Overtone.第73回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.3

Posted on 2022/08/15

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.3です。

今回題材にするのは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』(2010/2012)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

今回題材にするのは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』(2010/2012)です。

インタビューごとに、その時書き上げた本・翻訳した本などが話題の中心になっています。それだけにピンポイントに深い内容です。約20本近く収録されていますが、海外インタビューが半数以上を占めているのも特異です。日本ではあまり質問されないような角度(聞きにくいこと出てこない視点など)で飛び交っているのもおもしろいです。

いろいろなインタビューをわざわざまとめて一冊の本にする、多方面に拡散されたものを集める、親切だなと思います。そのニーズがたしかに存在する、すごいことだなと思います。2012年文庫化の際にインタビューが1本追加収録されているので、単行本とはタイトルの年表記が異なっています。

 

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

”それ以来僕の小説はどんどん分厚くなっていきました。そしてストラクチャーはどんどん複雑になっていった。新しい小説を書くたびに、僕は前の作品のストラクチャーを崩していきたいと思います。そして新しい枠を作り上げたいと。そして新しい小説を書くたびに、新しいテーマや、新しい制約や、新しいヴィジョンをそこに持ち込みたいと思います。僕はいつもストラクチャーに興味があるんです。ストラクチャーを変えたら、それにつれて僕は自分の文体を変えなくてはなりません。文体を変えたら、それにつれて登場人物のキャラクターをも変えなくてはなりません。同じことばかりいつまでもやっていたら、自分でも飽きてしまいます。僕は退屈したくないのです。”

~(中略)~

⇒⇒
ある創作家にとっては、自分のオリジナリティその一点を極めていくという道もあると思います。村上春樹さんのように、ある意味で自分の作家性をどんどん解体していくことで、より新しく多くのものを取り入れ強固なものにしていく。久石譲さんもまたこれと同じような道、そんな気もしています。たぶん、変化を希求しているし、変化することは自然なことなんです。

 

 

”翻訳って、手を入れれば入れるほどよくなるものだから、改訳できる機会があるというのは、翻訳者にとってはありがたいことなんです。単行本と文庫と全集とで、少しずつ訳が変わっているものもあります。三十代のときに訳したものは、僕もけっこう若いし、今読み返してみると、訳文にも不思議な若々しさみたいなものがある。カーヴァーの全体像がまだよく見えていないので、ちょっとニュアンスが違っているところもあって、それはそれで面白いんだけど、全集というかたちになると、やはり統一感みたいなものは必要になってきますよね。これからもまた機会があれば少しずつヴァージョンアップしていきたいと思います。”

~(中略)~

⇒⇒
これを読みながら、多くの指揮者が年齢を重ねるごと同じ作品に向き合いなおしていること、少し理解が深まりました。たとえばカラヤンも40代の頃と70代の頃の指揮とではずいぶん違います。あるいは、指揮者がベートーヴェン交響曲の中からひとつを扱っていた頃と、全集としてまとめあげるようになった頃とでは、経験と解釈も変わっていてしかり。そんなことも思いました。作曲家の作品を順番に追っていくことで見えてくることもあるのかな、とか。

訳が若い、指揮が若い、ピアノ演奏が若い。たしかにそういうふうに感じることってあります。不思議です。そこへ年齢を重ねた新テイクも並んで、溌溂と円熟を比べることができることの幸せってたしかにあります。

 

 

”僕はそれは非常にありがたいことだと思うんですよ、実際の話。そんなふうに同じ本を二度三度くり返し読んでくれる人って、今の世の中にそんなにいないですからね。情報が溢れかえったこんな忙しい時代に。作者としてはただもう感謝するしかない。しかし、僕がこんなこと言うのはなんだけど、何度読み返したところで、わからないところ、説明のつかないところって必ず残ると思うんです。物語というのはもともとがそういうもの、というか、僕の考える物語というのはそういうものだから。だって何もかもが筋が通って、説明がつくのなら、そんなのわざわざ物語にする必要なんてないんです。ステートメントとして書いておけばいい。物語というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための、代替のきかないヴィークルなんです。極端な言い方をすれば、ブラックボックスのパラフレーズにすぎないんです。

僕はだからこそ、できるだけ読みやすい文章で小説を書きたいと思うんです。そしてできることなら時間を置いて読み返してほしい。それだけの耐久性のあるタフな文章を僕は書きたいと思っています。

このあいだブライアン・ウィルソンが日本に来て、『スマイル』ツアーをやって、聴きに行ったんだけど、僕はライブで、『スマイル』というアルバムが目の前で、頭から順番通りに実際に演奏されるのを見て、それで初めて「そうか、うーん、『スマイル』というのはこういう音楽世界だったんだ!」と理解できたところがあったんです。はたと膝を打つところがあった。一九六六年くらいに基本的に作られたアルバムで、これまでにいろんなかたちでずいぶん繰り返し聴いてきたんだけど、でも全体像が僕なりに正確に理解できるまでに、結局四十年くらいかかってるわけです。そういうのってすごいことですよね。『ペット・サウンズ』にもそういうところがありますよね。これも理解できるまでにずいぶん歳月がかかりました。僕は『ペット・サウンズ』とか『スマイル』の中の曲の多くも、出てきたときにリアルタイムで聴いているわけだけど、それから四十年近く、実人生をかけて少しずつ理解できていたという実感があります。そういう意味合いでは、ブライアン・ウィルソンという人の提出する「物語性」の強烈さというか、「文体」の強靭さ、その奥行きの深さに、同じ表現者として感じるところはあります。”

~(中略)~

⇒⇒
ちょっと長い引用になってしまいました。とても気に入っているところです。”物語というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための~”。ということは、同じく「音楽というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための~」になりますね。たしかに。

もうひとつ、アルバムを理解できるまでに40年近くかかったという実体験のお話。これ、好きなアーティストあるあるエピソードだと思います。久石譲アルバムもそう。今になって初めて気づくことってたくさんあります。

 

 

”そうですね。音楽はいろんな意味で僕を助けてくれます。二十代のときにはジャズの店を経営していて、来る日も来る日も朝から晩までジャズを聴いていました。音楽は僕の身体の隅々まで染み込んでいたと言っていいかもしれません。そして今もそこに留まっています。二十九歳のときに小説を書こうと思ったとき、僕には小説の書き方がわかりませんでした。それまで日本の小説をあまり読んだことはなかったし、だからどうやって日本語で小説を書けばいいのか、見当もつきません。でもあるとき、こう思ったんです。良い音楽を演奏するのと同じように、小説を書けばそれでいいんじゃないかと。良き音楽が必要とするのは、良きリズムと、良きハーモニーと、良きメロディー・ラインです。文章だって同じことです。そこになくてはならないのは、リズムとハーモニーとメロディーだ。いったんそう考えると、あとは楽になりました。そして『風の歌を聴け』という作品を書き上げました。楽器を演奏するのと同じような感じで書いたんです。僕の文章にもし優れた点があるとすれば、それはリズムの良さと、ユーモアの感覚じゃないかな。それは今に至るまで、僕の文章について基本的に変わらないことだという気がします。”

~(中略)~

⇒⇒
小説の書き方が音楽にあるっておもしろいですね。さらっと読むと、よくわかるとも思うんですけれど。じゃあ説明してと言われたら実はすごく難しい。たぶん、とても深いことなんです。

 

 

”人称による書き分けというのはとても大事なので(少なくとも僕にとっては大事なことなので)、短編小説でいろいろと試してみます。そして長編小説で何をすればいいのか、どんなことができるのか、と考えます。いわば実験台のようなものです。ヴォイスのあり方や、視点の動きを、あれこれと実地に試験してみます。喩えは物騒だけど、軍隊が局地戦で兵隊の性能や、戦略の有効性を実地に試してみるのと同じように。僕の場合は、短編小説でまず何かを試し、中編小説でそれをさらに進展させ、最後に万全のかたちで長編小説に持ち込みます。はっきり言ってしまえば、長編小説が僕にとっての主戦場なのです。だから短編小説を書くときには、そのたびにテーマを決めて、いろんな新しいことをやってみます。短編小説で失敗しても傷は小さいけれど、長編小説で失敗すると命取りになります。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られる内容で、同旨Part.1にもあります。

ちょっと見方を変えて。ということは、短編小説での実験はある種むき出しでもある。万全に扱えるようになった長編小説のときには、きれいに整えられ巧みに隠さたりもしている。習得極め操れるようになる前の短編小説には、ありありと刻まれたさまや勢いのようなものがあるのかもしれない。

久石譲のMFコンサートで意欲的に発表される中規模の新作しかり、自らのシステムで進化させる単旋律(Single Track Music)手法しかり。小さな曲や小さな編成から試されながら、手応えと磨きあげをもって交響作品にまでなっています。逆方向から見ると、シンプルなSingle Track Music手法は中規模作品でありありとむき出しに刻まれている、に等しいです。うん、すごくよくわかる。

 

 

”僕は二十九歳になるまでまとまった文章を書いたことがありませんでした。ただ音楽を聴いて、本を読んでいました。自分で何かを書きたいとは思っていませんでした。でも二十九歳になって突然に、何かを書きたくなったのです。書き方なんて分かりませんでした。どうやって小説を書けばいいのか分からなかったのです。それで考えたのが、音楽を演奏するみたいに書けるのではないか、ということでした。僕はピアノを弾きましたから。僕に必要だったのは、リズムとハーモニーと即興性(インプロヴィゼーション)でした。即興性ということから僕は多くを学んだと思います。ちょうどメロディーを即興で演奏するように、僕は物語を書きます。僕はジャズが大好きですが、ジャズというのは即興の音楽です。僕にとっては、書くことも即興の一種です。自分が自由でなくてはなりませんから。だから、もしあなたが僕の本を読みながらそこに音楽を聴きとってくれるとしたら、僕はとてもうれしいです。多くの人から音楽について、僕の作品のテーマであるとか作品の意味を表しているとか言われますが、僕はテーマにせよ意味にせよ、何かの目的を持って音楽のことを書いているわけではありません。テーマや意味はそんなに重要な問題ではありません。僕にとって大切なのは、僕の物語を通じてあなたが音楽を聴きとってくれることなのです。

そうです。音楽がなくてはいけません! もしその文章にリズムがあれば、人はそれを読み続けるでしょう。でももしリズムがなければ、そうはいかないでしょう。二、三ページ読んだところで飽きてしまいますよ。リズムというのはすごく大切なのです。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られる内容で同旨あります。

 

 

少し追加します。

テーマからは横道になりますけれど、とても印象に残っているページです。

 

”バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか? 彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか? それは大いなる疑問であり、ある意味では正当な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。

ただ、僕に言えるのは、音楽を作曲したり、物語を書いたりするのは、人間に与えられた素晴らしい権利であり、また同時に大いなる責務であるということです。過去に何があろうと、未来に何があろうと、現在を生きる人間として、書き残さなくてはならないものがあります。また書くという行為を通して、世界に同時的に訴えていかなくてはならないこともあります。それは「意味があるからやる」とか、「意味がないからやらない」という種類のことではありません。選択の余地なく、何があろうと、人がやむにやまれずやってしまうことなのです。

二十世紀の末から、二十一世紀の初めにかけて、僕が一連の小説を書いたことにどのような意味があったのか、それは後世の人が判断することです。時間の経過を待つしかありません。ただ僕としては、意味があるにせよないにせよ、「書かないわけにはいかなかったんだ」ということなのです。”

~(中略)~

⇒⇒
正座して読みたい。かぶせるコメントもない。

「クラシックで音楽は完成してるからそれしか聴かない」「ロックはあの時代がピークだからそれだけ聴いておけばいい」なんて人もいるようで。今の時代を生きているのに、ほんともったいない。

 

 

”小説に関しても、他のことに関してもそうだけど、「誤解の総体が本当の理解なんだ」と僕は考えるようになりました。『海辺のカフカ』に関して読者からたくさんメールをもらって実感したことは、そこにはずいぶんいろんな種類の誤解やら曲解やらがあるし、やたらほめてくれるものもあれば理不尽にけなすものもあるんだけど、そういうものが数としてたくさん集まると、全体像としてはものすごく正当な理解になるんだな、ということでした。そこには、ちょっと大げさにいえば、感動的なものがありました。だから逆にいえば、僕らは個々の誤解をむしろ積極的に求めるべきなのかもしれない。そう考えると、いろんなことがずいぶんラクになるんですね。他人に正しく理解してもらおうと思わなければ、人間ラクになります。誰かに誤解されるたびに、見当違いな評が出るたびに、「そうだ。これでいいんだ。ものごとは総合的な理解へと一歩ずつ近づいているんだ」と思えばいいんです。逆にいえば、小説家というのは、あるいは小説というのは、そんなに簡単に正確にぴっと外から理解されてしまっては、むしろ困るんじゃないかと。そんなことになったら、僕らはもうメシを食っていけなくなるんじゃないかと。”

~(中略)~

⇒⇒
一つの正解を求めるのとは別ものです。ここで語られているのは、答え合わせじゃなくて理解を深めるということ。たった一つの意見が一般論になってしまう危険性を対にみたときに、相当数の意見があってこそ総合的に複合的に立体的にその解はつくられていく。たとえ誤解が含まれていたとしても、意見の数が多いということはとても大切なことなんです。

多くの人に愛されているスタジオジブリ作品。見た人の数だけ受けとめ方があって、それが飛び交ってぶつかって磨かれて。だから、今多くの人たちが共有して理解を深めることができている。そういう感じのことだと思います。だからね…音楽だって語らなければ理解は深まらない、いかに言葉にすることが難しい芸術だからといって…諦めてはいけない。

 

(以上、”村上春樹文章”は『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』より 引用)

 

 

 

今回とりあげた『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』。村上春樹さんの作家としての姿勢や人となりを見てとれる内容です。本書あとがきには、”作家はあまり自作について語るべきではないと思っている” と書かれています。でもやっぱりファンとしてはいろいろ知ってより深く楽しみたい。

”あるいはまたその物語が生まれた事情や経緯に、多くの読者は興味を抱かれるかもしれない。執筆に関わるちょっとしたエピソードを披露して、それなりに楽しんでいただけるかもしれない。しかるべき時期に、そのような付随的なことがら、あるいは周辺事情を著者が気軽に語ることも、作家と読者との関係の中で、ある程度必要であるかもしれない、とも思う。それも僕がインタビュー依頼に応じる理由のひとつだ。”

あとがきにはこうもありました。さすがよくわかってらっしゃる!長いキャリアのなかファンをつかんできた秘訣はここにもありそうです。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
ある目的をもって再読すると読むごと新しい発見がありますね。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第72回 「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022」コンサート・レポート by ふじかさん

Posted on 2022/08/03

7月23~29日開催「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022」です。今年は国内5都市5公演&国内海外ライブ配信です。予定どおりに開催できることが決して当たり前じゃない今の状況下、出演者も観客も会場に集まることができた。まだまだ足を運べなかった人もいます。昨年に引き続きの開催&ライブ配信に喜んだファンはいっぱいです。今年も熱い夏!

今回ご紹介するのは、おなじみふじかさんです。ご紹介するバリエーションが尽きてしまうくらい、いつもありがとうございます!さすが多彩な久石譲コンサートに足を運びつづけている、体感するものや感想がよりパーソナルなものになっていると感じてきます。ぐっと深く広がりをもった宝物の音楽体験。初めての久石譲コンサートから13年か、こちら26年くらい。ポテンシャルの差を感じてしまう(苦笑)こんなにたくさんのこと聴けないと思っている人も大丈夫ですよ。これから少しずつ一歩ずつ触れていけば、きっと音楽は豊かに響いてくれます。

 

 

久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022

[公演期間]  
2022/07/23 – 2022/07/29

[公演回数]
5公演
7/23 東京・すみだトリフォニーホール 大ホール
7/25 広島・広島文化学園HBGホール
7/26 愛知・愛知県芸術劇場 コンサートホール
7/28 静岡・アクトシティ浜松 大ホール
7/29 大阪・フェスティバルホール

[編成]
指揮・ピアノ:久石 譲
管弦楽:新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ
バンドネオン:三浦一馬
ソロ・コンサートマスター:豊嶋泰嗣

[曲目]
久石譲:水の旅人
久石譲:FOR YOU

久石譲:My Lost City for Bandoneon and Chamber Orchestra
Original Orchestration by Joe Hisaishi
Orchestration by Chad Cannon

—-intermission—-

久石譲:MKWAJU
久石譲:DA・MA・SHI・絵

久石譲:交響組曲「紅の豚」
Symphonic Suite Porco Rosso
Original Orchestration by Joe Hisaishi
Orchestration by Chad Cannon

—-encore—-
One Summer’s Day (for Bandoneon and Piano)
World Dreams 

[参考作品]

My Lost City 久石譲 『紅の豚 サウンドトラック』 Dream Songs: The Essential Joe Hisaishi Songs of Hope: The Essential Joe Hisaishi Vol. 2

 

 

WDO2022浜松公演の様子をレポートさせて頂きます。

2022年7月28日 アクトシティ浜松 大ホール 18:30開演

 

今年のWDOは『My Lost City』と『紅の豚組曲』の2本柱を軸にプログラムされました。4月にコンサート情報が発表になった際は、久石さんファン界隈の中では驚きと喜びに溢れました。そしてようやく待ちに待った公演の7月。

今回は初日の東京公演の様子が配信されました。そのため、7月23日の東京公演の様子を配信でじっくりとチェックした後、7月28日の浜松公演を実際に行って公演を観るといういままでにない楽しみ方もすることができました。

久石さんの長年のキャリアの中で、音楽の街である静岡県浜松市でのコンサートは初だったのではないでしょうか? 新日本フィルとしては、5月に50周年記念ツアーにて、同じくアクトシティ浜松での演奏会が実施されていたようです。

 

チケットもぎりを通過し、会場内へ入るとステージにはすでにピアノがセッティング済み。いままでのコンサートは指揮台すぐ横のやや上手よりに鍵盤が来るように置かれることが多かったですが、今回はステージのほぼ中央にピアノが置かれていた印象があります。

座席につくと、ピアノの高橋さん用のピアノの調律中でした。調律が終わり、しばらくするとオーボエの神農さんがステージで練習されており、『漂流者』のメロディが時折聴こえてきて、その時点で期待でワクワクが止まりませんでした。

18:30すぎに続々と楽団メンバーも集結し、いよいよチューニングがスタート。暫しの静寂ののちに、久石さんが登場しました。ちなみにアクトシティ浜松の大ホールの下手には扉が二つあり、奥側の扉はコントラバス群で通り抜けが難しいこともあってか、久石さんは、客席に近い扉から出入りをする形なり、そちらの扉にはスポットライトも当たっていました。

 

 

Joe Hisaishi『Watar Traveller』

ピアノとハープのイントロのち、フルートが加わり、その後炸裂する大迫力のオーケストラの音色。コンサートの1曲目には相応しい祝典序曲のような力強さもある大迫力の楽曲からスタートです。WDOでは2014年以来、8年振りに披露されました。

テンポは少し速めで、全体的にキレがあり、とてもカッコいい演奏に仕上がっていました。サビの主旋律のメロディももちろん、同時に流れるホルンの副旋律も壮大で本当に好きな楽曲の一つです。中間部での野津さんによる美しいフルートソロには本当にうっとり。弦楽のパートでは、各パートに「さあここだよ!」という感じに次々と指示を飛ばす久石さんの姿もありました。終盤では銅鑼が加わり壮大に元気よくフィニッシュ!

この曲、私が初めて久石さんのコンサートに行った時の「ミニマリズムツアー2009」の時も演奏されていました。その時は、音源を持っていなくて(※メロディフォニーもまだ出ていません)まったく知らない曲でしたが、その力強さに圧倒されたのを今でも覚えています。その当時は導入のピアノソロを久石さんが演奏していた時代でもありました。初めての久石さんのコンサートに参加したときの楽曲を13年経て、再び堪能できるということも感慨深かったです。

 

Joe Hisaishi『FOR YOU』

前曲と同じく映画『水の旅人』より選曲。ホルンの導入からフルートの美しいメロディ、そしてチェロがそのメロディをさらに紡いでいきます。冒頭のフルートソロは、野津さんではなく渡辺さんが演奏されるところも見どころの一つだと思います。サビではヴァイオリンのメロディが花開き、本当に美しい久石さんのメロディを堪能できます。音色の使い方から、なんとなく印象派的な感じも受けるこの楽曲。今年4月に行われた新日本フィルとの「すみだクラシックへの扉」での印象派クラシックの指揮の成果も出ているような、本当に彩豊かな演奏でした。

浜松公演では拍手が鳴りやまず、ここで久石さんは再度袖から登場。普段とは違う出入り口から登場する久石さんも少し照れたのか、頭をポリポリと掻きながら再度ステージに登場されていました。

 

次の楽曲へしばし舞台替えとなります。

 

 

Joe Hisaishi『My Lost City』

いよいよ今回の2本柱のひとつ、『My Lost City』の始まりです。拍手喝采の中、バンドネオンの三浦さんと久石さんが登場しました。

『Prologue』
朧げなストリングの音色で一気に『My Lost City』の世界へと誘います。ヴァイオリンの乾いたような高い音色から、渦巻くような弦の旋律。スーッと伸びていく和音の先に響く音色は…

『漂流者~Drifting in the City』
バンドネオンのソロが、寂し気なメロディを紡いでいきます。もう本当に美しかった。原曲ではピアノの音色が印象的で、個人的にはどこかピアノの音色は俯瞰するような形で聴こえていました。それが今回はバンドネオンに置き換わることによって、リアルで、その物語の主人公が鼻歌で歌っているような雰囲気も感じました。それにしてもピアノの旋律しか似合わないと思い込んでいたこのメロディが、こんなにバンドネオンがはまることも衝撃的でした。

『Jealousy』
ここでまさかのこの曲!確かに原曲でもバンドネオンがフィーチャーされてましたが、まさか生で聴けるとは!!ピアノの高橋さんによるジャージーなメロディも堪能できました。バンドネオンの三浦さんはうっとりとした表情で時折笑顔で演奏されていたのも印象的でした。クラリネットのマルコスさんの音色も色っぽくてとっても素敵でした。曲の終わる部分では久石さんの指揮台を降り、ピアノの前で指揮をしていました。

『TWO OF US』
久石さんのピアノの伴奏に合わせ、バンドネオンの三浦さんがメロディを奏でていきます。続いてはコンマスの豊嶋さんによるヴァイオリンソロ。どちらも甲乙つけがたい美しさ。そして、バンドネオンとヴァイオリンが絡みつつ演奏していくシーンでは、豊嶋さんと三浦さんがアイコンタクトで息を合わていました。まるで「すみだクラシックの扉」でのコンマスのチェさんとソリストのリーウェイさんがアイコンタクトを取っているのを彷彿とさせる瞬間でした。

『Madness』
こちらもバンドネオンがメインメロディへと進化をした『Madness』。武道館や世界ツアーでの構成を元にしたショートバージョンのアレンジでしたが、より濃密な構成になっていました。

『冬の夢』
まさかこの曲も聴けるなんて思っていませんでした。原曲ではチェロがフィーチャーされているので、構成から外れるのではないかと予想していましたが、どんどん予想を裏切っていきます。中盤のバンドネオンソロになる箇所では、2ndVnかピアノはわかりませんが、音量を抑えて抑えて!と二度ほど指示する久石さん。その後の盛り上がりでは大きく!新たに指示もされていました。

『Tango X.T.C.』
もともとバンドネオンがフィーチャーされているので、力強さ、色気に圧倒されました。ここでも三浦さんが笑顔で演奏されているのも印象的でした。中間部でのピアノの高橋さんによるスケール的なピアノ伴奏も美しくて、カッコ良かったです。終盤ではパーカッションも入り、ジャージーなパートへ。

『My Lost City』
組曲の最後の曲は、原曲CDでも最後を飾るこの楽曲。東京公演では久石さんのピアノで始まっていましたが、浜松公演では豊嶋さんソロヴァイオリンに差し替えられていました。その後、冒頭の『Prologue』と同じパートを回想し、バンドネオンが音色を加えながら、静かに楽曲が終わりました。

 

改めて8曲で構成された今回の組曲の完成度は本当に高くて、本当に感動しました。なんとも贅沢な時間で、体感時間は本当に数分だった気がします。今回、このような形で改めて作品として残されたことにより、今後のコンサートでの演奏機会が増えることを期待するとともに、この感じでいけば、『Etude』もソリストを迎えて、新たな久石流ピアノコンチェルト作品も再現可能では?と妄想も膨らみました。

 

 

ー休憩ー

 

 

Joe Hisaishi『MKWAJU 1981-2009』

国内演奏ではこちらもかなりお久しぶりになる楽曲。2010年のアジアツアー以来でしょうか? 2台のマリンバの導入のちに、マルコスさんによるバスクラの音色。そこから始まるズレてズレて、たまに合って、またズレにズレまくる同じ旋律がぐるぐると円を描いてくような演奏。もう本当に聴いていて楽しい!ヴァイオリンの掛け合いになるパートも対向配置になっているため、右、左とヴァイオリンの音色が行ったり来たりするのも楽しいです。各パートもどんどん折り重なっていき、最後はダンッ!とフィニッシュです!

 

Joe Hisaishi『DA・MA・SHI・絵』

ここ数年、よくプログラムに組まれることが多くなったこの楽曲。新日本フィルとは3月4月の演奏会でもセットリスト入りしていました。今回は座席が3列目だっとこともあり、久石さんの指示が細かく各パートへ手の先から飛んでいくのもしっかりとみることができました。3月4月でも演奏してきた甲斐があってか、今回の完成度もさらにグッと高まっている気がしました。テンポは3月に比べて速かった感じがします。

個人的な話になりますが、先日「Just ear」というソニーのオーダーメイドイヤホンを購入しました。耳の型を取る前にどういう音の構成にするかを決める段階があるのですが、そこでの視聴をこの『DA・MA・SHI・絵』をチョイスしてみました。コンサートで実際にこの曲を聴くと、ステージのあちらこちらからそれぞれの音色が、立体的に渦を巻くように聴こえてきます。その生で聴いた感じが近い音のプリセットを選ぶのにこの曲を試しに聴いてみた…というこぼれ話です。

 

Joe Hisaishi『Symphonic Suite Porco Rosso』

2本柱のうちのもうひとつ。いよいよ『紅の豚組曲』の登場です。

『帰らざる日々(イントロピアノソロ)』
次の曲の『時代の風』から楽曲がスタートするかと思いきや、久石さんのピアノソロからの導入でびっくりしました。ノスタルジーを感じる印象的なピアノソロで『紅の豚』の世界へと誘います。

『時代の風~人が人でいられた時~』
ピアノを弾き終わって、ミニマルを感じさせる弦楽の音色に、力強い低弦の刻み。木管の愉快なメロディ。サントラでしか聴いてこなかった曲がどっと、目の前に押し寄せてきました。生で聴くと、体に伝わってくるドンドンドンドンという音色に圧倒されました。

『Flying Boatment』
チューバの佐藤さんによる力強い前奏に続き、トランペットのメロディが、あの少し間抜けな空賊の様子をいきいきと表現しています。途中の渡辺さんによるピッコロのソロも美しく、楽しげです。

『Fio-Seventeen』
フルートの野津さんによる導入から始まります。原曲ではここにマンドリン的なメロディが入っていましたが、今回の組曲ではその音色をなんとハープで表現。ハープでこんな再現の仕方ができるんだとびっくりしました。中盤のホルンとストリングが絡む部分は久石さんの雄大で伸びやかなメロディを堪能できます。終盤はテンポアップし、少しスリリング若干タンゴを感じさせるような雰囲気で終わります。

『セリビア行進曲』
こちらも賑やかな行進曲。大股でずんずんと歩くような2拍子に金管やパーカッションの音色が彩りを添え、愉快な一曲です。

『Doom~雲の罠~』
前曲の雰囲気とは一変、暗い雰囲気の導入から始まります。その後はハバネラを感じさせるような舞曲のような雰囲気。二ノ国のサントラの『水の都』に近い雰囲気があります。

『アドリアの海へ』
マルコスさんの伸びやなかなクラリネット音色に終始うっとり。日常を感じさせるようなさわやかで明るい雰囲気のこの曲も組曲に取り込まれたこともうれしく思いました。ワルツ調の3拍子の曲ですが、浜松公演では明らかに伴奏の3拍目を弱く演奏しているような感じでした。なにかの意図があるのでしょうか?

『Friend(後半)』
ハープから始まってストリングスが入り、少し暗い雰囲気を感じさせるこの曲は、『風立ちぬ』のサントラより、『菜穂子(会いたくて)』を連想してしまいます。

『Madness』
前半の『My Lost City』内ではバンドネオンメロディで演奏されていたものが、こちらでは満を持して久石さんのピアノにて披露されてました。東京公演の配信時では、若干オケとのズレもあり心配な箇所もありましたが、浜松公演ではピタリと演奏されていてとてもカッコよかったです。中盤のピッコロとオケとの掛け合いの部分も聴いていて楽しいんですよね。後半では再度久石さんがピアノに戻り、オケとの掛け合いへ。

『帰らざる日々』
冒頭のイントロ同様に久石さんのピアノがメインに、今回は優しくストリングスが包み込むようなアレンジに。浜松公演では久石さんのソロパートに、金管・木管メンバーによるフィンガースナップが追加されていました。前半の構成はWDO2015の際のものと類似していたと思います。

久石さんが指揮台へ戻ると、今度は転調し、ジャズパートへ。こちらは『Piano StoriesⅢ』の『il Porco Rosso』の後半を元にアレンジされていたと思います。フリューゲルホルンやトランペットがジャージーなメロディを次々とバトンをつなぐように演奏していました。盛り上がりのピークを迎えたのちに、再度『帰らざる日々』のメロディが顔を出し、久石さんが再度ピアノへ。

アウトロを久石さんが演奏するとともに、ピアノを包み込むように、まるでポルコの魔法が解けるかのような繊細なストリングスが浜松公演では追加されていました。

 

 

演奏が終わると拍手喝采。ここで何度かのカーテンコールのちに、恒例となった各楽器担当への拍手タイム。そして、Encoreへと移ります。

再度バンドネオン演奏用の椅子と譜面台が用意されたのち、三浦さんと久石さんが登場。久石さんが長く息を吐きながら、ピアノへ向かい譜面を用意しているのが印象的でした。

 

 

Encore1『One Summer’s Day』

アンコール1曲目は、バンドネオンとピアノによるスペシャルバージョンな『One Summer’s Day』。イントロからしばらくは久石さんのソロが続きますが、そこから三浦さんバンドネオンが入り、ピアノとバンドネオンが代わる代わる音色を紡いでいきます。中間部ではテレビ放送内で披露された「ラミレラーミレミ」というメロディがこちらでもしっかりと継承。

2番では久石さんは伴奏に徹し、三浦さんがソロのメロディを奏でていきました。終盤では再度久石さんによるアウトロのピアノソロ。最後はバンドネオンがスーッと息の長い音色とピアノが絡んでとても美しかったです。

 

Encore2『World Dreams』

WDOコンサートに来たら、この曲は絶対外せません。今回も最後のアンコールに披露。もう何回も何回もコンサートで聴いてきたのに、毎年変わる世の中の情勢に合わせて、この曲の聴こえ方もまったく変わってきます。

今年の演奏はより「世界の夢」を表現しているような感じがして、よりグッとくるものがありました。最後のチューブラーベルズの音が、より希望へ、平和へと歩みを照らす鐘の音に響いたように聴こえたのは私だけではないはずです。来年もこの曲が聴けますように。

 

 

演奏が終わると拍手喝采。その後の恒例の弦楽の皆様との腕合わせは、浜松公演では豊嶋さんと1st Vnの方のみで省略バージョンで終わりました。割と早めに楽団の皆様も退場しましたが、その後久石さんが再度豊嶋さんと三浦さんの三人で再登壇。

会場は一気に盛り上がり、スタンディングオベーションへ。ここのホールは4階席までありますが、すべて総立ちになるととても迫力がありました。お三方が深々と礼をしたのちに、ステージを後にしました。

大盛り上がりの浜松公演も無事に終了しました。

 

2022年8月1日 ふじか

 

曲ごとに丁寧でわかりやすい感想はすでに周知のとおりですね。WDO2022は初日から最終日に進むなかで修正が加えられている珍しいパターンです。ライブ配信では聴けなかった箇所があります。大きくは3つ、『My lost City』終曲のピアノからヴァイオリンへの変更、『Porco Rosso』終曲のピアノソロでのフィンガースナップ追加と、同曲アウトロでの弦楽追加です。そのあたりにも注目しながらもう一度読み返してみるとおもしろいですよ。

それから。

『漂流者』”その物語の主人公が鼻歌で歌っているような雰囲気”!なるほどとても新鮮でした。そんな発想のセンスなかったから、ぐっと物語が立ち上がってきますね。『アドリアの海へ』そうでしたね、テンポもゆっくりになって抑揚がついていましたし、後ろ髪をひかれるような、後ろにもたれかかった3拍子になっていました。軽快にワルツのリズムをキープしていた東京公演とは変わっていたと思います。カーテンコールの肘タッチはどの公演もコンマスとだけだったかもしれません。プログラム2時間いっぱいいっぱいでしたもんね。スタオベになる瞬間は肘タッチのときかご三人再登壇のときか、このあたりは総立ちタイミングが会場ごとに違ったかも。僕も肘タッチコーナーがつづくと思ってたから立ち上がるタイミング出遅れ組になってしまった。イヤホンうらやましいです。新しいオーディオ装置を買ったとき、初めての車を運転するとき、ここぞと選んでしまう曲のエピソードよくわかります。スマホを替えたときとかはもうそんな儀式的なことしなくなったけど。パーソナルなお返事のように書いてしまいました。みなさんもリプでどうぞ(笑)

 

 

静岡公演

 

 

こちらは、いつものコンサート・レポートをしています。

 

 

 

「行った人の数だけ、感想があり感動がある」

久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋 では、久石譲コンサートのレポートや感想、いつでもどしどしお待ちしています。応募方法などはこちらをご覧ください。どうぞお気軽に、ちょっとした日記をつけるような心もちで、思い出をのこしましょう。

 

 

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reverb.
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*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第71回 「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022」コンサート・レポート by tendoさん

Posted on 2022/08/02

7月23~29日開催「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022」です。今年は国内5都市5公演&国内海外ライブ配信です。予定どおりに開催できることが決して当たり前じゃない今の状況下、出演者も観客も会場に集まることができた。まだまだ足を運べなかった人もいます。昨年に引き続きの開催&ライブ配信に喜んだファンはいっぱいです。今年も熱い夏!

今回ご紹介するのは、韓国からライブ・ストリーミング・レポートです。1-2週間ぶり!?(FOC Vol.5)の登場です。コンサート鑑賞のアングルとユーモアに拍車かかっています。楽しみにしている人きっと多いんじゃないかなと思います。僕もまだ答え合わせできていない箇所あるくらい…どうぞお楽しみください!

 

 

久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022

[公演期間]  
2022/07/23 – 2022/07/29

[公演回数]
5公演
7/23 東京・すみだトリフォニーホール 大ホール
7/25 広島・広島文化学園HBGホール
7/26 愛知・愛知県芸術劇場 コンサートホール
7/28 静岡・アクトシティ浜松 大ホール
7/29 大阪・フェスティバルホール

[編成]
指揮・ピアノ:久石 譲
管弦楽:新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ
バンドネオン:三浦一馬
ソロ・コンサートマスター:豊嶋泰嗣

[曲目]
久石譲:水の旅人
久石譲:FOR YOU

久石譲:My Lost City for Bandoneon and Chamber Orchestra
Original Orchestration by Joe Hisaishi
Orchestration by Chad Cannon

—-intermission—-

久石譲:MKWAJU
久石譲:DA・MA・SHI・絵

久石譲:交響組曲「紅の豚」
Symphonic Suite Porco Rosso
Original Orchestration by Joe Hisaishi
Orchestration by Chad Cannon

—-encore—-
One Summer’s Day (for Bandoneon and Piano)
World Dreams 

[参考作品]

My Lost City 久石譲 『紅の豚 サウンドトラック』 Dream Songs: The Essential Joe Hisaishi Songs of Hope: The Essential Joe Hisaishi Vol. 2

 

 

はじめに

今年の夏もWDOがやってきた!FOCコンサートの一週間後にまたコンサートを見ることができるようになった!WDO2022コンサートもリアルタイムでストリーミングされ、韓国をはじめ世界中で楽しむことができた。コンサートの余韻が消えない。到底我慢できない!それで、今回のコンサートも自然にレビューすることになった。

 

W.D.O.の紹介

World Dream Orchestraは、久石譲の最も代表的なコンサートシリーズだ。韓国にも来韓して素敵な演奏を披露したことがある。(W.D.O.2017) 特に2008年の「久石譲 in 武道館」をはじめ数多くの公演を行い、2015年から新しいプロジェクトでスタジオジブリアニメーション音楽を交響組曲として進行している。2022年の交響組曲は紅の豚だ!

 

 

今回のコンサートは何度も嘆声をあげた。最初の嘆声は、舞台セッティングを見た時だった!

 

はじめから久石譲のメインピアノがセットされた!ということは、交響組曲ではない曲でも久石譲のピアノパートがあるということなのか?

落ち着こう···まだ下手な判断は早い。舞台のスペースが足りなくて先にセッティングされた場合もある。ピアノ演奏があるならピアノに楽譜を置くんじゃないかな?

 

 

楽譜を置いた!! しかも結構分厚いね!!まだチューニングも始まる前なのに、そうやってもう2回も嘆声をあげた。

 

 

Joe Hisaishi:Water Traveller

 

久石譲の以前のコンサートプログラムを見ると、「Water Traveller」と「FOR YOU」で始まる場合も多かった。オープニング曲にぴったりの素敵な曲だ。特に金管楽器の音が魅力的だった。久石譲がオーケストラに向けて連続で力強くパンチを放って締めくくり。曲が終わった後の静寂が本当に良かった。

 

Joe Hisaishi:FOR YOU

 

「水の旅人 侍KIDS」の主題歌の器楽バージョンとなる曲だ。メロディーメーカーの久石譲らしい本当に素敵な曲だ。「WORKS・I」または久石譲ベストアルバムVol.2(Songs of Hope)に収録されたものと似たバージョンだが、今回のコンサートのために金管楽器のフレーズが少し追加されたことが分かった。

今回のコンサートには、私が大変な時期を過ごした時に慰めになった大切な曲がたくさん演奏されたが、この曲のEnglishバージョンである「MELODY Blvd.」アルバムの「I Believe In You」も力になる素敵な曲の一つだった。

「水の旅人 侍KIDS」は、久石譲と親しくしていたAbey Road StudiosのミキシングエンジニアMike Jarratt氏と最後に一緒にした作品だったというエピソードがある。「My Lost City」も彼と一緒にしたアルバムなので、つながる面があるようだ。「地上の楽園」アルバムも大変だった時に大きな慰めを与えてくれたアルバムだが、このアルバムの「HOPE」という曲にも「Water Traveller」のいくつかのメロディーが入っている。

 

 

Joe Hisaishi:My Lost City for Bandoneon and Chamber Orchestra

 

「My Lost City」は1992年発売された久石譲のソロアルバムだ。宮崎駿がこのアルバムを聴いて「紅の豚」に数曲使ったというのは有名なエピソードだ。私が一番好きなアルバムだが、すでに生産中止となり、ストリーミングでも聴くことができない。(まだ中古市場で手に入れることはできる。)

今回のコンサートのためにバンドネオンを中心にアルバムが再構成された。バンドネオンの演奏者はMFコンサートで「The Black Fireworks」を完璧に演奏した三浦一馬さんだ。はじめに弦楽を中心に演奏される曲は「PROLOGUE」。 続いて演奏される曲は「DRIFTING IN THE CITY」だ。

暖かい音色のバンドネオンの雰囲気が本当に素敵だった。Chamber Orchestraでオーケストラの規模を縮小したのは、バンドネオンを際立たせるためではないかと考えた。

 

 

続いて演奏された曲は「JEAROUSY」。アルバムでも元々バンドネオンがメインになる曲で、コンサートで演奏されたことはほとんどない。バンドネオンのビブラート奏法が印象的だった。 うん?!演奏が終わって、急にピアノに向かう久石譲さん?!

 

 

続いて演奏された曲は、私の涙腺を刺激するその曲。「TWO OF US」です。WDO2017の韓国公演でも涙を流した曲だ。ピアノとバンドネオンの音色が本当によく似合っていた。

 

 

コンサートのマスター豊嶋泰嗣さんのヴァイオリンまで乗せて本当に幻想的だった。ヴァイオリンとバンドネオンの合奏もとても素敵だった。

そして次の曲は、Madness?!

やっぱり意表を突く久石譲だ。「紅の豚」でも演奏されるので除外されると思っていたが、「My Lost City」でも欠かせない「Madness」だと思っていたのだろうか。少し短いバージョンだったが、バンドネオンバージョンの「Madness」が演奏された。

 

 

「Madness」の演奏が終わってピアノを弾くために降りてくる久石譲?!一歩下がって再び指揮台に立ち、次の曲である「WINTER DREAMS」が演奏される。なぜこのような間違いが発生したのかは、後に「Symphonic Suite “PorcoRosso”」でわかりました。😂

「WINTER DREAMS」もピアノの伴奏が変化する部分がある。コンサートでアルバムとの違いを見つける楽しみ!これがコンサートの魅力だ。

 

 

次の曲は「Tango X.T.C.」この曲も大変な時にたくさん慰めになった大切な曲だ。 XTC、すなわちecstasy、恍惚そのものである曲だ。バンドネオンが演奏する「Tango X.T.C.」をコンサートとして見ることができてとても幸せだった。

シンバルが演奏する部分からが個人的に一番好きな部分だ。この曲が終わる最後の部分にマリンバが追加されている。 気づきましたか?!

 

 

そうやって終わるようにみえたが、予想外にまたピアノを弾き始める久石譲!「My Lost City」アルバムの最後の曲でタイトルとなる曲「MY LOST CITY」をピアノで演奏する!

「JEAROUSY」と同じくコンサートで演奏されたことが非常に稀な曲だった。短いバージョンだったけど、本当にびっくり選曲だった。(ピアノ楽譜が分厚い理由があった…)

そうして1992年に生まれたアルバム収録曲がバンドネオンに合わせて選曲、再構成され、まるでアルバム全体が一曲だったかのように生まれ変わった。

WDOコンサートでは「Asian Symphony」、[Woman]、[Hope]、[mládí] など過去のアルバムの名曲がコンサートプログラムに引き続いて登場している。これからもこのようなコーナーが続いたらいいな。例えば、Piano Stories シリーズはどうですか? 😊

 

 

Joe Hisaishi:MKWAJU

 

インターミッションが終わって最初の曲は本当に久しぶりに聴くミニマル曲「MKWAJU(ムクワジュ)」!久石譲の原点となる重要な曲である。以前、TENDOWORKでレビューしたことがある。

参照:히사이시조 – MKWAJU :: TENDOWORK

 

「MKWAJU」は2台の爽やかなマリンバで始まる。サックスは最近あまり編成しないため、バスクラリネットに置き換えられている。暑い夏を涼しくするミニマルサウンド!対向配置で聴くMKWAJU!

この曲もアルバムと違って聞こえる部分がある?トライアングルが追加された部分があります。見つけることができますか? 😂

 

 

ここでまたハプニングがあった。次の曲である「DA・MA・SHI・E」の楽譜が用意されていなかったこと!突発的な状況だったが、楽譜を受け取って拍手を誘導する久石譲だった。2011年の韓国公演で通訳が緊張しすぎて泣きそうな声を出した時を思い出した。このような場面がすべてライブコンサートの醍醐味ではないだろうか。(私はリアルタイムストリーミングだが。本当にリアルタイムという体感ができた。)

 

 

Joe Hisaishi : DA・MA・SHI・E

 

オランダの画家エッシャーのだまし絵をモチーフに作曲された曲だ。(タイトルのDA・MA・SHI・Eもだまし絵を日本語ローマ字表記にしたものだ。)だまし絵がどこに目を置くかによって同じ絵なのに別の絵に見えるように、この曲も耳を傾ける部分が低い音なのか高い音なのかによって、その時その時違うように聴こえるのが魅力だ。後半部の金管楽器が噴き出す部分はいつ聴いても本当にかっこいい!

「Water Traveller」はアルバム「Melodyphony」の初曲として収録された曲、「MKWAJU」と「DA・MA・SHI・E」はアルバム「Minima_Rhythm」に収録された曲。どちらもロンドンのAbey Road Studiosで録音されたアルバムだ。今回のコンサートの序盤にどこか暗い雰囲気が感じられるのはそのような理由からだろうか。

そして次は今日のハイライト、Symphonic Suite “PorcoRosso”!

 

 

Joe Hisaishi:Symphonic Suite “Porco Rosso”

この曲はいくつかの印象的な場面を中心にレビューしようと思う。

 

始まりと同時にピアノに座る久石譲!「Bygone Days」のテーマとなる「Il Porco Rosso」の導入部がピアノソロで演奏される。最初からピアノ演奏だなんて!すごく良かった!

 

 

しかし、曲がこれ以上長く続くことはなかった。この重要な曲がこんなにすぐ終わるの? 物足りなさを後にして、「紅の豚」の最初のトラックにつながる。この曲は「My Lost City」の「1920~AGE OF ILLUSION」から変形した曲で、私が大好きな曲の一つだ!

実は「1920~AGE OF ILLUSION」が原曲になるという事実を知って、勢い購入した中古CDを皮切りに本当に本格的な久石譲のファン活動が始まった。だから個人的に意味のある曲だ。

その後はサウンドトラックの中から数曲が選曲されて演奏される。サウンドトラックより短くなったり、順番が少し変わる部分もあるようだが、サウンドトラックで聴く時とは異なり、曲の間に柔らかく自然につながっていてとても良かった。

 

 

「紅の豚」の6番目のトラックである「セルビア行進曲」には、ピッコロにサウンドトラックとは異なるフレーズが追加されているが、とても軽快で溌溂としていて笑みがもれた。

 

 

そしていよいよ始まった「Madness」演奏!久石譲が「Madness」のピアノ・スタッカート部分を演奏する!WDO2015の時との楽曲と似ているが、タンタン-タタ!と演奏する部分のハーモニーが変化していた。オーケストラとピアノがやりとりするシーンは本当に好きなシーンだ。かつて、どれだけ「Madness」に心酔していたか分からない。この曲をライブで聴けてとても良かった。

 

 

そうして、Symphonic Suiteが仕上がると思ったが、再びひねった! また久石譲がピアノに向かう!そして「Il Porco Rosso」を再び演奏する。最初に短く演奏したのが終わりではありませんでしたか? さすが!

「My Lost City」での久石譲の勘違いがまさにこの部分のせいだったのだろう。「Madness」は今回のコンサートで2回演奏される。リハーサルの後半で「紅の豚」の「Madness」に続けて「Il Porco Rosso」を演奏したはずの久石譲だ。だから勘違いしたに違いない。 😂

今回の「Il Porco Rosso」はしっかりと演奏が続く。ヴァイオリンが空を突くように高い音を出す部分があるが、本当にとても良かった。ここからが本当のハイライトだ。

 

 

フリューゲルホルンがメインメロディーをかっこよく演奏し、コンサート会場は巨大なジャズバーに変わった。この部分からは曲を新しく書き込んだ部分のようだった。本当に素敵でエレガントな雰囲気を出している。隣のトランペットも立ち上がって演奏し、再びフリューゲルホルンが受け継いで演奏するが、オーケストラの演奏が尋常ではなかった。

生まれて初めて聴くメロディーが登場し、慌てながらもうっとりしているが、急激に拍子が速く変わると、再び雰囲気が変わった。

 

 

ピアノがメインテーマをまた演奏するのに、久石譲が動きだし、拍子がだんだん遅くなって···。

 

 

またピアノに向かう!!!
今日は本当にどうしたの!!!

続いて「Il Porco Rosso」の最後の部分をピアノで演奏する久石譲。冒頭の演奏と首尾一貫した。ここでは泣き出してしまった。「Spirited Away Suite」のときと似た演出だったが、全く予想できなかった。とても素敵な演奏だった。演出と構成もとても良かった。特に、最後のハイライトの瞬間は本当に素敵で華やかでした。

ベートーヴェン、ブラームスの交響曲を指揮し、自身の交響曲も3曲も作曲したおかげだろうか。ますます完成度が高くなり感情を掘り下げるように構成も緻密になるようだ。以前の交響組曲とは異なり、サウンドトラックから多くの変化が起き、新しく付け加えたりもしたのも印象的だった。

実は、WDO2021をはじめとする最近のコンサートでは、久石譲のピアノの比重が減り続けていた。残念ながら久石譲の年齢と指の負傷のお知らせのため理解するしかなかったし、短くても演奏してくれたことにも感謝していた。そんな状況で「My Lost City」をはじめ「Madness」「Il Porco Rosso」まで、ファンを十分に満足させる久石譲の演奏は本当に感激した。

 

 

Encore

 

アンコールは「One Summer’s Day」と「World Dreams」だった。それなら…公演前に見たツイッターはやっぱりネタバレだったのだろうか! 戸惑って少し裏切られた感じが…(今は削除されたツイートだ。)

「One Summer’s Day」はふだんコンサートでアンコールでよく演奏される曲だが、バンドネオンが添えられて本当に違う雰囲気になった。アンコールも久石譲のピアノって!とても幸せでした。

「World Dreams」は、WDOのテーマとなる重要な曲。WDOの毎公演ごとに欠かさず演奏される曲であるうえ、最近はアルバムごとに該当年度のライブ音源をきちんと収録している。ここで鳴るチューブラーベルが本当にいい。

最後のアンコールでこの曲が演奏されるとさよならを告げる惜しい感じだが、初期の頃にいつも最初の曲として演奏されたように、次の出会いを約束する曲かもしれない。

 

今回のコンサートは、長く記憶したい最高のコンサートだった。往年の名曲が一堂に会したうえ、コンサートで聴くことができないと思っていた曲をたくさん聴くことができて良かった。何よりまた久石譲のピアノが多くなってよかった!何度もびっくりしてコンサートが終わった後も落ち着くのが本当に大変だった。

来年には必ず韓国で直接聴くことができれば良いと思う。ぜひお越しください…!!

 

2022年7月29日 tendo

 

出典:TENDOWORK|히사이시조 & 월드 드림 오케스트라 2022 콘서트 리뷰
https://tendowork.tistory.com/89

 

今回もテンション高めおもしろかったですね!tendoさんのコンサート・レポートはいつも完成が早い。WDO2022は初日公演がライブ配信されて最終日まで一週間ほどの時間がありました。ツアー完走したらレポートを公開するという気配りも忘れないなか…早々と書き上げたtendoさんはたぶんコンサートが終わる時間を見計らって予約投稿してたんです(笑)待ちきれなかったでしょうね!

ライブ配信をリアルタイム視聴している瞬間に思ったことや気づいたことそのまま、まるで瞬間冷凍したように高い鮮度で封されている。だから臨場感あってホットに楽しめるんだろうなと思います。視聴しながらメモしてるのかな? 体感したテンションのままキープして文章に出せるってうらやましい。

本公演も楽曲の変化のことからステージでの微細な気づきまでアンテナMAXでした。僕も訳しながら驚きながら後でチェックしようととても忙しい。楽しい悲鳴です。もしも、WDO2022コンサートに行けなかった人やライブ視聴できなかった人が、これから先このレビューを見る日がきたら、きっと残念!悔しい!を連発するでしょうね。魅力をたっぷり詰めこんだコンサート・レポートありがとうございます!

tendo(テンドウ)さんのサイト「TENDOWORKS」には久石譲カテゴリーがあります。そこに、直近の久石譲CD作品・ライブ配信・オフィシャルYouTube特別配信をレビューしたものがたくさんあります。ぜひご覧ください。

https://tendowork.tistory.com/category/JoeHisaishi/page=1

 

 

東京公演/Live Streaming

 

 

こちらは、いつものコンサート・レポートをしています。

 

 

 

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これからもライブ配信の機会が増えるといいですね!

 

 

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Overtone.第70回 「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022」コンサート・レポート by むーんさん

Posted on 2022/08/01

7月23~29日開催「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022」です。今年は国内5都市5公演&国内海外ライブ配信です。予定どおりに開催できることが決して当たり前じゃない今の状況下、出演者も観客も会場に集まることができた。まだまだ足を運べなかった人もいます。昨年に引き続きの開催&ライブ配信に喜んだファンはいっぱいです。今年も熱い夏!

今回ご紹介するのはライブ配信レポートです。初登場むーんさんです。その人にしか書けない作品についてのことや想いってありますね。ひとつの作品に想いを込めた素敵なものを届けてくれました。どうぞお楽しみください。

 

 

久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2022

[公演期間]  
2022/07/23 – 2022/07/29

[公演回数]
5公演
7/23 東京・すみだトリフォニーホール 大ホール
7/25 広島・広島文化学園HBGホール
7/26 愛知・愛知県芸術劇場 コンサートホール
7/28 静岡・アクトシティ浜松 大ホール
7/29 大阪・フェスティバルホール

[編成]
指揮・ピアノ:久石 譲
管弦楽:新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ
バンドネオン:三浦一馬
ソロ・コンサートマスター:豊嶋泰嗣

[曲目]
久石譲:水の旅人
久石譲:FOR YOU

久石譲:My Lost City for Bandoneon and Chamber Orchestra
Original Orchestration by Joe Hisaishi
Orchestration by Chad Cannon

—-intermission—-

久石譲:MKWAJU
久石譲:DA・MA・SHI・絵

久石譲:交響組曲「紅の豚」
Symphonic Suite Porco Rosso
Original Orchestration by Joe Hisaishi
Orchestration by Chad Cannon

—-encore—-
One Summer’s Day (for Bandoneon and Piano)
World Dreams 

[参考作品]

My Lost City 久石譲 『紅の豚 サウンドトラック』 Dream Songs: The Essential Joe Hisaishi Songs of Hope: The Essential Joe Hisaishi Vol. 2

 

 

私は「My Lost City」が好きだ。

 

 

それは1992年の秋頃、いつものように入ったレコードショップ。クラシックの列をあらかた散策した私は「イージーリスニング」のコーナーへ向かった。

 

沢山あるアルバムの中にそれは埋もれていた。

 

当時は「久石譲」のコーナーなどどこにも無い。世間では、少なくとも私の周りの世間では久石譲の名を知る人もほぼ居ない。私も「ジブリの音楽書いてる人」位の印象しか無かったが、そのアルバムは何の気なしに私の目に止まった。

 

アルバム名は「My Lost City」
作曲者は「久石譲」

 

「へぇ。久石譲ってソロアルバムも出してるんだ」 何故か目にとまったそのアルバムを引き出しそう思う。「面白そう。買ってみようかな。」 それが久石さんと私の出会いである。

 

帰宅しアルバムを聴いた私は固まった。

当時、1番好きな曲はチャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」。この世で1番美しい曲はモーツァルトのレクイエム。クラシックの中でも悲しい、暗い曲が好きだった私のその琴線にビビッと触れたそのメロディ。いや、触れたでは済まない。身体の中を衝撃が走り去った。この世を憂うような悲しむような美しい響きがこれでもかと流れてくる。

しかもアルバムの構成が良い。クラシックのように曲順や構成にも凝っている。それぞれの曲が独立しそれぞれのテーマを唄いながら、全体として1つの「意味」を持つアルバムになっている。アルバムを一通り聴き終わった時、私は既に久石さんの虜になっていた。

 

私にとってこれが
久石さんとの出会いであり、原点である。

 

だから、私は「My Lost City」が好きだ。

 

 

それから30年。

節目の年にその衝撃の出会いはまた訪れた。

 

2022.7.23午後。病院のベッドの上。今回の手術のためにコンサートチケット購入を断念した私は病室のベッドの上にタブレットを置き、ワイヤレスイヤホンをして寝ている。

身体は痛いし、看護師さんの目も気になるが、今年年頭に手術を取るかコンサートを取るか悩んだ末、手術を優先したのだ。多少の身体の痛みには一時的に大人しくして貰おう。年頭の深い悩みに比べれば看護師さんの目も大したことは無い。それよりもライブ配信に全神経を集中する。

 

そしてそれは始まった。

思いも掛けず流れる「Prologue」に背中がゾクゾクする感覚を覚える。「My Lost City」のアルバム構成を考えれば、これなくして「My Lost City」は始まらないが、WDOと言うコンサートの性質を考えれば、時間的にも曲の知名度としても入れるのは難しいのではと思っていたこの曲をさも当然のように持ってくる久石さんに、このコンサートへの意気込みを感じた。

「Two of Us」が始まった瞬間、私の身体には寒けが走った。手術による血圧低下が貧血を起こしたからでは無い。想像していた理想の編成でその曲が演奏されたからだ。悲しさと寂しさ漂わせるバンドネオンの音色と、孤独さと哀愁漂うバイオリンの音色。それを優しく包むように響くピアノの音色。まさにこの曲の理想の形の一つでは無いだろうか。バンドネオンとバイオリンが重なる辺りから寒気も涙も止まらない。手術による血圧低下が貧血を起こしたからでは無い。感動したからだ。余りの美しい響きに。私はこの響きを聴けて幸せである。

次の「狂気 MADNESS」には驚かされた。こんなにも間引かれたこの曲を聴いた事がない。この30年、この曲「狂気 MADNESS」は殆どその形を変えずに何度も演奏されている。久石さんにとってそれだけ思い入れのある曲であり、完成した曲なのである。それが引き千切られ、繋げられ、改変されている。この組曲の編成編曲に対する音楽家・久石譲の深い決断と並々ならぬ思い入れを感じずにはいられない。それを表すかのように、なんとこの曲のエネルギッシュなこと!ピリピリとした演奏はやがて各演奏者のボルテージをあげてゆく。打楽器のロールがさらにそれを加熱させ、その演奏は何かが取り憑いたようにも見える。まさに「狂気」である。

「Tango X.T.C.」、この曲は本来感傷的な曲である。久石さんご本人もそのアルバムの中で「なぜ1920年代のタンゴはセンチメンタルなのか?」と書かれている。だが、この演奏は実に伸びやかである。センチメンタル、感傷的と聞くと「哀しい」「つらい」と負のイメージが思い付く。それを表すかのようなバンドネオンのメロディライン。ではなぜ?

年齢を重ねるたびに深く思うが、哀しい、つらいと言った感情を感じるからこそ、嬉しい、楽しいと言った感情も感じることができる。若かった30年前には判らなかったそう言った表裏一体の感情を表すかのように、センチメンタルなバンドネオンのメロディラインを奏でつつ、曲は伸びやかに、自由気ままに。そして愉しげになってゆく。演奏者の動きや、久石さんの笑顔がそれを表すかのようだ。そして、人生のクライマックスが訪れるように曲は終わる。次の曲「My Lost City」があるのが判っていても拍手を送りたいと思った。いや送っていた。それほど、この「Tango X.T.C.」は素晴らしかった。

組曲が終わったとき、私は興奮し号泣していた。それが病院のベッドの上とかは、もはや関係ない。嬉しくて嬉しくて。この演奏を聴けた事に感謝して。その興奮は30年前を思い起こさせる。久石さんに初めてあったあの日のように。

 

身体に力が満ちてくる気がした。

 

来年は必ず演奏を聴きに行こう。

それまで頑張ろう。元気になろう。
その日を楽しみに。

こんな興奮をまた味わうために。

 

 

やはり、私は「My Lost City」が好きなのだ。

 

2022年7月28日 むーん

 

じんわりと胸に広がっていくものを感じます。こういった瞬間に触れると、本当にいろいろな環境や状況のなかから、コンサートへ行きライブ配信を視聴し、WDO2022を体感した一人一人にリアルなドラマがあるんだなと改めて切実に思います。次のコンサートはきっと行けますように!

当時の空気のなか手にとっていること、そこからずっと聴いていること、ほかのファンの人からしたらとてもうらやましい貴重な限られた体験だと思います。そして僕はひとつ気づいた。久石さんのフェアライトやデジタルといった80-90年代サウンドが好きでいつしか離れていった人はいるけれど、「My lost City」を好きになった人で離れた人はいない。この作品に出会ったときからずっとファンのまま歩んでいる。そういう作品なんです「My lost City」。

むーんさんは「久石譲の小部屋」でCD紹介ブログをしています。これまでに100枚を越える久石譲アルバムが魅力的な文章で紹介されています。これを見て驚くこと発見することたくさんあります。ご自身のリズムに合うペースで更新されています。くつろぎながら楽しめます。ツイッターと一緒にぜひチェックしてくださいね!

久石譲の小部屋
https://ameblo.jp/nanashi-no-gonbe2/

むーんさん
@HisaishiM

 

 

東京公演/配信

 

 

こちらは、いつものコンサート・レポートをしています。

 

 

 

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突然に届くレポートって手紙と同じくらいうれしいものです。

 

 

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Overtone.第69回 「久石譲 FUTURE ORCHESTRA CLLASICS Vol.5」コンサート・レポート by tendoさん

Posted on 2022/07/19

7月14,16日開催「久石譲 FUTURE ORCHESTRA CLASSICS Vol.5」コンサートです。前回Vol.4は2月開催となんと半年も経っていない、そしてリアルチケットは完売御礼。Vol.2,3,4に引き続いてライブ配信もあり、国内海外からリアルタイム&アーカイブで楽しめる機会にも恵まれました。

今回ご紹介するのは、韓国からライブ・ストリーミング・レポートです。久石譲コンサートがライブ配信されたものは、ほぼ記しているだろうtendoさんです。ますますどんどん注目ポイントが鋭くなっていて圧倒されます。とても楽しかったです!

 

 

久石譲 FUTURE ORCHESTRA CLASSICS Vol.5

[公演期間]  
2022/07/14,16

[公演回数]
2公演
東京・東京オペラシティ コンサートホール
長野・長野市芸術館 メインホール

[編成]
指揮:久石譲
管弦楽:Future Orchestra Classics
コンサートマスター:近藤薫

[曲目] 
ベートーヴェン:「エグモント」序曲 Op.84
久石譲:2 Dances for Orchestra

—-intermission—-

ブラームス:交響曲第4番 ホ短調 Op.98

—-encore—-
ブラームス:ハンガリー舞曲 第16番 ヘ短調

 

 

はじめに

5回目のF.O.C.コンサートだ。今回の公演もリアルタイムストリーミングが決定し、日本公演を韓国で楽しむことができた。F.O.C.vol.5ももともとは2021年7月に開催される計画だったが、COVID-19の影響で1年遅れた。長い間待ってきたコンサートなので今回もコンサートレビューを書いてみようと思う。

 

F.O.C.シリーズについて

Future Orchestra Classics(F.O.C.)シリーズは久石譲の代表的コンサートシリーズの一つで、長野で活動していたN.C.O.を母体として再結成されたフューチャー・オーケストラ(Future Orchestra)が古典のクラシック作品を久石譲の作品などの現代作品とともに演奏するプログラムだ。フューチャー・オーケストラは厳選された首席演奏家で構成されており、久石譲は指揮を兼ねる作曲家として時代を先取りした指揮を追求している。今回のコンサートはブラームス交響曲第4番がメインで演奏され、ブラームスの交響曲ツィクルスの完結となる。

 

Beethoven:Overture to ‘Egmont’ Op.84

 

演奏が始まるや否や、尋常でない感じを受けた。導入部分からこの曲の他の演奏と比べて音符の長さと速度感が違うと感じた。実際9分弱の曲だが、FOCは6分30秒でこの曲を走破していた!

こんなに速いスピードが可能なのは、久石譲の作曲家として曲を積極的に再解釈して指揮しているおかげだ。そこに規模の小さいオーケストラに加え、レベルの高い演奏者で構成されているため、スポーツカーが運転するように速い方向転換が可能だと思う。

曲の雰囲気は完全に変わったようだった。若くて朗らかな感じに生まれ変わった!パワーも本当にすごかったと感じた!もう演奏が終わったの? と思うほど時間が経つのも忘れて聴いた。

 

 

また印象的だったのはティンパニの音だった。久石譲はいつからかクラシックを演奏する時、曲の特性と雰囲気に合うティンパニを使っている。この曲とブラームス交響曲第4番で使用しているティンパニはバロック・ティンパニであると把握している。マレットの頭も木の材質のものを使っている。ティンパニのボールが小さいだけに、音の持続する長さが短くなった。また、ティンパニのヘッドに革を使用してプラスティックヘッドとは異なる音色を感じることができる。

最近(2022年)海外日程の時からティンパニの位置も変化しているが、打楽器と指揮者の間の距離が遠すぎると感じられ、一般的な配置から変更しているとインタビューで明らかにしたことがある。

 

参照:Joe Hisaishi : “Pour composer ‘Princesse Mononoké’, Hayao Miyazaki me donnait parfois des poèmes”
https://www.telerama.fr/musique/joe-hisaishi

 

その他にも対向配置を使うとか、FOCでは演奏者が立って演奏するという点も一般配置との違いだ。演奏者が立って演奏する時には、指揮台も一般的な指揮台よりはるかに高いということも今回発見した事実だ。

果たして、未来を目指すオーケストラらしく、楽器の配置と舞台セッティングまでも多く吟味していることが分かる。

 

 

Joe Hisaishi : 2 Dances for Orchestra

 

久石譲のMFコンサートとWDOコンサートがVariation 14という曲で出会ったように、今回は2 Dancesという曲でMFコンサートとFOCが出会った!

2 Dancesは2021年に久石譲 presents Music Future Vol.8でLarge Ensembleバージョンで演奏された曲で、オーケストラバージョンで演奏されるのは今回が初めてだ。Large EnsembleバージョンについてもTENDOWORKで既にレビューしている。

 

参照:Overtone.第53回 「久石譲 presents MUSIC FUTURE Vol.8」コンサート・レポート by tendoさん

出典:TENDOWORKS|久石譲 presents MUSIC FUTURE Vol.8 콘서트 리뷰

 

タイトルからも分かるが、2 Dancesはダンスリズムで構成されているが、ダンスが踊れない曲というのがコンセプトのような曲だ。(しかし、まだどんなダンスリズムが使われたのかはよく分からない。)

オーケストラバージョンになって曲が大きく変化しているが、変化した部分に傾きながら聴取するのがとても面白かった。

大きないくつかの変化では、打楽器のリズムや種類が変化していて、曲の音程が高くなる部分もあって、ここで具体的に説明することは難しいが、新しく付け加えたり修正した部分もかなりあった。

こうしたポイントは、既存の曲をよく聴いていたファンの立場では比較したり気づいたりしながら感じる快感もあるように思う。2 Pieces 2020でも似たような経験をした。事実、久石譲のコンサートを見ていると、微妙な変化に気づくそのような経験をよくすることになる。

 

 

現代曲を演奏する時は、再び一般的なティンパニに戻っている。舞台配置上の問題なのか、場所も元の位置に戻った。

 

 

ミニマル曲にパーカッションをうまく活用する久石譲らしく、パーカッションも大きくなった編成に合わせてはるかに多くなり多彩になっている。まるでパーカッション博物館を見ているようだ。

バージョンアップされた2 Dancesは全体的にはるかに華やかで、より洗練された感じだった。Step to heavenのスピードが速くなって疾走する部分は、弦楽器を除いた楽器たちが少しテンポが遅くなったようでしたが、弦楽器は依然として速く演奏しているため、コントラストが際立って浮揚感が感じられた。クライマックスがもっと素敵になった!

このように魅力的な久石譲の最新ミニマル作品に出会えるのが、FOCの欠かせない魅力の一つだ!

 

 

Brahms : Symphony No.4 in E minor Op.98

 

ブラームス交響曲ツィクルスの完結となる交響曲第4番だ。

第1楽章はFOC演奏らしく強弱調節が絶妙で良かった。力が感じられる演奏だった。そしてティンパニが本当によかった。

第2楽章はどこか切なさが感じられる遅い楽章だ。ブラームスならではの憂鬱な感じがする。実は、第2楽章を聴く時、家にいた猫が突然鳴き始めた。幸いにも第2楽章が終わって拍手が出てきて、猫を落ち着かせることができた。

第3楽章は個人的に一番好きな楽章だ。明るくダイナミックだ。FOCの速い疾走が始まる。古典曲を演奏する前に現代曲を演奏する理由がこのようなところにあると思う。速くて難しい拍子からなる久石譲のミニマル曲を演奏し、そのような感覚でブラームスを演奏すれば、さらに演奏が良くなるという推測だ。ブラームスがトライアングルまで動員して第3楽章をこのように作曲したのは、第4楽章との対比のためだろうか?

 

 

第4楽章は荘厳で奥深い楽章だった。バッハのカンタータ「主よ、我は汝を求む (Nach dir, Herr, verlanget mich. BWV150)」の最後の楽章ベースラインからもってきた単純な主題がなんと32回変奏される。変化無双の変奏の饗宴だ。悲劇的な雰囲気で終わっていく終結部が本当に印象的だった。

 

 

Brahms : Hungarian Dance No.16

 

ツィクルスの最後を飾るアンコールはやはり最も有名なHungarian Dance No.5ではないかと思いましたが、久石譲はそんなに予測可能な人物ではない!Hungarian Dance No.5がブラームスの交響曲第4番に続いてアンコールで演奏されたら、多少軽薄(?)だったかもしれない。

やや厳粛に始まるハンガリー舞曲第16番は、少し明るい雰囲気を取り戻し、明るく活気に満ちたエンディングに。このような構成が本当に良かった。

 

 

長くて忙しかった海外日程を終えてすぐにFOC、そして一週間後にWDOツアーを始める久石譲は本当にすごいと思う。ブラームス全曲を収録した全集が出れば、ベートーヴェン全集と同じくらいよく聴くことになりそうだ!FOCのおかげでベートーヴェンに続いてブラームスの魅力にもハマった!これからFOCはどのように続けられるのかも楽しみだ。

 

2022年7月18日 tendo

 

出典:TENDOWORKS|히사이시조 – Future Orchestra Classics Vol.5 콘서트 리뷰
https://tendowork.tistory.com/88

 

 

日常生活のツイッターからも、久石譲にまつわるつぶやき満載でいつも楽しませてもらっています。リアルタイムの吸収力がハンパないというか、気づかせてもらうこともたくさんあります。今回のレポートにも随所に活きていますね。すごいです。

ティンパニのこともすごいけど指揮台の高さまでって(笑)「曲の音程が高くなる部分もあって~」どこでしょう? 第1ヴァイオリンの速いパッセージのところなんかは音程下がっていましたね。もっともっとたくさんのことを掘りあててくれそうです。自分だけじゃ発見足りないところを補強してもらえるのってほんとうれしいです。一人じゃずっと気づけないままだろう的なことがわかるって楽しい。

tendo(テンドウ)さんのサイト「TENDOWORKS」には久石譲カテゴリーがあります。そこに、直近の久石譲CD作品・ライブ配信・オフィシャルYouTube特別配信をレビューしたものがたくさんあります。ぜひご覧ください。

https://tendowork.tistory.com/category/JoeHisaishi/page=1

 

 

こちらは、いつものコンサート・レポートをしています。

 

 

「行った人の数だけ、感想があり感動がある」

久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋 では、久石譲コンサートのレポートや感想、いつでもどしどしお待ちしています。応募方法などはこちらをご覧ください。どうぞお気軽に、ちょっとした日記をつけるような心もちで、思い出をのこしましょう。

 

 

みんなのコンサート・レポート、ぜひお楽しみください。

 

 

 

reverb.
本公演から一週間後WDO2022!!

 

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪

 

Overtone.第68回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.2

Posted on 2022/06/20

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.2です。

今回題材にするのは『翻訳夜話/村上春樹 柴田元幸』(2000)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

たくさんの翻訳をこなしている現役の小説家はそういません。世紀をさかのぼるほどは調べていませんが、小説家と翻訳家はそれぞれ独立した分業となっているのが現代文化の主流です。

たくさんの他作指揮をこなしている現役の作曲家はそういません。18世紀のクラシック音楽界は自作初演を作曲家自らの指揮で行うことが多かったようです。19世紀になると、指揮者として活躍したのち作曲家へと転向していったマーラーや、埋もれた過去の名作を発掘することにも貢献した作曲家メンデルスゾーンやワーグナーなどいます。20世紀になると、作曲家と指揮者はそれぞれ独立した分業をとるようになり、職業指揮者が脚光を浴びるようにもなります。作曲家と指揮者の優位性もシーソーしながら、いまなお分業となっているのが現代文化の主流です。

 

今回題材にするのは『翻訳夜話/村上春樹 柴田元幸』(2000)です。

この本は、ワークショップで行われた対談をまとめたもので、参加者との質疑応答の形で進められています。3回のフォーラムは、回ごとに学生や翻訳家と参加対象も入れ替わり、広いところから深いところまで充実した翻訳談義になっています。また、同じテキストから村上春樹と柴田元幸の訳し比べをした項もあって、音楽でいうところの聴き比べのよう、少し皮膚感覚でわかってきておもしろいです。

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

“単純に直訳でいいんだというふうに言っているわけではないですけれど(笑)。とにかく僕はそういうふうにやります、ということです。

たとえば語彙をどれだけ豊富に使うかというのが文体の一番大事なことだと思っている人もいますし、どれだけわかりにくく書くのかというのが大事なことだと思っている人もいますし、逆に、どれだけわかりやすく書くのが大事だと思っている人もいるし。いろんな要素があります。美しく書きたいとか、簡潔にシンプルに書きたいとか、おもしろく書きたいとか。自分なりのポリシーというか、文章を書くときにプライオリティのトップにくるものが、それぞれにあるはずです。

僕の場合はそれはリズムなんです。呼吸と言い換えてもいいけど、感じとしてはもうちょっと強いもの、つまりリズムですね。だからリズムということに関しては、僕は場合によってはテキストを僕なりに自由に作りかえます。どういうことかと言うと、長い文章があれば三つに区切ったり、三つに区切られている文章があったら一つにしたりとか。ここの文章とここの文章を入れ換えたりとか。

なぜそれをするかというと、僕はオリジナルのテキストにある文章の呼吸、リズムのようなものを、表層的にではなく、より深い自然なかたちで日本語に移し換えたいと思っているからです。英語と日本語のリズム感というのは基礎から違いますし、テキストの文章をそのままのかたちで訳していくと、どうにも納得できない場合がある。そう感じた場合には、僕の独断でつなぎ換えたりします。そのことに関しては「直訳派」とは言い切れないところがあるかもしれない。そのかわり、それ以外のレトリックとかボキャブラリーとか、そういうことに関してはテキストに非常に忠実にやりたいと。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲の指揮にもリズム重視なところがあります。文章の区切り方は、音楽に置き換えるとアクセントの付け方やフレージング(歌わせ方や息つぎのような)に近いとも言えるかもしれませんね。もっと直球でいうと句読点ですね。ひとつの文章のどこに「、」を打つかで流れも意味すらも変わってくることがあります。音楽も一緒でひとつのメロディのどこに「、」を打つかで全く別物のように聴こえたりします。たぶん村上さんはリズムをその文章の集合体で作っている。たぶん久石さんはリズムをその旋律の集合体で作っている。

 

「あくまのぬいぐるみ」
悪魔のぬいぐるみ
あ、くまのぬいぐるみ

「かがみみにきた」
鏡、見に来た
蚊が、耳に来た

「ここではねる」
ここで、跳ねる
ここでは、寝る

【ぎなた読み】と言われる、区切る場所で意味の変わる文章。ウェブでたくさんおもしろいの出てきますね。

 

歌もそうです。英語で歌われるか日本語で歌われるか。言葉を置き換えるときのワード選びも大変そうですけれど、言葉から生まれるリズムも変わってきます。考えてみたら、洋書は横書き、和書は縦書き。読む人のリズム感にも文化としての歴史や影響がありそうか気がしてきます。横揺れ、縦ノリ。

 

 

“とにかく相手のテキストのリズムというか、雰囲気というか、温度というか、そういうものを少しでも自分のなかに入れて、それを正確に置き換えようという気持ちがあれば、自分の文体というのはそこに自然にしみ込んでいくものなんですよね。自然さがいちばん大事だと思う。だから、翻訳で自己表現しようというふうに思ってやっている人がいれば、それは僕は間違いだと思う。結果的に自己表現になるかもしれないけれど、翻訳というのは自己表現じゃあないです。自己表現をやりたいなら小説を書けばいいと思う。”

~(中略)~

⇒⇒
ここはまた別角度からおもしろいところです。職業指揮者のカラヤンは、タイプの異なる作曲家たちの作品でさえ、まるっとカラヤン流に演奏してしまいます。カラヤン一色たんに覆ってしまいます。それによって輝き放った作品もしかり逆もしかり。一方で、村上春樹も久石譲も自己表現がしたいのであれば自分の作品(小説・音楽)で存分にできます。でもでも、他人の作品を通しても「村上春樹とわかる翻訳」「久石譲らしい指揮」というのもにじみ出てしまっていることも、また事実なんですよね。そこに自分がやる意味が現れてきてしまっている。ファンとしてはうれしい、強烈な作家性をおさえきれていない。

 

 

“なんていうのかな、翻訳していると癒やされるという感じがあるんですよね。なぜ癒やされるかというと、それは他者のなかに入っていけるからだと思うのね。たとえば僕がフィッツジェラルドという作家をこつこつと訳していると、フィッツジェラルドの考えていることや感じていることや、あるいは彼が生きている世界に、自分がスッと入っていくんですよ。ちょうど空き家に入っていくみたいな感じ。

それはやっぱり、シンパシーというか、エンパシーというか、そういう共感する心があるからですよね。だからテキストとのあいだに、作家とのあいだにそういうものがないと、僕にとっては翻訳ってやっている意味がほとんどないんです。どれだけうまく自然に有効に相手のなかに入っていけるか、相手の考えるのと同じように考え、相手の感じるのと同じように感じられるか、それが重大な問題になってきます。

これは僕が翻訳してみたいなという小説と、これはあまり翻訳したくないなという小説はたしかにありますよね。それはね、この小説は優れているとか、優れていないとか、好きとか好きじゃないとか、そういう話じゃなくて、自分が個人的にコミットできるかできないかというのが、とても大きいですよね。相性のようなものもありますし。これは素晴らしい小説だけど、僕はあまり翻訳したくない、あるいはできないだろうというケースもたくさんあります。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲の作曲家視点の指揮にも近いものがあるように感じます。演奏会のプログラムにのせるときも好き嫌いだけでは選んでない。自分がコミットできる作品、自分の指揮で観客に届けられるものがあると確信できる作品、そんなふうに感じています。一方で、著書や雑誌などで「好きな作品」と公言しているものでも、プログラムにはとんとのらないものいっぱいあります。

 

 

“一つは非常にフィジカルな実際的なリズムです。いわゆるビートですよね。僕は若い頃ずっとジャズの仕事をしていたんで、ロックも好きだけど、要するにビートが身体にしみついているんですよね。だからビートがない文章って、うまく読めないんです。それともう一つはうねりですね。ビートよりもっと大きいサイクルの、こういう(と手を大きくひらひらさせる)うねり。このビートとうねりがない文章って、人はなかなか読まないんですよ。いくら綺麗な言葉を綺麗に並べてみても、ビートとうねりがないと、文章がうまく呼吸しないから、かなり読みづらいです。”

~(中略)~

⇒⇒
”ビートは身につけやすいけれどうねりはとても難しい”とも続けて語られています。音楽でいうと何でしょうか。ビートはメトロノーム的な基本リズムや拍子だったり。うねりはグルーヴ感だったり。曲や楽章全体を引っ張っていく力・引き込む力・魅せる力、つまりは推進力といったところでしょうか。スローテンポならうねりは揺らぎだったり。心地のよい、包みこまれるような、感情を揺さぶるような。

 

 

“結局、自分で文章を解体して、どうすればこういう素晴らしい文章を書けるのかということを、僕なりに解明したいという気持ちがあったんだと思います。英語の原文を日本語に置き換える作業を通して、何かそういう秘密のようなものを探り出したかったのかな。自分で実際に手を動かさないことにはわからないこと、身につかないことってありますよね。たとえば写経と同じようなもので。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲も、コンサートでプログラムした「シェーンベルク:浄められた夜」の楽曲分析や指揮勉強のために自ら譜面に書いたというエピソードあります。その項には、モーツァルトも熱心にバッハ等を書き写し研究したこと、マーラーやショスタコーヴィチも他作を編曲することで勉強したのでは、ともありました。詳しくは『音楽する日乗/久石譲』「シェーンベルクの天才ぶりと、その目指したものは……」本を手にとって見てみてください。

 

 

“僕が翻訳にいちばん最初に興味を持ったのはカポーティなんですよね。高校時代に英文和訳の参考書にカポーティの”The Headless Harks”(無頭の鷹)の冒頭の部分がたまたま入っていまして、それを受験勉強のひとつとして和訳したんですが、あまりにもその文章が見事なので、ひっくりかえるくらい感動したんです。でもそのときも、ただ読んで「これは素晴らしい!」と感動しただけではないんですよね。それを日本語に移し換えることによって、自分も主体的にその素晴らしさに参加しているというたしかな手応えがあった。カポーティもフィッツジェラルドにしても、非常に文章が精緻ですよね。美しくて、情感があって、確固としたスタイルがあって、そういうものを自分の手で日本語に移し換えることで、なんだか心があらわれるような喜びを感じることができた。”

~(中略)~

⇒⇒
ここぐっとファンに引き寄せると、久石譲の音楽を聴いて、自分も弾いてみたいと思い練習するのと同じですよね。聴くだけでももちろん感動するけれど、自ら演奏してみたらもっと味わえること。”主体的にその素晴らしさに参加しているというたしかな手応え”という表現がとびきり素敵です。

 

 

“僕は思うんだけど、創作の文章にせよ、翻訳の文章にせよ、文章にとっていちばん大事なのは、たぶんリズムなんですよね。僕が現在形と過去形をある程度混在させるというのも、あくまでリズムを作っていくためです。原文ではひとつの文章を二つに分けたり、原文では二つの文章をひとつにまとめたりするのも、つまるところリズムのためです。そういうリズムが総合的に絡みあってこないと、その文章は「とん・とん・とん」という単調なリズムになっちゃうわけですね。「とん・とん・とん」だと人はなかなか読んでくれないです。「トン・とん・トン」というリズムが出てくると、それは人が読む文章になる。

文章っていうのは人を次に進めなくちゃいけないから、前のめりにならなくちゃいけないんですよ。どうしたら前のめりになるかというと、やっぱりリズムがなくちゃいけない。音楽と同じなんです。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲の場合は? ここはもう音楽を聴いてもらうしかない。一番説得力があると思うんです。じっくり聴いて楽しんでほしい。こういうのもありました。2分間くらい聴いて読んで、なにかつかめたりして。

久石譲 ベートーヴェン交響曲全集 / Joe Hisaishi&FOC Beethoven Complete Symphonies

from Octavia Records Inc.

 

 

“スピードって大事ですよね。たとえば僕がいま本を書いて、それが十五年後にひょいとノルウェー語に訳されたとして、それはそれでもちろん嬉しいんだけど、それよりは二年後、三年後にいくぶん不正確な訳であっても出てくれたほうがありがたいですね。それは大事なことだと思うんですよ。正確さというのは大事だけど、速度というのも決して無視できないことです。たとえば、ヴォネガットの『チャンピオンたちの朝食』。あれね、アメリカで出たときに読んで素晴らしいと思ったんです。ところが日本でなかなか翻訳が出なくて、おそらく十年以上かかってやっと出たんです。

でもそのときにはなんかもう気が抜けちゃってるのね。これは賞味期限の問題だと思うんです。小説には時代的インパクトというものがあるし、同時代的に読まなくちゃいけない作品も、やはりあると思いますよ。”

~(中略)~

⇒⇒
映画なんかわかりやすい。本国で公開されたヒット作はタイムリーに海外でも公開されたほうが望ましい。同じタイミングで広まらないと言葉や文化を越えて共感できない同時代性や空気ってあります。ハリウッドやディズニーは、世界中で受け入れられる前提で各国吹替版を同時進行で製作していますね。韓国エンターテインメントもスピード早い。日本でもヒットの予兆を感じたものは、わりとスピーディに各国公開できているのかな。ここもまたグローバルな競争です。『君の名は。』や『鬼滅の刃』が日本公開から10年後に世界でフィーバーするって…なかなか考えにくい。共感の渦はスピードと勢いがあればあるこそたしかな爪跡をのこす。

見方を変えて、久石譲音楽も翻訳されるのであるならば、やっぱり同時代的にスコアがあったほうが望ましいと僕は思います。世界各地で多く翻訳(指揮)されることで、言葉や文化を越えて共感が芽生える。そして何かを変えるかもしれない。

 

 

”うーん、というか、僕はフィッツジェラルドの短篇をいくつも訳してて、まあ、他の方ももちろん何人か訳してらっしゃって、まあ、有名な短篇であれば五、六種類は訳がありますよね。だいたいみんな自分の訳がいちばん良いと思っている。で、比べて読むとやはりずいぶん違うんですよね。さすがに文意はそんなに違わないですけど、文章というか、文体は違ってます。呼吸も違うし、雰囲気も違います。

僕はたとえばフィッツジェラルドみたいな古典作品というのは、そういう具合にいくつもの翻訳があって、いくつものヴァージョンがあって、読者が読み比べて、その中から自分のいちばん気に入ったものを選ぶというのがベストだと思うんです。それぞれの訳者の個性というものもあるし、時代による洗い直しみたいなのもあっていいはずだと思う。音楽の演奏と同じですね。たとえば、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の三番は、バックハウスの演奏があって、グールドの演奏があって、ケンプがいて、ブレンデルがいて、ポリーニがいて、そういうなかから自分の好きな演奏、肌に合う解釈を選ぶというような選びとり方ですね。だからそういう意味では、フィッツジェラルドなんかについては僕は、自分の訳したいように訳すということをある程度は意識しています。他の方とはやっぱりちょっと違う、僕なりの翻訳を作っていきたいという頭がある。決して強引にはやりたくないけれど、僕にとってのフィッツジェラルド観みたいなものをきちんと出していきたいと考えています。

ただ、そうではなくて、僕しか翻訳が出てないものに関しては、もう少しニュートラルな方向に行きたいなというふうには思っているんですよね。たとえば、カーヴァーなんかに関しては僕の訳で全集まで出ちゃって、他の人が訳しにくいケースだと思うんで、できるだけニュートラルな訳を心がけていると思うんだけれども、カーヴァーになっちゃうと、どこまでがニュートラルで、どこからがニュートラルじゃないのか、僕にもちょっと判断がつきかねる部分があるんですね、本当に。あれはやはり一般的な文章とは言いがたいですから。それと、僕はあまりにも深くカーヴァーの作品に関わってしまったから。”

~(中略)~

⇒⇒
これはもう読めばそのままよくわかる。横からうだうだ言う必要もない。だけどちょっと言っちゃう。クラシック音楽にもひとつの作品にたくさんの録音盤があります。時代の名盤、永遠の定番、現代の新版、たくさんあっていいんですよね。リスナーに選択肢が用意されているってありがたい。海外小説でも好きな作品をいくつかの訳書で読み比べてる人っています。僕にはそんな深い嗜みはないですけれど。昔はよくそんなことやるなあなんて思ってました。今はすっと受け入れられます。そっか音楽も小説もいろいろな味わいかたしたいのは一緒なんだと。

 

 

”本当は僕はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』をすごくやりたいんです。野崎孝さんの有名な訳がありまして、僕も高校時代にそれを読んで、すごくおもしろかったんですが、ただああいうものの翻訳にはやはり賞味期限みたいなものがあると思うんです。純粋に日本語の語彙の問題だけを取り上げても。だからさっきもクラシックにはいくつかヴァージョンがあっていいというふう言ったけど、並列的にもっと別のヴァージョンがあってもいいんじゃないかなと思うんですよね。一方に歴史的な名訳があり、時代に合った新しい訳が同時にあり、でいいんじゃないかと。それが一般的な読者に対する親切だと僕は思うんです。”

~(中略)~

⇒⇒
別の本では、”四十年も経過すると、我々にとってもオリジナル・テキストの意味みたいなのもけっこう変化してきます。翻訳を立ち上げる文化的背景もずいぶん変化しますし、読者の意識も変わってくるし、だいいち日本語の文体そのものが変わってくる。” と同旨語られていました。現代の位置から再評価や再検証をすることで、現代に読まれやすくなる。久石譲のいう「クラシック音楽を古典芸能にしてしまってはいけない」という発言を思い出します。

 

 

”翻訳をなぜするかという、最初の命題に戻ってきちゃうかもしれないけど、正直に言いまして、翻訳というのは苦労は多いけどそんなにお金にはならない(笑)。

だから好きじゃないとできないと僕は思うんですね。たとえば僕の場合であれば、翻訳しているよりは、たとえば自前のエッセイを書いたり、短篇書いたりしているほうが、経済的にははるかに効率がいいんです。効率ということから言えば。それでも僕が翻訳をやるのは、どうしても翻訳がやりたいからです。なぜ翻訳をやりたいかというと、それは、自分の体がそういう作業を自然に求めているからです。なぜ求めるんだろうというと、それは正確に答えるのが難しい問題になってくるんだけどたぶん、僕は文章というものがすごく好きだから、優れた文章に浸かりたいんだということになると思います。それが喜びになるし、浸かるだけじゃなくて、それを日本語に置き換えて読んでもらうという喜び、柴田さんがおっしゃったように、紹介する喜びというものもあるし……えーと、翻訳は愛だと言ったのは柴田さんでしたっけ?”

 

~(中略)~

⇒⇒
「久石譲&フューチャー・オーケストラ・クラシックス」「久石譲 presents ミュージック・フューチャー」は、古典作品と現代作品を並べる、久石譲が明日に届けたい音楽をナビゲートする、世界の最先端の音楽を紹介する、日本ではまだあまり演奏されていない音楽を紹介する。こういったコンセプトを掲げたコンサートシリーズです。

 

 

”それで英語に「他人の靴に自分の足を入れてみる」という表現がありますよね。実際に他人の身になってみるということなんだけど、翻訳って、いうなればそれと同じです。

ものを書く読むということについて言えば、実際に足を入れてみないとわからないことって、たくさんあります。自分で実際に物理的に手を動かして書いてみないと理解できないことって、あるんですよね。目で追って頭で考えていても、どうしても理解できない何かがときとしてある。

だから昔、印刷技術のないころには、写経とか、たとえば、『源氏物語』をみんなずっと写してた。これは要するに、現実的な必要に応じて、こっちからこっちに同じものを引き写すだけなんだけれど、しかしそうすることを通して結果的に、あるいは半ば意図的にかもしれないけど、人々は物語の魂そのもののようなものを、言うなれば肉体的に自己の中に引き入れていった。魂というのは効率とは関係のないところに成立しているものなんです。翻訳という作業はそれに似ていると僕は思うんですよね。翻訳というのは言い換えれば、「もっとも効率の悪い読書」のことです。でも実際に自分の手を動かしてテキストを置き換えていくことによって、自分の中に染み込んでいくことはすごくあると思うんです。”

~(中略)~

⇒⇒
「指揮してみないとわからないことってたくさんある」久石譲スタンダードです。僕らだって、好きな文章は書き写したりもするし、好きな絵は真似て描いてみたいと思うし、好きな曲はちょっと楽器でさらってみたいと思う。

 

 

”ちょっといいですか、”Collectors”、テキストの i頁、”Aubrey Bell, he said. /I don’t know you, I said.”という文章。ここの部分で、僕は前に「オードリー・ベルです、と彼は言った。/どういうご用件でしょうかね、と僕は言った」と訳したことがあるんです。でも、何で僕が”I don’t Know you.”をこう訳したかぜんぜん覚えてなくて、さっき原文を見て、ああそうかと思ったんだけど、柴田さんのは、「オードリー・ベルです、と男は言った。/存じ上げませんね、と私は言った」となっていて、これが正確な訳なんですよね。でも、僕のはこれは一段飛んじゃってるのね。”

~(中略)~

⇒⇒
具体例です。状況や気持ちをくみとった表現で訳したものとニュートラルな直訳の比較です。だいぶん印象も変わっておもしろいですね。

譜面からなにを読み取るか。前後の文脈、作曲家がそこでやりたかったこと、強調したかったメロディ以外のフレーズや楽器、感情を込めるか込めないか。一方で譜面そのままに直訳的にいくか。だいぶん印象も変わってきますね。

職業作家の村上春樹や久石譲が、他作の翻訳や指揮を手がけることの意味。職業翻訳家や職業指揮者が、時代のなかで作品を継いでいく意味。このコントラストこそが現代文化を豊かなものにしてくれているんだと思います。

 

(以上、”村上春樹文章”は『翻訳夜話』より 引用)

 

 

 

少し追加します。

同書からは離れて、第2弾『翻訳夜話2 サリンジャー戦記/村上春樹 柴田元幸』(2003)。こちらはほぼ純粋な対談になっています。ついにサリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の新訳本を発表したタイミングで行われた2回にわたる濃密な対話です。翻訳についてよりも、サリンジャーやライ麦畑についての魅力や謎についてとことん語られていて、一目散に物語が読みたくなってくるかもしれません。それはさておき。

 

“うん。「盛り上がる」は使いやすかったです。言葉自体としては既にある言葉だから。ただ翻訳というのは、もちろん小説だってそうなんだけど、今はともかくとして、それがあと三十年たって、そこで使われている言葉がどの程度アクティブに残っているか、そのへんまで考えないと成立しないところがありますよね。今うまく成立しても、三十年くらいたって若い読者に、「なんだ、これ。これが若者のバイブルなの?」とか言われる可能性があるような言葉は、極力削りたいなと思います。場違いな単語ひとつで、作品という前提そのものが崩れちゃう可能性ってあうわけだから。そういう観点から、「シブい」という言葉は使わなかったですね。「シブい」は、「いかす」と同じようにけっこう古くなっていくような気がするんです。じゃあ。「マジな」が残るのかと聞かれたら、うまく説明できないんだけれど、「マジ」というのはそれなりに残るんじゃないかなあと。このへんはもうあくまで個人的な勘でしかないですね。”

(『翻訳夜話2 サリンジャー戦記/村上春樹 柴田元幸』より 一部抜粋)

 

⇒⇒
上のほうでも”翻訳には賞味期限がある”と語られていましたけどより具体的に。時代によって訳も変わってしかりというか変わっていかないといけない。それがよくわかります。今はもっと適切な日本語はあるし、今は使えない語句やスラングもある。時代性を反映しながら未来まで見すえながら。

 

2021年の久石譲インタビューから。

”僕がやりたいのは新しいクラシック。古典を古典のまま古典っぽくやることではない。現代に生きる音楽、現代に聞くべき音楽のひとつとして、クラシックを提供したい”

”10年後、20年後のスタイルを先取りする。それが作曲家ならではの指揮だと思う”

Info. 2021/04/25 ジブリ名曲生んだ久石譲 70歳でオケ首席客演指揮者に (日本経済新聞より)抜粋)

 

 

 

村上春樹にみる翻訳。久石譲にみる指揮。だぶるように透けるように、うっすら見えてきたのならうれしいです。ちょっとこじつけが過ぎるよ!抜き出し方が作為的だ!……そんなことにはならない印象で自然にすうっと入ってくるとうれしいです。

共通点もあります。古典や名作だけではなく埋もれていた傑作やまだ日本には紹介されていない重要作品までと、時代を現代にまで広げてナビゲートしていることです。村上春樹でいえば現役作家の翻訳もしていますし、久石譲でいえば現役作曲家の指揮もしています。

ファンにとって読書や鑑賞の幅を広げてくれます。読み方や聴き方にも変化を運んでくれます。好きな人から提供されなければ自らは出会うこともなかったものに今触れている。それは巡り巡って村上春樹の久石譲の作品をもっと好きになっていく。新しい魅力や感動へと連れていってくれます、きっと。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
目と耳が忙しくなるから村上春樹×久石譲の読書タイムはしない主義♪

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第67回 「トップガン:マーヴェリック オリジナル・サウンドトラック」を聴く

Posted on 2022/06/04

ふらいすとーんです。

臨時号もとい勢いメモのようなものです。

大ヒット映画『トップガン』(1986年)の続編が36年の時を経て。世代を越えて知らない人はいない映画、あるいは知らない人のいない俳優トム・クルーズです。リアルタイム・ジェネレーションに関係なくおさえておきたいお祭りのような新作映画です。

スタジオジブリ作品でいうと『天空の城ラピュタ』の続編がなんとここにきて…みたいな。そんなことはないんですけれど。でも公開年は1986年と同じです。

 

僕はただただ観たくて楽しみにしていた映画です。前作の記憶もトリビアもほとんど持っていません。よくテレビでも放送されてたなくらい。そうジブリ映画のように。なので最新作も復習することなく未知の新しい映画を見る心持ちで手ぶらで映画館に行きました。そこには、音楽を大音量で浴びたかった、これはあります。

映画のストーリーに触れることなく音楽の話を進めたいと思います。きっかけは、たまたまサントラレビュー見てたら評価が低かったからです。ちょっとショック。それだけです。もっとインスト曲にも愛着をもってもらえたらいいなと願いを込めて。

 

 

まとめから言います。この映画音楽は3つの主要曲で出来上がっています。メインテーマ「Top Gun Anthem」、前作挿入歌「Danger Zone」、本作主題歌「Hold My Hand」です。歌もの2曲もインストゥルメンタルとしてスコアになっています。

たまたまチラ見したレビューは、ちょっと辛口でした。残念、期待ハズレ……。その理由を拡大すると歌曲とインスト曲のバランスのような印象を受けました。たしかに本盤全12曲は歌4・インスト8です。前作はというと、調べてみると日本盤全10曲は歌9・インスト1、海外盤全15曲は歌13・インスト2でした。

ジェネレーションギャップを乗り越えましょう。1980~1990年代はサウントドトラック全盛期でもありました。それは、ポップスを詰め込んだヒット狙いのコンピレーションです。人気アーティストの曲を集めたオムニバスです。

ポジションギャップを乗り越えましょう。本盤はスコアです。インストゥルメンタルによる正統なオリジナル・サウンドトラックへとウェイト占めています。だから、なにを期待するかで物足りなく思ってしまうのもすごくわかります。だから、インスト曲にも少しでも愛着をもってほしいという気持ちでいっぱいです。

 

 

トップガン マーヴェリック オリジナル・サウンドトラック
TOP GUN: MAVERICK

ハロルド・フォルターメイヤー & レディー・ガガ & ハンス・ジマー & ロアン・バルフェ

1.Main Titles (You’ve Been Called Back to Top Gun)
2.Danger Zone Kenny Loggins
3.Darkstar
4.Great Balls Of Fire (Live) Miles Teller
5.You’re Where You Belong / Give ‘Em Hell
6.I Ain’t Worried OneRepublic
7.Dagger One Is Hit / Time To Let Go
8.Tally Two / What’s The Plan / F-14
9.The Man, The Legend / Touchdown
10.Penny Returns (Interlude)
11.Hold My Hand Lady Gaga
12.Top Gun Anthem

日本盤CDボーナストラック
13.キャニオン・ドッグファイト Canyon Dogfight

 

(インスト曲を太字にしました)

 

 

[A] Top Gun Anthem

3つの主要曲で出来上がっているサントラです。そのひとつは、もちろん前作から引き継がれた永遠の曲です。メインテーマです。

 

Harold Faltermeyer, Lady Gaga, Hans Zimmer, & Lorne Balfe – Main Titles

from Interscope Records (Official Audio)

 

「1.Main Titles (You’ve Been Called Back to Top Gun)」「3.Darkstar」「7.Dagger One Is Hit / Time To Let Go」「8.Tally Two / What’s The Plan / F-14」「9.The Man, The Legend / Touchdown」「12.Top Gun Anthem」で使われています。

「1.Main Titles」は、まるで前作からカムバックした興奮と熱気冷めやらぬアンセム。この新しいリズムパターンは個人的に好みなのでさらにツボです。それ以外のところは1986年の「Top Gun Anthem」を純粋に継承しているようでした。エレキギターパートは大きくカットされています。あとはアレンジも変わっていないしキーも同じハ長調C(これは12.Top Gun Anthemで変化!の伏線です。あとで回収します。)になっています。

 

Harold Faltermeyer, Lady Gaga, Hans Zimmer, & Lorne Balfe – Darkstar

from Interscope Records (Official Audio)

「3.Darkstar」は、メロディこそハッキリ登場しませんが伴奏のコードワークはメインテーマのそれです。だから鳴っていなくても頭のなかではメインテーマ歌えます(01:10-01:25)。それからメインテーマの断片のようなものがたびたび登場しています(01:00-,01:25-,02:15-)。こじつけじゃないか!?そんなことはないですよ。「1.Main Title」(02:10-)で最後にちゃんと登場しているモチーフです。まるでこの物語のはじまりに、これからどんどん登場してくるモチーフだと暗示しているかのように。

 

「7.Dagger One Is Hit / Time To Let Go」は、曲名からわかるとおり2つの曲から構成されています。後半のほうに聴くことができます。ホルンの短調な旋律に変化しています(04:20-)。メインテーマのバリエーションと聴きました。

「8.Tally Two / What’s The Plan / F-14」は、3つの曲から構成されています。その中盤のほうに「3.Darkstar」と同じでメインテーマからのモチーフ(01:45-,02:05-)を聴くことができます。

「9.The Man, The Legend / Touchdown」は、2の曲から構成されています。前半のほうに思いっきりメインテーマ聴くことができます。

「12.Top Gun Anthem」は、メインテーマです。でも「1.Main Title」とはたしかに違う。これは一番最後にとっておきましょう。

 

もしTop Gun Anthemが好きなら。こんなにも映画全体を包むように押さえどころで登場している。もっとサントラ盤に愛着わいたならうれしいです。

 

 

[B] Danger Zone

3つの主要曲のひとつです。前作でも印象深い挿入歌は、本作でもそのまま使われています。

 

Kenny Loggins – Danger Zone (Official Video)

from Kenny Loggins Official

 

「2.Danger Zone」です。この歌は本作で巧妙にスコアになっています。3つの主要曲から料理しているなかで一番の魅せどころといってもいいほどです。職人技が光っています。

「3.Darkstar」「5.You’re Where You Belong / Give ‘Em Hell」「7.Dagger One Is Hit / Time To Let Go」「8.Tally Two / What’s The Plan / F-14」で使われています。

 

「3.Darkstar」は、[A]Top Gun Anthemのところでも紹介しています。「2.Danger Zone」の歌詞”Haiway to the Danger zone”と歌っている箇所は「ソ・ファ・ミ・ド・レ」です。そのモチーフを聴くことができます(00:30-)。低音ストリングスで何回も出てきます。ときに速いフレーズにもなって(00:50-,01:05-)。以降もこの8分音符と16分音符を入れ替えながら、まるで空中で機体たちが交錯するようにスリリングさと疾走感ましましです。

 

Harold Faltermeyer, Lady Gaga, Hans Zimmer, & Lorne Balfe – You’re Where You Belong / Give ‘Em Hell

from Interscope Records (Official Audio)

「5.You’re Where You Belong / Give ‘Em Hell」は、2つの曲から構成されています。後半のほうに聴くことができます。ここなんかわかりやすいですね(02:50-,03:05-,03:20-)。同じ曲想になっているので先に解説した「3.Darkstar」のモチーフが説得力をもってくると思います。モチーフの歌う長さを効果的に伸縮させて。そしてホルンで力強く歌われます(04:55-)。ハーモニーを変えること(Dm-B♭, F-C)でくり返しでも高揚感がどんどんアップします。

 

Harold Faltermeyer, Lady Gaga, Hans Zimmer, & Lorne Balfe – Dagger One Is Hit / Time To Let Go

from Interscope Records (Official Audio)

「7.Dagger One Is Hit / Time To Let Go」は、[A]Top Gun Anthemのところでも紹介しています。前半のほうで聴くことができます。…ここは少し飛躍して僕は聴くことができると思っています…。Danger Zoneモチーフのバリエーションとして(01:00-)。反転したというか逆方向へ流れているように。「ソ・ファ・ミ・ド・レ」と高い音から低い音へ降りてくるモチーフが、「ド・レ・ミ・ファ・ソ」と低い音から高い音へ昇っています。先の「3.」「5.」と同じ曲想なこと、さらに「5.」のホルンで力強く歌われる箇所と同じハーモニーの変化をしていること。たっぷりと繰り返されるので(-02:20)聴いてみてください。ここを現実と過去とのオーバーラップ、過去へのフラッシュバック、そんな時間軸の逆流とみるのもおもしろいです。

 

Harold Faltermeyer, Lady Gaga, Hans Zimmer, & Lorne Balfe – Tally Two / What’s The Plan / F-14

from Interscope Records (Official Audio)

「8.Tally Two / What’s The Plan / F-14」は3つの曲で構成されています。ハーモニーの変化(01:20-)、Danger Zoneモチーフ(01:35-)、その間を縫うように[A]Top Gun Anthemモチーフも登場(01:40-)とそんな感じで進んでいきます。ベースの踏み上がり(02:25-)は、「5.」(03:35-,05:25-)でも先に出てきていました。そしてホルンとストリングスで力強く歌われます(02:35-)。

こんな聴きかたもしました。緊張感に拍車をかける低音ストリングスもDanger Zoneモチーフのバリエーション(03:20-)じゃないのか。「レラ、ソラ、レファ、ミド」のくり返しです。「レラ、レファ、ミ」と太字の音符に注目すると「ラ・ソ・ファ・ド・レ」のDanger Zoneモチーフから散りばめられたものだと思えてきます。終結部あたりは聴こえやすいかもしれません(04:00-)。

 

もしDanger Zoneが好きなら。インスト曲たちがあの名曲をもとにして作られてる。もっとサントラ盤に愛着わいたならうれしいです。

 

 

[C] Hold My Hand

3つの主要曲のひとつです。本作主題歌として新たに書き下ろされた新曲です。

 

Lady Gaga – Hold My Hand (From “Top Gun: Maverick”) [Official Music Video]

from Lady Gaga Official YouTube

「5.You’re Where You Belong / Give ‘Em Hell」(前半)、「9.The Man, The Legend / Touchdown」(後半)、「10.Penny Returns (Interlude)」で使われています。聴けばそれと教えてくれるインストゥルメンタル・アレンジです。

映画のなかでたびたびメロディが登場し、「11.Hold My Hand」レディー・ガガによる歌が流れます。どのシーンに使われていたか、どの登場人物のときによく聴くことできたか。注目ポイントです。

 

もしHold My Handが好きなら。新作はこの曲なしじゃ語れない。もっとサントラ盤に愛着わいたならうれしいです。

 

 

[A] Top Gun Anthem + [B] Danger Zone + [C] Hold My Hand = New “Top Gun Anthem”

3つの主要曲から出来上がっているサントラと紹介してきました。だったら「12.Top Gun Anthem」は[A]に出てきています。違うんです。一味違うです。最後です!ロックオン!回収していきましょう!

 

Harold Faltermeyer, Lady Gaga, Hans Zimmer, & Lorne Balfe – Top Gun Anthem

from Interscope Records (Official Audio)

 

まず、聴いて思うのは「1.Main Title」の別アレンジね。っていうかほとんど一緒だけど…ということになります。そんなことはありません!よくよく聴いていくと、この曲は本作のためだけの曲にちゃんとなっています。

キーが違います。「1.Main Title」はハ長調Cでしたが「12.Top Gun Anthem」はニ長調Dです。たまたまかもしれません。でもそこにあえて意味づけをしてみましょう。カラオケでいうと原キー+2です。前作から旋回して物語をとおして上昇して。デンジャーゾーン(任務,人間関係,など)を克服してクリアして。そうです、そんなスケールアップ、ステップアップ、レベルアップを象徴したキーの垂直飛行と受けとることもできます。そして強く光が射しこめる。

 

[B] Danger Zone で解説したモチーフもストリングスで登場しだします(01:00-)。レの同音連打に続いて繰り出される16分音符のモチーフ。マッハの目盛りの刻みと速さを体感できるようです。ゾクゾク!間奏を挟んで2コーラス目にはよりハッキリと浮かび上がってきます。ゾクゾク!

 

[C] Hold My Hand は一見どこにもないように思います。でもどこかに隠れているような気もします。2コーラス目!レディー・ガガの歌のサビを重ねて鼻歌できませんか(01:30-01:40)。何言ってんだ?妄想??

「11.Hold My Hand」はト長調Gで歌われています。そのサビの部分のコード進行はG-D-Em-Cです。これを「12.Top Gun Anthem」のニ長調Dのキーに置き換えるとD-A-Bm-Gです。そして鼻歌してみてほしかった箇所のコード進行はD-A/E-Bm-Gです。同じコードの動きをしてるから重ねることができるんです。どうしてこんなに強く言うか、「1.Main Title」もふくめてトップガン・アンセムでこのコード進行が現れるのは唯一この曲だけだからです。もちろん1986年前作にもない。

小難しいことはさておき、鼻歌で歌えたなら、頭のなかでメロディ重ねることできたなら、たぶん回答としてはOKなんじゃないかと思っています。曲が進むにつれてコード進行は少し変化しているので、ずっとあわせてガガのサビは歌えません。

 

2022年公開されたこの新作トップガンは、「12.Top Gun Anthem」によってニュー・トップガン・アンセムとして結晶化しているんだ!という強い気持ちを押し通します。祝福のアンセム。

 

 

3つの主要曲 早見表

[A] Top Gun Anthem
Track-1,3,7,8,9,12
[B] Danger Zone
Track- (2:song),3,5,7,8,12
[C] Hold My Hand
Track-5,9,10,(11:song),12

 

見てびっくりです。こんなことになってたんだ。3つの主要曲からのメロディやモチーフが縦横無尽に各曲飛び交っています。だから、この曲が好き!とあったら、それにつながるほかのトラックもぜひ聴いてみてほしいです。そんなところでそんな鳴り方してたんだね、と出会いが待っています。

 

ダメ押しです。

本盤は、ボーカル曲(2,4,6,11:うち2,11は主要曲/うち4,6は本作スポット曲)はそのアーティスト名がクレジットされています。あとの全てのインスト曲は、アーティスト名が【ハロルド・フォルターメイヤー & レディー・ガガ & ハンス・ジマー & ロアン・バルフェ】とクレジットされています。

最初これ見たとき、え手抜き?と思ったんですけど、そうじゃないですね。ハロルド・フォルターメイヤーは「Top Gun Anthem」作曲者、レディー・ガガは本作主題歌「Hold My Hand」作曲者、そしてそれらの楽曲も素材として巧妙にスコアを作り上げているハンス・ジマーとロアン・バルフェの作曲家。すべてのインスト曲は3つの主要曲から各々の素材を選び抜いて料理しているから、アーティスト名は連名になっている。本当は曲ごとに中心になって制作している人いるのに。お互いへのリスペクトも表しているように感じます。もちろんそこには、主要曲の持ち主(作曲者)がはっきりしているからうやむや感なくできること、どのアングルから捉えてもトップ・クオリティなプロたちです。

 

 

おまけ

ハリウッド映画はサントラデータベースも盛んです。サウンドトラックには収録されていない、映画使用曲(エンドロールにクレジットされている)もすぐに情報コンプリートされます。『トップガン: マーヴェリック』のあのシーンのあの曲が知りたい、そんな生粋ファンの人はお目当ての曲を見つけられるかもしれません。

参考:Top Gun: Maverick Soundtrack Music – Complete Song List | Tunefind
https://www.tunefind.com/movie/top-gun-maverick-2022

 

サントラ日本盤CDボーナストラック「Canyon Dogfight」もあります。この曲は、クライマックスの空中線で使われた曲でマストトラックです。共通収録されていないのがなんとも惜しい。これを持っていれば、つづけて「9.The Man, The Legend / Touchdown」へと物語も音楽も最高のクライマックスなんだけどな。映画大ヒットでサントラ完全盤とか発売されたりして…そのときにはきっと入るでしょう。そのくらい必須な曲です。

 

 

オーケストラセクション レコーディング風景 (2022.06.29 追加)

オーケストラとシンセサイザーに分解したらこんなふうになってるんだ。新鮮です感動です。ロアン・バルフェはクレジット作曲家のひとりです。

 

Top Gun: Maverick | Top Gun Anthem (約2分)

 

Top Gun: Maverick | Darkstar (約3分)

from Lorne Balfe Official YouTube

 

 

映画の感想

映画館で見たい映画です。迫ってくる映像、体に響いてくる轟音、それはもうアトラクションのような体感ができます。前作を見ていなくても存分に楽しめます。もちろん見たほうがもっと楽しめます。でも、おいてけぼりにはしない丁寧なストーリーづくりです。本作を見る前見た後どちらでも。そうしてまた見たくなってくる旋回です。

 

 

 

編集後記 ~サントラの聴きかた~

まずはじめに。書いてきたことはすべて正解ではありません。僕はそう聴いた、そう聴こえた、それだけです。なんだそれ!総ツッコミ入りそう。僕なりに聴いたその理由を整理してみます。

1.仮説
このサントラは3つの主要曲から出来上がっていると最初に書きました。この仮説を前提条件にしているので、各曲に登場するメロディやハーモニーからちょっとしたフレーズまで、すべて3つの主要曲に紐づけられるのでは、という仮説で進めています。

2.必然性
作品を越えたところで、このメロディなにかに似てるよね、であればスルーします。でも、同じ作品のなかに似ているもの近しいものが登場した場合、それは見逃せなくなります。偶然性よりも必然性を論じなければならない、なんてね。曲想の共通性、どのシーンで使われているか、登場人物の共通性などなど、なんらかの方程式があるはずと考えます。なんとなくじゃなくて、使われる曲と使われる場面はしっかり音楽設計されている。その謎解きこそがサントラでしか味わえない楽しみ方です。

3.反復
一度じゃない、複数にわたって登場したとき、そのメロディやモチーフは意味をもってきます。同じことを2回3回と反復することで意味が生まれます。登場人物でもそうですね。一度登場するくらいならエキストラかもしれないし、そのシーンのスポット投入やアクセントだったりで、因果関係も生まれない。でも2回以上登場すれば、なにかしら必要な役割を与えられていることになります。だから、音楽的に一曲のなかで反復しているもの、あるいは曲をまたいで反復登場しているものって注目しなきゃとなります。

4.目と耳
人は同じものを見ていても同じようには見えていないとよく言いますね。耳もそうだと思います。同じものを聴いていてもきっと同じようには聴こえていない。だからおもしろい。お互いの聴こえかたを知りたいならすり合わせたいなら、自分はこう聴こえてると伝えられないと始まらない。そのコミュニケーションが実るとおもしろいですね。

一方では、人は自分の見たいように見るものなのかもしれません。耳もそうだと思います。自分の聴こえたいように聴いてしまう。もし、つまらないって思って聴けばそれはつまらなくしか聴こえないだろうし、ありきたり…どれも似てる…そう思って聴けばそうとしか聴こえないかもしれません。あるいは、独りよがりに突っ込みすぎて、なかなか周りから共感を得にくい個性的な聴きかたをしているってこともあるかもしれません。

 

おわりに。書いてきたことはすべて正解ではありません。僕はこう聴いた。そしてとても充実して楽しめるサウンドトラックでした。少しでも共感してもらえることがあったならうれしいです。もっとサントラに愛着わいてきて、今までとは聴こえかたが変わったり、新しい聴こえかたがしてきたのならとてもうれしいです。

 

 

 

一枚の絵も写真もどこを見てるか。トム・クルーズにしか目がいかない。機体マニア。はたまた色味、アングル、構図など。曲もそうです。メロディに耳がもっていかれる。音色マニア。はたまたリズム、曲順、構成など。聴く人によってフォーカスポイントが違うからおもしろい。それをわかち合いたいから話す。するともっとおもしろくなる。

いやあ、雰囲気?感覚?で見てるかな、直感?で好きな曲かな……。うん、その感覚が一番大切ですね。自分の目を、自分の耳を信じましょう!

 

それではまた。

 

reverb.
また映画館にリピりたい映画です!反復して鑑賞するということは僕のなかでなにか価値が生まれている映画なのかもしれません(^^)

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第66回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.1

Posted on 2022/05/20

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.1です。

今回題材にするのは『若い読者のための短編小説案内/村上春樹』(1997/2004)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

村上春樹バイオグラフィー的なものは飛ばします。とても音楽に造詣が深いことでも有名です。ジャンルはジャズ、クラシック、ロックと広く、自身がDJを務めるラジオ番組では愛聴曲たちをたっぷり紹介しています。音楽にまつわる文章も、ジャズ本・クラシック本・エッセイ・雑誌インタビュー・対談本と数多く発表しています。視点を本業の小説活動に移しても、ほんと音楽が体に染みついている人なんだなだとわかります。多くの小説にバラエティ富んだ楽曲が登場し、小説によって音楽がリバイバルヒット、はたまた廃盤CDが復刻される現象も起こるほどです。小説を発表すると、出版業界から音楽業界まで賑わせてしまう人。

 

今回題材にするのは『若い読者のための短編小説案内/村上春樹』(1997/2004)です。

この本は、実際のアメリカでの講義にも沿っているようですが、村上春樹が自作ではなく他作を取り上げ、短編小説を深く読んでみよう、こういう読み方もできると思う、とかなり深く突っ込んだ内容になっています。

取り上げたいのは、2004年文庫化のときに加えられた「僕にとっての短編小説──文庫本のための序文」からです。約20ページからなるこの項に、僕がテーマとして紐解きたいことがたっぷり語られているのですが、すべては紹介できない。でもぶつ切りな切り貼りはしたくない。自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

“僕は自分自身を、基本的には長編小説作家であるとみなしています。僕は数年に一冊のペースで長編小説を書き(更に細かく分ければ、そこには長めの長編と、短めの長編の二種類があるわけですが)、ときどきまとめて短編小説を書き、小説を書いていないときにはエッセイや雑文や旅行記のようなものを書き、その合間に英語の小説の翻訳をやっています。考えてみれば(あらためてそういう風に考えることはあまりないのですが)守備範囲は広い方かもしれません。ジャンルによって文章の書き方も少しずつ変わってきますし、長編・短編・エッセイ・翻訳、どの仕事をするのもそれぞれに好きです。要するに早い話、どんなかたちでもいいから、文章を書くという作業に携わっていることが、僕は好きなのです。またそのときどきの気持ちに応じて、いろんなスタイルで文章を書き分けられるというのはとても楽しいことだし、精神バランスの見地から見ても、有益なことだと思っています。それは身体のいろんな部分の筋肉をまんべんなく動かすのに似ています。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲もオリジナル作品(そこにも大きめの作品と小さめの作品の二種類があります)を発表しつづけていますね。映画・TV・CMなどのエンターテインメントのお仕事も話題が途切れることはありません。コンサートも久石譲プログラムからクラシック演奏会まで多種多彩にしてすべて久石譲指揮です。あらためて言うまでもなく守備範囲は広いです。エンターテインメントな大衆性とアーティスティックな芸術性のバランスをとりながら。そして、すべての仕事が長編小説の肥やしとなり結実しているように、すべての仕事がオリジナル作品(たとえば交響曲)の肥やしになり結実しているように思います。

 

 

もちろん読者の中には、「いや、村上さんの書くものの中では短編小説がいちばん好きです」という人もいらっしゃいますし、「村上の小説は苦手だけど、エッセイは好きだ」という人もおられます。それはそれでもちろんありがたいのですが(お前の書いたものはどれもみんな同じくらい嫌いだ、と言われるよりはずっといいですよね)、でも僕自身としては、小説家になって以来二十五年間、長編小説という形体にもっとも強く心を惹かれ続けてきたし、また実際にもっとも多くの労力と時間を長編小説の執筆に投入してきたのだ、ということになります。生意気な言い方かもしれませんが、僕より上手な優れた長編小説を書く作家はもちろんいるけれど、僕が書くような長編小説を書ける作家はほかに一人もいないはずだ、という自負のようなものもあります。自分の書く長編小説に、ささやかではあるけれど自分だけのシグネチャー(署名)を残すことができるのだ、という自負です。もちろん僕が書いた長編小説は好まれたり好まれなかったりするし、評価されたりされなかったりもします。しかしそれとはべつに、長編小説というのは、作家としての僕が一生を通して真剣に追求しなくてはならない分野であると、僕自身は感じているわけです。”

~(中略)~

⇒⇒
「僕が書くようなオリジナル作品を書ける作曲家はほかに一人もいないはずだ」、ご本人がそう思っているかどうかはわかりませんが、ミニマルな要素と日本的な要素をしっかりと作品に刻みこむことで、久石譲だけのシグネチャーをたしかに残しています。大いに自負していただいてしかりです。独自性をもった交響作品・現代作品を系譜として発表しつづけている稀有な人です。

 

 

“それに比べると、短編小説を書くことは多くの場合、純粋な個人的楽しみに近いものです。とくに準備もいらないし、覚悟みたいな大げさなものも不要です。アイデアひとつ、風景ひとつ、あるいは台詞の一行が頭に浮かぶと、それを抱えて机の前に座り、物語を書き始めます。プロットも構成も、とくに必要ありません。頭の中にあるひとつの断片からどんな物語が立ち上がっていくのか、その成り行きを眺め、それをそのまま文章に移し替えていけばいいわけです。もちろん「短編小説なんて簡単に書けるんだ」と言っているわけではありません。ひとつの物語を立ち上げていって、それを完成させるというのは、なんといっても無から有を創り出す作業なわけですから、片手間にひょいひょいとできることではありません。ときには呼吸することを忘れてしまうくらいの──実際に忘れることはたぶんないでしょうが──鋭い集中力が、そしてもちろん豊かなイマジネーションが、要求される作業ではあります。”

~(中略)~

⇒⇒
宮崎駿監督から渡されたメモや絵をきっかけに。原作小説の印象やイメージをきっかけに。あの楽器を使ってみようというアイデアをきっかけに。ひとつのメロディをきっかけに。音楽を立ち上げていく過程にもいろいろありそうです。

 

 

“「その女から電話がかかってきたとき、僕は台所に立ってスパゲティーをゆでているところだった」という一行から短編小説を書き始めたことがあります。それ以外に僕の中にはとくに何のアイデアもありませんでした。ただの一行の文章です。一人でお昼にスパゲティーを茹でているときに電話のベルが鳴る、というイメージが頭にふと浮かびます。それは誰からの電話だろう? 彼は茹でかけのスパゲティーをどうするのだろう? そういう疑問が生まれます。そういう疑問を招集して、ひとつの物語に換えていくわけです。それは『ねじまき鳥と火曜日の女たち』という短編小説になりました。400字詰め原稿用紙にして八十枚くらいの作品です。

その短編を書き上げて、雑誌に発表して、単行本に収録して、五年ばかり経過してから、僕はその短編『ねじまき鳥と火曜日の女たち』をもとにして長編小説を書き始めました。時間が経過するにつれ、その物語には、短編小説という容れ物には収まりきらない大きな可能性が潜んでいるのではないかと、強く感じるようになったからです。その可能性の重みを、僕はしっかりと両手に感じとることができました。そこには未知の大地に足を踏み入れていくときのような、わくわくした特別な感覚がありました。二年の歳月ののちに、それは『ねじまき鳥クロニクル』という作品として結実しました。二千枚近い枚数の、かなり長大なフィクションです。考えてみれば、「その女から電話がかかってきたとき、僕は台所に立ってスパゲティーをゆでているところだった」という一見なんでもない一行から、思いもかけずそのような大柄な作品が生まれることになったのです。

そのように僕は短編小説を、ひとつの実験の場として、あるいは可能性を試すための場として、使うことがあります。そこでいろんな新しいことや、ふと思いついたことを試してみて、それがうまく機能するか、発展性があるかどうかをたしかめてみるわけです。もし発展性があるとしたら、それは次の長編小説の出だしとして取り込まれたり、何らかのかたちで部分的に用いられたりすることになります。短編小説にはそういう役目がひとつあります。長編小説の始動モーターとしての役目を果たすわけです。僕はほかにも同じように、短編小説をもとにしていくつかの長編小説を書きました。『ノルウェイの森』は『螢』という短編小説を発展させて書きました。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という長編小説は『街と、その不確かな壁』という百五十枚程度の作品が下敷きになっています。

もちろん短編小説に与えられているのは、そういう役目だけではありません。僕は長編小説にはうまく収まりきらない題材を、短編小説に使うことがよくあります。ある情景のスケッチ、断片的なエピソード、消え残っている記憶、ふとした会話、ある種の仮説のようなもの(たとえば激しい雨が二十日間も降り続けたら、僕らの生活はどんなことになるだろう?)、言葉遊び、そういうものを思いつくままに短い物語のかたちにしてみます。たとえば『トニー滝谷』という短編小説は、マウイ島の古着屋で買ったTシャツの胸に「トニー・タキタニ」という名前がプリントしてあったことから生まれました。「トニー・タキタニっていったいどんな人なのだろう?」と僕は想像し、それでこの作品を書き始めたわけです。「トニー・タキタニ」という言葉の響きひとつから、物語を作っていったわけです。”

~(中略)~

⇒⇒
少し長い引用でしたけれど、一番伝わりやすいと思い選びました。短編小説が長編小説へと膨らんでいくさま。短編小説をエンタメ音楽に、長編小説をオリジナル作品に、置き換えてみてもう一度読んでみてください。──おもしろいですね。ちょっと遊んで枚を秒にしてみます。80枚の短編が2000枚の長編になる=1分20秒(80秒)の小曲が約33分(2000秒)の長大な作品になったりするわけですね。おもしろいですね。

 

 

“そのような様々な試みがあって、中にはうまくいったと思えるものもありますし、残念ながらあまりうまくいかなかったものもあります。しかし短編小説というのは基本的にそれでいいのではないかと、僕は考えます。極端な言い方をすれば、「失敗してこその短編小説」なのです。うまくいくものもあり、それほどうまくいかないものもあって、それでこそ短編小説の世界が成り立っているのだと僕は思います。何から何まで傑作を書くことなんて、どんな人間にもできません。波があって、それが上がったり下がったりします。そして波が高くなったときに、そのタイミングをつかまえて、いちばん上まで行くこと、おそらくそれが短編小説を書く優れた作家に求められることです。僕は短編小説を書くときには、いつもそんな風に考えています。

逆の言い方をすれば、作家は短編小説を書くときには、失敗を恐れてはならないということです。たとえ失敗をしても、その結果作品の完成度がそれほど高くなくなったとしても、それが前向きの失敗であれば、その失敗はおそらく先につながっていきます。次に高い波がやって来たときに、そのてっぺんにうまく乗ることができるように助けてくれるかもしれない。そんなこと長編小説ではなかなかできません。一年以上かけて行われる大事な作業ですから、「まあ今回これは失敗でもいいや」というわけにはいかないのです。その点短編小説だと、危険を恐れずに、ある程度まで自由に好きなことができます。それが短編小説のいちばんの利点であると思います。たとえば僕は長いあいだ三人称で長編小説を書くことがうまくできなかったのですが、短編小説で三人称を書く訓練をして、それに身体を馴らしていって、その結果かなり自然に違和感なく三人称を使って長いものが書けるようになりました。”

~(中略)~

⇒⇒
”短編小説は実験の場、可能性を試す場”と語っています。アイデアをかたちにしてみる、新しいことに挑戦してみる機会とも言えます。なるほど、「ダンロップCM音楽」からオリジナル作品へと発展させた「Variation 57 for Two Pianos and Chamber Orchestra」なんかもあります。また久石譲が追求している単旋律(Single Track Music)手法は、小さな曲や小さな編成から試されながら、手応えと磨きあげをもって交響作品でしっかりとのこされています。

 

 

“このようにして短編小説をいくつかまとめて書くと、僕の場合、必ずその次に長編小説が書きたくなる時期がやってきます。短編小説を書いているのは楽しいのですが、だんだんそれだけでは足りなくなってくるのです。もっともっと大きな物語に取り組んでみたいという思いが高まってきます。そういうエネルギーが、雨水がちょっとずつ桶に溜まるみたいに、身体に次第に蓄積されてくるわけです。そのエネルギーの溜まり具合から、「この感じだと、あと三ヶ月くらいで長編小説を書き始めることになるだろうな」というようなことも予測できます。それがどれくらいの厚さの本になるかということだって、だいたい見当がつきます。

そのように、短編小説は、長編小説を書くためのスプリングボードのような役割も果たしています。もし短編小説を書くことがなかったら、僕がこれまで書いてきた長編小説は、今あるものとはずいぶんかたちの違うものになっていたのではないかと思います。短編小説である種のものごとをうまく書ききってしまえるからこそ、僕はそのあとまっすぐ長編小説に飛び込んでいくことができるわけです。あるいはまた短編小説で書ききれないものごとが見えてくるからこそ、長編小説の世界に挑みたいという気持ちも高まってくるわけです。そういう意味あいにおいても、短編小説は僕にとってきわめて大事なものであるし、それはまたなにがあろうと、うまく自然に書かれなくてはならないわけです。”

~(中略)~

⇒⇒
「エンターテインメントの仕事をするなかでの葛藤やフラストレーションが、自分の作品をつくることへと向かわせてきた」久石譲スタンダード語録です。作家同士のシンパシーを感じてしまう一面でした。短編と長編、エンタメ音楽とオリジナル作品。

 

 

“そのように短編小説には、時間をおいて手を入れる、書き直すという喜びもあります。長編小説を書き直すとなると、ものすごくエネルギーと手間が必要になりますし、一部を書き直すと全体のバランスが違ってくることもあるので、まずやりませんが、短編小説の場合は比較的簡単に書き直すことができます。もちろんすべての短編小説にそういうことが可能だというわけではありません。もはや書き直せないというものもありますし、書き直す必要を認めないというもの(完璧な出来だということではなく、あくまでその必要がないということです)もあります。でも「これは書き直した方が明らかによくなるな」というものもやはりあるわけです。短編の書き直しは、主として技術的な見地から行われます。しかし全体から見れば、「これは書き直したい」と思わせる作品はそれほど数多くありません。「この作品は、技術的にはいくらか不備があるかもしれないが、下手にいじらず、このままそっと置いておいた方がいいだろう」と感じるものの方がずっと多いのです。そういう意味では、短編小説というのはきわめてデリケートな成り立ちなのです。一筆加えるだけで、過去の作品が生き返ったり、あるいは逆に勢いを失ったりもします。何がなんでも技術的にうまく書き直せばいいというものではありません。”

~(中略)~

⇒⇒
ふむ深い。「これは書き直したほうがよくなる、これは書き直したい」そう思って映画のために書いた曲を再構成してオリジナルアルバムへ収録された曲もたくさんあります。

ここには出てきていない話題ですけれど、村上春樹さんは雑誌掲載用と書籍収録用と長さの違う2つの短編を用意することもあるそうです。これは雑誌に載せるときの文字数の問題で、削ったものと削っていないものです。のちに書籍化するときは完全版のほうを収録する。どちらも成立するからそれでいいとも言っています。久石譲に置き換えると、文字数の制約は台詞のかぶる音数の制約だったりカット割りの分数の制約だったりでしょうか。そうしたことから解放される音楽作品の再構成。いろいろなケースがありそうです。

 

 

“このように、様々な意味合いにおいて、短編小説は作家である僕にとって重要な学習の場であり、探求の場でもあり続けてきました。それは画家にとってのデッサンのようなものだと言えるかもしれません。正確で巧みなデッサンをする力がなければ、大きな油絵を描ききることはできません。僕は短編小説を書くことによって、またほかの作家の優れた短編小説を読むことによって、あるいは翻訳することによって、作家としての勉強をしてきました。”

~(中略)~

⇒⇒
村上さんは毎日必ず机に向かってなにかしら書くというサイクルを守っているそうです。久石さんも毎日なにかしら音楽をつくる(音楽的断片であっても)サイクルを守っているといいます。お互いに何十年ものあいだこの習慣を維持している。そこには強い基礎体力と精神力の自己管理や鍛錬も必要になってくるわけで、本当にすごいことです。日々のデッサンが、培われたデッザン力こそが、ついには大きな作品を誕生させているのだろうと、簡単に言ってしまうのも恐れ多いほどひしひしと感じます。

 

(以上、”村上春樹文章”は「僕にとっての短編小説」項より 引用)

 

 

 

少し追加します。

同書からは離れて、同旨なことを語っているものです。いろいろな方向から眺めてみると、いろいろな言い回しから触れてみると、吸収しやすくなったりすることあるなと僕なんかは思います。

 

“『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という長編小説を書きあげたのは一九八五年のことだ。この小説のもとになったのは、その五年ばかり前に書いた「街と、その不確かな壁」という中編小説である。この「街と、その不確かな壁」という作品はある文芸誌に掲載されたのだが、僕としては出来がもうひとつ気に入らなくて(簡単に言ってしまえば、その時点では僕はまだ、この話をしっかり書き切るだけの技量を持ち合わせていなかったということになる)、単行本のかたちにすることなく、そのまま手つかずで放置されていた。いつか適当な時期が来たらしっかり書き直そうという心づもりでいたのだ。それは僕にとってとても大きな意味を持つ物語であり、その小説もまた僕によってうまく書き直されることを強く求めていた。

でもいったいどうやって書き直せばいいのか、そのとっかかりがなかなかつかめなかった。この小説にとって必要なのは小手先だけの書き直しではなく、大きな転換であり、その大きな転換をもたらしてくれるまったく新しいアイデアだった。そして四年後のある日、何かのきっかけで(それがどんなきっかけだったのかは今となっては思い出せないのだけれど)僕の頭にひとつのアイデアが浮かんだ。「そうだ、これだ!」と僕は思って、さっそく机に向かい、長い書き直し作業に取りかかった。”

(『村上春樹 雑文集/村上春樹』「自分の物語と、自分の文体」項より 一部抜粋)

 

⇒⇒
「書き直し」という点では「MKWAJU 1891-2009」も浮かびます。曲名にあるとおり、発表時には技術が足りなくてうまく実現できていなかったものを時を経て直しています。もうひとつ思い浮かべたいのは、「交響曲第1番 第1楽章」として未完のまま発表したきりになっていたものを5年後に「THE EAST LAND SYMPHONY」として完成させた事例です。しかも村上春樹さんの「街と、その不確かな壁」という中編作品は文芸誌で一度発表されて以後どの著作にも収録されることなくお蔵入りです。久石譲さんの「交響曲第1番 第1楽章」も演奏会で一度披露されたきり、直して引き継がれた「1. The East Land」はあるものの、その原型を聴けることはもうありません。

 

 

“ある種の短編は、書き上げられて発表されたあとに、僕の心の中に不思議な残り方をする。それは種子のように僕という土壌に落ちつき、地中に根をのばし、やがて小さな芽を出していく。それは長編小説に発展されることを求め、待っているのだ。僕はそういう気配を感じることができる。

どのような短編小説が長編小説の母胎として根を下ろすのか。どのような短編小説が根を下ろすことなく完結していくのか。それは自分でも予測がつかない。とにかく書き終えて、発表して、ある程度時間がたつのを待っているしかないのだ。時間がたてばそれはわかるし、たたなければわからない。”

(『村上春樹全作品 1990~2000』第4巻「ねじまき鳥クロニクル1」解題より 一部抜粋)

 

 

“いくつか手を入れてみたいとも思った。内容を大きく書き直すのではなく、文章的に「ヴァージョンアップ」してみたいと思ったのだ。短編小説に関しては僕はよくそういうことをする。長編小説に手を入れることは一切しないが(そんなことをしたらバランスが崩れてしまう)、短編小説には現在のポイントから書き直す余地が往々にしてあるからだ。レイモンド・カーヴァーも同じようなことをしていた。前のヴァージョンをオリジナルとして残しながら、新しい版をこしらえていく。それは文章家としての自分自身の洗い直し作業でもある。おそらく「前のほうがよかったよ」と言われる方もおられるだろうが、僕としては二十一年ぶりに、またひとつ違う可能性を追求してみたかったのだ。ご容赦願いたい。

そのようなわけでオリジナルの版と区別するために、こちらの作品はタイトルを『ねむり』と変えた。”

(『ねむり/村上春樹』あとがきより 一部抜粋)

 

 

 

村上春樹にみる短編小説と長編小説。久石譲にみるエンターテインメント音楽とオリジナル作品。だぶるように透けるように、うっすら見えてきたのならうれしいです。ちょっとこじつけが過ぎるよ!抜き出し方が作為的だ!……そんなことにはならない印象で自然にすうっと入ってくるとうれしいです。

村上春樹は長編小説を一番大切にしていますが、同じように短編小説がないと今あるかたちの長編小説は生まれてこなかっただろうとも語っていました。久石譲がオリジナル作品を一番大切にしていると公言はしていないです。でも公言はしなくとも、作家として自作品を残すことが一番大事と思っている、これはしごく当然なことです。

僕らファンは、あの映画がなかったら、あのCMがなかったら、エンタメオーダーがなければ生まれなかった名曲たちがたくさんあることを、深く愛おしく理解しています。そこからオリジナル作品へと発展したものもある。聴き手がわかるものもあれば作曲家本人しか知りえないものまで。深いところでつながっている作品たち。

 

 

ひとりの作家が生みだす全ての創作物はつながりをもっているという尊さ。思えば、これはクラシック音楽時代からそうです。小曲から交響曲へとなっていったもの、ひと楽章まるまるカットされた改訂、弦楽四重奏曲から弦楽オーケストラ作品となったもの。作品系譜という年表のなかで遺ってきた作品たち。

そんななかで、村上春樹と久石譲、このふたりにしか見当たらない共通したフィールド、他の追随を許さない強力な武器があるとしたら。実践することで自身の作家性をより広げ深めているもの。それは、翻訳と指揮です。Part.??まで続くかわかりませんが、ぜひ楽しみにお付き合いいただけたらうれしいです。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
次は翻訳と指揮について深めていけたら。

 

 

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Overtone.第65回 「新日本フィルハーモニー交響楽団 すみだクラシックへの扉 #6」コンサート・レポート by ふじかさん

Posted on 2022/04/28

4月15,16日開催「新日本フィルハーモニー交響楽団 すみだクラシックへの扉」です。2020年9月から新日本フィルハーモニー交響楽団 Composer in Residence and Music Partnerに就任した久石譲は、定期演奏会・特別演奏会といろいろなコンサート共演を広げています。「クラシックへの扉」シリーズへの登場は2015年以来です。

今回ご紹介するのは、ふじかさんです。いつもありがとうございます。「展覧会の絵」は原曲となるピアノ版と編曲されたオーケストラ版と、どちらもしっかり聴いて予習していたそうです。「展覧会の絵」も「チェロ協奏曲」も、すべての作品で楽章ごとに構成曲ごとに丁寧にレポート描かれています。それはまるで、ディティールまで解像度の高い、一枚の大きな音楽会の絵を眺めているようです。どうぞお楽しみください。

 

 

新日本フィルハーモニー交響楽団 すみだクラシックへの扉 #6

[公演期間]  
2022/04/15,16

[公演回数]
2公演
東京・すみだトリフォニーホール

[編成]
指揮:久石譲
チェロ:リーウェイ・キン ◇
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団

[曲目]
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
サン=サーンス:チェロ協奏曲 第1番 イ短調 op.33 ◇

—-Soloist encore—-
ジョバンニ・ソッリマ:アローン (4/15,16)
バッハ:無伴奏チェロ組曲 第4番より サラバンド (4/15)
プロコフィエフ:子供のための音楽 op. 65より第10曲 行進曲 (4/16)

—-intermission—-

ムソルグスキー/ラヴェル編曲:組曲「展覧会の絵」

—-Orchestra encore—-
ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ

 

 

久石譲指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会
すみだクラシックへの扉 第6回のレポートをさせて頂きます。

2022年4月16日 すみだトリフォニーホール 大ホール 14時開演

 

今回のコンサートは、久石さんの自作曲が一切無い、完全なクラシックの演奏会。近年指揮者としての活動を充実させている久石さんが、「指揮者 久石譲」としての活躍をしっかり見ることができるのもある意味貴重だと思うとともに、以前から生演奏で聴いてみたかった『組曲 展覧会の絵』がプログラムされていたのも手伝って今回のコンサートへ行くことにしました。

チケットもぎりを過ぎ、会場へ入ると、なんとなくいつもの久石さんのコンサートとは異なる雰囲気。久石さんのCD販売が無いからなのか、新日本フィルのファンのお客様が多いのか…?

着席して、ステージを見ると弦は14型の久石さん指揮での鉄板の対向配置。ステージの後ろの方に見えるパーカッションの多さや、ハープなどから近年のオーケストラ編成の印象を強く受けます。

14時過ぎに続々とステージに楽団員の方が登場。今回のコンマスはチェさん。久石さんとの共演は去年の9月以来でしょうか?チューニングののちに、久石さんが登場。いよいよコンサートが始まります。

 

 

・Claude Debussy『牧神の午後への前奏曲』

久石さんが合図をしてから最初のフルートソロの音色が流れるまで、時間としては短かったはずなのに、とても間が長く感じました。ピリッと静まった空気感のある会場に、淡くて夢幻のようなふわふわしたメロディが流れてきました。そこから入ってくるハープと金管の音色。久石さんは指揮棒を持たず、ところどころ「うん、うん」と頷きながら、ゆったりと指揮をされていました。

途中で力強いヴァイオリンのメロディが入ってくるところでは、久石さんが笑顔で1stヴァイオリンを見ながら待ち構えているような仕草を見せるシーンも。旋律が大きく動くところでは大きく身体を動かし、全体で表情豊かにこの美しい曲を表現していきました。

3月の三重公演では、ロマン派での重要な作品とさせるベルリオーズの『幻想交響曲』、そして今回は印象派での重要とされているドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』をそれぞれ今を生きる作曲家の久石さんを通して聴くことができたのはとても有意義でした。

 

演奏が終わり、一通り拍手が終わると、大きく舞台替えへ。次の『チェロ協奏曲』用へとコンパクトなオーケストラへと衣替えとともに、ソリスト用の台が用意されました。その後、久石さんとソリストのリーウェイさんが登場しました。

 

 

・Camille Saint-Saens『チェロ協奏曲第1番 イ短調 op.33』

1楽章 Allegro non Troppo

全体をダン!という大きな和音から始まった直後に、上から下へと駆け巡るようなチェロのソロがなだれ込んできます。リーウェイさんがかなり身長の高い方の為か、チェロが割と小さく見える印象でした。そのチェロから流れる音色は力強く、時には色っぽく、チェロの音域のせいか、まるで男性が歌を歌っているような雰囲気も感じられました。主旋律がフルートに変わるところでは、サッとサブメロディへ移るシーンもスマートでカッコよかったです。

 

2楽章 Allegretto con Moto

1楽章と雰囲気も一変。軽やかなで上品な3拍子の弦楽のメロディとソロチェロの音色が美しく交差していきます。中間部で現れる小さなカデンツァもちらっと超絶技巧も垣間見えて、ワクワクしました。再度主題が現れて、より華やかな雰囲気と次の楽章へ繋がるような少し暗い雰囲気も感じさせながら、3楽章へと向かいました。久石さんはあまり大きな振りをせず、優しく寄り添うような指揮をしていました。

 

3楽章 Molt Allegro

1楽章のメロディが木管で流れたのちに、ソロチェロで演奏。その後、テンポが速くなるところでは大きなうねりを感じさせるようなパワフルな演奏となりました。ですが、途中木管のフレーズが小さく美しく響くところでは、久石さんもオケ全体に抑えて!抑えて!というような指示も。終盤、盛り上がりのあるパートでは、リーウェイさんがコンマスや久石さんと随時アイコンタクトを取り、楽しそうに演奏していました。ワクワクが客席に伝わってくるようなとてもエネルギッシュな演奏!熱気は客席へと十分伝わり、演奏が終わると大きな拍手に包まれました。

 

何度かのカーテンコールのちに、ソリストアンコールへと進みます。

 

・Giovanni Sollima『Alone』

重厚な和音を奏でるともに、弦を指ではじいてピチカートのような音色も同時に出していました。冒頭が終わると、一気に速くて、心地よいビート感のある中間部へ。まるで2人組チェロユニットの2 CELLOSの演奏を聴いているかのような、緊迫感・緊張感。とてもチェロのソロだけで演奏しているとは思えないような、複雑で超絶技巧が光る1曲でした。

 

さらにもう1曲アンコールを披露してくれました!

 

・Sergei Prokofiev『こどものための音楽 Op.65-10 行進曲』(チェロ編曲 ピアティゴルスキー)

今度は雰囲気一転、軽快に大股でずんずん歩いていくような行進曲。途中で聴こえてくるドーシラソーというフレーズが耳に残ります。短い曲でしたが、遊び心のある小品に心が弾みました。

 

 

ー休憩ー

 

 

・Modest Petrovich Mussorgsky(arr.Mrurice Ravel)『組曲 展覧会の絵』

プロムナード

美しく、華やかなトランペットのソロから始まり、全体を包み込むようなホルンやチューバ等の金管の音色が絵画の旅へと誘います。

1.グノームス

雰囲気は一変、低音弦が怪しいメロディを奏でます。今回座っていた座席が1st ヴァイオリン側の前から2列目で、その後ろのコントラバスの音がザクッザクッと刻むと、その音が身体の芯まで揺れるような感じがしました。途中のパチンっという打楽器の音を出す直前には、久石さんも大きな振りを見せてくれました。最後は『DEAD組曲』の1楽章の終わりのような雰囲気で終わります。

プロムナード

続いてのプロムナード、ホルンのふくよかな音色で演奏されます。主旋律に寄り添うオーボエの音色も美しかったです。このプロムナードを演奏しているときの、フルート主席の方が笑顔で聴いていた様子がとても良かったです。

2.古城

哀愁の漂うサックスの音色が印象的な一曲。久石さんは、全体を抑えるような演奏にする時は、ソロリソロリと慎重に。メロディが動いてくると身振りをどんどん大きくしていっていました。

プロムナード

再びトランペットのメロディで再現させるプロムナードですが、チューバやコントラバスなどの低音楽器が力強い伴奏が加わります。

3.チュイルリーの庭

オーボエやフルートのいたずら心溢れる音色が響く、可愛らしい一曲。久石さんもリズミカルな可愛らしい指揮をしていました。

4.ビドロ

牛がノッシノッシと重そうに歩く様子がすぐに目に浮かぶような曲で、チューバの音色がよく響きます。しかし、全体は重たいだけではなく、抑揚も大きくオーケストラのダイナミックレンジの広さを改めて感じます。

プロムナード

いままで3度演奏されてきたプロムナードとは若干雰囲気が変わり、フルートが物悲しくテーマを奏でます。

5.卵の殻をつけた雛の踊り

こちらも『チュイルリーの庭』のように木管の音色が印象的ですが、スピード感もありスリリングな曲でもありました。

6.サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ

この曲の冒頭のチェロ主体のメロディが、久石さんの『坂の上の雲』のサウンドトラック3枚目の『孤影悄然』のような雰囲気があってお気に入りの曲です。中間部のトランペットの連符もかなり耳に残ります。

7.リモージュ・市場

雰囲気は一転、賑やかで華やかな、日常を感じさせます。こちらも久石さんの曲で例えると『二ノ国2』のサウンドトラックから『ネズミ王国の城下町』の感じがします。

8.カタコンベ

一気に重くて暗い、金管による和音が炸裂します。久石さんも深刻そうな顔で指揮していました。

死せる言葉による死者への呼びかけ

冒頭の弦のトレモロに木管のメロディが加わり、いままで4回演奏されてきた『プロムナード』よりさらに物悲しく、重たい雰囲気に。後半に入ってくるハープの音色にどこか光も感じます。

9.鶏の足の上に立つ小屋(バーバ・ヤガー)

久石さんの得意とするミニマル的なアプローチも合っていた楽曲だと思いました。全体の激しく、スピード感ある構成に吠える金管隊。かなりテンポ感も速く、キレッキレでカッコいい演奏でした。曲の最後では、久石さんも屈むような姿勢を取り、次なる楽曲へ向けてパワーを貯めている感じしました。

10.キエフの大門

そして、前曲から途切れることなく、一気に華やかな音色が会場を包み込みます。打楽器が力強く入る部分では、久石さんも左手をヒラヒラとさせてもっと!もっと!というような指示を出していました。中間部のコーラル風の部分は祈りを感じさせるような、荘厳な音色に。終盤の直前に再現される『プロムナード』のメロディが流れると、一気に鳥肌が立ちました。その後は、大音量で壮大に表現される『キエフの大門』。昨今の情勢に、希望と祈りを込めたような、エネルギッシュで叫びのような演奏に思わず目頭が熱くなりました。

 

凄まじい演奏に圧倒されたホール内からは一瞬の静寂後、割れんばかりの拍手が鳴り響きました。久石さんも満面の笑みで拍手に応えます。その後は恒例の楽団メンバー紹介。途中、トロンボーンセクションと一緒にチューバ奏者が立ってしまい、あなたはまだだよ!次だよ!次!というようなジェスチャーを送る久石さんも見ることできました。

 

Encore

・Mrurice Ravel『亡き王女のためのパヴァーヌ』

美しいホルンのソロから入る、オーケストラ版の『亡き王女のためのパヴァーヌ』久石さんは指揮棒を持たず、ゆったりと指揮をしていました。対向配置の為、1stヴァイオリンがメロディを奏でて2ndヴァイオリンがピチカートを鳴らすシーンでは、音色のメリハリがしっかり聴いていてとても楽しめました。レクイエムのようなしっとりとした演奏。最後は希望の光を感じさせるように、静かに輝くように楽曲が終わりました。

 

 

再び割れんばかりの大きな拍手。何度かのカーテンコール後、こちらも恒例となっている久石さんと弦楽の方達との腕合わせ。その後、深々とお辞儀をしてコンサートが終わりました。

1曲も久石さんの楽曲が無いのに、まるでWDOコンサートに来たような満足感でした。『展覧会の絵』は、クラシックの作品ながら、プロムナードがアレンジを施して何度も演奏されるなど、どこかサウンドトラック的な一面も感じます。さらに今回のオーケストラの編成が久石さんのオリジナル曲演奏時の編成に近いものもあり、それらからもWDOの雰囲気を感じたかもしれません。

今後のスケジュールはまだ発表されていませんが、再び久石さん×新日本フィルの定期演奏会を楽しみにしています。

2022年4月25日 ふじか

 

 

そうだそうだ、そんな感じだった。そんなこともあったかな。それは気づかなかったな。というオンパレードで一気読みしました。いつも焼き付けかたがハイスペックだなと感じます。

「展覧会の絵」で「坂の上の雲」がつながるなんて。当日お話しているときに少し話題にあがったので、帰り道にどの曲のことだろうと探したりしていました。さらに「二ノ国」か、なるほど!楽しいですね。久石譲音楽のバックボーンというか影響うけているかもしれないと感じられる。久石さんファンだからこそできるクラシック音楽の聴きかたってありますね。より楽しくなります。

コンサート終わって「よかったですねー!」「よかったですねー!」とお互い言いながら歩いている間に、すぐ隣にある駅に着いてしまいました。瞬間最大共感はあっという間でした。今回もありがごうとございました。

 

 

 

こちらは、公式リハーサル/公演風景写真の紹介もあわせて、いつものコンサート・レポートをしています。

 

 

公演風景(追加分)

from 新日本フィルハーモニー交響楽団公式ツイッター

 

 

 

 

「行った人の数だけ、感想があり感動がある」

久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋 では、久石譲コンサートのレポートや感想、いつでもどしどしお待ちしています。応募方法などはこちらをご覧ください。どうぞお気軽に、ちょっとした日記をつけるような心もちで、思い出をのこしましょう。

 

 

みんなのコンサート・レポート、ぜひお楽しみください。

 

 

 

reverb.
さて、次はみなさんいよいよWDO2022ですね!!

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第64回 「25%のヴィヴァルディ Recomposed By マックス・リヒター」を聴く

Posted on 2022/04/27

ふらいすとーんです。

シリーズ マックス・リヒターです。

 

 

マックス・リヒターの6枚目のオリジナル・アルバム「25%のヴィヴァルディ Recomposed By マックス・リヒター」です。ヴィヴァルディ《四季》の原曲から素材の25%だけを抽出して再構築した作品です。言葉にするとなんだか難しくて理解できるかな? という印象かもしれませんが、大丈夫です、聴けば一瞬にして不安は吹き飛ぶと思います。

クラシック通なリスナー界隈で、マックス・リヒターが認知されはじめたきっかけです。クラシック音楽を題材にしていることも大きいと思いますが、本盤は2014年発売時に日本盤もリリースされた初作品でもあるようです。そういった点でも、マックス・リヒターCDを初めて手にとりやすかった一枚ということもあるのかもしれません。

 

 

極めて斬新!ヨーロッパやUSで話題沸騰。

映画・ドラマ・ライヴとオールラウンドに活躍するヨーロッパで人気のコンポーザー、マックス・リヒターがおよそ300年前に作曲されたヴィヴァルティの超有名曲を現代風に“リメイク”。あらゆるジャンルの音楽に影響を受けミニマル音楽を手掛けてきた音の魔術師、マックス・リヒター。誰もが知る名曲《四季》から25パーセントの音楽要素を抽出し、それをループさせ新たな旋律をプラス、斬新なミニマル音楽として再構築しました。クラシックに馴染みがない人にとってはより聴きやすいマイルドなサウンドに生まれかわり、あたかも極上のホテル・ラウンジに居るかのようなラグジュアリーな空間を再現。クラシック通にはミニマル・ミュージックの要素を取り入れたコンテンポラリー・サウンドが興味をそそり、楽曲を熟知した人ほどマックス・リヒターからの「25%の謎解き」に魅せられることでしょう。このマックス・リヒター版《四季》はドイツはもとより世界中で話題となり大ヒットを記録中。その話題のリ・コンポーズド《四季》がついに日本に上陸!

(メーカー・インフォメーションより)

 

 

《四季》の原曲の楽譜を検討した結果、リヒターは既存の音源を使うのではなく、音符単位でリメイクしたほうがと判断。その結果、原曲の75%にあたる素材を捨て、残りの25%の素材に基づきながら新たに楽譜を書き下ろし、ヴァイオリン独奏と室内アンサンブルで演奏可能な”新作”を完成させた(本盤の邦題『25%のヴィヴァルディ』はそこから来ている)。編成はヴィヴァルディの原曲とやや異なり、弦楽五部(4型)とハープからなる室内アンサンブルに、ヴァイオリン独奏とモーグ・シンセサイザー(エレクトロニクス)が加わる形をとっているが、ライヴでの演奏時は演奏効果を高めるため、通奏低音のチェンバロが追加される。(前島秀国ライナーノーツより)

(メーカー・インフォメーションより)

 

 

25%のヴィヴァルディ RECOMPOSED BY マックス・リヒター
RECOMPOSED BY MAX RICHTER: VIVALDI FOUR SEASONS

1. Spring 0
2. Spring 1
3. Spring 2
4. Spring 3
5. Summer 1
6. Summer 2
7. Summer 3
8. Autumn 1
9. Autumn 2
10. Autumn 3
11. Winter 1
12. Winter 2
13. Winter 3

Electronic Soundscapes by Max Richter
14. Shadow 1
15. Shadow 2
16. Shadow 3
17. Shadow 4
18. Shadow 5

DANIEL HOPE, VIOLIN
MAX RICHTER, MOOG SYNTHESIZER
KONZERTHAUS KAMMERORCHESTER BERLIN
ANDRE DE RIDDER

 

 

音楽の授業で初めてふれたクラシック音楽。そんな人もいるかもしれませんね。僕もたぶん、季節の音楽からどんな情景が浮かびますか? 春・夏・秋・冬どれが好きですか? そんな音楽の時間が小中学校の頃あったような気がします。四季感のはっきりした曲想と親しみやすい旋律は、クラシック音楽をぐっと身近に感じます。行事音楽や校内BGM(朝・掃除・休み時間など)でも流れていたかもしれません。もちろんTVやCMでも清純なイメージをまとってくれる優等生です。

 

季節ごとに3楽章ずつあります。

各季節ひと楽章聴きくらべです。

 

Vivaldi: Concerto In E Major “La primavera”, Op. 8, No. 1, RV 269 – 1. Allegro

from Daniel Hope Official YouTube

あまり古い録音を持ってきても音質的違いも助けになってしまうと思い。ダニエル・ホープ(ヴァイオリン)同じ奏者による、録音時期も近い(2016年)ものからです。出だし聴くと、《春》ってこんな曲だったね、もっと広く《ヴィヴァルディの四季》ってこんな曲だったね、と名刺代わりのポピュラーな一曲です。

 

 

Recomposed by Max Richter – Vivaldi – The Four Seasons, 1. Spring (Official Video)

from Deutsche Grammophon – DG

すごい、ちゃんと春っぽさを引き継いでるね。ん??でもこんな曲だった?こんなメロディだったかな? 原曲のどの素材が使われているかというと、出だしからの超有名メロディではなく、その次(原曲00:30~)から流れる旋律が使われています。音楽の授業だったら、「はいっ!小鳥のさえずりみたいですっ!」と元気よく発表していた約10~15秒間のパートですね。

抜き出した素材をループさせながら、同じ旋律がズレて展開しています。ミニマル・ミュージックの手法です。マックス・リヒターは、ここに低音シンセサイザーを加えるなどの原曲にはない楽器編成と、モダンなハーモニーになるコード進行も加えています。これこそが、編曲という枠を越えて再構築(リコンポーズ)と銘打つゆえんです。

さらには、独奏ヴァイオリンがあることで、ただの単調な繰り返しミニマル音楽にはならない、エモーショナルな風を生み出しています。風に揺れる春の息吹です。原曲からある活き活きとした独奏ヴァイオリン、単調の回避、だからこの作品を選んだ時点ですでに勝ってる。そんなセンスすら感じます。

 

 

Vivaldi: Concerto In G Minor “L’estate”, Op. 8, No. 2, RV 315 – 3. Presto

こう改めて聴くと、原曲もかっこいい。優雅なバロック音楽の印象を覆すほど、攻めてる音楽だなとも感じます。演奏が現代的アプローチだからかな? いずれにしても古さを感じさせない曲とパフォーマンスです。

 

Summer 3 – Recomposed: Vivaldi’s Four Seasons (2012)

from Max Richter Music Official

春第1楽章に比べると、原曲からの抽出割合が多いような気もしますね。また、春第1楽章の手法とは逆に、ハーモニーには新しく手を付けていないようです。とすると、原曲からしっかりと和声が効いていた、高揚感を誘発するコード進行のようなものがこの時代からあった。そうひっくり返して発見できたような気もします。

 

 

Vivaldi: Concerto In F Major “L’autunno”, Op. 8, No. 3, RV 293 – 3. Allegro

 

Richter: Recomposed By Max Richter: Vivaldi, The Four Seasons – Autumn 3

ザ・収穫祭。こちらは春第1楽章の手法に近いですね。出だしのメロディではなくて、その次(原曲00:40~)から流れる旋律が使われています。大きく開けたハーモニーも印象的です。

 

 

Vivaldi: Concerto In F Minor “L’inverno”, Op. 8, No. 4, RV 297 – 1. Allegro non molto

 

Winter 1 – Recomposed: Vivaldi’s Four Seasons (2012)

弦楽が鋭く刻む印象的なメロディ(1:15~)は、変拍子になるだけで、こんなにも新鮮になるんだ。18世紀の人たちはこのグルーヴ感にどんな反応するだろう? 戸惑うかな、湧くかな? モダンなリズミック手法です。

 

 

全曲とおして。原曲《四季》を最大にリスペクトした再構築です。元がわからなくなるような改悪はないです。お目当ての素材を抜き出し、そこに新しい味付けも加えていく。部分的なはずなのに、こじんまりとはおさまらない。変幻自在に色彩感豊かに、広がっていく曲想。潤いみずみずしい、新しい息吹きです。今を感じる生楽器のソリッドな音像や、シンセサイザーもブレンドした音響世界も効果大きいと思います。

 

 

 

Richter: Recomposed By Max Richter: Vivaldi, The Four Seasons – Shadow 1

本盤には《四季》のあとに、「Shadow」という5曲が収録されています。四季にまるわるエレクトロニック・サウンドスケープです。鳥のさえずりなどの自然音と電子音で構成された環境音楽のような曲たちです。1-5まで、それぞれ「春第1楽章」「夏第3楽章」「秋第2楽章」「秋第3楽章」「冬第1楽章」のかすかな素材を残像させているかのようなアンビエントな音響です。各トラックで聞かれる自然音が、おのおのの季節ともリンクしているのかまではわかりません。原曲の残像、景色の残像、季節の残響、余韻のようなもの、なのかな。

「Shadow」というタイトルに込めたニュアンスってなんだろう? そう思ってウェブ辞書で調べてみました。すると、”影、映像、面影、幻影、まぼろし、分身、ほんのわずか、ごくわずか、前兆、気配、気味、かすかに感じさせるもの、ほのめかす、名残”……。なんとも示唆に富んたネーミングだなとイメージ膨らみます。影くらいの語彙しか持っていなかったので、ちょっと豊かになりました。どれも多面的に当てはまるような気がしてきます。なるほどなー、おもしろいなー。

 

 

Max Richter – Recomposed: Vivaldi, The Four Seasons (Album trailer)

約2分半のプロモーション動画です。いいとこ取りでいろいろなフレーズ聴けます。《四季》にはこんなメロディもあったな!と。

 

MAX RICHTER | Recomposed: Vivaldi – The Four Seasons

ミニドキュメンタリーのような約7分半の映像です。レコーディング風景とインタビューで構成されています。

 

Crystal Pite The Seasons’ Canon ( Autumn )

バレエ音楽としても使われています。フィギュアスケートの演技曲としてもあったと思います。芸術性を魅せるスポーツ、新体操やアーティスティックスイミング(旧シンクロ)などで使われていてもおかしくないですね。アート方面では、美術館や展示BGMなんかにもうれしい音楽ですね。もちろんテレビBGMでもよく耳にします。映画もあるでしょう。調べきれずに想像で書いたところもありますが、そんなに的外れでもない気もしますね。芸術表現を高めてくれる、アート×エンタメ×スポーツまで大活躍の現代版《四季》です。

 

 

マックス・リヒターが語ったこと。

 

”ヴィヴァルディの《四季》はもともと子どもの頃に聴いて大好きになった作品なんだ。でも大人になるにつれて、街中や広告、そこら中でこの曲を耳にするようになって、それがあまりにも多すぎて、一時期はこの曲を嫌いになってしまったこともあった。それでもやっぱりもう一度この曲を好きになりたい、個人的にこの曲を愛したい。そんなパーソナルな思いから始まったプロジェクトだったんだ。別のやり方で新しい発見を求めて、このリコンポーズド・ヴィヴァルディを作ったんだ。”

“そうだね。いろんな意味でこの作品はビッグチャレンジだったと思うよ。私も暴力的にオリジナルの文脈を崩してはいけないという気持ちが強くあった。でもヴィヴァルディの四季と自分の語法には「パターンミュージック」という共通点があったんだ。一つのモチーフを繰り返しながら展開していく音楽のスタイルは、遠からず近からず私のやり方と共通していた。その視点からリコンポーズすることで、ヴィヴァルディを最大限リスペクトしながらも作ることができたよ。”

 

(話題は広がり、こんなことも。)

 

“ポストクラシカルという言葉を生んだのはちょうど私が2作目、《ブルーノートブック》を書いたときだね。そのときからたくさんの人がこぞって「この音楽はなんてジャンルなんだ?」と聞いてくるようになったんだ。クラシックなのか? エレクトロニカなのか? という風に。当時の私には答えようがなかったんだ。本当に新しいものだったからね。でも自分の作品を説明するための言葉がやっぱり必要だと感じたんだ。たとえ言葉が真意を指していなくてもね。最初は冗談めいたアイデアだったけれど、そこで生まれた言葉が「ポストクラシカル」だったんだ。”

“そう、それは自分にとってとても大事なことなんだ。作曲家の世界には、いつも暗黙のルールが存在している。「複雑で難解な音楽はいい音楽である、そしてシンプルな音楽は悪い音楽だ、だから作曲家は皆複雑な作品をつくるべきだ」みたいなね。でもそこで私が思うのは、音楽の本質はリスナーとの対話であるということなんだ。複雑で難解な音楽は、リスナーが入り込む余地がない、あるいは理解できない。それでは意味がない。誰かと会話をするのと同じだよ、コミュニケーションが取りたければ、相手はあなたの言葉を理解しないと始まらない。そうしなければ一方通行の押し付けになってしまうからね。そのために、私は自分の言葉(音楽)が誰にでも理解できるようにとシンプルに削ぎ落としていったんだ。同じ空間を共有したいんだよ。”

 

出典:ONTOMO|ポストクラシカル最重要人物、マックス・リヒターが、ジャンルの壁を超えて投げかける音楽 2019.04.22 より一部抜粋
https://ontomo-mag.com/article/interview/maxrichter-20190408/

 

 

ミニマル・ミュージックの合流。

マックス・リヒターがダニエル・ホープに提供した小曲があります。

 

Richter: Berlin By Overnight

ヴァイオリンと少しのベースからなる約1分半の曲です。ひとかたまりのフレーズを音階を移動しながらひたすらにくり返しています。

 

Berlin By Overnight (CFCF Remix)

これはそのリミックス版です。エレクトロニクスを駆使したミニマル・ミュージックになっていると思います。いろいろな方面から眺めてみるとおもしろいですね。

 

なにが言いたいかというと…マックス・リヒターが語ってくれています。

 

”そういう文脈の中で私はミニマルと出会い、小さなブロックから成り立っているパターン・ミュージックに興味を覚えたのです。私の場合は大学でクラシックの訓練を受けたり、ルチアーノ・ベリオに師事したりした後でミニマルと出会いましたが、いまの若い世代は、そういうクラシックの経験なしに、コンピューターから直接パターン・ミュージックを作っているのではないかと思います。つまりダンス・ミュージックやエレクトロ・ミュージックで使われている、シーケンサーの影響ですね。私のようなミニマルに影響されたパターン・ミュージック、それからシーケンサーに影響された若い世代のパターン・ミュージック。その2つの流れの合流点が、現在の「ポスト・クラシカル」の状況ではないかと思っています。”

出典:udiscovermusic.jp|マックス・リヒター「Sleep」インタビュー より一部抜粋
https://www.udiscovermusic.jp/classical-features/max-richter-sleep-interview

 

 

久石譲とリコンポーズ。

久石譲が現代作品をプログラムするコンサート「久石譲&フューチャー・オーケストラ・クラシック(FOC)」に、マックス・リヒター版《四季》は予定演目されていたことがあります。Vol.3(2017年2月)冬開催だったからなのか、選ばれていたのは《四季より冬》です。諸般の事情があったのでしょう、実現は叶いませんでした。聴いてみたかったですね。久石譲もしっかりと注目していた作品、そう言われるともっと興味わいてきましたか? (その時の新プログラムは「久石譲:Encounter for String Orchestra」)

 

また、久石譲が他作品をリコンポーズしたひとつに、「フィリップス・グラス:TWO PAGES」があります。原曲は、2ページの譜面だけで成り立った曲、音型をズラして変形して約10分以上反復をつづけるオルガン曲です。

さまざまな楽器で演奏可能なこの曲は、世界中で演奏され、ミニマル・ミュージックの研究素材にもなっているほどの古典曲です。編成を室内アンサンブルに増幅させたブライス・デスナー版なんかもあります。

 

Two Pages (for Chamber Ensemble)

ブライス・デスナー版と並べると、久石譲版「2 Pages Recomposed」の特徴もまたわかりやすくなるかもしれません。久石譲が推し進めている単旋律(Single Track Music)手法のことや、楽器を出し入れすることカラフルさを演出し変化を推進していることなど。久石譲らしさの照らしかえしみたいなものが見えてくるかもしません。ぜひ聴いてみてください。

 

 

 

入り口はどこからも。

大きな収穫は、この機会にあらためて《ヴィヴァルディ:四季》を聴きなおしたことです。もう知ってしまった昔の曲で遠くなっていたものを、再び引き寄せるという行動を起こしたこと。リコンポーズ版で新しい感動をおぼえ、原版になかった感触や新鮮さを運んできてくれた。充分すぎるほど浴びてしまったようです。

Jポップでもありますよね。カバー曲で初めて知ることになるオリジナル曲。時代のズレのおかげで順番は逆になってしまったけれど、魅力的なカバーのおかげで、知らなかった見えていなかったオリジナルの良さやすごさを発見することもありますね。

そんな軽さでいいと思います。いまさらバロック音楽なんてしっかり聴けない。そんな人もいるでしょう。どんなに名曲多いビートルズであっても今聴く音楽じゃないなと思う人がいるように。でも、これをビヨンセ?アリアナ・グランデ?ビリー・アイリッシュ?なんかが歌っていたら、聴いてみたいと思うでしょう。入り口はどこからでも。そして、なんか素敵だな、なんかかっこいいな、と思ったら。出口もまたたくさん広がっています。

 

 

バッハやバロック音楽とミニマル音楽の親和性を感じる作品でした。小さなモチーフ(音型・旋律)を組み立ててつくる音楽だからこそ、パターンの反復という手法とも相性がいい。一度ばらしてしまうという点でも脱構築が効果を発揮します。

リコンポーズとは原曲を再構築することです。アレンジ版とは少し違う、もっと根本的に新しい魅力をつくりだすようなもの。原曲から枝分かれしてかつ並列できるほどの魅力をもったもの。源流からの分流なんだけど勢いを失わなうことなく流れるさま。リコンポーズとは再創造ともいえると思います。

 

 

from スタジオジブリ公式提供 場面写真 より

 

ハウルの動く城も、巨大で複雑な建造物として登場します。そしてすべてが崩れ落ちまた新しく再構築されます。解体と変容。必要な素材だけを残して、新しく必要な素材を加えて。それは空も飛べるような再創造でした。

リ・コンポーズとは、原典をリスペクト継承しながらも、時代や環境の変化を感じながらその時にもっとも適しているかたちでリ・クリエイトすること。もっとも現代に響くかたちで再創造することなのかもしれませんね。

 

それではまた。

 

reverb.
『ヴィヴァルディ/久石譲 編:ラ・フォリア / パン種とタマゴ姫 サウンドトラック』もありますね♪

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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