Info. 2023/07/07 当初は細野晴臣の予定だった…久石譲が映画『風の谷のナウシカ』に関わることになったワケ(Web マネー現代より)

Posted on 2023/07/07

当初は細野晴臣の予定だった…久石譲が映画『風の谷のナウシカ』に関わることになったワケ

倉田雅弘 ライター・編集者

 

ナウシカの音楽を担当するはずだった音楽家

7月14日、いよいよ『風立ちぬ』以来およそ10年振りとなる宮崎駿監督の新作長編アニメ『君たちはどう生きるか』が公開される。これに先立ち7月7日の『金曜ロードショー』で放送されるのが『風の谷のナウシカ』だ。

いまでは宮崎駿監督の作品と久石譲の音楽は、切っても切り離せない関係のように感じるが、初めてコンビを組んだのは、この『風の谷のナウシカ』であり、さらに同作の音楽が実は別の音楽家にほぼ内定していた事をご存じだろうか。

1992年発売の久石譲のエッセイ『I am 遥かなる音楽の道へ』に、『風の谷のナウシカ』の音楽について、このような記述がある。

 

”「実は、本編のほうの音楽は、他の作曲家(仮にA氏としておこう)が担当することに一〇〇パーセント決まっていたのだ」

「レコード会社のジャパンレコードとしても、また、徳間グループとしても、「いろいろな要素を考え合わせると、どうしてもA氏でお願いしたい」と」”

 

久石譲以前に、映画『風の谷のナウシカ』の音楽を担当するはずだった音楽家A氏とは細野晴臣のことだ。これは『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』の中で鈴木敏夫が明言している。

安田成美による同作のシンボルテーマ・ソングを作曲したことで知られる細野晴臣は、作品全体のサウンドトラック(以下、劇伴)担当候補でもあったのだ。

では、この細野晴臣から久石譲への交代劇は、どのような経緯で行なわれたのだろうか。

当時の記事や書物の記述から紐解いていきたい。

映画公開前後の『風の谷のナウシカ』音楽関連のリリースは以下の通りだ。

 

1983年11月25日 久石譲『風の谷のナウシカ イメージアルバム 鳥の人(以下、イメージアルバム 鳥の人)』発売
1984年1月25日 細野晴臣・作曲、安田成美・歌唱『シンボルテーマ・ソング 風の谷のナウシカ』発売
同年2月25日 久石譲『風の谷のナウシカ シンフォニー編 風の伝説』発売
同年3月11日 映画『風の谷のナウシカ』公開。
同年3月25日 久石譲『風の谷のナウシカ サウンドトラック 遥かな地へ』発売

 

“主題歌”の依頼は劇伴の布石だったのか?

まずは細野晴臣が映画『風の谷のナウシカ』に参加した経緯を考えてみよう。

孫引きで恐縮だが、田中雄二によるYMOの論考集『シンYMO』に、CDのライナーノーツからの引用として、松本隆による以下のような発言が記されている。

松本隆「三浦光紀さんが、徳間ジャパンに移ってアニメを作ることになった時、主題歌は細野さんと僕にって指名してくれたの」(細野晴臣の歌謡曲~20世紀BOX)

三浦光紀とは、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂からなるロックバンドはっぴいえんどのディレクターであり、かねてより細野や松本との親交は深い。

その後三浦光紀が設立したジャパンレコードが、1983年に徳間音楽工業と合併してできたのが、映画『風の谷のナウシカ』をはじめアニメのサントラや漫画のイメージアルバムを数多く制作する徳間ジャパンだ。

ちなみにジャパンレコードはワンダーシティ・オーケストラ名義の久石譲のファーストアルバム『INFORMATION』を、徳間ジャパンはBOØWYのセカンドアルバム『INSTANT LOVE』も制作している。後に久石譲の『イメージアルバム 鳥の人』に布袋寅泰が参加し、本編の王蟲の鳴き声にそのギター音が使用されたのも、こうした関係からだろう。

話を本筋に戻そう。当時、細野晴臣は、プロデューサー兼プレイヤーを務めたイエロー・マジック・オーケストラ(以下Y.M.O)が社会現象となるなど、音楽業界ではすでに確固とした地位を築き、劇伴こそ未経験だったが、インストゥルメンタルの作品も多く発表していた。

その作曲の才はロックやテクノだけでは収まらず、イモ欽トリオの『ハイスクールララバイ』や松田聖子の『天国のキッス』など、ポップスやアイドル歌謡でもヒットメイカーとしても優れた実績を挙げている。

当時はベストテン形式の歌番組が高い人気を呼び、ラジオ番組でかかるヒット曲が若者に強い影響力を持っており、映画のヒットも主題歌の人気に大きく左右されていた。

インストゥルメンタルとアイドル歌謡の双方で才を発揮できる稀有な存在として、細野晴臣が徳間ジャパンに推されるのは至極当然にも思える。

そんな細野晴臣に“主題歌”を依頼したのは、本編の劇伴への布石でもあったのだろう。

前述の『シンYMO』に、「週刊FM」1984年1月30日号のインタビューで細野は「複数のテーマの編曲をアレンジャーに発注するプランを明かすなど、『風の谷のナウシカ』のサウンドトラック制作に向けた意欲を窺わせていた」とあるが、ある時点までは細野晴臣が映画『風の谷のナウシカ』の音楽の最有力候補だったのだ。

 

わずか30分で完成したメインテーマ「風の伝説」

一方、久石譲の『風の谷のナウシカ』との関わりは1983年11月25日に発売した『イメージアルバム 鳥の人』の制作から始まる。

80年代前半には、漫画のイメージアルバムが盛んに作られていた。ただし、これらはその名の通り原作漫画のイメージを膨らませるための楽曲のアルバムであり、後に映像化する際は、劇伴として別途新たに楽曲を作成することが多かった。『イメージアルバム 鳥の人』も、最初はまさに映画のサウンドトラックとは別個のイメージアルバムとして企画されたものだった。

1983年当時、久石譲はクラシックや現代音楽、ミニマルミュージックなどの活動を経て、主軸をポップスやCMなどの商業音楽に移し始めたばかりで、直近でテレビアニメ『さすがの猿飛』『銀河疾風サスライガー』の劇伴も手掛けているが、細野晴臣に比べれば確かに無名といえる存在だった。

前述のエッセイの記述によれば、久石譲が『イメージアルバム 鳥の人』の音楽を担当するきっかけは、ソロアルバム『INFORMATION』を聴いた徳間グループの誰かの推薦によるものだという。

アニメスタジオ側(『風の谷のナウシカ』の制作はトップクラフト)で音楽のプロデュースを担当したのは宮崎駿監督の盟友である高畑勲だった。作品全体のプロデューサーでもあり、音楽に造詣が深いことからうってつけの登用といえるだろう。

1983年、原作漫画を予習した上で、阿佐ヶ谷のトップクラフト「ナウシカ」準備室を訪れた久石譲は、宮崎駿監督からまだイメージボードしかない映画『風の谷のナウシカ』の設定や物語を語られ、「風の伝説」や「メーヴェ」「腐海」など、いくつかの音楽的キーワードを託された(なお時期は不明だが、細野晴臣も主題歌作曲のために同スタジオを訪れ、宮崎駿監督のレクチャーを受けたと発言している)。

『イメージアルバム 鳥の人』のレコーディング期間は、8月から9月にかけて一ヵ月半ほどで終わった。久石譲は、前述の通り“イメージアルバム”なので、物語全体の流れや軸となるテーマを考える必要はなく、原作漫画と与えられたキーワードから湧き上がるイメージのままに作っていったという。後に映画本編のラストを飾るメインテーマ「風の伝説」は、わずか30分でできたとも。

完成したイメージアルバムを宮崎駿監督は気に入り、絵コンテなど映画の作業中に繰り返し聴いていたという。

高畑勲はその姿を見て「イメージレコードとして、このアルバムは成功だと思えた」と著書『映画を作りながら考えたこと』の中で記している。

だが、この時点で久石譲が映画の劇伴を担当することになるとは、当人も高畑勲も考えていなかったのだ。

 

出典:当初は細野晴臣の予定だった…久石譲が映画『風の谷のナウシカ』に関わることになったワケ(倉田 雅弘) | マネー現代 | 講談社
https://gendai.media/articles/-/112852?imp=0

 

 

じつは映画『風の谷のナウシカ』には幻となった「二つの主題歌」があった…!

細野晴臣と久石譲の音楽交代劇

倉田雅弘 ライター・編集者

 

7月14日、いよいよ『風立ちぬ』以来およそ10年振りとなる宮崎駿監督の新作長編アニメ『君たちはどう生きるか』が公開される。これに先立ち7月7日の『金曜ロードショー』で放送されるのが『風の谷のナウシカ』だ。

いまでは宮崎駿監督の作品と久石譲の音楽は、切っても切り離せない関係のように感じるが、初めてコンビを組んだのは、この『風の谷のナウシカ』であり、さらに同作の音楽が実は別の音楽家にほぼ内定していた事をご存じだろうか。

【前編】でお伝えしたように、久石譲以前に、映画『風の谷のナウシカ』の音楽を担当するはずだった音楽家とは細野晴臣のことだ。これは『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』の中で鈴木敏夫が明言している。

安田成美による同作のシンボルテーマ・ソングを作曲したことで知られる細野晴臣は、作品全体のサウンドトラック(以下、劇伴)担当候補でもあったのだ。

 

公開三ヵ月前に起こった音楽交代劇

1983年11月23日、映画『風の谷のナウシカ』の主題歌の歌い手兼映画のプロモーションのための人材オーディション「ナウシカガール」の最終審査が終わり、グランプリに安田成美が選ばれた。

その結果を記した雑誌「アニメージュ」の記事には「安田さんには、主題歌を歌ってもらいます」とある。この時点でまだ細野晴臣の楽曲は主題歌であり、シンボルテーマ・ソングではなかった。細野晴臣と安田成美のレコーディング期間は不明だが、発売のタイミングなどを考えると、ナウシカガール決定から12月にかけてのことだろう。

一方、久石譲は11月から12月にかけて『シンフォニー編 風の伝説』のレコーディングを行なっており、同盤には細野晴臣が作曲した後のシンボルテーマ・ソングのオーケストラアレンジも収録されている。

前編の冒頭で引用した「レコード会社のジャパンレコードとしても、また、徳間グループとしても、「いろいろな要素を考え合わせると、どうしてもA氏でお願いしたい」と」のくだりは、おそらくこの時期だろう。

しかし、宮崎駿監督も高畑勲も、細野晴臣のこれまでの音楽を聞いた上で、本作『風の谷のナウシカ』には合わない、と判断を下していた。

細野晴臣の降板の理由について、宮崎駿監督の評は不明だが、鈴木敏夫は前述の『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』の中で、高畑勲は「細野さんも大変な才能の持ち主だけど、ナウシカに合うかといえば違うんじゃないか。この人は夏のけだるさを表現したら得意な人で、情熱的な曲は作らないだろう。宮さんは熱血漢だから熱い曲を作る人の方がいい」と語ったと記している。

さらに前述の高畑勲の書には、制作終盤で本編の音楽設計を見直した際、作品の精神性に必要なテーマが、すべて久石譲の『イメージアルバム 鳥の人』の中にあったことに気づき「宮崎氏はそのつもりで映像とドラマを構成したとしか思えなくなってくる」とある。

もしかしたら宮崎駿監督が『イメージアルバム 鳥の人』を聴きながら制作したことで、映画本編の内容がそれらの楽曲と共鳴を起こしてしまったのではないだろうか。“主題歌”は、すでに制作していたかもしれないが、この段階で劇伴を作っていなかった細野晴臣の分は悪い。

結果、映画『風の谷のナウシカ』の音楽担当の選定は、1983年いっぱいまで難航し、1984年になって久石譲に決定した。公開予定日まで、すでに二ヵ月半を切った時期だった。

高畑勲の書には「宮崎氏と私は大きな期待をもって久石氏を選びとったのである」とある。久石譲もその期待に応えるように、宮崎駿監督や高畑勲プロデューサー、音響監督の斯波重治と昼から翌朝まで12時間を超える打ち合わせを繰り返し、時には自らの意見をぶつけながら、映像に見合った音楽を作っていった。

本編制作の進行の関係で、実際にレコーディングが始まったのは2月5日。期間はおよそ2週間半といわれている。

 

幻となった『ナウシカ』の二つの主題歌

こうして映画『風の谷のナウシカ』の音楽担当は久石譲となったわけだが、その後も音楽関係の協議は続いていた。映画の“主題歌”をめぐる協議だ。

『キネマ旬報』2014年10月下旬号で細野晴臣は、こう記している。

「僕は製作サイドからの依頼を受けて宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」(84年)のテーマソングを書いたのだが、これは結局映画では使われなかった。どうしてなんだろうと思って、ずっと生きてきたのである(笑)。」

徳間グループ側は、作曲・細野晴臣、作詞・松本隆という二大ヒットメーカーがコンビを組んだ安田成美の歌曲『風の谷のナウシカ』を劇中最後にかけたいと主張したが、宮崎駿監督、高畑勲プロデューサーは、これにも拒否反応を示した。口には出さなかったが久石譲も同意見だった。

結果的にスタジオ側の意志が尊重され、細野晴臣作曲の『風の谷のナウシカ』は、劇中では流れないシンボルテーマ・ソングとなったわけだが、実は宮崎駿監督と高畑勲は、同作で別の“主題歌”を用いることを考えていたのだ。

宮崎駿監督が念頭に置いていたのはロシア民謡で勇壮なマーチの『ポーリシュカ ポーレ』。高畑勲のそれはソヴィエト連邦共和国の歌手、ヴラジーミル・ヴィソツキーの『大地のうた』である。

枯れ果てたように見える大地でも、その力強さを信じて諦めずに、種を蒔き続けることを歌った高畑勲が推す同曲に、宮崎駿監督も深く感銘を受けたが、権利関係の問題で使用ができないことがわかった。

そこで代替案として久石譲がこれらの曲を念頭に置いた新曲を書き下ろし、エジプトの歌手ハムザ・エル・ディーンに歌ってもらうことにしたが、高畑勲が様々な音楽資料を集めてデモテープの制作に臨んだところ、当初のイメージとはかけ離れた曲調になってしまため、採用には至らなかったのだ。

もはや主題歌を新たに作る時間はない。いよいよ公開が迫る中、前述のとおり改めて作品全体の音楽設計を見直した高畑勲は、久石譲のイメージアルバムの楽曲群の中に作品全体を支えるテーマ生を見出し、「風の伝説」を軸にした構成へと変更する。

その結果、『風の谷のナウシカ』に主題歌はなくなってしまったのだ。

こうして経緯をまとめてみると、映画『風の谷のナウシカ』は、『イメージアルバム 鳥の人』から、如何に久石譲の音楽と並行し、共鳴しながら作られてきたがわかる。

いまとなれば細野晴臣による映画『風の谷のナウシカ』の劇伴も聴きたかったように思うが、翌1985年の『銀河鉄道の夜』を皮切りに『パラダイス・ビュー』『紫式部 源氏物語』『メゾン・ド・ヒミコ』『グーグーだって猫である』『万引き家族』『Malu 夢路』など氏が劇伴でも大きな功績を残していることと、スタジオジブリ作品をはじめとする劇伴における、その後の久石譲の傑作群を鑑みれば、あの時なされた選択は間違いではなかったのではないだろうか。

ゲストに安田成美を迎えた2023年3月19日放送のInterFM『Daisy Holiday!』で、細野晴臣は、シンボルテーマ・ソング『風の谷のナウシカ』のレコーディングを振り返り「でもナウシカって、何度も見ますけど。やっぱりいい映画ですよね。いいアニメーション」と語った。

歌曲『風の谷のナウシカ』は、映画本編では使用されなかったものの、坂本龍一&嶺川貴子、手嶌葵をはじめ多くの音楽家にカバーされ、いまなお愛されている。

映画『風の谷のナウシカ』における久石譲の音楽が作品と表裏一体だとすれば、細野晴臣の歌曲『風の谷のナウシカ』は、作品にインスパイアされ、独自に作られた曲ともいえる。

そして双方とも楽曲が、唯一無二の魅力に満ちていることは言うまでもない。

 

引用・参考文献
『I am 遥かなる音楽の道へ』久石譲(メディアファクトリー)
『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』鈴木敏夫(文藝春秋)
『映画を作りながら考えたこと』高畑勲(徳間書店)
『シン・YMO』田中雄二(DU BOOKS)
『ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ』スタジオジブリ・文春文庫編(文藝春秋)

 

出典:じつは映画『風の谷のナウシカ』には幻となった「二つの主題歌」があった…!(倉田 雅弘) | マネー現代 | 講談社
https://gendai.media/articles/-/112853?imp=0

 

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