Posted on 20014/11/12
「クラシックプレミアム」第22巻は、メンデルスゾーン / シューマン です。
ロマン派を代表するふたりの作曲家が特集されています。ロマン派についてわかりやすく解説されていましたので少し長文ですがまとめておきます。
「ロマン派とは、古典派に続いて現れた音楽史上の一つの時代であり、1790年頃から1910年頃までを指すというのが一般的で、中心的には19世紀の芸術活動を指すことになる。ロマン派というのは、ロマン的なるものを徹底して追求した芸術上の思潮であり、それは、感情的な営みが、秩序や理性といった原理・原則以上に優先された、そんな時代を指すということができよう。」
「すなわち、ロマン主義とは、理性に対して本能が、形式に対して想像力が、頭脳に対して心が、アポロ的なるものに対してディオニュソス的なるものが優先される、そんな時代の芸術活動ということができよう。これは、一つ前の啓蒙主義の時代には抑圧されていたものであったし、古典主義的な価値観、つまり、何よりも秩序を理想としていた時代とは明らかに異なるものであった。理性的で説明可能な世界から、何よりも自由で、神秘的で、超自然的な営みへの願望が強くなってきた時代思潮なのであり、それは未来への憧れと夢想とが混在する、そんな時代の営みということもできよう。」
「当然、こうした考え方は、音楽に対する期待感を変えることにもなってきた。それは、まず形式や構成に対する変化となって表れてきたし、音色も、音量も貪欲に追求されてきた。その結果、作品の規模が拡大されてきたし、オーケストラ編成も拡大されてきた。そして協奏曲は、人間の能力をほとんど超えるかと思わせるほどに超絶技巧がちりばめられるようになり、パガニーニやリストらの演奏が人々を感動させたのである。」
【収録曲】
メンデルスゾーン
ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64
ヴィクトリア・ムローヴァ(ヴァイオリン)
サー・ネヴィル・マリナー指揮
アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
録音/1990年
シューマン
ピアノ協奏曲 イ短調 作品54
アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)
クラウディオ・アバド指揮
ロンドン交響楽団
録音/1979年
「久石譲の音楽的日乗」第22回は、
音楽は時間軸と空間軸の上に作られた建築物?
前号以前からの「視覚と聴覚」についての内容が続きます。
今回はとりわけとても難しい内容だったのですが、ある意味において久石譲が数十年前から語っていること、音楽論における自身の核心的な内容を含んでいます。
とてもどの一部を抜粋するかに悩んだ末…これだけ核となっている今号エッセイ内容であり、抜粋したがために書き手の伝えたかったことの意図に反してしまっては…と思い、いつもよりも容量多めに紹介します。
「養老孟司先生が言うには、「人間は脳が進化して意識が生まれた。動物の脳みそは小さいが、人間の脳みそは大きくなって目にも耳にも直属しない分野『連合野』ができた」……なるほど、目と耳から違う情報が入ってきても、どちらも同じ自分だよ、と言い聞かせる機能が必要になったというわけだ。それで「目からの情報と耳からの情報、二つの異質な感覚を連合させたところにつくられたのが『言葉』。人間は『言葉』を持つことで、世界を『同じ』にしてしまえたんです」。いやー、『耳で考える』で対談したときよりも少しは頭が良くなったと思っている僕でも、今読み返すとブラームスの交響曲第1番第4楽章の雲間から光が差し込むようなホルン、あるいは暗闇に走る稲妻のごとき衝撃的かつ啓示的な言葉だ。」
「言葉は目で見ても耳で聞いても同じである。だがそれを結合させるためにはある要素が必要になる、と養老先生はおっしゃる。もう少し引用するのをお許し願いたい。「視覚にないものは何か、それは『時間』です。写真を撮ってもそこに時間は映らない。絵にも時間は描けない。目にとって、時間は前提にならないんです。その代わり、空間が前提になる。一方、聴覚にないものは何か、『空間』です」と言い切っておられる。そして聴覚にないものの「空間」について、デカルト座標は視覚、聴覚は極座標で距離と角度しかなく、どのくらい遠くから聴こえるからと、どっちから聴こえるか、それだけです、と補足している。」
「その上で「目が耳を理解するためには、『時間』という概念を得る必要があり、耳は目を理解するためには、『空間』という概念をつくらなきゃいけない。それで『時空』が言葉の基本になった。言葉というのはそうやって生まれてきたんです」。 さあ、いよいよ出ました「時空」という言葉!」
「音楽は時間軸と空間軸の上に作られた建築物である──久石譲」なんてね。
「いずれこの連載で書くであろう音楽の3要素、すなわちメロディー、リズム、ハーモニーは時間軸と空間軸の座標上の建築物であり、その中のハーモニーは空間的表現であると解釈されている。と続けたいがその前に「時空」という言葉をウィキペディアで調べると「時間と空間を合わせて表現する物理学の用語、または、時間と空間を同列に扱う概念のことである」……?」
「要約すると、人間は視覚と聴覚から入る情報にズレがあり、それを補うために言葉を発明し、その言葉の前提は時空にある、ということだ。そしてその時空は音楽の絶対的基本概念でもあるわけだ。」
「時間が絡むと、そこには論理的な構造が成立する。つまり言葉は「あ」だけでは意味がなく「あした」とか「あなた」などと続いて初めて意味を持つ。その場合、どうしても「あした」と読むために時間経過が必要である。このように時間軸上の前後で関係性が決まるものは論理的構造をもつ。音楽でも「ド」だけでは意味がなく「ドレミ」とか「ドミソ」などと続けて初めて意味を持つ。だからこれも論理性が成立する。」
「一方、絵画は論理的構造を持たない。絵を観るのに時間がかかったというのは本人の問題であって表現自体に時間的経過は必要ない。よって絵画は論理的構造を持たない。「百聞は一見に如かず」。見えちゃうんだからしょうがないだろうということはやはり論理性は感じられない。断っておくが絵が単純だと言っているわけではない。だからこそ論理を超えた体感という何かを感じるわけだ。」
「多くの人たちは音楽を情緒的、あるいは情動的なものと捉えているが実は大変論理的な構造をもち、それこそが音楽的ということなのである。」
以前より久石譲がインタビューなどでも語っている音楽についてのこと。「ド」だけでは意味がなく「ドレミ」とか「ドミソ」などと続けて…あたりもそうです。そしてそんな具体例の核にあるのが、『時空』であり『時間軸と空間軸』です。
実はこれ、1997年の映画『もののけ姫』に関するインタビューでも登場します。ちょうどつい先日そのインタビュー内容は掲載しています。
こちら ⇒ Blog. 久石譲 「もののけ姫」 インタビュー ロマンアルバムより
久石譲の作曲活動において、とても核心的な部分であったため、今号のエッセイは一部だけを抜粋してしまうことに躊躇してしまったわけです。少し多めにご紹介しました。まさに久石譲の音楽的思考が凝縮された内容でした。