Blog. 久石譲はお好きですか? -独白-

Posted on 2025/12/01

久石譲はお好きですか?

私は久石譲の音楽をこよなく愛するファンの一人だ。どのくらい好きかと聞かれたら、それはもう人生そのものだ。ズームアップしてみる。自分の人生の中で起きた出来事をその時々の主旋律とするなら、久石譲の音楽はその時々の対旋律だ。どんな小さなメロディも豊かにしてくれるカウンターメロディ、絡み合い寄り添い共に歩むことができている。

生活するうえで「衣食住」は基盤だが、「衣音住」であったらいいなとすら思う。音楽を食べるように味わいたい。音楽が体や心の栄養になって補給してくれたらどれほど潤い満たされるだろう。

久石譲の熱烈なファンはグローバルに星の数ほどいる。応援する輝きもさまざまだ。私といえば「一応おさえている」という程度ではないことは確かだと思う。周りがどのように思い、どのような印象を抱いているのかはわからない。突然こんな話を聞かされても引くと思うがいったん話をさせてほしい。もしよければ聞いてほしい。

私がこれから言うことはシンプルで最強である。《久石譲コンサートはオール久石譲プログラム》で聴きたい。

 

 

一. 実録

2025年9月26日、大阪 ザ・シンフォニーホールで「日本センチュリー交響楽団 定期演奏会 #292」が開催された。久石譲が登場するコンサートはSOLD OUTに国際色豊かな観客層、この二つはもう名物と言っていい。近年、私が足を運んだコンサートでも座席の両隣が海外客、あるいは前後左右を見渡して世界地図のようにバラエティな海外客に囲まれることも珍しくはない。

だが、その日は一点だけが異なっていた。私の隣に座ったのは欧米人の若い男性二人組だった。その一人がめちゃくちゃ果敢に話しかけてくるのだ。英語でしゃべれると思った?最初に何か話しかけてきた時それ理解してそうな顔してた?、レベルは察知したようで一生懸命に日本語を頭の上で探しながら、また話かけてくる。私は私で一生懸命に英語を頭の上で探しながら、なんとか応えようとする。欧米人は拙い日本語で、日本人は拙い英語で、となんともちぐはぐな会話で暴投よろしくキャッチボールを繰り返した。

お互いの悪送球をカバーリングするとこうだ。

「写真撮影はOKですか?」~「この公演は写真撮影NGです」/「みんなが撮影している時はOKですか?」~「基本NGです。終演後とか舞台に誰もいない時は一枚くらいはいいかもね メイビーだけど」/「でもそれだと久石譲はいませんね」~ お互いに顔を見合わせ苦笑い

「久石譲の曲がたくさん聴けると思ってました」「私はこのプログラム(クラシック)の曲を知りません」「残念です」「スタジオジブリの曲はやりますか?」「私はそれで好きになりました」「残念です」「あなたも久石譲の曲が聴きたかったでしょ」~「そうですね」 お互いに顔を見合わせ苦笑い

あとは、休憩時間に入った時、何分くらいか?後半はどのくらいの時間か?とか。アンコールが終われば、今の曲はなんていう曲?とか。入口に掲示してると思いますよって言ったつもりだが伝わったのどうかは怪しいところだ。

 

 

一. クラシック作品との並列

久石譲は作曲家視点でクラシック音楽を読み解き現代的アプローチで演奏することの意義を、そして何百年と残ってきたクラシック作品と現在の自作品をプログラムで並べることの意義を語り、実際に2009年から本格的に実践してきた。この16年間でそれはもう証明できた、と私はどの立場から物を言ってもそう思っている。久石譲指揮 ベートーヴェン交響曲全集など賞も受賞し高い評価を得ている。

久石譲はもうそこの人じゃない。他作品ばかりで自作品をやらないのは、結果的に自作品の価値を下げていることにはならないだろうか。いい曲ありますからそっちをやりますとされたら、久石譲のよりもそっちのほうがすごいんだ、だって本人が自分の曲を差し置いてそっちを選んでるんだから、ってならないだろうか。そんなことはない!それは絶対に違う!この文章を書きながら頭を左右に振りすぎて少しくらくらする。

新しいフェーズは他者が並列プログラムするかをぜひ時代の必見ポイントにしたい。日本の海外の指揮者・オーケストラが、クラシック音楽と久石譲音楽を並べた演奏会を積極的に開催する。しびれる展開だ。きっとその未来は近づいていると確信している。

 

 

一. コンセプトとプログラム

なぜこの作品をプログラムするのか。意図や狙いがしっかりとあるものもある。ベートーヴェン交響曲と久石譲、ブラームス交響曲と久石譲、スティーヴ・ライヒと久石譲、などはすぐに思い当たる。そればかりか、久石譲コンサートで取り上げることでその作品の再評価を促したり、世界初録音もしくはそれに近い役割を果たすケースもある。だがしかした。だからゆえにだ。なんともその輝きすぎる功績に悩ましい限りだ。

久石譲が振るクラシックは新しい魅力で妙にたまらないのだ。昔からあったベートーヴェンに心躍らされわくわくしてしまう。今はじめて知った音楽に豊かな体験をさせられてしまう。どんな作品を取り上げても、その音楽のどこかに久石譲らしさを感じてしまうのだ。録音が音源化されるとあれば条件反射で浮かれてしまう。いけない、心を強く持て。私の高揚感よ鎮まれ。

その時代のために作品を書き、しかも作品の価値が時代を超えることの素晴らしさがある。「ベートーヴェン:第九」と並べることで傑作際立つ「久石譲:Orbis」しかり、「ライヒ:砂漠の音楽」と並べることで存在感膨れる「久石譲:The End of the World」しかり。時空でつながるリスペクトと境地への相乗効果だ。だからこそ今一番演奏されるべきは久石譲作品であると言いたい。いまの時代のために作品を書いているのだから。

MUSIC FUTUREコンサート・シリーズはその限りではない。

 

 

一. クラシック演奏会

久石譲は日本のみならず世界の名立たるオーケストラのシーズンプログラムで定期演奏会/特別演奏会に登場している。一口にクラシック演奏会だ。そこでこそ自作の交響曲・交響作品・協奏曲・室内楽が聴きたい。こんなことは誰にでも出来ることではない。作曲家自らが指揮をする。これに勝る価値と喜びはない。

スタジオジブリ作品からアンコール演奏されることもある。観客の無言の期待値は計り知れない。そうしてサービス感が満たされることもある。いや、もっていかれることもあるかもしれない。ライブラリを訪ねるとアンコール候補は360度くまなくある。周知の事実だ。久石譲が手掛けたエンターテインメント音楽はタイアップを知らない世代もいる。しかるにそれは、色眼鏡のない純粋に素晴らしい音楽として観客は楽しめるということ。どうしてこの曲を選んだんだろう? いい曲だからだ。

グラモフォンから世界リリースされたベスト盤2枚からセレクトするなら、コンサート会場での物販にも好影響だろう。コンサートの思い出を持ち帰れることにも好影響だろう。

仮に演目が変更になっても問題ないクラシック作品を挙げるのは心からもったいない。

 

 

一. 作曲家と指揮者

久石譲よりも若い世代の日本人作曲家が、自作の交響曲とマーラー交響曲を並べるコンサートを開催するなどニュースを耳にする。彼らもまた映画・ドラマで引っ張りだこの作曲家だ。久石譲が進んできた道のりには、いい風をつかまえることができる。もしまだ追随できないものがあるとするなら、それは書き下ろした作品を指揮者とオーケストラに託すかどうかだ。

自らの意思でその細部までコントロールして思うままのサウンドを作りあげる。他者の解釈が混ざらないピュアゴールドの輝きだ。あるいは、それは一流シェフが存分に腕を振るう特別ディナーみたいなもので、出されたものをただもう美味しくいただくしかない。作曲家久石譲・指揮者久石譲の演奏を余すところなく堪能できるのは時代のギフトだ。

 

 

一. ジョン・ウィリアムズ

映画音楽の世界的巨匠だ。たとえ映画は見たことがなくてもその音楽は聴いたことある。そんな人も世代とともに広がりをみせる。ジョン・ウィリアムズの映画音楽をプログラムしたコンサートは世界各地で開催されている。そして自ら指揮を振るコンサートとあらばその熱狂ぶりはプレミアものだ。

もし、自国にジョン・ウィリアムズが来てくれて待望のコンサートを開催したときに、そこで映画音楽をしなかったらがっかりする。それでも自作の交響曲や協奏曲が聴けるなら純度100%でうれしい。ジョン・ウィリアムズの音楽とわかるコンサートだ。その時「これは素晴らしい曲なんですよ」と全く他作品ばかりされたら心からがっかりする。はたまた、ジョン・ウィリアムズの母国に海外旅行中に運よくコンサートも開催される。そこでも同じことが起こる。せっかくのラッキーチャンスも目減りする。どうして自分の曲をやらないんだろうと純粋な疑問と不思議で頭の中はいっぱい帰国することになる。

上の文章からジョン・ウィリアムズを久石譲に置き換えてもセンテンスは成立するだろうか。

 

 

一. ポップスで考える

もし、宇多田ヒカルや米津玄師が「この曲に影響受けました」「めっちゃいい曲だから聴いてほしい」とライブでカバー曲ばかりしたらどうなるだろうか。インタビューなどで影響のバックボーンを知ることはファンにとってうれしい。リスナーの音楽フィールドも広がる。私ならすぐに曲を探して聴く。ライブのセットリストで1,2曲ならやってくれた希少さと喜びに沸くだろう。好きなアーティスト色に染まって聴ける曲はなんとも贅沢だ。しかしながら、セットリストの半分もそれ以上もカバー曲だったらファンは納得しないだろう。私たちはその流れを受けて生まれたあなたの曲が聴きたい。だって今を生きているのだから。

 

 

一. オーケストラ界

映画音楽は今や作曲家にとってのメインストリームだ。モーツァルト、ベートーヴェン、チャイコフスキー、彼らの序曲・歌劇・組曲は映画音楽のドラマティックさに匹敵する。時代が違えは映画音楽を書いただろう。それ以降続くオペラ・ミュージカル・バレエもそうだ。全てが当時のメインストリームであり歴史の中でクラシックになったのだ。時代のエンターテインメントがアートとなり遺ったのだ。はっきり言う。オーケストラの魅力を発揮する作品であるならばクラシックも映画音楽も素晴らしさは変わらない。

今の時代の作品をやってやってやって、それでもベートーヴェンが残る未来なら受け入れよう。でも現状はきっとそうじゃない。スポーツ界にもレジェンドはたくさんいる。そして今をときめくスーパースターもいる。昔の偉人はすごいよ、それはわかる、リスペクトも惜しまない。彼らがいたから今があるのだとしたら受け継いだものにこそ時代の共感性は最大限に生まれるのではないか。順番が逆だ。スーパースターが輝いてこそレジェンドにも光が伸びる。そう信じたい。

今のこの状況をどう了解するのがよいのかわからなくなる。

 

 

一. オフィシャルスコア

近年、久石譲作品のオフィシャルスコアも少しずつではあるが充実をみせている。ショット・ミュージックや全音楽譜出版社に加えてブージー・アンド・ホークスと音楽出版契約を結び演奏団体へのスコアレンタルも基盤が整う。これは同時に、世界中でどの久石譲作品が演奏されているのか把握できるというメリットもある。今年演奏された作曲家ランキングのようなニュースはこうした公式楽譜を管理する出版契約あっての統計だ。非公式楽譜のプログラムは含まれない。

ファンとしては片手にアルバム、片手にスコアを並べて心ゆくまで久石譲音楽を楽しみたいところだ。まずは、演奏してくれる人たちへの紹介と環境づくりはもっともだ。願わくは原典版から進化した改訂版が存在することを、その音源とスコアのアップデートもしっかりと形にしてほしい。びっくりするほど素晴らしい改訂版があるのに、いつまでも何十年も前のバージョンが演奏されたりそれが広まったり、そんな未来は想像したくない。作曲家として名を残し十全な作品ラインナップを実現してほしい。

 

 

一. スティーヴ・ライヒ

『スティーヴ・ライヒ対談集』その中で彼の2024年インタビューにこうあった。「現在、出版社のブージー・アンド・ホークス社に、今後予定されているコンサートを確認したところ、97のコンサートがあるとのことだ。そのうち7~9公演がアメリカで、残りの90公演ほどは世界中、主にヨーロッパで開催される」(p.430)ミニマル・ミュージックに代表される彼の作品はすでに古典になっている。

また別出典では「2022年欧米で最も作品が演奏された現代作曲家」は演奏回数順に1.アルヴォ・ペルト/2.ジョン・ウィリアムズ/3.ジョン・アダムズ/4.トーマス・アデス/5.フィリップ・グラスとあった。彼らの現代音楽と商業音楽はおそらく分け隔てなくカウントされている。

 

 

一. はじめまして/ありがとう

いつ誰に何があるかはわからない。誰かにとっては初めてのコンサートになるだろう。誰かにとっては最後のコンサートになるかもしれない。SNSで実感するのは5割以上が「はじめまして」じゃないかと思うほど客層とファンの絶え間ない広がりだ。初恋も初デートも、それがどんなに空を飛ぶようにうれしかったものでも、それがどんなに甘酸っぱく苦かったものでも、しっかりと刻まれることになる。その思い出は一人に一つしかない。

もし私がおすすめする機会があるなら、その人にとってキラキラになるコンサートをすすめたい。

 

 

一. まことの主題

まことの主題は久石譲によって生み出された旋律だ。これほど心をうごかされる美しさはおぼえたことがない。名曲も新作も私の目は好奇心で潤い輝いている。いつも未知の歓びがある。

日本公演でのスタンディングオベーション、海外公演での熱狂的な歓迎ぶりはクラシック/現代音楽の範疇を超えている。世界中が久石譲の音楽を聴きたがっている。久石譲 presents オール久石譲プログラム、それはエンターテインメントとアートが創る音楽世界だ。ワン・アンド・オンリーだから夢中になる。いつか満たされる日などは来ない。

もしクラシックよりも自作を振ったほうが充実していると思われるなら是が非でも待機万全だ。好機を得たらクラシックとのプログラム比率を再考する瞬間が訪れてほしい。コンサートのサイクルが変われば、リリースのサイクルもまた変わるだろうか。それもまた待機万全だ。

 

 

一. 極めて独白

久石譲は作曲家である。久石譲は指揮者としても個性を放つ。久石譲のピアノは心にたまる。45年以上のキャリアで第一線であり続けることは本当に稀有だ。常に作品を書き続けていることには、言葉ではとてもとらえきれない尊さと価値がある。作曲のためならやりたいことをやってほしい。やりたいことをやったその結実で私は常に新しい久石譲音楽を楽しめていることもまた事実だ。

私は未熟だ。いかなる思慮深さをもったとしてもまず初めに思うことはそうだし、納得を示したとしても最終的に思うこともまた同じである。あなたの曲が聴きたい。

私の独白はここで留める。ただただファンの一人という小さな一滴の自分が楽しみたいことを最優先に置いている。視野を狭めることでファンを謳歌している。とうてい模範的で最良のファンにはなれない。私はどこまでも久石譲の音楽を偏愛する。

作曲家自らの指揮による自作交響曲全曲演奏会シリーズ!交響曲全集パッケージ!こんな未来を想像させてくれる作曲家を私は知らない。

幸せをこめて

2025年12月 ふらいすとーん

 

 

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最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

 

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“Blog. 久石譲はお好きですか? -独白-” への2件の返信

  1. とりあえず、WDOのプロジェクトで完成したジブリ宮崎駿監督の各作品の交響組曲については、「全集」を出して音源化してほしいですね♪
    (「紅の豚」や「崖の上のポニョ」とか、CD化されてないのもあるし)

    1. そうですね!スタジオジブリ交響組曲全集ぜひ音源化してほしいです!ありがとうございます♪

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