Posted on 2015/1/29
クラシックプレミアム第28巻は、ピアノ名曲集です。
偉大な作曲家たちのピアノ名曲たちを、現代を代表するピアニストたちの名演奏で楽しむことができます。聴きなれたおなじみの曲ばかりですが、屈指の名演奏により新しい印象をうける楽曲も多いです。
【収録曲】
ベートーヴェン
《エリーゼのために》
フリードリヒ・グルダ(ピアノ)
録音/1961年
シューベルト
即興曲第1集より 第3番・第4番
内田光子(ピアノ)
録音/1996年
シューマン
《子供の情景》より〈見知らぬ国より〉 〈トロイメライ〉
ラドゥ・ルプー(ピアノ)
録音/1993年
ブラームス
ハンガリー舞曲 第1番・第5番
カティア&マリエル・ラベック(ピアノ)
録音/1981年
ラフマニノフ
前奏曲《鐘》
ヴラディーミル・アシュケナージ(ピアノ)
録音/1975年
ドビュッシー
《ベルガマスク組曲》より〈月の光〉
アレクシス・ワイセンベルク(ピアノ)
録音/1985年
《前奏曲集》第1巻より 〈亜麻色の髪の乙女〉
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(ピアノ)
録音/1978年
ラヴェル
《夜のガスパール》より 〈オンディーヌ〉 〈スカルボ〉
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
録音/1974年
サティ
《3つのジムノペディ》より 第1番、《おまえが欲しい》
パスカル・ロジェ(ピアノ)
録音/1983年
巻末の西洋古典音楽史では、「なぜ指揮者がいるのか?(上)」がテーマでおもしろかったです。なかなか業界人でなければわからない実態?!なども具体的な事例をふまえて辛辣に紹介されていました。
少し要点を抜粋してご紹介します。
「昔日本のオーケストラのコンサートマスターの方が、自分の楽団の常任指揮者のことをいつもくそみたいにこき下ろしていたのを思い出す。オーケストラと指揮者は敵対関係にあるのが常で、そもそもオーケストラの団員が自分のところの指揮者をほめることなど滅多になく、いずれにしても指揮者とはことほどさように憎まれ役であって、オーケストラから「あんなやつならいないほうがマシ」と思われていない指揮者を探すほうが、実は難しいと言っても過言ではないようなところがある。」
「個々の楽器の「入り」(特にソロのパッセージ)の指示も、指揮者の大事な仕事である。特に金管楽器などは、何十小節、特に何百小節も休みがあってから、いきなりソロが回ってくるということも珍しくない。そういう時はプロであっても入る時に「本当にここで合っているんだろうか…」とプレッシャーがかかる。だから指揮者に「はいどうぞ」とやってもらえると助かる。逆に言えば、ある指揮者がきちんとサインを出せるかどうかの見極めはオーケストラのプレーヤーの最大の関心事の一つであって、サインを出すのが難しいところで「指揮者いじめ」をやったという話も時々聞く。例えばヴァイオリンに非常に複雑なリズムが出てきて、それに指揮者がかかりっきりにならざるをえないような箇所で、金管のプレーヤーがわざと「そこはこっちも難しいので、僕にもサインくださ~い」などと言って嫌がらせをするといった類のことである。こういうときに涼しい顔をして「いいよ」と答え、右手でヴァイオリンを振りながら、左手で金管にサインを出したりできれば、その指揮者の株は大いに上がるだろう。オーケストラ・プレーヤーが何より恐れるのは自分だけが恥をかくこと、つまり「落ちる(今どこにいるかわからなくなる)」ことなのである。」
「超一流のオーケストラともなれば、実は指揮者なしでもたいがいのレパートリーは、自分たちで演奏できてしまうはずである。「こいつはダメだ」とばかりに指揮者を見限ると、もう彼の意向は無視して、コンサートマスターに合わせて自分たちだけで勝手に弾き切ってしまうこともある(もちろん彼らはそんな内幕をばらしたりはしないだろうが、客席で聴いていて明らかにそうだとわかるケースは確かにある)。」
「わかりきっていることをわざわざ指示する指揮者は逆に嫌われる。指揮者は余計なことは何もせず、ただそこに居てくれるだけでいい、ということになる。そもそもオーケストラのプレーヤーたちは、指揮者が何もせずただ目の前に居るだけでも、彼が音楽を隅々まで掌握しているかどうか、あっという間に見破ってしまうはずだ。そして「こいつは何か持っている」と思えばついてくるし、「こいつはダメだ」と思うと無視を決め込む。」
「知人のあるオーケストラ・プレーヤーが言っていた。指揮者が何かを持っているか持っていないか、3分もあればわかる、と。「本当に?」と問う私に、彼は言った。「60人以上のプロが120以上の目でもって、たった一人の人間の一挙手一投足を凝視しているんだよ!彼が言っていること、彼がやっていることが本物か付け焼き刃かなんて、あっという間にわかるよ!」」
「思うに指揮者に究極のところ何が要求されているかといえば、技術もさりながら、「何か言いたいことを持っている」という点に尽きるのであろう。団員に自分たちだけでは到達できない何らかの啓示を与えられるかどうか。「この曲をこうやりたい!」というコンセプトと情熱。ちなみに「あいつは何がやりたいのかわからない」というのは、オーケストラ・プレーヤーがしょっちゅう口にする、指揮者に対する悪口の定番である。口で言っていることと、指揮棒でもってやっていることとが違う。テンポが練習の度に違う。何のためにその練習をさせているのかわからない等々。まったく指揮者というのは、よほどのカリスマか、さもなくばよほど鈍感な鉄面皮の自信家でなければ務まらない、こわいこわい商売である。」
かなり辛辣で厳しい指揮者という立場が浮き彫りにされていますが、(上)となっていますので、次号の(下)に期待です。「とはいっても…」という感じで、指揮者の役どころや指揮者が必要な理由を解き明かしてくれるはずです。
もしくは名指揮者たちが名指揮者と言われる所以などプラス面でも同じような具体的事例をふまえた話があるとおもしろいですね。そういった意味で次号も合わせて「指揮者」の話は完結すると思っています。
補足)
このコラムで例えや実話で出てきたオーケストラ団体は海外オケでした。どこのオケのことだろう?と思われるかもしれませんが。世界各国で活躍されている日本人オケ・プレーヤーはたくさんいますので。
また国内外問わずどのオーケストラでもあり得るお話なのかもしれません。久石譲が振っている楽団も?久石譲と楽団もそんな関係?いえ、久石譲は常任指揮者ではありませんので。久石譲の演奏会では会場ごとにその地域のオーケストラ楽団と共演することが多いです。
まあ常任指揮者であれ客演指揮者であれ、指揮者と楽団の円滑なコミュニケーションにより、最高のパフォーマンスを披露してほしい、そんな演奏会を期待します。
「久石譲の音楽的日乗」第27回は、
マーラー作品の中の「永遠の憂情」
マーラー第5番の話をユダヤの思考にからめて進みます。それにしてもクラシック音楽の奥深さ、解釈の多様さや複雑さ。そういったものを最近のエッセイを読みながら感じます。
一部抜粋してご紹介します。
「マーラーの交響曲第5番を指揮したのは数年前に遡る。全5楽章、70分くらい演奏にかかる大作なので、スコア(総譜)は辞書並みの厚さだ。これを覚えるのか、と思うと随分プレッシャーがかかり、日々の作曲を終えて家に帰り、毎晩明け方まで勉強した事を思い出す。」
「第1楽章の葬送行進曲と第2楽章はとても関連性があり、この二つを一つに括ると通常の4楽章形式とも取れる。また第4楽章のアダージェットは映画『ベニスに死す』に使われ、甘美なメロディーと相まってとても人気があり、僕もこの曲だけ単独で何度も演奏した事がある。」
「初演の1年後に出版したがその後も4~5年かけて妻のアルマや後輩のブルーノ・ワルターの意見を取り入れ補筆あるいは加筆している。このことは前に書いているので省略するが、この出版ということが現代ではピンと来ないかもしれないので説明すると、20世紀初頭ではまだテレビやCD(レコードを含む)、DVDがなかったので、音楽を聴くためにはコンサート、サロン、オペラハウス、街角の辻芸人の演奏、ビアホールなどに出向くしかなかった。作曲家はそれらの場所の初演を目指し曲を書くのだが、その一回限りではなく、やはり多くの人にその曲の存在を知ってもらいたいと思う。」
「その場合が、出版なのである。まだ交通の便も悪く、今日のように情報が溢れているわけでもないので、多くの音楽家や愛好家たちは譜面を買い求め、楽器で演奏し、歌ってその曲を想像し楽しんだ。何だかとてもクリエイティブな感じがするが、今日ではそれが自宅でも聴けるCD、DVDに変わった。もちろん譜面の出版も行われているが、視覚(譜面を見て)から聴覚的情報に変換する作業より、直接聴覚に訴えかけるほうが手っ取り早いので多くの人はCD、DVDを楽しむ。もちろん演奏しようと思われる方は譜面を入手する。」
「とにかく譜面を出版するということは当時の作曲家にとってとても重要なことだった。いや、実は今でもそれは重要なことだと僕は思っている。」
「話を戻すと、マーターの本質は歌曲的な旋律にある。その旋律を複数、対位法的に扱うものだから、どっちが主旋律だかわかりづらい箇所も多い。しかも超一流の指揮者だったからオーケストラを知り抜いているため、トゥッティ(全楽器が鳴っているところ)でも各楽器に音量やニュアンスが細かく書かれている。だから何だかごちゃごちゃしているように見えるため、頭の中で把握しづらい。」
「また美しい旋律が朗々と歌ったかと思うと、小さい頃に聞いた軍楽隊のフレーズが現れ、突然オーケストラが咆哮したりで曲想がコロコロ変わる。そのため楽曲の構成がわかりにくいとされる。中には思いついたことをそのまま書いているだけじゃないか、と毒舌を吐く人もいるのだが前回書いたとおり、意外に伝統的なソナタ形式を踏まえている。」
「その「ほとばしり出る心情」を僕はちょっと持て余した。作曲家的分析だけではとても理解できない何かがあった。見方を変えて徹底的に旋律を歌わせる方向でその時は乗り切ったが、腑に落ちない部分も多かった。むろんこのような大曲は何度も振ってみないと、およそ表現に至らないのだが、それでも何か大きく引っかかるものがあった。」
「しばらくして、内田樹氏の『私家版ユダヤ文化論』や養老孟司先生の著作に触れ、「ユダヤ的なもの」に興味を抱いた。その時わかったのである。あのえも言われぬ感情は一作曲家のものではなく、連綿と続くユダヤ人独特の感性なのだと。その「永遠の憂情」のようなものは、崇高な理念とやや下世話な大衆性(エンターテインメント)が同居し、あるいは瞬時に入れ替わって複雑なプリズムを生む。単眼的な視点ではなかなか理解できないのだが、複眼的に彼のバックボーンなども考え合わせると、わかるのではなく、納得する。あるいは腑に落ちるのである。マーラーに多くの指揮者がはまるわけである。この崇高な理念と大衆性はメンデルスゾーンの作曲した楽曲にもあり、バーンスタインにもある。」
「あの時、それがわかっていれば。今更言ってもしょうがないのだが演奏は間違いなく変わっていた。まあ、人生ってこういうものだと思い直し、次回に期す今日この頃である。」