Overtone.第33回 雑音ノート ~倍音をつくれますか?~

Posted on 2020/05/17

ふらいすとーんです。

今回テーマはありません。

メモのように、ひとり言のように。

今思っていることを、サクッと、ポンッと、ランダムに。

 

コメント、Twitter・Facebookでも、

なにかご意見ありましたらお気軽にお待ちしています♪

 

WDO

2019年夏に書いたこと。

”今後の久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラについて。

久石さんはパンフレットで「第2期の区切り」と語っています。2004年~2011年の第1期、2014年~2019年の第2期。ここからは個人の推測です。来年はTOKYO2020オリンピック開催です。交通機関や宿泊施設などの影響も大きく都心でのイベント規制などもあるのかもしれません。ちょうど例年のW.D.O.開催時期とも重なります。2022年公開目指して製作が進められている宮崎駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』。(同年には愛知県『ジブリパーク』開業予定もある。)そんな外的要因と、久石さんのこれから先に向けて思うところ、、来年はおそらく、数年の小休止になるのかもしれませんね。”

Blog. 「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2019」コンサート・レポート より抜粋)

 

 

2020年WDOは開催されないだろうと思っていました。上に書いたとおりです。開催期間のイベント自粛要請は文化・スポーツ・学校など各方面事前に出されていました。人の集中と移動、交通の混雑、宿泊施設の混雑、会場の確保など。五輪中は五輪イベントに集中したい。そんな思惑が見え隠れしていました。少なくとも例年のように夏WDO開催はないだろうと。がんばって東京以外ではコンサート・ツアーできるかもしれない。でも、東京公演のないWDOって、ちょっと想像できませんよね。

新型コロナウイルスの影響で五輪は2021年夏開催予定されています。オリンピック・パラリンピックに向けていろいろな準備調整がまた始まります。そして、同じようにまた、あらゆるイベントの同時期自粛要請が出ることになるんだろうと思います。

もちろん、久石さんは2019年に語った時点で、もっとほかの理由や思うところもあって、1年?数年?WDO休止することを決めているのかもしれない。

2020年春から夏にかけての久石譲コンサートは、国内公演も海外公演もほぼ延期、来年に日程調整されています。オーケストラのスケジュールもあるので、音楽イベントは1~2年先まで予定をみます。単発ならフットワーク軽く運良くすべりこめるかもですが、ツアーや海外公演はまた別の事情も発生します。

さて、次のWDOはいつ?

冬ツアーもいいですね。

(新型コロナウイルスの継続的影響や五輪開催には…ふれません)

 

 

こんなとき

コンサート開催できない。じゃあ、レコーディングでもしますか! とはいかないですね。3密です。各オーケストラ団体も公演はおろか、リハーサルすらできない。3密です。会場にお客さんが集まる以前に、オーケストラはステージであれスタジオであれ、密閉空間・密集状態・密接状態での演奏です。演奏にあわせて呼吸も深く大きくなるし、管楽器は息を吹き込む楽器です。人数が減った室内楽やアンサンブルでも状況は同じです。まいった。

 

 

こんなとき

新しいレコーディングはできませんが、過去の未発売音源、CD化されていない曲たちを発表しよう! そんな企画をすすめることはできますね。新しい書籍化の企画とか、新しいスコア化の企画とか。どうでしょう。第2弾の世界ベスト盤の企画もすすんでいるかもですね。どうでしょう。

エンタメ界からの仕事はあったのかな?新しい映画音楽やTV・CM音楽とか。それもまた、撮影スケジュールなんかに影響も出てくる話でしょうし。どうでしょう。

久石さんは、オリジナル新作を書き下ろしたりしているでしょうか。どうでしょう。

今発表したい作品があったとしてもレコーディングできない、今聴かせたい作品があったとしても演奏会を開けない。でも、僕らはいつかのそのときを信じて希望をもって待つ!

 

 

ジブリコンサート

世界ツアー中のコンサートも、来年へ持ち越された公演たち。ヨーロッパ・アメリカを廻り、アジアを廻り、日本凱旋公演。きっとそんな数年越しの大プロジェクトなんだろうと楽しみに信じています。日本凱旋のときには、2008年武道館コンサートからさらにパワーアップ! 宮崎駿監督最新作もプログラムされるのかもしれない!

会場規模を考えると、都心のみ公演かもしれない。そんな予定かもしれない。なんとかがんばって、1~2万人動員規模の各地方公演まで広げてほしい。2020年2月のメルボルン公演のように野外コンサートだったら、日本でもたくさんの人が集まれるかもしれない。元気に楽しみに待ちたい!

 

 

ネクスト・ジブリコンサート

新型コロナウイルスに世界が打ち勝った日には。スタジオジブリ交響組曲シリーズでツアーを廻るのはどうでしょう。関東は「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」、東北は「となりのトトロ」「魔女の宅急便」、関西は「紅の豚」「もののけ姫」のように。順番に当てはめただけでも、なかなかの充実度です。久石譲オリジナル作品も組み込める時間枠もありますね。

本家本元、WDOコンサートで新日本フィルと廻るのもいいですね。はたまた、全国津々浦々、その地域をくまなく廻れるように、地方オーケストラと廻るのもいいですね。地域ごとのオーケストラと地域ごとのプログラムなら、オーケストラの負担もぐっと減る。久石さんの負担はぐっと数倍にもなるけれど。。そうやって、全国のオーケストラ団体や会場施設が活き活きするなら、音楽がつくりだすパワーは無限です。

 

 

質問箱

最近ツイッターの質問箱なるものが気になっています。ファンサイトのアカウントで質問箱開設しようかなあ。ここに久石譲にまつわる質問を受け付けて、答える。答えるんだけど、僕じゃわからないこともたくさんあるから、「誰か答えてー」と投げる。誰かが答えてくれる。

Yahoo知恵袋のようなものですね。でも、それと違うのは、いい塩梅で匿名性が希薄になる。ツイッターのやりとりだから、相互にアカウント(ツイッター上の人となり)がわかっている。無責任な、強い口調で吐き捨てるような、攻撃的な回答をする人はいないでしょ? ファン同士の親切心で交流できるんじゃないかなあ。

あっ、質問者は匿名、誰かわからないのか。でも、ファンサイトのアカウントで回答、もしくは回答を投げたものに、親切な人がリプライで回答したらいいですよね?ちがうのかな?

ファンサイトのフォロワー数は1500くらい。だから、そんなに活発な質問回答のキャッチボールはないんじゃないかあ、緩やかなペースと環境でできるんじゃないかなあ、と思っています。そして、どこかのタイミングでQ&Aとしてたまったものを、ファンサイトによいしょと置いてしまう。カテゴライズできるなら整理する。そうすれば、未来の質問者のためにも、いい道案内になるんじゃないかなあ。

どんな質問があるのは想像できないですけれど。たとえば「最近久石さんのファンになりました。どのCDから聴いたらいいですか?」とその回答。たとえば「この曲がすごく好きです。そこからほかのおすすめはありますか?」とその回答。「コンサートに行くときの服装は?」とその回答。「ミニマルってなんですか?」とその回答。「この曲の、久石さんがコンサートで弾いてるの同じ楽譜はありますか?」とその回答。あんまり思いつかない。軽いものも、コアなものも、いろんなことが飛び交うと、楽しいし気づくこともあるのかなあ。

ファンひとりひとりにファンとしての歴史があります。歩んできたなかで、当たり前になってしまっていること、空気のように知っていること。誰かから質問されて、知らない人もいるんだ(知らなかった過去の自分をはっと思い出す)、そういうのってどんどん増えていきますよね。

いらないかな? あってうれしい人いるかな? ファンサイトにBBSや掲示板は常設しないです。気軽になんでも書きこめるコミュニケーションツールというよりも、目的がはっきりした(質問と回答)コミュニケーションになって、それぞれのファン交流も広がるかもしれないし、いいんじゃないかなあと、楽観的に思っています。

質問があるまる場所、質問に答えてくれる場所、それが響きはじめの部屋のなかのスペースにある。そんなイメージです。

どう思いますか?

 

 

アンケート

『メロディフォニー』久石譲ベストアルバム発売当時、事前に曲のファン投票企画がありました。そういうイメージ。『メロディフォニー2』があるならこの曲をオーケストラ・レコーディングしてほしい! そんなファン投票ページがあってもいいなあ、と思っています。

期限のない常設、ファンによる人気曲アンケート。新しい曲が発表されれば、候補も追加されていく。集計結果(途中集計)もいつでも見れるもの。あの曲そんなに人気あるんだあ、これ聴いたことなかったから聴いてみようかなあ、とか誰が見ても楽しめますよね。

ファンの意思とかリアクションがかたちとなったものだし、伝えることができるし、なんか風通しよくていいなあ。

ただ、このアンケート企画はずっと思っているんですけど、思っているだけ。いかんせん、どういうツールを使ったらいいのか、ウェブのプログラミングを依頼するとか、まったくわからんのです。簡単に使えそうで、イメージにかなうツールがなかなか見つからない。

もしこんなファンの人気曲が、巡り巡って久石さんサイドに伝わったとしたら。WOW! コンサートの演目に影響したり、CD収録曲に影響したり、もしかすると『メロディフォニー2』の発売きっかけになったりでもしたら! ファンたちで動かした歴史だ。そんなことにもなるかもしれません。なんてね。

どう思いますか?

 

 

 

 

上の画像は、当時オフィシャルサイトで募っていたリクエストページです。3つまでチェック入れて投票できる。リストにない場合は枠内に書きこめる。シンプルでわかりやすいですよね。

こういうのでいいんです。ただ、これは送信するタイプです。リクエストを送って、その集計結果は後日開示してもらわないとわからない。

僕が希望しているやり方は、投票して、かつ集計結果もリアルタイムで見れるもの。投票しなくても、集計状況が誰でも見れるもの。オープンなアンケートページです。

いや・・・

そこにこだわらなくてもいいかあ。リアルタイムで見れることに。ここにこだわるとツールが見つからない。もしできないなら、同じようにリクエストを送信して、吸いこまれる一般的なタイプでもいいです。その場合、アンケートの途中経過(集計結果)の更新は、月1くらいになるとは思いますけれど。今こんな感じですよと。それでもいいかあ。・・・

どう思いますか?

 

 

おわりに

とりとめもなく記しました。読みづらさ、お許しください。僕の目標として、Overtoneしたいことや特集としてまとめたいことなんかも宿題で抱えながら。だいたいがとろい人、だから、なんでもかんでも手をつけられないし、ゆっくりコツコツしかできない。

質問箱もアンケートも、空想でおわるほう可能性のほうが高い。今は強くそう思っています。胸張って言うことじゃないですね。期待しないでください。期待するような話じゃなかったかもしれないですね。

 

ただ、なんか反応があるとうれしいなあ!

 

なにかのきっかけになるかもしれないと、

今思っていることを、サクッと、ポンッと、ランダムに。

それではまた。

 

reverb.
Overtoneの画像に使っている下の3つの波形は、ある3つの楽器の倍音波形です♪

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪

 

Overtone.第32回 Textsに寄せて ~雑文集ノススメ~

Posted on 2020/04/27

ふらいすとーんです。

このたび「Texts」ページができました。久石譲があらゆる媒体で発信したインタビューを一覧リスト化したものです。雑誌・新聞・Webなどで「久石譲が語ったこと Joe Hisaishi Interview」。

ファンサイトを運営するにあたり、ある時期からこれまでの雑誌インタビューを整理したり、切り抜きファイリングしたり、持っていなかったものを入手したり、知らなかった掲載情報を調べなおしたり。手元のコレクションを整理整頓するのと並行して、ファンサイト内でも内容紹介してきたものたくさんあります。

数年かかりました。ここでようやくひと区切り、まとめてきたものをインデックスしてご紹介しようと「Texts」です。

 

Texts

 

 

一覧リストにするにあたってどう並べようか。スタジオジブリ作品など映画ごとにまとめたほうがいいのか、CD作品ごとにまとめたほうがいいのか。そのほうが見る人も目的をもって探しやすいかもしれない。でも、ひとつの雑誌インタビューのなかで語られていることは、そのときの映画のことCDのこと重層的です。だったらと、シンプルに年代順に並べることにしました。そして、大見出しも載せることで、どういう内容について語られているのか、内容を開く前に目安にしてもらえるかもしれないと。

年代順に並べるメリットはあります。音楽担当したあの映画、リリースされたCDやその他音楽活動。いつの出来事なのか年表はわかっている、その年あたりに標準をしぼって探してもらたなら、何か語っていることがあるかもしれない、ないかもしれない。わかりやすいものさしになります。

 

なぜやるのか?

ぜひこちらをご覧いただけたら幸いです。

 

雑文集ノススメ

あらゆる時期に、あらゆる媒体に、あらゆる分野のことを語っている久石譲。これら色とりどりのインタビューたちが、いつの日か一冊の本にまとめられたらいいなあと思っています。これまでの久石譲著書の特色は、ある時期の音楽活動に深く切りこんで記録したエッセイのようなもの、雑誌連載から書籍化されたもの、対談、これらが中心です。つまりそこには、時間軸や内容軸としてテーマがあります。それは局所的な狭義的な範囲でもって凝縮されている、本にもまとめやすい。

ある作家や作曲家のなかには、点として雑誌や新聞で発表してきた掲載物を、無造作にまとめたようなインタビュー集、いわば雑文集のようなかたちで出版されたものがあります。僕は、久石譲著書のなかにも、こういった性格のものがあってもいいんじゃないか、いやむしろ、あってしかりじゃないかくらい思っています。

思っている理由をすすめていきます。

 

◇インタビューのよさ

なんといっても、その時々の濃く深い内容が語られています。それが映画の音楽制作なのか、オリジナルアルバムなのか、コンサートなのか。いずれも、そのときの旬な話題について非常に高い鮮度で語られています。ホット=記憶が新しい、時間をおいて振り返ったときには語らないようなこと忘れてしまうようなことも、リアルタイムの濃密さがそこにはあります。

インタビュアーをおかずに久石譲だけが語っているタイプもあります。インタビュアーの質問に答えるタイプもあります。前者が語りたいことを語るなら、後者は聞きたいことを語らせる。また、インタビュアーが聞き手に徹していたとしても、必要な合いの手や質問を得ることによって、よりわかりやすく読者に届くようにかみくだかれる、インタビューという空間の魅力です。

そこで語られるテーマも、発信元メディアの特性を生かしたものもあります。音楽話はもちろんビジネスに置き換えれることだったり、切り口のバリエーション豊富です。

 

 

少しだけ選んだものをご紹介します。

 

「感性に頼って書く人間はダメですね。2~3年は書けるかもしれないけれど、何十年もそれで走っていくわけにはいきません。自分が感覚だと思っているものの95%くらいは、言葉で解明できるものなんです。最後の5%に行き着いたら、はじめて感覚や感性を使っていい。しかし、いまは多くの人が出だしから感覚や感性が大事だという。それだけでやっているのは、僕に言わせると甘い。ムードでつくるのでなく、極力自分が生みだすものを客観視するために、物事を論理的に見る必要があります。」

Blog. 久石譲 『WORKS IV』 発売記念インタビュー リアルサウンドより 抜粋)

 

 

「例えば、2時間の映画を手がける場合、1本につき30数曲、ややシリアスな作品で曲数を減らしても15~16曲を書かなければなりません。それらの曲を本編のどの部分に付けるのか。いわば、音楽が流れない沈黙の部分も含めた、2時間の交響曲を書くようなものです。メインテーマがひとつ、サブテーマが複数あるとして、それらのテーマをどのように配置していくか。同じテーマを悲劇的に使ったり、軽く流したりする場合も、画面と呼吸を合わせていかなければならない。それらをすべて構成し、組み立て、全体のスコアをどう設計していくか。その95パーセントは、テクニックで決まります」

Blog. 「オールタイム・ベスト 映画遺産 映画音楽篇 」(キネ旬ムック) 久石譲 インタビュー内容 より抜粋)

 

 

「でも、そのことが良い音楽を作る決定的な要素になったんですね。全部で8トラックしかないということは、ハイハットとキックとスネアを使って、ベースを入れて、キーボードが4声だったらもう終わり。すると、そこで工夫が必要になってくるんです。当時、FAIRLIGHTのシーケンサーを使わせたら、僕は絶対に世界一うまかったと思いますよ(笑)。壮大な音を8つの音だけで、いかに作り上げるかということを考えることが、ものすごい訓練になり、その感覚は現在に至るまでずっと続いています。今のように、1チャンネルだけで幾らでも音が出るような環境でやっていると、90%以上は無駄な音を入れてしまっていると思いますよ。ああいうふうに音楽を作っていては、感性は育たない。必要なのは、いかに無駄な音を使わず、しかも色彩豊かに作り上げるかという訓練だと思います」

Blog. 「キーボードマガジン Keyboard Magazine 1999年8月号」 久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 


これ、好きな話です。当時読んだときよりも今のほうがよく響いてくる。1980年代初期シンセサイザーでの作曲活動がメインだった久石譲です。8つの音(チャンネル)だけで音楽を成立させるという訓練は、つきつめれば、フルオーケストラ作品を弦楽合奏や弦楽四重奏という限られた声部に置き換えることができるということ。フルオーケストラが30~40チャンネルあるとしたら、弦楽四重奏は4チャンネル(ヴァイオリン×2,ヴィオラ,チェロ)です。音楽編成を変幻自在に拡大・縮小して再構成する久石譲の技は、こういった時代の経験のなかで磨かれてきた。もっとさかのぼれば、源流にクラシック音楽の教養があったからこそです。なかなかに深いお話だと思います。

 

 

「難しかったんだよね。それまでガッチリとコンセプトを組んできたんだけれど、最後の最後で自分を信じた感覚的な決断をしたということです。あの弦の書き方って異常に特殊なんです。普通は例えば8・6・4・4・2とだんだん小さくなりますね。それを8・6・6・6・2と低域が大きい形にしてある。なおかつディヴィージで全部デパートに分けたりして……。チェロなんかまともにユニゾンしているところなんて一箇所もないですよ。ここまで徹底的に書いたことは今までない。結果として想像以上のものになってしまって、ピアノより弦が主張してる……ヤバイ……と(笑)。」

Blog. 「キネマ旬報 1996年11月上旬特別号 No.1205」 久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 


これは『Piano Stories II』のお話です。ちょっと聴き方が変わりますよね。ほかにも、たくさんのインタビューのなかには音楽制作の貴重な過程、録音や収録に使われた専門的な機材のことも話題にのぼったりします。手元にあるインタビューをすべて読み返し、各CD作品ページで必要な情報(インタビュー内容)はあわせて紹介しています。気が向いたら、好きなCD、気になるCDの”Disc.”ページものぞいてみてください。今まで知らなかったエピソードが、そこにあるかもしれない、ないかもしれない。

 

 

「コントラバス・コンチェルトやエレクトリック・ヴァイオリンなどのソロ楽器を持つ曲を書くときは、いつも楽器を買うんですよ。コントラバスのときも買って、響きを体感するために毎日作曲の前に15分くらい弾いていましたね。だから今回もバンドネオンを買おうとしたけど、売ってないんです!もう作ってないですし。それで三浦くんに相談したら、お持ちの楽器の中の一つを貸していただくことになって。それを毎日弾いてたんですけどね、弾いたって言ってもまあ、びっくりしました。こうやって引っ張ってレ~って鳴ってるのに、押したらミになっちゃうんだよ!違うんだよね。往復で違うんだ音!みたいな! キーの配列もまるで規則性がない。これじゃ覚えられない……。でも逆に、このバンドネオンだからこそ(配列のおかげで)音の跳躍ができるというのがわかってきた。裏技を使えばなんとかなるんじゃないかみたいな。ということがあって、あとは信頼して書くしかなかった。」

Blog. 「LATINA ラティーナ 2018年1月号」 久石譲 × 三浦一馬 対談内容 より抜粋)

 

 

「小学校の音楽の授業で習うことですけど、音楽の中には”メロディー”と”ハーモニー”と”リズム”という三要素があるんです。僕らが音楽を作る上でも重要なのはこの三要素なんですよ。今回、メインテーマの”メロディー”が非常にシンプルで分かりやすいので、”リズム”や”ハーモニー”が相当複雑な構成になっても成立するんです。そこは良かったところですね。この曲の良さは、”ポ~ニョポ~ニョポニョさかなのこ”という最初の部分のメロディーですべて分かってしまうところ。そのメロディーを認識させるために4小節とか8小節とか必要としないですから。1フレーズだけで分かるので、どんな場面でも使えるんです。すごく悲しい感じにもできるし、すごく快活にもできるから、いくつでもバリエーションが作れるんです。メインテーマのアレンジを変えて使うという方法は、前作の『ハウルの動く城』の経験が生きましたね。今回、『崖の上のポニョ』でも徹底的にアレンジを変えました。使い回しは一つもありませんよ」

「音楽を入れるのに楽なところは一つもありません。その中でも悩んだところは、宗介が”リサ!リサ!”って叫ぶ場面と、その後のおばあちゃんたちがいる”ひまわりの家”が水没している場面ですね。ひまわりの家の場面には音楽が必要だと思ったんですが、そうすると宗介のシーンには音楽が入れられないなって。2つの連続する場面のどちらにも音楽が入っていたら”音楽ベッタリ”な感じになってしまいますからね。僕も宮崎さんも悩んだんですけど、宗介のシーンには音楽は要らないという話になりました。ところが、作っていくうちに、”やっぱりこれだとおかしい”っていうふうに思えてきたので、宗介のところにも音楽を入れることにしたんです。でも、ひまわりの家の部分がフルオーケストラなので、違いが出せるように宗介のところはピアノ一本で入れることに。いやぁ、うまくいきましたね。惜しいのは、僕のピアノがちょっと強かったことかな。オケの録音の後にとったので、ちょっと力が入り過ぎたみたいです(笑)」

Blog. 「別冊カドカワ 総力特集 崖の上のポニョ featuring スタジオジブリ」(2008) 久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 


ジブリ音楽に関しては、一番インタビューの質量ともに豊富かもしれません。映画ごとにたくさんのエピソードがあります。こういうのを読むだけでも、ファンはワクワクうれしいですよね。どれどれ「28.宗介のなみだ」聴きなおしてみようか、なるほど言われてみれば、愛着ますなあ、なんてことも。

 

 

「そうなんです。音楽としてつまらなくて、それが実は「劇伴」というやつなんですが、そんな単体で聴いたらつまらないものを何となく流しておくみたいな、そんな音楽なんてつけちゃマズイですよ。映画の音楽をやったことがある作曲家にね、「久石さん、映画の音楽って安いでしょう」って言いにくる人がいるんです。そのとき「あ、ごめん、俺、恐らく日本の映画の4、5本くらいの音楽予算がないとやらないから、決して安くないよ」って、はっきり言いますよね。「これはぜひ久石さんの音楽が欲しい。でも予算がなくて」なんてさ、それで役者の衣装に費用をかけたりするとさ、「こらっ」って、思うじゃないですか。だったら衣装の一つや二つ削って、音楽予算を作ればいいじゃないかと。例えば「内容さえよければ、どんなに低予算でも私はやります」っていえば、それは70点の回答なんだけれど、それって逃げてる言葉なんです。自分をカヴァーしているだけ。「安いものは基本的にやりません」って言う方が誠意があると思う。」

-それは久石さんを追い込み発言ではありますが、映画音楽ってお金が必要なんだという認識にもつながりますし、当然いい音楽を作るにはお金がいる。

久石:
「いります。シンセで後ろにちょこっと流しておこうという話でなければ、やはりちゃんとお金をかけなければいけない。もし僕が安いギャラで引き受けてしまったら、後に続く連中がもっと安くなってしまう。だれかが突っ張って言っていかないと、ほかの連中がもっとかわいそうになってしまう。自分が置かれた立場を考えると、責任感というものが少しは芽生えましたね。そういう意味では発言の場を作って、機会のあるごとに言っていかないと、日本の映画が豊かにならない気がするんですよ。自分自身がやりやすくなるためにも環境を作っていかなければいけないんです。」

Blog. 「キネマ旬報 2000年7月上旬 夏の特別号 No.1311」 久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 


こんな久石さんも好きです。そしてちゃんと芯がある。

 

 

「この次は絶対にクリアーにしようと、絶えず線になって反省して、さらに理想的な高い完成度の…、ここが難しいんですけどね。完成度が高ければいい音楽になるかというと、ものすごく立派な譜面を書いたからってそうはならない。むしろちょっと粗っぽく書いて、なんだかなあっていうときのほうが、人々に与えるインパクトが大きいケースもありますからね。実のところ、音楽がまだわからない。だからたぶん、10年後もそういうことに悩みながら、『いい音楽をどう創ろうか』と考えていくんじゃないかと思います」

Blog. 「MUSICA NOVA ムジカノーヴァ 2007年3月号」久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 

 

「結局、クオリティを上げるのは努力しかないんですよ。一にも努力、二にも努力。自分が納得するまで、これでいいと思うまでやり続けるしかない。それだけです。だから絶えず不安です。書けなくなるんじゃなうかとか、今回は本当にできるのかとか、いつも不安を抱えている。でも、そうするとどこかでアドレナリンがぶわっと出て、意欲が湧き上がってくれる。それで仕事をなんとか乗り切ってる。かっこいいことなんか何もない。いつもギリギリ。でも仕事って、そういうものじゃないですか。のた打ち回れば、のた打ち回っただけ少しはよくなるだろう。そう信じて、最後の最後まで粘り続けられるかどうか。それで作品の質は決まるのだと思う」

Blog. 「GOETHE ゲーテ 2013年7月号」映画『奇跡のリンゴ』久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 

 

「久石さんとは同じ時代を生きてきたと思う」。宮崎が語る。「作るに値する映画はいつの時代にもあるだろうという仮説のもとにやってきました。そのたんびにいっしょにやろうと。ここまで来たら最後までいっしょにやると思う。彼の音楽はぼくの通俗性と合っているんですよ。彼の音楽の持ち味は”少年のペーソス”です。それは彼のミニマルの底流にもあるし、『ナウシカ』のときからあった。映画によって隠したり、ちょっと出したり、うんと乾いて見せたり。手を替え品を替えやりながら生き残ってきた人だから、そう簡単に手札を見せるわけがない。でも”少年のペーソス”はずっと変わっていない。そこがたぶんぼくと共通している」

Blog. 久石譲 雑誌「AERA」(2010.11.1号 No.48) インタビュー より抜粋)

 

 

◇対談のよさ

これまでに各界著名人と対談しています。その魅力をひと言でいえば、対談で起こる化学反応な話題の広がりです。プロのインタビュアー(音楽や各業界に精通している人)であれば、こんなことは聞かないよなあ、でも!読者としては聞いてくれてありがとう!な話。思いもよらない切り口や質問がとんでくる。キャッチボールが豪球になっていったり、あるいはラフなゆるい空気になったからこそ生まれる会話。積極的には語ったことないんだけど、聞くなら答えるよ、そんなナイストス!の応酬も対談の面白さです。

インタビューに答えるための、もちろんプロモーションの側面も担った、準備された回答はぐっと減ります。その場、その時、空気、一期一会。これらの貴重な話は、この相手だから聞けたこと、このタイミングだから語られたこと、会話が生きもののように躍動感あるものになっています。

 

 

少しだけ選んだものをご紹介します。

 

秋元:
僕らはよくいろんな方とコラボレーションをするじゃないですか。ドラマでも映画でも悲しいメロディーというと、普通の音楽監督というのは聴いただけで悲しい曲を書いてきてくれる。でも驚かないんですよ。脚本でも音楽監督でも役者でも、やっぱり一緒にやった人が自分が投げたアイデア以上ものもを返してくれて、お互い驚きあいながら作っていかないとダメなんですよね。今回はそこが非常におもしろかった。日活の会議室で初めてブルガリアン・ヴォイスを聴いた日、久石さんが曲を流す前に「いっちゃっていいですか?」と訊ねられて、曲を聴いたら本当にいっちゃってた(笑)。すごくいいなあと思った。作詞でもそうなんですけど、どこまで奇を衒っていいかを判断するのは難しいんですよ。ただ奇を衒ってるだけだと単なる企画もの、イロモノになっちゃう。だから微妙に奇を衒っている新しさ、そこが一番難しいんですよね。

久石:
単に奇を衒うというのはできるんだけど、それがどう主題に関わってくるかですね。それができたのはやはり秋元さんに対する信頼です。受け止めてもらえるというのがあったので。こちらが窮屈にならずに持っているアイデアをぶつけられたんです。

秋元:
いや、それはプロの技ですよ。ブルガリアン・ヴォイスから嵐のシーンのオーケストレーションまで幅が広い。ブルガリアン・ヴォイスだけのアイデアを出せる人はブルガリアン・ヴォイスのテイストで最後までいっちゃうんですね。そうすると今度は映像と音楽が分離してしまう。それにしてもラッシュの音がない時に比べて数百倍良かったです。

久石:
日本映画としては本当にお金を出してもらったんですよ。ホールでオーケストラをきっちり録れるなんてまずないですから。これだけの規模でできたからこそなんです。

秋元:
オーケストラというと、それだけの人数と楽器を集めて、ホールまで借りるのは、すごくお金がかかる。だから大抵みんな打ち込みでやるんですけど、久石さんがホールでモニータに映像を流して同時に録ろうとおっしゃった。すごく贅沢ですよ。アメリカではそういうシステムが整っているけど、日本ではなかなかできない。

久石:
設備が整ったところで録るわけではないので、レコーディング機材を全部運び込まなくてはいけなくて、ものすごく大変なんです。しかもいろいろトラブルがあるし。

秋元:
我々も、いつもああいうことができると思ってはいけないんですね。

久石:
でもこの先デジタルになったら、もっとああいうやり方の重要性が出てきますよ。ホールのアンビエントがそのまま再現されるから、とても奥行きが深くなる。

Blog. 「秋元康大全 97%」(SWITCH/2000)秋元康×久石譲 対談内容 より抜粋)

 

 

 

久石:
ものをつくる場所というのはこだわりますよね。雰囲気的にものをつくれる環境を選びます。レコーディングスタジオに入るとミュージシャンやスタッフなど人も大勢いますし、作業場ですね。今日もこの取材後にスタジオに移動してCM音楽のレコーディングをするのですが、完成させた譜面を持ってスタジオに入ります。やはり曲づくりの場所とは分けています。演奏しないことにはレコーディングにならないので、レコーディングする場所としてそこはきちんと分けています。

稲越:
その場でアレンジとかして違ってきたりするのですか?

久石:
僕はスタジオに入ってしまったらもうまったく変えません。

稲越:
えっ、変えないんだ……

久石:
レコーディングは誰よりも早いと驚かれます。二日間のレコーディングを予定していても、たいてい一日目で半分以上の曲数を録ってしまいますから。一日の場合も、二一時までスタジオを借りていたとしても、一八時、一八時半には終わってしまうことが多いです。このあいだ久しぶりにスケジュールの組み方の問題もあり、遅くなることがありましたけど、これなんかは例外です。

Blog. 「CUE+ 穹+ (きゅうぷらす) Vol.12」(2007) 久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 

 

 

冨田:
「いや、ほんとうにぼくらの仕事は肉体労働だよ。やっとこの頃、どうにか自分でコントロールできるようになってきたけど。久石さんなんか、いまが死ぬほど忙しいでしょう? 仕事がいろいろな方向へ拡がっているものね。すごく興味を持って見させていただいているんですよ」

久石:
「いやいや、ボクにとっては、一瞬のうちに響きやサウンドが聴き手の耳を惹きつけてしまうという冨田さんの仕事がいつも一番気になってきたものなんです」

Blog. 「CDジャーナル 2002年4月号」 冨田勲 vs 久石譲 対談内容 より抜粋)

 

 

 

林:
「坂の上の雲」のテーマ音楽が聞こえると、意味もなく悲しくなるんですけど、雲の向こうに壮大な世界が広がっていくような気がして。あの音楽を聴いただけで、みんな胸がキュッとなるんじゃないですかね。

久石:
それはすごく嬉しいです。ああいう大型のドラマになると、大河ドラマのオープニングみたいに、「ジャジャジャ~ン!」という派手な音楽で出るのがふつうなんでしょうけれども、僕、そうはしたくなかったんです。あれだけの大作なんだから、その精神を受け止めるような、バラード的なもののほうがあの世界観が出るんじゃないかと思ったんです。

~中略~

久石:
映画の音楽だとかをしばらくやってると、飽きちゃうんです。「これでいいのかな」と思うと、逆に完全に作品風に振っちゃって。そうすると今度は独りよがりになりがちなんです。あっちでぶつかり、こっちでぶつかり、の繰り返しですね。

林:
團伊玖磨さんみたい。團さんは大作を書く一方で、シンプルで、みんなが好きな「ぞうさん」もお書きになっていて、懐の深さが似てますね。

久石:
「ぞうさん」は、まど・みちおさん作詞で、あれは名曲ですね。ああいうシンプルな曲ほど難しいんです。「♪ぞーうさん ぞーうさん おーはながながいのね……」って、言葉のカーブとメロディーカーブが一致してるんですよ。

林:
ほおー、そこまで考えたことなかったです。「♪歩こう 歩こう……」(「となりのトトロ」の主題歌)もカーブが合ってますよね。

久石:
合わせてます。ポニョ(「崖の上のポニョ」)もそうですね。

Blog. 「週刊朝日 5000号記念 2010年3月26日増大号」久石譲×林真理子 対談内容 より抜粋)

 

 

 

淳:
僕は宮崎監督が久石さんの楽曲に合わせて物語を作ってる部分もあるんじゃないかって思ってるんですが、その辺はどうですか? 「その曲ができたなら、こういう演出にしていこう」って。だって音楽があまりにも作品にマッチしてますもん!

久石:
それはたぶんないと思います。確かに早い時期にイメージアルバムを作って、それを宮崎さんがお聴きになってるっていうのは聞きますけど、非常にピュアに絵コンテをしっかり描かれる方だから。

Blog. 「月刊サーカス CIRCUS 2012年4月号」FACTORY_A 久石譲×田村淳 対談内容 より抜粋)

 

 

ほかにも、鈴木光司さん、飯島愛さん、そして対談本もある養老孟司さんとは、共著以後に2~3回ほど雑誌をとおして対談しています。

 

 

◇本としてまとめることが大切

スタジオジブリ関連本はたくさんあります。そのなかに、宮崎駿監督・高畑勲監督のインタビューをあつめたものも、きっちり歴史をのこすように出版されています。

鈴木敏夫プロデューサーは、こう語っています。

”以前、高畑勲・宮崎駿がいろんな媒体で書き散らかした文章、話したインタビューを、年代順にまとめた本があると便利だと思い、それぞれ一冊にまとめました。文庫も複数の出版社からばらばらに出ているんじゃなくて、一社でやってもらえないかなと”

 

Overtone.第27回 「映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集/武満徹 著」を読む ~ウソとマコト I~ で題材にしたこの本も、巻末に《初出一覧》がぎっしり掲載されています。○○○○年○月○日○○新聞、○○○○年○○雑誌○○月号というように。もしこういった編集作業をへた書籍化がなければ、今読むことはできなかったでしょう。

 

 

◇久石譲論 本ノススメ

宮崎駿も、高畑勲も、北野武も、武満徹も、ほかにもたくさんのプロフェッショナル。映画界、音楽界、スポーツ界。自らのの著書とならんで、そこには研究本があります。”宮崎駿論”は国内にとどまらず海外専門家によっても多数執筆されています。解説・分析・批評・論考・攻略・研究・専門・特集、どんな言葉を使ってもいいです、そういった類の書物。深く切りこんだタイプのものは、そんな視点や考察もあるのかと楽しく驚かされますし、クロノジカルにまとめたタイプのものは、まさに年代記、歴史の足跡を紐解く充実度があります。

 

でも、久石譲の音楽活動について、

そういった本はない。

ずっと不思議だったんです。

なんでないんだろう?

あるとき、ひとつの答えを得た。

 

それは、歴史的資料の絶対数が少ないからじゃないか。歴史的資料を本という単語に置き換えてもいいです。研究したいにも、分析したいにも、資料が少なければできません。どういう制作過程だったのか、当時の環境や志向性は、その時にどんなことを語っていたのか。可能なかぎり集めて広げて、自分なりの論考にまとめていく。

音楽という特性についても。音楽を聴いただけで語るなら、それは解説こそできても、深く鋭い研究はできません。もし仮に、音楽という素材だけで扱うにしても、そこには必ずスコアが必要になります。いくらプロの音楽評論家といえど、聴いたものだけで分析して語れというのは、とても難しい。

宮崎駿監督の著書は11冊あります(対談・インタビュー・共著も含む)。さらに、「ジブリの教科書 シリーズ」のように、各作品で本をまとめたものにも、製作当時のインタビューは収録されています。付随する製作スタッフ(原画・動画・色彩・声優・プロデューサーなど)の話から、浮かび上がってくることもあります。そして「イメージボード集」や「絵コンテ集」、これが映画をつくるための設計図になります。このような重層的な歴史的資料の充実と提示こそ、今なお論考を活発化させ深めさせている要因のひとつだとしたら。

スコアは音楽をつくるための設計図です。ベートーヴェンの音楽を専門的に分析するなら、そこには片手にスコア、片手に資料を準備して臨みますよね、たぶん。音楽評論家は、そこから新しい見方や解釈を得て、議論を深め、音楽と一緒に歴史的価値を引き継いでいく。ここは大切! それが指揮者や演奏者だったらどうでしょう。そこには片手にスコア、片手に資料を準備して臨みますよね、たぶん。深い理解を求め、新しい視点を模索し、”今”という時代に照らし合わせて表現豊かに奏でられる。長く演奏され聴きつがれる音楽になる。

 

僕は、ひとつの答えとしてそう導きました。

 

すべてを包括できてはいないけれど、ひとつの要因として、少しは当たっているような気がしています。つまるところ、僕が強く希求しているのは、「新しい聴き方」のサンプルの提示です。こういう聴き方もある、こういう背景がわかるともっとおもしろく聴けるよ。個性豊かな解釈の集合体が、よりその音楽を重層的に魅力あるものにするように。自分にはない音楽の聴き方、うけとり方を、もっともっと浴びたい。すごいな久石譲!と唸りたい。

日本映画音楽界のひとつの時代を築いてきた久石譲、日本現代作曲家として作品を発表しつづけてきた久石譲。次世代の音楽家たちに影響をあたえ、その血肉や遺伝子のようなものは、確実に音にも方法論にも見受けられることもあります。久石譲ファンであること、久石譲音楽を聴いて育ったこと、そう公言する作曲家は日本ではもちろん、海外作曲家からのリスペストを耳にすることも。

そんな輝かしい久石譲の軌跡をまとめた本が、バラエティ豊かな”久石譲論”書物たちが、久石譲著書と久石譲楽譜の横に並んで置かれている光景。ちっとも不思議なことじゃないですよね。

 

それではまた。

 

reverb.
久石譲インタビュー集と久石譲論の2タイプの書籍化希望のお話でした。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第31回 ファンサイトにあらゆるテキストを記録する5つの理由

Posted on 2020/04/21

ふらいすとーんです。

ファンサイトでは、久石譲インタビュー内容などたくさんのテキストを載せています。雑誌・新聞・Webインタビューから、CDライナーノーツ・コンサートパンフレット・映画パンフレットなど多岐にわたります。

 

なぜこんなことをするのか?

それは、もちろん久石譲の音楽活動をあらゆる角度から記録しつづけることを目的としているサイトだからです。とはいっても、決して声を大にして言えるアピールポイントではありません。誉められることでもない、微妙なバランスのなか存在することができています。このことはいつも謙虚に、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

なぜそこまでするのか?

リスクをおかしてまで、テキストを載せつづける理由はあります。ケンカを売っているわけでも、挑発的に臨んでいるわけでもありません。僕なりの小さな信念がそこにはずっとあります。でも、その小さな信念は、僕だけの小さな正義であって、振りかざすことはできません。いつか続けられなくなる日もくるかもしれない。そう思っています。

今回は、ファンサイトを運営するにあたって、あらゆるテキストを記録する理由をお話したいと思います。言い訳がましい、弁護がましく響くかもしれません。それでもなお、しっかり自分の思うところを示すことも大切だと思い、とすすめていきます。

 

1.書写すること

書き写すことの学びは大きいです。目で追って読む読書よりも、口に出して読む音読よりも、一言一句を丁寧に書き写す作業は、記憶と吸収力の差に直結すると信じています。小学校の授業でもありましたよね。大人になっても好きな本の一節や詩を、ノートに書き残すことはあったりしますね。書くという運動をとおして、自分のからだのなかに入っていく感触や手ごたえのようなもの。

実は、最初の動機はこの一点でした。久石譲の音楽活動という長い歴史を、少しでも自分のなかに血肉として吸収したい、覚えたい。インタビューのなかに知らない言葉があれば、パソコンのページを切り替えて、すぐに調べることもできる。久石譲の口から飛び出した他作曲家やその音楽作品、気になるキーワードもまた、同じように書き写しと並行して調べることができる。そういうことを、ひとつひとつやりこなすうちに、小さな好奇心が小さな学びとなって、ぷつっぷつっと自分のからだに付随してくる感覚です。

たぶん、読むだけだと、知らないことも知らない言葉も、読み流してなんとなく前後の文脈でフィーリングで理解します。雑誌1ページのインタビューも、読むと3-5分、書くと調べると15-30分。そんなアナログな作業を、僕はとてもささやかに楽しんでいます。

 

 

2.ファイリングすること

「そういえばこの曲について、何か言ってたな。あれどの本だっけ? えーっと、時代からみてあの本かなあ・・・」、、、「えっ、本じゃない?! じゃあ雑誌かなあ、パンフレットかなあ、動画かなあ・・・ムリ探せない・・・」

本であればわりとすぐに見つけることができる内容も、それ以外のメディアに書かれたこと語られたことから探すのは本当に大変です。そうやって、忘れられていく歴史的資料も多く、それは自然の流れなのかもしれません。残らなくていい記憶や記録というものもあるでしょう。時間のフィルターで大切なことだけが残っていく。

そうか、Web上に文章をのせてしまえば、自分のための検索として探しやすくなるな。Web上にファイリングしてしまえば、アーカイブしてしまえば、いつでもサクッと探しやすくなる。自分のために始めたことです。それがほかの人の役にも立つかもしれない、という心優しいことまでは、ちっとも考えていませんでした。Webにあげるということは、公開されるということ。もちろんその責任も理解していますが、静かに記録していくだけ、そっとファイリングされていくだけ。でも、今となってはそんな無責任な立場はとれません。だったら、やるなら穴がたくさんあいたパズルよりも、できるだけ公平に完全に近いかたちで網羅していきたい。その一心です。

 

 

3.Webインタビュー

近年はWeb公開される久石譲インタビューも多いです。インフォメーションで発信メディアを紹介するだけでなく、その内容をファンサイトでもあえて同じく収めています。理由はひとつだけ、公開終了になったら見れなくなってしまうからです。パズルのピースが時間とともに自然消滅的に抜け落ちてしまう。そんな風化にあらがうように、出典元をしっかり明記したうえで、記録させてもらっています。

 

 

4.書き起こし(ラジオ・TV・動画)

ラジオ出演した内容を運良く録音できたとして、それをそのまま音源としてアップロードすることはNGです。ずいぶん悩んだのですが、意を決して音声を書き起こして記録することにしました。悩んだ理由は、シンプルに膨大な時間とエネルギーがかかるからです。

便利なITツールで、パソコンで音声を流すと、それを自動で文字起こししてくれる、そんなソフトもたくさんあります。ちょっと試したこともあります。でも、テキスト化された文章は50点くらいしかあげられません。細かく添削しないといけないなら、ゼロから書き起こしたほうが、きっと楽です。集中力も精神力もかなり鍛えられますが、海外小説を辞書片手に翻訳するような、大きくカラフルなタペストリーを黙々と織りあげるような。そんな超アナログな作業を、僕はとてもコツコツと楽しんでいます。

Web動画もWebインタビューと同じく、いつかは公開終了となってしまいます。公開中の動画URLを紹介したうえで、話していることを文字にしています。

 

Transcription from RADIO

Transcription from TV

Transcription from VIDEO

ほか

 

 

5.世界中のファンが読むことできる

あらゆるテキストを記録するなかで気づいたことがあります。そうか、喜んでもらえるかもしれないと思ったことがあります。海外の久石譲ファンです。

 

情報をさがす
日本であれば簡単に情報は探せるし、新しい情報にもすぐに気づくことができます。それをそのまま見るなり読むなり聞くなり、なんの不便もなく理解吸収できます。でも、海外の人にはむずかしい。

 

CDライナーノーツ
海外ファンは久石譲CDの日本国内盤を買いたいはずです。でも、買っても日本語で書かれたライナーノーツは読むことできません。もし、Web上にテキスト化されたものがあれば、翻訳ツールを使って簡単に自国語として80~90%以上の理解度で、読み楽しむことができます。

僕も海外アーティストのCDを買ったりして、そこにぎっしりとインタビューが載っているのに英語が読めない、残念な思いをすることはたくさんあります。もし読んで楽しめたなら、音楽の聴きかた・楽しみかた・感じかた、さらに大きく広がるだろうなあと。

近年、LP化された久石譲オリジナル作品シリーズや、世界同時リリースのベスト盤は、英文ライナーノーツも併記されています。日本語だけよりは、ずいぶん親切に、そして世界へ向けたメッセージになりますよね。

 

 

雑誌インタビュー
海外から雑誌を買う人まではいないと思いますが、コレクションに購入しても、写真や雰囲気を眺めることしかできません。Web上にテキスト化してしまえば、同じように翻訳ツールで読むことができます。ここで肝心なのは、CDライナーノーツにしても雑誌にしても、写真や画像でアップロードしても意味がない(その前にその行為はNGです)。ウェブテキストになっていないと翻訳できません。スキャンしてアップしてしまえばすむ簡単なことも(くりかえしその行為はNGです)、海外ファンには伝わらない。1回ボタンをおしてカシャッと1秒で終わることと、カチカチと奮闘しながら時間をかけてタイピングすること。その時間のなかにささやかな親切心のようなものを感じてもらえたら、うれしく思います。

 

書き起こし
自動で文字起こししてくれるITツールがあると紹介しました。実際に、久石譲ファンに限らず、海外ファンがお目当ての日本人を追っかけるなかで、こういったツールを駆使している人はいます。逆もまたしかりです。英語を読みあげている音声を文字化して、できあがったものを日本語に翻訳してみる。そういう使い方をしている人や分野は多いかもしれません。

でも50点なんです。とくにフリーソフトは。だったら、正確さを最大のモットーとして、日本人であることを武器として、書き起こしまでしたものを公開できたなら。きっと正しく伝わり、きっと正しく喜んでくれますよね。

 

 

近年、久石譲著書は中国などでどんどん翻訳されています。これはとてもうれしい動きです。でも、時代的にみて少し古い書籍たちになっていきます。そこにも十分な価値はあります。自国語で読めるのはなんといってもうれしいものです。リアルタイムな雑誌やラジオで「久石譲が語ったこと」は、瞬間的にはファンサイトで補ってもらいながら、長い目でみると、これから新しい久石譲著書が出版されていくといいなあと思っています。

 

◇データベース

このようにしてファンサイトのデータベースはできあがっています。もし気になることを調べたいときには、サイト内検索窓でキーワード検索してください。いろんな情報が見つかると思います。

ただし、”あいまい検索”はヒットしません。サイト内に書かれている正確なキーワードが必要です。Googleなら【ハウル動城】で《ハウルの動く城》のことだとヒットしてくれますが、こまやかな気配りは叶いません。ちゃんと【ハウルの動く城】と検索窓に入れてくださいね。

僕も気になって調べたいときに、調べるキーワードに迷走することがあります。あれ、この言葉は入ってなかったんだ・・・なんて言ってたっけなあ・・・と。

また、BiographyやDiscographyには、関連記事は紐付けているものも多いです。たとえばCD作品のページに、それにまつわるインタビュー記事をあわせて紹介しています。

 

◇正しく活用するために

久石譲が語ったことと、僕が思ったこと書いたこと。それは明確に区別しています。「久石譲はこう語っています」とテキストを抜粋紹介したうえで原典も記しています。その下や別のセンテンスで自分の文章を書いています。ごっちゃまぜにならないよう気をつけています。事実や正確性がゆがめられないように。

どうしても、それができないときもあります。そんなに多くはない、たとえばこの文章です。

 

”映画のメインテーマをロンドン交響楽団でやりたい、という久石譲の希望を実現させたのは、アビー・ロード・スタジオのチーフエンジニア、マイク・ジャレット氏です。オーケストラの手配からレコーディングのスケジュールまで。用意したのは85人編成、三管編成に6ホルン、50名のストリングスという大編成オーケストラでした。レコーディングも立ち会い機材やマイクを調整しと、当時の久石譲には欠かせない存在であり、強い絆と信頼で結ばれたパートナーです。

当時、こんなに大きな編成はコンサート用でも書いたことがなかった、という久石譲は、ロンドンに持ってきていた資料も少なく、現地でマーラーの交響曲第5番のスコアを買った。それを教科書として(音楽を真似するという意味ではなく)スコアから学びながら、図書館に通いながら書きあげたのが映画メインテーマ曲です。

ところが、1993年6月23日、マイク氏は37歳の若さで突然病気に襲われて亡くなってしまいます。一緒に制作を進めていた矢先の出来事です。アビーロードでのミックスダウンが終わったときマイク氏はこう言ったそうです。「これはハリウッドにも負けないグレートな音楽だよ」。彼の最後の仕事となったのが、久石譲とのこの映画音楽制作でした。”

Overtone.第30回 久石譲もうひとつの ”HOPE” より抜粋)

 

久石譲著書からのオリジナル文章は書き写さないこと、またこの本が絶版であること。これらを考慮して、本の数ページを要約して書いている例です。本のなかに【当時の久石譲には欠かせない存在であり、強い絆と信頼で結ばれたパートナーです。】、こんな文章はなかったはずです。同じ趣旨のことは言っていたにせよ、使っている言葉や表現は違うはずです。ここに僕の意思や伝え方が入ってしまっています。なるべくこういった方法での文章は、載せないほうがいいと思っています。ごちゃまぜになってしまうので。

 

すべては正確に知ってもらうために

もし、選り好みがはたらいてしまったら。ジブリのことはのせるけど、クラシックはのせないとか。オリジナル作品のことは追求するけど、CM音楽は興味ないとか。こうなると本末転倒です。だから、やるならできるだけ漏れのないように、穴抜けのないように。徹底的にやることが正確性と公平性の担保になると信じています。そうすることで、往年ファンだけどこのテリトリーは知らなかったという人、新しいファンで過去の活動をゆっくり探求していきたい人、海外ファンへの安心できる手引き。少しでもなにかのきっかけになれるならと思っています。

今までわからなかったことが、わかってくるとき。今まで興味のなかったことが、好奇心に変わるとき。あのときはスルーしていた久石譲の言葉が、今になって響いてくることもあります。インタビューを読み返すと、気になるポイントが変わってくることもあります。お気に入りの小説を数年後に読み返したら、感じ方や印象が以前とずいぶん変わっているように。

アーカイブすることは、過去をどんどん蓄積していくことだけじゃないと思っています。どんどん上積みされて古くなっていくものだけじゃないと思っています。アーカイブにふれることで、感じとりかたの変化した自分をもまた感じることができる。これは、ファンとしてたしかな成長や変化ともいえる瞬間です。また、あのときの点と点、久石譲の発言が活動が、時間の流れでやっと反応するように、ある日突然その重みや輝きがますこともあります。アーカイブは混ざることのない地層とはちがう、常に過去と現在を往来しています。そしていくつかの未来の方向性をさし示していることもあります。

 

久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋 Joe Hisaishi fan site “Hibikihajime No Heya” ~The room filled with Joe Hisaishi music~ です。《この部屋は久石譲音楽で満たされています》と表現しています。そこには音楽や音源そのものはありません。久石譲音楽をかたちづくっている大切な記録や足跡が資料館のように保管され、積み重なり溢れていったらいいなあと思っています。

それではまた。

 

reverb.
次回はつづけてテキストについて♪

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第30回 久石譲もうひとつの ”HOPE”

Posted on 2020/03/24

ふらいすとーんです。

久石譲と”HOPE”

2016年フィギュアスケート羽生結弦選手がFS楽曲として使用し「Hope&Legacy」と名づけられた曲。久石譲「View of Silence」「Asian Dream Song」ふたつの楽曲を組み合わせた曲は、過去の名曲を新しい作品として蘇らせた印象的なトピックです。

 

  • ふたつの楽曲について(制作エピソード, CD・DVD収録作品)
  • 1998年長野パラリンピック冬季競技大会 プロデュース, テーマ曲
  • 久石譲が大会テーマに掲げた「Hope&Legacy 希望と遺産」
  • 1998年羽生選手がフィギュアスケートを始めた年
  • 2016年約10年ぶりにコンサート披露されたふたつの楽曲
  • フィギュア音響デザイナーが明かす「Hope&Legacy」誕生秘話

 

このあたりのことはまとめていますので、ゆっくりじっくり紐解いてみてください。

 

 

 

久石譲ともうひとつの”HOPE”

今回のお話はこちらです。

 

もうひとつの”HOPE”ってどの曲?

”HOPE”その象徴的な時代は?

「Two of Us」コンサートプログラムのわけ?

 

この大きく3つのことを、時代の流れにそって見ていきたいと思います。

 

 

映画『水の旅人 侍KIDS』(1993)

1990年代初頭、久石譲は音楽制作の拠点をロンドンにおいていました。この時期いくつかのオリジナルアルバムと映画サウンドトラックが制作されています。そのなかのひとつに、映画『水の旅人 侍KIDS』の音楽があります。

映画のメインテーマをロンドン交響楽団でやりたい、という久石譲の希望を実現させたのは、アビー・ロード・スタジオのチーフエンジニア、マイク・ジャレット氏です。オーケストラの手配からレコーディングのスケジュールまで。用意したのは85人編成、三管編成に6ホルン、50名のストリングスという大編成オーケストラでした。レコーディングも立ち会い機材やマイクを調整しと、当時の久石譲には欠かせない存在であり、強い絆と信頼で結ばれたパートナーです。

当時、こんなに大きな編成はコンサート用でも書いたことがなかった、という久石譲は、ロンドンに持ってきていた資料も少なく、現地でマーラーの交響曲第5番のスコアを買った。それを教科書として(音楽を真似するという意味ではなく)スコアから学びながら、図書館に通いながら書きあげたのが映画メインテーマ曲です。

ところが、1993年6月23日、マイク氏は37歳の若さで突然病気に襲われて亡くなってしまいます。一緒に制作を進めていた矢先の出来事です。アビーロードでのミックスダウンが終わったときマイク氏はこう言ったそうです。「これはハリウッドにも負けないグレートな音楽だよ」。彼の最後の仕事となったのが、久石譲とのこの映画音楽制作でした。

『水の旅人 侍KIDS オリジナル・サウンドトラック』CDライナーノーツのクレジットには、こう刻まれています。

 

Produced by JOE HISAISHI

All Songs composed and arranged by JOE HISAISHI

Recorded and Mixed by
MIKE JARRATT (for Abbey Road Studios)
Steve “Barney” Chase (for THE TOWNHOUSE)
SUMINOBU HAMADA (for Wonder Station)
TORU OKITSU (for Wonde Station)

Recorded and Mixed at
Abbey Road Studios , Air Studios , Lyndhurst Hall , Wonder Station
Avaco Creative Studios , Kawaguchiko Studio

Performed by
London Symphony Orchestra [1,7,16]

Dedicated to memory of MIKE JARRATT

久石譲 『水の旅人 オリジナル・サウンドトラック』

 

そして、映画エンドロール、最後に大林宣彦監督のクレジットが流れるその前に、CDと同じ追悼クレジットがしっかりと刻まれています。

 

 

オリジナルアルバム『地上の楽園』(1994)

CDライナーノーツには、物語風のエピソードが記されています。

そのなかに、

”例えば「HOPE」あのビル・ネイソンが詞を書いて歌ってもいるよ。すごくいい仕上がりだ。きっと君も気に入るはずだ。もともと「HOPE」は19世紀のイギリスの画家ワッツが描いたものなんだけど、地球に座った目の不自由な天女がすべての弦が切れている堅琴に耳を寄せている。でもよく見ると細く薄い弦が一本だけ残っていて、その天女はその一本の弦で音楽を奏でるために、そしてその音を聞くために耳を近づけている。ほとんど弦に顔をくっつけているそのひたむきな天女は、実は天女ではなく”HOPE”そのものの姿なんだって。いいだろう、だからほんとはその絵をこのアルバムのジャケットにしたかったんだよ。何故か無理だったけどね。”

(『地上の楽園』CDライナーノーツより 抜粋)

 

ここで登場するのがこの絵です。

 

HOPE 地上の楽園

「Hope」(1886)
GEORGE FREDERIC WATTS
Oil on canvas, 142.4×111.8cm
Tate Gallery (N 01640)

 

収録曲「HOPE」についてもこう書かれています。

 

4. HOPE
その日、僕はテイトギャラリーにある「HOPE」の前に立った。1886年、WATTSが描いたそれはいつもと変わりなく僕を迎える。地球に座った目の不自由な天女「HOPE」が奏でる音楽を聞きたいと君はいった。

(『地上の楽園』CDライナーノーツより 抜粋)

 

 

絵と曲がつながりました。

 

この曲、実は「水の旅人 メインテーマ」と同じ曲なんです。

まったく曲調も雰囲気も違うので、またインスト曲とボーカル曲なので、突然そんなこと言われても、そうだったっけ? と半信半疑かもしれません。今から、Aメロ・Bメロ・サビ・間奏と、ふたつの曲を線でつながていきます。そう言われればそう聴こえてくるかも・・・。そんなレベルじゃありませんよ。ちゃんと同じ原石から分かれた、いわば二卵性双生児のようなふたつの曲。

 

ぜひ『地上の楽園』CD盤をひっぱり出してきてください。

 

地上の楽園

 

「HOPE」
Aメロ(00:25~00:59)
Bメロ(01:00~01:20)
サビ(01:21~01:37)
間奏(02:45~03:18)

それぞれのパートが一致していきます。

「Water Traveller」(水の旅人 メインテーマ)
Aメロ(01:36~02:23)
Bメロ(02:24~02:50)
サビ(04:41~05:31)
間奏(05:49~06:34)

となります。

「Water Traveller」の印象的な主題(サビのようなもの)であり幾度登場する旋律(00:26~01:09)は、「HOPE」には使われていません。

「HOPE」のサビとなっている旋律は、「Water Traveller」の中間部パートにあたるという離れ業。さらには、「HOPE」間奏はコード進行もまったく違うので一致しにくいですが、シンセストリングスで鳴っている旋律が「Water Traveller」ではホルンの旋律、まったく同じです。

 

Joe Hisaishi – Water Traveller

from Joe Hisaishi Official YouTube

 

『長野パラリンピック支援アルバム HOPE』(1998)

CDライナーノーツには、このようなメッセージが記されています。

 

”長野パラリンピックは、アジアで初めて開催される冬季競技大会であり、20世紀最後の大会となります。大きな時代の変わり目の時、開会式は希望「HOPE」をテーマにしました。

そして、このテーマの出発点となったのが、フレデリック・ワッツの描いた一枚の絵「HOPE」です。今回このアルバムに参加して頂いたアーティストには、この絵を見てもらったイメージから新曲を作って頂いたり、演奏して頂いたりしています。”

(『長野パラリンピック支援アルバム HOPE』CDライナーノーツより 抜粋)

 

収録曲のなかに「HOPE」や「Water Traveller」は含まれていませんが、1990年代の久石譲音楽活動において、ひとつのテーマとなっていたのが”HOPE”であることがわかります。大会テーマ曲「旅立ちの時 ~Asian Dream Song~ / 宮沢和史 with 久石譲」はこのアルバムに収録されています。

 

久石譲 『長野パラリンピック支援アルバム HOPE』

 

 

「HOPE & LEGACY 希望と遺産」

長野パラリンピックの開会式は「Hope 希望」をテーマに、閉会式は「Hope & Legacy 希望と遺産」をテーマに行われました。久石さんは式典の総合プロデューサーを務めていました。開会式フィナーレでは、盛大な演出のもと「旅立ちの時 ~Asian Dream Song~」が披露されています。

 

『Melodyphony メロディフォニー ~Best of JOE HISAISHI〜』(2010)

2009~2010年、久石譲は音楽活動の両軸である作家性と大衆性の集大成となる、それぞれふたつのアルバムを完成させます。『Minima_Rhythm』(2009)と『Melodyphony』(2010)です。

『Minima_Rhythm』のエピソードでは、こう語っています。

 

-アビー・ロード・スタジオへの想い

久石:
僕がロンドンに住んでいた頃、アビー・ロード・スタジオにマイク・ジャレットというとても親しいチーフエンジニアがいたんです。一緒にレコーディングをすることも多く、本当に信頼の置ける人物だったのですが、惜しいことに若くしてガンで亡くなってしまった。彼の最後のセッションが僕との仕事で、ロンドン交響楽団演奏による『水の旅人』のメイン・テーマのレコーディングだったんです。そのときはエアー・スタジオのリンドハース・ホールで録ったんですが。そしてマイクは亡くなり、僕はロンドンを引き払った。そのあたりのことは『パラダイス・ロスト』という本にかなり詳しく書いています。その後、ロンドンでのレコーディングは何度もしたんだけど、アビー・ロード・スタジオでのレコーディングは避けた。ちょっと行くのがきつかった・・・・。

数年前、『ハウルの動く城』のとき、チェコ・フィルハーモニー交響楽団でレコーディングしたものを、アビー・ロード・スタジオでサイモン・ローズとMixしたんです。それが久しぶりでしたね。そのとき、このスタジオに戻ってきたなぁという感慨があって、スタジオの隅、地下のレストラン、どこもマイクの遺していった匂いのようなものが感じられた。イギリス人独特のユーモアや品の良さ、クリエイティブな匂いとでもいうのかな。

そして今回、僕としては最も大切なレコーディングになるので、それはアビー・ロード・スタジオ、そしてロンドン交響楽団しか考えられなかったのです。マイクの亡き後も、アビー・ロード・スタジオでは伝統がきちんと引き継がれています。マイクのアシスタントだったサイモンは、今はジョン・ウィリアムズ等を録る一流のエンジニアになっているし、今回のエンジニアのピーター・コビンは、マイクの抜けた穴を埋めるべく、オーストラリアのEMIからスカウトされた。高い水準を維持するために。

Blog. 久石譲「Orchetra Concert 2009 Minima_Rhythm tour」コンサート・パンフレットより 抜粋)

 

 

そして、『Melodyphony』では、

 

”ロンドン交響楽団とは、15年くらい前に、「水の旅人 -侍KIDS」という映画のテーマ音楽を録ったんですね。また昨年には、前作となる「ミニマリズム」の録音も行いました。日本以外で音楽を表現できる場として、ロンドンでの活動がまた復活したというのがうれしいですね。

私には、大きな夢が2つありました。一つは、芸術家としての自分が追い求める、ミニマル・ミュージックをテーマとしたアルバムを完成させること。この目標は、昨年の時点で「ミニマリズム」というアルバムを完成させることで実現しました。ただそれだけではなくてもう一つ、これもやはり自分が長年続けてきた映画音楽やテレビ・ドラマのサウンド・トラックに代表されるメロディアスな音楽を、オーケストラを使って録りたいと去年からずっと思っていたんですよ。つまり、作家としての自分と、メロディー・メーカーとしての自分の両方を生かしたいというか。去年の「ミニマリズム」の録音時に書いていたノートを引っくり返してみると、両方の種類の音楽についてのメモを残しているんですね。年が明けて考えてみて、やはりこれは両方あってこそ自分の姿ではないか、と強く思うようになって。「ミニマリズム」と「メロディフォニー」の2つを持って、自分をすべて表現できるという気持ちです。”

Blog. 久石譲 「ミニマリズム」「メロディフォニー」 Webインタビュー内容 より抜粋)

 

 

 

あえて距離をとっていたアビー・ロード・スタジオへの想い、自身の大切な作品となる『Minima_Rhythm』と『Melodyphony』を、ふたたびイギリスへ行き、ロンドン交響楽団で録音したかったという強い想いが伝わってくるエピソードです。

宮崎駿監督作品、北野武監督作品をはじめ、多彩で人気のあるメロディたちがたくさんあるなか、「Water Traveller(水の旅人 メインテーマ)」がしっかり選ばれ、15年前と同じロンドン交響楽団によって『Melodyphony』に収録されたこと。

『Melodyphony』から10年後の2020年、久石譲が世界に向けてリリースしたベストアルバム『Dream Songs: The Essential Joe Hisaishi』にも収録されている「Water Traveller」。久石譲ファンにとっても人気のある曲、コンサートでもたびたび演奏される曲、そして久石譲にとっても特別な一曲なのかもしれませんね。

 

久石譲 『メロディフォニー』

 

 

【Hope】for Piano and Strings
View of Silence
Two of Us
Asian Dream Song

「久石譲 ジルベスターコンサート 2016」のプログラムでサプライズの演目です。久石譲ピアノと弦楽合奏による3つの楽曲からなるコーナー。冒頭で紹介したフィギュアスケート羽生結弦選手の「Hope&Legacy」が世界中に感動をあたえた年、その同じ年の大晦日に披露された息を吹き返した名曲たち、象徴的な出来事でした。

 

久石譲のコメントには、

”弾き振り(ピアノを弾きながら指揮もする)に初挑戦します。そのためこのコーナーはすべて新しくオーケストレーションし直しました。

その弾き振りの「HOPE」というコーナータイトルは長野パラリンピックのときに作った応援アルバムのタイトルからとりました。折しもフィギュアスケートの羽生結弦さんが今年の演目で採用している楽曲が2曲含まれます、お楽しみに。”

Blog. 「久石譲 ジルベスターコンサート 2016」 コンサート・レポート より抜粋)

 

 

ふむふむ。よくわかります。それじゃ、「View of Silence」と「Asian Dream Song」にはさまれた「Two of Us」、どうしてこの曲が選ばれたんだろう?  それを紐解くヒントもまた、”HOPE”というテーマにあり、マイク・ジャレット氏との共同作業のなかにありそうです。1990年代前半のディスコグラフィーから、クレジットでわかっているものをピックアップします。

 

久石譲 i am
1991.2.22
I am

Recorded at:
Abbey Road Studio London
Taihei Recording Studio Tokyo
Music Inn Yamanakako Studio Yamanashi
Wonder Station Tokyo

 

My Lost City 久石譲
1992.2.12
My Lost City

Recorded at Abbey Road Studio, London etc
Recording Engineer:Mike Jarratt (Abbey Road Studio)

 

久石譲 Symphonic Best Selection
1992.9.9
Symphonic Best Selection

Recording & Mixing Engineer:Mike Jarratt (Abbey Road Studio)
Mixed at Wonder Station, Tokyo

「完全決定ではないんですが、このライヴをやった時には、一応ライヴ盤も作ってみようという発想はあったんです。ただああいうクラシックの形態だと後で手直しがきかないんですよ。ですから、上がったもののクオリティによって出すか出さないかを最終的に決めようというスタンスはとってたんです。ただ、録るということに対する最大限の努力としてアビー・ロード・スタジオのチーフ・エンジニアのマイク・ジャレットを呼んだりとか、サウンドのクオリティが高いものになるよう万全は期したつもりです。」

Blog. 「キーボード・マガジン 1992年10月号」「Symphonic Best Selection」久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 

久石譲 Sonatine ソナチネ
1993.6.9
Sonatine ソナチネ

Mastered at Abbey Road Studios

 

久石譲 水の旅人 オリジナル・サウンドトラック
1993.8.4
水の旅人 -侍KIDS- オリジナル・サウンドトラック

Recorded and Mixed by
MIKE JARRATT (for Abbey Road Studios)
Steve “Barney” Chase (for THE TOWNHOUSE)
SUMINOBU HAMADA (for Wonder Station)
TORU OKITSU (for Wonde Station)

Recorded and Mixed at
Abbey Road Studios , Air Studios , Lyndhurst Hall , Wonder Station
Avaco Creative Studios , Kawaguchiko Studio

 

地上の楽園 久石譲
1994.7.27
地上の楽園

Recorded at:
Townhouse Studio,London
Abbey Road Studio,London
Music Inn Yamanakako
Crescente Studio Tokyo
Wonder Station Tokyo

 

 

もう見えてきましたね。

今回、映画『水の旅人 侍KIDS』(1993)を起点に紹介してきましたが、アビー・ロード・スタジオでの録音は、すでに『I am』(1991)までさかのぼります。そして『My Lost City』(1992)では、マイク・ジャレット氏がクレジットされています。『Symphonic Best Selection』(1992)では、マイク氏を日本にまで呼び寄せるほどの信頼と絆、『水の旅人 侍KIDS』を経過して、氏の亡きあと『地上の楽園』(1994)までアビー・ロード・スタジオで音楽活動し、これを区切りにロンドンをあとにします。

「Two of Us」は『My Lost City』に収録されています。マイク・ジャレット氏と一緒に仕事をした1990年代前半、ここからひとつの楽曲を選びたかったのではないか。メロディの際立ったものからのセレクト、ファンのあいだでも長い間人気のある「Two of Us」が選ばれたのではないか。そして、1998年の長野パラリンピックからとったというコーナータイトル「HOPE」は、同時にロンドン音楽活動時代と重なる、いわば時代の足跡です。

 

 

もうひとつの”HOPE”ってどの曲?

”HOPE”その象徴的な時代は?

「Two of Us」コンサートプログラムのわけ?

 

それは、

  • 「水の旅人 侍KIDS」メインテーマ
  • アビー・ロード・スタジオ
  • マイク・ジャレット氏
  • 「HOPE」というボーカル曲
  • 「HOPE」の絵
  • 「長野パラリンピック」ひき継がれたテーマ”HOPE”
  • 旅立ちの時 ~Asian Dream Song~
  • 「Water Traveller」『Melodyphony』収録
  • ふたたびアビー・ロード・スタジオ、ロンドン交響楽団
  • コンサートコーナー「HOPE」
  • 1990年代の音楽活動を象徴するテーマ”HOPE”
  • 「Two of Us」『My Lost City』収録曲

 

こういったいくつもの点と点が、絡み合いながら、単純な一本の線になるのではなく、時代の足跡のように、幾重にも交錯しあいながら、結ばれていくようです。

久石譲のインタビューにもありましたが、この時代のことは書籍『パラダイス・ロスト』に詳しく書かれています。ただ絶版かもしれません。小説というかたちをとっていますが、そのなかにあるのは、ほぼノンフィクションです。これは物語なのかエッセイなのか、フィクションなのかノンフィクションなのか、不思議な余韻をのこす本です。おそらくは「小説」という体裁をとることでしか書けなかった、久石譲自身に深く切り込んだものだからかもしれません。

「水の旅人 侍KIDS」メインテーマにおける、他の久石譲楽曲と類似性をみない独創的で雄大な序曲のような大編成オーケストラ曲。コンサートリハーサルではまずこの曲をやるというほど、その鳴りのよしあしのベンチマークとなっています。またコンサートでも序盤にプログラミングされることも多いです。

「水の旅人 侍KIDS」メインテーマ=「HOPE」(地上の楽園)=「Water Traveller」=「HOPE」の象徴、と簡単な一直線で言うつもりはありません。たぶんそういうことでもありません。ただ、なにかしらつながっているんだという実感のようなものが伝わったなら、うれしいです。

 

 

 

Overtone.第3回 羽生結弦☓久石譲 「Hope&Legacy」に想う(2017.1.20)の結びにこう記していました。

”実は「HOPE」には、もうひとつ久石さんエピソードがあります。ありますが、それはまた別の機会に。ちゃんと調べなおしたい、紐解きなおさないといけない。”

・・・だいぶん時間があいてしまいましたが、ようやく -完- となります。

それではまた。

 

reverb.
久石さんの公式音源から紹介できるのはうれしいかぎり♪

 

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪

 

Overtone.第29回 「ファンタスティック・ビースト サウンドトラック」~モチーフくすぐる~

Posted on 2020/03/17

ふらいすとーんです。

ひとつ楽しく、実際に音楽を聴いてもらいながら(公式音源)、サウンドトラックの魅力をご紹介していきます。

映画『ファンタスティック・ビースト』は、映画『ハリー・ポッター』のスピンオフシリーズで第2作まで公開されています。『ハリー・ポッター』はオリジナル・ミュージックをジョン・ウィリアムズが担当し、作品を追うごとに作曲家は交代していきました。『ファンタスティック・ビースト』は、『ハリー・ポッター』シリーズには携わっていないジェームズ・ニュートン・ハワードが、今のところパート1・パート2とどちらも音楽を担当しています。

音楽に魅了されてしまったのは、まったくの逆順番でした。あるとき、『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』(第2作目)のサウンドトラックを聴いて、こんなにいい音楽だったっけ!?と驚いたのがそのはじまり。それから、映画をあらためて見返し…これはスルーしちゃうよなあ…。くまなく映画を観ながらサウンドトラック音源と照らし合わせ、『ファンタスティックビーストと魔法使いの旅』(第1作目)のサウンドトラックを聴き、映画も見返し。そう、映画の楽しみ方としては逆回転しています。

 

なぜスルーしてしまったのか?

 

こんなにも丁寧に書かれた魅力的な音楽なのに、本当にサウンドトラックだけを聴いていても楽しい、映画では全然聴こえてこないからです。効果音 〉台詞 〉音楽 な音響バランスになっているのはこの作品に限ったことではないことですが、それにしても音楽が小さい。効果音と音楽のきっかけって同じところが多いですよね。音楽が盛り上がってきてバーンと鳴るようにつくっているのに、効果音もその瞬間一緒にババーン!と鳴ってしまう。音楽を残念にしてしまっている効果音の使い方が多い。

映画時間134分で、サウンドトラックは77分、実際に映画ではずうううっと音楽はなにかしら鳴っていて、誇張でもなく音楽がないのは上映時間のなか合算で約15分間くらいだと思います。そうなってくると、そうなんです、サウンドトラック未収録の楽曲たちもたくさんある。僕は、映画を観ながら、タイムキーパーでここからここまでの音楽はサウンドトラックに収録されていない、なんていうのも全てメモしながら把握していきました。暇ですね。サウンドトラック収録曲が繰り返し使われているものもあるにせよ、ざっと30分くらい(約10~15曲?)はCD未収録です。それでも、サウンドトラックはぎりぎりいっぱいの77分収録してくれたということもわかってきます。でも…、2枚組で完全収録してほしかったなあと、ファンなら思ってしまうほどのクオリティーです。

 

 

まずは全体からみていきます。

 

JAMES NEWTON HOWARD

ハリウッド映画音楽作曲家として有名です。ウィキペディアなど見ると、知っている観たことある映画がたくさんラインナップされています。ただ、僕のイメージでは、そんなに印象に残りやすい音楽の書き方をしない作曲家だったので、映画鑑賞時も耳のチェック・アンテナが開いていなかったのかもしれません。どちらかというと、旋律線が強くない、旋律の押し出しも弱い感じで、無個性な作風もある。そんなジェームズ・ニュートン・ハワードが、この作品では!

 

ぜいたくな音楽録音

フルオーケストラは、最大時約100名近い編成での録音で、合唱はLONDON VOICESが約40名、Boy’s Choirが約15名となっています。オーケストレーションに6人の名前が挙がっています。ハリウッド映画音楽収録ではおなじみのアビー・ロード・スタジオでの録音は9日間にも及んだそうです。かなり異例な日数ですが、これだけ曲数多く約2時間分の録音ともなればうなずけます。くわえて、オーケストラと合唱が別録りだったのかもしれません。オーケストラを収録したあとにコーラスを収録というスケジュールだったのかもしれません。そのほか、フィドル、ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロック・チェロといった民族色を出すための楽器も起用されています。

唐突な共通点をひとつ。久石譲作品『Minima_Rhythm ミニマリズム』(2009)は、アビー・ロード・スタジオ録音で、ロンドン・ヴォイシズも起用した渾身のオリジナル・アルバムです。

 

オーケストラ+コーラスの絶妙な融合

ほぼ全曲でコーラスが編成されています。これが不思議とひとつの融合体になっているんです。一般的には、オーケストラとコーラスが対峙する音空間が作り上げられ、ある一定の存在感をもって拮抗したり緊張感をもたせたりすると思います。この作品では、コーラスはひとつの楽器のパートとして、極端にいうと弦楽器と同じようなパート役割になっているように思います。

ヴァイオリン=ソプラノ(弦楽器=合唱)、ヴィオラ=アルト、チェロ=テノール、コントラバス=バスというように。あるときは女声のみ(ソプラノ、アルト)、あるとには男声のみ(テノール、チェロ)というように。コーラスです!というひとかたまりよりも、必要な音域を必要な旋律で散りばめている、そんな印象をうけます。

そしてミックス作業のなかで、かなりオーケストラとコーラスの音像を近づけている、分離しないような音質に調整しているように思います。オーケストラはその分切れ味鋭いソリッドさを犠牲にしていますが(たとえば弦楽器の弓を鋭くひいた時の音質、たとえば管楽器のパーンと耳をつんざくような鋭く破裂する音質)、まるでヤスリを丁寧にかけるように、ツヤのかかったまろやかな音像にしている。コーラスもまた、肉声さを消した神秘的で幻想的なヴォイスへと、ときおりシンセサイザーのヴォイス音源(たとえばフェアライトのような)と錯覚するほど、透明感を重視した音像になってます。そうやって、オーケストラとコーラスが統一感をもって融合体が作り上げられている、ように思います。また、コーラスはときにソプラノ独唱のような使い方もあり、かなり巧みに”声パート”を使い分けています。

 

ひとつの交響作品のよう

まるでひとつの大きな交響作品のようです。それはマーラーの巨大で長編な交響曲のようでもあり、ワーグナーの壮大で幾重のライトモチーフいきかう楽劇のようでもあります。

オーケストラ+コーラスによる音楽づくりは書いたとおりです。管弦楽の緩急や緻密さといったダイナミズムもすばらしく、効果音を多少減らしたり小さくしても遜色ないほど、作りこまれています(もったいない)。作曲家と6人のオーケストレーションという役割分担もあるのかもしれませんが、その比重はわかりません。というのも、第1作目においても作曲家と8人のオーケストレーションという役割分担になっているからです。これをふまえても、第1作目の音楽がいくぶんざっくりで単純なオーケストレーションに聴こえてしまうほど、第2作目の完成度はずば抜けて高いです。

 

モチーフくすぐる

印象的な主題旋律がたくさん登場します。第1作目から引き継がれたモチーフ(以後、主題旋律・メロディ・主要テーマ・音型と同義)もありますが、おそらくそれは半分くらい。明るめなファンタジーになっていた第1作目は音楽も同じく、ユーモラスでチャーミング、冒険活劇的なスリリングな楽想にワクワク感が統一されていました。映画『ハリー・ポッター』がシリーズを追うごとに作品も音楽もダークになっていったように、映画『ファンタスティック・ビースト』も今ある2作品を並べてもその音楽カラーは鮮明なコントラストです。ダークな趣の好む好まざるはあれ、音楽的な密度とその充実は必聴です。

しかも、同じ作曲家が手がけている。前作で提示した主題をあらゆる角度から検証し、発展させることができる機会というのはシリーズ作品ならではです。物語の進む方向にあわせて、自由な可能性を秘めた変奏。それを可能にするのは強烈な個性をもったメロディたちと、新たな翼をさずけた作曲家の手腕です。

 

アレンジ違いではない

一般的に映画音楽には、メインテーマという曲があって、サウンドトラックにはいくつかの曲でそのアレンジ違いが収録されていたりします。でもこの作品では、その表現は適していません。メインテーマ(A)が違う曲想になって(A’)一曲ごとに収録されているわけではない。主要モチーフ[A][B][C]があったとして、[A]+[B]という一曲があったり、[A’]+[C”]という曲があったり。複数の楽曲にいくつものモチーフが自由自在に行き交っているので、しかもバリエーション(変奏)で、くまなく掌握するのはひと苦労です。そのぶん、CD盤一枚をとおして聴き飽きないというのが大きな魅力になっています。【ひとつの交響作品のよう】と記したのは、そういった意味も込めています。これから、いくつかの曲を紹介していきますが、モチーフごとにまとめたので、「あれ?さっきもこの曲あったよね」というのがあるかもしれません。一曲のなかに複数のモチーフがあるから、またがっているんです。

おもうに、クラシック音楽の「第一主題・第二主題があって、提示して展開して、また再現して」って、同じようなことですよね。いや、同じといっては語弊があるにしても、このさらに高度な音楽建築物ということですよね。映画音楽は、わざとこっそりモチーフを隠したりする必要もないので、よりシンプルにモフーチやメロディが展開している様子を、楽しんだり探したりしやすいのも大きな、そしてわかりやすい魅力です。

 

その他

まとめられないことを箇条書き。

曲の立ち消え方がとてもなめらかです。すううっとスムーズに消えていく楽曲が多い。ぶつ切り感もないし、曲の展開途中で終わったなという印象もない。その効果もあって、一枚をとおして交響作品や組曲を聴いているよう。これはオーケストレーション+エンジニア技術の手腕だと思います。

映画ではサントラ収録とは異なる切り貼りがされた曲も多いです。くり返しのあるなしというよりは、パートのくっつけ方が違う。わかりやすくいうと、[E][F][G]という曲パートがあったっとして、サントラのほうにはTrack.5に[E][G]、Track.6[F]というように。これまた、モチーフで攻めた音楽づくりだからこそできる技なのかもしれません。

映画エンドロールは約8分。ここに主要テーマ曲たちがふたたび流れるというのは一般的です。5~6曲分くらいあったのかな、そのなかにサントラ未収録の楽曲もあったりします。エンドロールで流すくらい大切な曲なんだったら・・・もごもご。

サントラ未収録の楽曲たちの多くは、本編中の通奏低音のような役割が多く、主要モチーフのバリエーションというよりは、メロディをもたないもの、アクセントとしてのもの、空気になじむようなもの、そういった種類の音楽が多いのも事実です。あと、少しだけ第1作目から持ち出した(録音は新たに)曲も使われています。

 

 

 

ここまで読んだきて、少しでも興味をもってもらえたならうれしいです。いや、引いてしまったかもしれませんね。僕も、久石さんが手がけた映画サウンドトラック以外で、ここまで掘りさげてしっかり書くことは珍しく、掘りさげたいほどにハマってしまった、そんな映画音楽です。

 

 

「ファンタスティックビーストと黒い魔法使いの誕生」オリジナル・サウンドトラック

Fantastic Beasts: The Crimes Of Grindelwald – Original Motion Picture Soundtrack

 

1.セストラル・チェイス The Thestral Chase (08:04)
2.ニュートとリタ Newt And Leta (02:32)
3.ダンブルドア Dumbledore (02:11)
4.ケルピー The Kelpie (01:32)
5.ニュートとジェイコブ、パリへ Newt And Jacob Pack For Paris (02:27)
6.ナギニ Nagini (04:15)
7.ティナの足あと Newt Tracks Tina (02:27)
8.ティナを探すクイニー Queenie Searches For Jacob (01:35)
9.アーマとオブスキュラス Irma And The Obscurus (02:56)
10.血の誓い Blood Pact (02:29)
11.ズーウーの捕獲 Capturing The Zouwu (01:33)
12.ホグワーツへの旅 Traveling To Hogwarts (01:06)
13.リタの回想 Leta’s Flashback (04:40)
14.サラマンダーの目 Salamander Eyes (02:38)
15.マタゴ Matagots (02:15)
16.君の物語はわたしたちの物語 Your Story Is Our Story (03:21)
17.リタの告白 Leta’s Confession (05:14)
18.戦争のイメージ Vision Of War (03:49)
19.広められていくことば Spread The Word (04:01)
20.杖を地に刺して Wands Into The Earth (04:04)
21.君の名は… Restoring Your Name (06:20)
22.ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 Fantastic Beasts: The Crimes Of Grindelwald (02:40)
23.ダンブルドアのテーマ(ピアノ・ソロ)Dumbledore’s Theme (Solo Piano) (01:27)
24.ファンタスティック・ビーストのテーマ(ピアノ・ソロ)Fantastic Beasts Theme (Solo Piano) (01:37)
25.リタのテーマ(ピアノ・ソロ)Leta’s Theme (Solo Piano) (02:04)

Music by James Newton Howard

Track 1 contains “Hedwig’s Theme” Written by John Williams

Recorded at ABBEY ROAD STUDIOS, LONDON

and more…

 

 

なかなか、文章だけじゃなく音楽も一緒に「ここがね!」といえる機会は少ないですね。ぜひ、公式音源と一緒に純粋に楽しみながら耳でもふれてみてください。全25曲紹介はさすがに思い入れが強すぎるので、主要テーマ曲を中心に、モチーフの変幻を楽しんでいきます。

 

1.セストラル・チェイス The Thestral Chase (08:04)

from WaterTower Music YouTube

 

映画プロローグから本格的です。一気にこの作品の世界観に引き込まれ、さらには前作とは異なる作品カラーを音楽でも強烈に打ち出しています。楽しいファンタジーだけではない、より緊張感をもったその世界へと。チェレスタによる「ヘドウィグのテーマ」(ハリー・ポッター テーマ曲/ジョン・ウィリアムズ)が、魔法世界のスピンオフシリーズであることを伝え(00:07~)、そこからはコーラス、弦楽器、電子音が絡み合いながらひんやりとした空気で「ファンタスティック・ビースト」の世界へ。導入部として申し分ないほど、土台からしっかりと緊張感を高めていきます。とにかくコーラスの使い方が巧みですね(04:55~)、発声の特徴を活かしたり、グリッサンドして息の長い不協和音を響かせたり、音域の高低差も明確に使い分けています。そして、この作品の象徴的なモチーフのひとつが登場して(07:13~)映画はここでドーンとタイトルバックです。3拍子のリズムで流れているこの最小音型、巧みなシンコペーションで拍子感覚を狂わせます(07:13~07:15の音型)。まるで魔法をかけるようなモチーフ。好奇心と躍動感をもった最小音型は、ハーモニーを変えながら7回ほど繰り返される。たったそれだけのことなんですけど(07:13~07:31)、オーケストラも重厚にピークを迎え、コーラスもひけをとらない体積をもっていながら、モチーフが後半音程が下がるときには、コーラスは高音域のみになっていて、抜けていく広がりがあります。

全体のところで記した、【オーケストラ+コーラスの融合体】や【管弦楽の緩急さ緻密さのダイナミズム】など、この一曲だけで凝縮して伝えれるほどです。

 

 

さて、このサウンドトラックには最後に3つのピアノソロが収録されています。どれも主要テーマ曲のピアノヴァージョンです。映画ではサウンドトラックに収録されたかたち(ピアノソロ)では流れていないと思います。ピアノの後ろにオーケストラをからめていたりなど。ボーナス・トラック的に収録されている3曲だと思います。

ここでひとつ、これをピアノスケッチとみたてて(一種のデモ音源のような)、チャーミングできれいなメロディたちが、管弦楽にどのようにドレスアップされたか、という見方をしていきたいと思います。

 

 

ピアノソロ1曲目

24.ファンタスティック・ビーストのテーマ(ピアノ・ソロ)Fantastic Beasts Theme (Solo Piano) (01:37)

ピアノソロで聴くと、ちょっと悲しげで、切なげで、神秘的なメロディです。

 

第1作目から登場しているモチーフで・・・

 

「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」

Fantastic Beasts and Where to Find Them OST 25 – End Titles Pt. 2

クラリネットとコーラスがユーモラスな味わいでチャーミングな香りをまとい、ファンタジーらしい不思議さと好奇心湧きあがる曲想です(00:00~)。そんなメロディは、いっぱいいっぱいに引きのばされ、壮大に広がり解き放たれます(00:42~)。こんな変化だけでもワクワクしてしまいます。このモチーフ、第1作映画およびサウンドトラック盤には、バリエーションで複数回登場します。ジャズ・コンボ風軽快なヴァージョンも登場しますが、第1作の本編で必要な雰囲気をもったシーンがあるからです。

注目なのは、第1作目では2,3番手な扱いになっていたこのモチーフ。第2作目では登場回数1番手にまで躍り出ていいることです。

第2作目では・・・

 

12.ホグワーツへの旅 Traveling To Hogwarts (01:06)

こんな感じです。第1作目からの管弦楽の緻密さもよくわかりますね。前半はホルンなどで力強く、後半はチェレスタや弦楽器でチャーミングに奏されています。

 

17.リタの告白 Leta’s Confession (05:14)

これまたシリアスで雰囲気が違いますね(00:20~01:07)。耳にのこりやすいキャッチーで印象的な旋律だからこそ、その変化した姿も個性的です。

 

20.杖を地に刺して Wands Into The Earth (04:04)

映画のクライマックスにさしかかっています、かなりの迫力です。低音が一段一段どっしりと踏み登りながら2回モチーフをくり返します(03:41~03:51)。転調する効果も抜群で、高揚感いっぱいです。

ほかにもこの楽曲では冒頭からコーラスのひんやりとした空気でじわじわと迫ってきます。そして、金管楽器の旋律が交錯しベルが打ち鳴らされる(02:10~)約30秒間は、久石譲ファンならグッとくるツボなポイントだと思います。そこから先は(02:41~)これぞハリウッド映画音楽。”運命”や”宿命”といったキーワードの似合うダイナミックな音楽です。管弦楽は重厚に下から上へ上がってくる音型をくり返し、高音コーラスは上から下に降りてくる音型をくり返しながら(02:41~02:49の音型)、曲は展開していき、ひとつのメロディが湧きあがってきます(03:25~)。神聖で壮絶な戦いです!

そして先に書いた、あのモチーフがやってきます(03:41~03:51)。ニクイ!

 

この「ファンタスティック・ビーストのテーマ」という名前をもったモチーフは、ほかにもTrack5(01:46~02:28)、Track6ではワルツ(03:24~03:45)、Track21(03:56~04:20)などでも登場します。ぜひ見つけてみてください。いろいろ聴き比べてみるだけで楽しいです。

 

 

ピアノソロ2曲目

23.ダンブルドアのテーマ(ピアノ・ソロ)Dumbledore’s Theme (Solo Piano) (01:27)

ダンブルドアといえば、そう『ハリー・ポッター』シリーズの校長先生です。

 

3.ダンブルドア Dumbledore (02:11)

風をうけたような大きなオーケストレーションでこのモチーフは展開します(00:48~)。ほかにも、Track21(03:27~03:54)では、ひかえめでそよ風のような心地よさの曲想を聴くことができます。

 

 

ピアノソロ3曲目

25.リタのテーマ(ピアノ・ソロ)Leta’s Theme (Solo Piano) (02:04)

なんとも物憂げな、これはリタという主要登場人物のモチーフです。

 

13.リタの回想 Leta’s Flashback (04:40)

こちらでは、ピアノソロ曲の前半部分が、

 

17.リタの告白 Leta’s Confession (05:14)

こちらでは、ピアノソロ曲の後半部分が使われています。

ピアノソロ楽曲あるおけがで、これら2つの曲が、もともとひとつのテーマ曲からの枝分かれなことがわかります。とりわけTrack17は、曲タイトルに”リタ”というキーワードがなければ見過ごしてしまったかもしれません。ひとつの曲からAパート・Bパートという素材を小分けにして、本編でそれぞれに巧みに料理・デコレーションして一品化している好例です。

 

ピアノソロ3曲について

いずれの曲も作品の世界観を表現したものであったり、主要登場人物のテーマ曲だったり。ダンブルドアもリタも、第3作目以降もきっと登場しカギを握っている中心人物たちです。ということは、同じくこれらの曲も再登場するでしょう。ピアノスケッチとあえて書いたのは、この原型をもとに、第2作目では上のような曲になった。そして今後シリーズ、物語が展開していくなかでどう変化していくのか? 明るく、暗く、楽しげに、悲しげに、いろいろな変奏がこれからさらに聴けていく。場面に添った楽曲へと昇華されていく。そのときまで、この原石(ピアノソロ)を聴きながら、イメージを膨らませてみてくださいね、楽しみに待っていてくださいね。そんな意図もあるような気がしてきます。

 

 

6.ナギニ Nagini (04:15)

短調で奏されるモチーフ(02:42~03:00)は、

 

7.ティナの足あと Newt Tracks Tina (02:27)

長調になったりもします(01:56~02:11)。同じように転調もする箇所をコントラスト選びましたが、メロディは少し前から展開しています(01:27~)。

 

14.サラマンダーの目 Salamander Eyes (02:38)

ピアノを基調とした曲想もあります(前半)。

 

もともとこのモチーフは第1作目で登場していました。

 

親友(A Close Friend)

コーラスの伸びやかな旋律になっています。

 

Relieve Him Of His Wand / Newt Releases The Thunderbird / Jacob’s Farewell

こちらは、まるで翼を広げて飛んでいるような曲想です(05:10~07:54)。

 

このモチーフを紹介したのは、このようにシリーズをまたいでいるだけでなく、第2作目のなかだけでも、短調になったり長調になったり、モチーフが随所に多彩な手法で散りばめられているおもしろさです。

 

 

9.アーマとオブスキュラス Irma And The Obscurus (02:56)

ここでもコーラスのグリッサンドが効果的です(01:24~01:34)。さらにクラシックのレクイエムばりの荘厳な緊張感へとつづいていきます。

唐突な共通点をひとつ。久石譲「Symphonic Poem NAUSICAÄ 2015 交響詩 風の谷のナウシカ」(『The End of The World』CD収録)の「甦る巨神兵」パートでも緊張感と不穏感に満ちたコーラスのグリッサンドを聴くことができます。

 

19.広められていくことば Spread The Word (04:01)

この曲でも象徴的、オーケストラとコーラスのピークです。つまるところ、西洋文化って行き着くさきは”運命”とか”宿命”とか、善とか悪とか、そういった宗教にかえっていくのかなと思います。クラシックのレクイエムのようなと先に書いたのも、結局は音楽もその方向へと必然的に向かっていく。たとえば、レクイエムの”怒りの日”のような。

さて、この一曲だけでも、久石譲ファンくすぐる音楽です。冒頭からハープ、弦、打楽器による最小音型がくり返されます(00:00~)。そして曲は、大きなメロディが厚みを増しながらくり返されるなか、弦楽器の刻むリズミックな旋律は微細にたしかな緊張感をもって変化していきます(02:32~)。執拗にくり返される大きなメロディも時間の進みとともに、パワーを集めるようにひとつの塊へと凝縮されていき、転調して最高潮をむかえる(03:30~)。

 

イメージ伝わりますように。

モーツァルト:レクイエム 怒りの日 (Requiem Dies irae)

 

 

おっと、忘れないで紹介しないと。

 

22.ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 Fantastic Beasts: The Crimes Of Grindelwald (02:40)

映画のメインテーマです。この曲はエンドクレジットに流れたもの。出だしから弦の刻みにワクワクしますね。なんとも冒険活劇な一曲です。エレガントなオーケストレーション。この曲はシリーズを通したメインテーマではなく、第2作目で初めて登場した曲です。後半のメロディ(02:04~)は第1作目でも頻繁に登場したメロディのバリエーションです。そのモチーフは、Track11,15でも変幻して聴くことができます。またメインテーマはTrack5でも聴くことができます。『ハリー・ポッター』音楽とも堂々とわたり合えるほどの、ファンタジー音楽の結晶です。

チャイコフスキーのバレエ音楽のような雰囲気すらあります。そういえば、ディズニー実写版『くるみ割り人形と秘密の王国』(2018)の音楽を担当していたのは、このジェームズ・ニュートン・ハワード。そちらでは、チャイコフスキーのオリジナル音楽『くるみ割り人形』を映画用に脚色していたりだったような。いろいろなジャンルから吸収し、自身の得意技へと磨きをかけていった、のかな。すごい。

 

 

もう終わります。

全25曲中、15曲を紹介したようです。多かったですか? すいません。

 

久しぶりにやみつきになったサウンドトラックでした。ずうううっと『ファンタスティック・ビート』ばかり聴いていた時期があります。飽きない魅力はもちろん、体に記憶に染みこむほど聴かないとわからないことってありますよね。そうやって、あるときふと何かがつながったり、新しい発見ができたり。時間の蓄積でしか学べないことあるように。

本当は、紹介したもののほかに、あとモチーフが5~6つはあって、映画のなかをサントラのなかを縦横無尽に飛びかっています。でも、あまり言っても暑苦しいし、あまり言っても自信のないものもあるし。前のめりな衝動をこらえて、もうここまでにします。モチーフに関係なくおすすめしたい曲、ゾクゾクする曲たくさんあるので、ぜひサウンドトラックまるっと一枚聴いてみてください。

 

 

ディズニー映画は、アニメ・実写もちろんファンタジーです。でも、そのなかの音楽の役割はディズニー特有です。歌曲(主題歌や挿入歌)がしっかりと存在していること、本編でミュージカルのように使われていること(台詞+旋律のミュージカル調な曲)です。とりわけ、後者に求める傾向は、ディズニー以外のハリウッド映画においても近年強いように感じます。『ラ・ラ・ランド』『グレイテスト・ショーマン』しかりヒット作の多くにみることができます。

『ハリー・ポッター』シリーズや、今回の『ファンタスティック・ビースト』は、あくまでもスコアとしての映画音楽を主軸にしています。そこに、のめり込む楽しみがあったこともひとつ。西洋ファンタジー音楽の象徴的なものが詰め込まれているように思っています。

スタジオジブリ作品の多くを手がけてきた久石譲。日本発ファンタジーでどのような音楽を創造してきたのか。とりわけ、ヨーロッパを舞台とした宮崎駿監督作品を一旦よけたとしても、そこには『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『崖の上のポニョ』『風立ちぬ』。そして高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』。東洋ファンタジー音楽の象徴的なものが、ふんだんに詰め込まれているように思えてきます。

たとえば。

『ファンタスティック・ビースト』の対決は西洋文化の”善と悪”であり、音楽も宗教音楽の荘厳さへと共鳴していく。一方で、『千と千尋の神隠し』の対決はどうたったか。善と悪の区別、ヒロインと悪役の対峙という明確な構図はありません。そしてカオナシが暴走する場面で流れる音楽「No Face」は、どんなものだったでしょうか? 『もののけ姫』の冒頭タタリ神が村を襲う場面で流れる音楽「タタリ神」は?  おもしろいですね。

 

西洋と東洋のファンタジーを並べることで、重なりあってくるファンタジー音楽の共通点、あぶり出されてくるそれぞれの独自性。そんなことをひとつひとつかみしめることができたらと、魅力的な音楽にくすぐられながら。

 

ジェームズ・ニュートン・ハワードも久石譲も、マジカルな《音符使い》です。

それではまた。

 

reverb.
これからもいろいろなサントラを気ままにご紹介していけたら♪

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第28回 「映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集/武満徹 著」を読む ~ウソとマコト II~

Posted on 2020/01/22

ふらいすとーんです。

前回は、《映画は音楽によって真実に近づく》を結びにして、「映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集/武満徹 著」から、ひとりの作曲家の映画論・映画音楽論を紐解きました。そこから広がり、時代やジャンルの異なるプロフェッショナルたち(宮崎駿・高畑勲・鈴木敏夫・久石譲)の語ったことも紹介することで、共鳴すること・よりくっきりと違うこと、そんなことも見え隠れしたのなら、と思っています。

今回は、同じ本から扱いながら、より私たちの日常生活に近いテレビ・テレビ音楽にまでぐっとフォーカスし、はっと気づかされる警鐘の言葉たちをご紹介していきます。

 

 

テレヴィと感性の鈍磨

テレヴィとは何と落ち着きのないものだろう。絶えず音を発している。それにテレヴィ出演の常連たちは、なぜいつもああ切羽詰まったような昂ぶった調子で喋るのだろう。たぶんあれはコマーシャルで寸断されるのを怖れて、その前に少しでも多く自分の存在を印象づけようとするからだろうか。知らぬ間にそれは習慣になり、また相互にそれが助長されて、騒ぎはいっそう大きくなる。

そうしたなかでいささか気になるのは、事実を正確に報せればすむニュースの背景にまで音楽が流されたりすることである。そこに、私は、過剰な意図が感じられて、嫌な気分になる。伝えられている内容にはたぶん嘘はないだろうが、音楽がそれを誇大にし、その煽情的効果が事実を著しく歪めてしまっているように感じられる。しかもその音楽の効果は事実の重みを消してしまい、ニュースがまるで虚構の劇を見ているようで、見る側の反応を一様にしてしまいはしないかと、不安になる。視聴者のそれぞれの判断が及ぶ前に、既に解答は用意されているのだ。それは正しい報道の在り方であろうか? 芸能人のゴシップに関するインタビュー等でも、答えは予め準備されていて、ひとの真意を訊くのではなく、ほとんど誘導尋問に近いものが多い。それにしても、ニュースの背景にまで音楽を流す必要などない、と思う。それも一種の情報操作で、そのことは、私に、かつてナチズムが音楽を巧みに利用したことを憶い出させる。ちなみに、アメリカでは、報道番組の背景に音楽を流すことは禁止されているようだ。

世の中は音楽の垂れ流しで、それが私たちの耳の感受性を鈍くしている。たぶん、目も同じだろう。

映像技術は、ヴィデオやコンピューターによって、その可能性を著しく拡大して、私たちの目の歓びも昔よりずっと増したはずだが、新技術を謳ったドラマ等が、結局、その技術を使いこなす感性は旧態依然で、目新しさにかまけて、反って内容を稀薄なものにしている。最近、私もそうした類のドラマの音楽を担当して、後から辛い、嫌な思いを味わった。意見を言わずにすました自分を反省している。仕事の選択は、思う以上に難しいものだ。

テレヴィといえば、最近NHKから放映されたドキュメンタリーがかなり厳しい世論の批判を浴びたが、テレヴィがこれほど生活に入りこんでいる現状を考えると、その影響力の大きさからしても、私たちは、自分の「目」と「耳」を、常に、フレッシュに保つ必要があるだろう。

テレヴィのフレームにきりとられた現実は、既に実際の現実とは別のものであって、そのことを私たちは意識しなければならない。ドキュメンタリーとはいっても、それは作られたものであり、再構成された事実である。そこで大事なのは作者の批評精神であり、再構成された事実がいかに表現の真実にまで高められているかが問題だろう。したがって、ドキュメンタリーには、言葉によって定義することが可能な一定の様式や方法論等は無いとさえ言えよう。あるべきは、真実へ迫る作者の倫理的な姿勢である。

~中略~

テレヴィは、これまでの伝統的なメディアである教会の説教、本、ビラ、映画、ポスター、新聞、ラジオ等とは全く異なる手法を用いている。つまり、映像の視覚に作用する直接性を利用して、それに音声やコメント付すことで、それがいかにも真実であるかのような一種の幻想を産み出すことができる。また、「世界中の出来事や現実世界を自分たちのリビングに直接運んでくれるという幻想」に、私たちを浸らせてしまう。そして、それに対して「かつてなかったほど”自由”に、不偏不党の立場で判断を下せる」という危険な錯覚に私たちを陥れる。

だが、湾岸戦争の際に見られたように、いまでは周知の事実だが、都合のいい情報操作がいとも簡単に行える。「映像は、恣意的にカットされ、その前に途中に後に、論理的には無関係な別の映像をつなぐため、それらの映像はお互いに意味が無くなってしまう。その結果、映像は、巨大な空白、思考の欠如しか」私たちに、もたらさない。ジュフロワは、幾多の事例を挙げて、支配的な経済商業権力や、国家権力による情報操作の危険性を指摘している。そうした、力による情報操作の怖さは言うまでもない。だが私には、普段の何でもないワイドショー番組等にみられる、興味本位に事実を伝えようとするあまりに、必要もない音楽をやたらに背景に流したりする無神経さや、またそれに慣れてしまっている私たちの感性の鈍磨も、かなり恐ろしいものに思える。

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「テレヴィと感性の鈍磨」項より 抜粋)

*初出 1993年

 

 

私たちの耳は聞こえているか

さて、映画も概ねそうであるが、それにしてもテレヴィの音の扱いの無神経さは、日本の場合、酷すぎるように思う。ニュース報道の背後にまで全く関連性がない音楽や音響が流されて、徒らに視聴者の気分を煽ろうとする。また、私たちもいつしかすっかりそれに馴らされてしまっている。こんな状況が永く続くようなら、私たち(日本人)の耳の感受性は、手の施しようが無いまでに衰えてゆくだろう。

その時、耳は、もはやなにものをも聴き出すことはない。

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「私たちの耳は聞こえているか」項より 抜粋)

*初出 1994年

 

 

 

いつの時代のことなんだ?

上の文章たちは、1990年代に新聞などに掲載されたインタビューを本に所収したものです。もちろん過剰さの程度の差こそあれ、この30年の時を経て、あまり状況は変わっていないのかも、というのが感じたところです。こうやって声あげて警鐘を鳴らしていた人がいたんだ、驚きとはっと気づかされる発見があります。

 

もう一度引用すると。

「伝えられている内容にはたぶん嘘はないだろうが、音楽がそれを誇大にし、その煽情的効果が事実を著しく歪めてしまっているように感じられる。しかもその音楽の効果は事実の重みを消してしまい、ニュースがまるで虚構の劇を見ているようで、見る側の反応を一様にしてしまいはしないかと、不安になる。視聴者のそれぞれの判断が及ぶ前に、既に解答は用意されているのだ。」

 

ここで一例。

とある町で殺人事件が起きました。とても不可解で謎の多い事件。それを伝えるテレビのなかでは、神妙そうなキャスターの声と、おどろおどろしい怪談を語るようなナレーション。なんの変哲もない(ように見える)現場の映像のうえに塗られる血のしたたるような字体のテロップ、そこにかぶさる「Sonatine」(映画『ソナチネ』メインテーマ)の音楽。To be Continueよろしく、チャンネルを替えさせまいと茶の間を心理巧みに引き込もうとする演出。事実〉殺人事件が起こった。犯人はまだつかまっていない。 演出〉それを伝えるための手段すべて。 用意された解答〉とても恐ろしい事件でしょ。まるで映画やドラマのようですね。

 

ああ、こんな番組、ぞんぶんにあったなあ(今でもある)、ちょっと笑ってしまいそうですが、そこには笑えない危険も潜んでいるということですね。さすがに、正当なニュース番組(報道番組?)ではここまで露骨なものはないのかもしれません。ただ、昨今、ニュースなのかワイドショーなのかわからない、どららの性格をもふくむ番組も多いからこそ、より一層の危険も含んでいるとすら思ってしまいます。

音楽による過剰な演出、知らず知らずのうちに心理的コンロールされて受け取っていることも、もしかしたら多いのかもしれない。一辺倒なわかりやすい世論の流れや、読解力の低下なども、視覚的・感覚的・第一印象そのままに容易に受けとってしまうテレビ映像の功罪。影響力のあるメディアだからこそ、音楽を慎重に取り扱ってほしい、無神経に興味本位な道具として使ってほしくない、そんなことを強くはっきりと思いました。

 

 

さて、百聞は一見に如かず、ここでひとつ動画をご紹介します。

from テレビ朝日系「題名のない音楽会」(2019年4月20日放送回より 抜粋)

 

こんな日常的な光景も、音楽だけで印象が変わります。

 

 

そういえば、久石さんも昔テレビ番組で同じような実験をしていました。

from テレビ東京系「たけしの誰でもピカソ」(2001年1月19日放送回より 抜粋)

 

そういうことです。

 

 

もう一度、映画に範囲をもどして。

久石譲が語ってきたこともいくつかご紹介します。当時は読み流していたことも、ここまでの話から眺めかえすと、気づかなかったことや新しい発見があるかもしれません。

 

 

「あまり気にしてないですよ。あくまで作品に対して自分がどう思うか、同時に、作品からイマジネーションをどれだけ豊かにできるか、そこが一番大切。宮崎さんのアニメーションであろうと、なんであろうと、僕の中では普通にやっているんです。でも、幅はありますよね。ひとりの人間の中にもいろんな顔がありますから。心温まる作品のときは、必然的にメロディ・ラインが大事になってきますし、突き放したような映画のときには、自分の中にもそういう部分はありますから、極力音楽がでしゃばらないように作る。共通するのは、画面をなぞるような音楽は作らない、ということ。あくまで、もしかしたら絵で表現しきれなかったものを表現する、というようにしています。音楽って非常に怖いんですよ。世界観とかムードを決定してしまうところがありますから。」

Blog. 映画『壬生義士伝』(2003) 久石譲 インタビュー 劇場用パンフレットより 抜粋)

 

 

「でもね、音楽っていうのは、映像にかぶせると実はとっても怖いんですよ。だって映像がものすごく丁寧に、きめ細かくその世界をつくったところに、音楽がどんとペンキを塗るように重なってくるわけですから。特に北野監督の映像というのは、エモーショナル(感情的)な部分、例えば俳優が汗を垂らして演技しているような部分を削っていってしまうんですね。セリフも極力少なくしてあるし。そんな映画で音楽がトゥーマッチになると、しらけてしまう。それで音楽も極力引いた形でつけたいんだけど、生の弦(楽器)などをつけると、どうしてもエモーショナルになってしまうんです。それが北野監督の世界を壊してしまうのではないかと、すごく怖いんですよね」

「格調のある音楽。つまり感情を変に盛り上げるのではなく、一歩引いたところから格調高い、しっかりとメロディがある音楽をつくり上げる。その一点をどうにかすればどうにかなる。それが北野映画を通して学んだことと言えるかもしれない」

Blog. 「NHK『トップランナー』の言葉 仕事が面白くなる!」 久石譲 インタビュー内容 より抜粋)

 

 

「まさにそうですね。今存在している「竹取物語」は不完全なもので、その裏側に隠された本当の物語があるんじゃないかという仮説を思いついてしまったんです。だから真実の裏ストーリーを作れば、かぐや姫の気持ちはわかるだろうと。ただわかるんだけど、見る人が自分と主人公を同一視していくような感じではなく、距離を持って見つめる方がじわっとくると思いました。“思い入れより思いやり”と言っているのですが、自分がぞっこん惚ほれ込んで思い入れてしまうより、想像力によって他人の気持ちがわかる映画にしたかったんです。」

(高畑勲 談)

Blog. 久石譲 「かぐや姫の物語」 インタビュー ロマンアルバムより 抜粋)

 

 

「確かに、多くの人が映画音楽をムードで作ってしまっています。本来はちゃんとした理論が作れるはずですが、そういうのがまったくありません。なんとなくのイメージでやっている。それでも通用できてしまう世界でもあるから、問題なんですけどね。」

Blog. 「東洋経済オンライン」 久石譲 Webインタビュー内容 より抜粋)

 

 

「だいたい映画のなかで音楽が流れるなんて嘘ですから。現実生活では、愛を語ったからって音楽は流れてくれないでしょう。映画音楽は、つまり虚構中の虚構なんです。けれど、そもそも映画自体がフィクションなわけです。フィクションだからこそ真実を語れる。それが映画の面白さ。そういう意味ではもっとも映画的なのが映画音楽ともいえる。映画の構造自体が、音楽と密接に関わっている」

Blog. 「GOETHE ゲーテ 2013年7月号」映画『奇跡のリンゴ』久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 

 

「映画音楽は、映画のなかでもっともウソくさい。例えば、恋を語っている時に現実に音楽が流れるわけがない。流れるわけがないウソを映画音楽はやっている。もっともフィクション。映画自体はフィクションなわけで、そのなかでフィクションである映画音楽がもっとも映画的とも言える。その代わり、使い方を間違うと超陳腐になる。」

Blog. 「NHK SWITCH インタビュー 達人達 久石譲 x 吉岡徳仁」 番組内容紹介 より抜粋)

 

 

うむ、深く考えさせられます。

前回(Overtone.27)ご紹介した武満徹さんの言葉のなかにもありました。

 

「もちろん、映画音楽は、独立した楽曲として鑑賞に耐え得るだけの、質的にも高いものであるにこしたことはないが、それ以上に映画音楽の需要さは、音楽が映画全体のなかでどのように演出され、使われるかということだ。そのために、音楽の扱いには、常に、冷静さと抑制を失ってはならないはずだ。だが少なからず最近の映画音楽は、抑制を欠いた、無神経なものが多い。こけ脅しの誇張や説明過剰が概ねであり、観衆の想像力を少しも尊重することがない。また、いつの間にか観衆もそれに慣らされてしまっている。」

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「映画音楽 音を削る大切さ」項より 抜粋)

 

 

ここから思い返したのが、高畑勲監督の姿勢でした。映画『かぐや姫の物語』で久石譲へオーダーした音楽こそ「登場人物の気持ちを表現しないでほしい」「状況につけないでほしい」「観客の気持ちを煽らないでほしい」といったものでした。つまり、観客をその世界に無理やり引きずり込むような主観(さも自分がいまその世界のなかにいるような)ではなく、客観的に、観客のほうに寄っている音楽がいいと。

過度な意図をもって、音楽がそれを誇大し、観客を煽り、ひとつしかない解答をねじ込む。こうした常套手段が通例しているなか、あくまでも観客の想像力を尊重したあり方で、イマジネーション豊かに観客それぞれの受け取り方をしてもらうための音楽。

今思うと、高畑勲監督の意図や意志は、自らのこだわりという範囲にとどまらない、現代社会の映画・テレビ・ニュース・インターネット動画などメディア全般における映像と音楽の関係への警鐘だったのかもしれない。時代の流れにメスを入れたからこそ、これから未来へ向けて普遍的な作品への品格を手に入れているのかもしれません。

 

 

僕は、正直にいって、久石譲の映画音楽を公平にジャッジすることはできません。映像に対して強いのか、音楽が前に出過ぎているのか、雄弁に語りすぎているのか、はたまた逆に…。なぜか? まずもって耳が敏感に音楽をキャッチするように染みついてしまっているからです。音楽から(音楽を目的やきっかけにして)映画を鑑賞するスタンスができあがってしまっている。だから、このシーンの音楽いいなあとか、すごく映像とマッチしてるなあと思うことは多くても、このシーンに音楽はいらないなあと思うことはないしできない。実際には、音楽の鳴らない沈黙もふくめて音楽構成は綿密にされているでしょうし、久石さんは別のインタビューでも「ファンタジーの要素が強いと音楽は多くなるし、逆に現実に近いものほど音楽は少なくなる」とも語っています。

公平さを自分のなかに少しでも持ちたいと、いろいろな映画や映画サウンドトラックにふれたいとは思っています。こんな音楽なんだ、こういう使い方してるんだ、うるさいな、と思う映画。ずっと鳴ってるわりには全然聴こえない、サウンドトラックを聴いて音楽はとても丁寧に書かれているのにもったいない、と思う映画。いろいろ触れてみるからこそ、久石譲の映画音楽の魅力がみえてくるのかもしれませんね。ああ、もしこの映画の音楽が久石さんだったらという空想もまた楽しい。

 

 

”映画音楽とはこういうものだ” というかくたる正解はありません。だからこそ、いろいろな方法論があり、ひとつひとつの作品ごとに向き合い”ふさわしい”音楽を追求していくプロフェッショナルたち。過去から受け継ぎ、学び、いまの時代や社会に提示するもの。そう思い巡らせると、その挑戦や葛藤にただただ頭がさがります。

まとめることができないので、ふせんをペタペタ貼るようにメモします。いつかまた、ここから広げたり掘り下げたり、新しいものを見つけたり。メディアに流されない馴らされない受け手になれるように。映画作品をさらに楽しむことができる観客になれるように。受け手側の学びや成長こそ作り手への感謝と未来へのレガシーと信じて。

 

memo

  • なぞるような音楽
  • 映像と音楽の対位法 相乗効果や緊張感
  • 効果音のような音楽
  • 全体からではなく部分につけてしまう音楽
  • 音楽が情報化している
  • 感情や理解をたすけるための音楽
  • 映像ではもたないところにつける音楽のあり方
  • 音楽がないと映像の意味がわからないというあり方
  • ライトモチーフ/登場人物につける
  • ライトモチーフ/登場人物のいないシーンでも関連・連想させる
  • ほかの映像や作品に替えのきかない音楽
  • 世界観につける音楽
  • 音楽のないシーンにいかに音楽を感じるか

 

 

映画から飛躍してテレビまで広げてきました。映画にはフィクションもあればドキュメンタリーもあります。でもドキュメンタリーもまた再構成された作りものです。テレビも枝葉細かく、ニュース・スポーツ・ドラマ・バラエティ・ドキュメントなど、あらゆるジャンルのなかでフィクション性とノンフィクション性が混在しています。さらに映像媒体は、インターネットにまで拡がり、発信者がパーソナルかつインターナショナルという、もうメディア宇宙の様相を呈しています。

どんなメディア発信であっても、これは事実なのか、これは真実なのか、このふたつの違いの見極めはとても大切です。フィクションを元にした映画のほうがリアリズム(真実)をもっていたり、事実を元にしたニュースのほうがよりフィクションへと歪められたり。音楽が好きだからこそ、音楽の使われ方というものにもう少し敏感にありたいですね。音楽によって真実に近づいているのか、遠のいているのか。

久石さんの音楽もよくテレビで使われますね。まあ、耳にするとうれしい自分もいるわけですが。これなんだっけ?と頭の中ぐるぐるしていたら、画面の内容から追いつけなくなっていたり。なんでもかんでも、久石さんの音楽をむやみやたらに使わないでほしいと言うつもりはありません。まじめなニュース番組、シリアスな報道では使ってほしくないです。映像を誇張するものであっても、映像をやわらげるものであっても。よろしくお願いします。

 

映画は音楽によってより真実に近づき、ニュースは音楽によってより真実から遠ざかる。

それではまた。

 

 

ループ

こんな文章もあります。監督、作曲家、そして小説家。言わんとする核心は同じだと思います、おもしろいですね。

 

「エリア・カザンに『ブルックリン横丁(A Tree Grows in Brooklyn)』という古い映画があります。主人公の12歳くらいの女の子が、学校の先生に物語について教わるところがあります。先生は彼女に言います。「真実を伝えるために必要な嘘があります。それは嘘ではなく、物語と呼ばれます」。細かい台詞は忘れたけど、たしかそんなだったと思います。その女の子はそれを聞いて「私は作家になろう」と決心します。僕がとても好きなシーンです。 ~中略~ 小説家といわれる人はそのようにして「真実を伝えるために必要な嘘」をリアルに立ち上げていくことができるのです。」

(村上さんのところ /村上春樹 著 より 抜粋)

 

 

reverb.
イメージ(image)には”映像”という意味もあるけれど”根源”という意味もあります。イメージアルバム♪

 

 

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Overtone.第27回 「映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集/武満徹 著」を読む ~ウソとマコト I~

Posted on 2020/01/15

ふらいすとーんです。

「映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集/武満徹 著」、なんとも魅力的なタイトルで手にした本です。おもしろくてぐいぐい惹きこまれてしまい、もっといろいろ読んでみたいと「武満徹著作集〈1〉~〈5〉」各500頁近くある分厚い書籍も読破し、著作集からもれるエッセイや対談本などを片っ端から読みふけっていました。出版されている本も多く15冊は超えるくらい読んだ結果、最終的にこの本が一番”映画音楽”については凝縮されていたと思います。

当たり前ですよね、”映画エッセイ集”とある、いろいろな書籍からまとめたものになっているわけです。それでもほかの本を手にとったのは、武満徹さんの映画音楽とオリジナル音楽(自作)の関係性や、いろいろな著名人との対談から語られるエピソードも知りたかったからです。

音楽を聴くよりも言葉を読むほうが多い作曲家、珍しい接し方になりました。音楽のほうはプールの水を両手ですくうほどしか聴いていないので、語るにおよびません。気になった映画音楽ですら現在では聴けないものが多いということもありますが。

今回は世代の違う作曲家、武満徹の映画音楽論を掘り下げることで、久石譲の映画音楽論と共鳴するもの、それぞれに違うもの、そんなことが見えてきたらいいなとご紹介します。取り上げた文章を読んでいくなかで、久石譲ファンなら「こんなこと久石さんも言ってたな」とすぐにつながることもあるでしょう。ただ、ピックアップしたセンテンスごとに、【久石譲もこう言っている】【宮崎駿監督、高畑勲監督もこんなこと言っていた】という部分的な照らし合わせはしていません。まずは、ゆっくりじっくり武満徹の言葉に耳を傾けてもらえたら幸いです。

 

 

映画音楽

映画音楽については、さだまった法則というものはないと考えます。それは、映画が、時代社会の動きにしたがって絶えず新しく生まれかわるものだからであります。映画音楽は、映画を離れて無い。この原則を一言にして語れば、映画にあって、音楽は、かならず演出されなければならないのです。たんに、映画のもつ雰囲気を誇張するほどの役割としてではなく、主題をいっそう具体的なものに表すべく、その表現をもたなくてはなりません。

~中略~

私は、ひとつの嘘を真実たらしめるための役割を、音楽によって担いたいと思っています。台詞はあくまで観念であって、音楽は、それを官能的な次元に置き換えて、直接に働きかけねばなりません。音によって、言葉の観念は、肉化されるのであります。もちろん、映画は、あくまで映像の芸術でありますが、音楽は台詞と同様に、あるときは、それ以上の役割を背負うものだと思っています。

~中略~

よく謂われることですが、音楽の体位的な直接用法によって、映画表現は、相乗された効果をもち得ました。これによって、描かれているものをさらになぞるということは、表現を稀薄にする以外のなにものでもないことがわかりました。

殺人の場面で、明るい自動ピアノを鳴らした『望郷』は、映画音楽における一つの典型のように言われています。『野良犬』の結びちかくにも、こうした体位的手段が活かされている。そして、今日では、こうした方法は常識となり、パターン化しつつあります。体位的手段は、その表れてくるところの異常さによって人をひきつけ、緊迫した効果をうむが、図式的な処理と、常套化した繰り返しに従うなら、たんに場面の効果をうむのみに留まってしまうのです。それが主題と深く関わらずに完結したのでは、ひとつの自立する芸術として、音楽が映画に参加する意味はない。それは、ネガティヴに映像をなぞることでしかないからです。全体的な表現に参加することが大事だと思います。

~中略~

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「映画音楽」項より 抜粋)

 

 

映像とその音響

映画音楽には定まった方法論が無いと書きましたが、映画音楽が映画に附帯するものである以上、それはたえず新鮮な方法でなされるべきです。

私はこれまでに幾つかの映画のために音楽を書いてきましたが、そのスタイルはさまざまです。映画音楽の作曲家は、ある点では俳優と似たところがあって、演出家、あるいはその映像から思いがけない自分をひきだされるものです。また、そうした影響力の強い映像に接することが作曲家に新しい勇気と意欲をあたえます。

~中略~

私は映画音楽を書く時、映像に音を加えていくというよりも、映像からいかに音を削っていくかということについて考えます。映像自身が響いているという言い方は奇妙かもしれないが、この仕事にたずさわった人には容易に理解してもらえる事柄であろうと思います。映像自身が固有にもっている響きを平面的になぞることは、映像の空間を狭めることになります。すると、映画はたんに物語を運搬するセルロイドの帯でしかなく、映像が試みているモンタージュは、音響によってその意味を失います。映画における音楽と音響の役割には求心と拡散に両方の面があると思いますが、それがどうあるべきかを規定する尺度はありません。映画の主題だけがそれを決定します。映画が時間芸術であるかぎり、個々の独立した場面によって音の設計を考えるべきではないと思います。全体として個々の効果が大事なのです。そうすることが個々の場面をいかすことになるでしょう。

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「映像とその音響」項より 抜粋)

 

 

私の受けた音楽教育

それではなぜ、映画音楽をやっているのかと申しますと、私は小さな自分の仕事部屋で作曲をしていて、時にはピアノを使ったりしながら、かなり自己完結的な仕事にたずさわっているわけです。具体的にいえば、自分の肉体の癖というようなものが作曲の際に出てしまって、むろん人間の肉体性、音楽の肉体性ということは何よりも大切ですけれども、それとまるで違った、たんなる肉体的習慣に身を委ねてしまうようなことがあるのです。ピアノを弾く手の癖とかですね。そういう時に、いろんな違う人たちと仕事をする、例えば映画音楽もそうですが、そうすると、自分のうちの未知なるものというか、思いがけない自分を発見することがあるのです。

映画音楽には特別に決まった方法論というものはなくて、映画というものがそうであるように常に現実と結びついたものです。映画音楽の場合は、ある映画の効果を高めるということだけでなくて、他にたいへん大事な意味をもっています。それは優れた映画監督と仕事をする場合、俳優や女優が、普段はかなり大根役者だと思われていたのに、思いがけなく、いい芸をするというようなことがありますが、それと同じように、私自身も、いい映画監督と仕事をすると、思いがけない自分というものが引きずり出されることがあります。

そのことは、自分の書斎にもどって音楽を作るのにも非常に役立ちます。しかもシンフォニーを作曲し、それが日比谷公会堂で演奏され満員になったとしても、千数百人の聴衆が聴くだけですが、映画の場合は一本の映画ではるかに多くの人々が私の音楽を耳にするわけです。

それに、映画の場合は、あ、あれは武満が作曲したものだ、というような意識は見るひとにあまりないでしょう。そのことは私にとってたいへんうれしいことです。

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「私の受けた音楽教育」項より 抜粋)

 

 

映画音楽 音を削る大切さ

映画がひとに語りかけるのは、かならずしも、単一の事柄ー物語や主題ーに限らず、また、もし映画がそれだけのものにすぎないとすれば、面白味も薄く、そこでは音楽の役割も単なる伴奏の域に留まるしかないだろう。フィルムのフレームにきりとられた現実は実際とは異なったリアリティをもつものであり、映像に音楽が付けられることで、(映画)全体としての心象は、また別のリアリティを得る。相乗する視覚と聴覚の綜合が映画というものであり、映画音楽は、コンサート・ホールで純粋に聴覚を通して聴かれるものとは、自ら、その機能を異にする。あくまでも、映画音楽は演出されるものであり、そこには、常に、自立した音楽作品とは別の、抑制が働いていなければならない。

~中略~

もちろん、映画音楽は、独立した楽曲として鑑賞に耐え得るだけの、質的にも高いものであるにこしたことはないが、それ以上に映画音楽の需要さは、音楽が映画全体のなかでどのように演出され、使われるかということだ。そのために、音楽の扱いには、常に、冷静さと抑制を失ってはならないはずだ。だが少なからず最近の映画音楽は、抑制を欠いた、無神経なものが多い。こけ脅しの誇張や説明過剰が概ねであり、観衆の想像力を少しも尊重することがない。また、いつの間にか観衆もそれに慣らされてしまっている。

~中略~

私は、自分が考えている映画音楽というものについて、説明を試みる。

「時に、無音のラッシュ(未編集の撮影済みフィルム)から、私に、音楽や響きが聴こえてくることがある。観る側の想像力に激しく迫ってくるような、濃い内容を秘めた豊かな映像に対して、さらに音楽で厚化粧をほどこすのは良いことではないだろう。観客のひとりひとりに、元々その映画に聴こえている純粋な響きを伝えるために、幾分それをたすけるものとして音楽を挿れる。むしろ、私は、映画に音楽を付け加えるというより、映画から音を削るということの方を大事に考えている」

私なりの映画音楽の方法論を語ると、ハリウッドのひとたちは、なんとも不思議なものに接したような驚いた表情で、大仰に、Very interestingを連発した。そして、「アメリカの作曲家は一曲でも多く音楽を挿れたがるのに、あなたはまるで反対を言う。音楽を沢山挿れた方がそれだけ利益に結び付く機会も増すはずなのに。おかしなことを言うひとだ」と言って、またもや感慨深げに、Very interestingを繰り返した。

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「映画音楽 音を削る大切さ」項より 抜粋)

 

 

ひとはいかにして作曲家となるか

~中略~

演奏技術は教えることができるし、その教育の必要です。しかし、作曲を教えることはできないと思います。ソナタ形式とか、交響曲とか、西洋音楽が歴史的に創り上げた形式の概観を教えることはできるでしょうが。作曲家にとって一番大切なことは、どれだけ音楽を愛しているかであり、また自分の内面に耳を傾け何かを聴き出そうとする姿勢だと思います。こういうふうに楽器を重ねれば美しい響きが作れるという原則を教えることはできますが、それは最低限必要な技術に過ぎません。そんな表面的な技術ではなく、その人なりの美しい音があるはずです。モーツァルトやベートーヴェンは、そういった「自分の声」を持っていたひとたちです。

~中略~

いまだに外国で「日本人なのになぜ西洋音楽をやるのか?」と質問されて、よく居心地の悪い思いをします。日本人が「能が外人にわかるわけがない」と言うのと同じです。でも、日本人だって能を観てもわらからない人もいれば、フランス人だってドビュッシーがわからない人もたくさんいます。

「『わかる』とは一体何か?」が問題です。例えば同じブラームスの曲を聞いて、僕とドイツ人では理解が違うかもしれない。ただ、自分が感動する点では同じです。逆に、違った感動を味わってもいいわけです。これだけ情報化の進んだ現代でも、日本人と外国人との間にはいまだに誤解がたくさんありますが、このことを否定的にとらえる必要はない。もっと積極的にお互いの違いを確かめていくことが大切です。誤解は、物事を正すのに少しは役立つ可能性があります。浅薄な理解よりもましというものです。

~中略~

ある外国の友人に、「君が日本の楽器を使って書いた作品より、オーケストラを使って書いた作品の方に『日本』を感じる」と言われたことがあります。心あたりと言えば、同じ楽器を使ってもその使い方によって創り出している響きが違うんだろうということです。西洋人にとってはありきたりな楽器でも、自分にはその使い方の基礎的な知識がない。もしかしたら、そのことが僕の個性をつくり出しているのかもしれない。

~中略~

僕の考えでは、映画は監督のものです。つまり、作曲家も俳優と同じように監督に使われる存在です。だから映画音楽も音楽作品として優れていることより、映画の中での効果の方が優先します。「音楽が演出される」わけです。映像があって、ある一つの響きが聞こえるだけでも、映画音楽として成り立ちます。

僕は優れた監督に、自分の中の未知のものを引っぱり出して欲しいと思っています。実際、ふだんなら絶対書かないような音楽を、いい監督と出会ったために書かされたというか、書いてしまったこともあります。後になって、自分の変化がわかるんです。

シナリオを読んで発想が浮かぶことがあれば、最終段階までプランが決まらないこともある。映画音楽を作る体験は一本一本違った体験です。

楽譜はかなり細かいことまで書き表わせ、指示出来るとはいえ、やはり不完全なものです。だから最初の演奏にはできるだけ立ち会うように心がけています。初演の前のリハーサルの際に、作者として介入します。

僕は自分の音楽をよくわかってくれる人のために曲を書いています。例えば指揮者では小澤征爾や岩城宏之のために書く。ピアノ曲だとアメリカのピーター・ゼルキン、フルートなら誰々というふうに。室内楽のような小さい編成のものを書く時は、いつでも頭の中に演奏者の顔が浮かんでくるぐらい彼らと近い状態にあります。いわば彼らへの個人的な贈り物のつもりで曲を書いています。そういう人たちの演奏には介入しません。僕自身以上に僕を理解してくれているから。期待しながら演奏に耳を傾けます。

(映像から音を削る 武満徹 映画エッセイ集「ひとはいかにして作曲家となるか」項より 抜粋)

 

 

読みごたえのある本です。ぜひまるまる一冊手にとってほしいです。

また同じような内容は他の書籍などでも語られています。

「普通”音楽を入れろ”と言われます。しかし、そういう場面では音楽が入っていなくても、誰でも自然に心の中に美しい音楽が流れるのをきけます。そういう時には音楽は余計なものとなってしまいます。」

(武満徹著作集1より)

 

 

目次

第一章
映画界は滅びても”映画”は滅びない
ひきさかれた『女体』の傷は殺された牛よりもいたたましい──恩地日出夫への手紙
「青年プロダクション」に抗議する
ショスタコーヴィッチの逆さの肖像
子供番組と音楽
生活と仕事と生活
映画界は滅びても”映画”は滅びない──不況とは無関係な芸術性こそ問題
映画音楽
日録
清瀬保二と早坂文雄 〈日本〉と二人の作曲家

第二章
テキサスの空、ベルリンの壁
「シネ・ジャップ」によるインタヴュー
映画人
廃墟の音
テレヴィと聴衆
映画とその音響
ラジオの思想性
音とことばの多層性
私の受けた音楽教育
映画
”伝達のされ方”が分岐点
瀧口修造展に寄せて
『アレクサンダー大王』について
『オーケストラ・リハーサル』について
テキサスの空、ベルリンの壁──ヴィム・ヴェンダース
仲代達矢素描(スケッチ)
小林正樹と映画音楽

第三章
映画音楽 音を削る大切さ
タルコフスキーは最後までみずみずしい耳を持っていた
人間への眼を欠くヴィデオ時代の映画
仏映画に不思議な懐かしさ──『めぐり逢う朝』を観る
映画音楽 音を削る大切さ
「創造」としての蒐集(コレクション)
川喜多和子さんの突然の死
人間の「存在」について
私たちの耳は聞こえているか
地球の一体化と文化の多様性
感嘆した映画音楽祭
ひとはいかにして作曲家となるか
芥川也寸志と映画音楽
忘れられた音楽の自発性

編集あとがき 高崎俊夫

 

 

今回取り上げた文章たちは、そのほとんどの初出が1990年代に書かれたものです。時代を越えて映画に携わるプロたちの普遍的な映画論・映画音楽論というものが見え隠れしてきます。

ここからはスタジオジブリ作品、宮崎駿監督・高畑勲監督・鈴木敏夫プロデューサー、そして久石譲の語ったことを、幾多ある本やインタビューから少しだけご紹介します。

 

 

「アニメの世界は”虚構”の世界だが、その中心にあるのは”リアリズム”であらねばならないと私は思っている。ウソの世界であっても、いかにほんとうの世界とするかが大切だろう。言葉をかえるなら、みる人に「そういう世界もあるな」と思ってもらえるウソだ。たとえば、ムシからみたムシの世界を描くとする。それは人間が虫メガネでみた世界ではなく、草がすごい巨木となり、地面が平らではなくデコボコ、雨や水滴などの水の性質も人間が考えるものとはまったく異なってくる。こうして描けばおもしろい世界になり、ほんとうらしくなるだろう。アニメとは、そういう特性をもっており、しかも、それを絵にしてみせることができるすばらしさをもっているのである。」

(「出発点 1979~1996」/宮崎駿 著 より抜粋)

 

 

「ナウシカ」について言えばね、最初にイメージ。レコードっていうのを作ろうということで、久石さんていう人に頼んで作ってもらったんですね。そしたらなかなか面白い曲がその中に含まれていた。で、いろいろ経緯はあったんだけど、映画の音楽も久石さんにやってもらおうということになった時にね、その面白い曲が含まれていたものの、それがどういう風に使われるかということは何の関係もなく作られているわけですね。それは溜め録りと同じことなんでね、ある意味で言えば。それをどういう風に設計しようかっていうことで考えたわけです、あれはね。ま、あの場合三曲がテーマとして何度も使われているわけだけど。それを中心に据えてやっていくってことでね、むしろかえって上手くいったかもしれない。その、のっけからね、劇伴として「ここはこういう感じなんです、音楽入れてください」って書いてもらうよりね、その人が全力をあげて書いたものです。要するに久石譲という人にとって、映像に劇伴としてつけるんじゃなくて、原作を読んで想像力を駆使して、独立した音楽として聞かせるつもりで全力をあげて書いたもんでしょ? その魅力を全面的に発揮させるように後で音楽設計をする。一種の溜め録りですね。久石さんの初めに書かれた曲が全部良かったと別に思うわけじゃないけれど、その中で「これはイケル!」と思ったものがあった。それをどういう風に扱うか……要するに、曲はいいかもしれないけれど、使えないかもしれないですね。でしょ? 「ナウシカ」の場合でもそう思ったんですよ、実は。出来上がったものを聞いて「これとこれがイイ!面白い!……面白いんだけど、さて、どういう風に使えばいい?……久石さんの力は示してもらったけど、映画用にはやはり改めて書いてもらわないといかんかなあ?」ということを一時は思ったりした位で。だけど、いろいろ行きつ戻りつ考えて、ある所に落ち着いてね、で、出来上がってくると、もうそれしかなかった様に思えたりね(笑)、その、「感じ」っていうのは出て来るわけだからね。どれだけ聞かせてくれる音楽が書かれてるかであってさ、「いかにも劇伴でござい」っていう音楽は使い途がないんですよ、土台。」

(「映画を作りながら考えたこと」/高畑勲 著 より抜粋)

 

 

一方、久石・宮崎・高畑の間で解釈が異なり、議論で衝突したシーンもあった。まず、導入部の旅客船襲撃シーンについて、高畑は音楽なしを提案したが、久石は「入れたい」と希望。結局入れることに決まり、ギリギリの7月中旬に曲が書かれた。これとは逆に、ムスカがドームから軍の兵士を落下させる残酷なシーンについては、宮崎から「音楽を」と要請があったが、久石が「残酷さが強調された方が、シータとパズーの優しさや人間愛が胸を打つ」と音楽ナシを主張し、これが通った。ラピュタ崩壊シーンで流れる少女の合唱についても、高畑は「途中で止めるべき」、宮崎は「流し続けたい」と論議があったというが、高畑案が通ったようだ。

(「宮崎駿全書」/叶精二 著 より抜粋)

 

 

「映画監督にはそういうところがあるものですが、一番大事なシーンに音楽を挿れずに画だけで見せたがる。『となりのトトロ』でサツキがトトロに出逢う雨のシーンがそうでした。子どもはトトロの存在を信じてくれるけど、大人まで巻き込むにはどうしようかと考えて、あのバス停のシーンが重要だと。それなのに宮さんは「画だけで」と言って。それを聞いた久石さんも「ハイ」と答える。

そこで、トトロの横で『火垂るの墓』を制作中の高畑さんに相談。音楽にも久石さんのことも詳しい彼は「あそこには音楽があったほうがいいですよ。ミニマル・ミュージックがいい。久石さんの一番得意なものができる」とアドバイスしてくれました。その高畑さんが言ったことは内緒にして久石さんに頼みに行きました。「でもここは宮崎さんはいらないって言ったけど、そんなことしてイイの?」と言う久石さんに、僕は言いました。「宮さんは、いいものができれば気が付かないから」。そして作曲してもらった。ジブリで完成した曲を聞く日、宮さんは「あっ、いい曲だ!」と喜び、あの幻想的なシーンが完成しました。僕は思うんですけど、久石さんはそんな綱渡りの状態のほうが、かえって名曲を生み出してくれるんです。」

(鈴木敏夫 談)

Blog. 「オトナの!格言」 鈴木敏夫x久石譲x藤巻直哉 対談内容紹介 より抜粋)

 

 

「初めて高畑さんと久石さんが組んだ『かぐや姫の物語』でも、同じように音楽の直しの指示を幾度も入れていた。そして気がつかないうちに久石さんの創る音楽がどんどん高畑さんの表現したい世界に近づいて行くんです。その裏で、「久石さんという人は、これだけの人じゃない。もっと出せるはずだ。このまま世に出したら、悔いが残るに違いない」、こんなふうに話していました。」

(鈴木敏夫 談)

Blog. 「オトナの!格言」 鈴木敏夫x久石譲x藤巻直哉 対談内容紹介 より抜粋)

 

 

「生のストリングスなどを使って、アコースティックな音に仕上げたいと考えたんです。きれいな音をつけてあげたい。かわりに暴力シーンには音楽はいらない。主人公と奥さんの関係、そして銃で撃たれて車椅子生活をおくっている主人公の同僚、その2つの関係を中心に音楽をつくっていこうと。全体的にあまりムーディーにならないようには心がけました。本当のメインテーマは最後の方に出てくる。音を抜くときいは思いっきり抜くことで次第に、後半に行くに従って情感が増してくるんです。この作品に限らず、沈黙をつくるのも、映画音楽の大事な仕事です」

Blog. 「ゾラ ZOLA 1998年2月号」 久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 

 

「久石さんは少しおおげさにおっしゃっています(笑)。でも主人公の悲しみに悲しい音楽というのではなく、観客がどうなるのかと心配しながら観みていく、その気持ちに寄り添ってくれるような音楽がほしいと。久石さんならやっていただけるなと思ったのは『悪人』(李相日監督)の音楽を聴いたからです。本当に感心したんですよ。見事に運命を見守る音楽だったので。」

(高畑勲 談)

「日本の映画で言ったら「野良犬」のラストが典型的ですよね。刑事と犯人が新興住宅地の泥沼で殴り合っている時に、ピアノを弾いている音が聞こえてくる。当時ピアノを持っている家はブルジョワなわけで、若奥さんが弾いている外の泥沼で刑事と犯人が殴り合いをすることで、二人とも時代に取り残されている戦争の被害者だということが浮き彫りになる。天上の音楽を悩みのないものとして描くのも同じアプローチの対比ですよね。」

(久石譲 談)

「自分にとって代表作になったということです。作る過程で個人としても課題を課すわけです。これまでフルオーケストラによるアプローチをずいぶんしてきたのが、今年に入って台詞と同居しながら音楽が邪魔にならないためにはどうしたらいいかを模索していて、それがやっと形になりました。」

(久石譲 談)

Blog. 久石譲 「かぐや姫の物語」 インタビュー ロマンアルバムより 抜粋)

 

 

「それまでの僕のやり方は、もう少し音楽が主張していたと思います。それに対して、『かぐや姫』以降は、主張の仕方を極力抑えるようになりました。音楽は観客が自然に映画の中に入っていって感動するのをサポートするぐらいでいい。そう考えるようになったのです。ただし、それは音楽を減らすという意味ではありません。『かぐや姫』では引いていながらも、じつはかなりたくさんの音楽を使っています。高畑さん自身、「こんなに音楽を付けるのは初めてです」とおっしゃっていたほどです。

矛盾するようですが、僕は映画音楽にもある種の作家性みたいなものが残っていて、映像と音楽が少し対立していたほうがいいと思うんです。映像と音楽がそれぞれあって、もうひとつ先の別の世界まで連れて行ってくれる──そういうあり方が映画音楽の理想なんじゃないでしょうか。そういう僕の考えを尊重してくれたのは、高畑さん自身が音楽を愛し、音楽への造詣がものすごく深い方だったからかもしれません。」

Blog. 「ジブリの教科書 19 かぐや姫の物語」 久石譲 インタビュー内容紹介 より抜粋)

 

 

「基本的に、映画音楽って音楽を状況につけるか心情につけるかのどちらかです。でも、今回はそのどちらもやっていません。主人公の気持ちを説明する気も全然なかったし、海で起こる状況にもつけなかった。すべてから距離をとる方法をとっているんです。やっぱり、音楽が映画と共存するためには、そういう考え方を持っていないと、劇の伴奏のようになってしまってつまらなくなります。走ったら速い音楽、泣いたら哀しい音楽なんて、効果音の延長のようじゃないですか。」

Blog. 「海獣の子供 公式ビジュアルストーリーBook」 久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 

 

「今なんか、もうこういう電気機材がすごい発達してるから、もういくらでも細かくやってほとんど音楽がハリウッドでもそうですけど効果音楽になっちゃってるからね、効果音の延長になっちゃってるからね。そのてのつまんないものはね、やっても仕方がないんで。自分が想像してる以上に、世界はソーシャルメディアで変革されてきすぎっちゃってるんですね。そういうなかで結局、映画という表現媒体のなかで、アニメーションというものが持ってるものと、例えばゲームとかね、そういうものが持ってる力を、もう過小評価してはやっていけないだろうと。表現媒体に対する制作陣が昔のイメージで凝り固まって、作品とはこんなもんだっていうことで作っていくやり方が、もう時代に合わない。やはりアニメーションというのはある種の可能性があるわけだから、それをもっと若い世代の人とやっていく、あるいはその時に自分も今までの音楽のスタイルではないスタイルで臨む、今回みたいにミニマルで徹するとかね。そういう方法で新しい出会いがあるならば、これは続けていったほうがいいなあ、そういうふうに思います。」

Info. 2019/06/14 映画『海獣の子供』久石譲メイキングインタビュー 動画公開 より抜粋)

 

 

 

時代もジャンルも異なる映画の世界のなかで、それぞれのプロフェッショナルの思考や信念を交錯させながら、自分なりに考えてみることはとてもおもしろいことです。久石譲も、その時代ごとにその作品ごとに、アプローチも語ってきたことも変化しています。一方では、一貫して変わらないスタンスというものも見えてきます。

ここでは、武満徹の言葉たちに共鳴する部分を主にピックアップしながら、久石譲の言葉たちは、わりと直近のものからご紹介しました。これまでの久石譲著書や久石譲インタビュー内容からは、もっと多くのことがより具体的につかむことができると思います。ぜひ手にとってみてください。

 

ウソとマコト I で伝えたかったこと、それは《映画は音楽によって真実に近づく》です。なぞるような音楽、効果音のような音楽、煽るような音楽、いろいろな映画音楽の問題も抱えながら、ひとつの作品としっかり向き合いながら監督や作曲家が、観客に真実を伝えるためのアプローチ。ウソの世界をマコトの世界にするために、音楽は映画にとって必要なもの。

逆に、《◇◇は音楽によって真実から遠ざかる》、このことは ウソとマコト II で掘り下げていきたいと思います。

それではまた。

 

reverb.
武満徹さんは新しい作品を書くときに、いつもバッハのマタイ受難曲を聴いてから取りかかったそうです。一種禊のような──と書籍にありました。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪

 

Overtone.第26回 「音楽の聴き方 -聴く型と趣味を語る言葉/岡田暁生 著」 を読む

Posted on 2019/11/28

ふらいすとーんです。

前回『クラシック音楽とは何か』という本をご紹介しました。主にクラシック音楽を中心にさまざまな本を出版している岡田暁生さん、同じ著者による『音楽の聴き方 ー聴く型と趣味を語る言葉』です。

音楽を聴いた感動を、どう言葉にしたらいいか? この感動をどう伝えよう? そんなことって音楽好きにはよくあることですね。「こんな表現の仕方あるよ、こんな言い回しあるよ」という引き出し的な本ではありません。タイトルにあるとおり、聴き方の《型、方法、コツ》を知ることによって、おのずと音楽を語る言葉たちも、より具体的になってきたり、より表現が広がってきたり。

たぶん音楽を聴くことって、極端にいえばとても感覚的なことです。今まで経験してきたこと、無意識のうちにやっていたことも、言葉や文章でロジカルに整理されてみると、「ああ、たしかに」「そういうことなのかなあ」と感覚的だったものが客観的に見えてくることもあります。この本に書かれていることは、クラシック音楽に限ったものではなく広く音楽の聴き方です。普段のマイ音楽生活に当てはめながら読んでもらえるとうれしいです。

僕の結論(思ったこと)。

音楽を聴くことは感覚的、そこには「好き」「嫌い」「わかる」「わからない」という大きな四択が直感的に選ばれて、無意識に振り分けられていく。なぜ好きなのか? なぜ嫌いなのか? なぜわかるのか? なぜわからないのか? それを自分のなかに見つめることで「聴き方」がわかってくる。そんなことが書かれている本かなあ。そして「好き」「嫌い」「わかる」「わからない」は、変化していく。時間の流れ、環境の変化、学びや蓄積の進化、人が変わっていくように聴いた音楽の感覚的印象も絶えず変化しつづける。だからこそ、音楽っておもしろい。そんなことを思いました。

 

11ページにおよぶ【はじめに】項から、抜粋・要約するかたちでご紹介します。

 

 

はじめに

~中略~

やはり大多数の人にとって音楽を聴く最大の喜びは、他の人々と体験を共有し、心を通わせ合うことにあるはずである。例えば素晴らしいコンサートを聴き終わった後、それについて誰かと語り合いたくてうずうずしているところに、ばったり知人と出会って、どちらかともなく「よかったね!」の一言が口をついて出てきたときのこと。互いの気持ちがぴったりと合ったと確信させてくれる、コンサートの後のあの「一言」がもたらす喜びは、音楽を聴いている最中のそれに勝るとも劣らない感興を与えてくれると私は信じている。自由闊達に語り合えば合えるほど、やはり音楽は楽しい。聴く喜びはかなりの程度で、語り合える喜びに比例する。音楽の楽しみは聴くことだけではない。「聴くこと」と「語り合うこと」とが一体になってこそ音楽の喜びは生まれるのだ。

とはいえ、「よかったぁ・・・!」の感嘆の声をあげるだけで満足するのではなく、もっと彫り込まれた表現で自らの音楽体験についての言葉を紡ぐには、もとよりそう容易なことではない。思えば私自身もかつては、「うまかった/へただった」、「よかった/よくなかった」、「感激した/退屈だった」といった大雑把な印象以上のことを、ほとんど口に出来なかった記憶がある。そして何か気の利いたことを言おうと、通ぶって「あそこのファゴットはあんな風に吹いていいものかねえ」などと口にしてはみても、どうにも周囲と言葉が噛み合わず、後味の悪い思いをしたことも、少なからずあった。音楽の余韻をもっと楽しもうとして、いろいろ話をしていたはずなのに、「そんな細かいことがどうかしたの?」と気色ばまれたりして、せっかくのコンサートの余韻が冷めてしまうのだから、本末顛倒ではある。だが今にして思えばああした行き違いは、単に当時の私の言葉のレベルが余りにも稚拙だっただけのことであろう。「音楽を語る言葉を磨く」ことは、十分努力によって可能になる類の事柄であり、つまり音楽の「語り方=聴き方」には確かに方法論が存在するのだ。

美術史家のゴンブリッチは名著『美術の歩み』の中で、興味深いことを書いている。例えば人がある絵画をなぜ傑作だと感じたのかは、「普通、言葉では正確に説明することはできない。しかし、このことは、この作品もあの作品も、同じようによいものだとか、好き嫌いの問題は議論することができないとかいう意味ではない」。こうした問題について議論をすることを通して、「以前には見逃していた点に私たちは気付くようになる。私たちは、各時代の芸術家たちがなし遂げようと努力した調和ということに関して、感覚を高めるようになる。これらの調和に対する私たちの感覚が豊かになればなるほど、私たちは、それらの作品をもっと楽しむようになる」。

端的に言って、「聴き方」とは「聴く型」のことだと、私は考えている。

(音楽の聴き方「はじめに」より 要約・抜粋)

 

 

とても魅力的な導入部ですね。聴く喜びと語り合える喜び、そして語り合うことで豊かになる感覚。この本、とても読み応えがあって、一方でかなりマニアックなところもあって、何度も読み返しました。ふせんを貼りまくった箇所も多く、ピンポイントに紹介したいところも多く。さてどうしたものかと放置していた期間も長く。最終的には、いくつかの章から気になった箇所をピックアップしてその部分を(ここ大事!章全体をではなく部分を)要約・抜粋するかたちで紹介させてもらいます。原文は変えていませんが、切り貼りされているところもあります。予めご了承ください。マニアックと書いた理由は、本の目次を見てもらったら。

ではいきます!

 

 

第一章 音楽と共鳴するとき

思うに音楽は、その場の空気だとか、よく分からない相性だとか、聴いたときの体調や気分だとかに、ひどく左右される芸術である。もちろん小説などでも、たまたま疲れていたりすると集中力を欠いて大切な箇所を読み落としたりしがちだし、せっかく楽しみにしていた展覧会に行ったのに、気分が乗らなくて印象が薄くなるということもあるだろう。だが、ある程度の線引きはできる。「なるほど、これはすごい作品なんだろうけど、今の自分には少し早いなあ」とか、「こういうものを評価する人がいるのは分かるけれど、自分の好みではないなあ」とか、「大傑作というわけではないのだろうけれど、今の自分にはとてもピンと来る」とか、「今日は疲れていて何を読んでも頭に入らないや」といった具合に。だが、音楽の場合、ことはそう簡単ではない。端的に言って音楽体験は、何よりもまず生理的な反応である。なぜなら音楽は我々の肉体のあらゆる神経に触れるからである。触れてくるものを客観的に判断するのは難しい。例えば「あそこでぐっと来る」といった、身体の奥の漠然とした疼きのようなものについての感想に終始する理由は、まさにこのあたりにある。

とはいえ、音楽に対する生理反応がまったく議論不能かといえば、もちろんそんなことはない。ある音楽に反応した、あるいはしなかった、そこには必ず理由があるはずだし、だからこそ「音楽についての言説空間」とでも呼ぶべきものが、それなりに成立してきたのだ。例えば「波長の相性」、音楽の調子、タッチ、リズム、テクスチャー等がないまぜになって生まれる、一種の律動のようなものである。私は、ウィーン古典派で定評のある某有名ピアニストの解釈と、どうにも「波長」が合わない。その演奏で多用されるスフォルツァンドを聴いていると、自分の主張を一方的にまくしたてるヒステリックな口調を連想してしまい、一向に落ち着けないのである。その演奏の尋常ではない集中力の深さ、身を削るようにして推敲されたに違いない解釈の説得力、非の打ち所のない技術などを認めるにやぶさかではない。しかし頭でどれだけ理解出来ても、身体が嫌がる。これなど「あのタレントの笑うときの口元の表情が好き/嫌い」といった議論と何ら変わるまい。ただの好き嫌いである。

これとは逆に、あらかじめ聴き手がある波長でスタンバイしており、たまたま周波数がそれと一致する音楽を耳にすると、過剰とも思える同調反応を示すということもあるだろう。若い頃に極度の思い入れのあった音楽が、ある年齢を境に何も感じないようになってしまう、心理的波長にまったく反応しなくなってしまうことも。音楽とは人の束の間の気分に左右される、まことに移ろいやすい芸術ではある。いずれにせよ私たちは、他のどんな芸術にも増して音楽体験は、こうした生理的な反応に左右されやすいことを、よく自覚しておいた方がいい。「自分はこういうタイプのメロディーにぐっと来てしまうクセがあるんだよなあ」とか、「こういうリズムを聴くと反射的に嫌悪を感じてしまうんだ…」といった具合に、自分の性癖を理解しておくわけだ。それこそが、個人の生理的反応の次元と客観的な事実とをある程度分けて聴くための、最初のステップである。

すべての音楽体験の原点となってくれるのは、まだどんな言葉も湧き上がってこないような、純粋に感覚的な「第一印象」以外にありえないだろう。一体自分はその音楽にどう反応しているのか。音楽体験において一番大切なのは、他人の意見や世評などに惑わされず、まずは自分の内なる声に耳を澄ませてみることではないかと、私は考えている。自分が音楽にどう反応しているかをきちんと聴き取ってあげる、実はこれはそんなに簡単なことではない。マスメディア時代に生きる私たちは、音楽を聴くより以前に既に大量の情報にさらされているし、知らないうちに「音楽の聴き方」についていろいろなことを刷り込まれている。それに他人の意見や反応だって気になる。

そして私自身が音楽を聴くときの目安にしているのは何かといえば、それは最終的にただ一つ、「音楽を細切れにすることへのためらいの気持ちが働くか否か」ということである。細切れとはつまり、演奏会の途中で席を外したり、CDなら勝手に中断したりすることだ。何かしら立ち去りがたいような感覚と言えばいいだろうか。これは「分かる」とか「よかった」とか「ぐっと来る」とか、そういうこととは必ずしも関係ない。すぐにはピンと来ないかもしれない。だが、「これは最後まで聴いてあげなくてはいけないものだ」という感情がどこかに湧いてきたとすれば、それこそが「縁」というものだ。そのコンサート/CDは今のあなたにとって、まだ縁がない音楽だったのかもしれない(もちろん将来縁が出来る可能性は大いにある)。いずれにせよ私たちは、今の自分にとって「縁」のあった音楽から始めるしかない。不可分/不可逆な時間を共有出来るパートナーとしての音楽を少しずつ増やすことを通して、自分だけの図書館を、つまり自分自身を作り上げていくのだ。

「思うのだけれど、クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評価とは合致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。[中略] 当たり前のことだけれど、それはほかの誰の体験でもない。僕の体験なのだ。」(『意味がなければスイングなない/村上春樹 より引用)

(音楽の聴き方「第一章 音楽と共鳴するとき」より 要約・抜粋)

 

 

第二章 音楽を語る言葉を探す

音楽の少なからぬ部分は語ることが可能である。それどころか、語らずして音楽は出来ない。音楽は言葉によって作られる。一流の指揮者のリハーサルなどを見れば、このことは一目瞭然である。彼らが練習で用いる語彙は、明確にいくつかのカテゴリーに分類することが出来る。一つは「もっと大きく」とか「ここからクレッシェンドして」といった直接的指示。二つめは「ワイングラスで乾杯する様子を思い描いて」といった詩的絵画的な比喩。三つめは、音楽の内部関連ならびに外部関連についての説明。内部関連とは「ここはハ長調だ」とか「再現部はここから始まる」といった音楽構造に関するもの。外部関連とは作品の歴史的文化的な背景についての説明などである。どれも「音楽を語る言葉」としてポピュラーなものだ。だが私が何より注意を促したいのは四つめの語彙、つまり身体/運動感覚に関わる彼らの独特の比喩の使い方である。いわく「四十度くらいの熱で、ヴィブラートを思い切りかけて」(ムラヴィンスキー)、「いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで」(クライバー)、「おしゃべりな婆さんたちが口論している調子で」(チェリビダッケ)等々。それまで単なる抽象的な音構造としか見えなかったものが、これらの言葉に重ねられるやいなや突如として受肉される。体温を帯びた生身の肉体の生きた身振りとなるのである。

あるいは一八三九年に出版されたツェルニーの『演奏について』という本の中では、私たちが一般に物理的強弱に関わると考えている用語が、次のように定義されている。まずピアニッシモは「謎めいた神秘的な性格、遠い彼方からのこだまのざわめきのように、聴き手を魅了する効果」。ピアノは「愛らしくて柔らかく穏やかな平静さ、または静かな憂鬱」。フォルテは「エチケットに反しない範囲えの、独立心に満ちた決然とした力、ただし情熱を誇張するわけではない」。そしてフォルティッシモは「歓呼にまで昂ぶった喜び、または憤激にまで高められた苦痛」。これらの言葉は、今日のような抽象的/普遍的な「用語」になる以前、もともとデジタル的な音の強さの指示ではなく、それぞれ特定の気分で染められた身体感覚の連想を伴っていたわけである。

(音楽の聴き方「第二章 音楽を語る言葉を探す」より 要約・抜粋)

 

 

第四章 音楽はポータブルか?

「音楽を聴く/語る」とは、音楽を歴史の中でデコードする営みである。それはどういう歴史潮流の中からやってきて、どういう方向へ向かおうとしているのだろう? こちらからはこう見えるけれども、向こう側から眺めればどんな風に見方が変化するだろう? 一体どの歴史的立ち位置から眺めれば、最も意味深くその音楽を聴くことができるだろう? 音楽を聴くもう一つの楽しみは、こんな風に歴史と文化の遠近法の中でそれを考えることにある。歴史的文化的に音楽を聴くというのは、実はそんなに難しい話ではない。詳しい知識はなくとも、音楽を聴くとき私たちは常に、何らかの歴史/文化文脈の中で聴いている。逆に言えば、背景についてまったく知らない音楽は、よく分からないことの方が多い。例えば多くの人にとってポピュラー音楽が「分かりやすい」のは、その文脈が人々にとって身近なものだからだろうし、逆にクラシック音楽や雅楽が「難しい」のは、歴史や文化の背景がかなり遠いところにあるからだろう。私たちは美術館で絵を前にして、反射的に作者の名前を見ようとする。人によっては必ずまず作者の名を確認してから作品を見る。またコンサートで作曲家の名前も作品タイトルも確認しないなどという人は、まずいないだろう。そしてラジオで気になる音楽が流れていたら、最後のアナウンスまで聴いて、誰がそれを歌っていたか知ろうとするはずだ。

であればこそ、今の時代にあって何より大切なのは、自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているのかをはっきり自覚すること、そして絶えずそれとは別の文脈で聴く可能性を意識してみることだと、私は考えている。言い換えるなら、「無自覚なままに自分だけの文脈の中で聴かない」ということになるだろう。自分が快適ならば、面白ければそれでいいという聴き方は、やはりつまらない。こうしたことをしている限り、極めて限定された音楽(=自分とたまたま波長が合った音楽)しか楽しむことは出来ない。時空を超えたコミュニケーションとしての音楽の楽しみがなくなってしまう。むしろ音楽を「最初はそれが分からなくて当然」という前提から聴き始めてみる。それは未知の世界からのメッセージだ。すぐには分からなくて当然ではないか。快適な気分にしてもらうことえはなく、「これは何を言いたいんだろう?」と問うことの中に意味を見出す、そういう聴き方を考えてみる。

「音楽を聴く」とは、初めのうち分からなかったものが、徐々に身近になってくるところに妙味があると、考えてみるのだ。こうしてみても初めのうちは退屈かもしれない。確かに忍耐の要る作業ではあろう。音楽など自分と波長の合うものだけをピックアップして、それだけを聴いていればいい、それも一つの考え方だろう。だが「徐々に分かってくる」という楽しみ方を知れば、自分と波長が合うものだけを聴いていることに、そのうち物足りなくなってくるはずである。これはつまり自分がそれまで知らなかった音楽文化を知り、それに参入するということにほかならない。徐々にさまざまな陰影が見えてくることもある。それらの背後には何らかの歴史的経緯や人々の大切な記憶がある。このことへのリスペクトを忘れたくはない。「こういうものを育てた文化=人々とは一体どのようなものなのだろう?」と謙虚に問う聴き方があってもいい。歴史と文化の遠近法の中で音楽を聴くとは、未知なる他者を知ろうとする営みである。

(音楽の聴き方「第四章 音楽はポータブルか?」より 要約・抜粋)

 

 

結構お腹いっぱいだったでしょうか?

本書のなかで比較的に読みやすい箇所、誰が読んでも共感しやすい部分をピックアップさせてもらいました。僕は、結構腑に落ちることが多くて「ふむふむ、そうかそうか、そうだそうだ」と理解が染み込んでいきました。なによりも感覚的なことをロジカルに説明してくれているのは大きかったですね。

本の【おわりに】項では、28の箇条書きで本書がまとめられています。そのなかから半分くらいをご紹介します。「ああ、自分もそんな経験あるなあ」と思えるものがきっとあります。

 

 

おわりに

・他人の意見は気にしない。もちろん「聞く耳」を持つにこしたことはない。だがいちいち「本当はどうだったのですか?」などと他人の顔色をうかがう必要はない。「誰がどう言おうと、自分はそのときそう感じた」、これこそがすべての出発点だ。

・世評には注意。「看板に偽りあり」のケースは意外に多い。そもそも人と意見が違っていたとしても、そこには必ず何か理由がある。「他人との違い」を大切にする。

・自分のクセを知る。そして客観的事実と自分の好みはある程度分けて聴く。そのためにも、自分がどういうものに反応しやすくて(過大評価しやすく)、どういうものに対して鈍いか(過小評価しやすいか)、よく分かっておいた方がいい。

・「理屈抜き」の体験に出会うこと。定期的に音楽を聴く習慣を持つならば、そのうち「これは間違いなくこうだ!」と思える瞬間が来るはずである。そのためにも数を聴かないと始まらない。

・「絶対に素晴らしい!」と「明らかにひどい!」の両極の間には、格別いいとも悪いとも断定しがたい、さまざまな中間段階が存在している。これらは聴く角度次第でいろいろな評価が可能だ。ありうべき判断に幅のある音楽は多い。

・名曲(名演)とは、どんな文脈を当てはめても、「やっぱり凄い・・・」となる確率が桁外れに高い音楽のことだ。確かにそういうものは存在する。

・そのジャンルに通じた友人を持つこと。「この角度から聴けばこう、あの角度から聴けばこう」といった具合に、複数の聴き方の可能性を教えてもらおう。

・定点観測的な聴き方をする。例えば同じ(地元の)オーケストラの定期演奏会を必ず訪れてみる。やがて出来の微妙な違いが見えてくるはずだ。「聴く耳」を作るには、有名音楽家のつまみ食いよりも、こちらの方がいい。

・音楽は視なければ分からない。録音で音楽を聴くことに慣れている私たちは、身体が現前していないのに音だけが響いてくる異様さを忘れがちだ。しかし本来音楽とは生身の人間の身体から発せられるものであって、耳で聴くだけの音楽はどうしても全身で同調することが難しい。その意味でも、特に最初のうちは、ライブ中心に聴いた方がいいと思う。

・音楽を言葉にすることを躊躇しない。そのためにも音楽を語る語彙を知ること。音楽を語ることは、音楽を聴くことと同じくらい面白い。まずは指揮者のリハーサル風景の映像などを見てほしい。

・音楽についての本を読むことで、聴く幅が飛躍的に広がる。

・音楽に「盛り上がり図式」ばかりを期待しない。その音楽とは不似合いな構成をこちらが勝手に期待して、肩透かしを食うということがある。最初から最後までBGM風に平坦な音楽もあれば、聴き手をけむにまく終わり方もあるし、意識的に断片を並べたような構成もある。いろいろな組み立てパターンを知っておく。

・ある音楽が分からないときは文脈を点検する。特に背景知識の有無、それをどんな場で聴いたか、こちらが何を期待していたかに注意。「ぴんと来ない」ケースの大半は、バックグラウンドに対する共感がなかったり、場違いなTPOで聴いてしまったり、見当はずれな期待をしてその対象に臨んだことに起因する。

・そのジャンルのアーカイブを知る。「ジャンル」として確立されている音楽の場合、必ず観客が暗黙の前提にしている架空の図書館がある。たくさん聴いて、読んで、いろいろな人名や作品を覚え、多くの人と話すこと。

・自分でも音楽をしてみる。ただし「うまい人はよく音楽が分かっている/下手な人間は音楽について語る資格はない」なとど思わないこと。堂々と品評するアマチュアの権利を行使する。

(音楽の聴き方「おわりに」より 抜粋)

 

 

音楽の聴き方 ー聴く型と趣味を語る言葉/岡田暁生・著 (中公新書)

 

目次

はじめに

第1章 音楽と共鳴するとき ー「内なる図書館」を作る
音楽の生理的次元/相性のメカニズム/「内なる図書館」と人の履歴/「好み」の社会的集団/突き抜けた体験/時間の共有としての音楽体験

第2章 音楽を語る言葉を探す ー神学修辞から「わざ言語」へ
「鳴り響く沈黙」とドイツ・ロマン派の音楽観/神の代理人としての音楽批評/聴衆は信者か公衆か?ーストラヴィンスキーのバイロイト批判/鑑定家としての音楽批評?/音楽を「する」「聴く」「語る」の分裂/音楽は言葉で作られる?/「わざ言語」について/「地元の人」の言葉/教養主義と日本固有の問題/「わざ言語」を作り出す

第3章 音楽を読む ー言語としての音楽
「音楽の正しい朗読法」一八世紀の演奏美学/音楽・言語の分節規則/音楽の句読法と民族性/音楽のセンテンスを組み立てる/多楽章形式について/音楽の意味論/「音楽は国境を越える」というイデオロギー/アーノンクールの近代批判と「言語としての音楽」の崩壊/「ケージ以降」への一瞥/言語的聴取の退化?

第4章 音楽はポータブルか? ー複文化の中で音楽を聴く
再生技術史としての音楽史/演奏家を信じない作曲家たち/壊死しつつある「音楽の意味」の救済 アドルノのフルトヴェングラー論/完璧主義の実存不安 アドルノのトスカーニ批判/音楽の解釈とは何か/ポリーニのショパン《エチュード集》をどう聴くか/未知のものとして音楽を聴くということ

第5章 アマチュアの権利 ーしてみなければ分からない
音楽は社会が作る/音楽が社会を作る? パウル・ベッカーのテーゼ/音楽は政治的にうさんくさい? 「感動させる音楽」への恐怖/音楽を中断するということ アイスラーの《ハリウッド・ソング・ブック》/「聴く音楽」と「する音楽」 ハインリッヒ・ベッセラーの二分法/アマチュアの領分/「聴く」から「する」へ

おわりに

文献ガイド

あとがき

 

 

 

文献ガイドもとても充実していて、まるで図書館の[音楽]の棚に置かれているような専門的本が、ジャンルや時代などバリエーション豊富に紹介されています。気になったものをいくつか読んでみる予定です、ついていけるかな。。わからないなりにシャワーを浴びることも大切、ただただ流れ落ちることもあるでしょう、聴いて、読んで、いろんな方法で音楽が楽しめたらいいなあと思います。

とても堅苦しい印象になったかもしれませんが、これって音楽だけじゃないですよね。食文化だって味覚とそれを伝える言葉によって発展してきたもの。受け継ぎたい味、誰かに教えたくなる味。味覚で直に伝えられないとき、それは言葉によって語られます。そのとき「おいしい味」のひと言だけでは足りない、「とにかくおいしいから」で突き通す?!

一緒に食べた料理、一緒に見た景色、一緒に聴いた音楽。共感は言葉にすることで刻まれる思い出の記憶も深くなります。食べてほしい料理、見てほしい景色、聴いてほしい音楽。言葉は次の共感へのコミュニケーションの広がりになります。言葉が豊かになるということは、自分のなかの感情や感覚が豊かになること、そう思っています。

語られるべき音楽があって、語られてきたからこそ今に遺る音楽たち。未来に遺したい音楽がここにあるならば、大いに語っていこうじゃないか!そんな心持ちです。

それではまた。

 

reverb.
一冊一冊ゆっくりそしゃくしているところです。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第25回 「クラシック音楽とは何か/岡田暁生 著」を読む

Posted on 2019/11/11

ふらいすとーんです。

2014年1月から2015年11月まで「クラシックプレミアム(CD付きマガジン)」(小学館・全50巻)に、久石譲のエッセイが連載されていました。もちろんこれが一番の目的で、久石さんの近況、作曲やコンサートの出来事、今考えていること、リアルタイムな久石譲に触れることができる。定期的・習慣的にメディアに登場することがないなか、定点観測できる約2年間は貴重な機会でした。のちに、『音楽する日乗/久石譲 著』(2016)として加筆ふくむ書籍化されています。

小学校で習ったクラシック音楽、大人になってTV・CM・映画に使われ話題になることでふれたクラシック音楽。その範囲の入門者にとって、自分の好む好まざるに関わらず2週間に1回聴く全方位的なクラシック音楽の数々は、能動的で積極的な自分がわかるほど楽しい音楽の授業でした。「あっ、この曲ね、知ってる知ってる」というものもあれば、「あっ、こういう曲名だったんだ」「この作品の一部だったんだ(聴いたことがあったのは)」「うーん、難解、ピンとこない」。もっとほかにいい演奏があるのかなと掘り下げてみたり、気になる作曲家、時代、ジャンルが頭のなかで整理されてきたり。自分が好きなクラシック音楽ってこういうのかな、というのを少しずつかたちづくってくれた期間だったように思います。

CDに耳を傾け、ブックで解説を咀嚼しながら。ささやかならが、自分のなかに今までにはなかった音楽の血が少しずつ注がれているような、そんなたしかな感触がありました。わかりやすく言うと、ジブリ音楽だけを聴いた人が吸収できる久石譲音楽と、オリジナル作品も聴いた人が吸収できる久石譲音楽。そこから受けとれるもの感動の振幅は、雲泥の差があるように。もっとわかりやすく言うと、CM音楽でしか「Oriental Wind」を耳にしたことがない人の感動と、オーケストラ版「Oriental Wind」(WORKS III/メロディフォニー 収録)を聴いている人の感動は、その広さ深さが明らかに違うように。もういいですね。

 

 

「クラシックプレミアム」には、久石譲エッセイと同じく連載されていたものがあります。「キーワードでたどる西洋古典音楽史」、その書籍化されたものが「クラシック音楽とは何か/岡田暁生 著」です。

時代ごとジャンルごと、とてもわかりやすい切り口と語りで、入門者としてはとても学ぶこと多く、毎号楽しみにしていました。誰もが思っているけど恥ずかしくていざ聞けない疑問、わかっていたようでごっちゃになっていたこと、「よし、おまえ説明してみろ」と言われたら、「えっと…感覚的にはわかってるんだけど…うーん、なんて言ったらいいのかなあ…あれ、よくわかってなかったかも」みたいなこと。末に記した目次一覧を見てください。たとえば、【交響曲にはなぜ複数の楽章があるのか?】【オペラとオペレッタは違う!】【対位法の難しさ】【名演とは何か】【オーケストラになぜ指揮者がいるのか】(目次より)などなど。なんか興味もってきましたか? もし、気になってきた!という人は、おそらく潜在的に自分のなかでも疑問くすぶっていたことかもしれませんね。

そして、僕は。

クラシック音楽を好きになること。このことについて、わかりやすく語られている本の導入部【はじめに】項、惹きつけるには十分なほどです。「趣味を極める」ー「膨大な手間・時間がかかる」ー「探究心や根気」ー「要領がわかる」。クラシック音楽にかぎらず、多くの趣味において、この一連の工程は同じかもしれません。知らない広大なフィールドに立ち、さてどこへ向かえばいいのか?どっちの方角をめざす?目的地までの順序・通過点は?絶対に立ち寄らないといけない場所は?。打算的な近道はないからこそ、”かけただけ”の到達点や感動、手に入れたものがそこにある。振り返ったら出発点の自分が遠くほほえましい、たしかにあの場所とはちがう変化した自分が、いる。

本より【はじめに】をご紹介します。

 

 

はじめに

「趣味を極める」という言い方がある。その代表的な対象はといえば、例えばワイン(あるいは日本酒)、蘭の栽培、切手やコインや美術の蒐集(しゅうしゅう)などだろうか。これらに共通するのはコレクション性の高さ(多様さ)、そして「極める」には膨大な手間暇がかかるという点だろう。蒐集自体に半端ではない時間がいるということ。だが単に集めるだけではだめで、集めてものを丁寧に自分なりに整理する必要があるということ。集めるにあたっては、それなりの一貫性、つまり「趣味=センス」が問われるということ。そしてそのためには、対象についての相当に深い知識が必要だということ。何をどう集めるかを通して、その人の見識のみならず、自ずと人となりが滲み出てくるということ。「趣味を極める」には「暇(とお金)」があるだけではだめで、相応の「手間」、すなわち探究心と根気のようなものが必須なのである。音楽を美術品のような意味で蒐集所有することは出来ないにせよ、自分の記憶の中に整理棚のようなものを作って、そこに自分がこれまでに聴いたものをあれこれ並べて、自分だけの空想の博物館を一生かけて構想していく楽しみは変わるまい。もちろん「聴いてその時に楽しければいい音楽」というものもあるし、こうした消費的な音楽がもつ「束の間の喜び」を否定する気はない。だが他方、一種のコレクション性を暗黙裡にもとめている音楽ジャンルもあるわけで、クラシックはジャズと並んでその代表格だと言っていいだろう。

今日のわたしたちにとって、「趣味を極める」ための悠長で贅沢な時間を見つけることは、加速度的に難しくなっている。こうも日常が何かに急き立てられるような息苦しいものになってくると、難しいことは言わずとも、単なる「気晴らし=リクリエーション」であればそれでいいという気にもなってくる。しかしリクリエーションと趣味とは、似て非なるものだということを忘れたくはない。リクリエーションとは実は、明日の労働のために必要な気力体力を再び回復=リ・クリエーションするための時間なのであって、その意味では労働サイクルの一部なのだ。労働する者はきちんと余暇に「気晴らし」ないし「憂さ晴らし」をしておいて、明日に備える義務があるのである。

そこに行くとクラシック音楽は、幸か不幸か、リ・クリエーションにはまったく向いていない。そもそもそれはもっと時間がゆったり流れていた時代に作られた音楽であって、クラシック音楽の多くが時間をかけすぎるくらいかけて悠然と流れていくのは、そのせいだ。しかも音楽自体が長いというだけではない。それを存分に味わうには、なんだかんだと知識が必要ときている。作曲家の名前、作品の名前、作られた時代とその背景等々──ただ受け身で響きに身を任せるというわけにはいかない。聴く側が能動的になる必要がある。音楽を集中して聴き、それについて積極的に勉強する探究心がいる。「敷居が高い」という印象をクラシックが与えるとすれば、それはこのせいだ。聴いてすぐ楽しめるというわけにはいかないのである。本当はいったんある程度の要領さえわかれば、こんなに面白い音楽ジャンルはそうないのだが。

「要領がわかる」──どんな趣味でもそうかもしれないが、クラシック音楽の敷居をまたぐとき一番難しいのはこれだ。つまりジャンルに既になじんでいる人々にとっては今さら説明の必要もないのだが、しかし部外者にとってはどうにも要領を得ない、そういう死角のようなものが色々とあるのである。本文中でも書いたが、例えば私自身かつて、どうしてクラシックの交響曲だのピアノ・ソナタだのには「楽章」などというものがあるのか、よくわからなかった。一つの曲(例えば「ベートーヴェンの交響曲第五番」など)のはずなのに、どうしてそれが四つの曲(楽章)から出来ているのか。おまけにその「四つの曲」を、どうして第一楽章の次は第二楽章、その次は第三楽章という具合に、順番通りに聴かなければいけないのか。ジャンル通にとっては自明すぎるがゆえに、逆に口に出して自覚的に説明することが難しく、そして門外漢はまさにそこが要領を得ないせいで、いつまでたってもジャンルの中に入っていけない、そして門外漢が「どうして?」と問うても、通の側からすれば「だって当たり前でしょ」ということになってしまう──「死角」とはそういうものである

本書で私は、外から見た時のクラシック音楽のこうした死角を、色々と考えてみた。自分にとってはあまりに自明なことを、人はなかなか自覚できない。ましてその根拠を説明することはとても難しい。だが何かの本質とは実は、まさにこの死角においてこそ、最も端的な形であらわれてくる。その意味で本書は、「一体クラシック音楽とは何なのか」という難問に対する、私なりの答えの模索の試みでもある。

(クラシック音楽とは何か 「はじめに」項 より)

 

 

さて、この【はじめに】項で投げられた疑問は、本を読みすすめるなかでひとつひとつ丁寧にほどかれていきます。たとえば【交響曲にはなぜ複数の楽章があるのか?】項では。

 

~中略~

今にして思えば、当時の私は歌謡曲のアルバムを聴くような感覚で、交響曲を聴こうとしていたのだろう。いわばコース料理と単品の違いがわかっていたなかったのだ。ショパンの《英雄ポロネーズ》とか、シベリウスの《フィンランディア》とか、グノーの《アヴェ・マリア》といった曲は「単品」である。単独で聴くものである。それに対して通常四つの楽章を持つ交響曲はコース料理だ。そしてかつての私は、順番に出てくるスープやサラダやメインやデザートを見て、「どうしてこの順番で、しかも全部食べなければいけないんだ? 今日は別にスープはいらないんだけど……どうせならサラダもなしで、メインを二種類だけ注文して終わりにしたいんだけど……」などと考えていたわけだ。だがこれは勘違いも甚だしいわけで、「絶対にこの順番通りに、通しで最初から終わりまで聴いてもらわないと困る」と考えて、作曲家は交響曲を作っているのである。

「コースと単品」の代わりに「短編小説と長編小説」、あるいは「寸劇と四幕の悲劇」などという比喩を出してもいいであろう。シェークスピアの『マクベス』の各幕を、あるいはトーマス・マンの『魔の山』の各章を、順番をばらばらにして読むとか、好きな章だけ読んで、他のところは眼を通さないなどということはありえない。じっくり最初から丁寧に読んでいかないと、すぐに筋がこんがらがってくる。登場人物の誰が誰か分からなくなってくる。だから長編小説は寸劇や短編小説よりもはるかに読むのに根気がいる。だがじっくり時間をかけてこそ初めて味わえる感動の深さというものが、そこにはある。だからこそ数々の偉大な作曲家たちは、交響曲をあらゆるジャンルの金字塔と考えた。

~中略~

(クラシック音楽とは何か「交響曲にはなぜ複数の楽章があるのか?」項 より一部抜粋)

 

 

以下、交響曲の「定番コース」としてのソナタ形式について、作曲家・時代ごとの違いや変遷についてふれられていきます。料理や物語といった日常からの例えはとてもわかりやすく、すっと入ってきますね。映画や小説を一通り見たうえで、この場面が好き・この章を何回も読んでしまうはあるとして、最初からピンポイントにそこしか知らない、はたしかに作品の魅力をもったいない形でしか受け取れていないのかもしれない。極端な話、ガマンしてでも一回は始めから終わりまで通して聴いてみる。映画は2時間、小説なら数日から数週間じっくりかかることも、クラシック交響曲は1時間。楽章ごとに間隔をあけて聴いたとしても、立派な時間的価値があると思います。

もし!もし、映画『魔女の宅急便』を好きだと言っている人がいて、「飛行船から落ちそうなトンボをキキが助けるシーンは最高だよね、そこしか知らないけど、超感動する。」なんて言われてしまったら。「ちょっと待って!たしかにそこはクライマックスだけど、でもその感動へ向かう紆余曲折、物語がちゃんとあるんだよ。そこだけであの映画が好きというのはちょっとザンネンというか、もったいないよ。」って、すごくシンプルですね。

 

 

当サイトでは、「クラシックプレミアム」全50巻、毎号レビューを記していました。久石譲エッセイを抜粋紹介することがメインです。そのなかで、「キーワードでたどる西洋古典音楽史」エッセイ(「クラシック音楽とは何か/岡田暁生 著」として書籍化)、とても面白く興味深かったとき併せて紹介していたものもあります。

本の目次からどこにあたるのかを整理したので、ぜひ本の全貌を知る、本を手にとるきっかけになったらうれしいです。紹介している文章はエッセイから抜粋した一部分です。

 

Blog. 「クラシック プレミアム 5 ~ヴィヴァルディ / ヘンデル~」(CDマガジン) レビュー

→【交響曲はクラシックのメインディッシュ】

Blog. 「クラシック プレミアム 7 ~チャイコフスキー1~」(CDマガジン) レビュー

→【交響曲にはなぜ複数の楽章があるのか?】

Blog. 「クラシック プレミアム 12 ~モーツァルト3~」(CDマガジン) レビュー

→【バッハはお好き?】

Blog. 「クラシック プレミアム 13 ~ブラームス1~」(CDマガジン) レビュー

→【対位法の難しさ】

Blog. 「クラシック プレミアム 23 ~グリーグ / シベリウス~」(CDマガジン) レビュー

→【名演とはなにか】

Blog. 「クラシック プレミアム 24 ~ベートーヴェン5~」(CDマガジン) レビュー

→【名演とはなにか】

Blog. 「クラシック プレミアム 28 ~ピアノ名曲集~」(CDマガジン) レビュー

→【オーケストラになぜ指揮者がいるのか】

Blog. 「クラシック プレミアム 29 ~ブラームス2~」(CDマガジン) レビュー

→【オーケストラになぜ指揮者がいるのか】

Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 46 ~ショスタコーヴィチ~」(CDマガジン) レビュー

→【即興演奏再考】

Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 47 ~ハイドン~」(CDマガジン) レビュー

→【即興演奏再考】

Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 48 ~新ウィーン楽派の音楽~」(CDマガジン) レビュー

→【音楽の終わり方】

 

クラシック音楽とは何か/岡田暁生・著 (小学館)

目次

はじめに
「クラシック」音楽の黄金時代は一九世紀
音楽史の流れ──ウィーン古典派まで
ロマン派は自己表現する
「現代音楽」と二〇世紀
交響曲はクラシックのメインディッシュ
交響曲は一九世紀の頑張りソング?
交響曲にはなぜ複数の楽章があるのか?
オペラは「クラシック」じゃない?
サロンの物憂いプレイボーイたちの音楽
家庭音楽とドイツ教養市民
オペラとオペレッタは違う!
バッハはお好き?
対位法の難しさ
バロック音楽の楽しみ方
モーツァルトの凄さとさりげなさ
モーツァルトとベートーヴェンの違いについて
「後期ベートーヴェン」というスフィンクス
シューベルトと病み衰える快楽
うんざりするほど長い音楽について
宗教音楽について
ワケのワカラナイ音楽について
名演とは何か
演奏のよしあしはどうすればわかる?
アンチ・エイジング時代の演奏家たち
古楽演奏とは何か
オーケストラになぜ指揮者がいるのか
オペラの客いろいろ
音楽と旅
ヨーロッパ音楽都市案内──ナポリ
ヨーロッパ音楽都市案内──ヴェネツィア
ヨーロッパ音楽都市案内──ウィーンのただならぬ場所
ヨーロッパ音楽都市案内──ザクセンの音楽
ヨーロッパ音楽都市案内──バイエルンの音楽
ヨーロッパ音楽都市案内──一九世紀の首都パリ
故郷の歌
クラシック音楽の現代性を考えてみる
私見──音楽史で最も偉大な作曲家
一九七〇~九〇年──クラシック演奏の転換点?
即興演奏再考
音楽の終わり方

 

*本書は、小学館発行『クラシックプレミアム』誌に平成26年1月から平成27年11月まで連載された記事に加筆して構成したものです。

 

 

もちろん各レビューには、久石譲エッセイの紹介もあります(こちらがメイン)。ふと読み返しても濃密な音楽講義だなあと思うのですが、飛び飛びで読んでこんがらがるよりも、コンプリートされている書籍をじっくり読むことをおすすめします。クラシック音楽寄りな久石譲の音楽活動がじっくり堪能できます。

 

目次は

 

 

久石譲著書からクラシック音楽を攻めるか、「クラシック音楽とは何か/岡田暁生・著」からクラシック音楽を攻めるか。この二冊からだけでも得られる音楽体験は大きなものがあります。

僕は、2年間の「クラシックプレミアム」を通して、なにがわかったのか、どう自分のなかで体系的に整理できたのか。これからクラシック音楽を少しでも豊かに楽しみ「趣味を極める」ための「要領がわかった」入り口部分。

”クラシック音楽の洗礼”と題して、【指揮者、演奏者、録音時代、録音環境、年版/改訂版、編曲版、補筆版、スコア版、楽器時代、楽器配置、録音場所、録音技術、周波数】という13の切り口とものさし。これらの条件を照らし合わせながら好みの演奏盤を探していく。誰にでも経験あることと思いますが、興味をもった作品を聴いてみたけど全くフィットしなかった。そして、巡り巡ってある日聴いた別の演奏では、驚くほどすこぶるフィットしてきた。第一印象がよくなかったあまりに、作品の良さを理解できぬまま遠のいてしまっていたもの。もし探すとっかかりがあれば、もっと素敵で運命的な出会いが待っているのかもしれない。

このクラシック音楽の宇宙のなかから、自分のお気に入りの愛聴盤を探す難しさ。そこから導き出されたもうひとつの面は、《久石譲(作曲)の、久石譲による(指揮・演奏)、久石譲による(録音・パッケージ化)》という、当たり前のことすぎて素通りしそうなことへの、決して当たり前ではない感謝!そういったことをたっぷりと書いていたように思います。

 

 

 

もっと直感的にクラシック音楽に入っていきたい、そういう久石譲ファンには。これまで著書やインタビューで語られてきた登場してきたクラシック作品、久石譲も聴き親しんできたクラシック演奏盤。このあたりから扉をたたいてみるのもいいですね。

 

 

もうひと押し!

そう言うならば、久石さんがこれまでに演奏会で指揮したクラシック作品。

 

  • ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲第2番 ワルツ
  • ラヴェル:ボレロ
  • ワーグナー:楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」序曲
  • ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」より ワルキューレの騎行
  • バーバー:弦楽のためのアダージョ op.11
  • ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調「運命」 op.67
  • チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64
  • シューベルト:交響曲第7番 ロ短調 D.759「未完成」
  • ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 op.95「新世界より」
  • ホルスト:組曲「惑星」
  • ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」
  • モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550
  • ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 op.68
  • ロッシーニ:歌劇「ウィリアム・テル」序曲
  • チャイコフスキー:バレエ組曲 「くるみ割り人形」 より
  • ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
  • プロコフィエフ:「ロメオとジュリエット」組曲第2番より
  • プロコフィエフ :ピーターと狼
  • ガーシュイン:ラプソディ・イン・ブルー
  • ガーシュイン:パリのアメリカ人
  • ヴィヴァルディ:ラ・フォリア〜ヴィヴァルディの主題による変奏曲
  • シベリウス:フィンランディア
  • グリーグ:組曲「ペール・ギュント」より抜粋
  • サン=サーンス:動物の謝肉祭
  • ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 作品92
  • ドビュッシー(ビュッセル編):小組曲
  • ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調
  • ムソルグスキー(ラヴェル編):「展覧会の絵」
  • ヴェルディ:歌劇『運命の力』より「序曲」「神よ、平和を与えたまえ」
  • ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲」「愛の死」
  • マスカーニ:歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』より「間奏曲」
  • プッチーニ:歌劇『蝶々夫人』より「序曲」「ある晴れた日に」
  • プッチーニ:歌劇『ジャンニ・スキッキ』より「私のお父さん」
  • マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調
  • ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
  • ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ニ短調 作品47
  • シューマン:チェロ協奏曲
  • ブラームス:交響曲第4番 変ホ短調 作品98
  • ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲
  • レスピーギ:交響詩「ローマの松」
  • ガーシュイン:キューバ序曲
  • ブラームス:大学祝典序曲 作品80
  • ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 作品73
  • ブラームス:ハンガリー舞曲第1番
  • ハチャトゥリアン:仮面舞踏会よりワルツ
  • ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90
  • ブラームス:ハンガリー舞曲第5番
  • ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」
  • ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
  • ペンデレツキ:広島の犠牲者に捧げる哀歌
  • チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 op.74 「悲愴」
  • チャイコフスキー:バレエ音楽「眠れる森の美女」作品66より 第1幕 <ワルツ>
  • ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調「英雄」作品55
  • ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲
  • シェーンベルク:浄められた夜 op.4 (弦楽合奏版)
  • ペルト:交響曲第3番
  • ペルト:スンマ、弦楽オーケストラのための
  • カール・オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」
  • ドヴォルザーク:交響曲第8番 ト短調 作品88
  • ドヴォルザーク:スラブ舞曲第2番 ホ短調 作品72
  • ヘンリク・グレツキ:あるポルカのための小レクイエム 作品66
  • ベートーヴェン:交響曲第1番 ハ長調 作品21
  • ベートーヴェン:交響曲第2番 ニ長調 作品36
  • シェーンベルク:室内交響曲第1番
  • ベートーヴェン:交響曲第4番 変ロ長調 作品60
  • ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 op.104
  • ベートーヴェン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68 「田園」
  • ベートーヴェン:交響曲第8番 ヘ長調 作品93
  • ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調 作品93
  • マーラー:交響曲第1番

ほか

*順不同

(2019.11現在)

 

これでもすべては挙げられなかったのですが、たくさんありますね。並べてみて、改めていろいろな作品を指揮していることがわかります。こんなにあるんだぁ…と思うのか、こんなにたくさんのきっかけがある!ここからクラシック音楽をピックアップして楽しんでみようかな! あなたはどちらですか?

僕は、《クラシック音楽という趣味を極めたい》んじゃないんです。《音楽という極めたい趣味のなかにクラシック音楽もある》、それだけです。そしてとても大切な一部分です。久石譲音楽をもっと豊かに楽しむために跳ね返ってくるものがある。

 

それではまた。

 

reverb.
今年の新しい出会いのひとつは「シューベルト:交響曲第5番」でしたー♪

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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Overtone.第24回 「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2019」コンサート・レポート by ふじかさん

Posted on 2019/08/13

ふらいすとーんです。

8月1日静岡を皮切りに国内8公演で開催された「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2019」コンサートツアー。各会場ともにスタンディングオベーションの大盛況!

今回ご紹介するのは、久石譲ファンの一人、ふじかさんのコンサート・レポートです。初日公演、まさに世界初演幕開けの瞬間、とても臨場感あふれる詳細レポートです。

 

 

昨年に引き続き、WDO2019静岡公演の模様をレポートさせて頂きます。

2019年8月1日 静岡市民文化会館 18:30開演

ここ数年での久石さんと新日本フィルによるWDOツアー、静岡市内では初めての開催となりました。

早速会場に入ると、楽団の方がステージで練習をしており、いつものオーケストラの楽器はもちろん、今回はオカリナの音色も聴こえました。

開演時間を過ぎると楽団の全員がステージに集結し、チューニングが終わると束の間静寂。その後割れんばかりの拍手の中、笑顔の久石さんが登場しました。

 

組曲「World Dreams」
ⅰ.World Dreams
例年のコンサートだとアンコールでの演奏機会が多かった一楽章の「World Dreams」ですが、今回は1曲目。組曲化ということでしたが、この楽曲に関しては大きな変更等はなかったと思います。いつもよりメロディの抑揚が感じられ、最初からグッと心を掴まれてしまいました。

ⅱ.Driving to Future
某企業への書き下ろし曲がまさかの組曲の構成曲になるとは思いませんでした。楽曲自体も初めて聴くことなりました。マリンバの刻みに合わせて、メロディのような持続音のような音がチェロから紡ぎだされ、その後弦全体へと広がっていきました。ミニマルとメロディの融合を目指したようなこの楽曲は、近年の『二ノ国Ⅱ』や『海獣の子供』でも実践しており、今の久石さんを凝縮したような作品に仕上がっていました。

Ⅲ.Diary
皇室日記のテーマ曲へと書き下ろされたこの楽曲も組曲への衝撃参入でした。「ラーレー、レーミラー」とゆったりと奏でられるメロディは厳かな雰囲気もありつつ、一楽章と似た要素もあり三楽章にピッタリな楽曲となりました。中盤では一楽章を連想させるようなシーンもあり、終盤ではチューブラーベルズも響きわたり、組曲としての統一性も感じられました。

トータルで聴いてみると、この組曲は2016年WDOのテーマ「再生」の延長線上にある印象を受けました。「再生」から「希望・夢・日常」へ。今回がWDO二期の〆とパンフレットに書いてありましたが、テーマも集結へ向かった気がしました。

 

ad Universum
プラネタリウムの為に書き下ろされた楽曲達が再構成されて、コンサートで披露されました。ミニマルミュージックを軸に構成されており、反復で表現されていく様子はまさしく音のプラネタリウムでした。8曲から構成され、プラネタリウムで使用された楽曲はほとんど使用されていたのはないでしょうか? 絶え間なく演奏され、1曲ずつの感想は書けませんが、印象に残ったことを書いていきます。

冒頭(1.Voyage)では、ゆったりとしたストリングの調べから、突如マリンバのソロが入ります。そこから繰り広げられていくミニマルの刻み。『D.E.A.D』組曲の三楽章『死の巡礼』のように迫りくるリズムが続きます。

2.Beyond the Airでは『The East Land Symphony』の二楽章『Air』のような浮遊する雰囲気を感じられます。全体としてメロディの要素は少ないですが、途中で現れる「ラレド♯ー」のような特徴的なメロディの欠片からは流れ星の煌めきを連想させます。低音から高音へ、波の揺らぎのような部分からは『Deep Ocean』のような雰囲気も。

終盤(8.ad Terra)からは大迫力のミニマルワールド。ひたすら繰り返されるリズムの刻みに終始圧倒されました。大迫力のフィナーレのあと、マリンバのソロで静かに終わるのが印象的でした。

 

ここで前半終了です。

通常だと舞台替えでピアノがステージ中央に設置されますが、今回は設置されませんでした。

 

[Woman] for Piano, Harp, Percussion and Strings
今回のストリングスとピアノのコーナーは久石さんは指揮に専念する形となりました。2008年のツアー以来演奏されて来なかった『Another Piano Stories』の楽曲がドレスアップして披露されました。ピアノパートの高橋ドレミさんが力強い演奏をしておりました。

Woman
レリアンのCM曲で、軽やかなリズムと優雅なメロディが特徴的な1曲。弦の伴奏に合わせて、ピアノから紡がれるメロディが聴いていてとても心地よかったです。演奏終了後、拍手が途切れてしまって、久石さんが客席に拍手をあおる場面も笑

Ponyo on the Cliff by the Sea
『崖の上のポニョ』のメインテーマで、公開から10年以上もたちますが、久石さんのポニョマジックは健在でした。ピアノがポニョのテーマを奏でるとともに、会場からはクスクスと笑い声が。非常にキャッチ-なメロディのこの楽曲ですが、演奏風景を見ていると伴奏隊は非常に複雑な動きをしているのを改めて実感しました。

Les Aventuriers
5拍子が特徴的で、スリリングなカッコよさがあるこの楽曲はファンの中でも人気曲なのでしょうか? マリンバが5拍子の刻みに輪郭をハッキリとして、近年の久石さんの表現の仕方と相まって、非常にキレのあるかっこいい演奏に進化していました。終盤にはピアノのグリッサンドも追加され、ズチャッという最後の〆も進化していました。

 

ここで再度舞台替えがあり、ピアノが指揮台横に設置され、マンドリンとアコーディオン用の音の返しスピーカーも設置されました。

 

Kiki’s Delivery Service Suite
宮崎駿監督作品の交響組曲化の第五弾は魔女の宅急便。

構成曲は
1.晴れた日に…
2.海の見える街
3.パン屋の手伝い
4.仕事はじめ
5.身代わりジジ
6.ジェフ
7.大忙しのキキ
8.パーティーに間に合わない
9.プロペラ自転車
10.とべない!~傷心のキキ
11.神秘なる絵
12.暴飛行の自由の冒険号
13.おじいさんのデッキブラシ
14.デッキブラシでランデブー
15.かあさんのほうき

会場でメモ書きしながら聴きましたが、抜けている可能性もあります…

全体的にヨーロピアンテイストを感じられる楽曲が多い作品で、サントラの雰囲気はそのままに壮大なシンフォニーに生まれ変わっていました。マンドリン、アコーディオン奏者も加わり、よりサントラの世界観に沿った形となりました。

1.晴れた日に…での「ファー、ソー、ラー♭」と一気にオケの音色が花開くところは圧倒されてしまいました。

2.海の見える街では、コンサートでの定番となっている『Kiki’s Delivery Service 2018』等でのアレンジがあまり継承されずに、サントラに沿った形になっていました。そのため後半のスパニッシュワルツのパートは若干短くなっていました。

5.身代わりジジでは、クラリネット、トロンボーン、トランペットのソロ奏者が立ち上がって演奏する場面も。

9.プロペラ自転車では、シンセサイザーメインの楽曲が見事にオーケストレーションされ、まったく違和感なく構成されていました。

10.傷心のキキでは、アコーディオンがキキの心を表現するようにしっとりと演奏されているのが印象的です。

11.神秘なる絵ではシンセの部分にオカリナが登場し、柔らかい音色が会場を温かく包み込みます。

13.おじいさんのデッキブラシは、オケの力強い迫力がピッタリの楽曲。映画終盤でのスリリングなシーンを彷彿とさせてくれました。

15.かあさんのほうきでは、久石さんもピアノ演奏も加わり、豊嶋さんの美しいヴァイオリンソロが会場を包み込みました。アレンジとしては武道館で披露されてものが近く、組曲の最後にふさわしい極上の仕上がりでした。

 

拍手喝采のなか、アンコールへと進みます。

 

il Porco Rosso (Pf.solo)
演奏前に久石さんが、さあ弾こうか!という感じでピアノに向かったのが印象的でした。今回は久石さんによるピアノ演奏が少ないコンサートでしたが、まさかのアンコールでたっぷり堪能できました。しかも今回は国内では初披露となるil Porco Rossoのピアノソロバージョン。左足でリズムを刻みながら、ジャジーな演奏に終始うっとりしてしまいました。

この演奏が終わると、数名が久石さんに花束を渡すシーンも伊右衛門を渡され、会場に笑いが起きる場面も。

Merry-Go-Round
コンサート最後の曲は、ハープから始まる人生のメリーゴーランド、長野チェンバーオーケストラの演奏会でのアンコールとして披露されていたアレンジがWDOでも組み込まれました。終盤の転調後は、オーケストラの迫力に会場も圧倒されて、会場も熱気で包まれました。

 

演奏終了後、割れんばかり拍手の中、次々と観客が立ち上がり、スタンディングオベーションに!楽団のみなさんも帰りはじめても鳴りやまない拍手と声援に久石さんも何度もステージに登場していました。

初日の静岡公演、最高潮の熱気のまま幕を閉じました。

今回のレポートは以上です。

会場での雰囲気を少しでも感じ取ってもらえれば幸いです! 

 

ふじか

 

後日談) by ふじかさん

後日プラネタリウムをまた見ますので、楽曲聴いて改めて加筆あるかもしれないです。

 

 

8月1日 静岡公演風景

from 久石譲コンサート 2019-2020 公式ツイッター
https://twitter.com/joehisaishi2019

 

 

「行った人の数だけ、感想があり感動がある」。会場ごとにプログラムはもちろん、演奏や雰囲気も違う。公演を重ねるごとに修正やバージョンアップをくり返して磨きをかけていく。そう、CDのように全く同じ演奏ってないんですよね。

初日公演だからこその緊張感や集中力ってきっとあります。そんなところ気づかなかった、なるほどそういう見方もあるよなあ、そこが印象的だったんだ。自分にはなかった新しい発見があってうれしいです。そしていつもふじかさんのレポートや着眼点はとても具体的!

ふじかさんとは2018年7月にツイッターでつながりました。全国各地の久石譲ファンとSNSをとおしてつながれる。それをきっかけにコンサート会場でお会いすることもできました。いい時代です。

2年連続のコンサートレポート、ほんとうにありがとうございます!

 

 

 

 

reverb.
コンサートのときは、拍手のメモの交互に忙しいです(^^;)

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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