Overtone.第30回 久石譲もうひとつの ”HOPE”

Posted on 2020/03/24

ふらいすとーんです。

久石譲と”HOPE”

2016年フィギュアスケート羽生結弦選手がFS楽曲として使用し「Hope&Legacy」と名づけられた曲。久石譲「View of Silence」「Asian Dream Song」ふたつの楽曲を組み合わせた曲は、過去の名曲を新しい作品として蘇らせた印象的なトピックです。

 

  • ふたつの楽曲について(制作エピソード, CD・DVD収録作品)
  • 1998年長野パラリンピック冬季競技大会 プロデュース, テーマ曲
  • 久石譲が大会テーマに掲げた「Hope&Legacy 希望と遺産」
  • 1998年羽生選手がフィギュアスケートを始めた年
  • 2016年約10年ぶりにコンサート披露されたふたつの楽曲
  • フィギュア音響デザイナーが明かす「Hope&Legacy」誕生秘話

 

このあたりのことはまとめていますので、ゆっくりじっくり紐解いてみてください。

 

 

 

久石譲ともうひとつの”HOPE”

今回のお話はこちらです。

 

もうひとつの”HOPE”ってどの曲?

”HOPE”その象徴的な時代は?

「Two of Us」コンサートプログラムのわけ?

 

この大きく3つのことを、時代の流れにそって見ていきたいと思います。

 

 

映画『水の旅人 侍KIDS』(1993)

1990年代初頭、久石譲は音楽制作の拠点をロンドンにおいていました。この時期いくつかのオリジナルアルバムと映画サウンドトラックが制作されています。そのなかのひとつに、映画『水の旅人 侍KIDS』の音楽があります。

映画のメインテーマをロンドン交響楽団でやりたい、という久石譲の希望を実現させたのは、アビー・ロード・スタジオのチーフエンジニア、マイク・ジャレット氏です。オーケストラの手配からレコーディングのスケジュールまで。用意したのは85人編成、三管編成に6ホルン、50名のストリングスという大編成オーケストラでした。レコーディングも立ち会い機材やマイクを調整しと、当時の久石譲には欠かせない存在であり、強い絆と信頼で結ばれたパートナーです。

当時、こんなに大きな編成はコンサート用でも書いたことがなかった、という久石譲は、ロンドンに持ってきていた資料も少なく、現地でマーラーの交響曲第5番のスコアを買った。それを教科書として(音楽を真似するという意味ではなく)スコアから学びながら、図書館に通いながら書きあげたのが映画メインテーマ曲です。

ところが、1993年6月23日、マイク氏は37歳の若さで突然病気に襲われて亡くなってしまいます。一緒に制作を進めていた矢先の出来事です。アビーロードでのミックスダウンが終わったときマイク氏はこう言ったそうです。「これはハリウッドにも負けないグレートな音楽だよ」。彼の最後の仕事となったのが、久石譲とのこの映画音楽制作でした。

『水の旅人 侍KIDS オリジナル・サウンドトラック』CDライナーノーツのクレジットには、こう刻まれています。

 

Produced by JOE HISAISHI

All Songs composed and arranged by JOE HISAISHI

Recorded and Mixed by
MIKE JARRATT (for Abbey Road Studios)
Steve “Barney” Chase (for THE TOWNHOUSE)
SUMINOBU HAMADA (for Wonder Station)
TORU OKITSU (for Wonde Station)

Recorded and Mixed at
Abbey Road Studios , Air Studios , Lyndhurst Hall , Wonder Station
Avaco Creative Studios , Kawaguchiko Studio

Performed by
London Symphony Orchestra [1,7,16]

Dedicated to memory of MIKE JARRATT

久石譲 『水の旅人 オリジナル・サウンドトラック』

 

そして、映画エンドロール、最後に大林宣彦監督のクレジットが流れるその前に、CDと同じ追悼クレジットがしっかりと刻まれています。

 

 

オリジナルアルバム『地上の楽園』(1994)

CDライナーノーツには、物語風のエピソードが記されています。

そのなかに、

”例えば「HOPE」あのビル・ネイソンが詞を書いて歌ってもいるよ。すごくいい仕上がりだ。きっと君も気に入るはずだ。もともと「HOPE」は19世紀のイギリスの画家ワッツが描いたものなんだけど、地球に座った目の不自由な天女がすべての弦が切れている堅琴に耳を寄せている。でもよく見ると細く薄い弦が一本だけ残っていて、その天女はその一本の弦で音楽を奏でるために、そしてその音を聞くために耳を近づけている。ほとんど弦に顔をくっつけているそのひたむきな天女は、実は天女ではなく”HOPE”そのものの姿なんだって。いいだろう、だからほんとはその絵をこのアルバムのジャケットにしたかったんだよ。何故か無理だったけどね。”

(『地上の楽園』CDライナーノーツより 抜粋)

 

ここで登場するのがこの絵です。

 

HOPE 地上の楽園

「Hope」(1886)
GEORGE FREDERIC WATTS
Oil on canvas, 142.4×111.8cm
Tate Gallery (N 01640)

 

収録曲「HOPE」についてもこう書かれています。

 

4. HOPE
その日、僕はテイトギャラリーにある「HOPE」の前に立った。1886年、WATTSが描いたそれはいつもと変わりなく僕を迎える。地球に座った目の不自由な天女「HOPE」が奏でる音楽を聞きたいと君はいった。

(『地上の楽園』CDライナーノーツより 抜粋)

 

 

絵と曲がつながりました。

 

この曲、実は「水の旅人 メインテーマ」と同じ曲なんです。

まったく曲調も雰囲気も違うので、またインスト曲とボーカル曲なので、突然そんなこと言われても、そうだったっけ? と半信半疑かもしれません。今から、Aメロ・Bメロ・サビ・間奏と、ふたつの曲を線でつながていきます。そう言われればそう聴こえてくるかも・・・。そんなレベルじゃありませんよ。ちゃんと同じ原石から分かれた、いわば二卵性双生児のようなふたつの曲。

 

ぜひ『地上の楽園』CD盤をひっぱり出してきてください。

 

地上の楽園

 

「HOPE」
Aメロ(00:25~00:59)
Bメロ(01:00~01:20)
サビ(01:21~01:37)
間奏(02:45~03:18)

それぞれのパートが一致していきます。

「Water Traveller」(水の旅人 メインテーマ)
Aメロ(01:36~02:23)
Bメロ(02:24~02:50)
サビ(04:41~05:31)
間奏(05:49~06:34)

となります。

「Water Traveller」の印象的な主題(サビのようなもの)であり幾度登場する旋律(00:26~01:09)は、「HOPE」には使われていません。

「HOPE」のサビとなっている旋律は、「Water Traveller」の中間部パートにあたるという離れ業。さらには、「HOPE」間奏はコード進行もまったく違うので一致しにくいですが、シンセストリングスで鳴っている旋律が「Water Traveller」ではホルンの旋律、まったく同じです。

 

Joe Hisaishi – Water Traveller

from Joe Hisaishi Official YouTube

 

『長野パラリンピック支援アルバム HOPE』(1998)

CDライナーノーツには、このようなメッセージが記されています。

 

”長野パラリンピックは、アジアで初めて開催される冬季競技大会であり、20世紀最後の大会となります。大きな時代の変わり目の時、開会式は希望「HOPE」をテーマにしました。

そして、このテーマの出発点となったのが、フレデリック・ワッツの描いた一枚の絵「HOPE」です。今回このアルバムに参加して頂いたアーティストには、この絵を見てもらったイメージから新曲を作って頂いたり、演奏して頂いたりしています。”

(『長野パラリンピック支援アルバム HOPE』CDライナーノーツより 抜粋)

 

収録曲のなかに「HOPE」や「Water Traveller」は含まれていませんが、1990年代の久石譲音楽活動において、ひとつのテーマとなっていたのが”HOPE”であることがわかります。大会テーマ曲「旅立ちの時 ~Asian Dream Song~ / 宮沢和史 with 久石譲」はこのアルバムに収録されています。

 

久石譲 『長野パラリンピック支援アルバム HOPE』

 

 

「HOPE & LEGACY 希望と遺産」

長野パラリンピックの開会式は「Hope 希望」をテーマに、閉会式は「Hope & Legacy 希望と遺産」をテーマに行われました。久石さんは式典の総合プロデューサーを務めていました。開会式フィナーレでは、盛大な演出のもと「旅立ちの時 ~Asian Dream Song~」が披露されています。

 

『Melodyphony メロディフォニー ~Best of JOE HISAISHI〜』(2010)

2009~2010年、久石譲は音楽活動の両軸である作家性と大衆性の集大成となる、それぞれふたつのアルバムを完成させます。『Minima_Rhythm』(2009)と『Melodyphony』(2010)です。

『Minima_Rhythm』のエピソードでは、こう語っています。

 

-アビー・ロード・スタジオへの想い

久石:
僕がロンドンに住んでいた頃、アビー・ロード・スタジオにマイク・ジャレットというとても親しいチーフエンジニアがいたんです。一緒にレコーディングをすることも多く、本当に信頼の置ける人物だったのですが、惜しいことに若くしてガンで亡くなってしまった。彼の最後のセッションが僕との仕事で、ロンドン交響楽団演奏による『水の旅人』のメイン・テーマのレコーディングだったんです。そのときはエアー・スタジオのリンドハース・ホールで録ったんですが。そしてマイクは亡くなり、僕はロンドンを引き払った。そのあたりのことは『パラダイス・ロスト』という本にかなり詳しく書いています。その後、ロンドンでのレコーディングは何度もしたんだけど、アビー・ロード・スタジオでのレコーディングは避けた。ちょっと行くのがきつかった・・・・。

数年前、『ハウルの動く城』のとき、チェコ・フィルハーモニー交響楽団でレコーディングしたものを、アビー・ロード・スタジオでサイモン・ローズとMixしたんです。それが久しぶりでしたね。そのとき、このスタジオに戻ってきたなぁという感慨があって、スタジオの隅、地下のレストラン、どこもマイクの遺していった匂いのようなものが感じられた。イギリス人独特のユーモアや品の良さ、クリエイティブな匂いとでもいうのかな。

そして今回、僕としては最も大切なレコーディングになるので、それはアビー・ロード・スタジオ、そしてロンドン交響楽団しか考えられなかったのです。マイクの亡き後も、アビー・ロード・スタジオでは伝統がきちんと引き継がれています。マイクのアシスタントだったサイモンは、今はジョン・ウィリアムズ等を録る一流のエンジニアになっているし、今回のエンジニアのピーター・コビンは、マイクの抜けた穴を埋めるべく、オーストラリアのEMIからスカウトされた。高い水準を維持するために。

Blog. 久石譲「Orchetra Concert 2009 Minima_Rhythm tour」コンサート・パンフレットより 抜粋)

 

 

そして、『Melodyphony』では、

 

”ロンドン交響楽団とは、15年くらい前に、「水の旅人 -侍KIDS」という映画のテーマ音楽を録ったんですね。また昨年には、前作となる「ミニマリズム」の録音も行いました。日本以外で音楽を表現できる場として、ロンドンでの活動がまた復活したというのがうれしいですね。

私には、大きな夢が2つありました。一つは、芸術家としての自分が追い求める、ミニマル・ミュージックをテーマとしたアルバムを完成させること。この目標は、昨年の時点で「ミニマリズム」というアルバムを完成させることで実現しました。ただそれだけではなくてもう一つ、これもやはり自分が長年続けてきた映画音楽やテレビ・ドラマのサウンド・トラックに代表されるメロディアスな音楽を、オーケストラを使って録りたいと去年からずっと思っていたんですよ。つまり、作家としての自分と、メロディー・メーカーとしての自分の両方を生かしたいというか。去年の「ミニマリズム」の録音時に書いていたノートを引っくり返してみると、両方の種類の音楽についてのメモを残しているんですね。年が明けて考えてみて、やはりこれは両方あってこそ自分の姿ではないか、と強く思うようになって。「ミニマリズム」と「メロディフォニー」の2つを持って、自分をすべて表現できるという気持ちです。”

Blog. 久石譲 「ミニマリズム」「メロディフォニー」 Webインタビュー内容 より抜粋)

 

 

 

あえて距離をとっていたアビー・ロード・スタジオへの想い、自身の大切な作品となる『Minima_Rhythm』と『Melodyphony』を、ふたたびイギリスへ行き、ロンドン交響楽団で録音したかったという強い想いが伝わってくるエピソードです。

宮崎駿監督作品、北野武監督作品をはじめ、多彩で人気のあるメロディたちがたくさんあるなか、「Water Traveller(水の旅人 メインテーマ)」がしっかり選ばれ、15年前と同じロンドン交響楽団によって『Melodyphony』に収録されたこと。

『Melodyphony』から10年後の2020年、久石譲が世界に向けてリリースしたベストアルバム『Dream Songs: The Essential Joe Hisaishi』にも収録されている「Water Traveller」。久石譲ファンにとっても人気のある曲、コンサートでもたびたび演奏される曲、そして久石譲にとっても特別な一曲なのかもしれませんね。

 

久石譲 『メロディフォニー』

 

 

【Hope】for Piano and Strings
View of Silence
Two of Us
Asian Dream Song

「久石譲 ジルベスターコンサート 2016」のプログラムでサプライズの演目です。久石譲ピアノと弦楽合奏による3つの楽曲からなるコーナー。冒頭で紹介したフィギュアスケート羽生結弦選手の「Hope&Legacy」が世界中に感動をあたえた年、その同じ年の大晦日に披露された息を吹き返した名曲たち、象徴的な出来事でした。

 

久石譲のコメントには、

”弾き振り(ピアノを弾きながら指揮もする)に初挑戦します。そのためこのコーナーはすべて新しくオーケストレーションし直しました。

その弾き振りの「HOPE」というコーナータイトルは長野パラリンピックのときに作った応援アルバムのタイトルからとりました。折しもフィギュアスケートの羽生結弦さんが今年の演目で採用している楽曲が2曲含まれます、お楽しみに。”

Blog. 「久石譲 ジルベスターコンサート 2016」 コンサート・レポート より抜粋)

 

 

ふむふむ。よくわかります。それじゃ、「View of Silence」と「Asian Dream Song」にはさまれた「Two of Us」、どうしてこの曲が選ばれたんだろう?  それを紐解くヒントもまた、”HOPE”というテーマにあり、マイク・ジャレット氏との共同作業のなかにありそうです。1990年代前半のディスコグラフィーから、クレジットでわかっているものをピックアップします。

 

久石譲 i am
1991.2.22
I am

Recorded at:
Abbey Road Studio London
Taihei Recording Studio Tokyo
Music Inn Yamanakako Studio Yamanashi
Wonder Station Tokyo

 

My Lost City 久石譲
1992.2.12
My Lost City

Recorded at Abbey Road Studio, London etc
Recording Engineer:Mike Jarratt (Abbey Road Studio)

 

久石譲 Symphonic Best Selection
1992.9.9
Symphonic Best Selection

Recording & Mixing Engineer:Mike Jarratt (Abbey Road Studio)
Mixed at Wonder Station, Tokyo

「完全決定ではないんですが、このライヴをやった時には、一応ライヴ盤も作ってみようという発想はあったんです。ただああいうクラシックの形態だと後で手直しがきかないんですよ。ですから、上がったもののクオリティによって出すか出さないかを最終的に決めようというスタンスはとってたんです。ただ、録るということに対する最大限の努力としてアビー・ロード・スタジオのチーフ・エンジニアのマイク・ジャレットを呼んだりとか、サウンドのクオリティが高いものになるよう万全は期したつもりです。」

Blog. 「キーボード・マガジン 1992年10月号」「Symphonic Best Selection」久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 

久石譲 Sonatine ソナチネ
1993.6.9
Sonatine ソナチネ

Mastered at Abbey Road Studios

 

久石譲 水の旅人 オリジナル・サウンドトラック
1993.8.4
水の旅人 -侍KIDS- オリジナル・サウンドトラック

Recorded and Mixed by
MIKE JARRATT (for Abbey Road Studios)
Steve “Barney” Chase (for THE TOWNHOUSE)
SUMINOBU HAMADA (for Wonder Station)
TORU OKITSU (for Wonde Station)

Recorded and Mixed at
Abbey Road Studios , Air Studios , Lyndhurst Hall , Wonder Station
Avaco Creative Studios , Kawaguchiko Studio

 

地上の楽園 久石譲
1994.7.27
地上の楽園

Recorded at:
Townhouse Studio,London
Abbey Road Studio,London
Music Inn Yamanakako
Crescente Studio Tokyo
Wonder Station Tokyo

 

 

もう見えてきましたね。

今回、映画『水の旅人 侍KIDS』(1993)を起点に紹介してきましたが、アビー・ロード・スタジオでの録音は、すでに『I am』(1991)までさかのぼります。そして『My Lost City』(1992)では、マイク・ジャレット氏がクレジットされています。『Symphonic Best Selection』(1992)では、マイク氏を日本にまで呼び寄せるほどの信頼と絆、『水の旅人 侍KIDS』を経過して、氏の亡きあと『地上の楽園』(1994)までアビー・ロード・スタジオで音楽活動し、これを区切りにロンドンをあとにします。

「Two of Us」は『My Lost City』に収録されています。マイク・ジャレット氏と一緒に仕事をした1990年代前半、ここからひとつの楽曲を選びたかったのではないか。メロディの際立ったものからのセレクト、ファンのあいだでも長い間人気のある「Two of Us」が選ばれたのではないか。そして、1998年の長野パラリンピックからとったというコーナータイトル「HOPE」は、同時にロンドン音楽活動時代と重なる、いわば時代の足跡です。

 

 

もうひとつの”HOPE”ってどの曲?

”HOPE”その象徴的な時代は?

「Two of Us」コンサートプログラムのわけ?

 

それは、

  • 「水の旅人 侍KIDS」メインテーマ
  • アビー・ロード・スタジオ
  • マイク・ジャレット氏
  • 「HOPE」というボーカル曲
  • 「HOPE」の絵
  • 「長野パラリンピック」ひき継がれたテーマ”HOPE”
  • 旅立ちの時 ~Asian Dream Song~
  • 「Water Traveller」『Melodyphony』収録
  • ふたたびアビー・ロード・スタジオ、ロンドン交響楽団
  • コンサートコーナー「HOPE」
  • 1990年代の音楽活動を象徴するテーマ”HOPE”
  • 「Two of Us」『My Lost City』収録曲

 

こういったいくつもの点と点が、絡み合いながら、単純な一本の線になるのではなく、時代の足跡のように、幾重にも交錯しあいながら、結ばれていくようです。

久石譲のインタビューにもありましたが、この時代のことは書籍『パラダイス・ロスト』に詳しく書かれています。ただ絶版かもしれません。小説というかたちをとっていますが、そのなかにあるのは、ほぼノンフィクションです。これは物語なのかエッセイなのか、フィクションなのかノンフィクションなのか、不思議な余韻をのこす本です。おそらくは「小説」という体裁をとることでしか書けなかった、久石譲自身に深く切り込んだものだからかもしれません。

「水の旅人 侍KIDS」メインテーマにおける、他の久石譲楽曲と類似性をみない独創的で雄大な序曲のような大編成オーケストラ曲。コンサートリハーサルではまずこの曲をやるというほど、その鳴りのよしあしのベンチマークとなっています。またコンサートでも序盤にプログラミングされることも多いです。

「水の旅人 侍KIDS」メインテーマ=「HOPE」(地上の楽園)=「Water Traveller」=「HOPE」の象徴、と簡単な一直線で言うつもりはありません。たぶんそういうことでもありません。ただ、なにかしらつながっているんだという実感のようなものが伝わったなら、うれしいです。

 

 

 

Overtone.第3回 羽生結弦☓久石譲 「Hope&Legacy」に想う(2017.1.20)の結びにこう記していました。

”実は「HOPE」には、もうひとつ久石さんエピソードがあります。ありますが、それはまた別の機会に。ちゃんと調べなおしたい、紐解きなおさないといけない。”

・・・だいぶん時間があいてしまいましたが、ようやく -完- となります。

それではまた。

 

reverb.
久石さんの公式音源から紹介できるのはうれしいかぎり♪

 

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪

 

Overtone.第29回 「ファンタスティック・ビースト サウンドトラック」~モチーフくすぐる~

Posted on 2020/03/17

ふらいすとーんです。

ひとつ楽しく、実際に音楽を聴いてもらいながら(公式音源)、サウンドトラックの魅力をご紹介していきます。

映画『ファンタスティック・ビースト』は、映画『ハリー・ポッター』のスピンオフシリーズで第2作まで公開されています。『ハリー・ポッター』はオリジナル・ミュージックをジョン・ウィリアムズが担当し、作品を追うごとに作曲家は交代していきました。『ファンタスティック・ビースト』は、『ハリー・ポッター』シリーズには携わっていないジェームズ・ニュートン・ハワードが、今のところパート1・パート2とどちらも音楽を担当しています。

音楽に魅了されてしまったのは、まったくの逆順番でした。あるとき、『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』(第2作目)のサウンドトラックを聴いて、こんなにいい音楽だったっけ!?と驚いたのがそのはじまり。それから、映画をあらためて見返し…これはスルーしちゃうよなあ…。くまなく映画を観ながらサウンドトラック音源と照らし合わせ、『ファンタスティックビーストと魔法使いの旅』(第1作目)のサウンドトラックを聴き、映画も見返し。そう、映画の楽しみ方としては逆回転しています。

 

なぜスルーしてしまったのか?

 

こんなにも丁寧に書かれた魅力的な音楽なのに、本当にサウンドトラックだけを聴いていても楽しい、映画では全然聴こえてこないからです。効果音 〉台詞 〉音楽 な音響バランスになっているのはこの作品に限ったことではないことですが、それにしても音楽が小さい。効果音と音楽のきっかけって同じところが多いですよね。音楽が盛り上がってきてバーンと鳴るようにつくっているのに、効果音もその瞬間一緒にババーン!と鳴ってしまう。音楽を残念にしてしまっている効果音の使い方が多い。

映画時間134分で、サウンドトラックは77分、実際に映画ではずうううっと音楽はなにかしら鳴っていて、誇張でもなく音楽がないのは上映時間のなか合算で約15分間くらいだと思います。そうなってくると、そうなんです、サウンドトラック未収録の楽曲たちもたくさんある。僕は、映画を観ながら、タイムキーパーでここからここまでの音楽はサウンドトラックに収録されていない、なんていうのも全てメモしながら把握していきました。暇ですね。サウンドトラック収録曲が繰り返し使われているものもあるにせよ、ざっと30分くらい(約10~15曲?)はCD未収録です。それでも、サウンドトラックはぎりぎりいっぱいの77分収録してくれたということもわかってきます。でも…、2枚組で完全収録してほしかったなあと、ファンなら思ってしまうほどのクオリティーです。

 

 

まずは全体からみていきます。

 

JAMES NEWTON HOWARD

ハリウッド映画音楽作曲家として有名です。ウィキペディアなど見ると、知っている観たことある映画がたくさんラインナップされています。ただ、僕のイメージでは、そんなに印象に残りやすい音楽の書き方をしない作曲家だったので、映画鑑賞時も耳のチェック・アンテナが開いていなかったのかもしれません。どちらかというと、旋律線が強くない、旋律の押し出しも弱い感じで、無個性な作風もある。そんなジェームズ・ニュートン・ハワードが、この作品では!

 

ぜいたくな音楽録音

フルオーケストラは、最大時約100名近い編成での録音で、合唱はLONDON VOICESが約40名、Boy’s Choirが約15名となっています。オーケストレーションに6人の名前が挙がっています。ハリウッド映画音楽収録ではおなじみのアビー・ロード・スタジオでの録音は9日間にも及んだそうです。かなり異例な日数ですが、これだけ曲数多く約2時間分の録音ともなればうなずけます。くわえて、オーケストラと合唱が別録りだったのかもしれません。オーケストラを収録したあとにコーラスを収録というスケジュールだったのかもしれません。そのほか、フィドル、ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロック・チェロといった民族色を出すための楽器も起用されています。

唐突な共通点をひとつ。久石譲作品『Minima_Rhythm ミニマリズム』(2009)は、アビー・ロード・スタジオ録音で、ロンドン・ヴォイシズも起用した渾身のオリジナル・アルバムです。

 

オーケストラ+コーラスの絶妙な融合

ほぼ全曲でコーラスが編成されています。これが不思議とひとつの融合体になっているんです。一般的には、オーケストラとコーラスが対峙する音空間が作り上げられ、ある一定の存在感をもって拮抗したり緊張感をもたせたりすると思います。この作品では、コーラスはひとつの楽器のパートとして、極端にいうと弦楽器と同じようなパート役割になっているように思います。

ヴァイオリン=ソプラノ(弦楽器=合唱)、ヴィオラ=アルト、チェロ=テノール、コントラバス=バスというように。あるときは女声のみ(ソプラノ、アルト)、あるとには男声のみ(テノール、チェロ)というように。コーラスです!というひとかたまりよりも、必要な音域を必要な旋律で散りばめている、そんな印象をうけます。

そしてミックス作業のなかで、かなりオーケストラとコーラスの音像を近づけている、分離しないような音質に調整しているように思います。オーケストラはその分切れ味鋭いソリッドさを犠牲にしていますが(たとえば弦楽器の弓を鋭くひいた時の音質、たとえば管楽器のパーンと耳をつんざくような鋭く破裂する音質)、まるでヤスリを丁寧にかけるように、ツヤのかかったまろやかな音像にしている。コーラスもまた、肉声さを消した神秘的で幻想的なヴォイスへと、ときおりシンセサイザーのヴォイス音源(たとえばフェアライトのような)と錯覚するほど、透明感を重視した音像になってます。そうやって、オーケストラとコーラスが統一感をもって融合体が作り上げられている、ように思います。また、コーラスはときにソプラノ独唱のような使い方もあり、かなり巧みに”声パート”を使い分けています。

 

ひとつの交響作品のよう

まるでひとつの大きな交響作品のようです。それはマーラーの巨大で長編な交響曲のようでもあり、ワーグナーの壮大で幾重のライトモチーフいきかう楽劇のようでもあります。

オーケストラ+コーラスによる音楽づくりは書いたとおりです。管弦楽の緩急や緻密さといったダイナミズムもすばらしく、効果音を多少減らしたり小さくしても遜色ないほど、作りこまれています(もったいない)。作曲家と6人のオーケストレーションという役割分担もあるのかもしれませんが、その比重はわかりません。というのも、第1作目においても作曲家と8人のオーケストレーションという役割分担になっているからです。これをふまえても、第1作目の音楽がいくぶんざっくりで単純なオーケストレーションに聴こえてしまうほど、第2作目の完成度はずば抜けて高いです。

 

モチーフくすぐる

印象的な主題旋律がたくさん登場します。第1作目から引き継がれたモチーフ(以後、主題旋律・メロディ・主要テーマ・音型と同義)もありますが、おそらくそれは半分くらい。明るめなファンタジーになっていた第1作目は音楽も同じく、ユーモラスでチャーミング、冒険活劇的なスリリングな楽想にワクワク感が統一されていました。映画『ハリー・ポッター』がシリーズを追うごとに作品も音楽もダークになっていったように、映画『ファンタスティック・ビースト』も今ある2作品を並べてもその音楽カラーは鮮明なコントラストです。ダークな趣の好む好まざるはあれ、音楽的な密度とその充実は必聴です。

しかも、同じ作曲家が手がけている。前作で提示した主題をあらゆる角度から検証し、発展させることができる機会というのはシリーズ作品ならではです。物語の進む方向にあわせて、自由な可能性を秘めた変奏。それを可能にするのは強烈な個性をもったメロディたちと、新たな翼をさずけた作曲家の手腕です。

 

アレンジ違いではない

一般的に映画音楽には、メインテーマという曲があって、サウンドトラックにはいくつかの曲でそのアレンジ違いが収録されていたりします。でもこの作品では、その表現は適していません。メインテーマ(A)が違う曲想になって(A’)一曲ごとに収録されているわけではない。主要モチーフ[A][B][C]があったとして、[A]+[B]という一曲があったり、[A’]+[C”]という曲があったり。複数の楽曲にいくつものモチーフが自由自在に行き交っているので、しかもバリエーション(変奏)で、くまなく掌握するのはひと苦労です。そのぶん、CD盤一枚をとおして聴き飽きないというのが大きな魅力になっています。【ひとつの交響作品のよう】と記したのは、そういった意味も込めています。これから、いくつかの曲を紹介していきますが、モチーフごとにまとめたので、「あれ?さっきもこの曲あったよね」というのがあるかもしれません。一曲のなかに複数のモチーフがあるから、またがっているんです。

おもうに、クラシック音楽の「第一主題・第二主題があって、提示して展開して、また再現して」って、同じようなことですよね。いや、同じといっては語弊があるにしても、このさらに高度な音楽建築物ということですよね。映画音楽は、わざとこっそりモチーフを隠したりする必要もないので、よりシンプルにモフーチやメロディが展開している様子を、楽しんだり探したりしやすいのも大きな、そしてわかりやすい魅力です。

 

その他

まとめられないことを箇条書き。

曲の立ち消え方がとてもなめらかです。すううっとスムーズに消えていく楽曲が多い。ぶつ切り感もないし、曲の展開途中で終わったなという印象もない。その効果もあって、一枚をとおして交響作品や組曲を聴いているよう。これはオーケストレーション+エンジニア技術の手腕だと思います。

映画ではサントラ収録とは異なる切り貼りがされた曲も多いです。くり返しのあるなしというよりは、パートのくっつけ方が違う。わかりやすくいうと、[E][F][G]という曲パートがあったっとして、サントラのほうにはTrack.5に[E][G]、Track.6[F]というように。これまた、モチーフで攻めた音楽づくりだからこそできる技なのかもしれません。

映画エンドロールは約8分。ここに主要テーマ曲たちがふたたび流れるというのは一般的です。5~6曲分くらいあったのかな、そのなかにサントラ未収録の楽曲もあったりします。エンドロールで流すくらい大切な曲なんだったら・・・もごもご。

サントラ未収録の楽曲たちの多くは、本編中の通奏低音のような役割が多く、主要モチーフのバリエーションというよりは、メロディをもたないもの、アクセントとしてのもの、空気になじむようなもの、そういった種類の音楽が多いのも事実です。あと、少しだけ第1作目から持ち出した(録音は新たに)曲も使われています。

 

 

 

ここまで読んだきて、少しでも興味をもってもらえたならうれしいです。いや、引いてしまったかもしれませんね。僕も、久石さんが手がけた映画サウンドトラック以外で、ここまで掘りさげてしっかり書くことは珍しく、掘りさげたいほどにハマってしまった、そんな映画音楽です。

 

 

「ファンタスティックビーストと黒い魔法使いの誕生」オリジナル・サウンドトラック

Fantastic Beasts: The Crimes Of Grindelwald – Original Motion Picture Soundtrack

 

1.セストラル・チェイス The Thestral Chase (08:04)
2.ニュートとリタ Newt And Leta (02:32)
3.ダンブルドア Dumbledore (02:11)
4.ケルピー The Kelpie (01:32)
5.ニュートとジェイコブ、パリへ Newt And Jacob Pack For Paris (02:27)
6.ナギニ Nagini (04:15)
7.ティナの足あと Newt Tracks Tina (02:27)
8.ティナを探すクイニー Queenie Searches For Jacob (01:35)
9.アーマとオブスキュラス Irma And The Obscurus (02:56)
10.血の誓い Blood Pact (02:29)
11.ズーウーの捕獲 Capturing The Zouwu (01:33)
12.ホグワーツへの旅 Traveling To Hogwarts (01:06)
13.リタの回想 Leta’s Flashback (04:40)
14.サラマンダーの目 Salamander Eyes (02:38)
15.マタゴ Matagots (02:15)
16.君の物語はわたしたちの物語 Your Story Is Our Story (03:21)
17.リタの告白 Leta’s Confession (05:14)
18.戦争のイメージ Vision Of War (03:49)
19.広められていくことば Spread The Word (04:01)
20.杖を地に刺して Wands Into The Earth (04:04)
21.君の名は… Restoring Your Name (06:20)
22.ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 Fantastic Beasts: The Crimes Of Grindelwald (02:40)
23.ダンブルドアのテーマ(ピアノ・ソロ)Dumbledore’s Theme (Solo Piano) (01:27)
24.ファンタスティック・ビーストのテーマ(ピアノ・ソロ)Fantastic Beasts Theme (Solo Piano) (01:37)
25.リタのテーマ(ピアノ・ソロ)Leta’s Theme (Solo Piano) (02:04)

Music by James Newton Howard

Track 1 contains “Hedwig’s Theme” Written by John Williams

Recorded at ABBEY ROAD STUDIOS, LONDON

and more…

 

 

なかなか、文章だけじゃなく音楽も一緒に「ここがね!」といえる機会は少ないですね。ぜひ、公式音源と一緒に純粋に楽しみながら耳でもふれてみてください。全25曲紹介はさすがに思い入れが強すぎるので、主要テーマ曲を中心に、モチーフの変幻を楽しんでいきます。

 

1.セストラル・チェイス The Thestral Chase (08:04)

from WaterTower Music YouTube

 

映画プロローグから本格的です。一気にこの作品の世界観に引き込まれ、さらには前作とは異なる作品カラーを音楽でも強烈に打ち出しています。楽しいファンタジーだけではない、より緊張感をもったその世界へと。チェレスタによる「ヘドウィグのテーマ」(ハリー・ポッター テーマ曲/ジョン・ウィリアムズ)が、魔法世界のスピンオフシリーズであることを伝え(00:07~)、そこからはコーラス、弦楽器、電子音が絡み合いながらひんやりとした空気で「ファンタスティック・ビースト」の世界へ。導入部として申し分ないほど、土台からしっかりと緊張感を高めていきます。とにかくコーラスの使い方が巧みですね(04:55~)、発声の特徴を活かしたり、グリッサンドして息の長い不協和音を響かせたり、音域の高低差も明確に使い分けています。そして、この作品の象徴的なモチーフのひとつが登場して(07:13~)映画はここでドーンとタイトルバックです。3拍子のリズムで流れているこの最小音型、巧みなシンコペーションで拍子感覚を狂わせます(07:13~07:15の音型)。まるで魔法をかけるようなモチーフ。好奇心と躍動感をもった最小音型は、ハーモニーを変えながら7回ほど繰り返される。たったそれだけのことなんですけど(07:13~07:31)、オーケストラも重厚にピークを迎え、コーラスもひけをとらない体積をもっていながら、モチーフが後半音程が下がるときには、コーラスは高音域のみになっていて、抜けていく広がりがあります。

全体のところで記した、【オーケストラ+コーラスの融合体】や【管弦楽の緩急さ緻密さのダイナミズム】など、この一曲だけで凝縮して伝えれるほどです。

 

 

さて、このサウンドトラックには最後に3つのピアノソロが収録されています。どれも主要テーマ曲のピアノヴァージョンです。映画ではサウンドトラックに収録されたかたち(ピアノソロ)では流れていないと思います。ピアノの後ろにオーケストラをからめていたりなど。ボーナス・トラック的に収録されている3曲だと思います。

ここでひとつ、これをピアノスケッチとみたてて(一種のデモ音源のような)、チャーミングできれいなメロディたちが、管弦楽にどのようにドレスアップされたか、という見方をしていきたいと思います。

 

 

ピアノソロ1曲目

24.ファンタスティック・ビーストのテーマ(ピアノ・ソロ)Fantastic Beasts Theme (Solo Piano) (01:37)

ピアノソロで聴くと、ちょっと悲しげで、切なげで、神秘的なメロディです。

 

第1作目から登場しているモチーフで・・・

 

「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」

Fantastic Beasts and Where to Find Them OST 25 – End Titles Pt. 2

クラリネットとコーラスがユーモラスな味わいでチャーミングな香りをまとい、ファンタジーらしい不思議さと好奇心湧きあがる曲想です(00:00~)。そんなメロディは、いっぱいいっぱいに引きのばされ、壮大に広がり解き放たれます(00:42~)。こんな変化だけでもワクワクしてしまいます。このモチーフ、第1作映画およびサウンドトラック盤には、バリエーションで複数回登場します。ジャズ・コンボ風軽快なヴァージョンも登場しますが、第1作の本編で必要な雰囲気をもったシーンがあるからです。

注目なのは、第1作目では2,3番手な扱いになっていたこのモチーフ。第2作目では登場回数1番手にまで躍り出ていいることです。

第2作目では・・・

 

12.ホグワーツへの旅 Traveling To Hogwarts (01:06)

こんな感じです。第1作目からの管弦楽の緻密さもよくわかりますね。前半はホルンなどで力強く、後半はチェレスタや弦楽器でチャーミングに奏されています。

 

17.リタの告白 Leta’s Confession (05:14)

これまたシリアスで雰囲気が違いますね(00:20~01:07)。耳にのこりやすいキャッチーで印象的な旋律だからこそ、その変化した姿も個性的です。

 

20.杖を地に刺して Wands Into The Earth (04:04)

映画のクライマックスにさしかかっています、かなりの迫力です。低音が一段一段どっしりと踏み登りながら2回モチーフをくり返します(03:41~03:51)。転調する効果も抜群で、高揚感いっぱいです。

ほかにもこの楽曲では冒頭からコーラスのひんやりとした空気でじわじわと迫ってきます。そして、金管楽器の旋律が交錯しベルが打ち鳴らされる(02:10~)約30秒間は、久石譲ファンならグッとくるツボなポイントだと思います。そこから先は(02:41~)これぞハリウッド映画音楽。”運命”や”宿命”といったキーワードの似合うダイナミックな音楽です。管弦楽は重厚に下から上へ上がってくる音型をくり返し、高音コーラスは上から下に降りてくる音型をくり返しながら(02:41~02:49の音型)、曲は展開していき、ひとつのメロディが湧きあがってきます(03:25~)。神聖で壮絶な戦いです!

そして先に書いた、あのモチーフがやってきます(03:41~03:51)。ニクイ!

 

この「ファンタスティック・ビーストのテーマ」という名前をもったモチーフは、ほかにもTrack5(01:46~02:28)、Track6ではワルツ(03:24~03:45)、Track21(03:56~04:20)などでも登場します。ぜひ見つけてみてください。いろいろ聴き比べてみるだけで楽しいです。

 

 

ピアノソロ2曲目

23.ダンブルドアのテーマ(ピアノ・ソロ)Dumbledore’s Theme (Solo Piano) (01:27)

ダンブルドアといえば、そう『ハリー・ポッター』シリーズの校長先生です。

 

3.ダンブルドア Dumbledore (02:11)

風をうけたような大きなオーケストレーションでこのモチーフは展開します(00:48~)。ほかにも、Track21(03:27~03:54)では、ひかえめでそよ風のような心地よさの曲想を聴くことができます。

 

 

ピアノソロ3曲目

25.リタのテーマ(ピアノ・ソロ)Leta’s Theme (Solo Piano) (02:04)

なんとも物憂げな、これはリタという主要登場人物のモチーフです。

 

13.リタの回想 Leta’s Flashback (04:40)

こちらでは、ピアノソロ曲の前半部分が、

 

17.リタの告白 Leta’s Confession (05:14)

こちらでは、ピアノソロ曲の後半部分が使われています。

ピアノソロ楽曲あるおけがで、これら2つの曲が、もともとひとつのテーマ曲からの枝分かれなことがわかります。とりわけTrack17は、曲タイトルに”リタ”というキーワードがなければ見過ごしてしまったかもしれません。ひとつの曲からAパート・Bパートという素材を小分けにして、本編でそれぞれに巧みに料理・デコレーションして一品化している好例です。

 

ピアノソロ3曲について

いずれの曲も作品の世界観を表現したものであったり、主要登場人物のテーマ曲だったり。ダンブルドアもリタも、第3作目以降もきっと登場しカギを握っている中心人物たちです。ということは、同じくこれらの曲も再登場するでしょう。ピアノスケッチとあえて書いたのは、この原型をもとに、第2作目では上のような曲になった。そして今後シリーズ、物語が展開していくなかでどう変化していくのか? 明るく、暗く、楽しげに、悲しげに、いろいろな変奏がこれからさらに聴けていく。場面に添った楽曲へと昇華されていく。そのときまで、この原石(ピアノソロ)を聴きながら、イメージを膨らませてみてくださいね、楽しみに待っていてくださいね。そんな意図もあるような気がしてきます。

 

 

6.ナギニ Nagini (04:15)

短調で奏されるモチーフ(02:42~03:00)は、

 

7.ティナの足あと Newt Tracks Tina (02:27)

長調になったりもします(01:56~02:11)。同じように転調もする箇所をコントラスト選びましたが、メロディは少し前から展開しています(01:27~)。

 

14.サラマンダーの目 Salamander Eyes (02:38)

ピアノを基調とした曲想もあります(前半)。

 

もともとこのモチーフは第1作目で登場していました。

 

親友(A Close Friend)

コーラスの伸びやかな旋律になっています。

 

Relieve Him Of His Wand / Newt Releases The Thunderbird / Jacob’s Farewell

こちらは、まるで翼を広げて飛んでいるような曲想です(05:10~07:54)。

 

このモチーフを紹介したのは、このようにシリーズをまたいでいるだけでなく、第2作目のなかだけでも、短調になったり長調になったり、モチーフが随所に多彩な手法で散りばめられているおもしろさです。

 

 

9.アーマとオブスキュラス Irma And The Obscurus (02:56)

ここでもコーラスのグリッサンドが効果的です(01:24~01:34)。さらにクラシックのレクイエムばりの荘厳な緊張感へとつづいていきます。

唐突な共通点をひとつ。久石譲「Symphonic Poem NAUSICAÄ 2015 交響詩 風の谷のナウシカ」(『The End of The World』CD収録)の「甦る巨神兵」パートでも緊張感と不穏感に満ちたコーラスのグリッサンドを聴くことができます。

 

19.広められていくことば Spread The Word (04:01)

この曲でも象徴的、オーケストラとコーラスのピークです。つまるところ、西洋文化って行き着くさきは”運命”とか”宿命”とか、善とか悪とか、そういった宗教にかえっていくのかなと思います。クラシックのレクイエムのようなと先に書いたのも、結局は音楽もその方向へと必然的に向かっていく。たとえば、レクイエムの”怒りの日”のような。

さて、この一曲だけでも、久石譲ファンくすぐる音楽です。冒頭からハープ、弦、打楽器による最小音型がくり返されます(00:00~)。そして曲は、大きなメロディが厚みを増しながらくり返されるなか、弦楽器の刻むリズミックな旋律は微細にたしかな緊張感をもって変化していきます(02:32~)。執拗にくり返される大きなメロディも時間の進みとともに、パワーを集めるようにひとつの塊へと凝縮されていき、転調して最高潮をむかえる(03:30~)。

 

イメージ伝わりますように。

モーツァルト:レクイエム 怒りの日 (Requiem Dies irae)

 

 

おっと、忘れないで紹介しないと。

 

22.ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 Fantastic Beasts: The Crimes Of Grindelwald (02:40)

映画のメインテーマです。この曲はエンドクレジットに流れたもの。出だしから弦の刻みにワクワクしますね。なんとも冒険活劇な一曲です。エレガントなオーケストレーション。この曲はシリーズを通したメインテーマではなく、第2作目で初めて登場した曲です。後半のメロディ(02:04~)は第1作目でも頻繁に登場したメロディのバリエーションです。そのモチーフは、Track11,15でも変幻して聴くことができます。またメインテーマはTrack5でも聴くことができます。『ハリー・ポッター』音楽とも堂々とわたり合えるほどの、ファンタジー音楽の結晶です。

チャイコフスキーのバレエ音楽のような雰囲気すらあります。そういえば、ディズニー実写版『くるみ割り人形と秘密の王国』(2018)の音楽を担当していたのは、このジェームズ・ニュートン・ハワード。そちらでは、チャイコフスキーのオリジナル音楽『くるみ割り人形』を映画用に脚色していたりだったような。いろいろなジャンルから吸収し、自身の得意技へと磨きをかけていった、のかな。すごい。

 

 

もう終わります。

全25曲中、15曲を紹介したようです。多かったですか? すいません。

 

久しぶりにやみつきになったサウンドトラックでした。ずうううっと『ファンタスティック・ビート』ばかり聴いていた時期があります。飽きない魅力はもちろん、体に記憶に染みこむほど聴かないとわからないことってありますよね。そうやって、あるときふと何かがつながったり、新しい発見ができたり。時間の蓄積でしか学べないことあるように。

本当は、紹介したもののほかに、あとモチーフが5~6つはあって、映画のなかをサントラのなかを縦横無尽に飛びかっています。でも、あまり言っても暑苦しいし、あまり言っても自信のないものもあるし。前のめりな衝動をこらえて、もうここまでにします。モチーフに関係なくおすすめしたい曲、ゾクゾクする曲たくさんあるので、ぜひサウンドトラックまるっと一枚聴いてみてください。

 

 

ディズニー映画は、アニメ・実写もちろんファンタジーです。でも、そのなかの音楽の役割はディズニー特有です。歌曲(主題歌や挿入歌)がしっかりと存在していること、本編でミュージカルのように使われていること(台詞+旋律のミュージカル調な曲)です。とりわけ、後者に求める傾向は、ディズニー以外のハリウッド映画においても近年強いように感じます。『ラ・ラ・ランド』『グレイテスト・ショーマン』しかりヒット作の多くにみることができます。

『ハリー・ポッター』シリーズや、今回の『ファンタスティック・ビースト』は、あくまでもスコアとしての映画音楽を主軸にしています。そこに、のめり込む楽しみがあったこともひとつ。西洋ファンタジー音楽の象徴的なものが詰め込まれているように思っています。

スタジオジブリ作品の多くを手がけてきた久石譲。日本発ファンタジーでどのような音楽を創造してきたのか。とりわけ、ヨーロッパを舞台とした宮崎駿監督作品を一旦よけたとしても、そこには『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『崖の上のポニョ』『風立ちぬ』。そして高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』。東洋ファンタジー音楽の象徴的なものが、ふんだんに詰め込まれているように思えてきます。

たとえば。

『ファンタスティック・ビースト』の対決は西洋文化の”善と悪”であり、音楽も宗教音楽の荘厳さへと共鳴していく。一方で、『千と千尋の神隠し』の対決はどうたったか。善と悪の区別、ヒロインと悪役の対峙という明確な構図はありません。そしてカオナシが暴走する場面で流れる音楽「No Face」は、どんなものだったでしょうか? 『もののけ姫』の冒頭タタリ神が村を襲う場面で流れる音楽「タタリ神」は?  おもしろいですね。

 

西洋と東洋のファンタジーを並べることで、重なりあってくるファンタジー音楽の共通点、あぶり出されてくるそれぞれの独自性。そんなことをひとつひとつかみしめることができたらと、魅力的な音楽にくすぐられながら。

 

ジェームズ・ニュートン・ハワードも久石譲も、マジカルな《音符使い》です。

それではまた。

 

reverb.
これからもいろいろなサントラを気ままにご紹介していけたら♪

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪

 

Overtone.第28回 「映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集/武満徹 著」を読む ~ウソとマコト II~

Posted on 2020/01/22

ふらいすとーんです。

前回は、《映画は音楽によって真実に近づく》を結びにして、「映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集/武満徹 著」から、ひとりの作曲家の映画論・映画音楽論を紐解きました。そこから広がり、時代やジャンルの異なるプロフェッショナルたち(宮崎駿・高畑勲・鈴木敏夫・久石譲)の語ったことも紹介することで、共鳴すること・よりくっきりと違うこと、そんなことも見え隠れしたのなら、と思っています。

今回は、同じ本から扱いながら、より私たちの日常生活に近いテレビ・テレビ音楽にまでぐっとフォーカスし、はっと気づかされる警鐘の言葉たちをご紹介していきます。

 

 

テレヴィと感性の鈍磨

テレヴィとは何と落ち着きのないものだろう。絶えず音を発している。それにテレヴィ出演の常連たちは、なぜいつもああ切羽詰まったような昂ぶった調子で喋るのだろう。たぶんあれはコマーシャルで寸断されるのを怖れて、その前に少しでも多く自分の存在を印象づけようとするからだろうか。知らぬ間にそれは習慣になり、また相互にそれが助長されて、騒ぎはいっそう大きくなる。

そうしたなかでいささか気になるのは、事実を正確に報せればすむニュースの背景にまで音楽が流されたりすることである。そこに、私は、過剰な意図が感じられて、嫌な気分になる。伝えられている内容にはたぶん嘘はないだろうが、音楽がそれを誇大にし、その煽情的効果が事実を著しく歪めてしまっているように感じられる。しかもその音楽の効果は事実の重みを消してしまい、ニュースがまるで虚構の劇を見ているようで、見る側の反応を一様にしてしまいはしないかと、不安になる。視聴者のそれぞれの判断が及ぶ前に、既に解答は用意されているのだ。それは正しい報道の在り方であろうか? 芸能人のゴシップに関するインタビュー等でも、答えは予め準備されていて、ひとの真意を訊くのではなく、ほとんど誘導尋問に近いものが多い。それにしても、ニュースの背景にまで音楽を流す必要などない、と思う。それも一種の情報操作で、そのことは、私に、かつてナチズムが音楽を巧みに利用したことを憶い出させる。ちなみに、アメリカでは、報道番組の背景に音楽を流すことは禁止されているようだ。

世の中は音楽の垂れ流しで、それが私たちの耳の感受性を鈍くしている。たぶん、目も同じだろう。

映像技術は、ヴィデオやコンピューターによって、その可能性を著しく拡大して、私たちの目の歓びも昔よりずっと増したはずだが、新技術を謳ったドラマ等が、結局、その技術を使いこなす感性は旧態依然で、目新しさにかまけて、反って内容を稀薄なものにしている。最近、私もそうした類のドラマの音楽を担当して、後から辛い、嫌な思いを味わった。意見を言わずにすました自分を反省している。仕事の選択は、思う以上に難しいものだ。

テレヴィといえば、最近NHKから放映されたドキュメンタリーがかなり厳しい世論の批判を浴びたが、テレヴィがこれほど生活に入りこんでいる現状を考えると、その影響力の大きさからしても、私たちは、自分の「目」と「耳」を、常に、フレッシュに保つ必要があるだろう。

テレヴィのフレームにきりとられた現実は、既に実際の現実とは別のものであって、そのことを私たちは意識しなければならない。ドキュメンタリーとはいっても、それは作られたものであり、再構成された事実である。そこで大事なのは作者の批評精神であり、再構成された事実がいかに表現の真実にまで高められているかが問題だろう。したがって、ドキュメンタリーには、言葉によって定義することが可能な一定の様式や方法論等は無いとさえ言えよう。あるべきは、真実へ迫る作者の倫理的な姿勢である。

~中略~

テレヴィは、これまでの伝統的なメディアである教会の説教、本、ビラ、映画、ポスター、新聞、ラジオ等とは全く異なる手法を用いている。つまり、映像の視覚に作用する直接性を利用して、それに音声やコメント付すことで、それがいかにも真実であるかのような一種の幻想を産み出すことができる。また、「世界中の出来事や現実世界を自分たちのリビングに直接運んでくれるという幻想」に、私たちを浸らせてしまう。そして、それに対して「かつてなかったほど”自由”に、不偏不党の立場で判断を下せる」という危険な錯覚に私たちを陥れる。

だが、湾岸戦争の際に見られたように、いまでは周知の事実だが、都合のいい情報操作がいとも簡単に行える。「映像は、恣意的にカットされ、その前に途中に後に、論理的には無関係な別の映像をつなぐため、それらの映像はお互いに意味が無くなってしまう。その結果、映像は、巨大な空白、思考の欠如しか」私たちに、もたらさない。ジュフロワは、幾多の事例を挙げて、支配的な経済商業権力や、国家権力による情報操作の危険性を指摘している。そうした、力による情報操作の怖さは言うまでもない。だが私には、普段の何でもないワイドショー番組等にみられる、興味本位に事実を伝えようとするあまりに、必要もない音楽をやたらに背景に流したりする無神経さや、またそれに慣れてしまっている私たちの感性の鈍磨も、かなり恐ろしいものに思える。

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「テレヴィと感性の鈍磨」項より 抜粋)

*初出 1993年

 

 

私たちの耳は聞こえているか

さて、映画も概ねそうであるが、それにしてもテレヴィの音の扱いの無神経さは、日本の場合、酷すぎるように思う。ニュース報道の背後にまで全く関連性がない音楽や音響が流されて、徒らに視聴者の気分を煽ろうとする。また、私たちもいつしかすっかりそれに馴らされてしまっている。こんな状況が永く続くようなら、私たち(日本人)の耳の感受性は、手の施しようが無いまでに衰えてゆくだろう。

その時、耳は、もはやなにものをも聴き出すことはない。

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「私たちの耳は聞こえているか」項より 抜粋)

*初出 1994年

 

 

 

いつの時代のことなんだ?

上の文章たちは、1990年代に新聞などに掲載されたインタビューを本に所収したものです。もちろん過剰さの程度の差こそあれ、この30年の時を経て、あまり状況は変わっていないのかも、というのが感じたところです。こうやって声あげて警鐘を鳴らしていた人がいたんだ、驚きとはっと気づかされる発見があります。

 

もう一度引用すると。

「伝えられている内容にはたぶん嘘はないだろうが、音楽がそれを誇大にし、その煽情的効果が事実を著しく歪めてしまっているように感じられる。しかもその音楽の効果は事実の重みを消してしまい、ニュースがまるで虚構の劇を見ているようで、見る側の反応を一様にしてしまいはしないかと、不安になる。視聴者のそれぞれの判断が及ぶ前に、既に解答は用意されているのだ。」

 

ここで一例。

とある町で殺人事件が起きました。とても不可解で謎の多い事件。それを伝えるテレビのなかでは、神妙そうなキャスターの声と、おどろおどろしい怪談を語るようなナレーション。なんの変哲もない(ように見える)現場の映像のうえに塗られる血のしたたるような字体のテロップ、そこにかぶさる「Sonatine」(映画『ソナチネ』メインテーマ)の音楽。To be Continueよろしく、チャンネルを替えさせまいと茶の間を心理巧みに引き込もうとする演出。事実〉殺人事件が起こった。犯人はまだつかまっていない。 演出〉それを伝えるための手段すべて。 用意された解答〉とても恐ろしい事件でしょ。まるで映画やドラマのようですね。

 

ああ、こんな番組、ぞんぶんにあったなあ(今でもある)、ちょっと笑ってしまいそうですが、そこには笑えない危険も潜んでいるということですね。さすがに、正当なニュース番組(報道番組?)ではここまで露骨なものはないのかもしれません。ただ、昨今、ニュースなのかワイドショーなのかわからない、どららの性格をもふくむ番組も多いからこそ、より一層の危険も含んでいるとすら思ってしまいます。

音楽による過剰な演出、知らず知らずのうちに心理的コンロールされて受け取っていることも、もしかしたら多いのかもしれない。一辺倒なわかりやすい世論の流れや、読解力の低下なども、視覚的・感覚的・第一印象そのままに容易に受けとってしまうテレビ映像の功罪。影響力のあるメディアだからこそ、音楽を慎重に取り扱ってほしい、無神経に興味本位な道具として使ってほしくない、そんなことを強くはっきりと思いました。

 

 

さて、百聞は一見に如かず、ここでひとつ動画をご紹介します。

from テレビ朝日系「題名のない音楽会」(2019年4月20日放送回より 抜粋)

 

こんな日常的な光景も、音楽だけで印象が変わります。

 

 

そういえば、久石さんも昔テレビ番組で同じような実験をしていました。

from テレビ東京系「たけしの誰でもピカソ」(2001年1月19日放送回より 抜粋)

 

そういうことです。

 

 

もう一度、映画に範囲をもどして。

久石譲が語ってきたこともいくつかご紹介します。当時は読み流していたことも、ここまでの話から眺めかえすと、気づかなかったことや新しい発見があるかもしれません。

 

 

「あまり気にしてないですよ。あくまで作品に対して自分がどう思うか、同時に、作品からイマジネーションをどれだけ豊かにできるか、そこが一番大切。宮崎さんのアニメーションであろうと、なんであろうと、僕の中では普通にやっているんです。でも、幅はありますよね。ひとりの人間の中にもいろんな顔がありますから。心温まる作品のときは、必然的にメロディ・ラインが大事になってきますし、突き放したような映画のときには、自分の中にもそういう部分はありますから、極力音楽がでしゃばらないように作る。共通するのは、画面をなぞるような音楽は作らない、ということ。あくまで、もしかしたら絵で表現しきれなかったものを表現する、というようにしています。音楽って非常に怖いんですよ。世界観とかムードを決定してしまうところがありますから。」

Blog. 映画『壬生義士伝』(2003) 久石譲 インタビュー 劇場用パンフレットより 抜粋)

 

 

「でもね、音楽っていうのは、映像にかぶせると実はとっても怖いんですよ。だって映像がものすごく丁寧に、きめ細かくその世界をつくったところに、音楽がどんとペンキを塗るように重なってくるわけですから。特に北野監督の映像というのは、エモーショナル(感情的)な部分、例えば俳優が汗を垂らして演技しているような部分を削っていってしまうんですね。セリフも極力少なくしてあるし。そんな映画で音楽がトゥーマッチになると、しらけてしまう。それで音楽も極力引いた形でつけたいんだけど、生の弦(楽器)などをつけると、どうしてもエモーショナルになってしまうんです。それが北野監督の世界を壊してしまうのではないかと、すごく怖いんですよね」

「格調のある音楽。つまり感情を変に盛り上げるのではなく、一歩引いたところから格調高い、しっかりとメロディがある音楽をつくり上げる。その一点をどうにかすればどうにかなる。それが北野映画を通して学んだことと言えるかもしれない」

Blog. 「NHK『トップランナー』の言葉 仕事が面白くなる!」 久石譲 インタビュー内容 より抜粋)

 

 

「まさにそうですね。今存在している「竹取物語」は不完全なもので、その裏側に隠された本当の物語があるんじゃないかという仮説を思いついてしまったんです。だから真実の裏ストーリーを作れば、かぐや姫の気持ちはわかるだろうと。ただわかるんだけど、見る人が自分と主人公を同一視していくような感じではなく、距離を持って見つめる方がじわっとくると思いました。“思い入れより思いやり”と言っているのですが、自分がぞっこん惚ほれ込んで思い入れてしまうより、想像力によって他人の気持ちがわかる映画にしたかったんです。」

(高畑勲 談)

Blog. 久石譲 「かぐや姫の物語」 インタビュー ロマンアルバムより 抜粋)

 

 

「確かに、多くの人が映画音楽をムードで作ってしまっています。本来はちゃんとした理論が作れるはずですが、そういうのがまったくありません。なんとなくのイメージでやっている。それでも通用できてしまう世界でもあるから、問題なんですけどね。」

Blog. 「東洋経済オンライン」 久石譲 Webインタビュー内容 より抜粋)

 

 

「だいたい映画のなかで音楽が流れるなんて嘘ですから。現実生活では、愛を語ったからって音楽は流れてくれないでしょう。映画音楽は、つまり虚構中の虚構なんです。けれど、そもそも映画自体がフィクションなわけです。フィクションだからこそ真実を語れる。それが映画の面白さ。そういう意味ではもっとも映画的なのが映画音楽ともいえる。映画の構造自体が、音楽と密接に関わっている」

Blog. 「GOETHE ゲーテ 2013年7月号」映画『奇跡のリンゴ』久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 

 

「映画音楽は、映画のなかでもっともウソくさい。例えば、恋を語っている時に現実に音楽が流れるわけがない。流れるわけがないウソを映画音楽はやっている。もっともフィクション。映画自体はフィクションなわけで、そのなかでフィクションである映画音楽がもっとも映画的とも言える。その代わり、使い方を間違うと超陳腐になる。」

Blog. 「NHK SWITCH インタビュー 達人達 久石譲 x 吉岡徳仁」 番組内容紹介 より抜粋)

 

 

うむ、深く考えさせられます。

前回(Overtone.27)ご紹介した武満徹さんの言葉のなかにもありました。

 

「もちろん、映画音楽は、独立した楽曲として鑑賞に耐え得るだけの、質的にも高いものであるにこしたことはないが、それ以上に映画音楽の需要さは、音楽が映画全体のなかでどのように演出され、使われるかということだ。そのために、音楽の扱いには、常に、冷静さと抑制を失ってはならないはずだ。だが少なからず最近の映画音楽は、抑制を欠いた、無神経なものが多い。こけ脅しの誇張や説明過剰が概ねであり、観衆の想像力を少しも尊重することがない。また、いつの間にか観衆もそれに慣らされてしまっている。」

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「映画音楽 音を削る大切さ」項より 抜粋)

 

 

ここから思い返したのが、高畑勲監督の姿勢でした。映画『かぐや姫の物語』で久石譲へオーダーした音楽こそ「登場人物の気持ちを表現しないでほしい」「状況につけないでほしい」「観客の気持ちを煽らないでほしい」といったものでした。つまり、観客をその世界に無理やり引きずり込むような主観(さも自分がいまその世界のなかにいるような)ではなく、客観的に、観客のほうに寄っている音楽がいいと。

過度な意図をもって、音楽がそれを誇大し、観客を煽り、ひとつしかない解答をねじ込む。こうした常套手段が通例しているなか、あくまでも観客の想像力を尊重したあり方で、イマジネーション豊かに観客それぞれの受け取り方をしてもらうための音楽。

今思うと、高畑勲監督の意図や意志は、自らのこだわりという範囲にとどまらない、現代社会の映画・テレビ・ニュース・インターネット動画などメディア全般における映像と音楽の関係への警鐘だったのかもしれない。時代の流れにメスを入れたからこそ、これから未来へ向けて普遍的な作品への品格を手に入れているのかもしれません。

 

 

僕は、正直にいって、久石譲の映画音楽を公平にジャッジすることはできません。映像に対して強いのか、音楽が前に出過ぎているのか、雄弁に語りすぎているのか、はたまた逆に…。なぜか? まずもって耳が敏感に音楽をキャッチするように染みついてしまっているからです。音楽から(音楽を目的やきっかけにして)映画を鑑賞するスタンスができあがってしまっている。だから、このシーンの音楽いいなあとか、すごく映像とマッチしてるなあと思うことは多くても、このシーンに音楽はいらないなあと思うことはないしできない。実際には、音楽の鳴らない沈黙もふくめて音楽構成は綿密にされているでしょうし、久石さんは別のインタビューでも「ファンタジーの要素が強いと音楽は多くなるし、逆に現実に近いものほど音楽は少なくなる」とも語っています。

公平さを自分のなかに少しでも持ちたいと、いろいろな映画や映画サウンドトラックにふれたいとは思っています。こんな音楽なんだ、こういう使い方してるんだ、うるさいな、と思う映画。ずっと鳴ってるわりには全然聴こえない、サウンドトラックを聴いて音楽はとても丁寧に書かれているのにもったいない、と思う映画。いろいろ触れてみるからこそ、久石譲の映画音楽の魅力がみえてくるのかもしれませんね。ああ、もしこの映画の音楽が久石さんだったらという空想もまた楽しい。

 

 

”映画音楽とはこういうものだ” というかくたる正解はありません。だからこそ、いろいろな方法論があり、ひとつひとつの作品ごとに向き合い”ふさわしい”音楽を追求していくプロフェッショナルたち。過去から受け継ぎ、学び、いまの時代や社会に提示するもの。そう思い巡らせると、その挑戦や葛藤にただただ頭がさがります。

まとめることができないので、ふせんをペタペタ貼るようにメモします。いつかまた、ここから広げたり掘り下げたり、新しいものを見つけたり。メディアに流されない馴らされない受け手になれるように。映画作品をさらに楽しむことができる観客になれるように。受け手側の学びや成長こそ作り手への感謝と未来へのレガシーと信じて。

 

memo

  • なぞるような音楽
  • 映像と音楽の対位法 相乗効果や緊張感
  • 効果音のような音楽
  • 全体からではなく部分につけてしまう音楽
  • 音楽が情報化している
  • 感情や理解をたすけるための音楽
  • 映像ではもたないところにつける音楽のあり方
  • 音楽がないと映像の意味がわからないというあり方
  • ライトモチーフ/登場人物につける
  • ライトモチーフ/登場人物のいないシーンでも関連・連想させる
  • ほかの映像や作品に替えのきかない音楽
  • 世界観につける音楽
  • 音楽のないシーンにいかに音楽を感じるか

 

 

映画から飛躍してテレビまで広げてきました。映画にはフィクションもあればドキュメンタリーもあります。でもドキュメンタリーもまた再構成された作りものです。テレビも枝葉細かく、ニュース・スポーツ・ドラマ・バラエティ・ドキュメントなど、あらゆるジャンルのなかでフィクション性とノンフィクション性が混在しています。さらに映像媒体は、インターネットにまで拡がり、発信者がパーソナルかつインターナショナルという、もうメディア宇宙の様相を呈しています。

どんなメディア発信であっても、これは事実なのか、これは真実なのか、このふたつの違いの見極めはとても大切です。フィクションを元にした映画のほうがリアリズム(真実)をもっていたり、事実を元にしたニュースのほうがよりフィクションへと歪められたり。音楽が好きだからこそ、音楽の使われ方というものにもう少し敏感にありたいですね。音楽によって真実に近づいているのか、遠のいているのか。

久石さんの音楽もよくテレビで使われますね。まあ、耳にするとうれしい自分もいるわけですが。これなんだっけ?と頭の中ぐるぐるしていたら、画面の内容から追いつけなくなっていたり。なんでもかんでも、久石さんの音楽をむやみやたらに使わないでほしいと言うつもりはありません。まじめなニュース番組、シリアスな報道では使ってほしくないです。映像を誇張するものであっても、映像をやわらげるものであっても。よろしくお願いします。

 

映画は音楽によってより真実に近づき、ニュースは音楽によってより真実から遠ざかる。

それではまた。

 

 

ループ

こんな文章もあります。監督、作曲家、そして小説家。言わんとする核心は同じだと思います、おもしろいですね。

 

「エリア・カザンに『ブルックリン横丁(A Tree Grows in Brooklyn)』という古い映画があります。主人公の12歳くらいの女の子が、学校の先生に物語について教わるところがあります。先生は彼女に言います。「真実を伝えるために必要な嘘があります。それは嘘ではなく、物語と呼ばれます」。細かい台詞は忘れたけど、たしかそんなだったと思います。その女の子はそれを聞いて「私は作家になろう」と決心します。僕がとても好きなシーンです。 ~中略~ 小説家といわれる人はそのようにして「真実を伝えるために必要な嘘」をリアルに立ち上げていくことができるのです。」

(村上さんのところ /村上春樹 著 より 抜粋)

 

 

reverb.
イメージ(image)には”映像”という意味もあるけれど”根源”という意味もあります。イメージアルバム♪

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第27回 「映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集/武満徹 著」を読む ~ウソとマコト I~

Posted on 2020/01/15

ふらいすとーんです。

「映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集/武満徹 著」、なんとも魅力的なタイトルで手にした本です。おもしろくてぐいぐい惹きこまれてしまい、もっといろいろ読んでみたいと「武満徹著作集〈1〉~〈5〉」各500頁近くある分厚い書籍も読破し、著作集からもれるエッセイや対談本などを片っ端から読みふけっていました。出版されている本も多く15冊は超えるくらい読んだ結果、最終的にこの本が一番”映画音楽”については凝縮されていたと思います。

当たり前ですよね、”映画エッセイ集”とある、いろいろな書籍からまとめたものになっているわけです。それでもほかの本を手にとったのは、武満徹さんの映画音楽とオリジナル音楽(自作)の関係性や、いろいろな著名人との対談から語られるエピソードも知りたかったからです。

音楽を聴くよりも言葉を読むほうが多い作曲家、珍しい接し方になりました。音楽のほうはプールの水を両手ですくうほどしか聴いていないので、語るにおよびません。気になった映画音楽ですら現在では聴けないものが多いということもありますが。

今回は世代の違う作曲家、武満徹の映画音楽論を掘り下げることで、久石譲の映画音楽論と共鳴するもの、それぞれに違うもの、そんなことが見えてきたらいいなとご紹介します。取り上げた文章を読んでいくなかで、久石譲ファンなら「こんなこと久石さんも言ってたな」とすぐにつながることもあるでしょう。ただ、ピックアップしたセンテンスごとに、【久石譲もこう言っている】【宮崎駿監督、高畑勲監督もこんなこと言っていた】という部分的な照らし合わせはしていません。まずは、ゆっくりじっくり武満徹の言葉に耳を傾けてもらえたら幸いです。

 

 

映画音楽

映画音楽については、さだまった法則というものはないと考えます。それは、映画が、時代社会の動きにしたがって絶えず新しく生まれかわるものだからであります。映画音楽は、映画を離れて無い。この原則を一言にして語れば、映画にあって、音楽は、かならず演出されなければならないのです。たんに、映画のもつ雰囲気を誇張するほどの役割としてではなく、主題をいっそう具体的なものに表すべく、その表現をもたなくてはなりません。

~中略~

私は、ひとつの嘘を真実たらしめるための役割を、音楽によって担いたいと思っています。台詞はあくまで観念であって、音楽は、それを官能的な次元に置き換えて、直接に働きかけねばなりません。音によって、言葉の観念は、肉化されるのであります。もちろん、映画は、あくまで映像の芸術でありますが、音楽は台詞と同様に、あるときは、それ以上の役割を背負うものだと思っています。

~中略~

よく謂われることですが、音楽の体位的な直接用法によって、映画表現は、相乗された効果をもち得ました。これによって、描かれているものをさらになぞるということは、表現を稀薄にする以外のなにものでもないことがわかりました。

殺人の場面で、明るい自動ピアノを鳴らした『望郷』は、映画音楽における一つの典型のように言われています。『野良犬』の結びちかくにも、こうした体位的手段が活かされている。そして、今日では、こうした方法は常識となり、パターン化しつつあります。体位的手段は、その表れてくるところの異常さによって人をひきつけ、緊迫した効果をうむが、図式的な処理と、常套化した繰り返しに従うなら、たんに場面の効果をうむのみに留まってしまうのです。それが主題と深く関わらずに完結したのでは、ひとつの自立する芸術として、音楽が映画に参加する意味はない。それは、ネガティヴに映像をなぞることでしかないからです。全体的な表現に参加することが大事だと思います。

~中略~

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「映画音楽」項より 抜粋)

 

 

映像とその音響

映画音楽には定まった方法論が無いと書きましたが、映画音楽が映画に附帯するものである以上、それはたえず新鮮な方法でなされるべきです。

私はこれまでに幾つかの映画のために音楽を書いてきましたが、そのスタイルはさまざまです。映画音楽の作曲家は、ある点では俳優と似たところがあって、演出家、あるいはその映像から思いがけない自分をひきだされるものです。また、そうした影響力の強い映像に接することが作曲家に新しい勇気と意欲をあたえます。

~中略~

私は映画音楽を書く時、映像に音を加えていくというよりも、映像からいかに音を削っていくかということについて考えます。映像自身が響いているという言い方は奇妙かもしれないが、この仕事にたずさわった人には容易に理解してもらえる事柄であろうと思います。映像自身が固有にもっている響きを平面的になぞることは、映像の空間を狭めることになります。すると、映画はたんに物語を運搬するセルロイドの帯でしかなく、映像が試みているモンタージュは、音響によってその意味を失います。映画における音楽と音響の役割には求心と拡散に両方の面があると思いますが、それがどうあるべきかを規定する尺度はありません。映画の主題だけがそれを決定します。映画が時間芸術であるかぎり、個々の独立した場面によって音の設計を考えるべきではないと思います。全体として個々の効果が大事なのです。そうすることが個々の場面をいかすことになるでしょう。

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「映像とその音響」項より 抜粋)

 

 

私の受けた音楽教育

それではなぜ、映画音楽をやっているのかと申しますと、私は小さな自分の仕事部屋で作曲をしていて、時にはピアノを使ったりしながら、かなり自己完結的な仕事にたずさわっているわけです。具体的にいえば、自分の肉体の癖というようなものが作曲の際に出てしまって、むろん人間の肉体性、音楽の肉体性ということは何よりも大切ですけれども、それとまるで違った、たんなる肉体的習慣に身を委ねてしまうようなことがあるのです。ピアノを弾く手の癖とかですね。そういう時に、いろんな違う人たちと仕事をする、例えば映画音楽もそうですが、そうすると、自分のうちの未知なるものというか、思いがけない自分を発見することがあるのです。

映画音楽には特別に決まった方法論というものはなくて、映画というものがそうであるように常に現実と結びついたものです。映画音楽の場合は、ある映画の効果を高めるということだけでなくて、他にたいへん大事な意味をもっています。それは優れた映画監督と仕事をする場合、俳優や女優が、普段はかなり大根役者だと思われていたのに、思いがけなく、いい芸をするというようなことがありますが、それと同じように、私自身も、いい映画監督と仕事をすると、思いがけない自分というものが引きずり出されることがあります。

そのことは、自分の書斎にもどって音楽を作るのにも非常に役立ちます。しかもシンフォニーを作曲し、それが日比谷公会堂で演奏され満員になったとしても、千数百人の聴衆が聴くだけですが、映画の場合は一本の映画ではるかに多くの人々が私の音楽を耳にするわけです。

それに、映画の場合は、あ、あれは武満が作曲したものだ、というような意識は見るひとにあまりないでしょう。そのことは私にとってたいへんうれしいことです。

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「私の受けた音楽教育」項より 抜粋)

 

 

映画音楽 音を削る大切さ

映画がひとに語りかけるのは、かならずしも、単一の事柄ー物語や主題ーに限らず、また、もし映画がそれだけのものにすぎないとすれば、面白味も薄く、そこでは音楽の役割も単なる伴奏の域に留まるしかないだろう。フィルムのフレームにきりとられた現実は実際とは異なったリアリティをもつものであり、映像に音楽が付けられることで、(映画)全体としての心象は、また別のリアリティを得る。相乗する視覚と聴覚の綜合が映画というものであり、映画音楽は、コンサート・ホールで純粋に聴覚を通して聴かれるものとは、自ら、その機能を異にする。あくまでも、映画音楽は演出されるものであり、そこには、常に、自立した音楽作品とは別の、抑制が働いていなければならない。

~中略~

もちろん、映画音楽は、独立した楽曲として鑑賞に耐え得るだけの、質的にも高いものであるにこしたことはないが、それ以上に映画音楽の需要さは、音楽が映画全体のなかでどのように演出され、使われるかということだ。そのために、音楽の扱いには、常に、冷静さと抑制を失ってはならないはずだ。だが少なからず最近の映画音楽は、抑制を欠いた、無神経なものが多い。こけ脅しの誇張や説明過剰が概ねであり、観衆の想像力を少しも尊重することがない。また、いつの間にか観衆もそれに慣らされてしまっている。

~中略~

私は、自分が考えている映画音楽というものについて、説明を試みる。

「時に、無音のラッシュ(未編集の撮影済みフィルム)から、私に、音楽や響きが聴こえてくることがある。観る側の想像力に激しく迫ってくるような、濃い内容を秘めた豊かな映像に対して、さらに音楽で厚化粧をほどこすのは良いことではないだろう。観客のひとりひとりに、元々その映画に聴こえている純粋な響きを伝えるために、幾分それをたすけるものとして音楽を挿れる。むしろ、私は、映画に音楽を付け加えるというより、映画から音を削るということの方を大事に考えている」

私なりの映画音楽の方法論を語ると、ハリウッドのひとたちは、なんとも不思議なものに接したような驚いた表情で、大仰に、Very interestingを連発した。そして、「アメリカの作曲家は一曲でも多く音楽を挿れたがるのに、あなたはまるで反対を言う。音楽を沢山挿れた方がそれだけ利益に結び付く機会も増すはずなのに。おかしなことを言うひとだ」と言って、またもや感慨深げに、Very interestingを繰り返した。

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「映画音楽 音を削る大切さ」項より 抜粋)

 

 

ひとはいかにして作曲家となるか

~中略~

演奏技術は教えることができるし、その教育の必要です。しかし、作曲を教えることはできないと思います。ソナタ形式とか、交響曲とか、西洋音楽が歴史的に創り上げた形式の概観を教えることはできるでしょうが。作曲家にとって一番大切なことは、どれだけ音楽を愛しているかであり、また自分の内面に耳を傾け何かを聴き出そうとする姿勢だと思います。こういうふうに楽器を重ねれば美しい響きが作れるという原則を教えることはできますが、それは最低限必要な技術に過ぎません。そんな表面的な技術ではなく、その人なりの美しい音があるはずです。モーツァルトやベートーヴェンは、そういった「自分の声」を持っていたひとたちです。

~中略~

いまだに外国で「日本人なのになぜ西洋音楽をやるのか?」と質問されて、よく居心地の悪い思いをします。日本人が「能が外人にわかるわけがない」と言うのと同じです。でも、日本人だって能を観てもわらからない人もいれば、フランス人だってドビュッシーがわからない人もたくさんいます。

「『わかる』とは一体何か?」が問題です。例えば同じブラームスの曲を聞いて、僕とドイツ人では理解が違うかもしれない。ただ、自分が感動する点では同じです。逆に、違った感動を味わってもいいわけです。これだけ情報化の進んだ現代でも、日本人と外国人との間にはいまだに誤解がたくさんありますが、このことを否定的にとらえる必要はない。もっと積極的にお互いの違いを確かめていくことが大切です。誤解は、物事を正すのに少しは役立つ可能性があります。浅薄な理解よりもましというものです。

~中略~

ある外国の友人に、「君が日本の楽器を使って書いた作品より、オーケストラを使って書いた作品の方に『日本』を感じる」と言われたことがあります。心あたりと言えば、同じ楽器を使ってもその使い方によって創り出している響きが違うんだろうということです。西洋人にとってはありきたりな楽器でも、自分にはその使い方の基礎的な知識がない。もしかしたら、そのことが僕の個性をつくり出しているのかもしれない。

~中略~

僕の考えでは、映画は監督のものです。つまり、作曲家も俳優と同じように監督に使われる存在です。だから映画音楽も音楽作品として優れていることより、映画の中での効果の方が優先します。「音楽が演出される」わけです。映像があって、ある一つの響きが聞こえるだけでも、映画音楽として成り立ちます。

僕は優れた監督に、自分の中の未知のものを引っぱり出して欲しいと思っています。実際、ふだんなら絶対書かないような音楽を、いい監督と出会ったために書かされたというか、書いてしまったこともあります。後になって、自分の変化がわかるんです。

シナリオを読んで発想が浮かぶことがあれば、最終段階までプランが決まらないこともある。映画音楽を作る体験は一本一本違った体験です。

楽譜はかなり細かいことまで書き表わせ、指示出来るとはいえ、やはり不完全なものです。だから最初の演奏にはできるだけ立ち会うように心がけています。初演の前のリハーサルの際に、作者として介入します。

僕は自分の音楽をよくわかってくれる人のために曲を書いています。例えば指揮者では小澤征爾や岩城宏之のために書く。ピアノ曲だとアメリカのピーター・ゼルキン、フルートなら誰々というふうに。室内楽のような小さい編成のものを書く時は、いつでも頭の中に演奏者の顔が浮かんでくるぐらい彼らと近い状態にあります。いわば彼らへの個人的な贈り物のつもりで曲を書いています。そういう人たちの演奏には介入しません。僕自身以上に僕を理解してくれているから。期待しながら演奏に耳を傾けます。

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「ひとはいかにして作曲家となるか」項より 抜粋)

 

 

読みごたえのある本です。ぜひまるまる一冊手にとってほしいです。

また同じような内容は他の書籍などでも語られています。

「普通”音楽を入れろ”と言われます。しかし、そういう場面では音楽が入っていなくても、誰でも自然に心の中に美しい音楽が流れるのをきけます。そういう時には音楽は余計なものとなってしまいます。」

(武満徹著作集1より)

 

 

目次

第一章
映画界は滅びても”映画”は滅びない
ひきさかれた『女体』の傷は殺された牛よりもいたたましい──恩地日出夫への手紙
「青年プロダクション」に抗議する
ショスタコーヴィッチの逆さの肖像
子供番組と音楽
生活と仕事と生活
映画界は滅びても”映画”は滅びない──不況とは無関係な芸術性こそ問題
映画音楽
日録
清瀬保二と早坂文雄 〈日本〉と二人の作曲家

第二章
テキサスの空、ベルリンの壁
「シネ・ジャップ」によるインタヴュー
映画人
廃墟の音
テレヴィと聴衆
映画とその音響
ラジオの思想性
音とことばの多層性
私の受けた音楽教育
映画
”伝達のされ方”が分岐点
瀧口修造展に寄せて
『アレクサンダー大王』について
『オーケストラ・リハーサル』について
テキサスの空、ベルリンの壁──ヴィム・ヴェンダース
仲代達矢素描(スケッチ)
小林正樹と映画音楽

第三章
映画音楽 音を削る大切さ
タルコフスキーは最後までみずみずしい耳を持っていた
人間への眼を欠くヴィデオ時代の映画
仏映画に不思議な懐かしさ──『めぐり逢う朝』を観る
映画音楽 音を削る大切さ
「創造」としての蒐集(コレクション)
川喜多和子さんの突然の死
人間の「存在」について
私たちの耳は聞こえているか
地球の一体化と文化の多様性
感嘆した映画音楽祭
ひとはいかにして作曲家となるか
芥川也寸志と映画音楽
忘れられた音楽の自発性

編集あとがき 高崎俊夫

 

 

今回取り上げた文章たちは、そのほとんどの初出が1990年代に書かれたものです。時代を越えて映画に携わるプロたちの普遍的な映画論・映画音楽論というものが見え隠れしてきます。

ここからはスタジオジブリ作品、宮崎駿監督・高畑勲監督・鈴木敏夫プロデューサー、そして久石譲の語ったことを、幾多ある本やインタビューから少しだけご紹介します。

 

 

「アニメの世界は”虚構”の世界だが、その中心にあるのは”リアリズム”であらねばならないと私は思っている。ウソの世界であっても、いかにほんとうの世界とするかが大切だろう。言葉をかえるなら、みる人に「そういう世界もあるな」と思ってもらえるウソだ。たとえば、ムシからみたムシの世界を描くとする。それは人間が虫メガネでみた世界ではなく、草がすごい巨木となり、地面が平らではなくデコボコ、雨や水滴などの水の性質も人間が考えるものとはまったく異なってくる。こうして描けばおもしろい世界になり、ほんとうらしくなるだろう。アニメとは、そういう特性をもっており、しかも、それを絵にしてみせることができるすばらしさをもっているのである。」

(「出発点 1979~1996」/宮崎駿 著 より抜粋)

 

 

「ナウシカ」について言えばね、最初にイメージ。レコードっていうのを作ろうということで、久石さんていう人に頼んで作ってもらったんですね。そしたらなかなか面白い曲がその中に含まれていた。で、いろいろ経緯はあったんだけど、映画の音楽も久石さんにやってもらおうということになった時にね、その面白い曲が含まれていたものの、それがどういう風に使われるかということは何の関係もなく作られているわけですね。それは溜め録りと同じことなんでね、ある意味で言えば。それをどういう風に設計しようかっていうことで考えたわけです、あれはね。ま、あの場合三曲がテーマとして何度も使われているわけだけど。それを中心に据えてやっていくってことでね、むしろかえって上手くいったかもしれない。その、のっけからね、劇伴として「ここはこういう感じなんです、音楽入れてください」って書いてもらうよりね、その人が全力をあげて書いたものです。要するに久石譲という人にとって、映像に劇伴としてつけるんじゃなくて、原作を読んで想像力を駆使して、独立した音楽として聞かせるつもりで全力をあげて書いたもんでしょ? その魅力を全面的に発揮させるように後で音楽設計をする。一種の溜め録りですね。久石さんの初めに書かれた曲が全部良かったと別に思うわけじゃないけれど、その中で「これはイケル!」と思ったものがあった。それをどういう風に扱うか……要するに、曲はいいかもしれないけれど、使えないかもしれないですね。でしょ? 「ナウシカ」の場合でもそう思ったんですよ、実は。出来上がったものを聞いて「これとこれがイイ!面白い!……面白いんだけど、さて、どういう風に使えばいい?……久石さんの力は示してもらったけど、映画用にはやはり改めて書いてもらわないといかんかなあ?」ということを一時は思ったりした位で。だけど、いろいろ行きつ戻りつ考えて、ある所に落ち着いてね、で、出来上がってくると、もうそれしかなかった様に思えたりね(笑)、その、「感じ」っていうのは出て来るわけだからね。どれだけ聞かせてくれる音楽が書かれてるかであってさ、「いかにも劇伴でござい」っていう音楽は使い途がないんですよ、土台。」

(「映画を作りながら考えたこと」/高畑勲 著 より抜粋)

 

 

一方、久石・宮崎・高畑の間で解釈が異なり、議論で衝突したシーンもあった。まず、導入部の旅客船襲撃シーンについて、高畑は音楽なしを提案したが、久石は「入れたい」と希望。結局入れることに決まり、ギリギリの7月中旬に曲が書かれた。これとは逆に、ムスカがドームから軍の兵士を落下させる残酷なシーンについては、宮崎から「音楽を」と要請があったが、久石が「残酷さが強調された方が、シータとパズーの優しさや人間愛が胸を打つ」と音楽ナシを主張し、これが通った。ラピュタ崩壊シーンで流れる少女の合唱についても、高畑は「途中で止めるべき」、宮崎は「流し続けたい」と論議があったというが、高畑案が通ったようだ。

(「宮崎駿全書」/叶精二 著 より抜粋)

 

 

「映画監督にはそういうところがあるものですが、一番大事なシーンに音楽を挿れずに画だけで見せたがる。『となりのトトロ』でサツキがトトロに出逢う雨のシーンがそうでした。子どもはトトロの存在を信じてくれるけど、大人まで巻き込むにはどうしようかと考えて、あのバス停のシーンが重要だと。それなのに宮さんは「画だけで」と言って。それを聞いた久石さんも「ハイ」と答える。

そこで、トトロの横で『火垂るの墓』を制作中の高畑さんに相談。音楽にも久石さんのことも詳しい彼は「あそこには音楽があったほうがいいですよ。ミニマル・ミュージックがいい。久石さんの一番得意なものができる」とアドバイスしてくれました。その高畑さんが言ったことは内緒にして久石さんに頼みに行きました。「でもここは宮崎さんはいらないって言ったけど、そんなことしてイイの?」と言う久石さんに、僕は言いました。「宮さんは、いいものができれば気が付かないから」。そして作曲してもらった。ジブリで完成した曲を聞く日、宮さんは「あっ、いい曲だ!」と喜び、あの幻想的なシーンが完成しました。僕は思うんですけど、久石さんはそんな綱渡りの状態のほうが、かえって名曲を生み出してくれるんです。」

(鈴木敏夫 談)

Blog. 「オトナの!格言」 鈴木敏夫x久石譲x藤巻直哉 対談内容紹介 より抜粋)

 

 

「初めて高畑さんと久石さんが組んだ『かぐや姫の物語』でも、同じように音楽の直しの指示を幾度も入れていた。そして気がつかないうちに久石さんの創る音楽がどんどん高畑さんの表現したい世界に近づいて行くんです。その裏で、「久石さんという人は、これだけの人じゃない。もっと出せるはずだ。このまま世に出したら、悔いが残るに違いない」、こんなふうに話していました。」

(鈴木敏夫 談)

Blog. 「オトナの!格言」 鈴木敏夫x久石譲x藤巻直哉 対談内容紹介 より抜粋)

 

 

「生のストリングスなどを使って、アコースティックな音に仕上げたいと考えたんです。きれいな音をつけてあげたい。かわりに暴力シーンには音楽はいらない。主人公と奥さんの関係、そして銃で撃たれて車椅子生活をおくっている主人公の同僚、その2つの関係を中心に音楽をつくっていこうと。全体的にあまりムーディーにならないようには心がけました。本当のメインテーマは最後の方に出てくる。音を抜くときいは思いっきり抜くことで次第に、後半に行くに従って情感が増してくるんです。この作品に限らず、沈黙をつくるのも、映画音楽の大事な仕事です」

Blog. 「ゾラ ZOLA 1998年2月号」 久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 

 

「久石さんは少しおおげさにおっしゃっています(笑)。でも主人公の悲しみに悲しい音楽というのではなく、観客がどうなるのかと心配しながら観みていく、その気持ちに寄り添ってくれるような音楽がほしいと。久石さんならやっていただけるなと思ったのは『悪人』(李相日監督)の音楽を聴いたからです。本当に感心したんですよ。見事に運命を見守る音楽だったので。」

(高畑勲 談)

「日本の映画で言ったら「野良犬」のラストが典型的ですよね。刑事と犯人が新興住宅地の泥沼で殴り合っている時に、ピアノを弾いている音が聞こえてくる。当時ピアノを持っている家はブルジョワなわけで、若奥さんが弾いている外の泥沼で刑事と犯人が殴り合いをすることで、二人とも時代に取り残されている戦争の被害者だということが浮き彫りになる。天上の音楽を悩みのないものとして描くのも同じアプローチの対比ですよね。」

(久石譲 談)

「自分にとって代表作になったということです。作る過程で個人としても課題を課すわけです。これまでフルオーケストラによるアプローチをずいぶんしてきたのが、今年に入って台詞と同居しながら音楽が邪魔にならないためにはどうしたらいいかを模索していて、それがやっと形になりました。」

(久石譲 談)

Blog. 久石譲 「かぐや姫の物語」 インタビュー ロマンアルバムより 抜粋)

 

 

「それまでの僕のやり方は、もう少し音楽が主張していたと思います。それに対して、『かぐや姫』以降は、主張の仕方を極力抑えるようになりました。音楽は観客が自然に映画の中に入っていって感動するのをサポートするぐらいでいい。そう考えるようになったのです。ただし、それは音楽を減らすという意味ではありません。『かぐや姫』では引いていながらも、じつはかなりたくさんの音楽を使っています。高畑さん自身、「こんなに音楽を付けるのは初めてです」とおっしゃっていたほどです。

矛盾するようですが、僕は映画音楽にもある種の作家性みたいなものが残っていて、映像と音楽が少し対立していたほうがいいと思うんです。映像と音楽がそれぞれあって、もうひとつ先の別の世界まで連れて行ってくれる──そういうあり方が映画音楽の理想なんじゃないでしょうか。そういう僕の考えを尊重してくれたのは、高畑さん自身が音楽を愛し、音楽への造詣がものすごく深い方だったからかもしれません。」

Blog. 「ジブリの教科書 19 かぐや姫の物語」 久石譲 インタビュー内容紹介 より抜粋)

 

 

「基本的に、映画音楽って音楽を状況につけるか心情につけるかのどちらかです。でも、今回はそのどちらもやっていません。主人公の気持ちを説明する気も全然なかったし、海で起こる状況にもつけなかった。すべてから距離をとる方法をとっているんです。やっぱり、音楽が映画と共存するためには、そういう考え方を持っていないと、劇の伴奏のようになってしまってつまらなくなります。走ったら速い音楽、泣いたら哀しい音楽なんて、効果音の延長のようじゃないですか。」

Blog. 「海獣の子供 公式ビジュアルストーリーBook」 久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 

 

「今なんか、もうこういう電気機材がすごい発達してるから、もういくらでも細かくやってほとんど音楽がハリウッドでもそうですけど効果音楽になっちゃってるからね、効果音の延長になっちゃってるからね。そのてのつまんないものはね、やっても仕方がないんで。自分が想像してる以上に、世界はソーシャルメディアで変革されてきすぎっちゃってるんですね。そういうなかで結局、映画という表現媒体のなかで、アニメーションというものが持ってるものと、例えばゲームとかね、そういうものが持ってる力を、もう過小評価してはやっていけないだろうと。表現媒体に対する制作陣が昔のイメージで凝り固まって、作品とはこんなもんだっていうことで作っていくやり方が、もう時代に合わない。やはりアニメーションというのはある種の可能性があるわけだから、それをもっと若い世代の人とやっていく、あるいはその時に自分も今までの音楽のスタイルではないスタイルで臨む、今回みたいにミニマルで徹するとかね。そういう方法で新しい出会いがあるならば、これは続けていったほうがいいなあ、そういうふうに思います。」

Info. 2019/06/14 映画『海獣の子供』久石譲メイキングインタビュー 動画公開 より抜粋)

 

 

 

時代もジャンルも異なる映画の世界のなかで、それぞれのプロフェッショナルの思考や信念を交錯させながら、自分なりに考えてみることはとてもおもしろいことです。久石譲も、その時代ごとにその作品ごとに、アプローチも語ってきたことも変化しています。一方では、一貫して変わらないスタンスというものも見えてきます。

ここでは、武満徹の言葉たちに共鳴する部分を主にピックアップしながら、久石譲の言葉たちは、わりと直近のものからご紹介しました。これまでの久石譲著書や久石譲インタビュー内容からは、もっと多くのことがより具体的につかむことができると思います。ぜひ手にとってみてください。

 

ウソとマコト I で伝えたかったこと、それは《映画は音楽によって真実に近づく》です。なぞるような音楽、効果音のような音楽、煽るような音楽、いろいろな映画音楽の問題も抱えながら、ひとつの作品としっかり向き合いながら監督や作曲家が、観客に真実を伝えるためのアプローチ。ウソの世界をマコトの世界にするために、音楽は映画にとって必要なもの。

逆に、《◇◇は音楽によって真実から遠ざかる》、このことは ウソとマコト II で掘り下げていきたいと思います。

それではまた。

 

reverb.
武満徹さんは新しい作品を書くときに、いつもバッハのマタイ受難曲を聴いてから取りかかったそうです。一種禊のような──と書籍にありました。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第26回 「音楽の聴き方 -聴く型と趣味を語る言葉/岡田暁生 著」 を読む

Posted on 2019/11/28

ふらいすとーんです。

前回『クラシック音楽とは何か』という本をご紹介しました。主にクラシック音楽を中心にさまざまな本を出版している岡田暁生さん、同じ著者による『音楽の聴き方 ー聴く型と趣味を語る言葉』です。

音楽を聴いた感動を、どう言葉にしたらいいか? この感動をどう伝えよう? そんなことって音楽好きにはよくあることですね。「こんな表現の仕方あるよ、こんな言い回しあるよ」という引き出し的な本ではありません。タイトルにあるとおり、聴き方の《型、方法、コツ》を知ることによって、おのずと音楽を語る言葉たちも、より具体的になってきたり、より表現が広がってきたり。

たぶん音楽を聴くことって、極端にいえばとても感覚的なことです。今まで経験してきたこと、無意識のうちにやっていたことも、言葉や文章でロジカルに整理されてみると、「ああ、たしかに」「そういうことなのかなあ」と感覚的だったものが客観的に見えてくることもあります。この本に書かれていることは、クラシック音楽に限ったものではなく広く音楽の聴き方です。普段のマイ音楽生活に当てはめながら読んでもらえるとうれしいです。

僕の結論(思ったこと)。

音楽を聴くことは感覚的、そこには「好き」「嫌い」「わかる」「わからない」という大きな四択が直感的に選ばれて、無意識に振り分けられていく。なぜ好きなのか? なぜ嫌いなのか? なぜわかるのか? なぜわからないのか? それを自分のなかに見つめることで「聴き方」がわかってくる。そんなことが書かれている本かなあ。そして「好き」「嫌い」「わかる」「わからない」は、変化していく。時間の流れ、環境の変化、学びや蓄積の進化、人が変わっていくように聴いた音楽の感覚的印象も絶えず変化しつづける。だからこそ、音楽っておもしろい。そんなことを思いました。

 

11ページにおよぶ【はじめに】項から、抜粋・要約するかたちでご紹介します。

 

 

はじめに

~中略~

やはり大多数の人にとって音楽を聴く最大の喜びは、他の人々と体験を共有し、心を通わせ合うことにあるはずである。例えば素晴らしいコンサートを聴き終わった後、それについて誰かと語り合いたくてうずうずしているところに、ばったり知人と出会って、どちらかともなく「よかったね!」の一言が口をついて出てきたときのこと。互いの気持ちがぴったりと合ったと確信させてくれる、コンサートの後のあの「一言」がもたらす喜びは、音楽を聴いている最中のそれに勝るとも劣らない感興を与えてくれると私は信じている。自由闊達に語り合えば合えるほど、やはり音楽は楽しい。聴く喜びはかなりの程度で、語り合える喜びに比例する。音楽の楽しみは聴くことだけではない。「聴くこと」と「語り合うこと」とが一体になってこそ音楽の喜びは生まれるのだ。

とはいえ、「よかったぁ・・・!」の感嘆の声をあげるだけで満足するのではなく、もっと彫り込まれた表現で自らの音楽体験についての言葉を紡ぐには、もとよりそう容易なことではない。思えば私自身もかつては、「うまかった/へただった」、「よかった/よくなかった」、「感激した/退屈だった」といった大雑把な印象以上のことを、ほとんど口に出来なかった記憶がある。そして何か気の利いたことを言おうと、通ぶって「あそこのファゴットはあんな風に吹いていいものかねえ」などと口にしてはみても、どうにも周囲と言葉が噛み合わず、後味の悪い思いをしたことも、少なからずあった。音楽の余韻をもっと楽しもうとして、いろいろ話をしていたはずなのに、「そんな細かいことがどうかしたの?」と気色ばまれたりして、せっかくのコンサートの余韻が冷めてしまうのだから、本末顛倒ではある。だが今にして思えばああした行き違いは、単に当時の私の言葉のレベルが余りにも稚拙だっただけのことであろう。「音楽を語る言葉を磨く」ことは、十分努力によって可能になる類の事柄であり、つまり音楽の「語り方=聴き方」には確かに方法論が存在するのだ。

美術史家のゴンブリッチは名著『美術の歩み』の中で、興味深いことを書いている。例えば人がある絵画をなぜ傑作だと感じたのかは、「普通、言葉では正確に説明することはできない。しかし、このことは、この作品もあの作品も、同じようによいものだとか、好き嫌いの問題は議論することができないとかいう意味ではない」。こうした問題について議論をすることを通して、「以前には見逃していた点に私たちは気付くようになる。私たちは、各時代の芸術家たちがなし遂げようと努力した調和ということに関して、感覚を高めるようになる。これらの調和に対する私たちの感覚が豊かになればなるほど、私たちは、それらの作品をもっと楽しむようになる」。

端的に言って、「聴き方」とは「聴く型」のことだと、私は考えている。

(音楽の聴き方「はじめに」より 要約・抜粋)

 

 

とても魅力的な導入部ですね。聴く喜びと語り合える喜び、そして語り合うことで豊かになる感覚。この本、とても読み応えがあって、一方でかなりマニアックなところもあって、何度も読み返しました。ふせんを貼りまくった箇所も多く、ピンポイントに紹介したいところも多く。さてどうしたものかと放置していた期間も長く。最終的には、いくつかの章から気になった箇所をピックアップしてその部分を(ここ大事!章全体をではなく部分を)要約・抜粋するかたちで紹介させてもらいます。原文は変えていませんが、切り貼りされているところもあります。予めご了承ください。マニアックと書いた理由は、本の目次を見てもらったら。

ではいきます!

 

 

第一章 音楽と共鳴するとき

思うに音楽は、その場の空気だとか、よく分からない相性だとか、聴いたときの体調や気分だとかに、ひどく左右される芸術である。もちろん小説などでも、たまたま疲れていたりすると集中力を欠いて大切な箇所を読み落としたりしがちだし、せっかく楽しみにしていた展覧会に行ったのに、気分が乗らなくて印象が薄くなるということもあるだろう。だが、ある程度の線引きはできる。「なるほど、これはすごい作品なんだろうけど、今の自分には少し早いなあ」とか、「こういうものを評価する人がいるのは分かるけれど、自分の好みではないなあ」とか、「大傑作というわけではないのだろうけれど、今の自分にはとてもピンと来る」とか、「今日は疲れていて何を読んでも頭に入らないや」といった具合に。だが、音楽の場合、ことはそう簡単ではない。端的に言って音楽体験は、何よりもまず生理的な反応である。なぜなら音楽は我々の肉体のあらゆる神経に触れるからである。触れてくるものを客観的に判断するのは難しい。例えば「あそこでぐっと来る」といった、身体の奥の漠然とした疼きのようなものについての感想に終始する理由は、まさにこのあたりにある。

とはいえ、音楽に対する生理反応がまったく議論不能かといえば、もちろんそんなことはない。ある音楽に反応した、あるいはしなかった、そこには必ず理由があるはずだし、だからこそ「音楽についての言説空間」とでも呼ぶべきものが、それなりに成立してきたのだ。例えば「波長の相性」、音楽の調子、タッチ、リズム、テクスチャー等がないまぜになって生まれる、一種の律動のようなものである。私は、ウィーン古典派で定評のある某有名ピアニストの解釈と、どうにも「波長」が合わない。その演奏で多用されるスフォルツァンドを聴いていると、自分の主張を一方的にまくしたてるヒステリックな口調を連想してしまい、一向に落ち着けないのである。その演奏の尋常ではない集中力の深さ、身を削るようにして推敲されたに違いない解釈の説得力、非の打ち所のない技術などを認めるにやぶさかではない。しかし頭でどれだけ理解出来ても、身体が嫌がる。これなど「あのタレントの笑うときの口元の表情が好き/嫌い」といった議論と何ら変わるまい。ただの好き嫌いである。

これとは逆に、あらかじめ聴き手がある波長でスタンバイしており、たまたま周波数がそれと一致する音楽を耳にすると、過剰とも思える同調反応を示すということもあるだろう。若い頃に極度の思い入れのあった音楽が、ある年齢を境に何も感じないようになってしまう、心理的波長にまったく反応しなくなってしまうことも。音楽とは人の束の間の気分に左右される、まことに移ろいやすい芸術ではある。いずれにせよ私たちは、他のどんな芸術にも増して音楽体験は、こうした生理的な反応に左右されやすいことを、よく自覚しておいた方がいい。「自分はこういうタイプのメロディーにぐっと来てしまうクセがあるんだよなあ」とか、「こういうリズムを聴くと反射的に嫌悪を感じてしまうんだ…」といった具合に、自分の性癖を理解しておくわけだ。それこそが、個人の生理的反応の次元と客観的な事実とをある程度分けて聴くための、最初のステップである。

すべての音楽体験の原点となってくれるのは、まだどんな言葉も湧き上がってこないような、純粋に感覚的な「第一印象」以外にありえないだろう。一体自分はその音楽にどう反応しているのか。音楽体験において一番大切なのは、他人の意見や世評などに惑わされず、まずは自分の内なる声に耳を澄ませてみることではないかと、私は考えている。自分が音楽にどう反応しているかをきちんと聴き取ってあげる、実はこれはそんなに簡単なことではない。マスメディア時代に生きる私たちは、音楽を聴くより以前に既に大量の情報にさらされているし、知らないうちに「音楽の聴き方」についていろいろなことを刷り込まれている。それに他人の意見や反応だって気になる。

そして私自身が音楽を聴くときの目安にしているのは何かといえば、それは最終的にただ一つ、「音楽を細切れにすることへのためらいの気持ちが働くか否か」ということである。細切れとはつまり、演奏会の途中で席を外したり、CDなら勝手に中断したりすることだ。何かしら立ち去りがたいような感覚と言えばいいだろうか。これは「分かる」とか「よかった」とか「ぐっと来る」とか、そういうこととは必ずしも関係ない。すぐにはピンと来ないかもしれない。だが、「これは最後まで聴いてあげなくてはいけないものだ」という感情がどこかに湧いてきたとすれば、それこそが「縁」というものだ。そのコンサート/CDは今のあなたにとって、まだ縁がない音楽だったのかもしれない(もちろん将来縁が出来る可能性は大いにある)。いずれにせよ私たちは、今の自分にとって「縁」のあった音楽から始めるしかない。不可分/不可逆な時間を共有出来るパートナーとしての音楽を少しずつ増やすことを通して、自分だけの図書館を、つまり自分自身を作り上げていくのだ。

「思うのだけれど、クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評価とは合致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。[中略] 当たり前のことだけれど、それはほかの誰の体験でもない。僕の体験なのだ。」(『意味がなければスイングなない/村上春樹 より引用)

(音楽の聴き方「第一章 音楽と共鳴するとき」より 要約・抜粋)

 

 

第二章 音楽を語る言葉を探す

音楽の少なからぬ部分は語ることが可能である。それどころか、語らずして音楽は出来ない。音楽は言葉によって作られる。一流の指揮者のリハーサルなどを見れば、このことは一目瞭然である。彼らが練習で用いる語彙は、明確にいくつかのカテゴリーに分類することが出来る。一つは「もっと大きく」とか「ここからクレッシェンドして」といった直接的指示。二つめは「ワイングラスで乾杯する様子を思い描いて」といった詩的絵画的な比喩。三つめは、音楽の内部関連ならびに外部関連についての説明。内部関連とは「ここはハ長調だ」とか「再現部はここから始まる」といった音楽構造に関するもの。外部関連とは作品の歴史的文化的な背景についての説明などである。どれも「音楽を語る言葉」としてポピュラーなものだ。だが私が何より注意を促したいのは四つめの語彙、つまり身体/運動感覚に関わる彼らの独特の比喩の使い方である。いわく「四十度くらいの熱で、ヴィブラートを思い切りかけて」(ムラヴィンスキー)、「いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで」(クライバー)、「おしゃべりな婆さんたちが口論している調子で」(チェリビダッケ)等々。それまで単なる抽象的な音構造としか見えなかったものが、これらの言葉に重ねられるやいなや突如として受肉される。体温を帯びた生身の肉体の生きた身振りとなるのである。

あるいは一八三九年に出版されたツェルニーの『演奏について』という本の中では、私たちが一般に物理的強弱に関わると考えている用語が、次のように定義されている。まずピアニッシモは「謎めいた神秘的な性格、遠い彼方からのこだまのざわめきのように、聴き手を魅了する効果」。ピアノは「愛らしくて柔らかく穏やかな平静さ、または静かな憂鬱」。フォルテは「エチケットに反しない範囲えの、独立心に満ちた決然とした力、ただし情熱を誇張するわけではない」。そしてフォルティッシモは「歓呼にまで昂ぶった喜び、または憤激にまで高められた苦痛」。これらの言葉は、今日のような抽象的/普遍的な「用語」になる以前、もともとデジタル的な音の強さの指示ではなく、それぞれ特定の気分で染められた身体感覚の連想を伴っていたわけである。

(音楽の聴き方「第二章 音楽を語る言葉を探す」より 要約・抜粋)

 

 

第四章 音楽はポータブルか?

「音楽を聴く/語る」とは、音楽を歴史の中でデコードする営みである。それはどういう歴史潮流の中からやってきて、どういう方向へ向かおうとしているのだろう? こちらからはこう見えるけれども、向こう側から眺めればどんな風に見方が変化するだろう? 一体どの歴史的立ち位置から眺めれば、最も意味深くその音楽を聴くことができるだろう? 音楽を聴くもう一つの楽しみは、こんな風に歴史と文化の遠近法の中でそれを考えることにある。歴史的文化的に音楽を聴くというのは、実はそんなに難しい話ではない。詳しい知識はなくとも、音楽を聴くとき私たちは常に、何らかの歴史/文化文脈の中で聴いている。逆に言えば、背景についてまったく知らない音楽は、よく分からないことの方が多い。例えば多くの人にとってポピュラー音楽が「分かりやすい」のは、その文脈が人々にとって身近なものだからだろうし、逆にクラシック音楽や雅楽が「難しい」のは、歴史や文化の背景がかなり遠いところにあるからだろう。私たちは美術館で絵を前にして、反射的に作者の名前を見ようとする。人によっては必ずまず作者の名を確認してから作品を見る。またコンサートで作曲家の名前も作品タイトルも確認しないなどという人は、まずいないだろう。そしてラジオで気になる音楽が流れていたら、最後のアナウンスまで聴いて、誰がそれを歌っていたか知ろうとするはずだ。

であればこそ、今の時代にあって何より大切なのは、自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているのかをはっきり自覚すること、そして絶えずそれとは別の文脈で聴く可能性を意識してみることだと、私は考えている。言い換えるなら、「無自覚なままに自分だけの文脈の中で聴かない」ということになるだろう。自分が快適ならば、面白ければそれでいいという聴き方は、やはりつまらない。こうしたことをしている限り、極めて限定された音楽(=自分とたまたま波長が合った音楽)しか楽しむことは出来ない。時空を超えたコミュニケーションとしての音楽の楽しみがなくなってしまう。むしろ音楽を「最初はそれが分からなくて当然」という前提から聴き始めてみる。それは未知の世界からのメッセージだ。すぐには分からなくて当然ではないか。快適な気分にしてもらうことえはなく、「これは何を言いたいんだろう?」と問うことの中に意味を見出す、そういう聴き方を考えてみる。

「音楽を聴く」とは、初めのうち分からなかったものが、徐々に身近になってくるところに妙味があると、考えてみるのだ。こうしてみても初めのうちは退屈かもしれない。確かに忍耐の要る作業ではあろう。音楽など自分と波長の合うものだけをピックアップして、それだけを聴いていればいい、それも一つの考え方だろう。だが「徐々に分かってくる」という楽しみ方を知れば、自分と波長が合うものだけを聴いていることに、そのうち物足りなくなってくるはずである。これはつまり自分がそれまで知らなかった音楽文化を知り、それに参入するということにほかならない。徐々にさまざまな陰影が見えてくることもある。それらの背後には何らかの歴史的経緯や人々の大切な記憶がある。このことへのリスペクトを忘れたくはない。「こういうものを育てた文化=人々とは一体どのようなものなのだろう?」と謙虚に問う聴き方があってもいい。歴史と文化の遠近法の中で音楽を聴くとは、未知なる他者を知ろうとする営みである。

(音楽の聴き方「第四章 音楽はポータブルか?」より 要約・抜粋)

 

 

結構お腹いっぱいだったでしょうか?

本書のなかで比較的に読みやすい箇所、誰が読んでも共感しやすい部分をピックアップさせてもらいました。僕は、結構腑に落ちることが多くて「ふむふむ、そうかそうか、そうだそうだ」と理解が染み込んでいきました。なによりも感覚的なことをロジカルに説明してくれているのは大きかったですね。

本の【おわりに】項では、28の箇条書きで本書がまとめられています。そのなかから半分くらいをご紹介します。「ああ、自分もそんな経験あるなあ」と思えるものがきっとあります。

 

 

おわりに

・他人の意見は気にしない。もちろん「聞く耳」を持つにこしたことはない。だがいちいち「本当はどうだったのですか?」などと他人の顔色をうかがう必要はない。「誰がどう言おうと、自分はそのときそう感じた」、これこそがすべての出発点だ。

・世評には注意。「看板に偽りあり」のケースは意外に多い。そもそも人と意見が違っていたとしても、そこには必ず何か理由がある。「他人との違い」を大切にする。

・自分のクセを知る。そして客観的事実と自分の好みはある程度分けて聴く。そのためにも、自分がどういうものに反応しやすくて(過大評価しやすく)、どういうものに対して鈍いか(過小評価しやすいか)、よく分かっておいた方がいい。

・「理屈抜き」の体験に出会うこと。定期的に音楽を聴く習慣を持つならば、そのうち「これは間違いなくこうだ!」と思える瞬間が来るはずである。そのためにも数を聴かないと始まらない。

・「絶対に素晴らしい!」と「明らかにひどい!」の両極の間には、格別いいとも悪いとも断定しがたい、さまざまな中間段階が存在している。これらは聴く角度次第でいろいろな評価が可能だ。ありうべき判断に幅のある音楽は多い。

・名曲(名演)とは、どんな文脈を当てはめても、「やっぱり凄い・・・」となる確率が桁外れに高い音楽のことだ。確かにそういうものは存在する。

・そのジャンルに通じた友人を持つこと。「この角度から聴けばこう、あの角度から聴けばこう」といった具合に、複数の聴き方の可能性を教えてもらおう。

・定点観測的な聴き方をする。例えば同じ(地元の)オーケストラの定期演奏会を必ず訪れてみる。やがて出来の微妙な違いが見えてくるはずだ。「聴く耳」を作るには、有名音楽家のつまみ食いよりも、こちらの方がいい。

・音楽は視なければ分からない。録音で音楽を聴くことに慣れている私たちは、身体が現前していないのに音だけが響いてくる異様さを忘れがちだ。しかし本来音楽とは生身の人間の身体から発せられるものであって、耳で聴くだけの音楽はどうしても全身で同調することが難しい。その意味でも、特に最初のうちは、ライブ中心に聴いた方がいいと思う。

・音楽を言葉にすることを躊躇しない。そのためにも音楽を語る語彙を知ること。音楽を語ることは、音楽を聴くことと同じくらい面白い。まずは指揮者のリハーサル風景の映像などを見てほしい。

・音楽についての本を読むことで、聴く幅が飛躍的に広がる。

・音楽に「盛り上がり図式」ばかりを期待しない。その音楽とは不似合いな構成をこちらが勝手に期待して、肩透かしを食うということがある。最初から最後までBGM風に平坦な音楽もあれば、聴き手をけむにまく終わり方もあるし、意識的に断片を並べたような構成もある。いろいろな組み立てパターンを知っておく。

・ある音楽が分からないときは文脈を点検する。特に背景知識の有無、それをどんな場で聴いたか、こちらが何を期待していたかに注意。「ぴんと来ない」ケースの大半は、バックグラウンドに対する共感がなかったり、場違いなTPOで聴いてしまったり、見当はずれな期待をしてその対象に臨んだことに起因する。

・そのジャンルのアーカイブを知る。「ジャンル」として確立されている音楽の場合、必ず観客が暗黙の前提にしている架空の図書館がある。たくさん聴いて、読んで、いろいろな人名や作品を覚え、多くの人と話すこと。

・自分でも音楽をしてみる。ただし「うまい人はよく音楽が分かっている/下手な人間は音楽について語る資格はない」なとど思わないこと。堂々と品評するアマチュアの権利を行使する。

(音楽の聴き方「おわりに」より 抜粋)

 

 

音楽の聴き方 ー聴く型と趣味を語る言葉/岡田暁生・著 (中公新書)

 

目次

はじめに

第1章 音楽と共鳴するとき ー「内なる図書館」を作る
音楽の生理的次元/相性のメカニズム/「内なる図書館」と人の履歴/「好み」の社会的集団/突き抜けた体験/時間の共有としての音楽体験

第2章 音楽を語る言葉を探す ー神学修辞から「わざ言語」へ
「鳴り響く沈黙」とドイツ・ロマン派の音楽観/神の代理人としての音楽批評/聴衆は信者か公衆か?ーストラヴィンスキーのバイロイト批判/鑑定家としての音楽批評?/音楽を「する」「聴く」「語る」の分裂/音楽は言葉で作られる?/「わざ言語」について/「地元の人」の言葉/教養主義と日本固有の問題/「わざ言語」を作り出す

第3章 音楽を読む ー言語としての音楽
「音楽の正しい朗読法」一八世紀の演奏美学/音楽・言語の分節規則/音楽の句読法と民族性/音楽のセンテンスを組み立てる/多楽章形式について/音楽の意味論/「音楽は国境を越える」というイデオロギー/アーノンクールの近代批判と「言語としての音楽」の崩壊/「ケージ以降」への一瞥/言語的聴取の退化?

第4章 音楽はポータブルか? ー複文化の中で音楽を聴く
再生技術史としての音楽史/演奏家を信じない作曲家たち/壊死しつつある「音楽の意味」の救済 アドルノのフルトヴェングラー論/完璧主義の実存不安 アドルノのトスカーニ批判/音楽の解釈とは何か/ポリーニのショパン《エチュード集》をどう聴くか/未知のものとして音楽を聴くということ

第5章 アマチュアの権利 ーしてみなければ分からない
音楽は社会が作る/音楽が社会を作る? パウル・ベッカーのテーゼ/音楽は政治的にうさんくさい? 「感動させる音楽」への恐怖/音楽を中断するということ アイスラーの《ハリウッド・ソング・ブック》/「聴く音楽」と「する音楽」 ハインリッヒ・ベッセラーの二分法/アマチュアの領分/「聴く」から「する」へ

おわりに

文献ガイド

あとがき

 

 

 

文献ガイドもとても充実していて、まるで図書館の[音楽]の棚に置かれているような専門的本が、ジャンルや時代などバリエーション豊富に紹介されています。気になったものをいくつか読んでみる予定です、ついていけるかな。。わからないなりにシャワーを浴びることも大切、ただただ流れ落ちることもあるでしょう、聴いて、読んで、いろんな方法で音楽が楽しめたらいいなあと思います。

とても堅苦しい印象になったかもしれませんが、これって音楽だけじゃないですよね。食文化だって味覚とそれを伝える言葉によって発展してきたもの。受け継ぎたい味、誰かに教えたくなる味。味覚で直に伝えられないとき、それは言葉によって語られます。そのとき「おいしい味」のひと言だけでは足りない、「とにかくおいしいから」で突き通す?!

一緒に食べた料理、一緒に見た景色、一緒に聴いた音楽。共感は言葉にすることで刻まれる思い出の記憶も深くなります。食べてほしい料理、見てほしい景色、聴いてほしい音楽。言葉は次の共感へのコミュニケーションの広がりになります。言葉が豊かになるということは、自分のなかの感情や感覚が豊かになること、そう思っています。

語られるべき音楽があって、語られてきたからこそ今に遺る音楽たち。未来に遺したい音楽がここにあるならば、大いに語っていこうじゃないか!そんな心持ちです。

それではまた。

 

reverb.
一冊一冊ゆっくりそしゃくしているところです。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第25回 「クラシック音楽とは何か/岡田暁生 著」を読む

Posted on 2019/11/11

ふらいすとーんです。

2014年1月から2015年11月まで「クラシックプレミアム(CD付きマガジン)」(小学館・全50巻)に、久石譲のエッセイが連載されていました。もちろんこれが一番の目的で、久石さんの近況、作曲やコンサートの出来事、今考えていること、リアルタイムな久石譲に触れることができる。定期的・習慣的にメディアに登場することがないなか、定点観測できる約2年間は貴重な機会でした。のちに、『音楽する日乗/久石譲 著』(2016)として加筆ふくむ書籍化されています。

小学校で習ったクラシック音楽、大人になってTV・CM・映画に使われ話題になることでふれたクラシック音楽。その範囲の入門者にとって、自分の好む好まざるに関わらず2週間に1回聴く全方位的なクラシック音楽の数々は、能動的で積極的な自分がわかるほど楽しい音楽の授業でした。「あっ、この曲ね、知ってる知ってる」というものもあれば、「あっ、こういう曲名だったんだ」「この作品の一部だったんだ(聴いたことがあったのは)」「うーん、難解、ピンとこない」。もっとほかにいい演奏があるのかなと掘り下げてみたり、気になる作曲家、時代、ジャンルが頭のなかで整理されてきたり。自分が好きなクラシック音楽ってこういうのかな、というのを少しずつかたちづくってくれた期間だったように思います。

CDに耳を傾け、ブックで解説を咀嚼しながら。ささやかならが、自分のなかに今までにはなかった音楽の血が少しずつ注がれているような、そんなたしかな感触がありました。わかりやすく言うと、ジブリ音楽だけを聴いた人が吸収できる久石譲音楽と、オリジナル作品も聴いた人が吸収できる久石譲音楽。そこから受けとれるもの感動の振幅は、雲泥の差があるように。もっとわかりやすく言うと、CM音楽でしか「Oriental Wind」を耳にしたことがない人の感動と、オーケストラ版「Oriental Wind」(WORKS III/メロディフォニー 収録)を聴いている人の感動は、その広さ深さが明らかに違うように。もういいですね。

 

 

「クラシックプレミアム」には、久石譲エッセイと同じく連載されていたものがあります。「キーワードでたどる西洋古典音楽史」、その書籍化されたものが「クラシック音楽とは何か/岡田暁生 著」です。

時代ごとジャンルごと、とてもわかりやすい切り口と語りで、入門者としてはとても学ぶこと多く、毎号楽しみにしていました。誰もが思っているけど恥ずかしくていざ聞けない疑問、わかっていたようでごっちゃになっていたこと、「よし、おまえ説明してみろ」と言われたら、「えっと…感覚的にはわかってるんだけど…うーん、なんて言ったらいいのかなあ…あれ、よくわかってなかったかも」みたいなこと。末に記した目次一覧を見てください。たとえば、【交響曲にはなぜ複数の楽章があるのか?】【オペラとオペレッタは違う!】【対位法の難しさ】【名演とは何か】【オーケストラになぜ指揮者がいるのか】(目次より)などなど。なんか興味もってきましたか? もし、気になってきた!という人は、おそらく潜在的に自分のなかでも疑問くすぶっていたことかもしれませんね。

そして、僕は。

クラシック音楽を好きになること。このことについて、わかりやすく語られている本の導入部【はじめに】項、惹きつけるには十分なほどです。「趣味を極める」ー「膨大な手間・時間がかかる」ー「探究心や根気」ー「要領がわかる」。クラシック音楽にかぎらず、多くの趣味において、この一連の工程は同じかもしれません。知らない広大なフィールドに立ち、さてどこへ向かえばいいのか?どっちの方角をめざす?目的地までの順序・通過点は?絶対に立ち寄らないといけない場所は?。打算的な近道はないからこそ、”かけただけ”の到達点や感動、手に入れたものがそこにある。振り返ったら出発点の自分が遠くほほえましい、たしかにあの場所とはちがう変化した自分が、いる。

本より【はじめに】をご紹介します。

 

 

はじめに

「趣味を極める」という言い方がある。その代表的な対象はといえば、例えばワイン(あるいは日本酒)、蘭の栽培、切手やコインや美術の蒐集(しゅうしゅう)などだろうか。これらに共通するのはコレクション性の高さ(多様さ)、そして「極める」には膨大な手間暇がかかるという点だろう。蒐集自体に半端ではない時間がいるということ。だが単に集めるだけではだめで、集めてものを丁寧に自分なりに整理する必要があるということ。集めるにあたっては、それなりの一貫性、つまり「趣味=センス」が問われるということ。そしてそのためには、対象についての相当に深い知識が必要だということ。何をどう集めるかを通して、その人の見識のみならず、自ずと人となりが滲み出てくるということ。「趣味を極める」には「暇(とお金)」があるだけではだめで、相応の「手間」、すなわち探究心と根気のようなものが必須なのである。音楽を美術品のような意味で蒐集所有することは出来ないにせよ、自分の記憶の中に整理棚のようなものを作って、そこに自分がこれまでに聴いたものをあれこれ並べて、自分だけの空想の博物館を一生かけて構想していく楽しみは変わるまい。もちろん「聴いてその時に楽しければいい音楽」というものもあるし、こうした消費的な音楽がもつ「束の間の喜び」を否定する気はない。だが他方、一種のコレクション性を暗黙裡にもとめている音楽ジャンルもあるわけで、クラシックはジャズと並んでその代表格だと言っていいだろう。

今日のわたしたちにとって、「趣味を極める」ための悠長で贅沢な時間を見つけることは、加速度的に難しくなっている。こうも日常が何かに急き立てられるような息苦しいものになってくると、難しいことは言わずとも、単なる「気晴らし=リクリエーション」であればそれでいいという気にもなってくる。しかしリクリエーションと趣味とは、似て非なるものだということを忘れたくはない。リクリエーションとは実は、明日の労働のために必要な気力体力を再び回復=リ・クリエーションするための時間なのであって、その意味では労働サイクルの一部なのだ。労働する者はきちんと余暇に「気晴らし」ないし「憂さ晴らし」をしておいて、明日に備える義務があるのである。

そこに行くとクラシック音楽は、幸か不幸か、リ・クリエーションにはまったく向いていない。そもそもそれはもっと時間がゆったり流れていた時代に作られた音楽であって、クラシック音楽の多くが時間をかけすぎるくらいかけて悠然と流れていくのは、そのせいだ。しかも音楽自体が長いというだけではない。それを存分に味わうには、なんだかんだと知識が必要ときている。作曲家の名前、作品の名前、作られた時代とその背景等々──ただ受け身で響きに身を任せるというわけにはいかない。聴く側が能動的になる必要がある。音楽を集中して聴き、それについて積極的に勉強する探究心がいる。「敷居が高い」という印象をクラシックが与えるとすれば、それはこのせいだ。聴いてすぐ楽しめるというわけにはいかないのである。本当はいったんある程度の要領さえわかれば、こんなに面白い音楽ジャンルはそうないのだが。

「要領がわかる」──どんな趣味でもそうかもしれないが、クラシック音楽の敷居をまたぐとき一番難しいのはこれだ。つまりジャンルに既になじんでいる人々にとっては今さら説明の必要もないのだが、しかし部外者にとってはどうにも要領を得ない、そういう死角のようなものが色々とあるのである。本文中でも書いたが、例えば私自身かつて、どうしてクラシックの交響曲だのピアノ・ソナタだのには「楽章」などというものがあるのか、よくわからなかった。一つの曲(例えば「ベートーヴェンの交響曲第五番」など)のはずなのに、どうしてそれが四つの曲(楽章)から出来ているのか。おまけにその「四つの曲」を、どうして第一楽章の次は第二楽章、その次は第三楽章という具合に、順番通りに聴かなければいけないのか。ジャンル通にとっては自明すぎるがゆえに、逆に口に出して自覚的に説明することが難しく、そして門外漢はまさにそこが要領を得ないせいで、いつまでたってもジャンルの中に入っていけない、そして門外漢が「どうして?」と問うても、通の側からすれば「だって当たり前でしょ」ということになってしまう──「死角」とはそういうものである

本書で私は、外から見た時のクラシック音楽のこうした死角を、色々と考えてみた。自分にとってはあまりに自明なことを、人はなかなか自覚できない。ましてその根拠を説明することはとても難しい。だが何かの本質とは実は、まさにこの死角においてこそ、最も端的な形であらわれてくる。その意味で本書は、「一体クラシック音楽とは何なのか」という難問に対する、私なりの答えの模索の試みでもある。

(クラシック音楽とは何か 「はじめに」項 より)

 

 

さて、この【はじめに】項で投げられた疑問は、本を読みすすめるなかでひとつひとつ丁寧にほどかれていきます。たとえば【交響曲にはなぜ複数の楽章があるのか?】項では。

 

~中略~

今にして思えば、当時の私は歌謡曲のアルバムを聴くような感覚で、交響曲を聴こうとしていたのだろう。いわばコース料理と単品の違いがわかっていたなかったのだ。ショパンの《英雄ポロネーズ》とか、シベリウスの《フィンランディア》とか、グノーの《アヴェ・マリア》といった曲は「単品」である。単独で聴くものである。それに対して通常四つの楽章を持つ交響曲はコース料理だ。そしてかつての私は、順番に出てくるスープやサラダやメインやデザートを見て、「どうしてこの順番で、しかも全部食べなければいけないんだ? 今日は別にスープはいらないんだけど……どうせならサラダもなしで、メインを二種類だけ注文して終わりにしたいんだけど……」などと考えていたわけだ。だがこれは勘違いも甚だしいわけで、「絶対にこの順番通りに、通しで最初から終わりまで聴いてもらわないと困る」と考えて、作曲家は交響曲を作っているのである。

「コースと単品」の代わりに「短編小説と長編小説」、あるいは「寸劇と四幕の悲劇」などという比喩を出してもいいであろう。シェークスピアの『マクベス』の各幕を、あるいはトーマス・マンの『魔の山』の各章を、順番をばらばらにして読むとか、好きな章だけ読んで、他のところは眼を通さないなどということはありえない。じっくり最初から丁寧に読んでいかないと、すぐに筋がこんがらがってくる。登場人物の誰が誰か分からなくなってくる。だから長編小説は寸劇や短編小説よりもはるかに読むのに根気がいる。だがじっくり時間をかけてこそ初めて味わえる感動の深さというものが、そこにはある。だからこそ数々の偉大な作曲家たちは、交響曲をあらゆるジャンルの金字塔と考えた。

~中略~

(クラシック音楽とは何か「交響曲にはなぜ複数の楽章があるのか?」項 より一部抜粋)

 

 

以下、交響曲の「定番コース」としてのソナタ形式について、作曲家・時代ごとの違いや変遷についてふれられていきます。料理や物語といった日常からの例えはとてもわかりやすく、すっと入ってきますね。映画や小説を一通り見たうえで、この場面が好き・この章を何回も読んでしまうはあるとして、最初からピンポイントにそこしか知らない、はたしかに作品の魅力をもったいない形でしか受け取れていないのかもしれない。極端な話、ガマンしてでも一回は始めから終わりまで通して聴いてみる。映画は2時間、小説なら数日から数週間じっくりかかることも、クラシック交響曲は1時間。楽章ごとに間隔をあけて聴いたとしても、立派な時間的価値があると思います。

もし!もし、映画『魔女の宅急便』を好きだと言っている人がいて、「飛行船から落ちそうなトンボをキキが助けるシーンは最高だよね、そこしか知らないけど、超感動する。」なんて言われてしまったら。「ちょっと待って!たしかにそこはクライマックスだけど、でもその感動へ向かう紆余曲折、物語がちゃんとあるんだよ。そこだけであの映画が好きというのはちょっとザンネンというか、もったいないよ。」って、すごくシンプルですね。

 

 

当サイトでは、「クラシックプレミアム」全50巻、毎号レビューを記していました。久石譲エッセイを抜粋紹介することがメインです。そのなかで、「キーワードでたどる西洋古典音楽史」エッセイ(「クラシック音楽とは何か/岡田暁生 著」として書籍化)、とても面白く興味深かったとき併せて紹介していたものもあります。

本の目次からどこにあたるのかを整理したので、ぜひ本の全貌を知る、本を手にとるきっかけになったらうれしいです。紹介している文章はエッセイから抜粋した一部分です。

 

Blog. 「クラシック プレミアム 5 ~ヴィヴァルディ / ヘンデル~」(CDマガジン) レビュー

→【交響曲はクラシックのメインディッシュ】

Blog. 「クラシック プレミアム 7 ~チャイコフスキー1~」(CDマガジン) レビュー

→【交響曲にはなぜ複数の楽章があるのか?】

Blog. 「クラシック プレミアム 12 ~モーツァルト3~」(CDマガジン) レビュー

→【バッハはお好き?】

Blog. 「クラシック プレミアム 13 ~ブラームス1~」(CDマガジン) レビュー

→【対位法の難しさ】

Blog. 「クラシック プレミアム 23 ~グリーグ / シベリウス~」(CDマガジン) レビュー

→【名演とはなにか】

Blog. 「クラシック プレミアム 24 ~ベートーヴェン5~」(CDマガジン) レビュー

→【名演とはなにか】

Blog. 「クラシック プレミアム 28 ~ピアノ名曲集~」(CDマガジン) レビュー

→【オーケストラになぜ指揮者がいるのか】

Blog. 「クラシック プレミアム 29 ~ブラームス2~」(CDマガジン) レビュー

→【オーケストラになぜ指揮者がいるのか】

Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 46 ~ショスタコーヴィチ~」(CDマガジン) レビュー

→【即興演奏再考】

Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 47 ~ハイドン~」(CDマガジン) レビュー

→【即興演奏再考】

Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 48 ~新ウィーン楽派の音楽~」(CDマガジン) レビュー

→【音楽の終わり方】

 

クラシック音楽とは何か/岡田暁生・著 (小学館)

目次

はじめに
「クラシック」音楽の黄金時代は一九世紀
音楽史の流れ──ウィーン古典派まで
ロマン派は自己表現する
「現代音楽」と二〇世紀
交響曲はクラシックのメインディッシュ
交響曲は一九世紀の頑張りソング?
交響曲にはなぜ複数の楽章があるのか?
オペラは「クラシック」じゃない?
サロンの物憂いプレイボーイたちの音楽
家庭音楽とドイツ教養市民
オペラとオペレッタは違う!
バッハはお好き?
対位法の難しさ
バロック音楽の楽しみ方
モーツァルトの凄さとさりげなさ
モーツァルトとベートーヴェンの違いについて
「後期ベートーヴェン」というスフィンクス
シューベルトと病み衰える快楽
うんざりするほど長い音楽について
宗教音楽について
ワケのワカラナイ音楽について
名演とは何か
演奏のよしあしはどうすればわかる?
アンチ・エイジング時代の演奏家たち
古楽演奏とは何か
オーケストラになぜ指揮者がいるのか
オペラの客いろいろ
音楽と旅
ヨーロッパ音楽都市案内──ナポリ
ヨーロッパ音楽都市案内──ヴェネツィア
ヨーロッパ音楽都市案内──ウィーンのただならぬ場所
ヨーロッパ音楽都市案内──ザクセンの音楽
ヨーロッパ音楽都市案内──バイエルンの音楽
ヨーロッパ音楽都市案内──一九世紀の首都パリ
故郷の歌
クラシック音楽の現代性を考えてみる
私見──音楽史で最も偉大な作曲家
一九七〇~九〇年──クラシック演奏の転換点?
即興演奏再考
音楽の終わり方

 

*本書は、小学館発行『クラシックプレミアム』誌に平成26年1月から平成27年11月まで連載された記事に加筆して構成したものです。

 

 

もちろん各レビューには、久石譲エッセイの紹介もあります(こちらがメイン)。ふと読み返しても濃密な音楽講義だなあと思うのですが、飛び飛びで読んでこんがらがるよりも、コンプリートされている書籍をじっくり読むことをおすすめします。クラシック音楽寄りな久石譲の音楽活動がじっくり堪能できます。

 

目次は

 

 

久石譲著書からクラシック音楽を攻めるか、「クラシック音楽とは何か/岡田暁生・著」からクラシック音楽を攻めるか。この二冊からだけでも得られる音楽体験は大きなものがあります。

僕は、2年間の「クラシックプレミアム」を通して、なにがわかったのか、どう自分のなかで体系的に整理できたのか。これからクラシック音楽を少しでも豊かに楽しみ「趣味を極める」ための「要領がわかった」入り口部分。

”クラシック音楽の洗礼”と題して、【指揮者、演奏者、録音時代、録音環境、年版/改訂版、編曲版、補筆版、スコア版、楽器時代、楽器配置、録音場所、録音技術、周波数】という13の切り口とものさし。これらの条件を照らし合わせながら好みの演奏盤を探していく。誰にでも経験あることと思いますが、興味をもった作品を聴いてみたけど全くフィットしなかった。そして、巡り巡ってある日聴いた別の演奏では、驚くほどすこぶるフィットしてきた。第一印象がよくなかったあまりに、作品の良さを理解できぬまま遠のいてしまっていたもの。もし探すとっかかりがあれば、もっと素敵で運命的な出会いが待っているのかもしれない。

このクラシック音楽の宇宙のなかから、自分のお気に入りの愛聴盤を探す難しさ。そこから導き出されたもうひとつの面は、《久石譲(作曲)の、久石譲による(指揮・演奏)、久石譲による(録音・パッケージ化)》という、当たり前のことすぎて素通りしそうなことへの、決して当たり前ではない感謝!そういったことをたっぷりと書いていたように思います。

 

 

 

もっと直感的にクラシック音楽に入っていきたい、そういう久石譲ファンには。これまで著書やインタビューで語られてきた登場してきたクラシック作品、久石譲も聴き親しんできたクラシック演奏盤。このあたりから扉をたたいてみるのもいいですね。

 

 

もうひと押し!

そう言うならば、久石さんがこれまでに演奏会で指揮したクラシック作品。

 

  • ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲第2番 ワルツ
  • ラヴェル:ボレロ
  • ワーグナー:楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」序曲
  • ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」より ワルキューレの騎行
  • バーバー:弦楽のためのアダージョ op.11
  • ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調「運命」 op.67
  • チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64
  • シューベルト:交響曲第7番 ロ短調 D.759「未完成」
  • ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 op.95「新世界より」
  • ホルスト:組曲「惑星」
  • ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」
  • モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550
  • ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 op.68
  • ロッシーニ:歌劇「ウィリアム・テル」序曲
  • チャイコフスキー:バレエ組曲 「くるみ割り人形」 より
  • ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
  • プロコフィエフ:「ロメオとジュリエット」組曲第2番より
  • プロコフィエフ :ピーターと狼
  • ガーシュイン:ラプソディ・イン・ブルー
  • ガーシュイン:パリのアメリカ人
  • ヴィヴァルディ:ラ・フォリア〜ヴィヴァルディの主題による変奏曲
  • シベリウス:フィンランディア
  • グリーグ:組曲「ペール・ギュント」より抜粋
  • サン=サーンス:動物の謝肉祭
  • ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 作品92
  • ドビュッシー(ビュッセル編):小組曲
  • ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調
  • ムソルグスキー(ラヴェル編):「展覧会の絵」
  • ヴェルディ:歌劇『運命の力』より「序曲」「神よ、平和を与えたまえ」
  • ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲」「愛の死」
  • マスカーニ:歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』より「間奏曲」
  • プッチーニ:歌劇『蝶々夫人』より「序曲」「ある晴れた日に」
  • プッチーニ:歌劇『ジャンニ・スキッキ』より「私のお父さん」
  • マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調
  • ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ニ短調 作品47
  • シューマン:チェロ協奏曲
  • ブラームス:交響曲第4番 変ホ短調 作品98
  • ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲
  • レスピーギ:交響詩「ローマの松」
  • ガーシュイン:キューバ序曲
  • ブラームス:大学祝典序曲 作品80
  • ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 作品73
  • ブラームス:ハンガリー舞曲第1番
  • ハチャトゥリアン:仮面舞踏会よりワルツ
  • ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90
  • ブラームス:ハンガリー舞曲第5番
  • ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」
  • ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
  • ペンデレツキ:広島の犠牲者に捧げる哀歌
  • チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 op.74 「悲愴」
  • チャイコフスキー:バレエ音楽「眠れる森の美女」作品66より 第1幕 <ワルツ>
  • ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調「英雄」作品55
  • ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲
  • シェーンベルク:浄められた夜 op.4 (弦楽合奏版)
  • ペルト:交響曲第3番
  • ペルト:スンマ、弦楽オーケストラのための
  • カール・オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」
  • ドヴォルザーク:交響曲第8番 ト短調 作品88
  • ドヴォルザーク:スラブ舞曲第2番 ホ短調 作品72
  • ヘンリク・グレツキ:あるポルカのための小レクイエム 作品66
  • ベートーヴェン:交響曲第1番 ハ長調 作品21
  • ベートーヴェン:交響曲第2番 ニ長調 作品36
  • シェーンベルク:室内交響曲第1番
  • ベートーヴェン:交響曲第4番 変ロ長調 作品60
  • ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 op.104
  • ベートーヴェン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68 「田園」
  • ベートーヴェン:交響曲第8番 ヘ長調 作品93
  • ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調 作品93
  • マーラー:交響曲第1番

ほか

*順不同

(2019.11現在)

 

これでもすべては挙げられなかったのですが、たくさんありますね。並べてみて、改めていろいろな作品を指揮していることがわかります。こんなにあるんだぁ…と思うのか、こんなにたくさんのきっかけがある!ここからクラシック音楽をピックアップして楽しんでみようかな! あなたはどちらですか?

僕は、《クラシック音楽という趣味を極めたい》んじゃないんです。《音楽という極めたい趣味のなかにクラシック音楽もある》、それだけです。そしてとても大切な一部分です。久石譲音楽をもっと豊かに楽しむために跳ね返ってくるものがある。

 

それではまた。

 

reverb.
今年の新しい出会いのひとつは「シューベルト:交響曲第5番」でしたー♪

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪

 

Overtone.第24回 「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2019」コンサート・レポート by ふじかさん

Posted on 2019/08/13

ふらいすとーんです。

8月1日静岡を皮切りに国内8公演で開催された「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2019」コンサートツアー。各会場ともにスタンディングオベーションの大盛況!

今回ご紹介するのは、久石譲ファンの一人、ふじかさんのコンサート・レポートです。初日公演、まさに世界初演幕開けの瞬間、とても臨場感あふれる詳細レポートです。

 

 

昨年に引き続き、WDO2019静岡公演の模様をレポートさせて頂きます。

2019年8月1日 静岡市民文化会館 18:30開演

ここ数年での久石さんと新日本フィルによるWDOツアー、静岡市内では初めての開催となりました。

早速会場に入ると、楽団の方がステージで練習をしており、いつものオーケストラの楽器はもちろん、今回はオカリナの音色も聴こえました。

開演時間を過ぎると楽団の全員がステージに集結し、チューニングが終わると束の間静寂。その後割れんばかりの拍手の中、笑顔の久石さんが登場しました。

 

組曲「World Dreams」
ⅰ.World Dreams
例年のコンサートだとアンコールでの演奏機会が多かった一楽章の「World Dreams」ですが、今回は1曲目。組曲化ということでしたが、この楽曲に関しては大きな変更等はなかったと思います。いつもよりメロディの抑揚が感じられ、最初からグッと心を掴まれてしまいました。

ⅱ.Driving to Future
某企業への書き下ろし曲がまさかの組曲の構成曲になるとは思いませんでした。楽曲自体も初めて聴くことなりました。マリンバの刻みに合わせて、メロディのような持続音のような音がチェロから紡ぎだされ、その後弦全体へと広がっていきました。ミニマルとメロディの融合を目指したようなこの楽曲は、近年の『二ノ国Ⅱ』や『海獣の子供』でも実践しており、今の久石さんを凝縮したような作品に仕上がっていました。

Ⅲ.Diary
皇室日記のテーマ曲へと書き下ろされたこの楽曲も組曲への衝撃参入でした。「ラーレー、レーミラー」とゆったりと奏でられるメロディは厳かな雰囲気もありつつ、一楽章と似た要素もあり三楽章にピッタリな楽曲となりました。中盤では一楽章を連想させるようなシーンもあり、終盤ではチューブラーベルズも響きわたり、組曲としての統一性も感じられました。

トータルで聴いてみると、この組曲は2016年WDOのテーマ「再生」の延長線上にある印象を受けました。「再生」から「希望・夢・日常」へ。今回がWDO二期の〆とパンフレットに書いてありましたが、テーマも集結へ向かった気がしました。

 

ad Universum
プラネタリウムの為に書き下ろされた楽曲達が再構成されて、コンサートで披露されました。ミニマルミュージックを軸に構成されており、反復で表現されていく様子はまさしく音のプラネタリウムでした。8曲から構成され、プラネタリウムで使用された楽曲はほとんど使用されていたのはないでしょうか? 絶え間なく演奏され、1曲ずつの感想は書けませんが、印象に残ったことを書いていきます。

冒頭(1.Voyage)では、ゆったりとしたストリングの調べから、突如マリンバのソロが入ります。そこから繰り広げられていくミニマルの刻み。『D.E.A.D』組曲の三楽章『死の巡礼』のように迫りくるリズムが続きます。

2.Beyond the Airでは『The East Land Symphony』の二楽章『Air』のような浮遊する雰囲気を感じられます。全体としてメロディの要素は少ないですが、途中で現れる「ラレド♯ー」のような特徴的なメロディの欠片からは流れ星の煌めきを連想させます。低音から高音へ、波の揺らぎのような部分からは『Deep Ocean』のような雰囲気も。

終盤(8.ad Terra)からは大迫力のミニマルワールド。ひたすら繰り返されるリズムの刻みに終始圧倒されました。大迫力のフィナーレのあと、マリンバのソロで静かに終わるのが印象的でした。

 

ここで前半終了です。

通常だと舞台替えでピアノがステージ中央に設置されますが、今回は設置されませんでした。

 

[Woman] for Piano, Harp, Percussion and Strings
今回のストリングスとピアノのコーナーは久石さんは指揮に専念する形となりました。2008年のツアー以来演奏されて来なかった『Another Piano Stories』の楽曲がドレスアップして披露されました。ピアノパートの高橋ドレミさんが力強い演奏をしておりました。

Woman
レリアンのCM曲で、軽やかなリズムと優雅なメロディが特徴的な1曲。弦の伴奏に合わせて、ピアノから紡がれるメロディが聴いていてとても心地よかったです。演奏終了後、拍手が途切れてしまって、久石さんが客席に拍手をあおる場面も笑

Ponyo on the Cliff by the Sea
『崖の上のポニョ』のメインテーマで、公開から10年以上もたちますが、久石さんのポニョマジックは健在でした。ピアノがポニョのテーマを奏でるとともに、会場からはクスクスと笑い声が。非常にキャッチ-なメロディのこの楽曲ですが、演奏風景を見ていると伴奏隊は非常に複雑な動きをしているのを改めて実感しました。

Les Aventuriers
5拍子が特徴的で、スリリングなカッコよさがあるこの楽曲はファンの中でも人気曲なのでしょうか? マリンバが5拍子の刻みに輪郭をハッキリとして、近年の久石さんの表現の仕方と相まって、非常にキレのあるかっこいい演奏に進化していました。終盤にはピアノのグリッサンドも追加され、ズチャッという最後の〆も進化していました。

 

ここで再度舞台替えがあり、ピアノが指揮台横に設置され、マンドリンとアコーディオン用の音の返しスピーカーも設置されました。

 

Kiki’s Delivery Service Suite
宮崎駿監督作品の交響組曲化の第五弾は魔女の宅急便。

構成曲は
1.晴れた日に…
2.海の見える街
3.パン屋の手伝い
4.仕事はじめ
5.身代わりジジ
6.ジェフ
7.大忙しのキキ
8.パーティーに間に合わない
9.プロペラ自転車
10.とべない!~傷心のキキ
11.神秘なる絵
12.暴飛行の自由の冒険号
13.おじいさんのデッキブラシ
14.デッキブラシでランデブー
15.かあさんのほうき

会場でメモ書きしながら聴きましたが、抜けている可能性もあります…

全体的にヨーロピアンテイストを感じられる楽曲が多い作品で、サントラの雰囲気はそのままに壮大なシンフォニーに生まれ変わっていました。マンドリン、アコーディオン奏者も加わり、よりサントラの世界観に沿った形となりました。

1.晴れた日に…での「ファー、ソー、ラー♭」と一気にオケの音色が花開くところは圧倒されてしまいました。

2.海の見える街では、コンサートでの定番となっている『Kiki’s Delivery Service 2018』等でのアレンジがあまり継承されずに、サントラに沿った形になっていました。そのため後半のスパニッシュワルツのパートは若干短くなっていました。

5.身代わりジジでは、クラリネット、トロンボーン、トランペットのソロ奏者が立ち上がって演奏する場面も。

9.プロペラ自転車では、シンセサイザーメインの楽曲が見事にオーケストレーションされ、まったく違和感なく構成されていました。

10.傷心のキキでは、アコーディオンがキキの心を表現するようにしっとりと演奏されているのが印象的です。

11.神秘なる絵ではシンセの部分にオカリナが登場し、柔らかい音色が会場を温かく包み込みます。

13.おじいさんのデッキブラシは、オケの力強い迫力がピッタリの楽曲。映画終盤でのスリリングなシーンを彷彿とさせてくれました。

15.かあさんのほうきでは、久石さんもピアノ演奏も加わり、豊嶋さんの美しいヴァイオリンソロが会場を包み込みました。アレンジとしては武道館で披露されてものが近く、組曲の最後にふさわしい極上の仕上がりでした。

 

拍手喝采のなか、アンコールへと進みます。

 

il Porco Rosso (Pf.solo)
演奏前に久石さんが、さあ弾こうか!という感じでピアノに向かったのが印象的でした。今回は久石さんによるピアノ演奏が少ないコンサートでしたが、まさかのアンコールでたっぷり堪能できました。しかも今回は国内では初披露となるil Porco Rossoのピアノソロバージョン。左足でリズムを刻みながら、ジャジーな演奏に終始うっとりしてしまいました。

この演奏が終わると、数名が久石さんに花束を渡すシーンも伊右衛門を渡され、会場に笑いが起きる場面も。

Merry-Go-Round
コンサート最後の曲は、ハープから始まる人生のメリーゴーランド、長野チェンバーオーケストラの演奏会でのアンコールとして披露されていたアレンジがWDOでも組み込まれました。終盤の転調後は、オーケストラの迫力に会場も圧倒されて、会場も熱気で包まれました。

 

演奏終了後、割れんばかり拍手の中、次々と観客が立ち上がり、スタンディングオベーションに!楽団のみなさんも帰りはじめても鳴りやまない拍手と声援に久石さんも何度もステージに登場していました。

初日の静岡公演、最高潮の熱気のまま幕を閉じました。

今回のレポートは以上です。

会場での雰囲気を少しでも感じ取ってもらえれば幸いです! 

 

ふじか

 

後日談) by ふじかさん

後日プラネタリウムをまた見ますので、楽曲聴いて改めて加筆あるかもしれないです。

 

 

8月1日 静岡公演風景

from 久石譲コンサート 2019-2020 公式ツイッター
https://twitter.com/joehisaishi2019

 

 

「行った人の数だけ、感想があり感動がある」。会場ごとにプログラムはもちろん、演奏や雰囲気も違う。公演を重ねるごとに修正やバージョンアップをくり返して磨きをかけていく。そう、CDのように全く同じ演奏ってないんですよね。

初日公演だからこその緊張感や集中力ってきっとあります。そんなところ気づかなかった、なるほどそういう見方もあるよなあ、そこが印象的だったんだ。自分にはなかった新しい発見があってうれしいです。そしていつもふじかさんのレポートや着眼点はとても具体的!

ふじかさんとは2018年7月にツイッターでつながりました。全国各地の久石譲ファンとSNSをとおしてつながれる。それをきっかけにコンサート会場でお会いすることもできました。いい時代です。

2年連続のコンサートレポート、ほんとうにありがとうございます!

 

 

 

 

reverb.
コンサートのときは、拍手のメモの交互に忙しいです(^^;)

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第23回 「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2019」コンサート・レポート by いっちーさん

Posted on 2019/08/13

ふらいすとーんです。

8月1日静岡を皮切りに国内8公演で開催された「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2019」コンサートツアー。各会場ともにスタンディングオベーションの大盛況!

今回ご紹介するのは、久石譲ファンの一人、いっちーさんのコンサート・レポートです。台風も心配された長崎公演、無事に開催されてよかったです。

 

 

大感動でした

2年ぶりの九州公演で台風の心配もあった公演でしたが天気も味方してくれて無事に行けたことに感謝です。

World Dreamに感涙してとにかく改めて素晴らしい演奏に感激の嵐です(´°???ω°???`)

後半も崖の上のポニョ・魔女の宅急便アンコールにハウルの動く城にSummer豪華なラインナップにまた感激

また来年も行きます スタッフさんも天候が悪いなかの会場運営お疲れ様でした

楽団の皆様毎回素敵な演奏ありがとうございます(*^^*) これからも益々のご活躍楽しみにしてます

いっちー

 

8月6日 長崎公演風景

from 久石譲コンサート 2019-2020 公式ツイッター
https://twitter.com/joehisaishi2019

 

 

—– お願いメモ —–

もしよかったら、ここにもっと感想をのせたいです!

コンサート行った直後に3~5ツイートくらい書いたなあ、インスタグラムに投稿したなあ、思い溢れてメモにたくさん書いてスクショアップしたなあ。

そんな感想をぜひファンサイトにご提供いただけたらうれしいです!

 

久石譲WDO2019たくさんの感想ツイートにいいね!させてもらいました。ただ、コンサート期間中は[アンコールにふれているもの(写真含む)、プログラムにふれているもの(特にチラシやパンフでプログラム詳細わかってしまう写真)、ホール内を撮影したもの]、これらはツイートしてる内容に共感しながらもいいね!はしませんでした。難しい線引きだとは思うのですが、あぁ~もっといいね!したいんだけどっ!!と思うものもたくさんありました。ご了承ください。

ツアー終了後の今、ネタバレの心配はなくなりましたので、なんでもウェルカムです!(^^)

どうぞよろしくお願いします。

どしどしお待ちしています。

8月いっぱいお待ちしています。

随時更新します。

—– お願いメモ おわり—–

 

 

8月1日 静岡公演風景

8月2日 愛知公演風景

8月5日 広島公演風景

8月8日 東京公演風景

8月9日 東京公演風景

8月11日 京都公演風景

8月12日 兵庫公演風景

from 久石譲コンサート 2019-2020 公式ツイッター
https://twitter.com/joehisaishi2019

 

 

 

〆切:8月31日(土)
久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋
コンタクトフォーム から

くわしくは【お知らせ】をご覧ください。

 

reverb.
スタオベ写真の一枚一枚に、それぞれ感想がついたらどんなに素敵だろう!

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第22回 「交響曲第1番/ブラームス」 ~論理とロマン II~

Posted on 2019/04/07

ふらいすとーんです。

2回にわたって「交響曲第1番/ブラームス」を出発点にお届けしています。ブラームス、ベートーヴェン、パーヴォ・ヤルヴィ、芸術監督、室内オーケストラ、久石譲、NCO、FOC ?!、そんな点たちが線となってつながっていきますように。

 

”こんなのオレのラーメンじゃない”!?

人それぞれに好みの味があります。育ち慣れ親しんだ環境があります。だからといって食わず嫌いで試さないのはもったいない。いろいろ食べてみて、「こんなのもありか」と新しい食感をおぼえることも、「変わったの食べたよ」「めずらしくて美味しかった」「はじめての味」と共感することも。しょうゆ・みそ・とんこつ、きっとあなたがかつて好きだったその味にも、一層の魅力をもって味わいまします。

前回は「交響曲第1番/ブラームス」について、解説や分析など少し難しいところから作品の魅力をご紹介しました。今回はまた違うところから、だからあまり拒絶反応せずにリラックスして。好奇心のセンサーがピクッとなる瞬間に気づけるくらいに。もし、あなたがラーメンを、いやブラ1を嫌いじゃなければ。

 

 

「交響曲第1番/ブラームス」にふれたエッセイをひとつご紹介します。

『音のかなたへ』/梅津時比古・著、知の巨星たちに「最も美しい日本語」と愛された音楽エッセイ。「新・コンサートを読む」新聞連載されていたものなどをまとめた本です。日常的な光景や自身の体験・エピソードと、足運んだコンサートや録音を上手に絡ませあいながら綴られているお気に入りの本です。

 

 

パーヴォ・ヤルヴィ指揮のブラームスの交響曲
外見の陰に隠された優しさ

犬が可愛いのは、喜んだり、怒ったり、悲しんだりする表情がそのまま信じられるからだろう。喜んでしっぽを振っているけれども本当は怒っているのだというような犬は見たことがない。

人と人との付き合いはそこのところが難しい。あの人がすごく丁寧な口調になったときは本当は怒っているのです、などと言われると、お手上げだ。フェイスブックなどで直接に会わないままに個人的な交流が行われるようになって、ますます分からなくなった。もっとも、人間が表面の表情をそのまま受け取れるような生物的仕組みになったら、味気ないのかもしれない。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮のドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団が、ブラームスの交響曲全4曲と協奏曲などを組み合わせた連続コンサート「ブラームス・シンフォニック・クロノロジー」を開いた(2014年12月10,11,13,14日、東京オペラシティコンサートホール)。

初日の交響曲第1番で、テンポが速めなことに軽い驚きを覚えた。鋭角でときにはざらついた響きが、エネルギッシュな前進力として駆り立てる。そのぶん、通常、ブラームスらしい表情として入ってくる重々しさが遠のく。やや違和感があったが、武骨な面と快活な面がないまぜになったブラームスの新たな表情が見える。

第2楽章に入って不意をつかれた。テンポは速めなままに、なんとも心優しい響きが波のように耳を浸してくる。旋律がヴァイオリンなど声部ごとに腑分けされてそれぞれ十分に歌われる。

交響曲第3番の第3楽章で、それはさらに明らかになった。この楽章の冒頭の旋律は、交響曲全体を聴き終わったあとでも口をついて出てくる。それほど歌謡性に満ちている。多くの指揮者がその旋律にすべての響きを束ねて大きくうたい上げるのも故なしとしない。しかしパーヴォの指揮はそれぞれの声部をそれぞれの言葉で語らせる。それによってきめこまかく分かれた旋律の中から、あの遠い憧れに満ちた響きが、ひそやかに、浮かび上がってくる。弦は弦の潤いで語られ、またホルンがその旋律を繰り返してファゴットなどに引き継ぐと、音色の変化が、優しさとしてにじむ。

楽器の多様性を犠牲にして聴衆に受けが良いようにフレーズを単純明快にまとめることなど、パーヴォは考えもしないのであろう。彼がしていることは、それぞれの楽器で表されていることをていねいに観察して、声部の響きを明確にし、こまやかに和声の変化を追うことである。多くの言葉が語られていることによって音型が複雑になったその果てに、傷つきやすく、深い優しさが聞こえてくる。武骨さをかきわけた所に浮かび上がってきただけに、その優しさは、いとおしい。

聴きながら、クララ・シューマンがブラームスの作品について「その人物と同じように、最も甘美な神髄は、しばしば粗野な外見の陰に隠されている」(玉川裕子訳)と語った言葉を思い出していた。

隠されているのは、それが壊れやすいからであろう。

(「音のかなたへ」/梅津時比古 著 より)

 

 

「外見の陰に隠された優しさ」をテーマに、表情・心情・メロディ・声部という日常的/音楽的キーワードを上手に紡ぎあげながら、ブラームス交響曲とパーヴォ・ヤルヴィ指揮の核心に迫ろうとしています。何回読んでもうっとりします。そして、パーヴォ・ヤルヴィのコメント「ブラームスは何事も表面には出さず、隠しておくのが得意です。」(前回・記)とも響きあいます。

ブラームスの交響曲に論理とロマンが交錯しているように。聴くきっかけや聴き方も一方向ではありません。分析や評論から作品のおもしろさを追求することも(論理)、エッセイ・小説やコンサート感想などの物語性から惹かれることも(ロマン)。どちらから入っても奥深く進めば進むほど、聴いている人の論理とロマンもいつしかどちら寄りでもなく溶け合っていく。それが作品を愛おしく好きになるということなのかもしれませんね。

各声部が室内楽的な密度で対話しあうブラームス交響曲の魅力、室内オーケストラで見透しのよさをつくり、緻密さと壮大さをあわせもつ演奏。決して痩せ細ることない引き締まった筋肉質のそれは、第1楽章堂々と立つ存在感、第2楽章しなやかさで魅惑し、第3楽章軽やかなステップ、そして第4楽章の爆発力も快感です。

 

 

久石譲がブラームスについて語ったこと。

 

「ブラームスの交響曲第1番。作曲家として譜面に思いを馳せると圧倒されて、自分の曲作りが止まってしまった。20年近くかけて作られただけあって実によく練られている。あらゆるパートが基本のモチーフと関係しながら進行していくのに、そのモチーフが非常に繊細で見落としやすく、読み込むのに相当な時間を要した。バーンスタインがマーラーに取り組むと3か月間は他のことができないと言っていたそうだけど、分かる気がした。その分、強い精神力が養われたけどね。」

Info. 2010/10/13 ベストアルバム「メロディフォニー」を発売 久石譲さんに聞く より抜粋)

 

「そして家に帰ってから明け方まで、過去の作曲家の譜面を読んだり、彼らが生きた時代や本人の生活の環境、その時代の方法に対して、その作曲家がどのくらい進んでいたのか、遅れていたのか、そういうことを考えます。例に出すと、ブラームスなんかは当時の流行からすると、遅れた音楽をやっていたんです。まだベートーベンの影響を引きずっていた。ところが当時は、シューマンとかいろんな人たちが、新しい方法に入っていた。古くさい方法をとっている中で、革新的な方法をとっている人もいた。どっちが優れていたのか、というのは全然言えないんですよ。長く生き残ってきたものというのは、本物ですから。でも本人の中は、絶えず葛藤してたわけだよね。僕ら、ものを作る人間というのは、絶えずそれですから。今のこの時代で、僕が作曲家としてどういう書き方をするか、自分にとってはすごく重要なことで、そのようなことをいっぱい勉強するという感じですかね」

Blog. 「デイリースポーツオンライン」 久石譲インタビュー内容(2011年) より抜粋)

 

「この第1番の初演のとき終楽章の主題がベートーヴェンの第9交響曲〈合唱付き〉と似ているという指摘に対してブラームスは「そんなことは驢馬(ろば)にだってわかる」と言ってのけている。つまりベートーヴェンの影響下にあることは織り込み済みの上で彼にはもっと大きな自信があったのだろう。実際リストやワーグナー派が主流になった当時のロマン派的風潮の中で、ブラームスはむしろ時代と逆行して形式を重んずるバロック音楽やベートーヴェンを手本として独自な世界を作っていった。本来持つロマン的な感性と思考としての論理性の葛藤の中で、ブラームスは誰も成し得なかった独自の交響曲を創作していったのである。」

Disc. 久石譲 『JOE HISAISHI CLASSICS 2 』 CDライナーノーツ より抜粋)

 

「感情の問題は大きいです。昨夜、6月にドヴォルザークを振る予定が突然ブラームスの4番に変更になり、僕は大好きだから俄然やる気まんまんです。ブラームスは論理的なものと感覚的なもの、あるいは感情的なものが全く相容れないぐらいに並立している男なんです。頭の中ではベートーヴェン的な論理構造に憧れているのに、感性は完全にロマン主義の体質です。一人の中で激しいダイナミズムが起こり、矛盾したものがそのまま音楽に表れているからすごいんです。やはり、対立構造が人間を動かす原動力になっているんじゃないですか。」

Blog. 「新潮45 2012年6月号」久石譲 x 養老孟司 対談内容 より抜粋)

 

「やっぱりベートーヴェンは偉大ですね。あと、僕はブラームスが大好きです。ブラームスのシンフォニーは全曲振っていますが、全部良いですね。面白いし。」

Blog. 久石譲 『WORKS IV』 サウンド&レコーディング・マガジン インタビュー内容 より抜粋)

 

「さて、文学に結びつくことがトレンド(懐かしい言葉)だった時代、一方では相変わらず前の時代の方法に固執する作曲家もいた。ヨハネス・ブラームスである(他にも大勢いた)。彼は純音楽にこだわった。純音楽というのは音だけの結びつき、あるいは運動性だけで構成されている楽曲を指す。ウイスキーに例えればシングルモルトのようなもの。シングルモルトというのは一つの蒸留所で作られたモルトウイスキーの事だ。防風林も作れないほど強い風が吹く(つまり作ってもすぐ飛ばされる)、スコットランドのアイラ島で作られるラフロイグは、潮の香りがそのまま染み付いていて個性的で強くて旨い。対してブレンドウイスキーというのは香りや色や味の優れたものをミックスして作るウイスキーだが、シングルモルトほどの個性はない。」

Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 47 ~ハイドン~」(CDマガジン) レビュー より抜粋)

 

「クラシックを指揮する時に暗譜するくらい頭に入ってしまうと、その期間中はまったく作曲ができなくなります。絶えずクラシックの曲が頭の中に流れてしまって、その影響が何らかの形で曲作りに出てしまうのです。例えば、映画音楽を書いている最中に、一方でブラームスの曲の指揮をするという時に、ブラームスの弦の動かし方などが作っている曲の中に無意識に出たりします。「あっ、やってしまった!」というような(笑)。もちろんメロディーまで同じにはしませんが、弦の扱いなどはかなり影響を受けますね。」

Blog. 「味の手帖 2015年6月号」 久石譲 対談内容紹介 より抜粋)

 

 

久石譲がパーヴォ・ヤルヴィについて語ったこと。

 

「NHKのクラシック番組で、パーヴォ・ヤルヴィ指揮、NHK交響楽団の演奏でショスタコーヴィチの交響曲第5番の演奏を聴いた。この楽曲については前にも触れているので多くは書かないが、一応形態は苦悩から歓喜、闘争から勝利という図式になっているが、裏に隠されているのはまったく逆であるというようなことを書いたと思う。パーヴォ・ヤルヴィの演奏はその線上にあるのだがもっと凄まじく、この楽曲を支配しているのは恐怖であり、表向きとは裏腹の厳しいソビエト当局に対する非難であると語っていた。第2楽章がまさにそのとおりでこんなに甘さを排除したグロテスクな操り人形が踊っているような演奏は聴いたことがなかったし、第4楽章のテンポ設定(これが重要)がおこがましいが僕の考え方と同じで、特にエンディングでは、より遅いテンポで演奏していた。だから派手ではないが深い。」

「彼はエストニア出身、小さい頃はソビエト連邦の支配下にあったこの国で育った。父親は有名な指揮者でショスタコーヴィチも訪ねてきたときに会ったくらいだから、この楽曲に対する思いは尋常ではない。明確なヴィジョンを持っている彼にNHK交響楽団もよく応え、炎が燃え上がるような演奏だった。」

Blog. 「クラシック プレミアム 38 ~ヴァイオリン・チェロ名曲集~」(CDマガジン) レビュー より抜粋)

 

♪「交響曲 第4番 変ロ長調 作品60 第4楽章 Allegro ma non troppo」
 /パーヴォ・ヤルヴィ、ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン

「これは今もっとも僕が好きな指揮者です。今NHK交響楽団の首席指揮者でやってますね、すばらしいですね。というのは、アプローチがまずリズムをきちんと整理するところからおやりになる。非常に現代的なリズムの捉え方をされるんです。ですからこの第4番なんかは、たぶん今市販されているCD、あるいは演奏で聴けるなかでは最も速いかもしれません。ですがちゃんときちんとフレーズが作られているし、すばらしいですね。」

「すごいですね、速いですね(笑)。単に速いだけじゃなくて、ちゃんと歌ってるんですよね。ドイツ・カンマーって歴史があるオケですからほんとうまいですよね。こういう演奏を聴くと、あまり日頃クラシックを聴かれない方でも、あっ聴いてみようって思うんじゃないでしょうかね。先入観で聴かなくなっちゃってるよりは、もう「ロック・ザ・ベートーヴェン」ってナガノではそういうふうにわざと言ってるんですけどね、なんかそのくらい身近でいい、もっと気楽に聴いて楽しめる音楽ですよ、って言いたくなりますよね。」

♭第5番 第1楽章 冒頭部分 聴き比べ
・パーヴォ・ヤルヴィ、ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン

「ずいぶん現代的になりますよね。演奏してると「タタタターン」と弦を伸ばしますね。弓を返していくか、ワン・ボウイングでひとつでいっちゃうかというのがあるわけですね。(伸ばす音符が)長い人だとひっぱれないので弓を返さないといけないんです。返すというのはアップ・ダウンで弓が行ってまた戻ってくる。だけどこのクラス、現代になると行って来いしないでいいんですね。「ダダダダーン」をワン・ボウイングでいけてしまう。わりと新しい方はみんなあまりひっぱりません。」

Blog. NHK FM 「真冬の夜の偉人たち – 久石譲の耳福解説〜ベートーベン交響曲〜-」 番組内容 より抜粋)

 

 

もうこれら久石譲が語ったブラームス、久石譲が語ったパーヴォ・ヤルヴィ、魅力を伝えるには十分だったかもしれませんね。いや、遠回りでも、たとえ周回遅れでも、視野を広げて吸収する量や質を豊かにしたい、そう思っています。

 

 

久石譲がNCOでやりたかったこと。

2013年長野市芸術館の開館(2015年)にあわせて芸術監督に就任。そして2016年久石譲の呼びかけのもと長野市芸術館を本拠地として結成された室内オーケストラ、ナガノ・チェンバー・オーケストラ(NCO)です。2年間かけてベートーヴェン交響曲全曲演奏会&CD化プロジェクト。コンセプトは「ベートーヴェンはロックだ」──”作曲当時の小回りが効く編成で、現代的なリズムを活用した、ロックのようなベートーヴェン” ”往年のロマンティックな表現もピリオド楽器の演奏も、ロックやポップスも経た上で、さらに先へと向かうベートーヴェン”──、貫いたコンセプトは推進力と躍動感にあふれ、回を追うごとに研ぎ澄まされていく久石譲&NCOの演奏・録音は”明快!痛快!”な表現で魅了し高い評価を得ています。

 

新時代のクラシック音楽

重厚壮大な大編成モダンオーケストラによる往年のアプローチ、当時の楽器・演奏法・小編成・楽器配置を追求したピリオドアプローチ。ベートーヴェンもブラームスも、文献やスコアの研修もすすみ演奏スタイルも昨今変化しています。(モダン=現行楽器、ピリオド=古楽器)

そして今、新時代の名盤たちは、原典研究に基づく表現スタイルを規範とし、過去の模倣ではない新時代の切り口、現代的なアプローチで挑んでいます。それは、モダンとピリオドの要素を混合させながら、どちらか一方のスタイルに固執することなく、すべての成果を踏まえ咀嚼したうえで先へと向かう、新しい世界を築き上げること。パーヴォ・ヤルヴィと久石譲の目指すアプローチは共鳴している点がたくさんあります。さらに付け加えると、久石譲指揮は、作曲家視点で譜面をとらえること、ミニマルやポップスで培われたリズムを昇華すること。

 

芸術監督

指揮はもちろんオーケストラの中長期的な活動指針やコンセプトを明確に掲げる役割もあります。オーケストラのカラーをどう打ち出すか、どのような作品を取り上げるか、それによって生まれる育つオーケストラの特色強み。パーヴォ・ヤルヴィも久石譲も芸術監督としてオーケストラメンバーと親密な信頼関係を築き、ともに学び進化し、そして拠点となる土地に音楽の豊かさをもたらす。生半可では居座れないポジションであることがわかります。

 

リハーサル・実演・録音

ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンは母体がある、ナガノ・チェンバー・オーケストラは久石譲の呼びかけのもと結集した少数精鋭。首席奏者を多数含む国内外の楽団メンバーなど若きトッププレーヤーたちが中心です。

メリットは、ゼロベースでその音楽を作りあげることができること。演奏頻度の高いベートーヴェン作品など、各オーケストラ楽団で積み重ねてきた特色やカラーといったものがあります。既存オーケストラの客演指揮者としてタクトを振るのではない、固定概念や先入観を解体した状態での集結、新しい音楽を一緒に磨きあげることができます。

デメリットは、各オーケストラ楽団に所属するトッププレーヤーたちのため、集結する頻度が限られること。コンサートツアーなど各地を巡ることは現実的に難しいかもしれません。2-3年先のコンサート・プログラムを組み立てるのは各オーケストラとも慣例、そこへのスケジュール調整は至難です。

リハーサルはNCOの場合、最低でも3日間はみっちり行われています。その場所は長野であり、実際に演奏するホールで空気や響きを確認しながら綿密に完成度を高めていくのだと思います。それでも2-3日間という期間は一般的、決して多くの時間は与えられていません。結集型オーケストラというリハーサル・実演機会に限界あるデメリットを逆手にとるように、極限の集中力と最高のパフォーマンスで完全燃焼、ライヴ音源としてリリース。

 

 

 

 

 

 

*交響曲第4番&第6番は未発売

 

久石譲がベートーヴェンについて語ったこと。

久石譲が現代的アプローチについて語ったこと。

 

4CD盤のディスコグラフィーとあわせてさらに深く紐解くことができます。

 

 

そして、FOCへ。

久石譲の長野市芸術館 芸術監督退任(2019年3月)のニュースを知ったときにはとてもショックでした。なんとか続けてほしい、なんとか本物を続けてほしい、その一心でした。誰が悪い何が悪いではなく、そこには理想と現実にうまくはしごを架けることができなかったんだろうと思っています。

 

・・・

 

「夏の音楽フェスティバルの象徴的存在であった「ナガノ・チェンバー・オーケストラ(NCO)」は来期より名称を変え、より進化した音楽を伝えるべく全国へ飛び立つ予定です。また長野の地でふたたび皆さんとお目にかかれることを楽しみにしております。 5年半の間、どうもありがとうございました。」

Info. 2019/03/29 久石譲さんよりメッセージをいただきました (長野市芸術館HPより) 抜粋)

 

・・・!?

 

そこへ飛び込んできた「久石譲コンサート2019」のひとつ、久石譲 & FOC(フューチャー・オーケストラ・クラシックス)始動!NCO(ナガノ・チェンバー・オーケストラ)のメンバーを多く含む継承結集、ベートーヴェン交響曲第5番&第7番、長野から飛び出し東京でも熱演。NCOの解体消滅は残念すぎると思っていたなか、歓喜です!

また、ベートーヴェン交響曲全集CDがFOCコンサートにあわせて発売予定とあります。NCOのライヴ録音がそろうのか(第4番&第6番 未発売)、はたまたFOC名義としてなにかある?! 楽しみは尽きません。ブラームスやシューマンも聴いてみたいですね。近現代作曲家の意欲的なプログラムもあるのかな。NCO公演と同じように、FOC公演でも久石譲作品が並列されること、レコーディングされることを心から願っています。FCOメンバーで映画・CM音楽の録音なんてこともきっとあるでしょう。夢はふくらみます。

 

 

 

ブラームスのテーマのはずが・・・

ベートーヴェン?久石譲?の巨像に押しつぶされそうになっている。

久石譲の音楽活動は、そのすべてがつながっています。それは久石譲屈指のエンターテインメントコンサート「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ(W.D.O.)」もしかり、切り離されたものではありません。よくよく耳をすませばW.D.O.2018で披露された「Links」も「DA・MA・SHI・絵」も進化したソリッドなアプローチでしたし、「Encounter」のように弦楽四重奏版から弦楽オーケストラ版へ拡大されることも、「Kiki’s Delivery Service 2018」のようなリズミックなオーケストレーションも、そのすべてはつながっています。

大きく言い切ってしまえば、いかなるコンサート企画であれ、いかなるオーケストラ共演であれ、いかなる演目であれ、そこには久石譲が今具現化したい響きが貫かれる。古典クラシックであれ現代の音楽であれ、同じアプローチで並列されるプログラム、現代的アプローチで追求される音楽たち。久石譲の多種多彩なコンサート、それは変化している進化している瞬間に立ち会えるということです。優れた芸術は常に「今」になる。

 

「久石譲 スプリングコンサート Vol.1 ~仙台フィルとともに~」では、「交響組曲 天空の城ラピュタ」「DA・MA・SHI・絵」といった久石譲作品とともに、「交響曲第1番/ブラームス」がプログラムされています。

 

もし、聴いたことがない人、せっかくだから予習したい人、どれを聴いたらいいかあてのない人。久石譲も大きな共感をよせるパーヴォ・ヤルヴィ指揮のCD盤をおすすめします。さらに当日、久石譲&仙台フィル共演のリアルな音楽を聴いて、からだで感じて、CDだけでは決して味わうことのできない迫力ある感動がきっと刻まれます。思い出と余韻を大切に記憶するように、好きな演奏CDを探しだすかもしれません。そうして、音楽はその人のなかへ深く深く染みこんでいきます。

 

 

あなたにとって「交響曲第1番/ブラームス」って?

きっとこう答えます。

” 春雷 ”

 

それではまた。

 

reverb.
ブラ1新しい出会いを求めて、終わりのない旅路です♪

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪

 

Overtone.第21回 「交響曲第1番/ブラームス」 ~論理とロマン I~

Posted on 2019/04/05

ふらいすとーんです。

クラシックの交響曲で一番好きなのは?

真っ先に浮かぶのは「交響曲第1番/ブラームス」かもしれません。でも、それだけで知識や音楽的キャパを測られたくないという邪念…突いて出てくるかもしれません…モーツァルト、ベートーヴェン、マーラーの云々かんぬんも好きです、と。

 

クラシック音楽にハマるきっかけになった曲は?

もし、こう聞かれたときには、それはもう迷わず「交響曲第1番/ブラームス」です!と自信をもって言いきります。僕のなかではそういう作品です。小学校・中学校の音楽授業で教科書的にふれたクラシック音楽、映画・TV・CMで使われる音楽で引っ張られるように好きになったクラシック曲。まったく違う入口、その音楽だけを聴いていいなあ、おもしろいなあ、何回も聴きたくなるほど好きになった、クラシック音楽との純粋な出逢いがこの作品です。

 

たくさんCD盤も聴きました。具体的なイメージはないんだけど自分に似合うもの求めてるものはどれだろう。わからない手探りの宝探しも、知識や先入観のない扉を開いたばかりの入口楽しくできました。例えば、棚に並んだカップメンを10個選んで、これ全部ラーメンです(結果同じです)とはなりませんよね。味も具も量もちがう。試しながら自分の好きな一品を見つけていきます。同じように、「交響曲第1番/ブラームス」のCDを10枚選んで、これ全部ブラ1です(結果同じです)とはなりません。乱暴ですか? なんかそこまでしてめんどくさいなあ…ですか? でもその好奇心の出発点は単純明快。それは、”私は《ラーメン|ブラ1》が好きだという自分を知っている”、だから無我夢中になれる、楽しく追求できる。

 

 

ベートーヴェンという巨像をまえに、構想から完成までに21年の歳月を要したブラームス最初の交響曲です。ベートーヴェンが築きあげた交響曲のスタイルを尊敬し正統的に継承したい、その思いは見事結実し「ベートーヴェンの交響曲第10番だ」と当時評判、聴衆からも絶賛で迎えられた作品です。

ベートーヴェンの《苦悩から歓喜へ》を継いだような《暗黒から光明へ》という全体を構成する側面もあり、往年の名盤たちは重厚濃厚なスタイルがスタンダード、そこに精神性と物語性を反映させてきたともいえ、それは同じく聴衆たちも望んだスタイル愛されてきた歩みでもあります。

ブラームスの愚直さ・不器用さ・優しさ・孤高さ、そんな印象を持っている僕は、ブラームス作品に内なるエネルギーの強さを感じます。重々しさのなかにある葛藤や芯の強さ、往年の名盤にも好きなものがたくさんあります。たとえば、カラヤン指揮はメリハリの効いた起承転結を構築し、ドラマティックな構成力と緊張感で聴き手を揺さぶります。おそらくかなり得意とする作品だったはず、間違いなく相性はいいと思っていたはず、そんな気がしています。

 

 

そんななか新時代の名盤として輝かしく登場したのがパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンです。室内オーケストラ、ピリオド楽器の導入やピリオド奏法の研究実践などによってスタイルの幅を広げ世界各地で活動しています。パーヴォ・ヤルヴィは2004年に第二代芸術監督として就任。

一躍注目されるきっかけになったのは6年間にわたる「ベートーヴェン・プロジェクト」、交響曲全曲を世界各地で演奏し並行してスタジオ・レコーディング。次にシューマン交響曲全集を完成させ、続いて2014年本格的に始動したブラームス・プロジェクト、ブラームス4曲の交響曲・管弦楽曲を録音する。

「ブラームス:交響曲全集&管弦楽曲集」
Vol.1 交響曲第2番、悲劇的序曲&大学祝典序曲(2016年11月発売)
Vol.2 交響曲第1番&ハイドンの主題による変奏曲(2018年4月発売)
Vol.3 交響曲第3番&第4番(2018年12月発売)
Vol.4 セレナード第1番&第2番 (発売日は未定)

 

コンサートやCD録音は聴衆や批評家から絶賛され、数々の賞を受賞しています。国内外のレコード誌でも多く取り上げられ高い評価を得ています。今最もクラシック音楽界で注目されているコンビのひとつ、それがパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンです。

この演奏を聴いて衝撃でした。新鮮な喜びです。たとえば、ペンキを太いローラーで一気塗りするような重厚さとは違い、面積の小さい筆で丹念に濃淡を浮かびあがらせる。そのくらい各楽器の音や旋律が見透しよく描かれ聴こえてきます。作品の魅力や感想をとくとく書くよりも、以下、パーヴォ・ヤルヴィさんのコメントと、専門家による評をご紹介します。新しい魅力と出会えたことに心から喜びうっとり聴いています。

 

 

パーヴォ・ヤルヴィ:
ブラームス時代のオーケストラは40人程度だったことが分かっています。作品によっては大きな編成で演奏できるものもありますし、私自身も巨匠たちの叙事詩的な解釈で育ちましたが、実はこのくらいの小さな編成の方が内声がよく聴こえますし、親密な瞬間を生み出すことができればより作品の本質に近づくのだ、と思うようになりました。ブラームスのDNAは室内楽にあるのです。

(CD帯より)

 

パーヴォ・ヤルヴィ:
ブラームスの作品にはいくつもの要素が絡み合っています。一つは音楽の構成感。そして作品のエモーショナルな側面。私にとっては、このエモーショナルな側面がより難しいのです。ブラームスの音楽はとても論理的で、完璧に整えられているわけですが、論理だけでは交響曲は作れませんし、演奏もよくはならない。演奏者はそこに一つのストーリーを見つけ、それを語る方法を見出さねばなりません。ブラームスは何事も表面には出さず、隠しておくのが得意です。

そしていつも畏敬の念を感じます。「これがブラームスだ。楽譜に書かれたものを尊重し、その通りに演奏しよう」とね。一方で、ブラームスは演奏者側に自由や主観的な解釈を期待する作曲家でもありました。ですから、この二つの点で正しくバランスを取るのが非常に難しいのです。バランスを崩すと途端にアカデミックで杓子定規的な音楽に聞こえてしまったり、あるいは逆に構成感のない音楽になってしまったりする。細部の彫啄は重要なのですが、音楽のより大きなイメージを描くことも同じくらい重要なのです。完璧を期すことと同じくらい、表現も重要なのです。

さらにこれまでの演奏の伝統があります。あらゆる音楽家は、今自分たちがやろうとしているのとは異なるスタイルで演奏されてきたブラームスの音楽に馴染んでいます。自分の中に蓄積したものを振り払うのはなかなか簡単にはいきません。

(CDライナノーツより)

 

 

次に、クラシック音楽誌「レコード芸術」より専門家による鋭い解説をご紹介します。流し読むと雲をつかむような感じになってしまいます。先にポイントを。

 

  • ブラームス当時の室内オーケストラ編成(54名)
  • ブラームス作曲時想定した楽器配置(古典配置・対向配置)
  • ピリオドアプローチの延長線(HIP)
  • 歴史的な演奏法や楽器を取り入れる(HIP)
  • スコアは新校訂版
  • 指揮者とメンバーが一緒にワークショップ
  • 多くの実演とリハーサル経てセッション録音

 

 

 

先取り!最新盤レビュー

名曲の徹底的な洗い直し
瞠目の響きが随所に

パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルのブラームス・プロジェクト第2弾
ブラームス:交響曲第1番&ハイドンの主題による変奏曲

指揮者と団員が一緒に学びディスカッション

パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(以下DKPB)による「ブラームス・プロジェクト」の第2弾。2016年11月にリリースされた第1弾は、交響曲第2番と《悲劇的序曲》&《大学祝典序曲》の2つの序曲であったが、今回の収録曲は交響曲第1番と《ハイドンの主題による変奏曲》である。

パーヴォとDKPBは、これまで、ベートーヴェンとシューマンの交響曲全集を完成させており、いずれも新時代の名盤に相応しい内容を持ち、多くのリスナーから高い評価を得てきた。彼らの演奏は、ナチュラルトランペットの使用や慣習に囚われないテンポの採用など、いわゆる「ピリオドアプローチ」に分類されるものであるが、とりあえずヴィブラートをやめて古楽器による演奏を上部だけ模倣しただけの「なんちゃってピリオドアプローチ」とは一線を画す自然さと説得力を持ち合わせている。

この成功の背景には、DKPB独自の楽曲に対するアプローチ法がある。同団首席ファゴット奏者の小山莉絵さんによると、彼らは、プロジェクトの曲目が決定すると、その作品の演奏スタイルに詳しい研究者を招いて、パーヴォも含めたメンバー全員で講義を受けるのだという。その後、互いにディスカッションしながらパート練習から組み上げて行くのだそうだ。

 

慣習を廃した快速テンポもロマンティシズムに不足なし

今回の「ブラームス・プロジェクト」でも、ヘンレ版を校訂したロバート・パスコールを招いてスコアの細部まで研究したり、ロマン派の演奏法やスタイルを全員が学んだという。その結果、徹底的に慣習を廃した演奏が展開されており、第1楽章の冒頭もかなり速いテンポでサクサクと前進する(6/8拍子アレグロの主部に対する序奏なので、6つ振りでゆっくりとカウントすると遅くなり過ぎてしまう)。

しかし、パーヴォとDKPBは、インテンポの範囲内で大事なフレーズを歌うロマン派時代の手法を巧みに採用しているので、テンポが速くてもこの作品が持つロマンティシズムを存分に味わうことが可能なのだ。さらに、オーケストラの人数を、交響曲第1番では54名(カールスルーエの初演は47名だった)と絞っていることも、弱奏時に於ける室内楽的な表現の助けになっているように思う。

たとえば、《ハイドンの主題による変奏曲》の第7変奏でフルート独奏と共に弾くヴィオラが、駒の近くで弾くことによって、まるでミュートを付けたトランペットのような音色で聴こえてくるなど、音色のパレットを巧みに利用している点も心憎い。

強奏時でも、大編成のオーケストラのような音の厚みが加わるのではなく、室内楽的なクリアさを保ったまま、筋肉質の締まった音がするのもこの演奏の魅力である(ティンパニの鳴り切った音も迫って来るものがある)。

パーヴォとDKPBは、過去の演奏習慣を自分たちで咀嚼し表現手段として取り入れることによって、ブラームスの音楽が持つ「古典的な形式美」と「叙情的なロマンティシズム」といった相反する要素の両立に見事に成功したと言っても過言ではないかもしれない。

佐伯茂樹

(レコード芸術 2018年5月号 Vol.67 No.812より)

 

 

 

 

新譜月評

THE RECORD GEIJUTSU 準特選盤
ブラームス:交響曲第1番・ハイドンの主題による変奏曲 /パーヴォ・ヤルヴィ指揮 ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン

 

準 金子建志
ブラームスを中編成でという試みや、古楽器での録音が複数存在している現在、当盤に「一番槍」的な意義はない。近いのは、ロンドンの古楽器オーケストラで全曲録音を終えたノリントンが、シュトゥットガルト放送響で挑んだ再録音盤。第1番のスコア自体が、すでに、過去のどの時代にも当てはまらない擬態的な試みなので、ノリントンの再録音をさらにスリム化すると、より筋肉質で引き締まった音像が誕生する。ただし実演では、オーケストラの技量不足と楽器間のバランスの問題が解消されてはいなかったので、交響曲を室内楽化した録音上のハイブリッド版アンドロイドと割り切って楽しむのが賢明だろう。第1楽章の冒頭が象徴しているようにテンポ設定は速めだが、曲想変化の激しい第4楽章の序奏部を聴くとアウフタクトは適度に延ばされ、機械的な固さはない。ノン・ヴィブラートの硬質感や、剃刀のように鋭く切迫するピッツィカートは聴きものだ。第1主題を歌い出す前のリテヌートは自然だが、主部に入ってからは古典派的にテンポを固定し、94小節のアニマート [6分01秒~] もヴァントのように急加速はしない。微妙なのは [11分12秒~] のホルン、コーダのコラール [15分40秒~] のトランペットが慣習的な編曲を採用しているようにも聞こえること。部分的にアレンジを採用するP・ヤルヴィなら不思議ではない。《ハイドン変奏曲》のほうが室内楽的機敏さのメリットを堪能できる。

 

推薦 満津岡信育
ブラームスの4曲の交響曲のうち、とりわけ第1番は重厚な響きの演奏が好まれるのではないだろうか? 当ディスク所収の第1番の演奏者は、54名(第1ヴァイオリンは10名)である。P・ヤルヴィは第1楽章序奏から速めのテンポ設定を採り、硬めの撥で打ち出されるティンパニの音をはじめ、引き締まったサウンドを形づくっている。そして、ブラームスの堅固な構造を把握して、スコアの各音符をしっかりと打ち出すことに成功している。弱奏時にも表現が痩せ細ることはなく、トゥッティによる強奏時にも、室内楽的な明瞭さが確保される点も好ましい。また、弦楽セクションが小編成であるため、分厚い響きによる暗鬱さが排されるのと同時に、コントラファゴットやトロンボーンが加わる際に、オーケストラの色合いが、よりはっきりと切り替わる点も大きな特徴になっている。テンポを恣意的に揺らすことなく、音価やフレージングに留意して歌い抜くことによって、ブラームスのエモーショナルな側面をあぶり出すことにも成功している。ヴァイオリンを両翼に、コントラバスを舞台下手奥に配した古典配置も効果的であり、テンポがドラマティックに動く終楽章においても、叙情的な味わいと古典的な構造美を両立させて、大言壮語することなく、音楽の流れを豊かに息づかせている。終結部も十分にエキサイティングだ。《ハイドンの主題による変奏曲》も、随所にフレッシュな響きがみなぎっている。

 

[録音評] 石田善之
交響曲は2016年3月、ヴィースバーデンのクアハウス、変奏曲は2017年1月、ベルリンのフランクハウスでの収録で響きに若干に違いを感じさせるが、いずれも非常に明瞭明快。繊細な部分の表現を漏らさず聴かせる。交響曲は中低域から低域の響きにあまり厚みを感じさせることなくやや淡白だが、それがより明快さにつながり、奥行きや距離も感じさせる。変奏曲は響きが厚く空気感は豊かになりサラウンドはより豊かで臨場感につながるようだ。CDとSACDに極端な違いはなく、広がりと奥行きが味わえる。

(レコード芸術 2018年6月号 Vol.67 No.813より)

 

 

 

少し評論家による筆から補足をすると、スコアは新しい解釈のものを採用していることもあり、他との比較がしにくいこと。でもこれ、あくまで専門的には、です。実演については東京でも2014年に交響曲全曲演奏会「ブラームス・シンフォニック・クロノロジー」が4夜にわたって開催されています。多くの実演・ディスカッション・実践を経て、2016年にセッション録音されたのがこのCD盤です。

パーヴォ・ヤルヴィは2015年にNHK交響楽団の初代首席指揮者就任、今年で4年目のシーズンを迎えます。今いちばん日本でも聴けるチャンスです。NHK交響楽団とのコンビはTV放送聴ける機会にも恵まれます。このチャンスを逃さずにコンサートで体感したい指揮者です。

 

 

ブラームス自身の論理とロマン、古典派を継ぐ意志をもちながらロマン派に属する時代、作品に反映された古典的な形式美と叙情的なロマンティシズムの二面性、パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルの目指した論理とロマンの両立。いくつもの”論理とロマン”が交錯するおもしろさがあります。

そして、久石譲がブラームスについて語ったこと、久石譲がパーヴォ・ヤルヴィについて語ったこと。次回はこのあたりを紐解きながら、久石譲のひとつの活動へとつながっていきます。

それではまた。

 

reverb.
「SWITCHインタビュー 達人達 ~パーヴォ・ヤルヴィ×かの香織」(NHK Eテレ 4月6日 22:00~)出演します。楽しみです。

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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