Posted on 2020/01/08
雑誌「家庭画報 1998年4月号」に掲載された久石譲インタビューです。長野パラリンピックの内容になっています。
ライブな男たち 第4回
久石譲 作曲家
長野パラリンピックに次代の「希望(HOPE)」を見る
この記事が出るころには、すでに長野パラリンピックは終演している。しかし、ある人はこんなことを言っていた。
「オリンピックよりもパラリンピックのほうがはるかに面白いですよ」
「えっ?」
「薬物を使うという嘘がそもそもないし、僕には二本足で滑降するよりも、一本足で速く滑降することのほうがよっぽどすごいことに思えてしまう。一度、目の当たりにしてごらん、本当にすごい迫力だよ。あの情熱といい、あの純粋さといい、オリンピックのようなコマーシャリズムとも無縁だし、スポーツの本来あるべき姿を見る思いだね」
そのパラリンピックが今、まさしく幕を開けようとしている。パラリンピックは体に障害をもつスポーツ選手のオリンピックで、下半身麻痺という意味の英語、パラプレジアとオリンピックをあわせた造語である。そもそもパラリンピックと名称され、オリンピックと同じ場所で開催されるようになったこと自体が近年のことで、1988年の夏季ソウル・オリンピックが最初だった。しかし、歴史が浅いからなのか、パラリンピックの認知度はおそろしく低い。
「三年前、パラリンピック組織委員会から話があって引き受けたとき、僕の周囲はそういう大会があるんだといった表情でした。決して世に知られた大会ではないので話題にも上らなかった。総合プロデューサーになってからは、少しでも知ってもらえるように、とにかく知名度を上げることに努力してきました」
久石譲さんは作曲家だ。宮崎駿監督の『もののけ姫』、北野武監督の『HANA-BI』、それに大ベストセラーになった瀬名秀明さんの小説を映画化した『パラサイト・イヴ』、いずれの映画も久石さんが作曲した。彼が携わる映画は次々に大ヒットしているが、別に映画音楽中心の作曲家ではない。アーティストとしてソロアルバムをコンスタントに出しているし、今年は弦楽四重奏とのアンサンブルによるコンサートツアーも予定している。
その久石さんが、今回は長野パラリンピックの総合プロデュースをしている。具体的には、テーマ曲の作曲、開会式、閉会式、各競技の表彰式、そして開会式の前、二日間にわたって催す前夜祭コンサート。こうした仕事は初めてだ。
「実は、最初は長野パラリンピックのテーマ曲の作曲という依頼だったんです。その時に、あっ、これはちょっと、ただいい曲を書けばいいっていう問題じゃないと思い、しばらく考えさせてほしいと返事したんです。半分断ろうと思っていたくらいでした。それまで地道にボランティア活動をしていたわけではないし、いきなり障害者のスポーツに関わるには、ちょっと重かった。三か月ぐらい悩みましたね。自分がやるべきかどうか考え抜きました。でも、パラリンピックのビデオを見ているうちに、僕も含めてですが、何かこう、垣根があることに気づいたんです。つまり、体に障害を持つ人と持たない人との間の垣根。その垣根は、自分の意思で越えていかなければいけない、越えることがいかに大切かということに気づいたんです。それまでの僕の生活は、障害を持つ人とあまり関わりがありませんでしたから、まず慣れていない。慣れていないから、障害者を神棚に上げるように、逆に大事にしすぎてしまう。それは障害者だけではなく高齢者に対しても同じことがいえると思うんです。生活を分離させてしまう。でもそれは、嫌いだからというのでも、見たくないからというのでもなく、どういうふうに付き合えばいいのかわからないというのが正直な気持ちだと思うんです。この仕事を通して、自分が変われるかもしれない、そんな期待を抱いて、迷いにピリオドを打ちました。また、僕の仕事への考え方は、オール・オア・ナッシング。つまり中途半端な関わり方はしない、するなら完璧にきちっとするし、しないなら何もしない。だから引き受ける時は、テーマ曲をつくるだけではなく、スタッフとして参加しますと返事をしたら、ぜひプロデューサーをと言われて、僕にできることでしたら引き受けますとなったわけです」
総合プロデューサーになり、まず取りかかったのは、大会を演出する上でのコンセプトづくりだ。何を伝えるのか、それを伝えるためにはどうしたらいいのか。最後には、ひとりひとりの気持ちの中に愛や平和といったものを感じてもらえればと考えた。そしてつくったコンセプトが「HOPE(希望)」だった。六年前、ロンドンに住んでいた久石さんが、絵画の殿堂テート・ギャラリーで見た19世紀の英国の画家、ジョージ・フレデリック・ワッツの『HOPE』という絵画をモチーフにしている。沈んだ色調のブルーとグリーンの宇宙空間の中に地球が描かれ、少女が打ちひしがれた姿で地球に腰掛けている。少女の目には包帯が巻かれ、手には一本の弦だけをかろうじて残したくたびれた竪琴がある。
誰がどう見ても絶望的な状況なのに、絵画の中の少女自身は希望を失くしていない。生きているその姿が希望なんです。
「11枚目のソロアルバム『地上の楽園』のコンセプトを探していたときに出会ったのが最初でした。その頃、日本はバブルの絶頂期でした。初めて見た時、随分暗い印象でしたが、何か自分の中に響くものがあったんです。最初は警鐘の意味もあって、自分の気持ちの中で大きかったんですが、今はここまで日本が暗くなってしまい、むしろ絵画からは前向きさを感じるようになりました。これは決して絶望の絵画ではありません。絵画の下には、絵画自体が希望を表わしているのではなく、この少女自身が希望であるというコメントが付記されています。目が見えず、しかも切れそうな細い一本の弦。果てしなく絶望的に見えるけれども、最後まで希望を求めている。この少女自身が希望というコメントに、受動的ではなく能動的なものを感じたんです。誰がどう見ても、悲劇的な状況なのに、少女自身は希望を失くしていない。あの姿で生きていることが希望なんです」
久石さんは、この絵画のブルーとグリーンの色を開会式の基本色に選んだ。そして、この絵画のコピーを持ってアーティストひとりひとりに会い、パラリンピック支援アルバムづくりへの参加を頼んだ。
「この絵画を共通項にして、絵画から感じることをそれぞれに表現してもらいました。ただ、これはあくまでもトリビュート、応援歌ですから、デカダンスになったり、後ろ向きにだけはなってほしくないとお願いしました。昨年の10月末にアルバムづくりを思い立ち、ツアーの合間に交渉。レコーディングは12月1日に始まり、今年の1月の中旬に仕上げましたから、時間はまるでなかった。僕は基本的に音のプロデュースだから、レコード会社をどこにするとか、資金集めはどうするかとか、すべてをプロデュースしたのは今回が初めてでした。すさまじい労力でしたね。ただ、予想していた以上に皆さんが協力的で、前向きに参加してくれたのがすごく嬉しかった。日本でトリビュート・アルバムをつくるのはすごく難しいんです。所属のレコード会社のことや契約のことがあって、昨年の春先に別の企画で一度試みたことがあったんですが、つぶれてしまいました。でも一音楽家としてどうしてもやり通したいと思うようになったんっです。というのも10月だったんですが、ツアー先でたまたまある晩、テレビのドキュメンタリー番組を見ていたら、清水一二さんという、20年間もボランティアでパラリンピックを撮り続けているカメラマンを取り上げていたんです。僕もよく知っている人なんですが、その彼の姿にすごく共鳴したんです。ここまで力を尽くしているのかと……。僕なりに3年間積み重ねてきましたが、まだ100%やりきれていないという思いがよぎって、何とか形にしよう、それが動機でした」
こうして「HOPE」という名のアルバムが誕生した。猿岩石、加藤登紀子、上田正樹、和太鼓の林英哲、ジャズの近藤等則、カウンターテナーの米良美一、チェロの藤原真理、ドリアン助川など、ざっと16名のアーティストたちの力が結集してできあがった。音楽のジャンルもポップスからクラシックまで、両方に精通している久石さんならではの、さまざまな試みがなされたプロデュースである。しかもアルバムは、実費を除いては全額寄付することになっている。障害者のスポーツ用具にあててもらいたいのだ。一枚のアルバムがより多くの人々にパラリンピックを知るきっかけになってほしい。アーティストたちにとっても、参加してよかったと思えるような結果になってほしい。そんなことを願っているという。
「『HOPE』をつくっている時ですが、何か見えない力みたいなものを感じましたね。もし自分の中に、野心や何かの思惑があったら、成功しなかったと思う。ひたすらやり遂げることだけを考えて、ピュアな気持ちで周囲にぶつかっていった。そしたら、周囲の人たちもそれに応えてくれた。ある時期を境に、いろんな人たちがどんどん手を挙げて参加してきてくれて、それにつれてテンションもどんどん上がっていった。何かの力が作用したんじゃないかと思った瞬間がありました」
今回の長野パラリンピックには、32か国から選手・役員を含めて1200名が参加する予定になっている。大会の運営に携わるボランティアの延べ人数は2500名。競技は、アルペンスキー、クロスカントリースキー、バイアスロンのほかに、パラリンピックならではのアイススレッジスピードレースとアイススレッジホッケーの合計五競技で、さらに障害ごとに細かく分かれて34種目を数える。
「21世紀はもう物とか金とか、物質的なことでは幸せになれないだろうと思うんです。こうして今、社会が抱えているさまざまな矛盾や問題は、大概が解決がつかないままに持ち越されていくのだろうけれども、私たちはそうした矛盾を抱えたまま生きていくしかないわけです。でも、受け身ではなく、自分から探しにいくと思うか思わないかで生き方は変わると思う。オリンピックは何だか21世紀にはつながらないような気がするんです。むしろパラリンピックが、これから自分たちが成熟していく上で必要な体験をさせてくれるいいきっかけの場になっていくのではないかという気がします」
(「家庭画報 1998年4月号」より)