Blog. 「過去は忘れる」久石譲と「過去に区切りをつけたい」聴衆

Posted on 2015/12/27

よく久石譲はインタビューで、「過去は忘れる。過去の作品はあまり覚えていない」、もっとしたときには「過去の作品には興味がない」とまで言いのけてしまう始末。

 

えっ!?
なんだとーっ!?

 

第一部 尊重

「過去は忘れる」発言に憤慨し、そんなに過去の作品を軽視しているのか?! と落胆したことを覚えています。そんな想いがずっとあったなか、時間の経過とともに少しずつ受け止め方も変わっていきました。

宮崎駿監督がとあるドキュメンタリー映像で、「トトロ2が観たい!トトロ2作ったら? とか言われるけど、そんなもの「トトロ」があるからいいじゃん、てね…」そんな発言をされていたことがあります。

ここが核心のような気がします。

創作家にとって過去の作品に固執する、縛られることほど苦痛なものはないのかもしれません。それは今の自分が過去の自分を超えられていないということを、認めてしまうことにもなりかねない。

 

久石譲にも同じようなことが言えるのでは。

「またシンセバリバリで作ってほしい、あのXXみたいな曲がまた聴きたい!」と言うのは、素直な願望とは裏腹に、一歩間違えば今の現在進行形のアーティストに対しての発言としては、失礼にあたるのかもしれないと。

「だったらあの曲聴いておけばいいじゃない、もうあるから」と言われても致し方ない。

いやいや、そういうことじゃなくて、あの曲が好きだから、ああいうテイストのものがまた聴きたいと、前のめりになるかもしれません。それでも、「だからあのテイストの曲はあの作品で完成されているから、あの曲を聴いてください」と言われてしまえば、グーの音も出ないこと。

宮崎駿作品も久石譲音楽も、あれだけ数多くの名作・名曲があるなかで、作品をまたいで類似しているものがないということはすごいことです。創作性とオリジナル性はそれぞれの作品に唯一無二。例えば『千と千尋の神隠し』を見て、「ナウシカに似てたね」なんて印象を持つ人はそうそういないと思いますが、それは映像だけでなく音楽にも言えることです。

 

宮崎駿監督は別のインタビューでも、「一番好きな作品は『ルパン三世カリオストロの城』です、と言われるとムカっとくる。それ以降の作品はなんなんだと」と笑って答えられていましたが、そういうところにも通じます。

創作家とは常に反応が気になる職業、上の発言は、「あなたの最高傑作は『ルパン三世 カリオストロの城』ですよ。その後の作品は…」と作り手のフィルターで受けとめてしまいショックや自己嫌悪に陥ってしまう可能性もあるのではと。…私はあの時をピークに止まっている…私と大衆と時代がリンクしていたのはああいう作品性だけなのか…(心の声)

これは受け手に大きく左右されます。作品に触れた時代、思い出などと一緒に鮮明に刻み込まれているからこそで、「作品として一番の出来」と言っているわけではなく、「思い入れのある私にとっての特別な作品」としての位置づけです。

だからそれ以降の作品はダメ、そんなことを言っているわけではない自由な発言なのですが、創作家は内なる自分と常に対峙していますので、デリケートにひっかかってしまうのも事実なのかもしれません。もちろん宮崎駿監督の発言は、そんな受け手のことも理解しているでしょうし、それが「心ある発言か心ない発言か」はすぐに見分けがつくでしょう。

 

創作家自らが二番煎じをすることはない、と大衆には釘をさし、自らには課した信念。

自らが納得する範囲やテーマ性で類似させる、作られた時代・時代性で似てくる、受け手へのサービス精神として、そもそもどれも同じよう、、「作品をまたいでの共通点」には、いろいろな角度からの意見もあるとは思います。でもそれを言い出してしまったら、まず出発点は”ひとりの創作家による創作性”なわけですから、話が迷走します。

これにケリをつけるならば、例えば「久石譲の音楽が好き」ということは、いろいろなタイプの作品があって、それぞれカラーも印象も違うけれど、根っこの部分で久石譲音楽を感じるからこそ好き、ということになるのではないかと思います。

 

話を戻して。

そういった経緯と思いもあり、当サイトでは同様の発言はしないように気をつけています。「またああいう曲聴きたい、あの頃がよかった」なんて口にしたことも書いたこともありません。ひと言で言えば”現在を否定する”ことにつながる発言はしていません。それは今の久石譲音楽が好きですし、現在進行形の創作活動を楽しく待っているからです。

もちろん過去の「思い入れのある私にとっての特別な作品」は指折り足りません。でも、それを引き合いに出して世に送り出される新曲・新作と比較することも天秤にかけることも、それは意味がありません。そもそも同じ土俵にあげるものではありません。その作品に親しんできた時間的尺度も違います。

「あの名曲のシンフォニック・バージョンを聴いてみたい」などと言うことはあるかもしれません。いや、あったと思います。これは過去を経て今の久石譲によって再構築・昇華してほしいという願いです。過去と現在、どちらも肯定しているからこそなのですが、、そこは書き手にしかわからない微妙なニュアンスなのかもしれません。

 

約35年です。

約35年も音楽の第一線で走り続けていることがすごいこと。どんな音楽ジャンルにおいても30年以上も活躍しているアーティスト、創作しつづけている作曲家、そうそういるものではありません。

そうなれば、その時代ごとに久石譲音楽に接してきた人はさまざまで、どの時代がとりわけ鮮明ともあり、どの時代で久石譲音楽が止まっている、いろいろな人がいて当然です。考えてみてください、35年です。人に置き換えたら10歳の小学生と35歳の社会人、これだけの時間の流れがあります。

作り手も受け手も常に変化するなか、約35年間の久石譲音楽を受け入れている人は、根っからの久石譲ファンということなのかもしれません。音楽性においても使用楽器においても、1980年代と2010年代の久石譲音楽は大きく変化しています。それと同じく聴き手としても変化しつづけ、ついて行っているということになりますから。

 

創作性と創作活動において、「過去は忘れる」という発言は尊重に値する、という結論です。過去にこだらわないとするその姿勢は、むしろ現役バリバリ、創作意欲のたえない現在進行形の挑戦として賞賛すべきことだと結論に至りました。

極論、「過去(の作品)を忘れている」わけではないはずです。自分が生んだ作品です。そこにいつまでもとどまりたくない、止まっていたくない、過去の栄光にすがることは自分の成長や創作性の進化をとめてしまう。だから「過去は忘れる」と前提条件をつくってしまう、既成事実としてしまう。これは大衆に向けてでもあり、自らに課した信念や軸なのだろうと。

 

 

休憩

「過去は忘れる」作曲家:久石譲がいたときに、、

過去の作品にこだわらないことと、作ったけど世に出していないことは、わけて考えるべきかもしれません。前者は上の結論づけてきた流れで納得できますし尊重できることですが、後者は…。

 

 

第二部 願い

一度世に送り出したもの、演奏会で披露したもの、つまり一度聴衆に向けて響かせた久石譲音楽たちは、せめてパッケージ化(CD)して残してほしいとも切に願うところです。

コンサートでの演奏・改訂を繰り返すことで完成版にもっていこうとする未だ過程な作品もあるとは思います。それとは別に映画、TVCM、施設提供など、すでにオリジナル版が完成され、お茶の間に浸透している作品も数多くあります。

依頼主との契約で、いついつまではCDにはしないでほしい、など契約や諸事情もあるのかもしれません。そこは推測の域を出ず大人の事情はわかりようもありません。パッケージ化を危惧するよりも、パッケージ化した先の聴衆をイメージしてほしい、その楽しみ方を信じてほしいとすら思います。

 

やはり好きな音楽は日常生活の中で溢れ響かせたいと思うのは、すごく純粋な欲求です。

作り手は作って一旦の完成をみた時点で解放されるかもしれませんが、受け手はその作品を聴いて、自分のなかに溶け込むくらい聴いて、日常的に聴ける環境にその音楽がなければずっと消化不良状態のままです。つまり作品化してもらわなければ、ずっとその断片だけが脳裏をさまよい、記憶や印象を消さないように努め、結果それが受け手としての過去への固執になってしまいます。

受け手が過去から解放されるひとつの手段がパッケージ化だと思っています。そうすることで安心して過去と対峙し、過去の作品として向き合って聴き続けられるわけです。

結論はここにあります。CD作品化、パッケージ化することで、聴衆ははじめてその「過去に区切りをつける」儀式をむかえられるということです。

 

当サイトでは、様々な集計もリアルタイムで表示しています。

作品アクセスランキング(週間)

orbis,dream more,JAL,Runner of the sprit,Untitled Music

直近の表示をキャプチャしたものです。一週間でのアクセス集計をリアルタイムに自動更新しているものですが、CD作品化されていない楽曲が数多く並んでいます。

 

作品アクセスランキング(累計)

JAL,搭乗,久石譲,NHK,世界遺産,みずほ,CM

週間集計の下に表示されている、当サイト設立時から今日までの累計集計。週間と異なり大きく変動しにくいランキングです。ただ、ここでもそのほとんどが未だパッケージ化されていないリストといってもいいラインナップです。(累計にして、今年2015年発表作品「Dream More」がTOPになっていることもすごい結果)

このふたつは操作もできない純粋な統計です。久石譲ファンの関心の見える化であり、ファンの要望、しいてはファン投票としてのひとつの指標ともいえる、潜在的声だとみることもできます。

 

音楽=無形芸術だからこそ。

音楽にはカタチがありません。無形芸術です。過去クラシック音楽の時代から、音楽史においてその特徴は変わりません。だからこそ文明社会となった20世紀は、多くの音楽家がパッケージとして残すことに力を注いできました。そのひとつの功績が、今日聴き続けられ演奏され続けているクラシック音楽です。風化することなく化石となることなく、今も生命が吹き込まれている音楽。

モーツァルトもベートーヴェンも、発表直後は埋もれてしまい、後に再発掘された名作も数多くあります。保管状態がよくなく時を経て再発掘・再演時に手直しされ、書き換えられた作品もたくさんあります。

それでも譜面に残すことで”無形芸術”をカタチにし、それを演奏することで引き継いできた音楽家たちがいる。プラス、現代社会には音そのものをカタチに残すことができるパッケージ化という技術がある。

記録すること、音を封じ込めることで、音楽遺産として未来に引き継がれていきます。おそらくモーツァルトやベートーヴェンが今の時代を見たら、素直にうらやましがるんじゃないかな、と思います。自分の作品が納得のいく完成版として演奏され、それが記録されている。以後脚色や書き換えられることとは別に、オリジナル版として未来永劫担保される音楽遺産、それがCD音源やDVD映像などとしてのパッケージ化です。

 

100年以内の話に引き戻したとしても、名指揮者の1950年代の録音音源、1980年代のコンサートライブ映像、このような貴重な記録を残してくれたおかげで、2010年代の私たちが音楽タイムスリップして楽しむことができることこそ、パッケージ化の進歩です。

同一作品であっても年代ごとの演奏やコンサート映像が記録されてる。むやみに乱立させることへの良し悪しこそあれ、年輪のように刻み込まれる時代ごとの演奏の変化は、聴き手としては醍醐味です。

同じ作品がその時の解釈(演奏)でまったく違う顔をのぞかせる。それだけ作品に深みがある証拠です。音楽が無形芸術ということは、常に変化することの許されている貴重な芸術ともいえます。そういった変化や成長を、瞬間を封じ込めることができる、それがパッケージ化です。

 

わかりやすい話、今20代の人がカラヤンに興味を抱いたとして、もう亡くなった名指揮者の演奏会に行くことはできず、それは映像でしか体験できません。なにが名指揮者たらしめているのかわからないなら風化してしまいます。映像であっても疑似体験、自分の目や耳で体感できるということは、証拠(映像・音源)をとおして実感する、その個人体験の連鎖が大衆化の波となり未来へ引き継がれていく。

わかりやすい話、今生まれていない人は、過去の音楽遺産に触れたいとき、そこに音源や映像がないものには、興味があっても触れたくてもどうしようもない、カタチがないものには。もっと言えば、過去には無形芸術として存在していたかどうかさえわからない、なんてことも起きてくるでしょう。存在がわからない、そもそも存在した音楽なのかすら不明、というなんとも口惜しいことに。

 

パッケージ化の危惧と警鐘。

安易なパッケージ化は創作家やその創作作品を過剰に消耗してしまい、創作家の継続的創作性が担保されない。パッケージ化への価値やありがたみ、創作家への尊厳を軽視してしまう大衆。

一枚のCDとしてカタチに残すだけでも、そこにかけた時間やお金、演奏者、機材、設備、録音場所など、莫大な投資が発生しています。そしてなによりも、カタチに残すことで自らを削った創作性。

今の時代、「音楽家なら作った作品をCD化することは当然」と当たり前に思っている感覚、なかば前提条件のようになってしまっている風習を、少し見直す必要もあるのかもしれません。

 

海外ではひとつの映画作品をつくるに企画段階でまずは多くの投資を募ると言います。そうやって集めたお金で作品をつくる、つまりその作品を期待する大衆が、先に投資するという流れです。予算が集まらなければ製作がスタートできない、ゆえに作品は誕生しない。これを音楽業界に置き換えたら、「CDを作ってほしいなら、そう思ってる人達が資金集めてよ、そしたらパッケージとして完成版を残すから」 こんなこと言われてしまったら……。いや、今のような風潮、音楽業界の不景気、尊重されない創作家からの反逆として、起こり得てくる現象かもしれません。

だからこそ、聴衆としても見つめなおすべきところは改め、要望すれば届くかもしれない今の時代に感謝し、CDやコンサートにお金を払うことが、知らずのうちに次の創作活動への投資であり支援である、という尊い循環サイクルになっていけばいいなと思います。

 

 

言わなくてもいい蛇足。

ここではダウンロードやストリーミングという手法にはふれませんでした。話がややこしくなるため。ただそういった最新デジタル技術が、パッケージ化の解決策になるとも思ってはいません。費用は安価に”音楽の配信”はしやすいのは事実です。でもそれがパッケージ化かと言われると、ややこしくなります。CDやDVDが音楽記録媒体、カタチある有形媒体で、一方はデータで無形のまま。そういうことを言っているからではありません。CDでもDVDでも有形媒体ではありますが、再生機器がないと意味をなさないとするならば、CDでもデータでも同じことになります。だからここに触れるとややこしいのでやめました。

ゲーム業界もソフトと本機、アプリとケータイ、同じように媒体としてのくくりがややこしくなります。唯一、メディア媒体として単独で機能できるのは、例えば新聞・雑誌・書籍などの活字媒体なのかもしれず(楽譜もそうですね)、そこにも電子書籍などとまたややこしい話となってくるわけです。ひいては《無形、有形、カタチ、パッケージ、メディア、媒体》という定義が非常に難しいことではあるのです、この現代文明社会においては。

 

……

じゃあ何を語ってきたんだ、となってはいけない。

切望している願いは「音楽遺産として、未来に残していける音そのもの音楽そのもののカタチ化、そのカタチ化されたものが大衆に享受されること、現代社会において老若男女が一般的に受け取りやすい方法、保管維持しやすい媒体」です。なので盤としてのCDやDVDに絞って話を進めてきました。

 

 

アンコール 未来へ

ファンは簡単にやめることができます。プロはそんなことはできません。常に時代と向き合い、大衆と向き合い創作活動を続けていく。一生のうちにあの人のファンだった時期もあったなは通用しても、プロの世界では通用しません。創作家は死ぬまで創作し続ける宿命を背負っています。時代が求めた人たち、使命をもって選ばれた人たち、それが一流のプロ、生涯のプロフェッショナル。

だからこそ、ある一点やある一時代にフォーカスして意見してしまうよりも、点ではなく線で、道を一緒に歩み続ける(ことはおこがましいとしても)、応援しつづけ、見守りつづける。

作り手も受け手も、双方が過去に固執せず、過去に後ろ髪ひかれることなく、お互いが同じ未来を向いている。今響く音楽のみに集中にて耳を傾けわかちあう。パッケージ化とは、カタチにしてしまったことで縛られるものではなく、創作活動における通過点のひとつにして、次のステップへの重要な線引き、区切りです。

ということは、「過去を忘れる」(作曲家)と「過去に区切りをつけたい」(聴衆)は、結果交錯しながらも一本の線につながってくるように思います。お互いが現在をわかちあうことのみに集中し、その連続連鎖が未来をつくっていくならば。

 

同じ音楽を聴いて共感しあい、わかち合うなにかが生まれる。これこそが聴衆にもたらされる一番の喜びです。その感動のかたまりが創作家にも届くなら、同時代性としてこんなに尊い幸せなことはありません。

きっと大きな価値を見いだす聴衆はそこにいますし、仮に現代にいなかったとしても、未来にはきっと埋もれていても掘り起こしてくれる真の聴衆がいるはずです。カタチとして残していてくれたならば。

 

好きだからこそ尊重したい(第一部)、好きだからこそ欲も出る(第二部)。信じてたのに裏切られてがっかりする(これは自分の都合のいいように信じて、結果勝手に裏切られたと思ってしまう心理なのですが)。この喜怒哀楽の波をコントロールすることが非常に難しい。「好きなればこそ」の一人相撲をとってしまう感覚といったらいいでしょうか。それもまた幸せなことなのかもしれません。一途に、夢中になれる、ことがある。

 

 

最後に。

現時点でも数多くある久石譲未作品化の名曲たちをご紹介します。過去に区切りをつける儀式を迎えられるよう、いつの日か叶う願いを込めてカテゴライズしたものです。

そっと差し出します。

久石譲 未発売(未CD化) | Unreleased Work

 

Live 2015

 

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