Posted on 2014/12/15
「クラシックプレミアム」第24巻は、ベートーヴェン5です。
全50巻のクラシックプレミアム・シリーズにおいて、5巻にも渡って特集されているのは、このベートーヴェンとモーツァルトのみです。
ベートーヴェンは、第1巻にて、交響曲 第5番《運命》 交響曲 第7番 ほか、第9巻にて、交響曲 第3番《英雄》 ほか、第15巻にて、ピアノ協奏曲 第5番《皇帝》 ほか、第18巻にて、ピアノ・ソナタ《悲愴》《月光》《情熱》 がそれぞれ特集されています。
今回の第24巻にて、ベートーヴェン特集の締めくくりはやはり《第9》です。かつ、この師走の時期というタイムリーな発売スケジュールによって登場です。ベートーヴェンが52歳から54歳にかけて3年間を費やして完成させた最後の交響曲。交響曲のみならずクラシック音楽の巨大な金字塔と称されている《第9》。
それだけに多くの録音があり、また名盤も多いなか、フルトヴェングラーやトスカニーニによる歴史的名演から半世紀以上を経て、2000年に録音されたアバド指揮、ベルリン・フィルによる演奏は、その清新さ、作品の秘めたる構造美そのものに迫った演奏であるという点で特筆され、高い評価を得てきたそうです。
《第9》の解説や背景は、あらゆる書物などでも紹介されていますので、ここでは違った視点で興味深かった本号からの解説をご紹介します。
なぜ日本で《第9》がここまで愛されているか?
これもまたいろいろ諸説がありまして、おそらくここでも紹介したと思いますが「楽団への年末年始の餅代」という背景が一般的です。そこあたりのことは久石譲も同じように語っています。
こちら ⇒ Blog. 「考える人 2014年秋号」(新潮社) 久石譲インタビュー内容
それとはまた違った面白い考察があり、なるほど!と唸ってしまいました。
「合唱が使われることによって、アマチュアがベートーヴェンの作品に積極的に関われる可能性ができたことも、この作品の魅力を倍加した。音楽の場合、ただ聴くだけではなく参加できることがどれほど大きな喜びをもたらすかは誰もが感じるところだが、どのような楽器でも、ベートーヴェンを弾きこなせるまで習熟することは並大抵ではない。それに比して合唱は、誰もが比較的容易に近づくことができる演奏参加手段なのである。そして、わが国における昨今の合唱ブームも背景にある。」
「神のような存在であるベートーヴェンが発したメッセージを持つ作品を、さらには誰もが共感できる高邁な理想をうたったベートーヴェンのメッセージを、自らも演奏者の独りとなって訴えることができる喜び。もちろん歴史に屹立する作品の偉大さが大きな要因の一つとなったことは言うまでもないが、おそらくそうした二つの条件(ひとつは、明確な歌詞(言葉)によって大合唱で歌われるという豊かなメッセージ性への魅力)が、この作品をとりわけわが国において類例のない存在に押し上げたのだ。」
どこがポイントかってここだったんです。
【ベートーヴェンという偉大な作曲家の作品、かつ弾きこなすことは並大抵ではない作品を、合唱という比較的容易に近づくことができる演奏参加手段によって】
なるほどなー!と一気にいろんなことを納得してしまいました。なぜ《第9》が愛され続けるのか、そしてなぜ一般人含め参加したくなるのか。年末になるといろいろなコンサートやイベントでこの《第9》がフィーチャーされます。そこにはプロ・アマ問わず、とりわけ合唱には参加型の形式も多くあります。
音楽は聴く楽しみと、そのさらに先には演奏する・参加する楽しみがあると上にも書かれていますが、それはむろん、さらにそこへ、【本来ならばとっつきにくい偉大な古典クラシック音楽に参加できる喜び】が加わるわけなんですね。
「合唱」というキーファクター、そしてそれはイコール、参加しやすい「人が楽器と化す」演奏形態とも言えるわけです。だからこそ世紀を越えて親しまれている音楽であり、残っている音楽なんだな、と、音楽の引き継がれかた、未来への残りかたというものを《第9》を通して考えていました。
歌曲だから強い、歌詞があるから親しみやすい、というわけではないんですよね。実際にクラシック音楽のそのほとんどは歌曲ではなく器楽曲です。
上の考察とは矛盾しているようですが、合唱があったから残った《第9》なのか、《第9》が存在しなくても、第5番・第7番・第3番などでその偉大さは堅持できたのか、CDを聴きながらベートーヴェンの魅力から音楽の不思議さへと思いを巡らせていました。
【収録曲】
ベートーヴェン
交響曲 第9番 ニ短調 作品125 《合唱》
カリタ・マッティラ(ソプラノ)
ヴィオレータ・ウルマーナ(メゾ・ソプラノ)
トーマス・モーザー(テノール)
トーマス・クヴァストホフ(バス)
エリク・エリクソン室内合唱団 / スウェーデン放送合唱団
(合唱指揮:トヌ・カユステ)
クラウディオ・アバド指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/2000年
もうひとつ、前号からの続きで「名演とは何か」のコラム(下)もおもしろかったので、一部抜粋して紹介します。名演のことと、そこから派生してカリスマ演奏家が姿を消している背景まで。
「例えば20世紀最大のピアニストと言っても過言ではないヴラディーミル・ホロヴィッツ。ショパンやリストやラフマニノフについて、彼はそれを超えることはほとんど不可能とも思える名演の数々を残した。しかしそれらが作品に忠実な演奏かといえば、必ずしもそうは言えない。生前の彼はしばしば、「歪曲と誇張の巨匠」とジャーナリズムに批判されたという。ある意味でそれは正しい。低音を楽譜に書いてあるより1オクターヴ下げて弾いて、地鳴りがするような轟きの効果を狙ったり、協奏曲の終わりでわざと猛烈に加速して、オーケストラより1小節近く早くゴールに飛び込むことで、観客のやんやの喝采を得たりするといったあざとい裏技を、彼は再三のようにやっていた。それでもなお、単なる歪曲にはならず、「これぞ作曲家が真に望んでいたことだ…」と観客に思い込ませてしまう。ここに彼の名演の秘訣はあった。」
「カリスマ的名演に特徴的なのは、恭しさとは真逆の、作品を呑んでかかるがごとき「エグ味」である。作曲家に向かってなんら臆することなく、「要するにこうやればいいんだろう!?」「こっちのほうがもっといいだろう!?」と言い放つようなふてぶてしさ。これがない名演はありえない。この点について、ホロヴィッツに面白い逸話が残されている。彼はラフマニノフのピアノ・ソナタ第2番を十八番にしていたのだが、いつもそれを自分流にカットし、アレンジを加えて弾いていた。ただしホロヴィッツは生前のラフマニノフと親交があり、作曲者自身の前でこのアレンジ版を弾いてみせたところ、ラフマニノフから「私の書いた楽譜より、おまえのアレンジのほうがいい」とお墨付きをもらったというのがある。」
「いわば名演は、楽譜の細部などには拘泥せず、作品の一番深いところにある「精神」をわしづかみにしてみせるような演奏である。楽譜の文面を杓子定規に守るだけではダメ。かといって単なる好き勝手もダメ。名演に特徴的なのは、「神の教えは要するにこういうことなのだ!」と言い切るがごとき力であって、オーディエンスを集団的熱狂にかりたてる魔力という点で、カリスマ演奏家は宗教指導者や独裁者に似たところがある。」
「ひるがえって近年、クラシック界からこの種のカリスマ演奏家が急激に姿を消していることは、衆目の一致するところであろう。クラシックだけではないかもしれない。美空ひばりやビートルズやマイケル・デイヴィスのような存在を、今日の音楽界に探すことは極めて困難なはずだ。これは「優しさ」を神聖にして冒すべからざる金科玉条の正義とし、父権的なものを暴力と同一視して、血眼になってそれを去勢し、根絶やしにしようとする近年の社会趨勢と、決して無関係ではないはずである。」
「かつてのカリスマ指揮者は下手な楽員、あるいは気に食わない団員を、その場でクビにすることができた。彼らはオーケストラを恐怖でもって支配した。そうやっておいて、納得いく演奏ができるまで、徹底的に練習でオーケストラを締め上げることができた。今では多くのオーケストラで組合の発言力が増し、予定練習時間をオーバーしようものなら残業代を請求されたりしかねない。そして超過料金をオーケストラに払わねばならないような猛練習を要求する指揮者は、当然ながらオーケストラ・マネージャーに敬遠される。二度と呼んでもらえない……。」
いろんな背景をのぞきこめたようでおもしろかったですね。
また最後のほうには、作曲家とカリスマ演奏家たちの時代がクロスオーバーしていたことも背景にあると書かれていました。つまりは、音楽辞典の中のただの偉人になってしまった今日と、まだ身近で現在進行形であり「直伝」に近いことろで育った往年のカリスマ演奏者たち。彼らにはきっと大作曲者たちの「顔」が見えていたからこそ、やりたい放題できた、と。
こんなおもしろい例え話で締めくくられていました。
「偉大な祖父の遺品を整理していて何か手紙が出てきたとする。親族であれば、ちょっとした言葉づかいの癖から、すぐに故人の意図を察知できるだろう。しかし博物館のキュレーターなら、あるいは後世の大学の研究者ならどうか。当然そこには故人の顔が見えないことに起因する萎縮が伴うであろう。演奏の世界でもこういうことが徐々に20世紀の終わりあたりから始まっているとは考えられまいか。」
「久石譲の音楽的日乗」第24回は、
昨日の自分と今日の自分は同じか?
空間と時間の話から、”自分”という人間における時間軸をもとに、時間の経過にともなう、過去の自分と現在の自分は同じなのか?という、ちょっと複雑な話題によって進められています。
一部抜粋してご紹介します。
「またまた難しい話になってしまったが、何が言いたいかというと自分という存在が確かなものなのか、なぜ自分が自分と言えるかを考えているからだ。他者と自分を空間的に考えると確かに自分はいる、目の前の人とは違うわけだから。では、時間軸上で考えた場合はどうか?昨日の自分と今日の自分は時系列的には別の場所にいるわけだからやはり同じではないということになる。」
「また主体性という言葉は「自分の意思・判断によって、みずから責任をもって行動する態度や性質」と辞書には載っているが、内田樹氏は「違うものを同じものだと同定する機能」でもあるという。つまり「寝るまえの私」と「起きた私」は明らかに別人なのに、同一人物であるとするのはこの主体性なのだ。そして人はこの主体性を「自分」と称し「自分の個性」と言っている。」
「近頃この「自分」やら「自分の個性」という言葉が巷に溢れている。特に若いスポーツ選手が好んでこれを使う。記者の質問に対して「自分のサッカーが」「自分のゴルフが」「自分のテニスが」できれば明日の試合に勝つと。二十歳やそこらで自分の◯◯ができればと言えるほど君たちのいる世界は底が浅いのかとちょっと言いたくなる。またそう言えてしまえる彼らはどういう教育を受けてきたのか?とも思う。これは「自分はまだ何もわからないが練習してきたことを精一杯出し切って頑張る」が正しい。日本語教育が間違っているのか?ちなみに僕はこの歳になるまで「自分の音楽」などと言ったことがない。軽々しく彼らが使う「自分」とは、「自分の個性」を尊重するということで野放しにしてきたゆとり教育の弊害なのか、それとも犠牲者なのか?いやいや彼らを責めても仕方がない、問題は彼らや周りの大人にあるのだから。」
「話が脱線した。もう一度昨日の自分と今日の自分について考える。僕の場合は同じではないという認識で行動する。例えば毎朝起きたらまずピアノを弾く。目的は2つ。この起き上がりの意識がまだボーッとした状態は、コンサートで弾くときの様々なマイナス要因(緊張したり体調が悪かったり)を抱えた状態と同じと考えるから、その状態できちんと弾けたら、コンサートでほとんど問題は起きない。2つ目はいつもと同じテンポで弾いているかどうかの確認だ。これはクリック音に合わせて弾くのだが、同じテンポなのに日によって速く感じる自分と、遅く感じる自分がいる。遅く感じる場合は明らかに速く弾きたいからそう思うのであり、主に寝不足のときや精神状態が良くない場合が多い。速く感じる場合はその曲が身体に入っていないか、まだ身体が眠っているのか(笑)。いずれにせよ昨日の自分と今日の自分は違うのである。」
「最後に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という有名な『平家物語』の一節について考える。別に鐘の音は20年前でも今でも多少錆びついて違っているかもしれないが基本的には変わっていない。それが諸行無常に響くと感じるのは聞いている人間が間違いなく変わっているからだ。万物流転、人は変わっていく。」