Overtone.第87回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.7

Posted on 2022/12/20

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.7です。

今回題材にするのは『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事/村上春樹』(2017)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

今回題材にするのは『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事/村上春樹』(2017)です。

”同時代作家を日本に紹介し、古典を訳し直す。音楽にまつわる文章を翻訳し、アンソロジーを編む。フィッツジェラルド、カーヴァー、カポーティ、サリンジャー、チャンドラー。小説、詩、ノンフィクション、絵本、訳詞集…。1981年刊行の『マイ・ロスト・シティー』を皮切りに、訳書の総数七十余点。小説執筆のかたわら、多大な時間を割いてきた訳業の全貌を明らかにする。”

(BOOKデータベースより)

 

これまでに翻訳してきた本のカタログのような、一冊ごとに1,2ページ、翻訳した当時を回想するように軽いタッチのエッセイとしても楽しめます。本書から興味をもって読んでみた本もたくさんあります。取り上げたいのは、まえがき項と、柴田元幸さんとの対談項からです。

 

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

”もうひとつ重要なことは、これまでの人生において、僕には小説の師もいなければ、文学仲間みたいなものもいなかったということだ。だから自分一人で、独力で小説の書き方を身につけてこなくてはならなかった。自分なりの文体を、ほとんどゼロから作り上げてこなくてはならなかった。そして結果的に(あくまで結果的にだが)、優れたテキストを翻訳することが僕にとっての「文章修行」というか、「文学行脚」の意味あいを帯びることになった。翻訳の作業を通して、僕は文章の書き方を学び、小説の書き方を学んでいった。いろんな作家の文章・物語という「靴」に自分の足を実際に突っ込んでみることによって、自分自身の小説世界を立ち上げ、それを自分なりに少しずつ深め、広げていくことができた。そういう意味では翻訳を通して巡り会った様々な作家たちこそが僕の小説の師であり、文学仲間であった。もし翻訳というものをやってこなかったら、僕の書いている小説は(もし書いていたとしても)、今とはずいぶん違った形のものになっていたはずだ。”

~(中略)~

⇒⇒
久石譲も、クラシック音楽から学べることはたくさんある、とよく語っています。ここで最も注目したいのは最後の文章です。”もし翻訳というものをやってこなかったら~”、これは久石譲音楽にも言えることだと思います。「もし指揮というものをやってこなかったら、僕の書いている曲は、今とはずいぶん違った形のものになっていたはずだ」、ファンとしてもそう感じるところありますね。クラシック音楽や同時代作家の作品を指揮することで、久石譲音楽は一構えも二構えも広く深くなってきたことは、ひしひしと感じるところです。

まあ、それを良しと思っていない人もいるかもしれません…。端的にいえば、久石譲らしくなくなったと。でも、それは本当にそうでしょうか…。何かに強く影響を受けるということは、これまでのオリジナリティや武器を強烈に覆い隠してしまうこともあります。取り入れたいものとすでにある持ち味が作品のなかで戦っている。それに潰されてしまうか、一皮むけて突き抜けるか。久石さんは間違いなく後者でしょう。近年の交響曲や室内楽のどれかひとつでもどれか一楽章でも好きなものがあるなら。それは指揮活動なくして生まれなかったものです。ちゃんとそこに久石らしさを感じるから好きになる。その数やバランスは変わってきたかもしれませんが、まあ、衰えを感じさせるどころか突っ走っているほどの久石さん…すごいことだと思います。

 

 

”そういう風に自分の創作と、翻訳の仕事とを、長期にわたって交互にやってこられたのは、僕の精神性にとっておそらく健全なことだったんだろうなと推測する。自由に好きにやれることと、制約の中でベストを尽くさなくてはならないこと。どちらか一方だけの人生だったら、やはりちょっと疲れていたかもなと思わなくもない。そういう意味ではたしかに恵まれていたと思う。”

~(中略)~

⇒⇒
村上春樹は、これまでに70冊以上の翻訳をしています。久石譲は、これまでに70作品以上のクラシック音楽を指揮しています(ちゃんと調べました)。「自作と古典を並列してプログラムすることは大変だ」と語るとおり、優れた作品を指揮することは、次の創作活動へ向かわせる原動力にもなっているように思います。

いろいろなフィールドでその作家性を多面的に発揮できる人はいますね。器用だとも思うし、そうすることで創作活動のバランスをとっている。そんなマルチさのなかでも明らかに村上春樹と久石譲には違うところがある。やれるからやっているではなく目的がはっきりしている。おそらく長編小説のため(その長い構想期間も含めて)に翻訳をしているだろうし、久石譲もまたはっきりと「作曲のために指揮している」と言っています。すべての多面的な活動が、自らの主軸に集約されるようになっている。アウトプットのためのインプットといったところでしょうか。

 

 

”ときどき「おまえの書く小説はあまり好きではないが、おまえの翻訳はなかなか悪くない」とおっしゃってくれる方もいて(もちろんもう少し婉曲な言い方ではあるけれど)、それはそれで僕としては嬉しく思う。何も褒められないよりは、少しでも何かを褒められた方がもちろんいいということもあるけれど、そこには、「僕は僕なりに何かをかたちにして残してくることができたんだな」という達成感のようなものがあるからだ。もちろん自分自身の小説だって、かたちとしてはいちおう残されているわけだが、翻訳書の場合はそれとはまた少し違った種類の「かたち感」なのだ。あるいはそれは「貢献」に近いものなのかもしれない。自分の創作の場合は、そういう「貢献」という感触はまず持てないから(そこで持てる感触はもっとべつのものだ)。”

~(中略)~

⇒⇒
作家ってそんな感覚をもつものなんだと新鮮でした。とすると、久石譲が指揮することもまた音楽文化への「貢献」であり「何かをかたちにして残してくることができ」ていると同じになりますね。音楽を未来へつなげたいとは、つまるところ演奏しつづけることです。録音やパッケージとしての有無は別として。読まれているから本はのこるし、聴かれているから音楽はのこる。のこるからこそ未来の人も触れることができる。

最初の文章を置き換えて、「おまえの書く音楽はあまり好きではないが、おまえの指揮はなかなか悪くない」、ああ、そんなこと思う人いるのかな?いるのかもな?あまり考えたことなかったです。でも、これからますます久石さんの指揮活動が充実するごとに、「久石譲の音楽はほとんど聴かないけど、久石譲の指揮するベートーヴェンはなかなかいいよ」そんなリスナーも出てくるのかもしれませんね。いやあ、嬉しいような悲しいような。すごいことだと思う。

 

 

”ここにこうして集めた僕の翻訳書を順番に眺めてみると、「ああ、こういう本によって、こうして自分というものが形づくられてきたんだな」と実感することになる。ただただ自分の楽しみのために訳した本もあれば、「よし、今回はこれに挑戦してやろう」と意を決して、腹を括って作業に臨んだ本もある。いずれにせよ、それらの本によって僕は形づくられてきたのだ。いつも言うことだけれど、翻訳というのは一語一語を手で拾い上げていく「究極の精読」なのだ。そういう地道で丁寧な手作業が、そのように費やされた時間が、人に影響を及ぼさずにいられるわけはない。”

~(中略)~

⇒⇒
文章そのまま本を音楽に置き換えてみると、ぐっと伝わってきますね。僕は最近ふと思うんですけれど、受けた影響もまるっと含めてその人のオリジナリティなんじゃないか、そんなことを思ったりします。ここは先人の影響を受けていて、ここはこの人のオリジナル性の部分で、って作品のなかで切り分けることなんてできません。もっというと、誰に影響を受けてきたかでその人のオリジナル性も変わってきます。だから、うまく言えないけれど、ミニマル・ミュージックに影響を受けていない久石譲やベートーヴェンに影響を受けていない久石譲は、今僕らが聴いている久石譲音楽じゃない、それははっきりわかります。だとしたら、オリジナリティってその人が形づくられた影響すべてひっくるめて…その人が触れてきた好きの蓄積からオリジナリティはもう始まっていて…うまく言えないからまたいつか出直したい次第、です。

 

 

”いつも言うんだけど、翻訳するというのは、なにはともあれ、「究極の熟読」なんですよ。写経するのと同じで、書かれているひとつひとつの言葉をいちいちぜんぶ引き写しているわけです。それも横のものを縦にしている。これはね、本当にいい勉強になります。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られていることで同旨あります。

 

 

”「このメス犬」とか、「売女」とか、ああいうのはかんべんしてくれよなって思いますよね(笑)。でも最近、”bitch”は「ビッチ」である程度いけるようになってきました。「ファック」もだいたいそのままいける。これは翻訳者としてはすごくありがたいことです。社会的にみればあまり褒められたことじゃないのかもしれないけど(笑)。最近は「マザーファッカー」も、僕はそのままにしちゃってることが多いですね。「クール」もそのまま使えるシチュエーションが増えてきて、なかなか便利になりました。

古い翻訳書を読んでいて、「イカしてる」なんて書いてあると、なんなんだと思うものね。「すかしてやがるぜ」とかさ。ですから、僕が翻訳する場合にも、早く古びそうな言葉はできるだけ使わないというのが、けっこう大事なことになります。「これはあとまで残るかな? それともそのうちに消えちゃうかな?」というぎりぎりの境界線上の言葉や表現もあって、このへんの判断はなかなか難しいですね。結局は翻訳者のセンスの問題になります。英語がすごくできる人でも、必ずしも良い翻訳者になれないというのは、そういう部分があるからでしょうね。”

~(中略)~

⇒⇒
村上春樹が語る「翻訳には賞味期限がある」、これについてもPart.1-6のなかに同旨あります。また異なる具体例を挙げていたりしておもしろいです。

 

 

”僕もあの作品はちょっと苦手です。サリンジャーの短篇は、良いものはすごく良いけど、ばらつきも激しいから。でもね、最近では電子ブックの短篇集ばら売りみたいなこともやっているでしょう。あれはどうかなと僕は思うんです。やはり短篇集というのは、中にすごい作品もあり、それほどすごくない作品もありで、そうやって総合的に成り立っているものだと思うんです。そういう成り立ちはやはり大事にしていかなくちゃならないんじゃないかと。レコードの場合もそうだけど、最初はつまらないと思っていたトラックが、あとになってだんだん気に入ってきたり、みたいなことはありますよね。”

~(中略)~

⇒⇒
音楽についても、アルバムというパッケージについても、強く同じことが言えると思います。少なくとも、好きなアーティストなら単曲で買うのはもったいないかなと思います。あなたの好きは単曲程度なの?!ってね。冗談はさておき、ベースに好きがあるんだから、いつかだんだん気に入ってくるということは大いにある。僕は好きなものに対してはけっこうな信頼を置いているので、もし曲や物語がそのとき好きになれなかったら、それは自分がまだ追いつけていないって思うほうかもしれません。久石さんの音楽はもちろんそう、村上春樹さんの小説もそう。あとからわかったり好きになったりする自分に出会えたときはとてもうれしいし、そこまで全幅の信頼を寄せれる作家が自分にはいるってうれしい。全部を好きにならなくてもいいし、無理にわかろうとしなくてもいい。ファンならゆっくり一生かけて付き合っていきましょうよ。そのなかで変化してくることなんていっぱいありますよ。そんなゆるさです。

 

(以上、”村上春樹文章”は『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事/村上春樹』より 引用)

 

 

少し追加します。

同書からは離れて、同旨なことを語っているものを、ここにまとめて紹介させてもらいます。いろいろな方向から眺めてみると、いろいろな言い回しの言葉から触れてみると、吸収しやすくなったりすることあるな、と僕なんかは思います。

 

 

”さっき柴田さんがいまの翻訳が次の創作に影響を与えるかどうかとおっしゃったけど、影響を受けていたとしてもそれを次の僕の創作に使うかというと使わない。でも十年ぐらい経ってから、何かの形で役に立ってくるんじゃないかなという気はしています。たぶんまったく別の形をとって出てくるというようなことですね。”

(「翻訳教室/柴田元幸」より 一部抜粋)

⇒⇒
村上春樹は、取り込んだものから大事な部分だけ抽出したり別のかたちで書く、とも言っています。宮崎駿監督は、オリジナルがわからないように真似ろ、とも言っています。久石譲は、後から気づいたらブラームスの弦の扱い方に影響を受けている、とも言っています。すべての創作家たちは、多くのものを取り込み吸収し自分のフィルターで時間をかけて濾過したものを新しいかたちで出す。すごく尊いサイクルだなと思います。

 

 

”他言語のリズムなり生理なり、あるいは思考システムなりは、月の引力が地球の海の干満をもたらすように、その翻訳者の固有の文体に否応なく影響を及ぼします。言語システムを転換するという行為を通じて、僕らの「こっち側」の文体=言語認識は多少の差こそあれひとつの洗いなおしを受けることになります。そのような洗いなおしは、多くの局面においては有意義、有益なものであると僕は信じています。文体とはとりもなおさず「意識のあり方」であり、僕らはそのような意識な交流の中から、多くの種類の価値を学ぶことができるからです。僕らは翻訳作業を通じて、複合的な意識の視点を、自然に身につけていくことができます。

しかしプラスばかりではありません。同時にそこには危険性もあります。それはつまり「入超」になるということですね。外部からの「意識」流入が強く大きくなりすぎて、そちらに力が吸い取られてしまって、内発的な要素がうまく吸い上げられなくなる。そうなると、たしかに立派な文章スタイルはできたし、小説的ヴィジョンも立派だけれど、地面に根っこがうまく張れていないということにもなりかねません。これは小説家としては命取りになりかねないことです。”

(「若い読者のための短編小説案内/村上春樹」より 一部抜粋)

 

⇒⇒
ちょっと難しいことが書いてあるんですけれど。簡潔にすると、翻訳することは自分の文体にも影響を及ぼす。洗いなおしを受け複合的に広がる良い影響もあれば、そこに自分の文体を持っていないならば潰されてしまう悪い影響もある。そういうことだと思います。

上の、最初のほうに書いたことと重なりますね。久石譲らしくなくなった?のところ。クラシックの手法にならうことで、(従来の)久石譲らしくなくなったところもあるでしょう、同じく作風の幅が広がったことはたしかです。今までにはなかった構成や形式、そうは進まなかっただろう曲想や展開、自ら指揮することで磨かれる表現や輝きをますオーケストレーション。こう書きたい書いてしまう文章やメロディ、その馴染んだ手くせを大きく解放してくれるものこそが翻訳活動であり指揮活動だとしたら。その活動を追いかけることはとても魅力的だと思います。

村上春樹さんが書いている後半センテンスの危険性や入超って。もし久石譲に揺るがないオリジナリティがなかったとしたら。指揮活動に影響受けすぎて、何を書いてもベートーヴェンの影が見え隠れするとか、ブラームスしか浮かんでこないとか、よもやクラシック音楽に圧倒されて何も書けなくなってしまうとか。いまだかつてそんなことってないですよね。だから僕は、強靭な個性と精神性をもって、自作と他作に対峙しつづけている村上春樹は久石譲は、すごいって思うわけです。

 

 

 

今回とりあげた、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事/村上春樹』。これまでに訳された70冊以上の翻訳本は、村上春樹小説と同じような好きを感じることはないかもしれません。でも村上春樹のフィルターを通して触れることができてよかったと思える本はたしかにあります。これまでに指揮された70作品以上のクラシック音楽が、久石譲音楽と同じような好きを感じることはないかもしれません。でも久石譲のフィルターを通して触れることができてよかったと思える音楽はたしかにあります。指揮することでのまた違った久石譲の魅力を感じることができたなら。帰り着く先は久石譲音楽がさらに豊かに好きになる。好きの円運動が活発な人って遠心力もすごいでしょうね、きっと。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
村上春樹の翻訳第1作目は「マイ・ロスト・シティー」です。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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