Posted on 2015/12/10
クラシック・プレミアム第50巻は、ガーシュウィン / バーンスタインです。
アメリカを代表するジャズとクラシックを融合した作曲家たち。バーンスタインは名指揮者としても有名です。
【収録曲】
ガーシュウィン
《ラプソディ・イン・ブルー》
ルイ・ロルティ(ピアノ)
ロバート・クロウリー(クラリネット)
シャルル・デュトワ指揮
モントリオール交響楽団
録音/1988年
《パリのアメリカ人》
小澤征爾指揮
サンフランシスコ交響楽団
録音/1976年
バーンスタイン
《ウエスト・サイド・ストーリー》より 〈シンフォニック・ダンス〉
小澤征爾指揮
サンフランシスコ交響楽団
録音/1972年
《キャンディード》 序曲
デイヴィッド・ジンマン指揮
ボルティモア交響楽団
録音/1996年
「久石譲の音楽的日乗」第48回は、
音楽はどこに行くのだろうか?
世界はどこに向かうのだろうか?
いよいよ最終号です。
(全50号中2回は編集部によるコンサート・ルポルタージュのためエッセイ全48回です)
2014年1月創刊「クラシック・プレミアム」も全50巻をこの号で終え、2年間にわたる久石譲のエッセイもここに完結です。しかも最終回は予想もしていなかったうれしいプレゼント、いつもの倍、見開き2ページにわたるぎっしりと詰まった言葉たち。
”久石譲によるエッセイ連載”、久石譲の日常や音楽制作の進捗などがわかるかも!ということで読むことをライフワークとしてきましたが、改めて全号とおしていい内容だったなあと思います。久石譲の音楽制作過程なども垣間見れましたし、コンサートの準備段階から終演後の想いなども。もちろん「音楽の進化」というテーマを掲げた音楽講義は非常に難しいものでしたが、一度で理解できるものではありません。自分の中に理解できないまでもストックして記憶しておくことで、いつかどこかで「ああ、あの時のあのことか」と繋がることもあるのではと思っています。
なによりもここまでクラシックにどっぷりハマる日常生活もなかなかなかったですから、音楽的懐がとても広がったようが気がしています。さらに久石譲が発するキーワード(クラシック作品、作曲家、指揮者、映画、アーティストetc)から数珠つなぎで興味が広がり、同時に久石譲を形成しているバックボーンに少し近づけたような思いです。好きな作曲家の音楽だけを愛するよりも、その人の奥深い背景を少しでも知ったほうが、より作品の聴き方が変わってきますし、新しい響き方を体感することができます。
さて、さすがにその多くは書ききれない今号の内容です。前半「音楽の進化」、中盤社会的メッセージ、後半結びとあとがき、という構成になっているのですが、ここで取り上げるのは一部冒頭と後半のみにします。特に中盤では現在の社会情勢をふまえて、世界や日本で起こっているさまざまな事柄に警鐘を鳴らし、具体的に自分の意見をはっきりと述べていることも珍しいかもしれません。これまでももちろんありますが、その事象が多岐にわたっているという点で。ただ、あくまでも作曲家であり社会を論する評論家ではありません。なので、ここで書いてしまってその一部分だけが抜粋されて四方に泳いでいってしまうのは本意ではありませんので、読者の特権ということで胸に秘めておきます。
そんなに過激は発言をしているわけではもちろんなく「久石譲の意見」として、多くの人に知ってもらいたい、考えてもらいたいからこそ、ご本人は書いてるとは思うのですが、それを広めるのはこの場でなくてもいい、ということです。
最終号です、見開き2ページです、そのほかにも(こっちが本題)人気のあるガーシュウィンやバーンスタインの音楽。久石譲も作品化している「パリのアメリカ人」や、直近で”音楽としてのアメリカ”を語っている久石譲にもつながる、アメリカ発クラシック音楽です。その空気感、たしかに「室内交響曲」などにも通じるものがあるなあと聴きながら。ぜひ最終号記念として手にとってみてください。
一部抜粋してご紹介します。
「音楽の3要素でるメロディーと和音にアフリカ系のリズムが加わることで、ポピュラー音楽は20世紀を席巻した。一方、クラシック音楽の分野ではもう調整のあるメロディーは書き尽くされた、と多くの作曲家は考え(実際、過去の偉大な作曲家のメロディーを超えることは難しい)わかりやすいメロディーを書くことを止めた。それはより複雑化した和音とも関係するのだが、その和音(調性)も十二音音楽で捨てた。また20世紀の音楽の幕開けにふさわしいストラヴィンスキーの《春の祭典》のようなバーバリズム(原始主義)のリズムも、わかりやす過ぎるせいか捨てた。」
「つまりシェーンベルク一派が始めた十二音音楽以降の音楽は、弟子であったウェーベルンの点描主義(音がポツポツと鳴るだけでどこにもメロディーは出てこない)やそれの影響を受けたピエール・ブーレーズ、シュトックハウゼンなどのいわゆる現代音楽の道に繋がっていくのである。それらの多くはメロディーも無く、和音も無く(不協和音という和音ではあるのだが、むしろ特殊奏法を含む響きとして捉えたほうがいいかもしれない)、拍節構造(4/4拍子などの)も意味を持たなくなり、リズムも消えた。メロディーとリズムで多くの聴衆を獲得したポピュラー音楽と、音楽の3要素を否定していった現代音楽。結果は一目瞭然、聴衆は難解で作家の観念の世界(自己満足)に陥った現代音楽を捨てた。それでもまだ時代がよかった。」
「話を戻して、音楽も混迷している。いつの時代も”時代の語法”があった。バロック、古典派、ロマン派、十二音音楽、セリー、クラスター、ミニマル・ミュージックなどそれぞれの時代にそれぞれの作曲の語法があった。むろんそれを否定する人、無視する人などさまざまだが、少なくとも時代をリードする語法はあったが、この21世紀にはない。多くの作曲家は自分の殻に閉じこもり、自分独自と思い込んでいる作風に執着している。これもオンリーワンである。そして聴衆不在の音楽(聴き手のことを考えない)が聴衆不在の場所(そういうものを好むいつも同じ面子はいるらしい)で粛々と行われている。だが、考えてみてほしい。モーツァルトだってベートーヴェンだってもっと作曲は日常的な行為だったはずだ。生活の糧だったともいえる。それが作曲と社会が繋がる唯一の道なのである。だからモーツァルトに至ってはオーボエの協奏曲を別の楽器の協奏曲にすぐ手直ししたりする。時代が違うと言えばそれまでだが、絶対忘れてはいけないことがある。作曲したものはそれだけでは意味が無く、それを演奏する人がいて、聴き手がいなければ成立しないということである。聴いてもらうということが大切なのである。作曲という行為は単独では成立しない、このことを作曲家は肝に銘じなければならない。」
「音楽はどこに行くのだろうか?世界はどこに向かうのだろうか?」
「1人の作曲家としてこの時代に何ができるのだろうか? いつも自分に問うてはいるのだが、答えは出ない。ただ言えることがある。自分は作曲家である。まだ、はなはだ未熟で作品の完成度は自分が満足するには至らず、日々精進して少しでも高みに登る努力をしているのだが、同時に今までの経験を生かし、現代の音楽(現代音楽ではなく)を紹介し、新しい新鮮な体験をする場を提供し、そして過去から現代、現代から未来に繋がる音楽がどういうものなのかを聴衆と分かち合い一緒に作っていきたい、そう考えている。2年にわたるこの連載はこれで終わる。まだ書きたいことはいろいろあるがそれはいずれどこかで。」
勝手なあとがき
「いやー、勝手なこと小難しいことなど色々書いてしまいました。本当はですます調で優しく書きたかったのですが、なぜか最初に、「である」とか、「なのだ!」の断定口調になったため、随分偉そうな書き方になりました。この2年、2週ごとに原稿を書かねばならなかったのは大変苦痛でした。というのは作曲の締め切りなどのピークと原稿の締め切りがほぼ一致し、何日も寝ていない日の明け方にこの原稿を書かなければならなかったことが多かったからです。昔流行ったマーフィーの法則と一緒ですね。」
「特に後半は作曲の量が半端ではなく、また指揮する楽曲の難度も凄まじく、生きた心地がしなかった(苦笑)。ざっとみると《Single Track Music 1》約6分、《The End of the World》全5楽章約30分、《Untitled Music》3分半、《交響詩 風の谷のナウシカ》改訂完全版約30分、《室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra》約30分、《コントラバス協奏曲》約30分などの作品を書き、その間CMなどのエンターテイメントの音楽の作曲も行った。わずか半年である。また指揮もシェーンベルクの《浄められた夜》やアルヴォ・ペルトの《交響曲第3番》、ジョン・アダムズの《室内交響曲》、カール・オルフの《カルミナ・ブラーナ》など難しい楽曲や大規模な作品を振らせていただいた。」
「その間の原稿はあまりに余裕が無く、ひたすら「音楽の進化」について書き続けた、日乗に触れたら本当にしんどいのが実感してしまうから。だが、まだきつい日々は続く。もうすぐベートーヴェンの《第9交響曲》と共に演奏する自作《オルビス》の第2楽章も書かなければならない。やれやれ。」
「それでも本当はこの原稿を書くことによって、自分の考えをまとめることができ、かつ音楽の本質を考えることで自分の立ち位置、自分の中の音楽観をまとめることができたことを深く感謝している。人間は言葉で考える。だから文章を書くことがいかに大切か実感した。」
「あれ、いつのまにか断定口調に戻っている。やっぱりこれが自分の言葉なのか(笑)。古代ギリシャのピタゴラス派が考える音楽観についても書くつもりでいたが本当に紙面が尽きた。機会を与えていただいた小学館の河内さん、読んでいただいた皆さんにも心から感謝、今度はコンサートで会いましょう。」