Overtone.第73回 長編と短編と翻訳と。~村上春樹と久石譲~ Part.3

Posted on 2022/08/15

ふらいすとーんです。

怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.3です。

今回題材にするのは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』(2010/2012)です。

 

 

村上春樹と久石譲  -共通序文-

現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。

結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。

スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。

そう思ったことをこれから進めていきます。

 

 

今回題材にするのは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』(2010/2012)です。

インタビューごとに、その時書き上げた本・翻訳した本などが話題の中心になっています。それだけにピンポイントに深い内容です。約20本近く収録されていますが、海外インタビューが半数以上を占めているのも特異です。日本ではあまり質問されないような角度(聞きにくいこと出てこない視点など)で飛び交っているのもおもしろいです。

いろいろなインタビューをわざわざまとめて一冊の本にする、多方面に拡散されたものを集める、親切だなと思います。そのニーズがたしかに存在する、すごいことだなと思います。2012年文庫化の際にインタビューが1本追加収録されているので、単行本とはタイトルの年表記が異なっています。

 

自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。

 

 

 

”それ以来僕の小説はどんどん分厚くなっていきました。そしてストラクチャーはどんどん複雑になっていった。新しい小説を書くたびに、僕は前の作品のストラクチャーを崩していきたいと思います。そして新しい枠を作り上げたいと。そして新しい小説を書くたびに、新しいテーマや、新しい制約や、新しいヴィジョンをそこに持ち込みたいと思います。僕はいつもストラクチャーに興味があるんです。ストラクチャーを変えたら、それにつれて僕は自分の文体を変えなくてはなりません。文体を変えたら、それにつれて登場人物のキャラクターをも変えなくてはなりません。同じことばかりいつまでもやっていたら、自分でも飽きてしまいます。僕は退屈したくないのです。”

~(中略)~

⇒⇒
ある創作家にとっては、自分のオリジナリティその一点を極めていくという道もあると思います。村上春樹さんのように、ある意味で自分の作家性をどんどん解体していくことで、より新しく多くのものを取り入れ強固なものにしていく。久石譲さんもまたこれと同じような道、そんな気もしています。たぶん、変化を希求しているし、変化することは自然なことなんです。

 

 

”翻訳って、手を入れれば入れるほどよくなるものだから、改訳できる機会があるというのは、翻訳者にとってはありがたいことなんです。単行本と文庫と全集とで、少しずつ訳が変わっているものもあります。三十代のときに訳したものは、僕もけっこう若いし、今読み返してみると、訳文にも不思議な若々しさみたいなものがある。カーヴァーの全体像がまだよく見えていないので、ちょっとニュアンスが違っているところもあって、それはそれで面白いんだけど、全集というかたちになると、やはり統一感みたいなものは必要になってきますよね。これからもまた機会があれば少しずつヴァージョンアップしていきたいと思います。”

~(中略)~

⇒⇒
これを読みながら、多くの指揮者が年齢を重ねるごと同じ作品に向き合いなおしていること、少し理解が深まりました。たとえばカラヤンも40代の頃と70代の頃の指揮とではずいぶん違います。あるいは、指揮者がベートーヴェン交響曲の中からひとつを扱っていた頃と、全集としてまとめあげるようになった頃とでは、経験と解釈も変わっていてしかり。そんなことも思いました。作曲家の作品を順番に追っていくことで見えてくることもあるのかな、とか。

訳が若い、指揮が若い、ピアノ演奏が若い。たしかにそういうふうに感じることってあります。不思議です。そこへ年齢を重ねた新テイクも並んで、溌溂と円熟を比べることができることの幸せってたしかにあります。

 

 

”僕はそれは非常にありがたいことだと思うんですよ、実際の話。そんなふうに同じ本を二度三度くり返し読んでくれる人って、今の世の中にそんなにいないですからね。情報が溢れかえったこんな忙しい時代に。作者としてはただもう感謝するしかない。しかし、僕がこんなこと言うのはなんだけど、何度読み返したところで、わからないところ、説明のつかないところって必ず残ると思うんです。物語というのはもともとがそういうもの、というか、僕の考える物語というのはそういうものだから。だって何もかもが筋が通って、説明がつくのなら、そんなのわざわざ物語にする必要なんてないんです。ステートメントとして書いておけばいい。物語というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための、代替のきかないヴィークルなんです。極端な言い方をすれば、ブラックボックスのパラフレーズにすぎないんです。

僕はだからこそ、できるだけ読みやすい文章で小説を書きたいと思うんです。そしてできることなら時間を置いて読み返してほしい。それだけの耐久性のあるタフな文章を僕は書きたいと思っています。

このあいだブライアン・ウィルソンが日本に来て、『スマイル』ツアーをやって、聴きに行ったんだけど、僕はライブで、『スマイル』というアルバムが目の前で、頭から順番通りに実際に演奏されるのを見て、それで初めて「そうか、うーん、『スマイル』というのはこういう音楽世界だったんだ!」と理解できたところがあったんです。はたと膝を打つところがあった。一九六六年くらいに基本的に作られたアルバムで、これまでにいろんなかたちでずいぶん繰り返し聴いてきたんだけど、でも全体像が僕なりに正確に理解できるまでに、結局四十年くらいかかってるわけです。そういうのってすごいことですよね。『ペット・サウンズ』にもそういうところがありますよね。これも理解できるまでにずいぶん歳月がかかりました。僕は『ペット・サウンズ』とか『スマイル』の中の曲の多くも、出てきたときにリアルタイムで聴いているわけだけど、それから四十年近く、実人生をかけて少しずつ理解できていたという実感があります。そういう意味合いでは、ブライアン・ウィルソンという人の提出する「物語性」の強烈さというか、「文体」の強靭さ、その奥行きの深さに、同じ表現者として感じるところはあります。”

~(中略)~

⇒⇒
ちょっと長い引用になってしまいました。とても気に入っているところです。”物語というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための~”。ということは、同じく「音楽というかたちをとってしか語ることのできないものを語るための~」になりますね。たしかに。

もうひとつ、アルバムを理解できるまでに40年近くかかったという実体験のお話。これ、好きなアーティストあるあるエピソードだと思います。久石譲アルバムもそう。今になって初めて気づくことってたくさんあります。

 

 

”そうですね。音楽はいろんな意味で僕を助けてくれます。二十代のときにはジャズの店を経営していて、来る日も来る日も朝から晩までジャズを聴いていました。音楽は僕の身体の隅々まで染み込んでいたと言っていいかもしれません。そして今もそこに留まっています。二十九歳のときに小説を書こうと思ったとき、僕には小説の書き方がわかりませんでした。それまで日本の小説をあまり読んだことはなかったし、だからどうやって日本語で小説を書けばいいのか、見当もつきません。でもあるとき、こう思ったんです。良い音楽を演奏するのと同じように、小説を書けばそれでいいんじゃないかと。良き音楽が必要とするのは、良きリズムと、良きハーモニーと、良きメロディー・ラインです。文章だって同じことです。そこになくてはならないのは、リズムとハーモニーとメロディーだ。いったんそう考えると、あとは楽になりました。そして『風の歌を聴け』という作品を書き上げました。楽器を演奏するのと同じような感じで書いたんです。僕の文章にもし優れた点があるとすれば、それはリズムの良さと、ユーモアの感覚じゃないかな。それは今に至るまで、僕の文章について基本的に変わらないことだという気がします。”

~(中略)~

⇒⇒
小説の書き方が音楽にあるっておもしろいですね。さらっと読むと、よくわかるとも思うんですけれど。じゃあ説明してと言われたら実はすごく難しい。たぶん、とても深いことなんです。

 

 

”人称による書き分けというのはとても大事なので(少なくとも僕にとっては大事なことなので)、短編小説でいろいろと試してみます。そして長編小説で何をすればいいのか、どんなことができるのか、と考えます。いわば実験台のようなものです。ヴォイスのあり方や、視点の動きを、あれこれと実地に試験してみます。喩えは物騒だけど、軍隊が局地戦で兵隊の性能や、戦略の有効性を実地に試してみるのと同じように。僕の場合は、短編小説でまず何かを試し、中編小説でそれをさらに進展させ、最後に万全のかたちで長編小説に持ち込みます。はっきり言ってしまえば、長編小説が僕にとっての主戦場なのです。だから短編小説を書くときには、そのたびにテーマを決めて、いろんな新しいことをやってみます。短編小説で失敗しても傷は小さいけれど、長編小説で失敗すると命取りになります。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られる内容で、同旨Part.1にもあります。

ちょっと見方を変えて。ということは、短編小説での実験はある種むき出しでもある。万全に扱えるようになった長編小説のときには、きれいに整えられ巧みに隠さたりもしている。習得極め操れるようになる前の短編小説には、ありありと刻まれたさまや勢いのようなものがあるのかもしれない。

久石譲のMFコンサートで意欲的に発表される中規模の新作しかり、自らのシステムで進化させる単旋律(Single Track Music)手法しかり。小さな曲や小さな編成から試されながら、手応えと磨きあげをもって交響作品にまでなっています。逆方向から見ると、シンプルなSingle Track Music手法は中規模作品でありありとむき出しに刻まれている、に等しいです。うん、すごくよくわかる。

 

 

”僕は二十九歳になるまでまとまった文章を書いたことがありませんでした。ただ音楽を聴いて、本を読んでいました。自分で何かを書きたいとは思っていませんでした。でも二十九歳になって突然に、何かを書きたくなったのです。書き方なんて分かりませんでした。どうやって小説を書けばいいのか分からなかったのです。それで考えたのが、音楽を演奏するみたいに書けるのではないか、ということでした。僕はピアノを弾きましたから。僕に必要だったのは、リズムとハーモニーと即興性(インプロヴィゼーション)でした。即興性ということから僕は多くを学んだと思います。ちょうどメロディーを即興で演奏するように、僕は物語を書きます。僕はジャズが大好きですが、ジャズというのは即興の音楽です。僕にとっては、書くことも即興の一種です。自分が自由でなくてはなりませんから。だから、もしあなたが僕の本を読みながらそこに音楽を聴きとってくれるとしたら、僕はとてもうれしいです。多くの人から音楽について、僕の作品のテーマであるとか作品の意味を表しているとか言われますが、僕はテーマにせよ意味にせよ、何かの目的を持って音楽のことを書いているわけではありません。テーマや意味はそんなに重要な問題ではありません。僕にとって大切なのは、僕の物語を通じてあなたが音楽を聴きとってくれることなのです。

そうです。音楽がなくてはいけません! もしその文章にリズムがあれば、人はそれを読み続けるでしょう。でももしリズムがなければ、そうはいかないでしょう。二、三ページ読んだところで飽きてしまいますよ。リズムというのはすごく大切なのです。”

~(中略)~

⇒⇒
よく語られる内容で同旨あります。

 

 

少し追加します。

テーマからは横道になりますけれど、とても印象に残っているページです。

 

”バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか? 彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか? それは大いなる疑問であり、ある意味では正当な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。

ただ、僕に言えるのは、音楽を作曲したり、物語を書いたりするのは、人間に与えられた素晴らしい権利であり、また同時に大いなる責務であるということです。過去に何があろうと、未来に何があろうと、現在を生きる人間として、書き残さなくてはならないものがあります。また書くという行為を通して、世界に同時的に訴えていかなくてはならないこともあります。それは「意味があるからやる」とか、「意味がないからやらない」という種類のことではありません。選択の余地なく、何があろうと、人がやむにやまれずやってしまうことなのです。

二十世紀の末から、二十一世紀の初めにかけて、僕が一連の小説を書いたことにどのような意味があったのか、それは後世の人が判断することです。時間の経過を待つしかありません。ただ僕としては、意味があるにせよないにせよ、「書かないわけにはいかなかったんだ」ということなのです。”

~(中略)~

⇒⇒
正座して読みたい。かぶせるコメントもない。

「クラシックで音楽は完成してるからそれしか聴かない」「ロックはあの時代がピークだからそれだけ聴いておけばいい」なんて人もいるようで。今の時代を生きているのに、ほんともったいない。

 

 

”小説に関しても、他のことに関してもそうだけど、「誤解の総体が本当の理解なんだ」と僕は考えるようになりました。『海辺のカフカ』に関して読者からたくさんメールをもらって実感したことは、そこにはずいぶんいろんな種類の誤解やら曲解やらがあるし、やたらほめてくれるものもあれば理不尽にけなすものもあるんだけど、そういうものが数としてたくさん集まると、全体像としてはものすごく正当な理解になるんだな、ということでした。そこには、ちょっと大げさにいえば、感動的なものがありました。だから逆にいえば、僕らは個々の誤解をむしろ積極的に求めるべきなのかもしれない。そう考えると、いろんなことがずいぶんラクになるんですね。他人に正しく理解してもらおうと思わなければ、人間ラクになります。誰かに誤解されるたびに、見当違いな評が出るたびに、「そうだ。これでいいんだ。ものごとは総合的な理解へと一歩ずつ近づいているんだ」と思えばいいんです。逆にいえば、小説家というのは、あるいは小説というのは、そんなに簡単に正確にぴっと外から理解されてしまっては、むしろ困るんじゃないかと。そんなことになったら、僕らはもうメシを食っていけなくなるんじゃないかと。”

~(中略)~

⇒⇒
一つの正解を求めるのとは別ものです。ここで語られているのは、答え合わせじゃなくて理解を深めるということ。たった一つの意見が一般論になってしまう危険性を対にみたときに、相当数の意見があってこそ総合的に複合的に立体的にその解はつくられていく。たとえ誤解が含まれていたとしても、意見の数が多いということはとても大切なことなんです。

多くの人に愛されているスタジオジブリ作品。見た人の数だけ受けとめ方があって、それが飛び交ってぶつかって磨かれて。だから、今多くの人たちが共有して理解を深めることができている。そういう感じのことだと思います。だからね…音楽だって語らなければ理解は深まらない、いかに言葉にすることが難しい芸術だからといって…諦めてはいけない。

 

(以上、”村上春樹文章”は『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』より 引用)

 

 

 

今回とりあげた『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2011』。村上春樹さんの作家としての姿勢や人となりを見てとれる内容です。本書あとがきには、”作家はあまり自作について語るべきではないと思っている” と書かれています。でもやっぱりファンとしてはいろいろ知ってより深く楽しみたい。

”あるいはまたその物語が生まれた事情や経緯に、多くの読者は興味を抱かれるかもしれない。執筆に関わるちょっとしたエピソードを披露して、それなりに楽しんでいただけるかもしれない。しかるべき時期に、そのような付随的なことがら、あるいは周辺事情を著者が気軽に語ることも、作家と読者との関係の中で、ある程度必要であるかもしれない、とも思う。それも僕がインタビュー依頼に応じる理由のひとつだ。”

あとがきにはこうもありました。さすがよくわかってらっしゃる!長いキャリアのなかファンをつかんできた秘訣はここにもありそうです。

 

 

-共通むすび-

”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”

(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)

”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”

(『村上さんのところ/村上春樹』より)

 

 

それではまた。

 

reverb.
ある目的をもって再読すると読むごと新しい発見がありますね。

 

 

*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number] 

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