Posted on 2018/10/01
1999年放送 NHKスペシャル「驚異の小宇宙 人体III 遺伝子DNA」の音楽を担当していた久石譲。これはその書籍版ともいえる「NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体3 遺伝子・DNA〈6〉パンドラの箱は開かれた―未来人の設計図」大型本に収載されたエッセイです。
全人体シリーズの音楽を手がけ、第1シリーズ・第2シリーズの音楽的振り返り、そして第3シリーズの音楽制作の過程。それは音楽制作現場というよりも、むしろその前段階、久石譲の音楽アプローチに至るまでの思考の過程です。このように取り扱うテーマに対して考えをめぐらせる具体的過程やその内容を知れることも貴重です。そしてそれらがどう音楽として置き換わったのか、聴き手は深いところでその音楽を受けとることができるように思います。
「Gene・遺伝子」 音楽制作ノート 久石譲
NHKサイエンス・スペシャル「人体」は第1シリーズから音楽を担当している。それぞれ6作ずつあり、今回の第3シリーズを入れれば全18作になる。我ながらずいぶん書いたと思う。
第1シリーズの「人体」はピアノとオーケストラを中心に構成した。実はCGが多いと聞いてテクノ系の音楽を考えていた。が、精子が卵子に飛び込む顕微鏡撮影の映像を見て考えを変えた。精子がいくつかのグループに分かれ、天の岩戸の前よろしくたむろしていた。何やら話し合っている風でもあるそれらは、どこにでもある学校のクラスを彷彿させた。そのうちに元気のいい、いわばガキ大将のような威勢のいい精子がその岩戸に突入する。が、次々に玉砕する。するとクラスによくいる眼鏡をかけたガリ勉型のひ弱な感じの精子が、するすると抜け出してすんなりと岩戸卵子の壁を突入して侵入に成功した。人間社会の縮図のような光景に感動した僕はヒューマンなアコースティックな方向に音楽を切り替えた。
第2シリーズ「脳と心」は、ヒューマンドキュメントとしての側面が強く打ち出されていて、それぞれ6作の内容が脳に障害を持った人たちを主人公にしていて、科学的な解明とそれをどう乗り越えていったかを丁寧に描いた力作だった。そこで僕は内容自体がヒューマンなぶんだけ、音楽的には客観性を持たせるためハウスミュージック的なリズムを全面に出した音楽を作った。感動的な内容に感動的な音楽をかぶせるほどつまらないものはないからだ。オープニングの不可思議なボーカルも僕自身である。
そして第3シリーズ「遺伝子」が始まった。はじめは順調だったレコーディングはテーマ曲のところで大きくつまずいた。遺伝子をイメージできないのだ。様々な関係本を読み、過去のシリーズの音楽を聴いたりしたが、遺伝子のテーマ曲の輪郭は、ますます遠く霞の彼方に行ってしまった。
「遺伝子という言葉を聞くと僕は身構える。情緒の入り込む余地のないこの言葉が、人間の最小単位だと言われても(頭では理解しても)何処か得体の知れないエイリアンの存在を思わせて僕を落ちつかなくさせる」。こんな言葉が僕の制作ノートに書いてあった。
また、「遺伝子はデオキシリボ核酸(DNA)という化学物質でできていて、ちょうど『らせん階段』のような構造をしている。DNAのすべてが遺伝子ではない。人のDNAは30億塩基体あり、遺伝子は約10万個で1個の遺伝子は約2500塩基体だから、単純計算すると遺伝子はDNA全体の約8パーセントに相当する。塩基は4つあり、アデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)と呼ばれている」とも書いてあった。創造的なイマジネーションとはかけ離れているところに、創作が順調にいっていない事が読みとれる。
また別のノートには「音楽を聴かせて育てた栽培作物、特にトマトは甘くなる。どうやら遺伝子に働きかけるらしいのだが、特にモーツァルトが効果的だ」。この説に僕は興味を持った。我が仕事の領域である音楽はそんなに力があるのか、しかも遺伝子に! ……しかしこの説はアメリカのある大学での実験で否定された。「特別モーツァルトが効くわけではない」。ということは、甘くなることに音楽が関与すること自体を否定してはいない。よかった。でも大の大人が何人もトマトを前にモーツァルトを流している構図なんてなかなか微笑ましいではないか。
続いてノートにはこう書いてあった。「DNAの配列を音に置き換えたメロディーがある。フランスの研究者がそのパテントを持っているらしい」。ある大学教授から聞いたこの話には興奮した。耳から入った音楽は、電気信号に変わって脳に伝わり音として認識される。その脳を司るのが遺伝子ならば、音楽が遺伝子に働きかける事もできるかもしれない。何やらSF的サイコサスペンスになってきた。これで映画が一本作れるではないか。僕の創造的イマジネーションが活発に動き出した。
SFと言えばコンピューターを扱ったものが最近多い。コンピューターは0(ゼロ)と1(いち)の世界だけでできている。遺伝子はA、T、G、Cの4つの組み合わせの世界。その組み合わせで意味を持つ。何か共通するものがあるかもしれない。
「2001年宇宙の旅」ではHALというコンピューターの暴走、今年公開された「マトリックス」は、仮想現実を作り出し、人間を支配するコンピューターの話だ。つまり0(ゼロ)と1(いち)の世界が意志を持ち、人間に作り出されたのに人間に反旗を翻し逆に支配しようとする話だ。だとしたら、コンピューターより、2つも要素が多く(かなり乱暴な発想だ)セルフィッシュジーン=利己的遺伝子と呼ばれるくらいなのだから、遺伝子が人間の意志を支配しようとしたとしてもおかしくはない。人間が遠く及ばない大いなる存在が、戯れに4つのさいころを振ってできたものだと言われても僕達は笑えるだろうか?
ちなみにDNAや遺伝子をあつかった映画は内外を問わず成功していない。おそらくそれを物語としての映像にするところで無理があるらしい。僕の夢は急速にしぼんだ。
「人が離婚するのも遺伝子の中にその因子が組み込まれているからであり、太るのも酒に強いかどうかもすでに組み込まれている」。このノートに書き込まれた言葉が本当だとすると人はどうすればいいのか? 人殺しの悪人も、泥棒も、法廷で「全部遺伝子の仕業です。私は嫌だと言ったのに遺伝子が勝手に私の体を動かしたんです」なんて言ったりする。すると裁判長は「遺伝子に懲役15年、本被告人は執行猶予に処す」と判決を言い渡す。この場合、刑務所はどう対処するのか? 考えただけでも眠れなくなりそうだ。
眠れないと言えば、実は僕は不眠症だ。どんなに徹夜状態の激しいレコーディングが続いても眠れない。これも遺伝子のせいなのか? だとしたら僕はもう眠る努力をしない。いや、眠ることだけではなく、全ての生きていくための努力をしなくなる。どうせ生まれたときから自分は決まっていて、たぶん一生もがき苦しんでも、ほんの少ししか変えられないのなら……。まずい、これはまずい。遺伝子に関する事柄が僕たちを後ろ向きにさせるのは、単に体を作っているということではなく、その精神あるいは人間のアイデンティティーまで影響を及ぼしているからに他ならない。
人は人であるために哲学を学んだり、いかに生きるかを考える。しかるに、もがき苦しんでいる自分たちを遺伝子はいとも軽々と超え、もっと上の意志を感じさせる。人間をも支配する何か……、それを人は神というなら遺伝子はまさしく神ではないか。遺伝子という神の言語を翻訳して人は豊かになれるのだろうか?
かつて構造主義が「我思う、ゆえに我あり」的な個人主義としての思想から脱却しようとして失敗したが、遺伝子は軽々と人間の存在としての哲学を乗り越えてしまうかもしれない。これは人間に対する挑戦でもあり、人間という存在に対する新たな問いかけでもある。その時、音楽はどう人と関わっていくのか? そんなことを考え出すと、もうテーマ曲を作っているどころではなくなってしまった。
かつてコンピューター(正確にはICか?)が現れたとき、人間の思考のプロセスに発生する膨大な情報を処理することで、大きく社会の構造が変わった。いや、今でも変わりつつある。そして遺伝子、この人類に仕掛けられた2つのウィルスは人類を豊かにするかもしれないし、破壊する爆弾かもしれない。いずれにしても、もう人類は地雷を踏んでしまった。ここで止まることはできない。今現在の中途半端さではクローン牛を作ったり、癌の治療に使ったりするしかない。もっと凄まじいこと、例えばその研究が間違って人類を滅ぼすようなことがあるかもしれない。だから我々は全て知らなくてはいけない。
しかし、いくら遺伝子が解明されても人間の全てが解明されるとは思わない。例えば音楽が与える感動は解明されるのだろうか? 脳の中でどういう物質がどこに働きかけると感動するかは解明できても、何故良い音楽を聴いたらそういう物質が出るかまでは予測は出来ても解明されることはないだろう。全ての遺伝子、DNAが解明されてもまだ分からないもの、それが人間本来のアイデンティティーではないのだろうか?
後日、僕はテーマ曲を作った。それは第1シリーズと同じアプローチのヒューマンな人間賛歌だった。
(書籍「NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体3 遺伝子・DNA〈6〉パンドラの箱は開かれた―未来人の設計図」 より)
TV放送全6回に併せて、書籍も全6冊あります。久石譲音楽について掲載されたのはここにご紹介した(6)のみになります。
- Disc. 久石譲 『NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体 サウンドトラック / THE UNIVERSE WITHIN 』
- Disc. 久石譲 『NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体 サウンドトラック II / MORE THE UNIVERSE WITHIN 』
- Disc. 久石譲 『NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体 SPECIAL ISSUE / THE UNIVERSE WITHIN』
- Disc. 久石譲 『NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体II 脳と心/BRAIN&MIND サウンドトラック Vol.1』
- Disc. 久石譲 『NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体II 脳と心/BRAIN&MIND サウンドトラック Vol.2』
- Disc. 久石譲 『NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体II 脳と心/BRAIN&MIND サウンドトラック 総集編』
- Disc. 久石譲 『NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体III~遺伝子・DNA サウンドトラック Vol.1 Gene-遺伝子-』
- Disc. 久石譲 『NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体III~遺伝子・DNA サウンドトラック Vol.2 Gene-遺伝子-』