Posted on 2015/10/15
クラシックプレミアム第46巻は、ショスタコーヴィチです。
【収録曲】
交響曲 第5番 ニ短調 作品47
ワレリー・ゲルギエフ指揮
マリインスキー劇場管弦楽団
録音/2002年 (ライヴ)
交響曲 第9番 変ホ長調 作品70
ベルナルト・ハイティンク指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1980年
久石譲のエッセイにいくまえに、こちらも毎号楽しみにしている読み物「西洋古典音楽史」(岡田暁生 筆)。今号はクラシック音楽における「即興演奏」がテーマだったのですが、とても興味深い内容が後半にあったのでご紹介します。
「今日において即興が廃れてしまった最大の原因は、おそらく近代の大作曲家たちによる演奏家への過剰干渉である。作曲家というのは隅から隅まで自分の思いどおりにならないと気が済まない人種である。しかもモーツァルトやショパンやリストがそうしたように、自分で作って自分で演奏するのではなく、19世紀後半以後は「専業作曲家」が増えてくる。作るだけで、自分では演奏しない(できない)作曲家たちである。演奏という最終的な完成形まで自分の責任でもっていくことができない、これはつらい。どれだけきちんと楽譜を上げても、最後は演奏家に託さないといけない。だがひょっとすると演奏家は自分の作品を無茶苦茶にしてしまうかもしれない…。」
「19世紀後半以後の作曲家の楽譜は、どんどん緻密になっていく。誤解の余地が生じないように、細かいニュアンスまですべて書き込もうとする。あれだけ細かく楽譜で指定されたら、即興することなど不可能だ。余計なことをせず、ひらすら楽譜どおりに弾くことを、近代の作曲家は強要する。演奏家嫌いでとりわけ名高かったのはストラヴィンスキーで、彼はイタリアの諺を引いて「通訳(トラディトーレ)はいつも裏切り者(トラドゥットーレ)だ」(翻訳に誤訳はつきものという意味)と言い、「自分にとって理想の演奏家は、オルゴールの蓋を開ける人だ」と主張した。演奏家など単なる再生機械(または機械にスイッチを入れる人)でいいということだ。実際彼は一時期、自分のすべての作品をピアノ編曲し、それを自分で自動ピアノに録音することを考えていた。」
「小説家や画家と同じような意味で「作品を仕上げる」ことは、作曲家にはできない。頭の中にどれだけ完璧な形が思い描かれていようとも、実際の演奏会ではどんなアクシデントが起きるかわからない。演奏を他人の手にゆだねるとあっては、なおのことである。それに万が一完璧な演奏を実現することができたとしても、それを常時再現することなどできようはずもない。つまり即興的/偶発的な要素をどれだけ排除したところで、絵画や文学のような意味での「完成形」としては、音楽作品は存在していない。例えばベートーヴェンの《第9》。フルトヴェングラーの録音もカラヤンの録音もバーンスタインの録音も、あるいは○月○日のどこそこでの演奏会もすべて、ユートピアとしての「完成形」になんとか辿り着こうとして夢破れた敗北の記録なのかもしれない。すべての芸術の中で最もはかなく、だからこそ最も美しいのが音楽だとすると、その理由の一つはこのあたりにある。」
(キーワードでたどる西洋古典音楽史 「即興演奏再考(上)」 より)
「久石譲の音楽的日乗」第44回は、
ソナタ形式の中の第1主題と第2主題
前回は音楽形式について話が進みましたが、今回はより深く。ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」を例にあげて、具体的に解説されているのでわかりやくもありますが、いや、やはり難しい。
それでも「第1主題と第2主題」についてというお題のなか、久石譲が音楽分解するベートーヴェン交響曲第5番という見方も。指揮者:久石譲としての一面、さらには作曲家として指揮をするという久石譲の一面、いろんな思考や解釈が垣間見れたような気がします。
「ホモフォニー(ハーモニー)音楽を支えてきたのは機能和声とソナタ形式であると前回書いた。それをベートーヴェンの交響曲第5番《運命》を例に考えてみる。」
「全4楽章で約35分の長さを持つこの曲は、特に冒頭の4音からなる「ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン」が有名で、本人が弟子に「運営がこのように戸を叩くのだ」と語ったことから《運命》と呼ばれるようになったらしいが、本当のところは定かではない。ちなみに海外ではあくまで交響曲第5番であって《運命》と呼ぶことはまったくない。」
「第1楽章と第4楽章がソナタ形式なのだが、ここでは第1楽章で考えてみる。カルロス・クライバーの演奏が7分22秒、サイモン・ラトル7分29秒、カラヤン、アーノンクールが7分24秒なので、曲の長さとしてはそれほど長くはない。ただここで注目するのは、ふつう演奏時間は指揮者によってまちまちなのだが(1~2分違うケースもある)、この第1楽章はほとんど同じであること。それだけ緻密に作られているということだろう。だが、トスカニーニは6分15秒! これはどういう演奏なのか? 疾風怒濤の攻め技か!と思ったのだが、これは提示部を繰り返さなかったための時間だった。演奏もそれほど速くない。この提示部の繰り返し問題は後で説明する。」
「さて、ここでソナタ形式をもう一度おさらいすると全体は提示部と展開部、そして再現部の3部構成でできている。提示部では第1主題(テーマ)と第2主題があり、その関係は主調とその属調あるいは平行調である。あ~何だか面倒くさいが、大事なことだからわかりやすく説明すると、《運命》の正式名称は交響曲第5番ハ短調なのだが、このハ短調が基本のキー(主調)で、属調とはその5度上のト短調になる。だが、基本のキーが短調の場合、第2主題は平行調になる。この平行調は調号が同じもの(ハ長調とイ短調の関係)を指し、まあ夫婦のようなものである、仲がいいかどうかは別として(笑)、いやこれは冗談ではなく、その対比あるいは対立が大きなエネルギーになっている楽曲もあるからだ。」
「《運命》の場合、第2主題は変ホ長調で優しく始まるのだが、再現部では同主調のハ長調で演奏される。また長調の楽曲でも再現部では属調ではなく、同じ主調で演奏されるのがみそなのだが、聴いてわかるだろうか? 特に東洋人の感覚ではヘテロフォニーといって同じキーの音が微妙にズレるドローン(持続低音のようなもの)的なものがベースにあり、主調と属調の違いが、大きく世界を変えるように感じる西洋人のものとは異なる。絶対音感の問題もあるが、我々の聴き方としてはキーの違いだけではなく、第1主題と第2主題の性格の違いがドラマを生んでいくと思った方が自然である。」
「映画の場合、A、Bそれぞれの登場人物が性格も考え方も同じだったらドラマとしてまったく成立しない。つまり映画にならない。が、A、Bの考え方や性格が違うために軋轢が生じ、対立することによってそこにドラマが生まれる。その対立によって起こるさまざまなドラマが映画なのだ。」
「ソナタ形式の基本も同じで、対立によって生じるドラマ性にあると僕は思っている。《運命》ではこれ以上削れない究極の4音モティーフを核とした激しい第1主題と、うっとりするくらいに優しい気品に溢れた第2主題がドラマ性を生み、音楽史上最も重要な楽曲になったのだが、忘れてはならない事がある。それは作曲的観点から見てどこにも無駄のない完璧な楽曲なのだが、そのうえに誰にでもわかるわかりやすさがある事だ。作曲は論理的な机上のものだけではなく、人々の感性に訴えかける強さも必要だ。そしてその表現を可能にしたのが、機能和声であり、ソナタ形式なのである。極端にいうとこの第1主題と第2主題のそれぞれ数小節をしっかり作ってさえあれば、楽曲完成の道筋はできたといっても過言ではない。あとはソナタ形式のフォーマットに沿って作曲していく。展開部ではそれぞれの主題を変奏し、再現部では先ほどのキーに即して再現する。メインの楽章ができればあとはロンド形式なりスケルツォなり舞曲系の楽曲と歌謡形式の遅い楽章を配置すれば交響曲は完成する。もちろんそんなに簡単に作曲はできないが、このメインのフォーマットがあるからハイドンは生涯106曲もの交響曲を書き、モーツァルトは41曲の交響曲を書いた。ベートーヴェンは9曲と先人より少ないが、それは時代の表現が変わり、よりエモーショナルで巨大になったからである。ロマン派の時代の幕開けだ。」
「提示部の繰り返しについては次回書く事にするが、ふと思う。《運命》の第1主題と第2主題の関係は、ベートーヴェンが生涯求めた(実現しなかったが)夫婦の理想の関係を描いたのではないか?と。これも、また別の《運命》のドラマである。」
クラシック音楽は形式ばかり重んじていておもしろくない、これはとっつきにくい大きな理由でもあると思います。ただ具体的に譜面が読めなくても、作曲家の意図を読み取れなくても、どういった形式があって、この作品はどの形式で構成されているか。これを予備知識として知っておくだけでも、聴き方はだいぶ変わるかもなと思った今号のエッセイ内容でした。
クラッシック以外の近代音楽が文学的(表現力)だとすると、クラシック音楽は数学的(理論)ということになります。数式を突きつめること、理論を成立させて解答を導くことが美しい。そういえば理系の人に意外にもクラシック音楽好きが多いと聞いたことも。
そういった理論のなかにも、無表情で無機質ではなく、どこか惹きつけられる、感情を揺さぶる魅力があるからこそ、クラシック音楽にハマるとのめり込んでしまうのではないかと。
まあ専門的知識はないので、最終的には、何かわからないけど、何がすごいのかはわからないけど、この作品好きだな、という結論にしかならないのですが。
それでいいとも思うのです。だからこそいろいろな音楽に触れることが、耳を肥やし、解釈や感情を豊かなものにしていく。そして「あ、自分ってこういうの好きなんだな」と新しい発見ができることこそが一番のおもしろさだと思います。
人がなにかを好きになるのは、感情が先、理論が後。好きになった(感情)からこそ、より知りたい(情報/理論)という順番ですね。