2018.5.19 追記
金曜ロードSHOW!(日本テレビ)Friday roadSHOW.NTVTokyo 公式Facebookにて動画が公開されています。
宮崎駿監督「開会の辞」ノーカット 約10分
https://www.facebook.com/kinro.ntv/videos/1535557046570262/
「いのちの記憶」二階堂和美 独唱 ノーカット 約6分
https://www.facebook.com/kinro.ntv/videos/1535662363226397/
また下記本文(Webニュース各種)の「宮崎駿 開会の辞」全文 更新しています。
Posted on 2018/05/16
4月5日に82歳で永眠した高畑勲をしのぶ「高畑勲 お別れの会」が、5月15日に東京・三鷹の森ジブリ美術館で行われた。
1935年に三重県で生まれた高畑は、東京大学仏文学科を卒業後、東映動画(現:東映アニメーション)に入社し、演出助手などを経て『太陽の王子 ホルスの大冒険』で監督デビュー。退社後、宮崎駿とともに『パンダコパンダ』『アルプスの少女ハイジ』といった1970年代を代表するアニメ作品を生み出した。『風の谷のナウシカ』のプロデューサーを経て、1985年にはスタジオジブリ設立に参加。『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』『ホーホケキョ・となりの山田くん』を発表し、宮崎とともにスタジオジブリの一翼を担った。
宮崎とスタジオジブリの代表取締役プロデューサーである鈴木敏夫の「ジブリとして盛大なお別れの会を」という言葉のもと、高畑が生前愛した三鷹の森ジブリ美術館で執り行われた式。祭壇と遺影は高畑を「野に咲く花たちで囲みたい。ただ温かみのある草花たちで包みたい」という宮崎の思いから飾られた。そのほか『おもひでぽろぽろ』にちなみ紅花、フランス芸術文化勲章オフィシエが胸に飾られた『パンダコパンダ』のパパンダのぬいぐるみ、親交のあった『木を植えた男』で知られるフレデリック・バックから贈られた人形などが会場に置かれていた。
宮崎駿監督(77)が「お別れの会」委員長を務め、開会の辞を担当。ジブリ作品で多くの音楽を担当した久石譲氏(67)らがお別れの言葉を送った。お別れの歌は『かぐや姫の物語』で主題歌を担当した二階堂和美(44)。鈴木敏夫プロデュサー(69)が主催者代表のあいさつを行った。
宮崎駿監督「開会の辞」全文は以下の通り。
(高畑さんの)パクさんというあだ名の謂れはですね、定かでない部分もあるんですが、大体ものすごく朝が苦手な男でして、東映動画に勤め始めたときも、ギリギリに駆け込むというのが毎日でございまして、買ってきたパンをタイムカードを押してから、パクパクと食べて、水道の蛇口からそのまま水を飲んでいたという、それで「パク」が「パク」になったという噂です。追悼文という形ではありませんが、書いてきましたものを読ませていただきます。
パクさんは、95歳まで生きると思い込んでいた。そのパクさんが亡くなってしまった。自分にもあんまり時間がないんだなあと思う。9年前、私たちの主治医から電話が入った。「友達なら、高畑監督のタバコをやめさせなさい」と真剣な怖い声だった。主治医の迫力に恐れをなして、僕と鈴木さんは(鈴木さんというのはプロデューサーです)、パクさんとテーブルを挟んで向かい合った。姿勢を正して話すなんて、初めてのことだった。
「パクさん、タバコをやめてください」と僕。「仕事をするためにやめてください」これは鈴木さん。弁解やら反論が、怒濤のように吹き出てくると思っていたのに、「ありがとうございます。やめます」 パクさんはキッパリ言って、頭を下げた。そして本当にパクさんは、タバコをやめてしまった。僕は、わざとパクさんのそばへ、タバコを吸いに行った。「いい匂いだと思うよ。でも全然吸いたくなくなった」とパクさん。彼の方が役者が上だったのであった。やっぱり95歳まで生きる人だなあと、僕は本当に思いました。
1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、僕らは初めて出会いました。その初めて言葉を交わした日のことを、今でもよく覚えています。黄昏時のバス停で、僕は練馬行きのバスを待っていた。雨上がりの水たまりの残る通りを、一人の青年が近づいてきた。「瀬川拓男さんのところに行くそうですね」 穏やかで賢そうな青年の顔が目の前にあった。それが高畑勲ことパクさんに出会った瞬間だった。55年前のことなのに、なんてはっきり覚えているのだろう。あの時のパクさんの顔を、今もありありと思い出せる。瀬川拓男氏は、人形劇団太郎座の主催者で、職場での公演を依頼する役目を、僕は負わされていたのだった。
次にパクさんに出会ったのは、東映動画労働組合の役員に押し出されてしまった時だった。パクさんは副委員長、僕は書記長にされてしまっていた。緊張で吐き気に苦しむような日々が始まった。それでも、組合事務所のプレハブ小屋に泊り込んで、僕はパクさんと夢中で語り明かした、ありとあらゆることを。中でも、作品について。僕らは仕事に満足していなかった。もっと遠くへ、もっと深く、誇りを持てる仕事をしたかった。何を作ればいいのか(泣き声で『すいません』)、どうやって。パクさんの教養は圧倒的だった。僕は得難い人に巡り会えたのだと、うれしかった。
その頃、僕は大塚康生さんの班にいる新人だった。大塚さんに出会えたのは、パクさんと出会えたのと同じくらいの幸運だった。アニメーションの動かす面白さを教えてくれたのは、大塚さんだった。ある日、大塚さんが見慣れない書類を僕に見せてくれた。こっそりです。(ちょっと、すいません)それは、大塚康生が長編映画の作画監督をするについては、演出は高畑勲でなければならないという、会社への申入書だった。
当時、東映動画では、監督と呼ばず演出と呼んでいました。パクさんと大塚さんが組む。光が差し込んできたような高揚感が、湧き上がってきました。そして、その日が来た。長編漫画第10作目が、大塚・高畑コンビに決定されたのだった。
ある晩、大塚さんの家に呼ばれた。スタジオ近くの借家の一室に、パクさんも来ていた。ちゃぶ台に大塚さんはきちんと座っていた。パクさんは組座し、事務所と同じようにすぐ畳に寝転んだ。なんと僕も寝転んでいた。奥さんがお茶を運んでくれた時、僕は慌てて起きたが、パクさんはそのまま「どうも」と会釈した。女性のスタッフにパクさんの人気が今ひとつなのは、この無作法のせいだったが、本人によると、股関節がずれていて、だるいのだそうだった。
大塚さんは語った。「こんな長編映画の機会は、なかなか来ないだろう。困難は多いだろうし、制作期間がのびて、問題になることが予想されるが、覚悟して思い切ってやろう」 それは意志統一というより、反乱の宣言みたいな秘密の談合だった。もとより僕に異存はなかった。何しろ僕は、原画にもなっていない、新米と言えるアニメーターにすぎなかったのだ。大塚さんとパクさんは、ことの重大さがもっとよくわかっていたのだと思う。
勢いよく突入したが、長編10作の制作は難航した。スタッフは新しい方向に不器用だった。仕事は遅れに遅れ、会社全体を巻き込む事件になっていった。パクさんの粘りは超人的だった。会社の偉い人たちに泣きつかれ、脅されながらも、大塚さんもよく踏ん張っていた。僕は夏のエアコンの止まった休日に一人出て、大きな紙を相手に背景原図を描いたりした。会社と組合との協定で、休日出勤は許されていなくても、構っていられなかった。タイムカードを押さなければいい。僕はこの作品で、仕事を覚えたのだった(涙声)。
初号を見終えた時、僕は動けなかった。感動ではなく、驚愕に叩きのめされていた。会社の圧力で、迷いの森のシーンは「削れ」「削らない」の騒ぎになっているのを知っていた。パクさんは、粘り強く会社側と交渉して、ついにカット数から、カットごとの作画枚数まで約束し、必要制作日数まで約束せざるを得なくなっていた。当然のごとく、約束ははみ出し、その度にパクさんは始末書を書いた。一体パクさんは、何枚の始末書を書いたんだろう? 僕も手いっぱいの仕事を抱えて、パクさんの苦闘に寄り添う暇はなかった。大塚さんも、会社側の脅しや泣き落としに耐えて、目の前のカップの山を崩すのが、精一杯だった。
初号で僕は、初めて迷いの森のヒロイン、ヒルダのシーンを見た。作画は大先輩の森康二さんだった。何という圧倒的な表現だったろう。何という強い絵。何という優しさだったろう。これをパクさんは表現したかったのだと、初めてわかった。パクさんは、仕事を成し遂げていた。(原画の)森康二さんも、かつてない仕事を仕遂げていた。大塚さんと僕は、それを支えたのだった。
『太陽の王子』(『太陽の王子 ホルスの大冒険』、高畑さんの初監督作品)公開から、30年以上経った西暦2000年に、パクさんの発案で『太陽の王子』関係者の集まりが行われた。当時の会社の責任者、重役たち、会社と現場との板挟みに苦しんだ中間管理職の人々、制作進行、作画スタッフ、背景、トレース彩色の女性たち、美術家、撮影、録音、編集の各スタッフがたくさん集まってくれた。もう今はないゼロックスの職場の懐かしい人々の顔も混じっていた。
偉い人たちが「あの頃は一番面白かったなあ」と言ってくれた。「太陽の王子」の興行は振るわなかったが、もう誰もそんなことを気にしていなかった。
パクさん、僕らは精一杯、あの時、生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。ありがとう、パクさん。55年前に、あの雨上がりのバス停で、声をかけてくれたパクさんのことを忘れない(涙声で、どうもすいません)。
続いて『太陽の王子 ホルスの大冒険』で作画監督、その後も数々の高畑作品に参加したアニメーターの大塚康生が別れの言葉を捧げる。制作の進行スケジュールを遅らせることで有名だった高畑。その理由を尋ねたことがあるという大塚は「『いい仕事をしようと思って粘ると長くなっちゃうんですよ』と。高畑さんは絶対に粘るんですよ。徹底的に。面白い人でした」と述懐する。高畑や宮崎らとともに旅行をした際の話も飛び出し「高畑さんと宮崎くんの踊りがぜんぜん違うんです。2人とも本来踊りにないポーズをするんです。面白くて写真に撮っていました」と懐かしんだ。東映動画の同期であり、『アルプスの少女ハイジ』『じゃりン子チエ』に参加したアニメーターの小田部羊一は「パクさんの示してくれる方向は苦しみを伴いましたが、誤りのないものでした。付いて行くだけで精一杯でしたが、私のことをアニメーションの表現を深め、新しい表現を生み出したいと願う同志だったと言ってくれました。かけがいのないパクさん。どうか戻ってきてください」と力強く述べた。
久石氏は高畑さんがプロデュースとして参加した『風の谷のナウシカ』(1984)以来の付き合いで、『かぐや姫の物語』でも音楽を担当した。久石氏は「いろいろありがとうございました。この10年間は東京でのコンサートはほとんど来ていただいて、本当に音楽も詳しくて、去年は長野で一緒に対談し、現代音楽も一緒に聞いていただいて、本当に音楽に対して詳しい方でした」とし、『かぐや姫の物語』の制作時に「(ブラームスの)第4楽章のここがいいんですよ」と話していたことを振り返り、「世界の監督の中でそういうことを言える監督は誰もいないと思う。それぐらい音楽に詳しく、造形が深い、僕はそういう人に会ったことがなかったです」としみじみ。
「お別れの言葉」で久石は「高畑さんとは『風の谷のナウシカ』でお会いしました。当時の宮崎さんは作画が本当に忙しかったので、音楽の方は、高畑さんが面倒を見ていらして、ずっと音楽のことでお話しさせていただきました。7時間以上のミーティングが何回も何回もあってどこまで話すんだ!(と思った)」と振り返り、「僕も一生懸命、高畑さんと戦って『ナウシカ』ができました」と高畑さんと過ごした濃密な時間を回想。「当時、本当に無名だった僕を起用していただいた、今日があるのは、高畑さんのおかげです」と感謝を表した。
続く『天空の城ラピュタ』(1986)では、「主題歌を作るときに宮崎監督からいただいた詩がありました。ただちょっと文章(の文字量)が足りなかったりして、それを高畑さんと2人で、メロディーにはめていく作業を何日もやりました。ですから今、世界中の人に歌ってもらっている『君をのせて』という曲は、宮崎さんと僕と、実は高畑さんがいなかったら完成しなかった曲です」と思いを込める。
最後に「(高畑さん最後の監督作品)『かぐや姫の物語』の音楽を担当させていただいて、本当に感謝します。一緒に仕事ができたことを誇りに思います。僕は、仕事で悩むと、こういうとき宮崎(監督)だったらどうするだろう、鈴木(敏夫プロデューサー)さんだったらどうするかな、養老孟司さんだったら、といろいろ考えます。そのとき、最後にやはり、高畑さんならどうするだろうって考えるんです。そうすると高畑さんの笑顔が浮かんで、何か希望が持てて、次の自分の行動が決まります。そういう意味で、高畑さんは僕の中で生きています。本当にお疲れさまでした。お別れは言いません。心からご冥福をお祈りしますが、またいつか、どこかでお会いしましょう」と涙声で別れを惜しんだ。
また高畑が企画段階から関わった作品『レッドタートル ある島の物語』の監督マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットも「感謝の言葉しかありません。高畑さんの作品の叡智、その繊細さと美しさに感謝いたします」と話し、二階堂和美は『かぐや姫の物語』の主題歌「いのちの記憶」を別れの歌として高畑に捧げた。
お別れ会終了後には『ホーホケキョ・となりの山田くん』で俳句の朗読を行った柳家小三治、同作で山田たかしに声を当てた益岡徹、『平成狸合戦ぽんぽこ』で主人公のタヌキ・正吉の声を担当した野々村真、スタジオジブリが企画制作に協力したフレデリック・バック展で音声ガイドを担当した縁のある竹下景子、そして鈴木が囲み取材に応じた。野々村は「偉大な監督だったと改めて感じています」とコメント。『平成狸合戦ぽんぽこ』の制作時を振り返り「僕には朗らかで優しい人でした」と印象を語る。「ろれつが回っていないところでもNGを出されないんです。演者にはすごく優しくて。『地声でいいから』とリラックスさせてくれました」と述懐。「正吉の声を聞くと、完全に野々村真なんです。でも映画を観ていくうちに自然と野々村真ではなく、正吉の声として聞こえてくる。自然な演出の中でアニメーションに魂を吹き込むのはそういうことなんだと教えられました。自分の人生で最高の宝物です」と話した。
また「僕と高畑さんは最後まで監督とプロデューサーという立場で40年間やってきた」と語る鈴木は、「いい思い出より対立した思い出のほうが多いんです」と顔をほころばせる。鈴木が直接関わっていない『じゃりン子チエ』の頃は毎日のように相談を受けていたそうで「あの経験が今のプロデューサー仕事に生きてます。一緒にやった作品は全部覚えてます。毎回、いろんな議論、闘いがありました。いい距離感というよりお互い土足で(笑)」と回想。『火垂るの墓』では劇場公開のため上映時間を5分カットする役割を担い、『平成狸合戦ぽんぽこ』では進行を遅らせる高畑のために公開時期を早めた特製ポスターを作り制作を急かしたという。「40年間も付き合ってきたけど、一度も緊張の糸を途切らせたことがない。ずっとこの関係を続けていると高畑さんが体のどこかにすみ着くんです」と続けた。また高畑は生前「平家物語」の企画の実現を願っていたという。
お別れの会の後、取材に応じた鈴木プロデューサーは「(弔辞は)1ヶ月くらいかけて書いたんです。予行練習から泣いていたから大丈夫かなって思ったら、泣いちゃいましたね。55年間が、あの中に全部、書いてある。今まで忘れていた2人の出会いも、思い出したみたいです。『俺、みっともなかった?』って、宮さんが心配そうに聞くから『すごく良かったです』って言いました」と、宮崎監督をいたわった。「(高畑、宮崎の関係は)そんな美しい関係じゃない。宮さんにとって、高畑さんは、ある時期、先生・師匠だった。それが一緒に作品を作るようになって友人となり、監督として互いに違いものを作り始めるとライバルになった。こういう3つの時期があるんです。高畑さんがいたから、宮さんもがんばれたし、宮さんがいたから、高畑さんもがんばれた。お互いがお互いの作品について、面と向かって何か言うことはなかったんですよ。それを真ん中で(2人から)聞くのが、僕だった。そういう関係だと思う。あとは、残った宮さんと僕、どっちが先に死ぬかですよね」という鈴木敏夫節もいつものようには笑えなかった。
「もう一本『平家物語』をどうしてもやりたいって言っていたけれど、できなくて残念です。(高畑さんとの日々は)タヌキとキツネの化かし合いですよ。印象深いのは全部。一度も褒めてくれなかったな。監督とプロデューサーって、作品を作るうえでは共同事業者。2人が仲良くしたら作品は作れないので、毎回議論、戦いでした」と、さまざまな思いをかみしめていた。
「高畑 勲 お別れの会」午前の部には、そのほか富野由悠季、押井守、大林宣彦、山田洋次、岩井俊二、樋口真嗣、宮本信子、本名陽子、瀧本美織、柳葉敏郎、福澤朗、角川歴彦、川上量生、西村義明ら約1200人が参列。午後の部も合わせると合計で約3200人が訪れた。
(Webニュース各種より 編集)