Posted on 2014/12/24
クラシックプレミアム第25巻は、グレゴリオ聖歌などです。
音楽の父と言われているバッハよりもさらに前、つまり西洋音楽の起源です。本来音楽とは神に捧げるものとして捉えられていました。のちに宮廷音楽となり自己表現やエンターテイメントとなっていくわけですが、このグレゴリオ聖歌はつまりは宗教色の強い音楽ということになります。
【収録曲】
グレゴリオ聖歌
《めでたし、めぐみに満てるマリア》
アンティフォナ《めでたし女王、あわれみ深きみ母》
フーベルト・ドップ指揮
ウィーン・ホーフブルクカペルレ・コーラスコラ
十字軍の音楽
ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデ:《パレスチナの歌》
獅子心王リチャード:《囚われ人は》
ノートルダム楽派
ペロタン:《地上のすべての国々は》
アルス・アンティクワ
作曲者不詳:《アレルヤもてほめ歌え》 《いま愛は嘆く》
アルス・ノヴァ
マショー:《ダヴィデもホケトゥス》
デイヴィッド・マンロウ指揮
ロンドン古楽コンソート
中世の巡礼の歌 - モンセラート修道院
《星よ、陽の光のように輝いて》 《乙女を称えましょう》
フィリップ・ピケット指揮
ニュー・ロンドン・コンソート
ルネサンスの音楽 - フランドル楽派
オケゲム:《レクイエム》より 〈イントロイトゥス〉 〈キリエ〉
ブルーノ・ターナー指揮
プロ・カンティオーネ・アンティクワ、古い音楽のためのハンブルク管楽アンサンブル
ジョスカン・デ・プレ:《めでたし、マリア、清らかなる乙女》
ポール・マクリーシュ指揮
ガブリエリ・コンソート
バロックの始まり
モンテヴェルディ:歌劇《オルフェオ》より
〈トッカータ〉 〈私は愛するペルメッソの川から〉
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
「久石譲の音楽的日乗」第24回は、
イスラエル・フィルを聴いて思ったこと
自身の演奏会についても語ることの少ない久石譲ですが、今回は自らが観客としてクラシックコンサートに行ったときのことを、作曲者や指揮者としての視点も織り交ぜながらかなり深く深く。クラシック音楽といっても、今日演奏される楽曲、指揮者、楽団などによって、その奥にはいろいろな背景があるのだな、と興味深く読み進めました。
一部抜粋してご紹介します。
「先日、ズービン・メータ指揮、イスラエル・フィルを聴きに行った。日曜日の午後、穏やかな日だった。僕自身は作曲の進行がはかばかしくなくて、とても人の演奏など聴く気になれなかったが、高いチケットを無駄にしたくないし、気分転換も兼ねてサントリーホールに出かけた。」
「曲目はヴィヴァルディ「4つのヴァイオリンのための協奏曲」、モーツァルト「交響曲第36番ハ長調《リンツ》」、チャイコフスキー「交響曲第5番ホ短調」だった。見ての通り大変クラシカルなプログラムで気乗りがしなかった原因もここにある。」
「さてヴィヴァルディは全員立奏でこれはオープニングとして華やかだったし、寛いだ雰囲気も醸し出していて良かった。続いてのモーツァルトはテンポは遅いが、ヨーロッパの伝統そのものと言いたくなるほど王道を行く演奏だった。モーツァルトは難しい。誰が演奏してもそこそこの音はするが様になることは滅多にない。特に日本のオーケストラでは味気ない演奏に何度か出くわした。」
「イスラエルは、中東のパレスチナに位置していて、第二次世界大戦後の1948年に建国されたユダヤ人中心の国家だ。その国のオーケストラ(1936年にパレスチナ管弦楽団として設立された)がなんでこのようなヨーロッパの王道を行く演奏をするのか?そんな疑問を持ちながら休憩後のチャイコフスキーを聴いた。この「第5番」は僕が指揮者として初めて振ったシンフォニーでもある。だから思い入れもあるし、自分の解釈にこだわっている楽曲でもある。」
「ズービン・メータの指揮は手堅く、オーケストラに自由度を与えながらも締めるところは締め、見事なアンサンブルを引き出した。逆に全体がよく見えるような演奏だったために楽曲の持つ基本的な問題、あるいは作曲者がたぶん最後まで迷った、あるいはやりきれなかったことをあぶり出していた。このことに触れると長くなるが、冒頭にクラリネットで演奏されるホ短調の「循環テーマ」あるいは「運命のテーマ」とも言われている主題(これが何度も出てくる)をどう扱うかで成否が決まると言っていい。特に第4楽章の冒頭に同じテーマが、今度はホ長調で出てくるのだが、多くの演奏では、まるで凱旋するように晴れがましく堂々と演奏してしまう。だがスコアをよく見ると第1楽章の冒頭のテーマが弦に変わったのと若干楽器が増えたりはするが、伴奏などの音の構成、配置は一緒なのだ。マイナーがメジャーに変わっただけ、だからここは我慢してやや晴れがましい程度にしておきたい。確かにスコアにはmaestoso(荘厳に)とは書いてあるがまだ辛抱、徐々に盛り上げ、次に登場する第1主題を際立たせる、逆に言うとそうしないと第4楽章の第1主題が際立たない。おそらくチャイコフスキーが最も悩んだ点であり、初演後も本人が納得しないで悩み続けたのはこの「循環テーマ」の仕様と各楽章の主題との整合性だったのではないかと僕は考えている。」
「ともあれズービン・メータ、イスラエル・フィルはその飾りのない演奏(でも遅くて好みではないが)ゆえにこの楽曲の構造を詳らかにしてしまった。ちなみにズービン・メータはユダヤ人ではないが、大の親ユダヤ派である。実は密かにチャイコフスキーはユダヤ人ではないか?と考えていた。なぜかと言うとあの色濃いメランコリック(でもさめた目線ではないが)はユダヤ人共通のものだから。が、これは全く違っていた。」
「ユダヤ人の音楽家は多い。作曲家だけでもメンデルスゾーン、グスタフ・マーラー、アルノルト・シェーンベルク、ダリウス・ミヨー、アルフレート・シュニトケ、ジョージ・ガーシュウィン、スティーヴ・ライヒ、レナード・バーンスタインなど、まだ書き切れないが古典派から現代まで連なっている。演奏家ではアルトゥール・ルービンシュタイン、ヴラディーミル・ホロヴィッツ、ヴラディーミル・アシュケナージ、ダニエル・バレンボイム、ユーディ・メニューイン、イツァーク・パールマン、ギドン・クレーメル……、いやーこれではクラシックの歴史や今日の音楽界の中枢はほとんどユダヤ人ではないか。少なくともユダヤ人を除いてはクラシックを語ることができない。」
「なるほど、地理的にはヨーロッパの中心ではないイスラエル・フィルだが、ユダヤ人という観点から見ると正しくこのオーケストラはクラシック音楽の中心であり、歴史を作ってきたのは彼らの数世代前の人たちなのだから、彼らが直系なのである。王道の演奏は当然だった。ちなみにこのオーケストラの団員が全員ユダヤ人ではないであろうし、イスラエルという国も人口比で20%がアラブ人ではある。」
「ではユダヤ人の画家はどうか?マルク・シャガールしか思い浮かばない。他にもいるとは思うけれど、僕の知っている範囲では彼だけだ。このバランスの悪さ、星の数ほどいる音楽家とほとんどいない画家の差は一体どこからきているのだろうか?」
「実はここにも視覚と聴覚の問題が絡んでいる。いよいよ本題である。」
この結び、次号が楽しみです。