Blog. 宮崎駿監督 引退会見 一問一答 全文掲載 Part.4

Posted on 2013/09/13

――『熱風』を通じて憲法改正反対を訴えた理由は? また日本のディズニーと称されることについてディズニー出身の星野社長はどう考えますか。

宮崎監督:自分の思っていることを『熱風』から取材を受けて率直にしゃべりました。もう少しちゃんと考えてきちんと喋ればよかったんですけど、別に訂正する気も何もありません。発信し続けるかといわれても僕は文化人じゃありませんので、その範囲にとどめておこうと思います。

星野社長:日本のディズニーという呼ばれ方は別に監督がしているわけでは一切無く、2008年に公の場で同じ質問が外国の特派員からあったときに答えているんですが、「ウォルト・ディズニーさんはプロデューサーであった。自分の場合はプロデューサーがいると。ウォルト・ディズニーは大変優秀な人材に恵まれていた。自分はディズニーではない」と仰っていました。私もディズニーには20年近くいましたし、ディズニーの歴史とか一生懸命勉強する中でぜんぜん違うなと感じています。そういう面では日本のディズニーというほどではないんじゃないかなと。

――『熱風』の動機について。

宮崎監督:鈴木プロデューサーが中日新聞で憲法について語ったんですよ。そしたら鈴木さんのもとにいろいろネットで脅迫が届くようになったと。それを聞いて鈴木さんに冗談でしょうけども、電車に乗るとぶすっとやられるかもしれないというふうな話があって、これで鈴木さんが腹を刺されてるのにこっちが知らん顔してるわけにもいかないから僕も発言しよう、高畑監督もついでに発言してもらって3人いれば的が定まらないだろうと(笑)。それが本当のところです。本当に脅迫した人は捕まったらしいですけど、詳細はわかりません。

――作品の中で「力を尽くして生きろ。持ち時間は10年」という言葉がありますが、監督が振り返って思い当たる10年はどの時点でしょうか。この先10年はどういうふうな10年になってほしいか。

宮崎監督:僕の尊敬している堀田善衛さんという作家が、最晩年にエッセイで旧約聖書の伝道の書というのを「空の空なるかな」と書いてくださったんです。それの中に「汝の手に堪うることは力を尽くしてこれをなせ」という言葉があるんです。非常に優れたわかりやすく、僕は堀田善衛さんが書いてくださると、”頭悪いからお前のためにもう一回書いてあげるから”という感じで描かれてある感じがして、その本はずっと私の手元にあります。10年というのは僕が考えたわけではなくて、絵を描く仕事をやると38歳くらいにだいたい限界がまずきて、そこで死ぬやつが多いから気をつけろと僕は言われた。自分の絵の先生です。それからだいたい10年くらいなんだなと思った。

僕は18歳くらいから絵の修行を始めましたので、そういうことをぼんやり思ってつい10年と言ったんですが、実際に監督になる前にアニメーションというのは世界の秘密を覗き見ることだと。風や人の動きや色々な表情や眼差し、体の筋肉の動きそのものの中に世界の秘密があると思える仕事なんです。それがわかった途端に自分の選んだ仕事が非常に奥深くてやるに値する仕事だと思った時期があるんですね。そのうちに演出やらなきゃいけないと色々なことが起こってだんだんややこしくなるんですが、その10年はなんとなく思い当たります。そのときは本当に自分は一生懸命やっていたと、まぁ今さらいってもしょうがないんですけど。これからの10年に関してはあっという間に終わるだろうと思ってます。それはあっという間に終わります。だって美術館作ってから10年以上たってるんですよ。ついこないだ作ったのにと思っているのに。だからこれからさらに早いだろうと思うんです。ですからそれが私の考えです。

――奥様に引退をどのような言葉で伝えましたか? 奥様の反応は? また、2013年の今の世の中をどのように見ていますか?

宮崎監督:家内にはこういう引退の話をしたという風に言いました。お弁当は今後もよろしくお願いしますと言って、”フンッ”と言われましたけども(笑)。常日頃からこの歳になってまだ毎日弁当を作ってる人はいないと言われておりますので、まことに申し訳ありませんが、よろしくお願いしますと。外食は向かないように改造されてしまったんです。ずっと前にしょっちゅう行ってたラーメン屋に行ったらあまりのしょっぱさにびっくりして、本当に味が薄いものを食わされるようになったんですね。そんな話はどうでもいいんですけど。

僕が自分の好きなイギリスの児童文学作家でロバート・ウェストールという男がいまして、この人が描いたいくつかの作品の中に本当に自分の考えなければいけないことが充満しているというか。その中でこんなセリフがあるんです。「君はこの世に生きていくには気立てが良すぎる」。少しも褒め言葉じゃないんです。そんな形では生きてはいけないぞといってる言葉なんですけど、それは本当に胸打たれました。つまり僕が発信してるんじゃなくて僕はいっぱい色々なものを受け取っているんだと思います。多くの読み物とか昔見た映画とか、そういうものから受け取っているので、僕が考案したものではない。繰り返し繰り返しこの世は生きるに値するんだと言い伝え、本当かなと思いつつ死んでいったんじゃないかというふうに、それを僕も受け継いでいるんだと思ってます。

――引退発表の場所とタイミングが「ヴェネツィア映画祭」になった理由は?

鈴木プロデューサー:ヴェネツィアでコンペ、出品要請、これかなり直前のことだったんです。社内で発表し、引退の公式の発表をするっていうスケジュールは前から決めていたんですけどね、そこに偶然ヴェネツィアのことが入ってきたんですよ。僕と星野のほうで相談しまして、宮さんには外国の友人が多いじゃないですか。そしたらヴェネツィアっていうところで発表すれば、言葉を選ばらなきゃいけないんですけど、一度に発表できるなと、そういう風に考えたんですよ(笑)。もともとね、こうも考えていたんです。まず引退のことを発表してその後記者会見をやる。このほうが混乱が少ないだろうと。当初は東京でやるつもりでした。ただちょうどヴェネツィアが重なったものですから、そこで発表すれば色々な手続きが減らすことができるっていうただそれだけのことでした。

宮崎監督:「ヴェネツィア映画祭」に参加するって正式に鈴木さんの口から聞いたのは今日が初めてです。”えっ”て星野さんが言ってるとか、ああそうなんだってそういう風に答えまして、これはまぁプロデューサーの言う通りにするしかありませんでした。

――富山出身の堀田善衛ですが、集大成になった『風立ちぬ』に堀田善衛から引き継いだようなメッセージのようなものは?

宮崎監督:自分のメッセージを込めようと思って映画って作れないんですね。何かこっちじゃなきゃいけないと思ってそっちに進んでいくっていうのは何か意味があるんだろうけど、自分の意識でつかまえられないんです。つかまえられることに入っていくとたいていろくでもないところにいくんで、自分でよくわからないところに入っていかざるをえないんです。映画って最後にふろしきを閉じなきゃいけませんから。未完で終われるならこんな楽なことはないんですけど。いくら長くても2時間が限度ですから、刻々と残りの秒数も減っていくんですよね。それが実態でして、セリフとして生きねばとかいうことがあったから、多分これは鈴木さんが『ナウシカ』の最後の言葉を引っ張りだしてきてポスターに僕が描いた『風立ちぬ』という言葉よりも大きく(笑)。これは鈴木さんが番張ってるなと思ったんですけど(笑)。僕が生きねばと叫んでいるように思われてますけど、僕は叫んでおりません(笑)。そういうことも含めて宣伝をどういう風にやるか、どういう風に全国に展開していくかは鈴木さんの仕事として死に物狂いでやってますから、僕はそれを全部任せるしかありません。というわけでいつのまにかヴェネツィアに人が行ってるっていう。その前になんとか映画祭にパクさんと二人で出ませんかとか言われて。カンヌ映画祭があるとか言われて勘弁して下さいとかあって。ヴェネツィアにいくかは何も聞かれなかったんですけど。

鈴木プロデューサー:ヴェネツィアに関しては宮さんコメント出してますよ。リド島が大好きって。

宮崎監督:あ……僕はリド島が好きです。カプローニにとっては孫ですけど、その人がたまたま『紅の豚』を見て、自分のおじいさんさんがやっていた社史、飛行機の図面というか、わかりやすく構造図に変えたものが大きな本で、日本に1冊しかないと思いますけど、突然イタリアから送ってきて、いるんならやるぞと。ありがたくいただきますと返事を書きましたけど。それで僕は写真で見た変な飛行機としか思ってなかったものの中の構造を見ることができたんですよ。ちょっと胸を打たれましてね。技術水準はドイツやアメリカに比べるとはるかに原始的なんですけど、構築しようとしたものはローマ人が考えてるようなことをやってると思ったんです。カプローニという設計者はルネッサンスの人だと思うと非常に理解できて、つまり経済的批判がないところで航空会社をやっていくためには相当張ったりもホラも吹かなければならない。その結果作った飛行機が航空史に残っていたりすることがわかって、とても好きになったんです。そういうことも今度の映画の引き金になってますが、たまりたまったものでできているものですから、自分の抱えているテーマで映画を作ろうとあまり思ったことがありません。突然送られてきた本1冊とか、随分前ですよね、いつの間にか材料になっていくということだと思います。

――堀田善衛とはどんな存在ですか?

宮崎監督:『紅の豚』をやる前なんかも世界情勢をどんな風に読むのかわからなくなっているうちに、堀田善衛さんってそういうときにサッと短いエッセイだけど、描いたものが届くんですよ。それを読むと自分がどこかに向かって進んでいるつもりなんだけど、どこへ行っているんだかわからなくなるような時期があるときに見ると、よく堀田善衛さんという人はぶれずに歴史の中に立っていました。見事なものでした。それで自分の位置がわかるということが何度もあったんです。本当に堀田善衛さんが描いた国家はやがてなくなるだろうとかね、そういうことがそのときの自分にはどれほど助けになったかと思うと、大恩人の一人だと今でも思っています。

――初期の頃の作品は2年、3年感覚で発表していましたが、今回は5年ということで、年齢によるもの以外に創作の試行錯誤など時間がかかる要因がありましたか?

宮崎監督:1年間隔で作っていたこともあります。最初の『ナウシカ』も、『ラピュタ』も『トトロ』も『魔女の宅急便』も、それまで演出やる前に手に入れていた色々な材料がたまってまして、出口があったらばっと出て行く状態にあったんです。その後はさぁ何を作るか探さなきゃいけないというそういう時代になったからだんだん時間がかかるようになったんだと思います。あとは最初は『カリオストロの城』は4カ月半で作りました。寝る時間を抑えてでもなんとかもつというギリギリまでやると4カ月半でできたんですが、そのときはスタッフ全体も若くて同時に長編アニメーションをやる機会は生涯に一回あるかないかみたいなそういうアニメーターたちのむねがいて、非常に献身的にやったからです。それをずっと要求し続けるのは無理です。歳もとるし、世帯もできるし、私を選ぶのか仕事を選ぶのかみたいなことを言われる人間がどんどん増えてくるっていう。今度の映画で両方選んだ堀越二郎を描きましたけど、これは面当てではありません(笑)。

そういうわけでどうしても時間がかかるようになりました。同時に自分が一日12時間机に向かっても耐えられた状態ではなくなりましたから。実際、机に向かっている時間はもう7時間が限度だと思うんですね。あとは休んでるかおしゃべりしてるか飯を食ってるかね。打ち合わせとか、これをああしろとかこうしろとかは僕にとっては仕事じゃないんですよ。それは余計なことで、机の上に向かって描くことが仕事で、その時間を何時間とれるかっていう。それはね、この年齢になりますともうどうにもならなくなる瞬間が何度もくるっていうね。その結果、何をやるかっていいますと、鉛筆をパッと置いたらそのまま帰っちゃう。片付けて帰るとか、この仕事は今日でケリをつけるっていうのは一切あきらめたんです。やりっぱなしです。放り出したまま帰るということをやって、それでももう限界ギリギリでしたから。これ以上続けるのは無理だと。それを他の人にやらせるべきだということは僕の仕事のやり方を理解できない人のやり方ですから、それは聞いても仕方がないんです。できるならとっくの昔にそうしてますから。5年かかったといいますけど、その間にどういう作品をやるかっていうのは方針を決めてスタッフを決めて、それに向かってシナリオを描くということをやってます。やってますが、『風立ちぬ』は5年かかったんです。『風立ちぬ』は、後どういうふうに生きるかはまさに今の日本の問題で、この前ある青年が訪ねてきて、「映画の最後で丘をカプローニと下っていきますけど、その先に何が待っているかと思うと本当に恐ろしい思いで見ました」というびっくりするような感想でしたが、それはこの映画を今日の映画として受け止めてくれた証拠だろうと思って、それはそれで納得しました。そういうところに僕らはいるんだということだけはよくわかったと思います。

宮崎監督:こんなにたくさんの方がみえると思いませんでした。本当に長い間、いろいろお世話になりました。もう二度とこういうことはないと思いますので。ありがとうございました。

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これが当日約1時間半に及んだ引退会見の全容です。何度読み返してもうならされるところがその都度たくさんあります。

これを用意された原稿ではなく、当日のライブによる本番、つまりは誰がどんな質問をするかもわからないなかで、瞬時に自分の考えをブレずに明確に述べられているところにそのバックボーンであるこれまでの思考や体験の深さを思い知らされます。

宮崎駿監督本当にお疲れさまでした。そしてこれからも「自由に」歩んでいかれることを楽しみに期待しています。

 

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