつくりあげています。メインテーマ曲「人生のメリーゴーランド」が誕生したのは、この後だからです。

そしてサウンドトラックでは、久石譲インタビューにもあるように、多彩な「人生のメリーゴーランド」のバリエーションを聴くことができます。かつジブリヒロインの象徴として響くピアノの旋律も堪能することができます。

 

 

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ハウルの動く城 ロマンアルバム

 

Blog. 「クラシック プレミアム 23 ~グリーグ / シベリウス~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 20014/11/28

「クラシックプレミアム」第23巻は、グリーグ / シベリウス です。

一般的に北欧の音楽家として語ることの多い、二人の偉大なる作曲家が紹介されています。

 

【収録曲】
グリーグ
ピアノ協奏曲 イ短調 作品16
ラドゥ・ルプー(ピアノ)
アンドレ・プレヴィン指揮
ロンドン交響楽団
録音/1973年

劇付随音楽 《ペールギュント》 作品23より
第2幕 〈イングリッドの嘆き〉
第3幕 〈オーセの死〉
第4幕 〈朝〉 〈アラビアの踊り〉 〈ソルヴェイグの歌〉
バーバラ・ボニー(ソプラノ)
マリアンヌ・エクレーヴ(メゾ・ソプラノ)
エスタ・オーリン・ヴォーカル・アンサンブル
プロムジカ室内合唱団
ネーメ・ヤルヴィ指揮
エーテポリ交響楽団
録音/1987年

シベリウス
交響詩 《フィンランディア》 作品26
《悲しきワルツ》 作品44の1
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1984年

 

 

毎号巻末に収録されている岡田暁雄さんの音楽史、今テーマが「名演とは何か(上)」だったのですが、みんなが思っているクラシック音楽の疑問がわかりやすく語られていました。

少しまとめてご紹介します。

 

「クラシック音楽のハードルの高さの一つは、作品名の抽象性や作曲家の多さと並んで、演奏家名の多さにある気がする。ただでさえ作曲家が多いうえに、「誰々作曲の何々の誰々の演奏はスゴイ!」みたいな話になるから話のややこしさが倍増してしまうのだ。恐らく人々は19世紀くらいまで、「演奏」にはあまり興味がなかった。例えばマーラーは大指揮者としても有名だったが、彼が指揮したオペラ公演のポスターを見ても、興味深いことに彼の名前は出ていない。当時はまだまだクラシックは、どんどん新作が作られる現在進行形の音楽だったのだろう。だから人々の興味はもっぱら「誰が何を作るか」に向けられ、「誰の何を誰がどう演奏するか」などどうでもよかったのだ。」

「事情が変わるのは20世紀に入ってからである。言うまでもなくこれは、あまり新曲が作られなくなり、レパートリーが固定し始めることと関係している。クラシック音楽の古典芸能化である。定期的に同じ作品が頻繁に上演されるから、必然的に人々は有名曲を覚える。だから「今度は何を誰がどう指揮するのだろう?」という関心とともに、コンサートに臨むようになるのだ。」

「演奏家が演奏に特化するようになったことも関係しているはずだ。以前は「演奏しかしない人」など音楽家ではなかった。マーラーやシュトラウスは大指揮者だったけれども、何より彼らはそれ以前に大作曲家であった。ラフマニノフだってそうだ。生前の彼は大ピアニストとして知られていたが、何よりまず作曲家として自分を意識していた。彼らにとって演奏とは、極論すれば、生活の糧を稼ぐための行為にすぎなかった。今も昔も作曲という商売は不安定であり、腕さえあるなら演奏のほうが手っ取り早く金を稼げるのである。しかるに20世紀に入ると徐々に、「演奏しかしない大演奏家」というものの数が増えてくる。「どの曲」ではなく「誰の演奏」に人々の関心が向けられるようになるにつれ、演奏家がスターになり始めた。これが20世紀である。」

「思うにクラシック・ファンの間には、レパートリーの定番名曲についての、暗黙の「この曲、かくあるべし」のイメージがある。別の表現をするなら、「名演」とはクラシック・ファンならたいがい知っている、定番名曲においてのみ成立する概念だという言い方もできるだろう。「あの曲といえばだいたいこういうイメージ」が共有されているからこそ、それを図星で射当てるような演奏が「名演だ」ということになるのである。」

「極論すれば「名演」とは、誰でも知っていて、すでに綺羅星のような演奏がある曲について、「まさにこの曲とはこういうイメージのものだ!」と人々に確信させるような説得力をもって初めて、成立するものなのである。「名演」とは、ひとたびそれを聴いてしまうと、「もうその曲はそれ以外にはありえない」、「それこそまさに作曲者が望んでいたことに違いない」と聴衆に確信させてしまうような魔力を備えた演奏を意味するのである。もちろん「その曲はそれ以外にはありえない」などというのは幻覚錯覚の類ではあろう。「作曲家が本当に望んでいたこと」など、後世の人間にわかるはずがない。だからあくまで名演とは、「嘘か真かは別として、聴衆をしてそう思い込ませてしまうような演奏」以上のものではない、ということにもなる。」

 

 

少し長くなってしまいましたが、なぜクラシック音楽の名盤や名演と言われるものが、ひとつの楽曲に対してでさえも多数に存在し、それがゆえに一つのハードルの高さとなっている点が、わかりやすく紹介されていたので抜粋しました。

あと、19世紀、20世紀、そして21世紀、さらには未来に、クラシック音楽や現代音楽というジャンルはどう位置づけられていくんだろう?作曲家・指揮者・演奏家の関係性やポジションやバランスはどう変化していくんだろう?そんなことをふと思いふけったのもあり。

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第23回は、
絵画に描かれた時間と音楽における空間表現

前号に続いて、時間と空間について、具体的な絵画やクラシック音楽を紹介しながら進みます。ただ、今号のエッセイが執筆されたのは10月頭。つまり10月12日の「久石譲&新日本フィル・ハーモニー管弦楽団」長野公演直前なのです。

それもあってか、夏から秋にかけてのコンサートのことが、ちょっとしたひとり言、いや日記のように記されていました。まさに今の久石譲がわかる本人によるエッセイの醍醐味です。そちらのほうが久石譲ファンとしては興味をそそられる内容でしたので一部抜粋してご紹介します。

 

「このところコンサートが続いている。8月のW.D.O.(ワールド・ドリーム・オーケストラ)の後、9月の初めに京都市交響楽団とチャイコフスキーの交響曲第6番《悲愴》や僕の《シンフォニア》を演奏し、北九州で久しぶりにピアノをたくさん弾いた小さなコンサートを行い、末にはミュージック・フューチャー Vol.1で自作を含め、現代の音楽を指揮しピアノを弾いた。」

「《悲愴》は第4楽章が終わった後、ずいぶん長い間拍手が来なかった。指揮の手を下ろしてもシーンとしていて、困って客席に向かってお辞儀をしたらようやく拍手が来た。拙かったのかなと思ったら逆で関係者の話によると聴衆は浸っていて感動していたのだという。オーケストラのメンバーも満面の笑みで拍手を僕に贈ってくれたのでやっと安心した。ちなみに滞在4日間のうち3日間は同じ和風キュイジーヌの店で食事した。いろいろ試すより最初に行っておいしかったら通い通したほうがいい。時間の節約にもなるし。」

「チャイコフスキーの複雑な感情のうねりにどっぷり浸った京都の後、東京に戻ってからヘンリク・グレツキやニコ・ミューリーの譜面と格闘する日々が続いた。パート練習を含めたくさんのリハーサルをこなした。室内楽が中心で、1管編成約15人(弦はカルテット)が一番大きい編成だった。この編成は面白い。オーケストラと違い1楽器に1人だからそれぞれの音がよく聞こえる上にリズムや音程のズレもよくわかる。オーケストラでももちろんわかるのだが、よりシビアに聞こえるためたくさんの練習が必要になるわけだ。自作も、弦楽四重奏曲第1番《Escher》とマリンバ2台を中心とした《Shaking Anxiety and Dreamy Globe》を初演した。ただ、実際の作曲は2~3年前に書いたもので、それを今回大幅に書き直したわけだが、個人的には新作ではないからこんなに忙しいのにどこかサボったような心底喜べないところもある。作曲家の性か。」

「また昨日は今週末にある長野のコンサートのリハーサルで、ベートーヴェンの交響曲第3番《英雄》と自作の《螺旋》などを新日本フィルハーモニー交響楽団と練習した。が、あいにくの台風で時間が短縮され、《英雄》にあまり時間をかけられなかった。こういうオーケストラにとって定番の曲は通常の落ち着きやすいところに自然に行ってしまうので、自分がやりたい音楽をしようとするには僕自身の技量の問題もあるからたくさんの練習がほしいのだが、現実はなかなか厳しい。台風のように不可抗力もあるし。次のリハーサルでできるところまで頑張ろうと決心するのだが、いずれにせよ作曲がお留守になっていることだけは確かだ。つまりコンサートが多いということは、その間分厚い交響曲のスコアを勉強するわけで明けても暮れても睨めっこし、頭の中でその音を鳴らしているから自作の構想などは全く浮かんで来ない。お仕事っぽいものはまだこなせるが、やはり両立させることは難しい。そんなじりじりした焦りにも似た気持ちの中でこの原稿を書いている、やれやれ。本題(前回のテーマの続き)に戻ろう。」

 

 

ね、面白いですよね!今年の夏から秋にかけての久石譲の活動とそれに照らし合わせるかのような自身の想いあふれるエッセイ。

”北九州で久しぶりにピアノをたくさん弾いた小さなコンサート”って何?!こればかりが気になります。オフィシャルではない、プライベートに近いお仕事でしょうか。にしてもエッセイに載せているのでパブリックな活動と受けとっていいのでしょうか。まあ、そういう大なり小なりいろんな活動があるということですね。

あとは、これだけ単発なコンサート企画が続く大変さ。ツアーではないので演奏プログラムも演奏編成も異なる。その準備の大変さと、作曲活動、創作にあてる時間や頭の切り替え。このあたりはやはり大変なんだなーとしみじみ思ってしまいました。

いろんなクラシック音楽・現代音楽を、いろんな編成で演奏した後、そのアウトプット(演奏会)を活かしての次の創作活動に期待です!

最後に、本題のテーマに関するエッセイにもふれておきます。

 

(視覚には時間がなく聴覚には空間がない、という前号からの)

「オーケストレーションの基本は音の立体的構築であって、本来もっていない空間性をどうそのように感じ取ってもらえるかに多くの作曲家は腐心する。このように本来持っていないものを表現する行為もまた想像(創造)なのである。」

 

クラシックプレミアム 23 グリーグ シベリウス

 

Blog. 久石譲 新作『WORKS IV』ができてから -方向性-

Posted on 2014/11/22

ようやく『WORKS IV』関連をまとめることができました。そこから見えてくる2015年以降の久石譲音楽活動の方向性について。個人の解釈と考察で進めます。

先にお断りです。今回は口語体よりも文語体のほうがしっくりくるためその形式にて。偉そうに聞こえてしまうかもしれませんが、そういうつもりはありません。予めご了承ください。

 

 

新作『WORKS IV』ができてから -方向性-

『WORKS IV』をまとめ振り返るということは、2014年の久石譲音楽活動を総括することにもなる。そのくらい今年の久石譲は『WORKS IV』の一本柱だったと、改めて振り返りまとめてみた結果、行き着いた結論である。

それについての詳細は先述の 久石譲 新作『WORKS IV』ができるまで -まとめ- に譲る。

ここでは、その経緯と軌跡をふまえて、ある意味において”立ち止まった2014年”の久石譲の想いと、その先にある方向性について考察していきたい。

 

 

*1年をかけて完成版に辿り着いた『WORKS IV』収録曲 

『WORKS IV』の収録曲のなかで、その目玉は「風立ちぬ 第2組曲」となる。2013年12月に《小組曲》として発表されて以降、改訂を加えた《第2組曲》が世界初演されたのは2014年5月台北コンサート。同じく「かぐや姫の物語」の音楽も、2013年12月に《飛翔》のみが新たなオーケストレーションで披露されて以降、2014年8月W.D.O.コンサートにて組曲として誕生した。さらには「Kiki’s Delivery Service for Orchstra」も、2014年1月台北にて改訂初演されている。つまり約1年をかけて音楽作品としての再構成を練り、コンサートで感触や響きを確かめながら、修正を重ねた結果が『WORKS IV』収録の完成版として記録されている。特に映画作品は、「一定期間が経過して自分で客観的な視点を持てるようにならないと音楽作品として取り組めない」と久石譲が語っているとおり、必然な必要な時間を経て完成版をみた作品たちが並んでいる。

2014年国内・海外で開催された久石譲の全8公演となるコンサートのうち、「風立ちぬ 第2組曲」が披露されたのは計5公演にも及ぶ(12月予定を含む)。多種多彩なコンサート・プログラムを各公演で実施したなかで、突出しているのは言うまでもない。ツアー・コンサート形式ではない単発企画の多い近年の久石譲コンサート活動において、これは何を意味するのか。

 

*立ち止まった2014年

2013年宮崎駿監督の長編映画引退発表が、久石譲にも大きく影響を与えたことは明らかである。約30年にも及ぶスタジオジブリとの関係、さらには全10作もの宮崎駿監督作品における音楽。久石譲の音楽活動はジブリと共に歩んできたと言っても過言ではない。その宮崎駿監督が引退する。さて、自分はこれからどういう方向性で音楽活動を進めていくか? と立ち止まったと考えるのはしごく自然な成り行きである。

”もう宮崎駿監督作品の音楽を担当することはない” そういった単純なことではない。宮崎駿監督と仕事をするということは、その時代ごとの音楽活動の節目であり、ネクストステップでもあった。そこから解き放たれたとき、つまりジブリという”制約”から解放されたときに、さてどんなビジョンを描いて進んでいくか?、そういったことを考えているのではないだろうか。もちろんここでいう制約とは、メリット・デメリットの両面性をもっている。

映画の仕事を見ても顕著である。2014年に関わった映画作品は『小さいおうち』と『柘榴坂の仇討』。これらは製作段階を起点にすると2013年の仕事になる。企画が決まり音楽制作に入る期間は少なくとも半年から1年を要する。つまりは、久石譲に宮崎駿監督の引退を伝えられた時点から、立ち止まる期間に入ったと言える。糸が切れたという表現はいささか稚拙だが、一旦の区切り、立ち止まって見つめなおすきっかけとなるに足り得る出来事であった。宮崎駿監督という存在がないなかで、他の映画作品の仕事をこれまで同様の延長線上で担当する、ということに対してもストップしたかったのではないか。それほどまでに宮崎駿監督の存在、宮崎駿監督との仕事が久石譲音楽活動の大きなウエイトを占めていたことは想像にたる。もちろんジブリ作品への久石譲音楽の貢献は大きい、だがしかし、久石譲の世に送り出された名曲たちは他分野にも多岐に渡り愛されている、ということもあえて念のため書きとめておく。

話を戻す。事実2015年、映画をはじめとしたエンタテインメント業界の仕事はほぼ白紙である。まだ公式に発表されていないだけかもしれないが、仮に今現在映画作品と距離を置いているとすれば、少なくとも2015年上半期、久石譲の新作映画音楽を劇場やCDで聴けることはないだろう。ほとんどの依頼を断り立ち止まった1年であり、その余波は2015年以降につづくことになる。エンタテインメント業界において久石譲音楽が聴ける機会が減る可能性があるということである。

 

久石譲 x 宮崎駿

 

*クラシック? 現代音楽? ミニマル音楽? 現代の音楽?

久石譲の音楽性を語る上で、その肩書きや表現が多岐にわたる。どれも似ているのだが、カテゴライズが違ったり、現在の解釈では意義が違うものもある。ここでは『現代の音楽』という言葉を使う。不協和音に象徴される昨今の現代音楽ではい。これについて久石譲は、「ミニマル・ミュージック以降の、ポストミニマルやポストクラシカルなどのジャンルでいうと、自分はポストクラシカルの位置にいると認識しています。そういう作品はいまも書き続けていくべきだと考えているし、力を注いでいる部分でもあります。現在つくっている音楽も、やはりベーシックはすべてミニマルです。それの発展系ですね。」と語っている。また別の機会には、「アルヴォ・ペルトという作曲家などは、不協和音も書いていたけれど、「原点に戻らないと音楽がダメになる」と先陣を切り、多くの音楽家がその方向に向かいました。その大きい動きの中に自分もいるという気がします。いま日本にいる、いわゆる「現代音楽」の作曲家と同じことをするのではなくて、僕がやりたいのは「現代“の”音楽」。エンタテインメントの世界にいるから、人に聴いてもらうことを何より大事に思っているんです。だから、現代にあるべき音楽というのを一生懸命紹介したり、書いたりしていきたい。」と。つまりは、『現代の音楽』という表現に統一、象徴されている。折に触れ自分の原点を突き詰めたくなるというミニマル・ミュージックを盛り込んだコンテンポラリーな作品、ということになる。また久石譲は”今日の音楽”という表現もしていることから、未来も含めたこの時代の音楽ということになる。

 

*「クラシックに戻す」の真意

「自分の本籍をクラシックに戻す」、11月の雑誌インタビューで語られた。実はこの発言遡ってみると、2013年8月にも同じことを述べている。「自分のベーシックなスタンスをクラシックに戻すつもりでいます。もともとは現代音楽の作曲家でスタートしているからね」と。後日紹介予定だが『風立ちぬ』公開記念の雑誌インタビューである。そう、1年以上前からすでにその指針は語っていたのである。これは単純に古典クラシック音楽を演奏する機会が増えるといったことではないだろう。前項の”現代の音楽”に通じる、まさにコンテンポラリーな作品の創作活動へとシフトしようとしている現れである。

興味深いことに2014年コンサートプログラムには、ある特徴がある。「バラライカ、バヤン、ギターと小オーケストラのための『風立ちぬ』第2組曲」をはじめとして、「混声合唱、オルガンとオーケストラのための~」「ヴァイオリンとオーケストラのための~」、「~for Orchestra」、「弦楽四重奏~」、「~for 2 Marimbas」、「弦楽オーケストラのための~」など。もうおわかりだろう、自作の新作および改訂版において、ほぼすべての楽曲に楽器編成・楽器構成が明記されている。いかにもクラシック音楽の表現方法のひとつである。つまりは、すでに久石譲のなかで”クラシックに戻した”音楽活動は始まっているのである。これから先さらに、シンフォニー、小編成、独奏楽器や特殊楽器を織りまぜた創作活動につながっていくのかもしれないという”クラシックを軸にした”方向性の現れではないだろうか。

”クラシックに戻す”とは、作曲家として、大きな流れにおいてポストクラシカルに位置していると認識し、ルーツであり原点であるクラシック、ミニマル・ミュージックによる現代音楽、さらにはエンタテインメント音楽として発表された楽曲を、コンサートなどにおいて古典クラシック音楽と並列しても遜色ないクオリティにまで磨き上げ、楽器編成を再構成し、音楽作品として昇華させる。そのすべてが作曲家久石譲による”現代の音楽”に帰結していくかのように。そしてこれこそが、久石譲が想い馳せる”現代にあるべき音楽”であり、後述する”アーティメント”なのだろう。

 

*2014年コンサートプログラム 考察① W.D.O.成熟期

今年のコンサート、とりわけW.D.O.名義や新日本フィル・ハーモニー交響楽団との公演が多い。さらには、同フィルとの共演プログラムすべてにおいて、コンサート・マスターであるヴァイオリンをフィーチャーした楽曲が選ばれている。8月W.D.O.では「ヴァイオリンとオーケストラのための『私は貝になりたい』」、10月長野公演では「弦楽オーケストラのための『螺旋』」(Vnソロはないが弦楽主体の意)、そして12月ジルベスター・コンサートでは「Winter Garden」が予定されている。加えるならば、当初プログラムから変更にこそなったが、長野公演で一時予定として挙がっていた「魔女の宅急便より『かあさんのホウキ』」も、2008年武道館公演で披露されたヴァイオリンの旋律が美しい楽曲である。2004年に発足した「久石譲&新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ」(W.D.O.)が2014年の今年10年目を迎えた。久石譲と新日本フィルの関係性が親密であるのと同時に、確固たる互いの信頼関係において成熟期に入った証拠である。

 

*2014年コンサートプログラム 考察② 自作現代音楽

近年、自作と古典クラシック音楽を織り交ぜたコンサート・プログラムを展開してきた久石譲だが、今年はとりわけ自作のウエイトが幾分増えたばかりか、その内容にはポピュラーではない自作、つまり現代音楽を披露する機会が多かった。1月台北での「5th dimension」(藤澤守 名義)改訂初演、5月台北での「混声合唱、オルガンとオーケストラのための『Orbis』」、9月京都での「室内オーケストラのための『シンフォニア』」、9月東京での「弦楽四重奏曲 第1番 “Escher”」「Shaking Anxiety and Dreamy Globe for 2 Marimbas」ともに世界初演、10月長野での「弦楽オーケストラのための『螺旋』」(当初予定では「ピアノと弦楽オーケストラのための新作」というプログラム案もあった)、そして12月予定の「Winter Garden」。これもまたひとつの変化の兆しであると感じる。

興味のある方は、ここ数年のコンサート・プログラムの流れを読み解き、また前年以前との傾向の違いを見比べてみてほしい。 → 久石譲 Concert 2010-

 

*2014年コンサートプログラム 考察③ 現代の音楽を探る

②をもとに、「クラシックに戻る」発言も照らし合わせると、このようになる。自作とりわけ現代音楽の演奏機会を増やし、会場の感触、空気感、響き、そして観客の反応、これらを確かめるように実演を繰り返していく。後述するが、今後作曲家活動の先に、自作の普遍性と未来へつないでいくための楽譜出版にも力を入れていく予定という。その大きな流れの一環として、コンサートで演奏を重ね、まずは作曲家自身のものとして掌握することで、一旦の完成版をみる。そこからCD作品化や楽譜出版として形となり、他者が演奏する機会が用意される。そういった作品発表の機会、改訂や修正を重ね完成形へ近づける場としてコンサートが成立していくのではないだろうか。これは先に述べた『WORKS IV』収録曲の、約1年に及ぶ演奏会からCD作品化へという流れからみても、今後同じような経過を辿っていくことは考え得る。その範囲が大衆性を帯びた映画音楽から、芸術性を帯びた現代音楽へと広がりつつあるのである。

 

*アーティメントを語る

2014年久石譲が発信したキーワード”アーティメント”(アートメント)。アート+エンタテインメントを合わせた造語である。しかしちょっとした違和感があった。なぜ今”アーティメント”を語るのかと。久石譲の音楽活動においてエンタテインメント業界で活躍してきた大衆性(エンタテインメント)と、音楽的オリジナリティを追求してきた芸術性(アート)。これはいつも両輪であった。たとえば映画音楽を担当すればサウンドトラックを発表し、一方では制約から解放されたソロ・アルバムを発表してきた。両輪である。たとえば商業ベース、エンタテインメントの世界が求める音楽と、自分がつくりたいものとの葛藤やフラストレーション。常に音楽活動のなかでそのバランスをとるかのようにあらゆるアプローチで作品を発表してきた。両輪である。もっといえば、”WORKSシリーズ”や”Piano Storiesシリーズ”などは、まさに大衆性+芸術性をあわせもつ、格調高くドラマティックな音楽作品へと昇華させる、久石譲の真骨頂でありマイルストーン的役割を持っている。なのに、なぜ今改めて”アーティメント”なのか。

これには宮崎駿監督の引退が影響していると考察している。つまりは、これまでどれだけ前衛的で独創的な現代音楽を発表したとしても、一方には大衆性の最たるジブリ作品の音楽という仕事があった。過去の作品という意味ではなく、現在進行形での大きな大衆性と、突きつめた芸術性を維持できていた、音楽活動の道程ということである。その片輪が未来に対してなくなろうとしている。だからこそ”立ち止まった1年”だったのであり、”アーティメント”の土台を見つめなおす必要があった。

おもしろいことに、『WORKS IV』に収録された「風立ちぬ」も「かぐや姫の物語」も決して耳あたりがいい音楽ばかりではない。そこには重厚な不協和音も響いているし、ルーツであるエスニック・サウンドやミニマル色も強く盛り込まれている。つまり、これまでの”WORKS”シリーズで取り上げられたジブリ作品に比べて、格段に前衛的で独創的なアート性が増しているのである。付け加えれば、「私は貝になりたい」でもヴァイオリンの重音奏法から激しいミニマルのパッションという、これまでには考えられないほど、大衆性と芸術性の境界線が崩れてきている。

これこそが、今久石譲が語っている”アーティメント”(アート+エンタテインメント)のかたちではないだろうかと思う。作品ごとに映画なら大衆性、オリジナルなら芸術性ではなく、作品ひとつひとつに大衆性と芸術性を混在させてしまう、いやその領域まで昇華させると言ったほうが正しい。かつその方法論のなかには”クラシック”という大きな軸が存在する。一方では、ジブリ作品を例にとったその逆説的には、これから発表していくであろうミニマル・ミュージックをベースとした現代音楽が、これまでよりも聴きやすい、もしくは普遍性を帯びたものになるべく創作されるという見方もできるのである。久石譲の過去の作品から挙げるとするならば、まさに『メロディフォニー』や『ミニマリズム』を継承した、いやその次のステージに入った”久石譲のアーティメント音楽”が発表される可能性を秘めている。『WORKS IV』のリ・オーケストレーションされた映画音楽たちは、これまでのオーケストレーションの再構成とは違う、一歩先の”アーティメント”を追求した布石となる第1作目なのかもしれない。そして、次に待つのは映画音楽ベースではない、”現代の音楽”からの”アーティメント”追求なのかもしれないと。

久石譲の言葉も引用するとさらに説得力が出てくる。「時代や国境を越えて聴かれ演奏される音楽を制作したい。そのための時間を作る生活にシフトチェンジしている最中です。」「かつて、僕の作品は僕だけが演奏していました。それが今では、世界各国のオーケストラが僕の書いたオリジナルの楽譜で演奏しています。」

 

*未来につないでいきたい音楽

2014年W.D.O.の復活と同時に、新たに始動したのが「久石譲プレゼンツ ミュージック・フューチャー」コンサートシリーズ。まさに今久石譲が未来に残したいと思う音楽、多くの人に届けたい音楽を発信する場である。クラシック音楽ならびに現代音楽の厳しい現状を打破したいという思いもある。過去から現在に引き継がれた音楽がクラシックとするならば、未来へつなぐものも今日演奏されている古典クラシック音楽だけでいいのか、現代の音楽から未来へ引き継がれるべき作品があるのではないか。そういった想いなかで、その演目は自作のみならず、海外の現代作曲家の作品まで多岐にわたる。この傾向は8月W.D.O.にも及ぶ。さらには自作に関しても、9月に開催された同企画Vol.1においては世界初演2曲という異例のかたちとなった。これは来年以降のW.D.O.やオーケストラコンサート、ならびにミュージック・フューチャーにも引き継がれていくであろう。広義において”現代の音楽”を発信する場、”未来につないでいきたい音楽”を伝える機会として。自作の傾向詳細は、先の【*2014年コンサートプログラム 考察② 自作現代音楽】にて紹介している。

 

*人に聴いてもらう機会

”人に聴いてもらうことは何よりも大事”と久石譲は語る。これまでの流れから整理する。自作自演はCD・コンサート・メディア発信となり、自作他演は楽譜出版となり、他作自演はコンサートとなる。そして、その演目は、自作・他作問わず、”現代の音楽”であり”未来につないでいきたい音楽”である。またコンサートプログラムにおける自作の演奏機会が増えることも予想される。先の【*2014年コンサートプログラム 考察③ 現代の音楽を探る】の項にて述べた。8月W.D.O.コンサートにおける公式パンフレットにもこうある。「自分の曲をきちんと届けていくことから再開したい」と。今後の創作活動の内容に多分に影響されるところはあるが、少なくとも古典クラシック音楽主体のコンサートの機会は減るのではないだろうか。

もうひとつ、この発言には大事なキーファクターが隠れている。それは”アーティメント”である。先の【*クラシック? 現代音楽? ミニマル音楽? 現代の音楽?】の項にて、”現代の音楽”についての定義は述べた。そのなかの久石譲発言に、「自分はエンタテインメントの世界にいるから~」と続く。何を意味するのか。それは、あまりに芸術性を突き詰めすぎた現代音楽は、聴衆との大きな距離ができてしまう。だからこそ、あえて「ポストミニマルではなくポストクラシカルという線上に自分はいる」と語っているのである。つまりは、オリジナル創作活動において、本来は芸術性のみを追求すればいいところに、大衆性とのせめぎ合いや葛藤が生まれる。その昇華へ導く軸として”アーティメント”があるのである。久石譲の”アーティメント”の結晶が”現代の音楽”としてかたちとなり、”未来につないでいきたい音楽”として多くの”人に聴いてもらう機会”を得るのである。

 

*パーソナルな作品から普遍性のある作品へ

「作品として形にすることで、譜面を出すことにもなる」、または「今回の『WORKS IV』のように完成度を高めた楽曲は、楽譜をドイツに本拠を構えるショット・ミュージックから出版している」と語る久石譲。”アーティメント”を念頭に置いたときにこの発言の意味は大きい。つまりはアート(芸術性)とエンタテインメント(大衆性)をかねそなえた作品を発表することが、作曲家の手を離れて久石譲音楽が演奏される機会が増えることにつながるからである。また今年久石譲は、改めて自分の肩書きは作曲家であるということに触れている。「僕は肩書きで言ったら作曲家ですから。指揮もピアノもしますが、基本は曲を書く人です。それがないと自分の音楽活動は成立しません。だから作曲というのはどこまでも大事にしたいですね。」と。

楽譜出版をするこということは、音楽作品として作曲家自身が完成版として納得した証でもある。そのクオリティに行き着くための、コンサート演奏を繰り返すことでまずは自らが掌握する経緯は先に述べた。そして、同様に楽譜には模範演奏が必要である。ピアノ・ソロならまだしも、フル・オーケストラによるシンフォニー作品は、楽譜だけで作曲家の意図通りに実演することは難しい。ましてや、久石譲による楽器編成、音の強弱、テンポ、揺れなどは、作曲家自身が指揮者・演奏者となることであの独特な世界観をつくりあげているのである。久石譲の音楽が、本人から他者へ、国内から海外へ、現在から未来へ、その普遍性が帯びてくるということ、楽譜出版として形にするということは、イコール、CD作品化も同一線上にあると考えるのが妥当である。普遍性を導くには、まずは作品を形に残すことが前提条件であると考える。

一方で個人的な解釈である。楽譜出版による久石譲音楽の普遍性。もちろんそれもあるが、現時点で普遍性は確立されていると断言する。それは、久石譲の音楽が不特定多数の聴き手を相手にするのではなく、あくまでも聴き手が個人的に作品と向き合った時に感じる感動体験にひたらせる音楽だからである。それこそが、聴き手の集合体となり演奏者の拡がりとなり、今も未来も普遍的なのである。そこに”音楽作品としてのかたち”、すなわち音楽をつめ込んだCD作品、作曲家の息吹、意図や意思を忠実に表現したオリジナル音源がひとつでも多く残されていくことが望ましいとも思う。聴き手の日常生活のなかで、久石譲音楽を響かせ、こよなく愛し続けるためには、そういった”かたち”が必要不可欠なのである。これは無形としての普遍性も既にあると言い切ったうえで、それでもなお有形として残していってほしいという個人的願望である。

 

*勝手に曲想や構想を妄想

少し道をそれる。こういう作品化もあるのではないか、ということを勝手に妄想を膨らませていく。過去の名曲たちが新しいクラシック方法論によって甦る。【*「クラシックに戻す」の真意】と【*アーティメントを語る】の項を軸にして想像する。例えば、ジブリ作品でいうと、2008年武道館公演での演奏曲目や演奏編成などを参考にする。「混声合唱とオーケストラのための『崖の上のポニョ』」、「トランペットとオーケストラのための『天空の城ラピュタ』」、「吹奏楽とマーチングバンドのための『天空の城ラピュタ』」、「ソプラノ、混声合唱とオーケストラのための『もののけ姫』組曲」、「ピアノと金管四重奏のための『紅の豚』」などなど。

ほかにも過去コンサート演目や、未CD化作品および未演楽曲、コンサートでのみ披露されたバージョンや編成から多種多様なピースを思い描くことができる。例えば、「『二ノ国』組曲」、「『太王四神記』組曲」、「チェロとピアノのための『la pioggia』」、「管楽オーケストラのための『天地明察』」、「『この空の花』の主題によるボレロ幻想曲」、「2台のハープとオーケストラのための『海洋天堂』」などなど。これ以上やると妄想が過ぎる。また枚挙にいとまがない。そうなると久石譲ファンのなにか執念的なものが色濃く反映されてしまうためここでぐっと留める。それほどまでに久石譲の作品は、新作を待たずとも、音楽作品として昇華されるに値する、普遍性を帯びた名曲たちの宝庫である。現時点でも溢れ出るくらいの傑作たちがストックとして存在し、光り輝いている。さらに磨きあげられ眩く日が来るのか。これもまた、久石譲のこれからの”アーティメント”感性と、久石譲が思う”未来につないでいきたい” ”現代の音楽”なのか、という判断基準によって精査されていくのであり、すべては作曲家久石譲に委ねられている。

 

*来年に向けて 久石譲インタビュー

ここでは、2014年数々のインタビューで締めの質問として問われた「今後の予定は?」に対する、久石譲の発言をまとめる。「今年は依頼をほとんど断って、よく立ち止まるようにしているんです。来年からはもう一度、しっかりやりたいと思っていますよ。」、「まず来年など、ずいぶん先に委嘱されているものをきちんとつくらなければいけないし、それにはやはり手間暇がすごくかかるんです。自分の作品を書くことと、エンタテインメントの仕事と、そのあたりの時間の配分はかなり考えないといけない。」、「指揮だけを考えると、同じ曲でもシンフォニーなどは、5回10回と振っていくことで理解度が深まりますから、そういった経験は非常に重要です。なのでチャンスがあったらどんどんチャレンジしていきたいですね。」 ということである。

 

*来年に向けて 考察

久石譲インタビューで語られた抱負を受け止めるしかない、というのが結論ではある。ひとつだけ確定している創作活動としては、2015年3月「バンド維新2015」のために書き下ろす吹奏楽の委嘱である。その他映画をはじめとしたエンタテインメント業界での仕事、創作活動もコンサート活動も白紙である(2014年11月現在メディア発信されていない)。今回の『WORKS IV』での革新的なレコーディング方法もふまえると、どういった形で作品化されるかも想像の域を出ない。スタジオレコーディングされるのか、ライヴ録音をCDのクオリティーまで高めた作品として仕上げていくのか。そのすべての活動が白紙なのである。

ただ、これまであらゆる視点で考察したとおり、2015年以降は、”クラシック、ミニマル・ミュージックという久石譲の原点に戻る”ということよりも、さらに一歩推し進めた新しい展開が待っているような気がしてならない。それは次のステージへと突入した”クラシック”を軸とした新しい”アーティメント”のかたち、”未来へつないでいきたい” ”普遍性を帯びた” ”現代の音楽”。その序章としての位置づけが新作『WORKS IV』なのではないだろうか。久石譲の新しい創作活動への布石はこの『WORKS IV』であり、幕は開いたのである。

 

*おわりに

「言葉によって伝えることの大切さ」、これはひとつのキーワードである。たとえばこんなエピソードがある。映画『となりのトトロ』でトトロが登場する際に流れる7拍子のミニマル・ミュージックBGM。当初監督はこのシーンに音楽は必要ないと言っていたが、念のために作った久石譲の音楽を入れたとき、トトロという存在が確固たるものとなったと。また「弦楽オーケストラのための『螺旋』」というコンサートで数回演奏され、CD音源化されていない作品がある。このコンサート・パンフレットには、久石譲本人の解説が掲載されている。「曲は、8つの旋法的音列(セリー)と4つのドミナント和音の対比が全体を通して繰り返し現れる。もちろんミニマル・ミュージックの方法論で作曲したが、その素材として上記の12音的なセリーを導入しているため結果として不協和音が全体の響きを支配している。(以下省略)」

久石譲の活動や楽曲といった情報を探すために当サイトは存在する。そしてさらには、楽曲それぞれの時系列、変化、秘話、解説、背景もこぼすことなく記録していきたいと努めている。”言葉=動機付け”としたときに、上の二つの例をとってみても、その意義はあると認識している。”耳馴染みの”もしくは”お気に入りの”あの一曲のエピソードを知ることで、聴き方が変わってくるのではないか。そして、作曲家自身の言葉で知ることで、”聴いたことがない曲”であれば、CDを手にとってみよう、また”未CD作品”であればその希少性も増し次回はぜひコンサートに行こう、という好奇心へと突き動かされるのではないか。作品をより深く知るための味わうための情報や知識。興味を持つきっかけであり、紐解き掘り下げたくなる好奇心。そういった有益なサイトとなるように、今後も情報発信として許されると判断したものは、久石譲の歴史として刻んでいきたい。

当サイトでは、転記やあらゆる文献からの書き起こしも、忠実にオリジナルを残すことに意義があるという思いから、修正や加工、そして管理人の解釈とは区別して忠実に再現化していることをお許し願いたい。それでも約35年以上にも及ぶ久石譲の音楽活動を網羅するには程遠い。これからもライフワークとして築きあげていきたい。

 

 

最後に。
長文にわたってご清聴ありがとうございました。幾分簡潔にまとめるつもりが溢れてしまいました。2014年の久石譲の総括は年末にまたしたいと思っていますが、キーワードとしてはやはり”立ち止まった1年”でした。発表される作品やコンサート活動を見ると、2014年も精力的に動いて見えますが、いや実際動いています、でもその準備段階や制作期間、つまり種まきや創作活動の時期にはタイムラグが発生します。2014年世の中に発表されたものは、2013年に水面下で準備され創作されたものが花開く、という具合にです。

だからこそ”立ち止まった2014年”、その先にある2015年は、少し沈黙がつづくのかもしれません。ファンとしてはさみしい限りですが、それだけに次の創作活動への期待もふくらみます。”生みの苦しみ”という芸術家の性を、”待つ辛抱”という受け手の想いにかえて。最後に補足ですが、久石譲の発言は”方向性のひとつ”であり、私の考察もまた”推測の域を出ない”ものです。ここには出てこなかった新たな方向性へと2015年以降導かれるのかもしれません。それを承知のうえで発信していますし、そう受け止めていただければと思います。またいかなる発信にも責任はともないますので、あまりに筋違いな見解は控えているつもりです。2014年の久石譲音楽活動から見えてくる振り返りや方向性、ファンとしてマイルストーンを残すこともまた大切であり、こよなく愛しつづける音楽家へ敬意を表することのひとつだと思っています。

《後記》
あくまでも読みやすさを優先した(つもり)のため、久石譲発言の引用元や、楽曲・コンサートなどのリンク先URLは割愛しました。すべて2014年の情報から詰め込んだものですので、下記当サイトのバックナンバーやサイト内検索窓を活用してぜひ掘り下げてみてください。 ⇒ back number [ Information /Blog ]

 

 

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久石譲 リアルサウンド2

 

Blog. 久石譲 「千と千尋の神隠し」 インタビュー ロマンアルバムより

Posted on 2014/11/20

2001年公開 スタジオジブリ作品 映画『千と千尋の神隠し』
監督:宮崎駿 音楽:久石譲

映画公開と同年に発売された「ロマンアルバム」です。インタビュー集イメージスケッチなど、映画をより深く読み解くためのジブリ公式ガイドブックです。最近ではさらに新しい解説も織り交ぜた「ジブリの教科書」シリーズとしても再編集され刊行されています。(※2014.11現在「千と千尋の神隠し」は未刊行 2016年以降予定)

今回はその原本ともいえる「ロマンアルバム」より、もちろん2001年制作当時の音楽:久石譲の貴重なインタビューです。

 

 

「映像を豊かに彩る『千尋』のサウンド」

『風の谷のナウシカ』から現在まで17年。
久石さんは、すべての宮崎駿監督作品に音楽担当として参加してきた。その久石さんが、『千尋』は過去最高の傑作かもしれない、と語る。宮崎さんが生み出した映像に対する、久石さんの回答は──。

-この映画について宮崎さんからはどのような注文があったのでしょうか?

久石 「『もののけ姫』あたりから、内容説明というよりは詞に近いものをくれるようになったんです。僕はイメージポエムと呼んでいるんだけど、宮崎さんは言葉に鋭い方だから、そこに込められている意味はすごく大きいんじゃないか。そう考えて、そこから発想を始めたんです。それでまずは、イメージアルバムを歌もの中心で作って、それからサウンドトラックにかかりました。」

-今回、バリ島の楽器ガムランや、沖縄、中近東、アフリカなど世界さまざまな地域の音を取り入れていますが。

久石 「宮崎さんがさまざまなものを取り入れることであの世界に広がりを与えているように、僕もさまざまな音を取り入れることで、映画を見た人のイマジネーションを広げていきたいと思ったんです。かつてこれほど大胆に、フルオーケストラとエスニックな音を融合させたことはないと思いますよ。今回、コンサートホールを使ってライブ収録をしたのですが、正解だったんじゃないかな。宮崎さんは空気感を大事にする人だし、あの世界の拡がりを表現するためには、やはりオケが必要なんですよ。

でも、そうしたにぎやかな曲って、実は千尋の気持ちにつけていく静かな曲を、引き立たせるためのものでもあるんですよ。僕としてはピアノと弦だけの曲とか、ほとんど単音のピアノでメロディーを弾いている、その静けさを、むしろ大事にしたいと思いましたから。」

-千尋という主人公を、久石さんはどうお考えですか?

久石 「すごく魅力的ですよ。今までのヒロインでは一番いいんじゃないかな。誰にとっても身近な存在で。最後まで千尋が10歳の等身大の女の子でいるよう、僕自身かなり考えたし、宮崎さんもそうだったと思います。あのぶちゃむくれの顔が、最後は美しく見えますからね。」

 

〈海〉のシーンに表現された宮崎監督の深い思い

作品の根底にある思いを音楽にして

-今回、他のキャラクターのテーマ曲も作ってますね。

久石 「湯婆婆のテーマ曲は苦労したなぁ。何度も書き直してるんです。宮崎さんのキャラクターって複雑で、善人が後ろに悪を抱えていたり、きびしい顔の裏に優しさがあったりするじゃないですか。必ず相反する両面を要求するから、単に怖いおばあさんとして書くことができないんです。でも、その分、自分でも、一、二の出来になったんじゃないかな。通常の楽器を使っているけど、その音がしないように作ったんですよ。ピアノの一番高い音と低い音が同時に鳴るような。あの曲は、気に入っている曲の1つです。」

-『千尋』という作品そのものについては、どうお考えですか。

久石 「今回の作品で僕が感じるのは、人間はひとりぼっちだと。だけど前向きに生きるひたむきさとかやさしさとか、そういったものを表現したい作品なんだなってこと。

その辺が一番出ているのが、海の上を走る電車のところで、あそこが宮崎さんが一番やりたかったところだ、と僕は思ってるんですよ。それがイメージアルバムのなかにある「海」という曲とすごく合っていて、宮崎さんも真っ先に気に入ってくれた。嬉しかったですね。

根底にあるのはこれまでの宮崎作品と一緒だと思うんですけど、今回は、宮崎さんの私的な心情が色濃く出ている作品だな、と思います。作品と作家としての距離が近づいている印象がありますよね。この映画には、宮崎さん自身が経験したことや体験したことがかなり入っているんじゃないかと思います。だからこそこの映画は、大傑作になったと思います。過去の宮崎作品で、一番の傑作かもしれませんね。」

(千と千尋の神隠し ロマンアルバム より)

 

 

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