Blog. NHK FM「現代の音楽 21世紀の様相 ▽作曲家・久石譲を迎えて」 番組内容 【1/13 Update!!】

Posted on 2018/01/06,13

NHKFMラジオ番組「現代の音楽」に久石譲がゲスト出演しました。ナビゲーターは作曲家の西村朗。作曲家同士の貴重なトークも必聴。新年2週連続放送です。

 

NHK-FM「現代の音楽」

1月6日(日)午前8時10分~ 午前9時00分
現代の音楽 21世紀の様相 ▽作曲家・久石譲を迎えて(1)

1月13日(日)午前8時10分~ 午前9時00分
現代の音楽 21世紀の様相 ▽作曲家・久石譲を迎えて(2)

ナビゲーター:西村朗
ゲスト:久石譲

 

【番組概要】

「現代の音楽」は、作曲家・西村朗さんの分かりやすい解説で現代音楽の魅力を紹介しています。難解と思われがちな“現代音楽”。でも扉を開けば、想像を超える面白さ、本能を揺さぶられる 何かが発見できるはず。作曲家・西村朗さんと未知の世界を冒険して下さい。

1月6日、13日は現代音楽の“いま”をさまざまな視点から紹介するシリーズ「21世紀の様相」。2019年最初の放送では、クラシックファンのみならずその名を広く知られた作曲家、久石譲(ひさいし・じょう)をゲストにお迎えします。宮崎駿監督作品や北野武監督作品の映画音楽で知られる久石氏ですが、その原点は武満徹や黛俊郎、シュトックハウゼン等の作品を分析し、ミニマルミュージックに関心を持つ「現代音楽の作曲家」です。幅広く活躍する久石氏の中に深く存在し続ける現代音楽への関心や愛情を、西村朗氏が本音トークで引き出し、あらためて「現代音楽の作曲家」久石譲の魅力に迫ります。

 

 

番組トーク内容やオンエア楽曲をご紹介します。

とてもディープなトークで期待どおりでした。久石譲オリジナル作品を聴くヒントや学びもいっぱい。久石譲の今がつまった対談は、技法や方向性など作曲家同士だから踏み込める貴重な内容。近年の傾向を振り返る手引きにもなって作品を聴き返すきっかけにもなります。これから先を予想する楽しみももらえたまさに新春にふさわしい充実したラジオ番組でした。

 

 

◇1月6日 現代の音楽 21世紀の様相 ▽作曲家・久石譲を迎えて(1)

西村:
「久石さん、お忙しいなかお越しいただきありがとうございます。この「現代の音楽」にご登場されるのは初めてですね。ときどきお聞きになってましたか?」

久石:
「はい、聞いてますよ。」

西村:
「あの、奥様がよくお聞きいただいて、メールいただいたりして(笑)。とてもうれしいです。」

久石:
「はい、毎週聞いてるようです(笑)。「あの曲知ってる?」とかね、晩ごはんの時よく聞かれまして。「あ、それは知ってる」とかね。「これいいわよ」とかっていろいろ言われます。どうもその情報源はこの番組らしいです(笑)。」

西村:
「あっそうですか。それはそれは光栄でございます。」

西村:
「今日はあらためて久石さんをご紹介するまでもないんですけども、国立音楽大学で作曲を専攻されて、もうその頃から現代音楽のひとつのジャンルというか方向性というか、ミニマル・ミュージックにご関心をお持ちになったということですが、これかなり早いかもしれませんね。」

久石:
「そうですね。ちょっと不確かなんですが、大学の後半ぐらいの時に知り合いの作曲家からテリー・ライリーの「A Rainbow In Curved Air」っていうあの7拍子のねえ、あれを聞かされてもうすごくショックだったんですよ。「えっ、これが音楽なの?これが現代音楽か?」ってすごく思いましたね。で、3日間ぐらい寝込んだんじゃないかな。なぜなら、それまではシュトックハウゼンとかクセナキスとかそういうものばっかり、特に好きだったのはイタリアのルイジ・ノーノとかね、あちらだったんですよ。ですから、それでこういう調性もある、リズムもある、これが現代の音楽かというのですごくショックで。それがきっかけでしたね。」

西村:
「色彩とね、躍動感というかリズムというか、ございますもんね。そうすると、ある程度現代音楽に対して、終わってんじゃないみたいなところから、新たな風が吹いてきたというような新鮮な驚きがおありになったということですかね。」

久石:
「ありましたね。どちらかというと、毎日不協和音でいかに半音ぶつけてというかね、大量の音符を処理するというか、そういうようなことに費やしてたんで、そのときに全く違う価値観の音楽が出てきた。しかもそこにはまだハーモニーもある、リズムもあると。なんかその辺で「あっ、こういう音楽があるなら自分にとってはある意味で楽なんじゃないか」というか、そういう気持ちありましたね。」

西村:
「なるほど。まあ要素だけを別々に取り出すとね、なんか音楽は昔に戻ちゃったんじゃないかという見方が成り立たないわけでもないんですけど、新鮮な驚きというのは、調性感であるとか旋法性であるとかリズムとかっていうものを活かしながらも、新しさそういう魅力というものをお感じになったということだと思うんですけど。どういうところが新しいとお感じになりました?」

久石:
「まずね、非常にヨーロッパの現代音楽とかいろいろなものが発達していってるんですけれども、曲って基本的にやっぱり人が生まれて死んでいくまでみたいな、つまり曲の開始があって曲の終わりが必ずあるんですよ。そうすると、音のダイナミズム、どう音を処理するかということにすごく重点置かれちゃう気がする。ですから、非常に静かなところ、濃密になるダイナミックレンジが広がったところですね、また素というか薄くなってまたこうなる。そうすると、形式自体って決して新しくはならない気がしたんですよ。ところが、ミニマルって同じパターンを繰り返して繰り返していく。民族音楽の祭囃子みたいなもので、つまりこっからここまでっていうのが大きい変化が少ない、少しずつ変わっていく。そうすると、楽曲を成立させるっていう概念自体が変わった気がしたんですよね。」

西村:
「全体構成よりも、その変化していくプロセスというものが本体そのものであるというような。だから内容と形が一体化してる、そういう見方もできますよね。」

久石:
「そうですね。逆に、ミニマルっていうのはミニマム、最小の要素を使って構成する。そうすると、繰り返しするものを聴かせるというよりは、繰り返しながら徐々に変容していく様を聴かせていく。変わっていくところを聴かせるわけですよね。そうすると、要素を削ることによって一音ズレたというだけがとても大きな変化になっていく。それでやりながら、実は今も作ってて一番苦しいのは何分の曲にするのか。ただただ繰り返してるだけだったら飽きちゃうし。それはもうフィリップ・グラスさんも言ってますけれども「ミニマルって繰り返すんじゃないんだ」と。どう変わっていくかで、それをどう飽きずに聴かせるか、それがカギになるって言ってたんですけど、まったくそう思いますね。」

西村:
「なるほど。まずおひとつ曲をお聴かせいただこうと思うんですね。ご自身で選んでいただいたんですけれど、まず最初に「エレクトリック・ヴァイオリンと室内オーケストラのための室内交響曲」これの第一楽章をお聴きいただきたいんですが、この作品についてちょっとご紹介いただけますでしょうか。」

久石:
「エレクトリック・ヴァイオリンというのは実は6弦なんですね。ヴァイオリンはふつう4弦ですよね。ソ・レ・ラ・ミなんですけれども、一番低いソの音の五度下のド、そこからまた五度下のファ。ですからあと四度でほとんどチェロの帯域カバーですね。という6弦のエレクトリック・ヴァイオリン、どうしてもこの6弦使ったヴァイオリンと室内オーケストラの曲を書きたいと思って書いた曲です。」

 

♬「エレクトリック・ヴァイオリンと室内オーケストラのための室内交響曲」第一楽章/久石譲(作曲)
(9分40秒)2015

 

西村:
「拝聴していて、前半の部分は第一期の後のいわゆるポスト・ミニマルわりに自由なストーリー性をもっていて、むしろミニマルで蓄えられたような非常に魅力的なエレメントがたくさんあるんですけれど、組み立てとしては自由なストーリー性があるような感じですよね。ところが、後半になると再び一種そのミニマルの縛りとしてのシングルラインが現れてきますよね。ここはだから、ポスト・ミニマルのさらにポストという感じが非常にするわけですよね。」

久石:
「いやあ、もうねえ、西村さんのようにすごく尊敬してる作曲家にこうやって一生懸命聴かれるととても緊張するんですけどね(笑)。」

西村:
「やめてください(笑)。いや、ユニゾンの流れがいろんな楽器変わっていくわけじゃないですか。だからパート譜を見るとね、休みがいっぱいあってちょろっとこう出てくるようなことが、全体としてひとつのラインでいろんな色が塗り上げられていくようなね。そういうカラフルな妙味があると思うんですが。」

西村:
「さあ、ここからなんですけど、実は今回お越しいただいて、ぜひ久石譲さんの今のこだわりをもってらっしゃる作曲技法ですね、これ非常にオリジナリティの高いものですけども、今のシングルラインの単旋律の流れがどのように新たなミニマル音楽の世界への展開につながっていくかという。今まさにそこのところで次々と重要な作品をお書きになっているわけで、私もここのところ拝聴させていただく機会があってうれしいんですけど。そこにちょっとポイントを置いて、技法的な面でね、今お考えになっている単旋律の音楽のその後の展開についてちょっとお話しいただけますか。」

久石:
「結局、音楽って僕が考えるところ、やはり小学校で習ったメロディ・ハーモニー・リズム、これやっぱりベーシックに絶対必要だといつも思うんですね。ところが、あるものをきっちりと人に伝えるためには、できるだけ要素を削ってやっていくことで構成なり構造なりそれがちゃんと見える方法はないのかっていうのをずっと考えていたときに、単旋律の音楽、僕はシングル・トラック・ミュージックって呼んでるんですけれども、シングル・トラックというのは鉄道用語で単線という意味ですね。ですから、ひとつのメロディラインだけで作る音楽ができないかと、それをずっと考えてまして。ひとつのメロディラインなんですが、そのタタタタタタ、8分音符、16分音符でもいいんですけど、それがつながってるところに、ある音がいくつか低音にいきます。でそれとはまた違った音でいくつかをものすごく高いほうにいきますっていう。これを同時にやると、タタタタとひとつの線しかないんだけど、同じ音のいくつかが低音と高音にいると三声の音楽に聴こえてくる。そういうことで、もともと単旋律っていうのは一個を追っかけていけばいいわけだから、耳がどうしても単純になりますね。ところが三声部を追っかけてる錯覚が出てくると、その段階である種の重奏的な構造というのがちょっと可能になります。プラス、エコーというか残像感ですよね、それを強調する意味で発音時は同じ音なんですが、例えばドレミファだったらレの音だけがパーンと伸びる、またどっか違う箇所でソが伸びる。そうすると、その残像が自然に、元音型の音のなかの音でしかないはずなんだが、なんらかのハーモニー感を補充する。それから、もともとの音型にリズムが必ず要素としては重要なんですが、今度はその伸びた音がもとのフレーズのリズムに合わせる、あるいはそれに準じて伸びた音が刻まれる。そのことによって、よりハーモニー的なリズム感を補強すると。やってる要素はこの三つしかないんですよね。だから、どちらかというと音色重視になってきたもののやり方は逆に継承することになりますね。つまり、単旋律だから楽器の音色が変わるとか、実はシングル・トラックでは一番重要な要素になってしまうところもありますね。あの、おそらく最も重要だと僕が思っているのは、やっぱり実はバッハというのはバロックとかいろいろ言われてます、フーガとか対位法だって言われてるんですが、あの時代にハーモニーはやっぱり確立してますよね、確実に。そうすると、その後の後期ロマン派までつづく間に、最も作曲家が注力してきたことはハーモニーだったと思うんです。そのハーモニーが何が表現できたかというと人間の感情ですよね。長調・短調・明るい暗い気持ち。その感情が今度は文学に結びついてロマン派そうなってきますね。それがもう「なんじゃ、ここまで転調するんかい」みたいに行ききって行ききって、シェーンベルクの「浄夜」とか「室内交響曲」とかね、あの辺いっちゃうと「もうこれ元キーをどう特定するんだ」ぐらいなふうになってくると。そうすると、そういうものに対してアンチになったときに、もう一回対位法のようなものに戻る、ある種十二音技法もそのひとつだったのかもしれないですよね。その流れのなかでまた新たなものが出てきた。だから、長く歴史で見てると大きいうねりがあるんだなっていつも思います。」

西村:
「シングルなんだけどポリ(ポリフォニー)なんですよね、あるいはマルチって言ってもいいかもしれないですね。」

久石:
「逆にこういう少ない要素でやろうと思ってシングルでいこうとすると、非常に論理的で明快な部分を持たないとどこ切っても同じになっちゃうんですよね。だから目指さきゃいけないのは、やっぱりきちんとした論理的な構造をもってそれをあんまり感じさせない音楽を作れるのが一番いいかなあ。」

西村:
「つい最近ラングさんの作品を拝聴しました。2002年の作品はアルヴォ・ペルトのティンティナブリの発展形だというふうに僕は聴こえたんですよね。」

久石:
「ああ、なるほどね。はい。」

西村:
「そういう意味では久石さんの作品のほうが開かれて新しいっていう感じを僕は受けました。この番組で流れてない音楽の話をしてもしょうがないんですけど(笑)。」

久石:
「ありがとうございます。なんか思いっきり喜んじゃいますよ(笑)。」

西村:
「さて、音楽に戻らせていただいてですね。シングル・トラックという言葉がタイトルにも出てきている曲ですね。「Single Track Music 1」6分弱の曲なんでお聴かせいただきたいと思うんです。」

 

♬「Single Track Music 1 for 4 Saxophones and Percussion」/久石譲
(5分50秒)

 

西村:
「この作品の中間部のところは非常にわかりやすく、マルチシャドウというか単旋律が出てきましたですね。後半の部分はもっとパルスでとっていくようなのもあって。ひとつ原型のような作品ですね、技法のね。」

久石:
「この時、シングル・トラックをやろうって、そんなひとつの自分の方法をまだ全然考えてなかったんですよね。なんでかっていうと、ミニマルって必ず二つ以上ないと出来なかったんですよ。ズレるってことは元があってズレるものがないといけない。そうすると必ず二声部以上必要になりますね。大元のパターンがある、一緒にやってるが一個ずつズレていく、それがだんだん一回りして戻ると。そうするとね必ず二ついるんですよ。僕もそれが一拍ズレ、半拍ズレた、二拍ズレたとかってよくやるんですが、必ず元に対してズレがあるっていう方法をなんとか打破できないかと。単純に。ミニマルっていうのはこうやってもう何かがズレるんだと、いやこんなことやってたら永久に初期のスティーヴ・ライヒさんとかフィリップ・グラスさんとかがやってた方法と変わんだろうと。なんか違う方法ないかっていうときに、自分でズレるっていうか、二つがあって相対的にズレるじゃなくて、自分自身がズレていくような効果を単旋律で出来ないかって作った実験的なのがこれが最初でしたね。」

西村:
「もう一曲、今度はバンドネオンと室内オーケストラための曲。「室内交響曲第2番 The Black Fireworks」、黒い花火ですかね、この黒い花火って相当変わった副題ですけれどもこれはどういう。」

久石:
「一昨年夏にサマーセミナーみたいなものがありまして、福島でやったんですけど、震災にあわれた子供たちの夏のセミナーだったんですけどね。午前中に詞を作って午後に曲を作って一日で全員で作ろうよっていう催しだった。夏の思い出をいろいろそれぞれ挙げてくれっていった中に、一人の少年が「白い花火が上がったあとに黒い花火が上がってそれを消していく」っていう言い方をした。つまり普通は花火っていうのはパーンと上がったら消えていきますよね。あれ消えていくんじゃなくて、黒い花火が上がって消していく。うん、僕は何度もそれ質問して「えっ、それどういう意味?」って何度も聞いたんだけども「黒い花火が上がるんです」って。うん、それがすごく残ってましてね。彼には見えてるその黒い花火っていうのは、たぶん小さいときにいろいろそういう悲惨な体験した。彼の心象風景もふくめてたぶんなんかそういうものが見えるのかなあとか推察したりしたんですが、同時に生と死、それから日本でいったら東洋の考え方と言ってもいいかもしれません。死後の世界と現実の世界の差とかね。お盆だと先祖様が戻ってきてとか。そういうこう、生きるっていうのとそうじゃない死後の世界との狭間のような、なんかそんなものを想起して、もうこのタイトルしかないと思って。」

西村:
「それとバンドネオンとはどう関わるんですか?」

久石:
「これはまた別個なんですよね(笑)。西村さんはどうされてるかわからないですけれども、僕はいつも音楽的に追求しなきゃいけないものと、だけどなぜこの曲を作らなきゃいけないのか作る必要があるのか、ふたつでいつも攻めるんですよ。そのときに、バンドネオンというのは、三浦一馬君という非常に若い優秀なバンドネオン奏者がいまして、僕のコンサート聴きに来てくれて、顔見た瞬間になんか閃いちゃって「あっ、来年は彼のバンドネオンで書くんだ」って決めちゃったんですね。それとその時の想いが一体化したっていう、そういうところですよね。だからバンドネオンである必然性っていうのは、我々の音楽ってもしかしたらあまりないのかもしれない。」

西村:
「いやあ、あるかもしれませんよ。」

久石:
「ありますかね。」

西村:
「バンドネオンを呼ぶ何かがあったんじゃないでしょうか。」

久石:
「うん、あのね、それ論理的に言えないからちょっと避けてるんだけど、絶対呼んでる関連はあります。」

西村:
「うん、思いますよ。ちょっと聴かせていただきましょう。」

 

♬「室内交響曲第2番《The Black Fireworks》 バンドネオンと室内オーケストラのための」1 The Black Fireworks/久石譲
(10分50秒)2017

 

西村:
「昔例えばグレゴリオ聖歌とかね、神に祈りの音楽を捧げてるときって、終わりがない、すうっとこう神に捧げる。そういう時代が長かったのが、例えば古典派のような時期になると、はっきりここで終わり、バン!バン!とかね、ベートーヴェンなんかこれでもかっていうくらいここで終わり!終わり!終わり!というぐらい、人間が終わりを付けるというようなことになったわけですけど。ミニマルのスタイルの音楽っていうのは、昔の神に捧げてた頃のように終わりの設定がない、でも終わりますよね。久石さんの作曲上、終わりということはどのように決定されるというか。」

久石:
「あの、単純に言ってしまうと、To be Continued で途絶えず終わりたい。つづくじゃないですけどね、一応長いパウゼ(休止)ぐらいな感じで、ですからこう「うん、また頭から聴いてもいいよ」っていうそういうスタンス、終わりじゃないですよね。」

西村:
「本当におもしろいお話ありがとうございます。次回もお越しいただいて、指揮の話とかいろいろお伺いしたことがあるのでぜひよろしくお願いします。どうもありがとうございます。」

(NHK FM「現代の音楽」21世紀の様相 ▽作曲家・久石譲を迎えて(1)より 書き起こし)

 

 

 

◇1月13日 現代の音楽 21世紀の様相 ▽作曲家・久石譲を迎えて(2)

西村:
「今日は前回につづいてこのスタジオにスペシャルゲストをお招きしております。作曲家の久石譲さんです。久石さん、今日もよろしくお願いいたします。」

久石:
「よろしくお願いします。」

西村:
「前回はこのミニマル・ミュージックということをめぐってのお話を伺って、作品を拝聴し、また新たなミニマルの可能性というものも、技法的な、技法というのはある明快さとそこから多様性に広がるというこの両面がないとね、なかなか技法とは言えないと思うんですが、まさにそういった意味での技法の展開を今やってらっしゃる中での作品をお聴かせいただいてきたわけなんですけれども。ちょっと振り返ってみると、発祥の頃のミニマル・ミュージック、そういったものというのはプロセスそのものがすべてであって、プロセスが内容ではないようなんだけど、そこに文学的な物語性とかストーリー性とか意見とかっていうものはないところから始まってますけれども。その後内容というものが入ってくるという経緯がございます。で、同じく最初ミニマルに非常に惹かれて、今独自の技法というものを磨かれている久石さんにとって、内容と音楽のスタイルという関係性ですね、この辺りのことをちょっとお話いただければ。すごく興味があるんですけれども。」

久石:
「はい。作曲するというのはやっぱり構成する、構築するということになりますね。音楽的にある要素が決定して、それをどうやってこう論理的な構造といろんなものできちんとしたひとつの生き物といいますか作品に作り上げるかっていうことに終始します。ところが、もう一個非常に大きな問題があるんですけれども。それは作曲家としてなんでこの曲を書かなきゃならないか。この思いがはっきりしてないと、なかなか曲は書けない。なぜ今この曲を書くのかってなったときに、養老孟司先生はインテンシティって言いますよね。要するに、呼応する思い、つもり、その思い、それがないと非常に作品って作りづらいですよね。ただただ無機的に音をつなげていけば、論理的に組み立てることはできるかっていうよりも、やはりそこに何か、なぜこの曲を自分は書くのか?っていう問いは絶えず付いてくる気がするんですね。そのインテンシティ、どうしてもこれを作らなければならないっていう思いが、実は作曲するときの最大の原動力になってる、という気がします。それがいろんな意味で今後はその作品自体に、音としての作品、それからその音をとおして何を皆さんに伝えたいか、これはもう両輪というか切っても切れない関係だと思います。」

「あの、おそらくインテンシティっていうのをやり過ぎると、実はどんどんロマン派・後期ロマン派のある種精神性あるいは感情とか、(西村:「もしくは表現主義ですよね」)、そうですね、どうしてもそれに走っちゃいます。そうすると、例えば同じミニマルをベースにしていても、ジョン・アダムズはそっちの傾向のほうが強くなりますね。例えば「Scheherazade.2」(2016)とか「City Noir」(2009)とかね、(西村:「めちゃくちゃ物語的ですよね」)、なんかこうある種自分が若い頃に見ていた古い映画の世界を音楽でやりたい、っていうような何かね別の要素って必ず必要になってくるかもしれません。僕が、正直言いますと、そういう要素から作った曲と、あくまで音楽的な要素を中心に作っていくのっていうのは、少しこうカテゴリーが変わる気がしますね。」

西村:
「今どっちに向かってらっしゃるとかっていうのはあるんですか。」

久石:
「あっ、今はねえ、シングルトラックをもっと…(西村:「技法的に展開させていくという」)、で多様性をもってくるときに、もっとそういう要素が入ってくる。なんでも音楽って、例えばですね、木を見て木の幹と枝を見て美しいっていう人はいないんですよ。むしろそこに葉っぱがいっぱい生い茂って豊かな木に見えた時にみんな人はいい木だなってなりますよね。ところが、前衛というものというのは、幹であり枝をつくる作業です。ですからあまり人には歓迎されないかもしれない(笑)。だが、それがないと発展はしない。これを誰かがやらなきゃいけません。ところが、やはりそこに生い茂る葉っぱなりいろいろなものがついた時に、人はやっとそこで美しさだとか多様性を感じますよね。ですからなんか僕は両方必要な気がしてる。うまくやれれば。」

西村:
「というわけで、今日最初にお聴かせいただきたいのはシンフォニーなんですね。久石さんにとってのシンフォニーとは何ですか。」

久石:
「これはすごく悩みます。シンフォニーって最も自分のピュアなものを出したいなあっていう思いと、もう片方に、いやいやもともと1,2,3,4楽章とかあって、それで速い楽章遅い楽章それから軽いスケルツォ的なところがあって終楽章があると。考えたらこれごった煮でいいんじゃないかと。だから、あんまり技法を突き詰めて突き詰めて「これがシンフォニーです」って言うべきなのか、それとも今思ってるものをもう全部吐き出して作ればいいんじゃないかっていうね、いつもこのふたつで揺れてて。この『THE EAST LAND SYMPHONY』もシンフォニー第1番としなかった理由は、なんかどこかでまだ非常にピュアなシンフォニー1番から何番までみたいなものを作りたいという思いがあったんで、あえて番号は外しちゃったんですね。」

西村:
「その場合のピュアとはどういう意味ですか。」

久石:
「それはもう、さっきの技法的なほうです。もうほんとに音の組み合わせが一体なにか。理想はね、主張しないで「えぇ!」っていうぐらいに、ほらこういう要素でこういうふうにこういうふうに組み立てました、って出して。そしたら聴いてる人がね、「あっこれ朝日を想像しますね」とかね「夕日を想像しますね」とかね「悲しいですね」とか。もういろんな意見言ってもらうのが一番うれしい気がする。」

 

♬「THE EAST LAND SYMPHONY」から 第1楽章、第3楽章、第5楽章/久石譲(作曲)
(24分20秒)

 

西村:
「これはメッセージ性がはっきりとありますね。」

久石:
「そうですね。EAST LANDっていうのは東の国ですから、日本ですね、はっきり日本ですね。なんかねえ、これを作ってた時にずっと「日本どうなっちゃうんだろう」みたいな思いがすごく強くて。第三楽章の「Tokyo Dance」っていうのは、ほんとにちょっとブラックな、風刺ですよね、ちょっと「こんなに日々良ければそれでいいみたいな生き方してていいのか」みたいな、そんなような思いもあって。」

西村:
「これテキストはどなたが?」

久石:
「第三楽章は僕の娘の麻衣が書きまして。第五楽章は自分でラテン語の辞書あるいはラテン語の熟語集の中から「祈り」にふれてる言葉をいろいろ選びまして、それを組み合わせて作りました。」

西村:
「マタイ受難曲のコーラルが見事に。」

久石:
「この『THE EAST LAND SYMPHONY』を作ってる間、ずうっと合間に聴いてたのがマタイ受難曲だったんですね。なんかあれを聴くと、音楽の原点という気がして。はい。」

西村:
「あれを聴くともう作曲やめようかななんて思ったり(笑)。」

久石:
「いやいやいや(笑)。いや、ほんとに何をいまさら自分でできると思ってるんだ、ぐらいな、こう、なりますよね。」

西村:
「でもその反対にですね、もうやめようかなと思う一方でですね、志は上がりますよね。」

久石:
「上がります。」

西村:
「それでですね。指揮をされるというご活動もですね。自分の作品をお振りになることももちろんすごく多いでしょうし、ベートーヴェンなどの作品も最近すごくCDなんかでも拝聴しているんですけども。指揮ということに対してのご関心というのは、結構やっぱり強くお持ちなんですか。」

久石:
「指揮は嫌いじゃないんですよ。嫌いじゃないんですけど、自分が指揮してるなんてちょっとおこがましいんです。ただ、やれる範囲で言うと、一番大事に思ってることは、こういうミニマルとかいろんなものを演奏する感覚で新しいクラシック、っていうようなものがもし可能だったら自分はやると。あくまでも作曲家目線で、いわゆる伝統的なベートーヴェンやなんかをやろうとは思ってないんですよね。それはなんでかっていうと、構造を見せたいからです。おそらく一番昔と今が違うのがリズムだと思うんですよ。それを徹底的に、デジタル時代のものを、その感覚でもしベートーヴェンをやったらまた全く違うベートーヴェンできるんじゃないかなあとかね、そういうふうに思ったりする。」

西村:
「ご自分の作品もお振りになる。」

久石:
「それは簡単ですよ、誰も振ってくれないから(笑)。」

西村:
「いやいやいやいや(笑)。」

久石:
「ほんとは人に振ってほしいんですけど。やっぱり譜面で書かれてるものって、表現したい音楽の70%ぐらいかなあ。どんなに細かく書いても、強弱を付けてもですね。そうすると、その後ろにあるものを的確に伝えようと思うときに、オーケストラって信じられないほどリハーサルが短いじゃないですか。2日間とか3日間でね。そうするとね、その短い期間に第三者の指揮者をとおしてやってもらおうとすると時間が足りないんですよ。だったら自分が出来るようになって、伝えたほうが早いって、そう思ったんです。」

西村:
「全然別な見方をすると。例えば、こんな美味しいものを自分が作ったのに、これを食べるのが自分じゃなくてあの指揮者だと思ったら許せないから自分が食べるとかって。」

久石:
「(笑)。いや、あんまりそれないですよ。西村さんも指揮されます?」

西村:
「いや、しません。私自分で作った料理を自分じゃ怖くて食べれない。」

久石:
「あれ?(笑)」

西村:
「いや、毒だらけですから。」

久石:
「(笑)じゃあ、今度西村さんのそれ僕がえっと…。」

西村:
「やってくださいぜひ。毒だらけですから。」

(笑)

西村:
「なんか久石さんの作品って久石さんとこう一体化してるところがすごく僕は感じられるわけですよ。だから自分で音を出して指揮をして、そこまでのところが作曲であると、いう感じもするんですけどね。」

久石:
「たしかに西村さんが言われるように。我々のやっている音楽っていうのは、この番組のタイトルも素晴らしいんですけど、「現代の音楽」ですよね。でも通常は「現代音楽」って言いますよね。現代音楽が陥った最大の問題は、作曲家の頭の脳みその中で完結しちゃった。つまり、それを今言ったように指揮者がいて演奏者がいて、それで観客がいて。そこに届けていかない限りほんとは完結しないわけですね。ところが、ほとんど自己満足のように自分の中で完結、(西村:「紙の上で完結しちゃうようなね、作業としてはね」)、しちゃいますね。やっぱりお客さんからきちんとお金をいただいてコンサートをやり、自分でオーケストラも主導し、観客の反応を見て、「あぁ、ダメだった」とかね、落ち込むとか全部ふくめたそういうことを作業の一貫、全部終わらない限り作曲家の仕事は終わってるとは思わないんですよ。みんなやっぱりワーグナーにしろメンデルスゾーンにしろ、自分の音を最後まで自分で責任をとるっていうときは、やっぱりそこまでやったほうがいいような気がする。」

西村:
「そうですね。だからストラヴィンスキーなんかは振れないのに振ってましたよね。」

久石:
「あっ、知ってます?「春の祭典」書き直しちゃったのね、あの変拍子振れないから。これが難しいですよね。自分で書いたんだから振れるだろうって周りに思われますけど、いやあ。」

西村:
「でも結構変拍子多いですよね。」

久石:
「僕ですか? めちゃくちゃ多いです。」

西村:
「振るとなったら大変ですよね、結構。」

久石:
「ほんとに嫌です。振るほうにまわって一番嫌な作曲家って久石ですね。」

西村:
「間違った時、どういうふうにごまかすんですか?」

久石:
「間違った時はね、何事もなかったように、なかったように合わせていって、しばらく、…」

西村:
「でも何事もなかったように音楽が進行してたら、あれ、誰も見てないんじゃないかとかいうような、疑いをかけたりしません?」

久石:
「えっとね、誰も見てないって思いますよ(笑)。あのね、そこ指揮の難しいところで。要するに、演奏家の人ってもう特に変拍子が多くなったら譜面から絶対目が離せないんですよ。だけどパート譜のこの辺に指揮者をちらちらこう追っかけてるんですね。それでこう弾いてますから、なかったら出来るのかってそうでもないんですよ。いなきゃいけない。僕らは、さっきの質問ですけど、失敗したらどうするんだっていったら、動揺すると全員に伝わりますから、しばらく何事もなかったようにうまいところで帳尻合わせて、区切りのいいところで片手をあげてごめんねっていうジェスチャーをします(笑)。」

西村:
「あっ、それ今度から注目してよう(笑)。そうですか(笑)なんかありがとうございます。じゃああの、指揮者がいらない曲を聴いてみましょう(笑)」

「これちょっと難しい題ですね。「Shaking Anxiety and Dreamy Globe」、globeって地球ですかこれ、夢見る地球。」

久石:
「地球ですね。これね、自分で付けたタイトルなんだけど、今でも言えないんですよ。シュールなタイトルなんですけどね。音が一個一個こう生まれていって、それが一つの有機的な作品になるっていうことは、ちょうどこう細胞が分裂していって一つの生命が宿る、それと同じということでちょっとシュールにこういうタイトルを付けてみました。」

西村:
「これはマリンバ2台ということなんですね。」

久石:
「はい、もともとはギター2本で書いた曲なんですね。それをこう、非常にアップテンポで構造が見えるようにやりたいなと思ってマリンバに直したんですね。」

西村:
「久石さんは打楽器お好きですか?」

久石:
「好きです。西村さんの「ケチャ」大好きですから。」

西村:
「古い曲ですよ。もうちょっと最近のやつを言っていただけますか。」

(笑)

 

♬「Shaking Anxiety and Dreamy Globe for 2 Marimbas」/久石譲(作曲)
(7分10秒)

 

西村:
「これなんか血の流れがよくなってくるような、体にいい、そういう感じの音楽ですよね。久石さん「Music Future」というコンサートシリーズを去年で5回目ですか、あれは毎年続いていくということですね。」

久石:
「はい。こういうちょっとミニマル系の曲の一番先端ものっていうのは、ベースにしたものですね、なかなか日本で聴く機会がなかったので、そういうチャンスがあるといいなと思ってつくったシリーズです。」

西村:
「今後ともご教示いただきたいことがいっぱいあるんですけれども(笑)。」

久石:
「今後ともよろしくお願いいたします。」

西村:
「よろしくお願いします。前回今回とほんとにお忙しいなかスタジオにお越しいただきましてありがとうございました。作曲家の久石譲さんをお招きしてお送りしました。「現代の音楽」ご案内は西村朗でした。」

(NHK FM「現代の音楽」21世紀の様相 ▽作曲家・久石譲を迎えて(2)より 書き起こし)

 

 

公式サイト:現代の音楽
http://www4.nhk.or.jp/P446/

 

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