Blog. 映画『Quartet カルテット』(2001)監督・音楽:久石譲 劇場用パンフレットより

posted on 2016/6/8

2001年公開 映画「Quartet カルテット」
監督・音楽:久石譲 出演:袴田吉彦 桜井幸子 大森南朋 久木田薫 他

久石譲第1回監督作品です。脚本も共同で手がけ、もちろん音楽も久石譲による書き下ろし。映画タイトル「カルテット」とあるとおり、弦楽四重奏をベースとしたストーリーで音楽もクラシカルな弦楽四重奏をベースに構成されていますが、フルオーケストラや、シンセサイザーを織り交ぜた楽曲、久石譲ピアノによる演奏などバラエティ豊かな楽曲群です。

映画公開時、劇場等で販売された公式パンフレットより、この映画の製作過程をご紹介します。

 

 

この作品は僕の自伝ではないけれど、ある意味で僕の物語。
僕の周りにいた、音楽と共に生きようとして悩み立ち止まる、繊細で、美しい人たちの物語です。
-久石譲

 

INTRODUCTION

映画音楽の第一人者、久石譲が映画監督に初挑戦!

誰にも忘れられない夢がある。誰にも捨てられない友がいる…。
『もののけ姫』(宮崎駿)、『BROTHER』(北野武)、『はるか、ノスタルジィ』(大林宣彦)、『時雨の記』(澤井信一郎)、『はつ恋』(篠原哲雄)など、現代日本映画を代表する監督たちの秀作、話題作の音楽監督を一手に担い、海外からも熱い注目を集める久石譲がついに映画監督に挑戦した。その記念すべき第1回作品『カルテット』は、久石自身がかねてより温めていたオリジナル・ストーリーをもとに、弦楽四重奏団を組んだ4人の若者の挫折と再起、愛と友情を描くさわやかな青春ドラマだ。

 

絵コンテは、なんとオリジナル40曲の譜面

もちろん日本屈指の作曲家としての久石譲もまぶしく輝いている。撮影1ヶ月前に劇中使用音楽約40曲を作曲したばかりか、海を渡ってロンドンの一流弦楽四重奏団バラネスク・カルテットとそれらを録音。演奏シーンの撮影には現場で実際に音楽を流しながら、譜面を絵コンテ代わりに俳優、カメラの動きを決定するという異例の方法がとられた。映画で音楽はどう使われるべきか、どう見せる=魅せるべきか。これまでになくリアルな演奏描写、スキのない音楽配置は、出演陣に課せられた弦楽器の演奏訓練、及び半端なクラシックの使用に甘えないオリジナル曲の創作を含め、映画音楽を知り抜いた才人ならではの演出で、結果、従来の日本映画にはない本物の”音楽映画”となった。

 

日本映画界の第一線で活躍するスタッフが集結!

久石自身による原案をもとに、『君を忘れない』『ホワイトアウト』などの脚本を担当し、『恋は舞い降りた。』で監督も手がけた長谷川康夫が約1年をかけて久石と共同で脚本を執筆。撮影には『金融腐蝕列島/呪縛』の阪本善尚が久石たっての希望で登板。大林宣彦作品で知り合った両者の息の合った映像処理も本作品の見どころの一つだ。そして音楽監督には、勿論久石譲自身が兼任。編集終了後もできあがった映像を見ながら音楽を追加作曲し、より緊密な作品の完成に尽力している。撮影は2000年8月20日から9月22日まで行われ、東宝・砧スタジオのほか、東京都内、熱海などでロケが敢行された。

 

PRODUCTION NOTES

そもそも”カルテット”とは?

カルテット(英語表記で quartet)とは、広義で四重奏(唱)のこと。四重奏曲を指すこともある。『新音楽辞典』(音楽之友社刊)には「4個の独奏楽器による室内楽重奏。弦楽四重奏が基本的で、(中略)ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロにピアノ四重奏、木管をひとつ加えたフルート四重奏、オーボエ四重奏、木管、金管、ホルン、サクソフォーン四重奏その他各種の編成がある」と記されている。今日まで続く弦楽四重奏曲の基本様式を確立したのはフランツ・ジョゼフ・ハイドン(1732~1809)という説がもっぱらである。その醍醐味は様々だが、劇中で三浦友和扮する青山助教授わいく「アンサンブルの中でも弦楽四重奏ってのは、余分なものをすべて削ぎ落とした究極の形態だ。演奏家としての力量がこれほどはっきり表れるものはない」とのこと。幼少の頃バイオリンをたしなんでいた久石自身の弦楽四重奏に対する考え方としてとらえてもいいだろう。

 

ロンドンで録音されたオリジナル40曲

撮影スタート1ヶ月前の2000年7月に、劇中で演奏される楽曲40曲がロンドンで録音された。本格的な音楽映画を作り上げるため、ありきたりのクラシックではなく、自身のオリジナル曲で攻めいたとする久石の意気込みの結果だった。演奏はアレクサンダー・バラネスク率いるバラネスク・カルテットが担当したが、同カルテットと久石は既に懇意の仲で、撮影を控えた2000年5月にリリースされたオリジナル・アルバム「Shoot The Violist」(ポリドール)でも共演を果たしている。同アルバムでは久石が過去に手掛けた『ふたり』『キッズ・リターン』『菊次郎の夏』などの主題曲が演奏&収録されており、同じく『となりのトトロ』『キッズ・リターン』『HANA-BI』がドサ回りの場面で演奏される映画本編のバージョンと比べても興味深いだろう。

また、俳優たちは撮影前に用意された曲を個々に練習しなければならなかった。主演の袴田吉彦は4ヶ月に及ぶヴァイオリンの訓練に追われ、さらにコンクールのシーンで演奏する主題曲の難しさにも悲鳴を上げた。「この映画の苦労なら2時間は平気で話せる」とは演奏シーンを撮影中の彼から漏れた言葉。一方、大介役の大森南朋は「撮影前の1ヶ月の準備が助かってます。現場も居心地がいいです」と、終始明るい笑顔だった。

 

久石監督が熱望したカメラマン

1年以上をかけたシナリオ作業を受けて、いよいよ撮影の準備を始めた久石が熱望したのが阪本善尚カメラマンの起用だった。両者は大林宣彦監督の『はるか、ノスタルジィ』の現場で出会い、その後同監督の『水の旅人』でさらなる交友を深めた。「現場が好きな作曲家だと思った」とは『はるか、ノスタルジィ』小樽ロケでの出会いを振り返っての阪本カメラマンの言葉。久石の初監督ぶりには「最初の一週間は戸惑いがあったかもしれないけれど、以降はもう他の監督と同じですよ。ズバズバ御意見をおっしゃる。音楽家らしい独特のリズムがありますね。特に”音楽とはアクションです”という言葉が印象に残っています。オーソドックスなタイプだけれど、ものすごい量を撮ってますね。イメージもはっきりされているし。僕もMDを買って音楽の勉強をしました。やはり一芸に秀でている人は違うと思いました」とのこと。絶妙のコラボレーションは作品を見ての通りだ。

 

映画と音楽の究極の関係を実現

久石譲は今回の監督挑戦にあたり、あくまで”映画音楽家・久石譲”として演出に臨むことを広言していた。つまり、これを契機に今後、監督業を定期的にこなしていくのではなく、映画音楽の仕事を極めていくための経験の一つとしての監督挑戦だと言うのだ。これまで宮崎駿、北野武などの有名監督との仕事を通じて知った映画や映画音楽の世界を、自身がどれだけ自分のものにしたかという検証が一つ。そして映画音楽を手掛ける者が映画監督を試みるときにできることへの挑戦が一つである。特に後者については本格的な”音楽映画”を作ることが第一の目的だった。音楽への理解が足りないために半端な音楽挿入、幼稚な演奏描写などに終わっていることが多かった過去の作品に対する答えを自分なりに出そうとしたのだ。その結果、音楽が台詞となった『カルテット』では、幸福でリアルな映画と音楽の究極の関係が誕生したと言っても過言ではない。音楽が映像に、映像が音楽にそれぞれ新たな命を吹き込んだのだ。久石は言う、「後悔はありません」と。

 

総額数億円の小道具と『二人羽織』、『合わせ鏡』

この映画のもう一つの主役は「楽器」。楽器は「小道具」でもあるが、この映画ではとても重要な役割を担っている。プロ・レベルの楽器をぜひ撮影に!という久石の要望は、日本の弦楽器業界ではナンセンスな話で、楽器探しも非常に困難を極めた。が、とある楽器商が今作品の企画意図を理解し、「本格的な音楽映画であるならば中途半端なものはお貸しできない」と、1700年代イタリア、及びフランス製のオールド楽器を惜しみなく提供。これらの銘器を使っての演奏シーンは、まさに今作品のメイン。ではなぜ、久石はこれらの銘器を必要としたのか。久石曰く「やはり本物の楽器は色、(木目の)模様、スタイル、どれをとっても素晴らしく、撮影していてもとても美しい。それと、これらの楽器を使って演じる役者達が楽器をとても大切に扱います。このことは演技においても、非常に良い影響を彼らに与えています。」俳優はクランクインまでの間、時価数千万円の楽器を手にプロの演奏家から個別にトレーニングを受ける。そして、撮影では監督考案による様々な撮影技法が駆使された。その中に『二人羽織』と『合わせ鏡』と呼ばれるものがある。『二人羽織』は演奏シーン中、顔の表情のアップの撮影の際使用された方法で、これは実際に演奏できるプロの演奏家が役者の背後(もしくは下方)から左手のみを差し出して楽器を演奏し、表情、及び右手の弓の演奏は俳優が演じる、というもの。また『合わせ鏡』は、実際に演奏している演奏家の動きを俳優が演じやすいように、撮影中の役者の対面でプロの演奏家が同時に演奏し、役者はその演奏家を見ながら演じる、という方法だ。これらあらゆる撮影技法によって、よりリアルで迫真のシーンが撮影された。

(映画「Quartet カルテット」劇場用パンフレット より)

 

その他、パンフレットでは、映画主要キャストによるインタビュー等も掲載。
袴田吉彦 / 桜井幸子 / 大森南朋 / 久木田薫

 

久石譲 カルテット パンフレット

 

Blog. 次のステージを展開する久石譲 -2013年からの傾向と対策- 3

Posted on 2016/06/04

久しぶりにテーマを掲げて進めています。

ここまでは下記よりご参照いただき、そのままつづけます。

Blog. 次のステージを展開する久石譲 -2013年からの傾向と対策- 1

Blog. 次のステージを展開する久石譲 -2013年からの傾向と対策- 2

 

 

6.交響曲を完成させる時期(とき)がきた (WDO2016初演予定)

いつかは作曲家としてしっかりとした交響曲を書きたい、と過去語っていた久石譲。2013年以降その作曲活動スタンスをクラシックに戻すことで、今まさに交響曲を完成させる時期がきた、ということでしょうか。ここ数年間はそこへもっていくためのストレッチ、ウォーミングアップ期間だったという見方もできてきます。

『Sonfonia for Chamber Orchestra』(2009)の発表時、「副題として”クラシカル・ミニマル・シンフォニー”とつけたいくらいなのだが、それは、クラシック音楽が持っている三和音などの古典的な要素をきちんと取り入れてミニマル・ミュージックの作品にしたかった」とも語っていました。このことは【3.クラシック方法論による作風が、新たな一面を引き出す】項での考察とも整合性がでてきます。たとえば『Sonfonia for Chamber Orchestra』は全3楽章ではありますが、全楽章ともミニマル・ミュージックが基調となっており、急・緩・急の手法をとっていません。当時久石譲が”クラシカル”や”交響曲”と銘打たなかった、自身の明確な線引きが見え隠れしてきます。

ということは…?

クラシックの方法論により、多楽章(全3楽章:急・緩・急 もしくは全4楽章:急・緩・舞曲・急など)で構成された作品であり、古典的な要素もしっかり盛り込んだ正統的な交響曲。作品コンセプトとして「3和音」など楽典的要素をすえて第1主題・第2主題・提示部・展開部・再現部などと構成され、”East Land”(作品名)という世界観が築きあげられた作品。従来の壮大なシンフォニーからより進化した、立体的な響きを求める楽器編成や管弦楽法(オーケストレーション)によって、大編成フルオーケストラでありながらシャープでソリッドな「現代の音楽」を高らかに鳴り響かせる、新境地久石譲の記念碑的作品である、かもしれませんね。

 

「久石譲 近年におけるアンサンブル・オーケストラ主要作品」リストにも紹介されていたとおり、『交響曲第1番 (第1楽章)』という作品が2011年一度だけ披露されています。第1楽章のみの未完作品のまま現在にいたります。この当時、「当初、全3楽章20-25分ほどの曲を考えていたが、第3楽章のスケッチに入った途端、第4楽章まで必要と感じ」(第1楽章のみの演奏となる)と久石譲が語っている記録があります。私個人は、この作品は未聴のため多くを語ることはできません。ただ、”披露された第1楽章はミニマル要素を取り入れた変拍子で構成され、パーカッションも鳴り響く大編成の作品”、と演奏会に行かれた方のレビューを参考までに。

さてその答えは?

本来であれば、この未完交響曲を完成させたもの、それが『交響曲第1番「East Land」』と推測するのが順当だとは思います。でも、でも、もしかすると…。未完交響曲の着想は2011年、それをベースに再構築することはもちろん想定できるのですが、2013年以降大きな方向性の転換とその結実ぶりからみたときに。上の”クラシックの方法論により~”箇所で書いたような、再度ゼロベースでスタートし、新たな着想点から作品をつくるのかもしれない、そんなもうひとつの可能性も感じてはいます。こればかりは何が起こってもおかしくない、いかなる完成版であっても純粋に楽しみです。

「East Land」、もしこのキーワードが”世界の極東、日本”(※)を意味するならば。「久石譲&新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ2016」のコンサート・テーマは「再生」。同2014「鎮魂」、同2015「祈り」から、前を向いて踏み出すとき。その一歩を私たちが生活する日本から、私たち一人一人から。「もののけ姫」が交響作品化第2弾として選ばれたことも、トータル・コンセプトとしてまた必然、なのかもしれません。

(※)
ひとつの推測です。一般的に「極東」をさす英語は「Far East」です。この場合ロシアや中国、もしくはその東側地域や日本も含めたヨーロッパからみた世界の極東を意味することが多いようです。「East Land」とは、より範囲を限定することでの”極東の島国=日本”という連想になるのではないか、という勝手な推測ですので、ご了承ください。

 

「演奏会において古典クラシック音楽と自作を並べることの大変さ苦しさ」という表現で近年よく語る久石譲。ベートーヴェン:『交響曲第9番〈合唱付き〉』と久石譲:『Orbis for Chorus, Organ and Orchestra』、ドヴォルザーク:『交響曲第9番「新世界より」』と久石譲:『Sinfonia for Chamber Orchestra』。このように近年の久石譲コンサートでは、古典と自作を同一演奏会で並べるプログラムが多く見られます。そしてこれから先、次のステージとして古典交響曲に自作交響曲を並べる、そんな日がくるのかもしれません。もっとその先には、久石譲が「現代の音楽」としてアルヴォ・ペルトやジョン・アダムズの交響作品を演奏するように、国内外の指揮者や楽団が、久石譲の交響曲と古典交響曲を並列して演奏する、そんな日もまた訪れるのかもしれません。

 

7.シブリ交響作品化にも影響を及ぼすのか

この答えはNOでありYESだと思っています。それはスタジオジブリ作品がそもそもそれだけで確固たる世界観を表現しているからです。本編音楽やサウンドトラック盤から再構築されたとして、いずれの作品もコンセプトも骨格もはっきりしています。大改訂することよりもオリジナルを継承したスケールアップ、オーケストラ編成をベースにした交響作品としての「交響詩」や「交響組曲」という手法をとるのだろうと思います。

『Symphonic Poem “NAUSICCÄ” 2015』は、『交響詩ナウシカ』(2007)を壮大にスケールアップしたもの。そのなかでも特筆すべきは「巨神兵」パートが新たに組み込まれたことです。ナウシカのもつ”光”に、巨神兵の”影”を持ち込むことであらゆる表裏一体の真理、その世界観は大きく深みをましています。オーケストレーションにおいても、弦楽合奏・コーラス編成ともに不協和音を堂々と響かせたこのパートは、近年の久石譲が色濃く反映されているとも感じます。

今年「久石譲&新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ2016」コンサート・ツアーにて、第2弾として初演予定の『交響組曲「Princess Mononoke」』においても、『交響組曲 もののけ姫』(1998)がベースにあります。全八章約50分に及んだ交響組曲を、どのように再構築するのか。近年のオーケストレーション傾向からみたときには、「レクイエム」や「黄泉の世界」のパートがもし盛り込まれるならば、おそらく新しい響きをつくるのではないかという大きな期待を膨らませています。

久石譲の匠技がフルスペックで発揮されるのは、「千と千尋の神隠し」あたりではないか、と想像するだけでもワクワクします。しますが、スタジオジブリ交響作品化シリーズとしては、限りなくクライマックスに近い位置づけではないかなとも思っています。スタジオジブリ長編映画×久石譲音楽全11作品、何年かかって完結するのでしょうか。ボーナス・イヤー、ドリーム・イヤーとかないかな!?なんて。そんな乱れた心は置いておいて、この交響作品化シリーズを同時代性においてリアルタイムに享受し、聴き喜ぶことができる私たちは、過去人にも未来人にもない幸せな特権ですね。

 

8.まとめ ~すべてはこの作品が大きな布石だった~

1.宮崎駿監督長編引退(2013)が与えた影響と分岐点
2.エンターテインメントの制約がなくなったときに、自ら創り出す制約=作品コンセプト
3.クラシック方法論による作風が、新たな一面を引き出す
4.「ミュージック・フューチャー」シリーズと「アメリカ」が与えた影響
5.大衆性と芸術性がクロスオーバー、象徴する2作品
6.交響曲を完成させる時期(とき)がきた (WDO2016初演予定)
7.シブリ交響作品化にも影響を及ぼすのか

これらの考察点をもとに、テーマ・レポートを進めてきました。その流れのなかで俄然存在感を主張しだしたのが、あるひとつの作品です。『Single Track Music 1』、「バンド維新2014」に委嘱された吹奏楽作品です。映画「風立ちぬ」「かぐや姫の物語」(2013)の音楽制作を終えて、おそらく最初に書き下ろされたオリジナル作品になるのではないか、と思います。

この作品コンセプトは「単旋律のユニゾン」ということで、従来のミニマル・ミュージックとも少し異なる、今振り返れば新しい作風の第一歩だったのではないかという気がしてきます。”これからはクラシックをベースに、新しいことをやっていくよ”という名刺代わりな一曲、決意表明のようなものだったのではないかと。吹奏楽作品として書き上げたあと、早いタイミングで自身のオリジナル・ソロアルバム「ミニマリズム2」に収録。さらには作品のもつテーマやコンセプトをより明確に具現化すべく、[サクソフォン四重奏と打楽器版]というアンサンブル編成で再構築。その後の作品群へと派生する大きな布石だったのではないかと思えてきます。時間軸を俯瞰した流れで、あらためてしっかり聴いてみると、おもしろい作品だなと印象が変わってくるから不思議です。

 

コンサート・パンフレットに紹介されていたオリジナル作品リスト。そこに『Untitled Music』と『三井ホームCM音楽』を補足追加し、2013年以降に書き下ろされた新作および新楽章を赤太字・下線に、過去作からの改訂や楽章改訂などの再構築を青太字にしてみます。(原典は1.をご参照ください)

 

久石譲 近年におけるアンサンブル・オーケストラ主要作品

  • DA・MA・SHI・絵
  • Links
  • MKWAJU 1981-2009 for Orchestra
  • Divertimento for string orchestra
  • Sinfonia for Chamber Orchestra
    1.Pulsation / 2.Fugue / 3. Divertimento
  • 弦楽オーケストラのための《螺旋》
  • 5th Dimension
  • 交響曲第1番 (第1楽章)
  • Shaking Anxiety and Dreamy Globe
    [2台ギター版] [2台マリンバ版]

——————————————————— composed after 2013

  • Single Track Music 1
    [吹奏楽版] [サクソフォン四重奏と打楽器版]
  • String Quartet No.1
    1.Encounter / 2.Phosphorescent Sea / 3. Metamorphosis / 4.Other World
  • Winter Garden for Violin and Orchestra
    第1楽章 / 第2楽章 / 第3楽章
  • 祈りのうた ~Homage to Henryk Górecki~
  • The End of the World for Vocalists and Orchestra
    1.Collapse / 2.Grace of the St.Paul / 3.D.e.a.d / 4.Beyond the World
  • 室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra
    第1楽章 / 第2楽章 / 第3楽章
  • (Untitled Music)
  • コントラバス協奏曲
    第1楽章 Largo – Con brio / 第2楽章 Comodo / 第3楽章 Con brio
  • Orbis for Chorus, Organ and Orchestra
    1.Orbis ~環 / 2.Dum fāta sinunt ~運命が許す間は / 3.Mundus et Victoria ~世界と勝利
  • (三井ホームCM音楽)
  • 「TRI-AD」 for Large Orchestra
  • 交響曲第1番「East Land」
  • 祈りのうた II

 

・・・?

・・・!!!

そうか!そういうことだったのか!頭の中で、作品リストがパズルのように交錯し、違う形(配置)を描き出しました。

と冒頭に書いたそのパズルと配置とは、上のようなリストの見方です。『Single Track Music 1』を起点として1本の線を引きます。そしてそのカテゴライズのなかから、”書き下ろし””改訂””再構築”などをすみ分けしていったイメージが上の色塗りになります。気が早くも、今年の夏初演予定の『交響曲第1番「East Land」』『祈りのうた II』をリストに含めていますが、次のステージを展開している新境地の久石譲作品として、同種赤太文字・下線作品群の延長線・発展系にあるだろうことは、大きく外れていないと思います。

 

 

結びにかえて。

現在進行形の久石譲ファンであることを自負していました。過去の久石譲作品も、特別な思い入れのある作品も数多くあります。そして同じように今の久石譲音楽を好きでいる自分もいます。そう言ってきたのに、「あれ、なんか違う」「過去のああいう作品を期待していた」と、直近オリジナル作品にはどこかそういった思いやズレがあったのかもしれません、無意識に。だから素直に聴けていなかった、無心で初対面できていなかった、結果受け止められなかったんだろうと。『「TRI-AD」 for Large Orchestra』を聴いたときの、なにかひっかかる違和感を持ってしまったのはここに起因します。

2013年以降の初演や改訂初演という時系列で見た場合に、『The End of the World for Vocalists and Orchestra』『Orbis for Chorus, Organ and Orchestra』のようなオリジナル版から昇華された完全版がある一方で、『コントラバス協奏曲』『「TRI-AD」 for Large Orchestra』のような明らかに作風・着想点・コンセプトの異なる新作も混在し初演披露されてきました。だから自分の頭と心のなかで、予測する新作・期待する新作の照準が絞れていなかった。「ヤバイ!自分の感覚が過去にひっぱられていた。もう久石譲は次のステージを展開しているんだ、ついていけてなかったんだ!」という閃光が走ったわけです。コンサート・パンフレットに感謝。

 

変わってしまった、とそっぽを向くのは簡単です。でも、わかりたい気持ちのほうが強い。いつも無条件に手放しで何を出されても受けいれますよ、とはならないかもしれません。一方で自分の無知や固執のせいで、見えてない部分があるんだったら、というのがこのテーマで書こうと思ったきっかけです。

『交響曲第1番「East Land」』も、今回のテーマ・レポートをしっかりと頭と心で整理することで、どんなものが飛び出してくるのか、期待と楽しみでいっぱいになります。たとえそれが素人にはいくぶん難解であったとしても、「おもしろい!」と思える自分でありたい。事実、近年の作品群をあらためて聴く・考える・書くを繰り返した一連の作業は、それぞれの作品に新たな発見と愛着を感じることができました。そうやってまた自分のなかでの久石譲音楽が豊かになったことは喜びです。

答えは久石譲ご本人にしかわかりません。それでも「こうかもしれない」とわかろうとすることも、聴衆や観客としてとても大切なことだと思っています。もし久石譲のファンでありつづけたいならば、自分もまた学びつづけなければいけない。いろいろなものに触れて、久石譲だけではないクラシック音楽や現代音楽にも耳を傾けることで、俯瞰して久石譲という作家性が見えてくる。海外で生活してみて、はじめて心に刻まれる日本への想い誇り、と同じ感覚でしょうか。だから、ファンとして視野や思考がガラパゴスになってしまったらだめですね、と言い聞かせ。主観全開ではありますが、言葉にすることの重みも感じながらの全力投球でした。書き記すことに意義があり、稚拙でも今の自分を出し切ることで、ひとつの通過点としたい。

このテーマは、一個人の解釈であり、わかろうする過程です。

 

わかろうとするからこそのPS.

『Untitled Music』『コントラバス協奏曲』はTV放送音源。『The End of the World for Vocalists and Orchestra』もTV放送音源でしたが、このたび7/13CD発売でひと安心。本来であれば『Winter Garden for Violin and Orchestra』『室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra』『Orbis for Chorus, Organ and Orchestra』もしっかりと考察の素材としたかったのですが、未発売音源。『「TRI-AD」 for Large Orchestra』は「読響シンフォニックライブ」(8月放送予定)にて、フルサイズ・プログラムとなりますよう、どうかよろしくお願いします!

 

テーマに興味を持っていただいた人へ

今回まとめるにあたって、2013年くらいからを振り返り紐解いた当サイト内での資料ページです。今読み返すと興味深い久石譲の言葉、伏線として現在の活動につながっているインタビュー、私がコンサートやCD作品で感じた感覚へのタイムスリップ、さまざまな点と線が見てとれます。

 

 

 

久石譲 傾向 論文

 

Blog. 次のステージを展開する久石譲 -2013年からの傾向と対策- 2

Posted on 2016/05/31

久しぶりにテーマを掲げて進めています。

ここまでは下記よりご参照いただき、そのままつづけます。

Blog. 次のステージを展開する久石譲 -2013年からの傾向と対策- 1

 

 

4.「ミュージック・フューチャー」シリーズと「アメリカ」が与えた影響

『The End of the World for Vocalists and Orchestra』(WDO2015版)を聴いたときに、明らかに『The End of the World』(2009「ミニマリズム」収録版)とは違う空気感を感じていました。とても霧がかったアメリカ、ニューヨーク・マンハッタンを連想させる…写真でいうと高層ビルのそびえ立つ洗練された街、でもそれはモノクロの世界。

なにがアメリカを連想させるんだろう?

2014年から新しいコンサート企画として始動した「ミュージック・フューチャー・シリーズ」。とりわけ2015年のVol.2ではアメリカをテーマに据え、アメリカ作曲家の作品や、自身の新作を披露。なにがアメリカらしさを連想させるんだろう、とこのあたりの作品からずっと考えていました。もちろん曲想でいえば『The End of The World for Vocalists and Orchestra』も『コントラバス協奏曲』も楽章のなかにジャズ・エッセンスを盛り込んだセクションはありますし、『室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra』ではサクソフォンが前面に出ていたようには思います。

でも、果たしてそれだけだろうか?

……

やっと微かな小さな糸口のひとつを見つけました。楽器編成とオーケストレーションの変化です。

 

管楽器

木管楽器では従来以上に高音域パートのフルートやピッコロが特徴的に使われています。さらにその奏法が強く息を吹きかける、とてもシャープな響きになっているのではないか。金管楽器では、あまり従来の久石譲作品には見られなかったミュートを使用した奏法が増えたのではないか。ミュートとはカップやフタのようなものをラッパの部分にかぶせるものです。それによってとても乾いた音、乾燥した響きになります。管楽器でミュートを使用した場合、ジャズにおける奏法でも定番ですので、ジャズエイジ、アメリカという連想ゲームを音からするからかもしれません。そうでなくてもぐっと現代的な響きにはなります。

 

パーカッション

これまでも久石譲のオリジナル性の強みとして、様々なパーカッションが作品を彩ってきました。その多くはオーケストラ・パーカッションだけではなく、ラテン系などの民族楽器パーカッションを散りばめ、エスニックなエッセンスや、隠し味となってきました。

ところが、直近の作風では、これらの特殊楽器よりも、オーソドックスなドラムセットを使用している場合が多くみられます。バスドラム・スネアドラム・シンバルというセットです。またスネアやシンバルもスティックで叩くだけでなく、ブラシを使った奏法もあるため、これまたジャズにも共通するのですが、アメリカらしくも聴こえてきます。

どの作品がどれにあたるかは線引きが難しいのですが、総して『室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra』『コントラバス協奏曲』『「TRI-AD」 for Large Orchestra』などで強く印象を受けます。

 

このひとつの糸口をつかんで、あらためて『The End of the World』(2009「ミニマリズム」収録版)と『The End of the World for Vocalists and Orchestra』(WDO2015版)を聴き比べていきました。

WDO2015版第2楽章の2:00くらいから、ミニマリズム版ではマリンバなどのアクセントが奏でられたいた箇所に、木管楽器のピッコロ系が一層追加されています。そしてそのあとに、新たに書き加えられたサクソフォン・セクションへと流れていきます。サックスを使用することでアメリカ感がますことは久石譲の過去インタビューにもあったような気がします。もちろんこの第2楽章は展開するにつれ、ジャズ風セクションに入っていくわけですが、それだけではないアメリカへの色濃い変化。それがフルートよりも高音域のピッコロとその強く息を吹きかける奏法、サックス・セクションにあったのではないか、と思い始めました。

WDO2015版第4楽章の1:00くらいから、合唱セクションに入りますが、そこでもミニマリズム版にはなかった(後半には出てきますが)、ピッコロのアクセントが非常に印象的に配置されています。また第4楽章では、パーカッションにも変化がみられます。トライアングルが編成され、ティンパニ、ドラ、シンバルも従来以上に随所に緊迫感をもって響きます。これによりミニマリズム版にあったシンフォニックな響きから、より立体的な響きへと作品全体が進化したのではないか。

トライアングルはWDO2015版第4楽章2:00以降の合唱パートにはほぼ入っていますので、聴き比べやすいと思います。ミニマリズム版にも編成されているかもしれませんが、聴きとりにくく。いずれにせよ、従来よりも前面に打ち出されていることはたしかです。

フルオーケストラとしての音の厚みや塊から一歩進めて、効果的な楽器編成とオーケストレーションによって、おうとつ感や遠近の距離感、つまり立体的かつよりくっきりとシャープな輪郭になったのではないか。その一役を担っているのが管楽器の奏法やパーカッションではないのか、という見解になりました。

 

楽器や奏法からくる響きだけで「だからアメリカだ」「古典とは違う現代の響きだ」というのは、いささか安直なのはわかっています。もちろんほかにも見えていない部分が多く潜んでいるはずです。それでもこれまで自分の中で解消することのできなかった、糸口のひとつにはなったような気がしています。

「久石譲&新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ2015」コンサート・レポートにおいて、あの『交響詩ナウシカ2015』の初演をさしおいて、『The end of the World for Vocalists and Orchestra』について、「個人的には本公演で一番震えた作品です」なんて書いていたのですが、そのときに感覚的・直感的に印象に強く刻まれたことが、ここにきて直近の作品群から逆流することで、やっとひとつのとっかかりを見つけることができた、のかもしれないと思うと少しうれしくなります。

 

作品群を上から下から逆流ついでに。

 

「ミュージック・フューチャー」+「アメリカ」=『コントラバス協奏曲』

これまでの考察4.をもとに、もうひとつ明確に浮かびあがってきました。「ミュージック・フューチャー」コンサートは、室内オーケストラや室内アンサンブルにこだわっていて、いわば小編成です。そのアンサンブルへのこだわりが結実したのが「ミニマリズム2」(2015)というCD作品で、収録曲の多くは同コンサート企画にて披露されています。

もう一度『コントラバス協奏曲』をじっくり聴いていきました。するとそこには管楽器や打楽器・パーカッションの奏法にみられる同じような響きが随所にありました。ピッコロ、シロフォン、グロッケンシュピールなど。

『コントラバス協奏曲』ってアンサンブル?

コントラバスを主役に据えるということは実はものすごく挑戦的なことなのかもしれない、と。それは音域の狭いうえに低音域であり、なかなか前面には出にくい響き、つまり埋もれてしまいやすい。同じ弦楽であるヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、これらの弦楽合奏を悠々と音厚で奏でようものなら、コントラバスは主張できたとして低音域の音厚。でもソリストとしての独奏となった場合は、厚みでは負けてしまい、ゆえにピッツィカートが効果を発揮するのかも、など。

この作品で久石譲が巧みにオーケストレーションしているのは、弦楽合奏にかえて管楽器・打楽器・パーカッションを各々の楽器の特性を活かし、色とりどりに配置していることです。全体としては音の塊として厚くしすぎることなく、余白のある音楽、輪郭のくっきりとしたそぎ落とした構成ができあがります。さらに薄くならない、単調にならない、間延びしないよう、絶妙にオーケストレーションされているのが各種管楽器・打楽器・パーカッション。そこにコントラバスを主役として迎えているわけです。

とりわけ管楽器+パーカッション、打楽器+パーカッションという旋律を数多く聴くことができます。パーカッションがリズムを刻んだり、拍子を打つ役割だけでなく、管楽器や打楽器と同じフレーズで重ねられているということです。音程のある管楽器群や打楽器群で音に厚みをもたせるところから、基本的には音程のないパーカッションを重ねることで”薄くならない””単調にならない”という、広がりのある色彩豊かな展開を実現しています。編成されているパーカッションの種類も豊富なうえに、同じ楽器でも奏法バリエーション豊かで聴くたびに新たな発見があります。これを一寸狂わぬ演奏で、しかもレコーディングではない一発勝負の公開収録コンサートで、見事に表現している読売日本交響楽団の技術力の高さに、あらためて唸らされます。

従来の壮大なシンフォニーではなく、この手法はまさにアンサンブル的です。「ミュージック・フューチャー」でアンサンブルを進化させ、さらに新しいオーケストレーションを構築するようになったからこそできた作品、それが『コントラバス協奏曲』だったのかもしれません。この『コントラバス協奏曲』で「アメリカ」と形容したのは、『The End of the World for Vocalists and Orchestra』でのアメリカとは少し異なり、ポスト・クラシカル、ポスト・ミニマルの最先端を進めている「アメリカ発信現代の音楽」と共鳴している位置づけにある、という趣旨です。とても気に入っている作品です。

よし!今回は木管楽器(フルート、ピッコロ、オーボエ、クラリネット、ファゴット、コントラファゴットほか)に意識を集中させて聴いてみよう、次は金管楽器(ホルン、トランペット、テナートロンボーン、バストロンボーン)に、次は打楽器(マリンバ、ビブラフォン、グロッケンシュピール、シロフォンほか)に、次はいつもよりも奥に名脇役に徹しているピアノ、チェレスタ、ハープは? パーカッション(ドラムセット、カウベル、ウッドブロック、大太鼓、クラベス、トライアングルほか)だけを追っていても、おもちゃ箱のようにいろんなところから飛びこんでくる! そんな発見ができると思います。

 

古典から現代へ

久石譲がクラシックを軸にした作曲活動をするということは、クラシックの方法論にのっとることに他なりません。でも古典からの風習をただなぞるということはしていない。守破離です。「今発信したい音楽」「現代の音楽」として創作するにあたって、古典にはない奏法・楽器編成・管弦楽法(オーケストレーション)を随所に盛り込むことにより、ガラパゴスでもないグローバル・スタンダードとなりうる「現代の音楽」を響かせているのではないか。そしてそれはアンサンブル作品・オーケストラ作品、編成をも越えて進化しつづけている、という着地点になりました。

管弦楽の高音域~低音域という音の高低差、楽器編成と楽器配置による音の広がり、ここまでを仮に二次元の壮大なシンフォニーとしたときに。奏法・パーカッションなどをアクセントとした残響や奥行きの演出、三次元な立体的響きへの昇華。その音空間は、密集しすぎることなく風がよく通る、輪郭のくっきりとした音像パノラマ。決してそんな表現が大袈裟ではないと感じる、新境地を開拓した久石譲発信「現代の音楽」が、今私たちに響き届いているのかもしれません。

 

5.大衆性と芸術性がクロスオーバー、象徴する2作品

今回テーマとして取り上げている「久石譲 近年におけるアンサンブル・オーケストラ主要作品」。ひとつ不思議に思ったのが、そのなかに『Untitled Music』が含まれていなかったことです。TV番組「題名のない音楽会」新テーマ曲として2015年に書き下ろされた作品です。

たしかにTVテーマ曲になりますので、エンターテインメント音楽(大衆性)の位置づけになるのかもしれません。それにしては芸術性としても秀逸な作品で、オリジナル作品と一緒にラインナップされてもいいのでは、と思うほどです。

『Untitled Music』では五嶋龍というヴァイオリンの名手をソリストに迎えて、まさにヴァイオリンの表現の可能性を凝縮したような作品です。これまでの考察をベースにするならば、グロッケンシュピール(鉄琴の種)やトライアングルを巧みにブレンドすることにより、とてもキラキラと輝いた印象を受けますし、フルートやピッコロをふくめたこれらの高音域との対比として、金管楽器をファンファーレ的に配置(ミュート奏法ではない)しています。全体構成・楽器編成として格調高い華やかさがあり、ヴァイオリンの音域をとてもうまく浮き立たせていると、個人的には感じます。また『コントラバス協奏曲』と同じように、緻密でありながら余白のある音楽、主役を際立たせる巧みなオーケストレーションです。

 

もうひとつが2016年一番新しいCM音楽として発表された『三井ホームCM音楽』。ソリッドに研ぎ澄まされたミニマル・ミュージック全開で、CM音楽におけるインパクトとしては抜群ですが、キャッチーさを求めるならば真逆な作品といえます。

最初聴いたときに「えらく(ミニマルサイドに)振り切った作品だな」とびっくりしたのを覚えています。ただ、これまた考察をもとにすると違う発見があります。マリンバ・ピアノのミニマル伴奏にコーラスが旋律として構成されたこの作品。随所にピッコロとグロッケンシュピールによる装飾が出てくると思います。そしてピッコロはとてもシャープな強く息を吹きかける奏法になっています。

…これがなかったとしたときに?

ミニマル・ミュージックの躍動感は維持されますが、一見すごく耳あたりのいいサウンドともなります。心地よいグルーヴ感と優美なコーラス・メロディ。本来ならば、これだけのミニマル音楽がテレビから流れてきただけでもひっかかりは強いですね。普段聴き慣れない音楽としてインパクト充分です。がしかし、やはりあの高音域装飾(ピッコロ・グロッケン)が、強烈すぎるアクセントになっている。あのフレースがあった時点で、久石譲の勝ちだな、と思ってしまうくらいの凄み。

従来の久石譲アンサンブル手法からだった場合、おそらくあのパートはピアノ、サックス、ハープなどの楽器で別の装飾モチーフとして奏でられていた、かもしれません。それが、今の久石譲の手にかかるとあの完成形となるわけです。ない場合、従来手法の場合、そしてお茶の間に響いた楽曲。イメージするだけでも響きの違いは雲泥の差。15秒・30秒の音楽を聴いて、久石譲という作曲家の感性と論理性をまざまざと魅せつけられた思いです。

もっとマニアックな見解をさせてください。

弦楽器や管楽器は持続音です。弾いている・吹いている間、一定の音が鳴り続けます。一方で、ピアノやマリンバ・シロフォン(木琴の種)・グロッケンシュピール(鉄琴の種)などは減衰音です。叩いたときに音が発せられそのあとは減衰していきます。

さて、ここで減衰音のグロッケンと、持続音のピッコロをブレンドして編成する。かつピッコロの奏法を息を強く吹きかける、つまりは音の立ち上がりを強くすることで、フッと息をするようにシャープになり減衰音と同じような音の減衰を期待できます。そうすることで、メロディという主旋律の邪魔をすることなく、もちろんナレーションやセリフの邪魔をすることもなく、かつ瞬間的に強烈なインパクトを印象づけることができる。ほんと久石譲という人が末恐ろしくなってくる数十秒間です。

一連のピッコロ、シロフォン、グロッケンシュピール、トライアングルという高音域楽器をブレンドした妙技は、『コントラバス協奏曲』でもいかんなく発揮されています。またこのことは、”余白のある音楽・そぎ落とした構成”と表現した同作品にもつながります。持続音を減らすことで音厚になりすぎず、減衰音と同じ効果を期待できるパーカッションをふくめ巧みにオーケストレーションしているからです。

 

この『Untitled Music』と『三井ホームCM音楽』が象徴していること、それは大衆性と芸術性のクロスオーバーにおいて、芸術性が色濃くなってきているということです。これまでの久石譲の中で作曲活動のすみ分けがあるならば、ここまでのオリジナリティをエンターテインメント界において突飛することはなかっただろうと思います。現に『Untitled Music』にいたっては、メインテーマ曲という肩書とはある種程遠く、Aメロ・Bメロ・サビとわかりやすく展開するわけでもなく、さらには変拍子のオンパレードで、いまだに私は拍子が刻めません。

これらの作品を見て思うのは、抑制がきかなくなったということではなく、大衆性の中にうまく芸術性を色濃くすり込ませる、ちょと表現が難しいのですが、「現代の音楽」をコンサートだけではなく、マス媒体を使ってうまくお茶の間に浸透させていく。そんな久石譲の一歩先を見据えているからこその戦略とすら感じるほどです。もちろんいい意味で表現しています。

だからこそエッセンスとして切り取られた数十秒の『三井ホームCM音楽』であり、結晶のように凝縮された約3分半の『Untitled Music』。そして自分のコンテンポラリーな作品は、もっと大きなテーマ性とコンセプトによって構築していく、必然的に演奏時間は長く必要となってくる。次のステージに入ったからこそできる術、それを象徴しているのが現時点ではこの2作品だったような気がしてきます。

 

今回進めた考察4-5.は、連動連鎖しています。考察1-3.での「クラシック手法」や「作品コンセプト」は、作風変化に対する大きな指針であり、それを表現した響きとして具現化されたものが、考察4-5.にあたるのではないか、というつながりになってきます。

2013年以降書き下ろし新作、クラシックへの回帰、作品コンセプト、ミュージック・フューチャー。さまざまな点が大きな線へと絡まり結びつき、螺旋を描きだしてきました。

 

つづく

 

タイムリーなPS.

今回取り上げた作品のうち『コントラバス協奏曲』『Untitled Music』はTV放送音源です。『The End of the World for vocalists and Orchestra』はいよいよ7月13日CD発売されます。『三井ホームCM音楽』は三井ホーム公式サイト内「広告ライブラリー」にて閲覧可能です。『Untitled Music』は、久石譲指揮・新日本フィル・ハーモニー交響楽団演奏で、6月5日TV放送予定です。

 

 

 

久石譲 傾向 論文

 

Blog. 次のステージを展開する久石譲 -2013年からの傾向と対策- 1

Posted on 2016/05/27

久しぶりにテーマを掲げて進めようと思います。

先日5月8日、長野市芸術館グランドオープニング・コンサートが開催されました。そこでお披露目されたのが久石譲書き下ろし新作「TRI-AD」(トライ・アド) for Large Orchestra です。

コンサート・レポートはすでに公開していますが、実は当日会場にてもらうことができたコンサート・パンフレットには、次のような紹介頁がありました。それは、映画音楽やCM音楽ではない、久石譲オリジナル作品をまとめたものです。

 

久石譲 近年におけるアンサンブル・オーケストラ主要作品

DA・MA・SHI・絵
初演:1996年10月14日 Bunkamuraオーチャードホール
演奏:金洪才(指揮)、新日本フィルハーモニー交響楽団

Links
初演:2007年9月9日 東京国際フォーラムC
演奏:久石譲(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団

MKWAJU 1981-2009 for Orchestra
初演:2009年8月15日 ミューザ川崎シンフォニーホール
演奏:久石譲(指揮)、新日本フィルハーモニー交響楽団

Divertimento for string orchestra
初演:2009年5月24日 サントリーホール
演奏:久石譲(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団

Sinfonia for Chamber Orchestra
1.Pulsation / 2.Fugue / 3. Divertimento
初演:2009年8月15日 ミューザ川崎シンフォニーホール
演奏:久石譲(指揮)、新日本フィルハーモニー交響楽団

弦楽オーケストラのための《螺旋》
初演:2010年2月16日 サントリーホール
演奏:久石譲(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団

5th Dimension
初演:2011年4月9日 サントリーホール
演奏:久石譲(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団

交響曲第1番 (第1楽章)
初演:2011年9月7日 サントリーホール
演奏:久石譲(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団

Shaking Anxiety and Dreamy Globe
[2台ギター版]
初演:2012年8月19日 Hakujuホール
演奏:荘村清志、福田進一
[2台マリンバ版]
2014年9月29日 よみうり大手町ホール
演奏:神谷百子、和田光世

Single Track Music 1
[吹奏楽版]
初演:2014年2月22日 アクトシティ浜松 大ホール
演奏:加藤幸太郎(指揮)、浜松市立開成中学校
[サクソフォン四重奏と打楽器版]
初演:2015年9月24日 よみうり大手町ホール
演奏:林田和之、田村真寛、浅見祐衣、荻島良太、和田光世

String Quartet No.1
1.Encounter / 2.Phosphorescent Sea / 3. Metamorphosis / 4.Other World
初演:2014年9月29日 よみうり大手町ホール
演奏:近藤薫、森岡聡、中村洋乃理、向井航

Winter Garden for Violin and Orchestra
初演:2014年12月31日 フェスティバルホール(大阪)
演奏:久石譲(指揮)、岩谷祐之(ソロ・ヴァイオリン)、関西フィルハーモニー管弦楽団

祈りのうた ~Homage to Henryk Górecki~
初演:2015年8月5日 ザ・シンフォニーホール(大阪)
演奏:久石譲(指揮)、新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ

The End of the World for Vocalists and Orchestra
1.Collapse / 2.Grace of the St.Paul / 3.D.e.a.d / 4.Beyond the World
初演:2015年8月5日 ザ・シンフォニーホール(大阪)
演奏:久石譲(指揮)、新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ、高橋淳(カウンターテナー)、W.D.O.特別編成合唱団

室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra
初演:2015年9月24日 よみうり大手町ホール
演奏:久石譲(指揮)、西江辰郎(エレクトリック・ヴァイオリン)、Future Orchestra

コントラバス協奏曲
初演:2015年10月29日 東京芸術劇場
演奏:久石譲(指揮)、石川滋(ソロ・コントラバス)、読売日本交響楽団

Orbis for Chorus, Organ and Orchestra
1.Orbis ~環 / 2.Dum fāta sinunt ~運命が許す間は / 3.Mundus et Victoria ~世界と勝利
初演:2015年12月11日 東京芸術劇場
演奏:久石譲(指揮)、読売日本交響楽団

「TRI-AD」 for Large Orchestra
初演:2016年5月8日 長野市芸術館
演奏:久石譲(指揮)、読売日本交響楽団

(「長野市芸術館グランドオープニング・コンサート」パンフレットより)

 

 

これを眺めるだけでも錚々たる作品群です。スタジオジブリ作品やTV・CM音楽を除いたとしても、これだけの大作たちがすでにそびえ立っているんだと再認識させられたのが第一印象です。もちろん「主要」とあるとおり、これらがすべてではありません。ラインナップを頭の中で整理するとても参考になりました。

「あっ、これはまだCDになってないな」(チクッと)とか、「そうか、この作品はあのコンサートのときか」とか、いろいろな見方ができるのですがひとまず置いておきます。

 

「TRI-AD」 for Large Orchestra を聴いて抱いた違和感

コンサート・レポートでもこの作品の感想は記しませんでした。もちろん消化できていないという理由が大きく、一度聴いただけで中途半端な感想を書いてしまうことで、未聴の方へ先入観を与えてしまうリスクを避けたかったためです。CDやTV/CM音楽であれば、ある程度同じタイミングで聴くことができますので、個人的見解は書きやすいですね。それぞれが聴いた感想も選別しやすい。「あの人はああ言っていたけど、自分はそうは思わない」と。でも、この作品のようにコンサートでしか聴くことができない一期一会な作品、そして次いつ再会できるかわからない作品に対しては、やはりレビューは慎重になります。一個人の解釈が、他の意見にもまれることのないままにひとり歩きしてしまった先には、一見解が一般的見解へと飛躍してしまうリスクが潜在してしまうためです。

・・・?

そんなことが言いたかった?!

コンサートで聴いたあとにずっとひっかかるものがありました。素直に消化できていない自分がいる。手放しにすっきり感動できていない自分がいる。このモヤモヤ、ひっかかっているものはなんだろう、と。そんな思いを数日ひきずったまま、改めてコンサート・パンフレットの上記作品紹介ページに目をおろしました。

・・・?

・・・!!!

そうか!そういうことだったのか!頭の中で、作品リストがパズルのように交錯し、違う形(配置)を描きだしました。

 

「ヤバイ!自分がついていけていなかった」 閃光走る!

このファンサイトでもよく記しますが、久石譲には大衆性(エンターテインメント)と芸術性(アート)の二面性があり、それぞれの制作環境によって作品が生み出されています。前者は映画・TV・CMなど依頼されてつくる音楽であり、後者はオリジナル性を追求する音楽。これまでは7:3くらいの比率で音楽活動をしていたのでしょうか、その分エンターテインメント界で制約をうけたことや葛藤・ストレスが、折に触れ自分の原点を突き詰めたくなるという動機へと掻き立てられ、その結晶が上記オリジナル作品群ということになります。

・・・結論から言ってしまいます!

「2013年以降に書き下ろした新作(および改訂新楽章含む)は、明らかに作風が変わっており、久石譲が次のステージに入った創作活動をしている証です」

 

結論に至った考察点。

1.宮崎駿監督長編引退(2013)が与えた影響と分岐点

2.エンターテインメントの制約がなくなったときに、自ら創り出す制約=作品コンセプト

3.クラシック方法論による作風が、新たな一面を引き出す

4.「ミュージック・フューチャー」シリーズと「アメリカ」が与えた影響

5.大衆性と芸術性がクロスオーバー、象徴する2作品

6.交響曲を完成させる時期(とき)がきた (WDO2016初演予定)

7.シブリ交響作品化にも影響を及ぼすのか

8.まとめ ~すべてはこの作品が大きな布石だった~

 

さて、これらの仮説を立て、順番に検証していこうと思います。

 

1.宮崎駿監督長編引退(2013)が与えた影響と分岐点

映画「風立ちぬ」(2013)を最後に長編映画を引退すると会見した宮崎駿監督。四方八方の推測を抜きにしても、この出来事が久石譲にとって影響を与えていないことはない、という前提で進めます。ちょうど同時期のメディア・インタビュー各種で「自分の本籍をクラシックに戻す」との発言が増えたのもこの時期です。つまりは、4-5年に一度の宮崎駿監督との仕事というサイクルに区切りがついたとき、立ち止まってこれからの方向性を見据えなおした分岐点になったであろう、そのくらい大きく振り子を動かすには十分すぎる出来事だったと思っています。

そしてその方向性とは、自分のベーシックなスタンスをクラシックに戻し、ミニマル・ミュージックという原点を突き詰めた、いやミニマルの発展系であるコンテンポラリーな作品をつくっていく、ということになってきます。

 

2.エンターテインメントの制約がなくなったときに、自ら創り出す制約=作品コンセプト

エンターテインメント音楽が依頼されて作る仕事であることは、過去の久石譲インタビューでも多く語られています。作品ごとの性格・注文・条件が制約となり、その制約のなかで音楽を創作する、というのが久石譲の作曲スタイルです。

これを逆説的に見たときに、オリジナル作品は”自由に創作できる”、つまり制約がないということになります。もちろんここでいう制約とは、いわばルールのようなものですね。このルール・条件で作ってくださいとなるのか、無条件でお好きにどうぞとなるのか。作曲における着想点とも言っていいかもしれません。

これまではエンターテインメント音楽(大衆性)7:オリジナル作品(芸術性)3の割合くらいだったでしょうか、と前述したのもポイントになってきます。2013年以降「クラシックに本籍を戻す」ということは、必然的にオリジナル作品(芸術性)の比率が高くなってきます。

エンターテインメント界で制約をうけたことや葛藤・ストレス、今自分が作りたいもの、折に触れオリジナル作品をつくる動機へと掻き立てられてきた従来の創作活動スタイルが大きくそのバランスを崩します。依頼されて作ることよりも、自らの作品を残すことに比重が傾くわけですから、いつも好き勝手につくっていいでは、おそらく続きません。その都度にテーマ性をもうけること、コンセプトを明確にすること。はたまた点(作品)で終わることのないよう、線(作品群)へと自ら大きな指針や道標をつくる。

「自ら創り出す制約」、それはクラシックの方法論にのっとった「作品コンセプト」ということになるのではないか、という見方です。『コントラバス協奏曲』は「コントラバスの表現の可能性を追求」という明確なコンセプトがあり、『TRI-AD for Large Orchestra』は「3和音でつくる」というコンセプト、『Single Track Music 1』は「単旋律のユニゾン」というコンセプト、『祈りのうた』は「3和音を基調としたホーリー・ミニマリズム」などというように。

結論で述べた「作風が変わった」という表現は、作曲におけるスタート・着想点がそもそも従来と違う、そういうことが言いたかったことです。

長らく商業ベース・エンターテインメント音楽に携わり、一長一短制約の中で作曲活動をしてきた久石譲。「制約があったほうが発想が広がることもある」と過去語っていたように、今度は自ら制約(ルール)をつくることで、自らの創作意欲を掻き立てる、あくなき挑戦の姿勢。そして作曲するとっかかりをクラシックの手法による様々なコンセプトを”お題”とし、おそらくはその先の大きな構想までもすでに描いているのかもとさえ。

そうなったときに、従来よりも情感に訴える旋律は影をひそめ、コンセプトにふさわしい、もしくはコンセプトで進めて八方塞がりにあわない、しっかり発展して出口が見える、作品として着地できる核(メロディ・モチーフ・主題)が必要ということにもなるのかもしれません。

 

3.クラシック方法論による作風が、新たな一面を引き出す

その一

いかなる作曲においても、核が必要となります。メロディーやモチーフです。約1時間にも及ぶ古典クラシック交響曲においても、主題(メロディ・モチーフ)をどう位置づけどう発展させていくか、ということになるんだと思います(専門的知識はありませんので少し濁した言い方になります)。

これを従来の久石譲オリジナル作品でみたときには、基本は同じです。ミニマル・ミュージックでいえば、作品の核は、同じくメロディーやモチーフであり、音型とも言われます。シンプルにズラしたり微細な変化をかけていくのがミニマル・ミュージック。この場合リズムが肝となるそれにおいて、ある種グルーヴ感を失うことなく、作品は構成されてきました。『DA・MA・SHI・絵』『Links』『MKWAJU 1981-2009 for Orchestra』などが典型です。

ただしクラシックという広義での手法となった場合は、やはり主題を発展・再現させていくことが必要になってきます。単一楽章で構成されない多楽章な交響曲・協奏曲などの多くは、急・緩・急、全4楽章構成であれば急・緩・舞曲・急などと構成されます。急は急速楽章、緩は緩徐楽章、舞曲はメヌエットやスケルツォという表現もします。

また循環主題といわれる全楽章にまたがって主題が登場するような交響作品もあります。第1楽章では短調だった主題が、第4楽章では長調となったり、それだけでも主題を発見しずらくなることもありますし、主旋律ではなく内声部に主題を隠している場合や、わざと数小節にまたがってあるパートに主題を担わせ、聴いただけではわからない、スコアを見なければ、ということも出てくるんだろう、と思っています。

クラシックの話はここまでにして、ということは、今までの久石譲の作風にはなかった引き出しが持ち込まれることになります。このことは、一方では”久石譲らしさ”を排除することにもなりかねませんが、一方では”新しい久石譲”を発見することもできるわけです。”らしさ”を癖と表現するならば、自分の癖をおさえて、新しい可能性を探り、新しい表現ができる、ということになります。

これはとんだ失礼な話、『コントラバス協奏曲』を聴いたときに、「あっ、作品が作りやすくなったのかもな」と思ったことがありました。とんだ上から目線ではなく、クラシック方法論、クラシックの方程式に、自らのオリジナル性をブレンドしたときに、今まではやらなかった旋律・展開・オーケストレーションなどが出てきて、作家性に大きな広がりができたのではないか、というとんだ生意気な意見です。

久石譲初期オリジナル作品は単曲として成立していますが、近年のオリジナル作品は、全3楽章など作品の世界観が大きく広がっています。全3楽章構成の作品の多くにおいて、第2楽章は緩徐楽章という見方もできます。ただし、”交響曲”とはうたっていないこともあり、緩徐楽章+リズムセクションを盛り込んだ楽章という独特な世界観を構成しています。『室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra』『コントラバス協奏曲』『Orbis for Chorus, Organ and Orchestra』など。(※室内交響曲は、エレクトリック・ヴァイオリン協奏曲の体であることは本人も語っています)

 

そのニ

古典クラシック音楽において、作曲家が自らの作品やモチーフを違う作品にも使用することはよくあります。気に入っている旋律・メロディを複数の作品で使用する。また過去に一旦の完成をみた作品を新作のなかで新たに再構成する場合もあります。

現代ではあまりなじみがない手法かもしれませんので、やもすると「使い回しですか?手抜きですか?」と思われてしまうかもしれませんが、これは立派な手法のひとつとして古典クラシック音楽にも幾多あります。もっと言えば、作曲家によるこの手法は、オリジナル性やアイデンティティが確立されているからこそできることであり、それだけ強力なカラーをもった作家性だからこそです。

久石譲においては、『The End of the World for Vocalists and Orchestra』における「第3楽章 d.e.a.d」は、『DEAD組曲』(2005)の第2楽章を新たに再構成したものであり、『Orbis for Chorus, Organ and Orchestra』における「第3楽章 Mundus et Victoria ~世界と勝利」は、『Prime of Youth』(2010)を大胆に組み入れて生まれた新作です。

 

その三

クラシックならではの編成や奏法について。ほとんど詳しくなたいめ掘り下げるに及びません。久石譲のオーケストラ編成は古典クラシックに基本的には準じており、作品ごとのアクセントとして独奏楽器や特殊楽器、パーカッションなどがふんだんに盛り込まれています。

また近年の全3楽章作品の多くでは、フィーチャーされた楽器によるカデンツァ風の独奏が終楽章に配置されています。『室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra』『Winter Garden for Violin and Orchestra』『コントラバス協奏曲』など。もちろんこれには作曲家が表現したいことに対して、それを具現化して演奏することのできる優秀なソリストの存在と、信頼関係があってこそです。クラシック作曲家たちが協奏曲をつくる場合の大きな動機となったのは、信頼できる優秀な奏者が近くにいて、その人のために作品を書いたからです。

カデンツァとはソリストが妙技を発揮できるべく挿入される即興的独奏パートです。ここで作品に対する華麗な装飾を披露することで作品全体を豊かにします。カデンツァ風と書いたのは、従来カデンツァはその名のとおり即興だったのですが、古典派以降~現代にいたるまで、その多くは即興ではなくなり、作曲家の意図する譜面があることが増えたためです。ただし奏者によって得意な技法や”らしさ””クセ”はあると思いますので、自由に差し替えれる即興パート部はあるかもしれませんね。

協奏曲はあるひとつの独奏楽器を主役にむかえて構成される作品。そして協奏曲形式だからこそカデンツァが醍醐味となります。久石譲作品において、これからこれらの作品がいろいろなソリストによって奏でられたときに、色彩豊かなカデンツァ・セクションを聴き比べられる日がくるのかもしれません。

 

古典クラシック音楽と同じくオーソドックスな編成による作品が多かったなかで、微細に、でも確実に変化している奏法もあったります。それが次項の「アメリカ」や「現代の音楽」を象徴しているような気がしてならないわけです。

つづく

 

 

 

久石譲 傾向 論文

 

Blog. 久石譲 「長野市芸術館 グランドオープニング・コンサート」 コンサート・レポート

Posted on 2016/5/19

5月8日開館した長野市芸術館。その芸術監督と務める久石譲によるこけら落とし公演が、開館同日に開催されました。指揮・久石譲、演奏・読売日本交響楽団、久石譲書き下ろし新作を含む華やかな幕開けとなりました。

当日会場にはTV各局やメディア関係者も多く、開演前や終演後の観客たちへの取材やインタビューもたくさん行われていました。長野市芸術館の建物やホールについては、公式HPなどで詳細や特徴をご覧いただくとして、ここではコンサート内容に絞ってお伝えしたいと思います。

 

 

長野市芸術館 グランドオープニング・コンサート

[公演期間]久石譲 長野市芸術館グランドオープニング・コンサート
2016/05/08

[公演回数]
1公演
長野・長野市芸術館メインホール

[編成]
指揮:久石譲
管弦楽:読売日本交響楽団

[曲目]
久石譲:TRI-AD for Large Orchestra *世界初演
アルヴォ・ペルト:交響曲 第3番
チャイコフスキー:交響曲 第5番 ホ短調 作品64

 

 

会場にて配布されたコンサート・パンフレットより、グランドオープニング・コンサートの詳細を紐解いていきます。

 

 

長野市芸術館 柿落しに寄せて

長野市芸術館の開館日が来ました。芸術監督として関わってほぼ2年半の月日が流れました。その間いくつかの問題も生じましたがそれを乗り越えてこの日を迎えました。長野、いや信濃の国は教育が行き届いた知的な人々が多い。その人たちが集まる場所を目指すのが長野市芸術館です。

文化、アート(芸術)は人間が育んだ最も優れたものです。何故ならそれが心を豊かにするからです。食べて寝て享楽に走るだけでは動物と変わりありません。芥川龍之介は「心の貧しい人」と書きました。南米ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカは「貧乏とは、少ししか持っていないことではなく、かぎりなく多くを必要とし、もっともっとほしがることである」と演説しました。この経済大国「日本」という国で生活している僕にとって耳が痛い話です。

21世紀も16年が過ぎ、我々は新しい生き方、人生のあり方、国のあり方、世界のあり方を真剣に模索しなければならない時代に入りました。基本は人です。一人一人が地面に足をしっかり付けて自分の生き方を考え実行する。頭の中だけで終わってはいけない。コンピューターやスマートフォンの中に人生はないのです。

アートは人間が創造した遺産です。もしかしたらそこに生きるヒントや勇気があるかもしれない。何だか難しい話になりました。でも安心してください。アートと言ったって所詮同じ人間が作ったものです。我々が作ったものです。ありがたがる必要もないし、構えて見たり聞いたりする必要もありません。何回か足を運んでいただいて、実際に音楽や演劇に接していただくと、その面白さが分かってきます。その精神活動をする人が「心の豊かな人」なのです。

この芸術館が少しでもお役に立てば、幸いです。

さあ、始めましょう、長野市芸術館!

久石譲

 

久石譲 長野市芸術館 グランドオープニング・コンサート3

 

PROGRAM NOTE

久石譲:「TRI-AD」 for Large Orchestra
作曲にあたって、最初に決めたことは3つです。まず祝典序曲のような明るく元気な曲であること、2つめはトランペットなどの金管楽器でファンファーレ的な要素を盛り込むこと。これは祝祭感を出す意味では1つめと共通することでもあります。3つめは6~7分くらいの尺におさめたいと考えました。

そして作曲に取りかかったのですがやはり旨くいきません。コンセプトが曖昧だったからです。明るく元気と言ったって漠然としているし、金管をフィーチャーするとしてもどういうことをするのかが問題です。ましてや曲の長さは素材の性格によって変わります。

そんなときに思いついたのが3和音を使うことでした。つまりドミソに象徴されるようなシンプルな和音です。それを複合的に使用すると結果的に不協和音になったりするのですが、どこか明るい響きは失われない。ファンファーレ的な扱いも3和音なら問題ない。書き出すと思ったより順調に曲が形になっていきました。そこで総てのコンセプトを3和音に置きました。それを統一する要素の核にしたのです。

3月末からの中国ツアーの前にピアノスケッチを作り、帰ってきてから約2週間で3管編成にオーケストレーションしました。

「TRI-AD」とは3和音の意味です。曲は11分くらいの規模になりましたが、明るく元気です。演奏は難しいのですが、読響の演奏力は本当にすばらしい。このところ共演する機会が多いのですが、いつも感動します。もしかしたら一番楽しみにしているのは僕かもしれない。もちろん長野の皆さんに、楽しんでもらえることを心から願っています。

久石譲

 

アルヴォ・ペルト:交響曲第3番
作曲者や曲のご紹介をする前にお伝えすべきは「なぜグランドオープニング・コンサートで、アルヴォ・ペルトなのか」ということだろう。長野市芸術館の記念すべき1年目となる年間プログラムを俯瞰してみるとおわかりいただけるが、このペルトなる作曲家の音楽はこれ以降も演奏される。これこそが実は久石譲芸術監督の”イチ推し”作曲家であり、欧米各地のオーケストラや合唱団などが積極的にコンサートで取り上げている音楽でもある。しかし日本ではまだまだペルトの作品を演奏しているコンサートが少ない。久石芸術監督には「長野を世界標準へ」という思いもあるだろう。本日のコンサートでペルトの名前を初めて知ったという方も、彼の音楽を初めて聴いたという方もいらっしゃると思うが、その”新しい発見”を楽しんでいただければ幸いである。

アルヴォ・ペルトは1935年、バルト海をはさんで対岸にフィンランドを臨むエストニアに生まれた。しかし第二次世界大戦が勃発すると(一時期はナチス政権のドイツ統治下になるものの)ソヴィエト連邦に占領され、その統治は1991年に共和国として独立するまで続く。ペルトもエストニアの首都であるタリンの音楽院で学ぶが、作曲家としての初期はショスタコーヴィチやバルトークらの音楽に影響を受けつつ、徐々に12音技法やセリエル(音列)・ミュージックといった前衛音楽手法に手を染めていった。それは1950年代~60年代のソ連における、ひとつの楽派を形成していたのである。

しかし彼はそれを突き詰めていくうちい袋小路にはまり、1960年代末には自身の作風や作曲家としての存在理由について再考することになる。ほぼ作品を発表しない沈黙の期間は1968年から1976年まで8年に及んだが、その間にグレゴリオ聖歌や中世・ルネサンス時代の教会音楽などを徹底的に再検証。その甲斐もあって、1970年代後半には主にキリスト教の典礼音楽などをベースにした新しい作風を確立したのである(彼独自の技法には「ティンティナブリ(鈴鳴り・鐘鳴り)」と呼ばれるものがある)。

1980年に国を後にして、オーストリアのウィーン、そしてドイツのベルリンへ移住するとペルトの存在に光が当てられ、「現代における癒やしの音楽」というある種の誤解も招きながら、彼の知名度は徐々に高まっていった。先鋭的なジャズやクラシック音楽を紹介するECMレーベルから『アルボス』『タブラ・ラサ』という作品集(CD)がリリースされたのも、まさにこの頃。人気ミュージシャンのギドン・クレーメルやキース・ジャレットらが演奏に参加していたこともあって、日本でもペルトの名前が注目されるようになったのだ。

1971年に作られた交響曲第3番は、前衛的手法を疑問視し、新しい自分探しへの模索へ入っていった「沈黙の期間」における数少ない(ほぼ唯一と言ってもよい)作品である。しかしすでに抒情性にあふれた教会音楽的な作風で書かれているため、彼は早くから新しい方向性を発見していたに違いない。オーケストラによって演奏される交響曲ではあるが、その背景には人間の声による「歌」がとうとうと流れており、全編が祈りの連続でもある。初演の指揮は日本でも馴染みのある存在であり、やはりエストニア出身でありながらもアメリカへと出国したネーメ・ヤルヴィが担当。現在は2人の息子(NHK交響楽団の首席指揮者を務めるパーヴォ・ヤルヴィ、欧米のオーケストラで活躍するクリスティアン・ヤルヴィ)もこの曲をレパートリーに入れ、3人それぞれがCD録音も行っている。

曲は3つの楽章で構成されており、全曲は休みなく一気に演奏される。第1楽章はオーボエによる聖歌風の旋律で幕を開け、ミサなどの儀式で先導を務める歌唱の役割を果たしている。その後に金管楽器が演奏する聖歌風の旋律、木管楽器による運動的な音のつながりなどを素材として、この楽章を劇的に展開していく。

第2楽章は冒頭で悲哀をまとったような聖歌風の旋律が演奏され、やはり中ほどでは音楽に緊張感が増し、叫ぶような部分もあらわれる。静謐な雰囲気の音楽を経て、楽章のおしまいには和太鼓を連想させる力強い連打が刻まれる。

第3楽章は前2楽章より希望への兆しを感じさせる旋律で始まり、やはり中ほどでは力強い音楽が展開されるものの、日本の子守歌にも似た聖歌風の旋律(第1楽章冒頭の旋律と酷似!)が演奏されながら音楽は収束。断固たる意思を表明するような音楽で曲を閉じる。

 

チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 作品64
今日では世界中で人気の高いロシア音楽だが、国際的に人気や知名度の高い作曲家を輩出したのは、ドイツやフランスなどと比べればかなり遅い。たとえばJ.S.バッハが活躍した18世紀前半、モーツァルトが活躍した18世紀後半、さらには19世紀を迎えてベートーヴェンが革新的な作品を発表していた古典派からロマン派音楽への移行期、ロシアには(アリャビエフやボルトニャンスキーといった作曲家たちに、時々スポットライトは当たるものの)同じレヴェルで語れる作曲家がいない。そして、作曲に関する基礎的な知識を学ぶための教育機関も、実は1862年に創設された首都サンクトペテルブルグの音楽院を待たなくてはいけないのだ。

その音楽院へと早々に入学した一人が、当時は法務省に勤務していた22歳のピョートル・チャイコフスキー(1840~1893)だった。彼はドイツ音楽の伝統的な形式を継承するアントン・ルビンシテインに師事して作品を書きためていくが、一方で敵対していたバラキレフ・グループ(後にロシア国外で「ロシア五人組」と呼ばれる集団)とも交流し、民謡や民族舞曲などを素材とする作風にも興味を抱く。結果としてチャイコフスキーは折衷的な作風を模索して独自の路線を行く存在となり(そのため双方からの批判を受けることもあった)、誰にもない個性と現代まで続く人気を得たと言ってよいだろう。

チャイコフスキーの生涯が紆余曲折であり、作曲家生活においてもプライベートにおいても激動の連続だったことは彼の伝記などを読んでいただければわかる。しかし、そうした中で作品への評価は高まっていき、ロシア国外でも彼の知名度はアップ。要望に応えて渡航し、指揮者として自作を披露する機会も増えていった(ちなみに有名なニューヨークのカーネギーホールが1891年にオープンした際、こけら落としの公演にも招かれて「戴冠式行進曲」を披露している)。交響曲第5番はこうした順調期の産物であり、曰く「(絶対服従の)運命のモティーフ」と呼ばれる旋律を駆使して構成された、まさにチャイコフスキー流の交響曲である。

作曲は1888年の5月から8月にかけて(チャイコフスキーは48歳)。同年1月から3月まではヨーロッパ各地の6都市へ赴いて演奏旅行を行い、自作も含めたプログラムを指揮している。ブラームスやドヴォルザーク、マーラー、フォーレやまだ若かったリヒャルト・シュトラウスなど多くの音楽人と交流したこの演奏旅行は弱気だったチャイコフスキーに自信を与えたが、帰国後に手がけた交響曲第5番はそうした勢いもプラスに働いた作品かもしれない。文通による交流が12年も続いていたナジェージダ・フォン・メック夫人には「ようやく交響曲に向かうためのインスピレーションが湧いてきた」と書き送っている。初演は1888年11月17日(ロシアの旧暦では11月5日)、チャイコフスキー自身の指揮によるサンクトペテルブルグ・フィルハーモニー協会のオーケストラによって行われた。

全4楽章構成であり、曲全体が「運命のモティーフ」に支配されつつ、抑圧から解放されるストーリーを描いているようでもある。その「運命のモティーフ」は第1楽章の冒頭で2本のクラリネットが演奏するので、この曲を初めて聴く方にとってもわかりやすいはずだ。しかし作曲者自身が「このように聴いて欲しい」という明確なプログラムノートを残しているわけではないので、最終的な判断は聴き手それぞれの想像力に委ねられるだろう。そうしたストーリーを考えず、純粋に「循環形式」(ひとつのモティーフが多彩に変容していきながら全曲を構成する作曲手法)を活用した交響曲として楽しむという姿勢も、もちろん正解である。

第1楽章(ホ短調、序奏付きのソナタ形式)は、その「運命のモティーフ」で幕を開け、重苦しい気分の序奏が終わると、クラリネットとファゴットによって第1主題が演奏される。ヴァイオリンによって演奏される山型の主題を経て、やはりヴァイオリンが憧れの気分を歌うように演奏するのが第2主題(ニ長調)。その後はこうした主題を軸として音楽が展開されていく。

第2楽章(ニ長調、複合三部形式)は、ホルン・ソロによる神々しい主題が全体の柱となり、オーボエが演奏する第2の主題やクラリネットが演奏する不安げな主題が加わる。そうした中、2度にわたって「運命のモティーフ」が威圧的に鳴り響く。

第3楽章(イ長調、三部形式)は、バレエ音楽に転用されても不思議はないほど美しいワルツ。優雅な主部とせわしない中間部がコントラバスを生み出し、おしまいには「運命のモティーフ」がそっと顔を出す。

第4楽章(ホ短調の序奏~ホ長調の主部:ロンド・ソナタ形式)は、まず「運命のモティーフ」が勝利への行進曲となって演奏され、少しするとなだれ込むようにして嵐のような主部の第1主題へ。第2主題は木管楽器群が演奏する民族音楽風の旋律。そうした中で金管楽器群が「運命のモティーフ」を挟み込んでくる。こうして展開していく音楽は、突然の全休止によって一度ぱたりと止まるが、その後に演奏されるコーダ(終結部)では「運命のモティーフ」が高らかに鳴り響き、まさに勝利の行進へ。最後は第1楽章の第1主題が輝かしいファンファーレとなって力強く演奏され、全曲を閉じる。

[ペルト、チャイコフスキー/オヤマダアツシ(音楽ライター)]

 

久石譲 長野市芸術館 グランドオープニング・コンサート2

(久石譲コメント、楽曲解説 ~コンサート・パンフレットより)

 

 

長野市芸術館の開館にむけて、様々な雑誌インタビューも事前に掲載されてきました。その中からパンフレット内容を補足する意味も含めて、久石譲の言葉や思いを紹介します。

 

「オープニングですから、やはり希望があった方がいい。そこでチャイコフスキーの交響曲第5番をメインに選びました。この作品は、いわゆる”闘争から勝利へ””苦悩から歓喜へ”という明快な構造をもっています。それはベートーヴェンの『運命』や『第九』に通じるもの。しかも10数年前、僕がオーケストラで交響曲の全曲を指揮した最初の作品ですので、新たなスタートにも相応しいと考えました。それと自分は現代の作曲家ですから、いま活躍している作曲家の作品をきちんと演奏したい。そこで選んだのがアルヴォ・ペルトの交響曲第3番です。また、自分が書く『祝典序曲』については、いま(3月中旬)スケッチ段階ですが、(本領である)ミニマル・ミュージックをベースにしながら、世界中のオーケストラが演奏できる、3管編成で7~8分の曲にしたいと思っています」

「そうしないと日本の作曲家なんて育たないですよ。”現代音楽”の特殊閉鎖社会だけでやっていたら、それで終わり。僕は『ベートーヴェンと並ぶことの苦しさを知るべきだ』と言いたい。名曲というのは、長い時間ふるいにかけられた末に生き残っている音楽です。その曲と自作が並ぶのは、なかなかキツい。でもそうした体験をしていかないとガラパゴス状態になってしまいます。僕は、チャイコフスキーやベートーヴェンと一緒に現代曲に接してもらうことが重要だと考えていますし、できる限り実践していきます」

Blog. 「NCAC Magazine Vol.1」(長野市芸術館) 久石譲インタビュー内容 より抜粋)

 

「音楽や芸術を日常化し、そうしたものを楽しむ人や心を育てていきたいですね。その精神を象徴する長野市芸術館のモットーともいうべき『アートメント』という造語には『アートとエンターテインメント』でなく、『アートをエンターテインメントとして楽しむ』という意味が込められています。コンサートでもベートーヴェンのようなクラシックとアルヴォ・ペルトのような現代の作品を並べ、21世紀の今を体験していただきたいですし、自分もまた一人の作曲家として同じ時代の音楽をもっと知って欲しい、楽しんで欲しいという気持ちが強いのです」

Blog. 「ぶらあぼ 2016年5月号」 久石譲 長野市芸術館芸術監督 インタビュー内容 より抜粋)

 

「ふと、気づいたことがあるんです。自分が、全部ひとつにつなげることができるのは、このホールでこそだ、と。指揮をする。プログラムを作れる。さらに、エンターテインメントの音楽をやる立場からすれば、一番重要なのは観客です。ホールではダイレクトに観客に向き合うことができる。」

「歌舞伎でも新作があったり、スーパー歌舞伎があったりと、トライしている。クラシックもやらなくてはいけない。でも、現代音楽祭と称したもので、現代のものをやってます、と処理されてしまう。この現状は絶対に間違っている。そう思っているんです。そうじゃなくて、ブラームスとかベートーヴェンをメインに据えてでも、どこかに必ずこんにちの音楽を入れこむ、それが今自分の指揮者活動でのスタイルです。現代曲を聴きに来ているわけではないお客さんに、新しい体験をどんどんさせる、してもらう。そのコンセプトは東京でも全国のコンサートも変わりません。そうした意味の実践の場として、長野が一番いいんじゃないかと考えるようになったのです。」

Blog. 「音楽の友 2016年5月号」 久石譲 長野市芸術館芸術監督 インタビュー内容 より抜粋)

 

「日本では『お客さんが入らない』と敬遠してしまいますが、それは逆だと思います。誰も『現代の音楽』を届けないから認知されないんです。聴いた方からは『こんな曲があったんだ!』と、とてもいい反応をいただいていますから」

「僕がスポーツ観戦をするのは、選手たちの素晴らしい技や人間の可能性に感動するからです。音楽も同じで、楽器を奏でるとそこに世界が生まれ、『人はこれだけの可能性を秘めている』と感動できるんです。ですから目の前に生まれる”世界”を是非、体感して下さい。感動は心に豊かさを生み、その一日が素敵に思えるはずです。一度足を運んでいいただけると嬉しいですね」

Blog. 「週刊文春 2016年4月28日号」 久石譲 長野市芸術館 インタビュー内容 より抜粋)

 

「僕は作曲家なので、長野市芸術館の芸術監督の話をいただくまでは、作曲や指揮活動以外のことには消極的でした。でも、社会還元も重要なことだと考え、引き受けました。芸術監督といっても、年間プログラムの作成など、細かい仕事も多いのですが、大きな目標が見えたんです。それは、長野市で日常的にいろいろな音楽を聴けるようにしていくこと。しかも、そこで演奏される内容は、決して長野限定ではなくて、世界中のどこに出しても恥ずかしくないものを提供すること。何年か先には、長野市民の皆さんにとって音楽が日常になっていて、このホールに足しげく通っていただける、それが理想であり、一番大事なことだと思っています。ホールで音楽を聴くことに対して、敷居が高いというイメージを持っている方もいるかもしれませんが、そこをできるだけ日常と繋げていく。市民の皆さんにも、演奏家にも、音楽を通してどんどん新しい体験をしてもらう。そういうことをきちんと取り組みたいと思います。毎年夏に開催する音楽フェスティバル「アートメントNAGANO」や、僕が長野市芸術館で立ち上げる室内オーケストラ「ナガノ・チェンバー・オーケストラ(NCO)」も、その構想の中に位置付け、世界を目指して継続してきたいと考えています。」

「その通りだと思います。僕は高校生までまともなオーケストラは聴いたことがなかったんです。長野市のホールで本格的なオーケストラを聴いたのは、高校一年だったと思います。その時すごく衝撃を受けました。すばらしいと思いました。同時に、もっと早い時にそういう経験をしていたらよかったな、とも思いました。これから、長野市芸術館で、絶えず一流の音楽を演奏していき、それを見てくれた小学生や中学生が「かっこいいな」「すごいな、自分もやりたいな」と思ってくれたら一番うれしいですよね。そういう場所になることを願っています。」

Blog. 「Nagano ARTOlé -長野市芸術館開館記念BOOK-」 久石譲 インタビュー内容 より抜粋)

 

 

さて、ここからは個人的所感を書こうと思いますが、ここまでで結構なボリュームになってしまいましたし、全貌はわかっていただけるかとも思います。

いくつかを補足程度になります。

久石譲が書き下ろした新曲「TRI-AD」は、「トライ・アド」と読みます。またこの作品に関して感想を言えるほど消化できていません。華やかでありながら賑やかしくもあり、緩急豊かにめまぐるしく展開していく作品でした。久石譲本人による上記楽曲解説が当然ながら一番参考になると思います。直近のオリジナル作品傾向も含めて、いつかまたゆっくり腰を据えて考察できたらと思っています。

映画「風立ちぬ」(2013)から親交を深めてきた読響とだけあって、オープニングから、チャイコフスキーの渾身のクライマックスまで圧巻でした。初々しい生まれたてのよく響くホールと相まって、怒涛のごとく響きわたる管弦楽と、終演後のブラボー!と拍手喝采。この揺れるほどの演者と観客が創り出す音こそが、新しいホールの歓喜の産声のような気がして、とても感慨深いものがありました。

長野市芸術館ホールの開演ベルも久石譲が作ったものです。実はこれ、公演終了後に長野市芸術館公式Facebookにて知ったため、まったく気にも留めておらず、覚えてもおらず。これから長野市芸術館での公演に足を運ばれる人はぜひ耳を傾けてみてください。

本公演は、読売日本交響楽団ということもあって日本テレビ系「読響シンフォニックライブ」での放送が決定しています。正面はもちろん2階席からの両サイド、ステージから指揮者や客席をとらえるもの、複数のカメラがこのこけら落とし公演を完全収録しています。もちろんステージ上には集音用マイクも数多く設置されていました。放送予定は8月とのこと。どの作品が放送プログラムとなるのかもふくめて興味は尽きません。

 

PS.

開演前のTVインタビューも受けてしまいましたが、地元ではないため放送に使われたのかどうかはわかりません。きっとボツでしょう。公演終了後の様子が長野市芸術館公式Facebookにて写真1枚公開されています。実は小さく写り込んでいます。そういった点でも8月放送予定の「読響シンフォニックライブ」は、個人的にはまた別の楽しみがあったりもしています。最前列で聴くことができた私は、暗がりに聴いている姿か拍手している姿がキャッチされるのでしょうか!? そのときにはまた勝手にご報告する、かもしれません。

 

 

長野市芸術館および「アートメントNAGANO2016」に関連するTOPIC

 

一部スケジュール変更されています。上記ページは修正していますが、詳しくは公式HP・Facebookをご参照ください。

公式サイト:長野市芸術館HP長野市芸術館公式Facebook

 

久石譲 長野市芸術館 グランドオープニング・コンサート1

 

Blog. 「Nagano ARTOlé -長野市芸術館開館記念BOOK-」 久石譲 インタビュー内容

Posted on 2016/5/7

雑誌「別冊KURA 《Nagano ARTOlé》 長野市芸術館開館記念BOOK」(4月20日発売)に久石譲のインタビューが掲載されています。

5月8日グランド・オープニングを迎える長野市芸術館、その芸術監督としての久石譲のインタビューになります。ほかにも開館記念BOOKだけあって、長野市芸術館の着工前から現在に至るまで、様々な切り口での総力取材がぎっしりつまっています。

本誌コンテンツ内容はこちらをご参照ください。

Info. 2016/04/20 [雑誌] 「Nagano ARTOlé -長野市芸術館開館記念BOOK-」発売

ここでは久石譲インタビューにフォーカスしてご紹介します。

 

 

SPECIAL INTERVIEW

「長野市で日常的に音楽を聴けるように。しかも、世界に出しても恥ずかしくないものを提供したいのです。」
長野市芸術館 芸術監督 久石譲

 

世界の久石譲が目指す長野市発の音楽とは

-改めて、長野市芸術館への思いをお聞かせください。

久石:
「僕は作曲家なので、長野市芸術館の芸術監督の話をいただくまでは、作曲や指揮活動以外のことには消極的でした。でも、社会還元も重要なことだと考え、引き受けました。芸術監督といっても、年間プログラムの作成など、細かい仕事も多いのですが、大きな目標が見えたんです。それは、長野市で日常的にいろいろな音楽を聴けるようにしていくこと。しかも、そこで演奏される内容は、決して長野限定ではなくて、世界中のどこに出しても恥ずかしくないものを提供すること。何年か先には、長野市民の皆さんにとって音楽が日常になっていて、このホールに足しげく通っていただける、それが理想であり、一番大事なことだと思っています。ホールで音楽を聴くことに対して、敷居が高いというイメージを持っている方もいるかもしれませんが、そこをできるだけ日常と繋げていく。市民の皆さんにも、演奏家にも、音楽を通してどんどん新しい体験をしてもらう。そういうことをきちんと取り組みたいと思います。毎年夏に開催する音楽フェスティバル「アートメントNAGANO」や、僕が長野市芸術館で立ち上げる室内オーケストラ「ナガノ・チェンバー・オーケストラ(NCO)」も、その構想の中に位置付け、世界を目指して継続してきたいと考えています。」

-久石さんにとって長野県はどういった場所ですか?

久石:
「あまり意識していないんですよ。でも、ここで生まれ育っているわけですから、今日(2016年1月18日)のように雪が降っているとうれしいです。皆さん「あいにくの雪で…」と言ってくださいますが、僕は素直に、うれしいって思います。意識的ではなくて無意識に、きっとどこかで長野の自然の恩恵を受けている、と感じています。僕の中には、長野で生まれ、日本で育ったというベーシックなものがあり、そこで培われたものも確かにあるわけですが、それを意識して前面に出して音楽活動をすることはありません。音楽は、いいものをつくるか、つくらないか。世界中どこでやっても、基本的には自分がやるべきことをきちっとやる、それだけです。」

 

音楽=論理的な構造で想像力を養う体験を

-以前、久石さんは、想像力を養うことの大切さについてお話しされていました。長野市芸術館での体験を通して、子どもや若い方たちに伝えたいことは。

久石:
「百聞は一見に如かずというように、いまの時代、すべての判断基準が視覚中心になっています。それはつまり、即物的になっている、とも言えます。目で見えるものが豊かだったり、物質が人間を豊かにするという、視覚の効果ですね。一方、音楽の話で言うと、たとえば「あ」という音には意味がない。でも、「あ」の次に「し」「た」とくると、はじめて意味を持ちますね。「あ・し・た」と言った時に時間の経過があります。音楽も、ドだけじゃ意味がない。ド・ソとか、ド・ミ・ソと音が続くことで、時間の経過が生まれてきます。時間の経過があるということは、そこに論理的な構造ができる。耳から入ってくると、非常に論理的にものごとを考えるということなんです。それをしなくなって、全部視覚で情報として処理していくとなると、アートは死んでいく。即物的なものの考え方ができてしまうと、そこにはもう想像力がなくなってしまうんですね。活字で「ここは広大な宇宙だった」とひと言書いてあるとします。すると、広大な宇宙を自分でイメージしますね。でも、映画で、広大な宇宙を表現したものを見ると、「ああ、これが宇宙か」と。視覚のほうが直接的で、そこには、想像力が入りづらくなってきます。想像力が養われないとどうなるかというと、人に対する思いやりが減ってしまうんです。たとえば、人と話している時、相手は僕のことを「小難しいやつだな」と思っているかもしれない。それに対して僕が「このまま小難しいやつで通そう」と思ったり(笑)、さまざまな思いが浮かびます。時間の経過の中で、相手のことを考えている。そうやってコミュニケーションは成り立っている。それが、おろそかになってはいないだろうか、と危惧しています。音楽に対しても、自分のイマジネーションや空想する力といったものをどんどん広げるためには、音楽をいっぱい聴いてもらったほうがいい、本もたくさん読んだほうがいい。長野市芸術館での体験を通して、想像力のおもしろさや大切さをみんなに投げかけられたらいいなと思っています。」

 

子どもたちに夢と希望を 世界初演の新作「祝典序曲」

-小さいお子さんにとっても、本物の音楽を聴かせてあげられるすばらしい機会ですね。

久石:
「その通りだと思います。僕は高校生までまともなオーケストラは聴いたことがなかったんです。長野市のホールで本格的なオーケストラを聴いたのは、高校一年だったと思います。その時すごく衝撃を受けました。すばらしいと思いました。同時に、もっと早い時にそういう経験をしていたらよかったな、とも思いました。これから、長野市芸術館で、絶えず一流の音楽を演奏していき、それを見てくれた小学生や中学生が「かっこいいな」「すごいな、自分もやりたいな」と思ってくれたら一番うれしいですよね。そういう場所になることを願っています。」

-5月8日のグランドオープニング・コンサートで、久石譲さんの新曲が演奏されると聞き、ワクワクしています。

久石:
「芸術監督を引き受けたからには、作曲家としてできることは、やはり曲をつくること。まず祝典序曲を書こう、と思いました。イメージは見えていますが、今はまだ曲を書いている段階なので、お話しできることは少ないのですが。ものをつくる人間は皆、そうだと思いますが、締切日が近づかないと完成しないんです(笑)。」

-5月8日を楽しみにしております。ありがとうございました。

 

長野市芸術館記念BOOK アトレ

(「別冊KURA 《Nagano ARTOlé》 長野市芸術館開館記念BOOK」より)

 

NAGANO ARTOle

 

Blog. 「週刊文春 2016年4月28日号」 久石譲 長野市芸術館 インタビュー内容

Posted on 2016/5/6

雑誌「週刊文春 2016年4月28日号」(4/21発売)に、久石譲のインタビューが掲載されました。

5月8日に迫った長野市芸術館のグランドにオープンに向け、芸術監督としての久石譲のインタビューです。とは言いつつも、夏の「アートメントNAGANO」や、秋の「Music Futureシリーズ」など、今の久石譲の軸を線で感じられ、一貫した強い想いや音楽活動におけるポジションを垣間見ることができます。

 

 

音楽が生みだす世界で、日常はもっと豊かになる

久石譲さんが10月に行うコンサート「Music Future」には、現代の音楽を多くの人に届けたいという、音楽家としての強い使命感が込められている。

「僕のいう『現代の音楽』とは、聴衆を無視したような『現代音楽』とは違い、『ミニマル・ミュージック』や『ポスト・クラシカル』と呼ばれるジャンルのものです。ミニマルは、1960年代、権威に抗い、既成の概念や価値を壊す運動の中で生まれた音楽で、最小限の音を僅かにずらしながらも、作品として見事に構成されていたんです。当時音大生だった僕は、その新しさに衝撃と戸惑いを覚えながらも、ミニマルを、自分の、作曲家としてのアイデンティティにしようと決めたんです」

もうひとつのポスト・クラシカルは、クラシックに電子音楽や現代的な感覚を組み合わせた音楽である。「Music Future」のプログラムは、これら「現代の音楽」に加えて、久石さんの新曲も披露することが決まっている。

「今年で3回目となりますが、演奏会を『敷居が高い』と思っている方こそ、気楽に来ていただきたいんです。唄が、ポップスや演歌といったジャンルを越えて受け容れられるように、オーケストラも身構えずに聴いて下さい」

久石さんが手がけた映画音楽のコンサート・チケットは即完売になるというが、こうした「現代の音楽」を取り上げる演奏会は、まだまだ一般客には認知されていない。そこには、日本の音楽界が持つ深い問題があるという。

「日本では『お客さんが入らない』と敬遠してしまいますが、それは逆だと思います。誰も『現代の音楽』を届けないから認知されないんです。聴いた方からは『こんな曲があったんだ!』と、とてもいい反応をいただいていますから」

実は、10月のコンサート以外にも聴く機会はある。まず、長野市芸術館の芸術監督を務める久石さんが、5月8日、芸術館の柿落しコンサートを指揮する(全席完売)。また、7月14日~29日の音楽フェス「アートメントNAGANO」の、善光寺での奉納コンサート(14日)でも演奏が決まっている(久石さんは、同フェスの他のイベントにも参加します)。

久石さんは、現代の音楽に触れてもらうと同時に、音楽を聴くことがもっと日常になってほしいと望んでいる。

「僕がスポーツ観戦をするのは、選手たちの素晴らしい技や人間の可能性に感動するからです。音楽も同じで、楽器を奏でるとそこに世界が生まれ、『人はこれだけの可能性を秘めている』と感動できるんです。ですから目の前に生まれる”世界”を是非、体感して下さい。感動は心に豊かさを生み、その一日が素敵に思えるはずです。一度足を運んでいいただけると嬉しいですね」

(週刊文春 2016年4月28日号より)

 

週刊文春 2016年4月28日号

 

Blog. 「音楽の友 2016年5月号」 久石譲 長野市芸術館芸術監督 インタビュー内容

Posted on 2016/5/5

音楽専門誌「音楽の友 2016年5月号」(4月18日発売)に久石譲のインタビューが掲載されました。

5月8日に迫った長野市芸術館のグランドにオープンに向け、芸術監督としての久石譲のインタビューです。久石譲の”3つの柱”、それを表現する場所であり観客と新しい体験を共有する場所としての長野市芸術館。そんな想いやコンセプトが語られています。

 

 

「古典芸能でないということは、こんにちの音楽をやらなきゃいけないということです」

5月にオープンする長野市芸術館。南に松本のサイトウ・キネン、北にアンサンブル金沢という立地で、どういう取り組みがなされるのか。芸術監督・久石譲に話を聴く機会を得た。

久石譲には三つの柱があった。映画を含めたエンターテインメント、コンサートで演奏される音楽作品、そして指揮。そこにホールという新しい柱が加わる。異質であると同時に、音楽そのものとは異った煩雑さがはいってくるのだが……。

「ふと、気づいたことがあるんです。自分が、全部ひとつにつなげることができるのは、このホールでこそだ、と。指揮をする。プログラムを作れる。さらに、エンターテインメントの音楽をやる立場からすれば、一番重要なのは観客です。ホールではダイレクトに観客に向き合うことができる。」

具体的には?

「例えばプログラムです。長野では、一回のプログラムに現代の作品を必ず入れる。それもベートーヴェンやブラームスと一緒に、です。指揮の依頼があるとしましょう。現代曲を組みこむ提案をします。と、お客さんが来ないと言われてしまう。無難なプログラミングに陥ってしまうのです。東京だけでも9つのオーケストラがある。全国にはすごい数が。でもほぼ似たり寄ったりのプログラムが中心です。でも、『クラシック音楽』は、古典芸能ではありません。古典芸能でないということは、こんにちの音楽をやらなきゃいけないということです。」

作曲家として、新しい作品を生みだす立場だからこそ、ですね。

「歌舞伎でも新作があったり、スーパー歌舞伎があったりと、トライしている。クラシックもやらなくてはいけない。でも、現代音楽祭と称したもので、現代のものをやってます、と処理されてしまう。この現状は絶対に間違っている。そう思っているんです。そうじゃなくて、ブラームスとかベートーヴェンをメインに据えてでも、どこかに必ずこんにちの音楽を入れこむ、それが今自分の指揮者活動でのスタイルです。現代曲を聴きに来ているわけではないお客さんに、新しい体験をどんどんさせる、してもらう。そのコンセプトは東京でも全国のコンサートも変わりません。そうした意味の実践の場として、長野が一番いいんじゃないかと考えるようになったのです。」

クラシックの聴き手は、「知っている」を大切にします。そしてひとつの判断基準にするところがあります。知らないものに拒否反応がある。

「エンターテインメントのフィールドにいたから、すごくよく分かるんですが、やっぱり素直なんですよ、知っているかいないかではなく、いいか悪いか、です。それだけにわたしのコンサートに足を運んでくれる方は、年齢層が若いのです。まだ経験値が少ない分だけ、楽章間で拍手があったりするケースもあるんです。でもね、その人たちが面白いと、じゃあまたクラシックのコンサート行こうかな、って思ってくれるなら、それでいいんです。ただ、日本中の最大の問題だと思います、この閉鎖的な考え方になるのは。」

そうした場、文脈のなかにクラシック音楽を置いてみる、そして、久石さんが選ばれる「いまの音楽」によるプログラムが、ホールとしての独自性になるのかと思います。

「やっぱり作曲家がやるわけですから、自分がいいと思う音とか必要だと思う音楽をきちんと素直にぶつけていこうかと思っていますね。実際、ポスト・ミニマルとかポスト・クラシカルと呼ばれる音楽はまだほとんどコンサートで演奏されていないのが現状でもありますから。」

取材・文:小沼純一

(「音楽の友 2016年5月号」より)

 

音楽の友 2016.5月号

 

Blog. 「ぶらあぼ 2016年5月号」 久石譲 長野市芸術館芸術監督 インタビュー内容

Posted on 2016/5/4

音楽情報満載 無料配布誌「ぶらあぼ 2016年5月号」(4月18日発行)、Pick up Interview欄にて久石譲のインタビューが掲載されました。

5月8日に迫った長野市芸術館のグランドにオープンに向け、芸術監督としての久石譲のインタビューです。長野市芸術館の目指す「アートメント」の活動内容、そして久石のコンサート活動の最新情報についても触れられています。

 

 

Interview
久石譲(作曲/長野市芸術館芸術監督)

皆さんに21世紀の音楽シーンを体験してほしいですね

作曲家であり、近年は指揮者としても注目を集めている久石譲。2016年における久石のトピックの一つは、芸術監督に就任した「長野市芸術館」が5月にオープンすることだろう。すでに発表されている初年度のプログラムには作曲家として、また指揮者として、多くの公演やイベントに登場する。

「音楽や芸術を日常化し、そうしたものを楽しむ人や心を育てていきたいですね。その精神を象徴する長野市芸術館のモットーともいうべき『アートメント』という造語には『アートとエンターテインメント』でなく、『アートをエンターテインメントとして楽しむ』という意味が込められています。コンサートでもベートーヴェンのようなクラシックとアルヴォ・ペルトのような現代の作品を並べ、21世紀の今を体験していただきたいですし、自分もまた一人の作曲家として同じ時代の音楽をもっと知って欲しい、楽しんで欲しいという気持ちが強いのです」

 

ベートーヴェンと現代音楽を指揮

長野市芸術館での活動として大きなものに、在京オーケストラの主席奏者クラスが集まるという「ナガノ・チェンバー・オーケストラ」の結成がある。自ら、指揮者としてベートーヴェンの交響曲全9曲を3年間で演奏し、そこでは自作を含む現代の作品も取り上げる。

「ベートーヴェンの交響曲は王道ですが、単に欧米を追従するのではなく、伝統を背負っていないからこそできる現代の演奏を僕は追究していくつもりです。その一方で、演奏家もお客様も未知の作曲家や作品にチャレンジしていただきたい」

そうした長野での精神は、東京の活動であっても一貫している。コンサート用の作品は(久石が手がけた多くの映画音楽とはまったく違う)ミニマル・ミュージックを軸にした作風であり、これから発表される作品もそこにブレはないという。

「作曲家としての自分の本籍は学生時代からミニマルにありますし、現在は僕よりも若い世代の作曲家たちがポスト・ミニマル、ポスト・クラシカルと呼ばれて活動しています。ブライス・デスナーやニコ・ミューリー(ニコ・マーリーと表記される場合もあり)といった作曲家はミニマルの語法を当たり前のように消化・活用していますけれど、日本ではそうした音楽がまだまだ育っていないように思えます。そうした風潮を覆し、同じ時代に生まれた音楽を新鮮な気持ちで楽しんで欲しいので、積極的に紹介していきたいですね」

 

刺激的な「ミュージック・フューチャー」

2014年から久石自らのプロデュースにより東京で開催している『ミュージック・フューチャー』というコンサートのシリーズは、そうした精神の象徴で、長野での活動ともリンクするものだ。前記のような注目の作曲家を紹介してきたが、3回目となる2016年も、自作の「室内交響曲第2番」、ヴィヴァルディの「四季」を再構築して話題を呼んだマックス・リヒターや、映画『グランド・フィナーレ』の音楽を担当し、ヒラリー・ハーンらにも新作を書き下ろすデヴィッド・ラングなどを取り上げる。

「さらに、ミューリーやジョン・アダムズたちによる室内オーケストラ作品のルーツを再検証するため、シェーンベルクの「室内交響曲第1番」を演奏します。そうした時代の流れを知ることも、最先端の音楽を理解するカギになりますので」

新しい音楽を求めている聴き手は、久石譲の活動を注視すれば思わぬ視界が広がる可能性大なのだ。

(ぶらあぼ 2016年5月号 より)

 

久石譲 2016 プロフィール写真

 

なお、雑誌「ぶらあぼ」は、デジタル・マガジン「eぶらあぼ」としてWebでも閲覧できます。

公式サイト:ぶらあぼ2016年5月号 | WEBぶらあぼ

 

ぶらあぼ 久石譲

 

Blog. 「NCAC Magazine Vol.1」(長野市芸術館) 久石譲インタビュー内容

Posted on 2016/5/3

長野市芸術館 広報誌 「NCAC Magazine Vol.1」(4月1日発行)に久石譲のインタビューが掲載されています。

5月8日に迫った長野市芸術館のグランドにオープンに向け、芸術監督としての久石譲のインタビューです。グランド・オープニング・コンサートでの演奏予定プログラムについて、さらに長野市芸術館のために書き下ろされる新作「祝典序曲」について、とても内容の濃い充実したインタビューとなっています。

 

 

久石譲 長野市芸術館 インタビュー

日常に音楽を。

さまざまなジャンルの音楽・芸術を、長野から発信。長野市芸術館が特別編成する室内オーケストラ「Nagano Chamber Orchestra」の立ち上げ、夏の長野を芸術で彩る音楽祭「アートメント NAGANO」の開催により、みなさんが音楽・芸術と身近に接することのできる機会を創出します。「そこに行けば何かがある」。期待に胸躍るような長野市芸術館を創造します。

長野市芸術館 芸術監督 久石譲

 

音楽を日常にする第一歩
~久石譲に聞く「グランドオープニング・コンサート」への思い~

「杮落としの公演には、プログラム1つとっても、ホールの今後を見据えた姿勢が表れると思います。長野市芸術館のグランドオープニング・コンサートにも、それを打ち出したいと考えました」。

当ホールの芸術監督・久石譲に、杮落とし公演について話を聞いたとき、彼はまずこう語った。一見当たり前に思える言葉だが、そこには、この著名音楽家が、ホールの方向性に自らの考えを反映させる意志が表れており、ひいては長野市芸術館が、従来の公共ホールにはない個性をもった、唯一無二の存在に成り得ることが示唆されている。

過去の事例を見てきて思うのは、”ホールには顔となる人物が不可欠であり、しかもその人物が明確な方向性を示してこそ出し物が生きる”ということだ。そうでない場合は、たとえ人気アーティストの公演に行っても、ラインナップが輝きを放たない。また、顔となるのは概ねクラシック畑の作曲家や演奏家、あるいはプロデューサー的な人物だが、個々の専門分野や嗜好性にこだわり過ぎれば、聴衆の層が限られてしまう。特に公共のホールえは、明確な方向性と同時に絶妙なバランス感覚が必要となる。

久石譲は、作曲家、指揮者、演奏家であり、プロデュースも手掛けている。作曲家としては、宮崎駿監督の”ジブリアニメ”や、北野武、山田洋次監督などの映画音楽に携わると同時に、クラシック系の現代曲の作品を創作し、オーケストラでは自作や現代曲も古典も指揮する。さらには室内楽に取り組み、ピアノを弾き、コンサート・シリーズも企画する。こうした広い視野と最前線での豊富な経験を有する人物が、ホールの芸術監督を務め、自らの考えを反映させるのは、日本初と言っても過言ではない。それが、長野市芸術館が唯一無二の存在と成り得るゆえんだ。

コンサート全体について、久石はこう話す。

「オープニングですから、やはり希望があった方がいい。そこでチャイコフスキーの交響曲第5番をメインに選びました。この作品は、いわゆる”闘争から勝利へ””苦悩から歓喜へ”という明快な構造をもっています。それはベートーヴェンの『運命』や『第九』に通じるもの。しかも10数年前、僕がオーケストラで交響曲の全曲を指揮した最初の作品ですので、新たなスタートにも相応しいと考えました。それと自分は現代の作曲家ですから、いま活躍している作曲家の作品をきちんと演奏したい。そこで選んだのがアルヴォ・ペルトの交響曲第3番です。また、自分が書く『祝典序曲』については、いま(3月中旬)スケッチ段階ですが、(本領である)ミニマル・ミュージックをベースにしながら、世界中のオーケストラが演奏できる、3管編成で7~8分の曲にしたいと思っています」。

ここに彼の持ち味(の一部)が反映されているのは言うまでもない。演奏は、在京オーケストラの最上位に位置する読売日本交響楽団。これまで久石が、2回の「第九」をはじめとするベートーヴェンの交響曲や、ショスタコーヴィチ、オルフなど数々の作品を指揮してきた、信頼の厚い楽団のひとつである。

「素晴らしいオーケストラであり、日本を代表する存在なので、オープニングに相応しいと考えました。それに私がクラシックの現代曲として書いた作品を数多く演奏してもらっているのも、出演をお願いした理由のひとつです。先日も読響の弦楽器陣を主体としたメンバーと録音を行ったのですが、難しい譜面を渡しても即座に理解してくれますし、ありがたいほどの信頼関係ができています」。

読響が元来ゴージャスでスケールの大きなサウンドが特長だが、近年さらにパワーアップし、アンサンブルの精度と表現力を増している。充実著しい同楽団ならば、新ホールの響きを十全に満喫させてくれるのは間違いない。

 

プログラムを詳しく見ていこう。演奏順にまずは自作の「祝典序曲」(長野市芸術館委嘱作品)から。これは技術的に難しい曲になる可能性が高いという。

「自分が振れないかもしれない(笑)。ミニマル系の音楽は”ズレ”がポイントですから、フレーズで考えるのではなく、8分音符は8分音符、16分音符は16分音符の正確な音価でとっていかなくてはいけません。それはポップスでいう”グルーヴ感”に近いものです。ただ日本のオーケストラはこのような曲を演奏する機会がないので、上手くいかない。従って例えばジョン・アダムズの曲がなかなか取り上げられない。自分の中で最大の課題は、世界では当たり前になっているような音楽に取り組んでいくことであり、今回もそうした曲を書くつもりです」。

前記のように、読響は難曲にも対応できるオーケストラだ。

「この前読響で僕のコントラバス協奏曲を演奏したとき、メンバーが『今年最大の危機。1回落ちたら絶対に戻れない』と言っていたとの話を、後で聞きました(笑)。今回は難度が最大級になりそうですが、もちろん心配ありません。ただ一方で、通常よりも苦労せずに演奏できる曲にしたいとの思いもあります。祝典序曲というのは、ショスタコーヴィチの作品のように、吹奏楽で普及するケースもあるので、それも考慮に入れながら、演奏可能な範疇に収めたいなと」。

同曲は、当然グランドオープニング・コンサートが世界初演。作品自体もむろん楽しみだし、新たな音楽が誕生する瞬間に立ち会う喜びは大きい。

ペルトの交響曲第3番は、1971年に書かれた3楽章の作品。久石は昨年、信頼するもうひとつのオーケストラ、新日本フィルのコンサートで指揮している。

「ペルトはエストニア出身で、若い頃はいわゆる”現代音楽”を書いていたのですが、複雑になり過ぎたことの反省から、古い教会旋法に戻って、シンプルな表現を目指しました。ですから調性もありますし、基本的なメロディは賛美歌やオラトリオの研究の成果を反映しています。その東欧特有のメロディは、日本人の琴線に触れるもの。24~5分でさほど長くもなく、『こんなにわかりやすいの?』と言われるほど、皆に親しんでもらえる曲です」。

実際この曲は、耳なじみがよく、ピュアな美しさに充ちている。演奏機会の少ない名作だけに、今回ぜひ生で味わいたい。

流麗なチャイコフスキーの交響曲第5番は、リズムを軸にしたミニマル・ミュージックが本領の久石のイメージからすれば、意外な感もある。

「そう思われるかもしれませんが、僕は一方で映画音楽を随分やっています。そちらの方面から考えれば、ロマン派の音楽は抵抗がないんですよ。例えばラフマニノフなどは僕と一番縁がないように見えますが、彼の交響曲第2番は物凄く指揮したい作品なんです」。

ただチャイコフスキーの5番は、「作曲家目線で見ると、成功しているかどうか微妙な曲」だという。

「循環主題(全楽章に登場する第1楽章冒頭の旋律)の扱いが過度で、全体のフォルムが崩れていますよね。多くの指揮者はそれをカバーするために、一生懸命歌い上げるのですが、あまり成功しない。楽章ごとの主題に加えて循環主題があるので、その処理の仕方で曲が全く変わります。一例を挙げると、多くの演奏は第4楽章冒頭の循環主題を朗々と歌います。でもオーケストレーションを見れば、クラリネットが弦に変わっただけで、伴奏の配置は第1楽章の冒頭と全く同じ。なので第1楽章同様に抑えるべきと考えています。あと今回楽しみにしているのは、第2楽章の朗々としたホルン。読響のような良いオーケストラでどうなるのか、僕自身も聴いてみたいですね」。

甘美なメロディとロシア的なロマンに溢れたこの曲は、オーケストラを初めて生で聴く人が醍醐味を知るに最適だ。しかも今回は、作曲家=久石ならではのアプローチによって、聴き慣れた耳にも清新な演奏が実現するに違いない。読響の華麗な響きと相まって、これは万人必聴の1曲となる。

 

今回は、日本の新作、ヨーロッパの現代曲、ロマン派の作品とカテゴリーの異なる楽曲が並んでいる。これは「意識してのこと」との由。

「日本のオーケストラは、チャレンジできないんですよ。指揮者は毎回結果を出す必要があり、観客も集めないといけない。現代曲を入れようものならお客さんが来ない。それゆえ、これは日本自体の問題でもあるのですが、全員で安全圏を狙っていく。でもクラシック音楽は古典芸能ではありません。過去から現在に繋がり、未来に繋げていかないといけない。すると現代の曲の中から何かを見つけて、きちんと演奏していくことが重要になりますし、『現代音楽祭』と称して特殊な人だけ集めるのではなく、日常で普通に聴かせる必要があると思うのです」。

つまり「序曲、協奏曲、交響曲」という定型プログラムの中にも、”今日の音楽”を入れることが大事になる。

「そうしないと日本の作曲家なんて育たないですよ。”現代音楽”の特殊閉鎖社会だけでやっていたら、それで終わり。僕は『ベートーヴェンと並ぶことの苦しさを知るべきだ』と言いたい。名曲というのは、長い時間ふるいにかけられた末に生き残っている音楽です。その曲と自作が並ぶのは、なかなかキツい。でもそうした体験をしていかないとガラパゴス状態になってしまいます。僕は、チャイコフスキーやベートーヴェンと一緒に現代曲に接してもらうことが重要だと考えていますし、できる限り実践していきます」。

これが久石にとっては、指揮をする最大の意義でもある。

「特に長野の場合は、『音楽を観客の日常にすること』が重要になります。日本全国そうですが、おそらくクラシック・ファンが、掃いて捨てるほどいるような状況ではない。その中で、親しみやすい『運命』『新世界』から入る方法もあります。しかし新しい長野市芸術館では、お客さんもピュアな分だけ、現代の音楽を古典と並べて体感してもらう方が、音楽に親しむ早道なのではないかと考えています。そのためにも、自分が指揮し続けなければならないでしょう」。

その第一歩となる本公演にかかる期待は、限りなく大きい。

取材・文:柴田克彦(音楽ライター)

(長野市芸術館 広報誌 「NCAC Magazine Vol.1」より)

 

※広報誌は長野市芸術館の公式サイト内からどなたでもご覧いただけます。
長野市芸術館公式サイト>>>
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長野市芸術館 NCAC Magazine Vol.1