1987年3月25日 CD発売 28ATC-143~8
1987年3月25日 LP発売 20AGL-3043~8
「風と種子 (たね)」
ナウシカ・アリオン・ラピュタ 久石譲の世界
3大アニメ映画のサントラ盤とシンフォニー盤が全6枚のセットに!
全36ページ豪華カラーブックレット
「風の谷のナウシカ」より「王蟲との交流」
「アリオン」より「メインテーマ」
「天空の城ラピュタ」より「君をのせて」
ピアノ楽譜付き
「天空の城ラピュタ」より「君をのせて」
合唱用楽譜付き
全6ページ解説書
混沌とした状況のなかで、スリリングな活動を楽しむアーティスト・久石譲
音楽が音楽自体の絶対的価値観を持ち得たのは、もう遠い過去の話である。いつの間にか音楽が持つ娯楽性、商品性が拡大され、音楽は流行に向けて生産されていくのが当たり前とさえなっている。とりわけ、日本においては歌謡曲というジャンルが示すような芸能が芸術にとってかわって、最も身近な音楽として受け止められていることもあって、音楽自体の価値観というのは、ほとんど意味を持たないというのが実情となっている。
しかし、それだけならまだ、歌謡曲は別モノとして見ればいいわけだが、近年は歌謡曲もニュー・ミュージックもロックもフュージョンも、その境界線をなくしつつあり、ロックのニュー・ミュージック化、ニュー・ミュージックの歌謡曲化等も決っして珍しくなく、一概に歌謡曲が別モノという見方もできなくなってきている。さらに、映画からヒット曲が生まれるという世界的な傾向や、CMやテレビ番組の主題歌からヒット曲が生まれるという日本の常識、プロダクションやレコード会社等、バックボーンの力関係によって音楽自体の評価までも変えてしまう資本主義の論理等を考え合わせていくと、本当に複雑な状況が否が応でも見えてくる。
このように混沌としているように見える実情は、聴き手の価値観の多様化を象徴しているようであり、常識や理論が通用しないという部分では、スリリングで面白い。そして、実際、この情況下で本当にスリリングな活動を楽しんでいるアーティストがいるというのも面白い。
久石譲は、間違いなくそういったタイプのアーティストである。音楽家としての類い稀な才能を余すところなく発揮し、なおかつその仕事を充分に楽しんでいるようで、そこにはアーティストとしてのスケールの大きさを感じずにはいられない。現在の彼の活動は、映画音楽やCF音楽の作家から、アレンジャー、プロデューサー等に至るまで、まさしくポピュラー音楽全般に至って、サウンド・クリエーターと呼ぶにふさわしいものであるが、彼の音楽的ルーツがクラシック、現代音楽であるのは意外で面白い。20歳の頃から20代後半までの彼のバイオグラフィーを繙くと、時代を2、3歩先取りしたような現代音楽関係の仕事がずらりと並ぶ。とりわけ、後年日本でもフィリップ・グラスやスティーブ・ライヒ等の活躍で広く知られるようになったミニマル・ミュージック(反復音楽)は、彼の最も得意とするところで、現在の彼の仕事の中にも注意して聴くと、反復リズムがかなり多用されていることがわかるであろう。おそらく、ミニマル・ミュージックをポピュラーのフィールドにさりげなく取り入れて成功しているのは、日本では彼をおいて他にはいないだろう。
クラシックに関しても、同じようなことがいえる。彼の手掛けた作品がどこか格調高く気品があるのは、クラシックからの影響を自身の中でうまく消化し、新たに組み立てているからで、歌謡曲やCF等、消費される音楽を手掛けても、どこか他のものと違う品の良さが感じられるのである。
20代半ばから、彼の活動はその幅を急速に広げていく。映画音楽やCF音楽の作品リストを見ると、本当によくこれほど多くの仕事を手掛けたものだと感心してしまうぐらい、異常に沢山の仕事をこなしているのだが、映画にしてもCFにしても、既に強く色の出たものと競合をさける為に一人のアーティストがこれほど多くを手掛けることは本来は滅多にないことであり、それでありながら映画にしてもCFにしても、まさしく彼の才能の凄さを証明している。
昨年秋に発売された彼のCF音楽作品集『Curved Music』を聴いてみるとよくわかることだが、おそらく誰もが2、3曲は聴き覚えのある曲があることだろう。つまり、テレビという巨大なメディアを通じて、我々は知らず知らずのうちに、久石譲というアーティストの音楽に接しているわけで、少しでも音楽に精通している人なら、何げなくつけていたテレビから彼の新鮮な音楽が流れてきて思わずテレビに釘付けになった経験があるに違いない。当の本人が意識するしないにかかわらず、その音楽が何の作為もなく、万人の記憶に入り込んでしまうというのは、実に興味深いところである。
久石譲を語るに欠かせないもの一枚のレコードが、85年に発売された『α-BET-CITY』である。フェアライトを駆使した過激で斬新なサウンドは、現代音楽で培ってきた実験性が強く表れたものであり、映画音楽やCF音楽で彼を知る人にとってはいささかショッキングな内容といえる。だが、例えばアート・オブ・ノイズを引き合いに出してみると理解し易い。テクノロジーと理論としての音楽が見事に組み合わさった結果生まれた近未来派志向の音楽として見ると、もはや他の追従を全く許さない、そしてまたある意味では一般的な聴衆さえ受けつけないほどに完璧かつ先鋭的な作品として位置づけられるのである。彼のこういう一面は、おそらく今後も、予期せぬところで発揮されることになるであろう。
久石譲に関して、彼がこれまでに手掛けてきた仕事について総て語ろうとしたら、それこそ大袈裟でも何でもなく、本一冊ぐらい簡単にできてしまうだろう。しかし、あえてそんなことをして賞賛する必要もないぐらいに、彼は既に充分に自分のポジションを確固として築いているし、それだからこそ、どんな仕事であれ、確かなクオリティの作品を常に作り上げ、なおかつそこに自身のカラーを確実に反映させることが可能なのである。
現在36歳、”映画音楽の巨匠”、”ミニマル・ミュージックの第一人者”、”フェアライトの最も優秀な使い手”等、様々な賞賛の言葉が彼に浴びせられているとはいうものの、まだまだこれぐらいで満足する彼ではないだろう。今後も、音楽そのものは勿論のもと、状況を素早く察知した上で、時代が求める音を鋭く送り出すサウンド・クリエーターとして、限りない挑戦が続けられるに違いない。
音楽評論家 宮部知彦 (インナーディレクツ)
(CDカラーブックレットより)
対談 久石譲/宮崎駿
音楽とセリフと効果音がすべて一体となりハーモニーを奏でる、そんな映画を作りたい
イントロダクション
’86年10月2日の夜、東京・新橋にある徳間書店の会議室で、この対談はおこなわれた。映画「天空の城ラピュタ」公開から、すでに2ヵ月が過ぎている。仕事ではもう気心の知れた2人だが、対談という形であらたまって話をするのは初めてだった。宮崎さんは「いやー、音楽のことは詳しくないから、音楽家と何を話していいのかわからないです」と語っていたが…。
1
宮崎:
ぼくはアニメーター出身で、ずーっと高畑勲が演出をやり、その下で絵を描けばいいんだと思ってやってきた人間なので、演出をやらなければならなくなったときに、初めて音楽家との打ちあわせがあって、何を話していいのかわからなかった(笑)。たしか、新宿の副都心のホテルのロビーで会ったんですよ。録音監督が斯波(重治)さんでね。「どんな映画なんですか?」ときかれても、まだ出来ていないでしょう。自分でもどういう映画になるのかわからなくて、何を言っていいのかわからなくってね。そういう体験があるんです。
久石:
それはどの作品のときだったんですか?
宮崎:
「未来少年コナン」なんです。そのときの音楽家は池辺晋一郎さんで、さっそうとした格好で来てるんですよ。セーターにシミもなくて、上着もパリッとしてて、いかにも教養あふれるという感じで。こっちは汚ない格好をしているでしょう。だから、ぼくのいちばん無知蒙昧である音楽の分野に関してね、彼の方は芸術家という感じがするわけです(笑)。それでイジけまして(笑)、すっかり劣等コンプレックスのかたまりになってしまった。劇場用の「ルパン」のときも、音楽監督がもう以前から決まっていて、そのスタッフでワーッと進められてしまうわけ。それで困ったな、と思ったり。それで「ナウシカ」のイメージアルバムのときに久石さんに会ったでしょう。そうしたら池辺さん的パリッとした感じじゃなくて、ひじょうに助かったんです。
久石:
すみません(笑)。
宮崎:
いや、ほんとうに。それで自分のことばでしゃべって、感じの伝えられる人なんだってわかったときに、ものすごく気が楽になった。音楽家というのは、雲の上にいて、シミひとつないセーターとパリッとした上着というイメージがあって(笑)。
久石:
そうか。きょうは着てくるものをまちがえてしまった(笑)。
宮崎:
映画監督というのは、音楽に関していうと、充分計算して絵コンテをきるなり、シーンを構成すべきなんでしょうけれど、これは自分から完全に欠落している部分なんですよね。映像とストーリー展開にだけ関心のある人間なんで、あとは高畑勲プロデューサーに全部よろしくお願いしますっていう(笑)。
久石:
そんなことないですよ。ぼくも宮崎さんと初めて「ナウシカ」をやらせてもらったときは、最初だからちょっとわからない部分もあったんですけれどね、正直言うと。
宮崎:
ぼくもわからなかった(笑)。
久石:
絵全体がものを全部しゃべっているというか、表現力があるから、中途半端な音楽をつけづらかったということはありましたよね。
宮崎:
ぼくはダビングをやっていて、あっ失敗した!という経験が多いんですよ。とくにテレビの短篇なんかの場合、細かく音楽をつけすぎているわけではなくて、茫然としてるとそうなっちゃう(笑)。高畑勲ならたぶん細かいプランを出して戦うんだろうけど…。パクさん(注・高畑氏のこと)という人は、音楽に対する関心と感受性と教養にあふれていますからね。音楽の話はパクさんの前で絶対しない方がいいですよ。話をしたとたん、レコードを次から次へかけられて、次から次へ解説されて、ぼくは「うん…ああ…そうですか」と言えるだけで(笑)。
久石:
それはわかりますね(笑)。
宮崎:
ぼくが対抗できる話といったら飛行機の話しかないんです(笑)。
久石:
なるほど(笑)。
宮崎:
だから、映画のなかで音楽がすごく大事なんだということがわかると同時に、自分がそれを欠落させて映画を作っているということがよくわかるんです。ただ1点「さあ、感動しろ」という音楽が流れると、ひじょうにいやだという思いだけはあるんですよね。
久石:
それは同感ですね。いかにもそのシーンにわざとらしくついているみたいな、意図明白なやつは、宮崎さんはおきらいですよね。
2
宮崎:
ぼくは音楽をきいて感動したなんて経験は、これまで数回ぐらいしかないんですよ。
久石:
あっ、それきかせてください。
宮崎:
東映動画につとめたばかりの頃で、下宿生活をしていて、音楽といったら自分で歌をうたうしかないというような、そんな音楽と無縁の生活をしていたんです。そんなとき、だれかがボロ・ステレオを買ってきて、ためしにレコードをかけた。ガガーンと音が鳴ったら、ハーッと思ったんです。
久石:
曲名はおぼえていらっしゃいますか?
宮崎:
いや、それがポピュラーすぎて、はずかしくて言えない(笑)。バッハのなんとか、なんですけど。
久石:
「トッカータとフーガ・ニ短調」とか……。
宮崎:
そうなんです(笑)。それからもうひとつの体験は、受験勉強をやっている最中に、チャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」がラジオから突然鳴り出して、ワーッと現実感がなくなって、一種音楽と融合してしまって、「これが音楽的体験というやつじゃないか」とか(笑)、あとで思ったんですけれど。そのぐらいで、いいなと思う曲はあっても、進んで自分の生活のなかに音楽をとりこもうという意識はないんですよね。
久石:
でも、お仕事のときは、たいてい何か音楽をかけて…?
宮崎:
歌は好きなんですけどね。吉田拓郎とか海援隊とか南こうせつとか。そういうところで充分まにあっちゃって(笑)。歌をきくときは歌詞がものすごく気になるんですよね。
久石:
あっ、なるほどね。
宮崎:
歌詞がわからないとすごくイライラして。シャンソンなんかきいていて、歌詞が手もとにあるといいんですけど、ないと「?」という感じになる。
久石:
日本の音楽をやる人というのは、たいてい”ことば”から入るんですよ。甲斐バンドの甲斐よしひろさんとか、中島みゆきさんとか、井上陽水もそうですよね。それが日本でのいちばん重要なファクターで、メロディラインよりも、ことばで何を表現できるかが、もう売れるか売れないかをふくめて、重要なファクターなんです。
宮崎:
でも、最近の若い人は歌詞をきいていないでしょう?
久石:
そう見えるだけで、意外とそうでもないんですよね。いまでもヒットする曲は、やっぱりことばですからね。
宮崎:
ぼくはブルース・スプリングスティーンって好きなんですよ。それは歌詞をきいたからでね。で、これはおもしろいと思って、息子にLP買ってくれよっていって、小づかいをわたして、それで訳詞をよんだらガガーンとなりましてね(笑)。日本の歌っていうのは、訳詞にしても歌の中でいろんな意味をたくさん語れないでしょう。B・スプリングスティーンの曲に「My Home Town」という短い歌があって、日本だったら、その”マイ・ホーム・タウン”というのを3回ぐらいくり返すだろうと思うんだけど、彼は1回で終わらしてる。この小気味のよさが、「さすが本物やなー」と思ってね(笑)。
久石:
それはありますよね。ロックなんかでも、一種の様式美ですから、バックのパターンやコード進行なんかはほとんど変化がないんですよね。そうすると、そこでどんなことばをのせているかが重要になってくるんです。シャンソンにしてもそうだし、カンツォーネがやや例外的にメロディ優先なだけですよね。
宮崎:
あの「なごり雪」という歌があるでしょう。あの歌詞の意味を若いやつに聞くんですよ。そうすると、みんないいかげんに聞いていることがわかる。ぼくはあの曲をはじめイルカの歌できいたものですから、よく女が、20歳ぐらいの男の自信がなくて目標が定まらずにいる気持ちを歌えるなと思って、「たいした女やなー」と勝手に錯覚していたんですけれど(笑)、そしたら、男がうたっていたというのがわかって、なんだと思ったんだけれども…。とにかく、作詞家は作曲家の触媒にすぎなくて、聞く方も、ほとんど歌詞を大事にしていないのかなと、勝手に思っていたんですよね。
久石:
だいぶみんなの耳が、音楽的構成というか、サウンドというか、そういう方へ行くようになったとは思いますけど、やっぱり日本人の国民性からいうと、すごく活字優先な感じがしますよね、いまでも。
宮崎:
あっ、そうですか。ぼくは、その活字が消えちゃったという感じがしてましたけどね。
3
久石:
日本人の耳が、ことばと音楽のどっちに行くかというのは、けっこう悩むことなんです。このあいだも「天空の城ラピュタ」のときに、宮崎さんがエンディングで詞を書かれましたよね。
宮崎:
詞なんていえるもんじゃありませんね、あれは。
久石:
いや、やはり職業的な作詞家にたのんだら、まったくああいう感じにはならないんですよね。それがものすごく新鮮だったと思うんです。あのときぼくも、歌用の曲ということで、イメージアルバムからもってきた曲以外に4~5曲書きましたよね。で、その段階で、ある程度”歌もの”というかシングルを意識しちゃったから、イケないなと思いつつ、書いたものがいわゆる”かわい子ちゃん風”に近いものになったり。このぐらいにしないと会社が喜ばないとか(笑)、邪念が入るといけないんですよね。で、宮崎さんと高畑さんがお選びになったのは、イメージアルバムの曲でしたよね。そのシーンのイメージを描いて書いた曲で、それと詞の関係がすごく自然だったんです。こういう形で音楽ができるのは、あんまりないんじゃないかと思って、ぼくはうれしかったですね。
宮崎:
ぼくは最後にアイドル歌手の歌が入らなかっただけでもホッとしてまして(笑)、それは「ナウシカ」のときにもありまして、そのときは高畑プロデューサーがとにかく拒否をしてくれたんですね。でも「ラピュラ」であの歌が入っていたのはほんとうによかったと思いました。いい歌だなと思うと同時に、流行する歌じゃないとも思うんですけどね。最後に明るい歌をきいてよかったという人がとても多いんですけど、悲しくてしょうがなかったとう人もいて、不思議でしたね。
久石:
ああ、でも、それはわかる気もしますね。
宮崎:
そうですか?
久石:
やっぱりことばをひっくるめて、ようするに”永遠のあこがれ”みたいなものがあるんですよね。何かをさがしに行くんだみたいな部分が純粋に出ているんですよね。そういう雰囲気がすごくよく出ていたと思う。あの歌詞のなかで「あの灯が……」ではなくて「たくさんの灯が……」でなくては困るとおっしゃってましたよね。そのへんがすごくよくわかるというか…。
宮崎:
いやあ…。でも、前の「ナウシカ」のときに久石さんがフラッとやってきて、腐海がどうのこうの、というような話をしたときの出会いが、大きな運命の出会いだった(笑)という気がして、ぼくはひじょうに幸運だったと思ってます。
久石:
ぼくもまったくそうですね。ぼくは大学出た直後はテレビの記録音楽の音楽なんかをやっていたんですけれど、どんどんレコードの仕事に変わってしまって、ですから「ナウシカ」は劇場用としては何年ぶりぐらいだったんです。で、結果的にやらせていただいて、たくさんの話しあいのなかからレコードが出来て、それで自分での何かふっきれた、というかひとつのステップになりました。このあいだもテレビで見直したんですけど、音楽的には非常にバラバラなんですよね。
宮崎:
そうですか?
久石:
というのは、たとえばシンセサイザーだけでやってる部分とか、オーケストラだけの部分とか、ぼくがかつてやっていたミニマル・ミュージック的な曲をオルガンで弾いている部分とか、それぞれ単独にその場面につけていたんですよ。バランスとしては異様なんだけれども、なんか音楽が崩れていないんですね。大きな統一感みたいなものがあって、あらためてびっくりしちゃった(笑)。
宮崎:
「ナウシカ」のイメージアルバムを作るという話をきいたとき、映画化とは別にマンガのイメージアルバムを出すということだったんで、「何をバカな」とか思ったんだけれど(笑)。正直言って「レコード会社も不景気なんだな」とかね(笑)。でも結果的に、劇伴ということではなくて、自由に作ってもらって、そのなかから映画音楽として抽出するみたいな方法が、方法としてはひじょうによかったと思いましたね。
久石:
音楽打ちあわせというと基本的に抽象的になってしまいますが、ただ単に「ここは明るく」とか、単なる擬音でブーンとかね(笑)、そうなってしまうんだけれど、ああいうイメージアルバムを作っておくと、具体的な素材として音があって、それをどう処理するかという話になりますから、やりやすいですよね。
宮崎:
ぼくは音楽に自信がないでしょう。だから「ナウシカ」のとき「いやぁいい、これでよかった。これでいこう」って叫べないんですよね。まわりの反応を見たりして(笑)。でも、じつは「ナウシカ」のイメージアルバムは、きいたときからひどく気に入っていたんですよ。ただ、映画音楽として、これをそのまま使うのがいいかどうかについては、はなはだ自信がないもので、いろんな人がさんざん言うのを聞いてから判断しようと思って(笑)。やっぱり、ぼくはどうも池辺さんとの出会い方があんまりよくなかったのかな?
4
宮崎:
ぼくは音楽とセリフが絶妙なハーモニーを作るというような映画が出来ないかな、なんて思うんですけどね。ロシアのアニメーションに「雪の女王」とう作品があって、ヒロインのゲルダという女の子と山賊の娘と、それからものすごく重いバスの声でしゃべるトナカイと、ピピピって鳴く鳩と、足もとでケラケラ笑っているウサギの出てくるシーンがあるんです。ロシア語だから何言ってるのかよくわからないんだけど、そのテープを聞いてると、音楽と声が渾然一体となってるんです。
久石:
なるほど。でもね、それは日本でも出来ますよ。というのは、アニメの場合、音をつける段階でセリフは絶対に入っていませんよね。だからセリフのきっかけがとれないんですよ。でも、もうちょっと時間の余裕があって、セリフをすこしでも入れておくことができれば、すごく楽だし、音楽ともあわせられる。ただ、こんどはセリフのきっかけがものすごく多くなって、僕らが困ってしまうかもしれないんですけどね。
宮崎:
いやー、絵のスケジュールなんかもあるもんで(笑)、いつも理想は持ちながら、結局線撮りになってしまうとか(笑)。でも、たとえば、ロシア語にしてもフランス語にしても、ようするにことばが音楽になっているけれど、日本語の場合は、関西弁でもないかぎり、味もそっけもないしゃべり方で、これは日本語の欠陥なんじゃなかろうかと思いますね。ロシア人が斉唱をはじめると、アッという間に低音部をつけて合唱になったりするでしょ。
久石:
日本にはないですね。
宮崎:
ないですよね。だから、日本語の問題かなといつも思うんだけれど…。
久石:
日本語の問題ですね。それに、日本にはハーモニーではなくて、ヘテロフォニーという手法が難しくいうとありまして、みんなで同じ旋律をうたうんだけど、それが微妙にズレて、全体でひとつの音になってしまうというものがあるわけです。
宮崎:
お経みないなやつですね。声明とか。
久石:
そう。あれと同じで、ゆったりと流れていくんです。それで、象徴的な感じがするんだけど、日本の映画に音楽をつけるときというのは、リズムがほんとにノラないんですよ。8ビートなんかのせると一挙に安っぽくなりますからね。日本映画をやっていると、そのへんの問題がありまして、ポピュラーばっかりやってるアレンジャーが映画をやるとたいてい失敗するのは、ベース・ドラム・ギター・ピアノという4リズムを抜いちゃうと、音楽を書けないからなんですね。それで4リズムでビートをのせてやると、異様に安っぽくなってしまう。
宮崎:
なんかわかりますね、それは。
久石:
ところが、メロディだけとか、いろんな要素をけずってやれる状態になって、初めて日本語のことばがきこえてきて、音楽が画面のなかにとけこんでいくっていう感じがするんですよ。「ナウシカ」のときもふくめて、ぼくはずいぶんそういうヒントを得たんですよ。ミニマルは割とアップテンポが多いので、セリフが消えちゃったりするんです。だから「ナウシカ」のとき、腐海のところにつけた音楽は最初はやかったテンポを半分ぐらいにおとしたりしてます。それでのるようになったとき、「あっ、なるほどな」と思った。そのときから、映画音楽のコツは、こんなこと言っていいのかな(笑)、ぼくなりに感じたコツは、リズムですね。リズムをどう処理するかで、映画の中でのコミュニケーションがとれるようになったり、ならなかったりする。
宮崎:
以前話したことがあると思うんだけど「ナウシカ」のなかで、ペジテの市民とナウシカが問答をするくだりがあるんです。そのときに、ずーっと同じリズムの曲が流れているんですよね。ナウシカに問いつめられたペジテの市民が「どうすればいいんだ!」と叫ぶわけです。と、そこでリズムが変わるんですよ。たまたま変わったんだと思うけれど、ダビングのときにピッタリあったわけ。それはじつに気持ちよかったですね。
久石:
ええ。ずっと同じ音できて転調しましたよね。
宮崎:
それがうまくいったと思ってたのに、サウンドトラック盤だとズレてる(笑)。ぼくはドラマ編できいていて、さあ来るぞと思ったら「あれ?」となって(笑)。これはちがうと思ったんだけど。
久石:
わかります、それは。
宮崎:
それがピタッと設計されていたら、どんなにいいだろうと思ったんですけどね。これはもう、音楽と効果音とセリフに関して、ぼくらがやってきたやり方が、とにかくいちばん短い時間で商品らしきものに仕立ててしまうという、そのやり方をなんとかしないと。お金の問題じゃないですね。時間の問題ですね。
久石:
じゃあ、これからスタッフの締め切り日を2ヵ月ぐらいサバよんだらどうですか。それで戒厳令を出して、必ず守らせる(笑)。
宮崎:
だけどダメなんですね。封切日が決まってるだもの(爆笑)。これはもう、スタッフはみんな深読みの連続ですからね(笑)。
久石:
いやあ、みんな同じことをやっていますね。
宮崎:
スケジュールの修正ラインをみんな自分でひいてますからね(笑)。全部よまれているんです。とにかく絵は白味でも、映画はなんとかできちゃうという経験だけは、みんなしているんです。
久石:
最初驚きましたけど、もう驚きませんものね(笑)。
宮崎:
こちらにしてみると、声優さんは1日で商売すればいいけれど、こっちは1年間ガマンしてやってきて、それでも線撮をかかえているんだからね、そこは想像力で入れてくれっていう(笑)、もうそういうふうになってしまっているんですよね。そこらへんから、意識がズレはじめてね、心意気の問題にすりかわっちゃうんですけどね。
5
久石:
でも、不思議なんですけれど、宮崎さんの場合は、どうして絵コンテが当初にキッチリできあがるんですか?
宮崎:
いや、できてないんですよ(笑)。
久石:
でも、映画と絵コンテがあまりズレてないのは…?
宮崎:
それは演出特権を発揮して、強権をもって弾圧して(笑)。
久石:
そのズレないのがすごいなあと思ってね。
宮崎:
絵コンテを大事にしろ、というのはパクさんがはじめたことなんですよ。絵コンテというのは、最近出版されたりもするけれど、ぼくらがやってきたのは、絵コンテは準備のひとつの完了であって、それで映画がどうなるかを、スタッフ全員が読みとれるような。そういう絵コンテを作らなきゃいけない。そうしないと、編集で勝負ということになって、カットを入れかえたり、ズタズタ切ったりということがおこるわけです。そういうやり方もあると思うけど、なにしろぼくは高畑勲とやってきた人間ですから、「コンテとはコンティニュイティのことだ、連続である」「そうだ」と思ってますからね(笑)。だから、なるべく作りたい部分に近づけた形で絵コンテを作らなきゃいけないと思ってますね。
久石:
なるほど。と、絵コンテがそこまできてしまうということは、頭の中で全部組み立てているわけですよね。セリフからなにから。そこまでくるのに何日ぐらいかかるわけですか?
宮崎:
ですから、いつも作画インするときに、準備期間を使いきったわりには、絵コンテの4分の1しかできていないんです。長編3回やったけど全部そうですね。
久石:
あっ、そうですか。すると絵コンテ完成するまで何年とか。
宮崎:
ええ。日常業務をやってて、絵コンテをきりつづけるときがいちばんストレスがたまりますね。それにここで4分の1だなと思ったら、絵があがってきたときに4分の1で収まってなければいけないんですよね。だから、カット数はこのぐらいとか、収まってなかったら削るようにしたりとか、そうう自己管理が大変ですね。ほんとは準備期間中に絵コンテがあがっていなければならないんだけど、作画してみると、キャラクターのことがだんだんわかってくるんですよね、絵コンテではわからなかったことが、このキャラクターはおもしろいとか、思ったよりおもしろくないとか。それで話の筋もすこし変わるんですよ。だから、作画に入ったほうがわかるんです。じつは、コンテと作画をダブってやることについては、反省する気はあまりないですね(笑)。
久石:
本音が出ましたね(笑)。
宮崎:
いや、ほんとに。ただ、それがスケジュール全体にダメージを与えたらいけないけれど。ただやっぱり、秒数がキチンと収まらなかったらどうしようというストレスが(笑)、いちばんですね。
久石:
あの「ラピュラ」の絵コンテにはABCDパートとがあって、そのCパートのおわりに、このまま終われるだろうかという(笑)、そう書いてあって「ガンバレ」と書いてありましたね。
宮崎:
それは、もうシンプルな話を作れなくなっているせいなんですよね。ディズニーなんか、シンプルでストロングなストーリーがいちばんいいっていう風に言いますけれど、ぼくもそう思うんです。ところが、だんだん世の中複雑になっちゃたでしょう。海賊のオババが出てきて、そいつをやっつけて女の子を取り戻した、それで宝をみつけて、メデタシ、メデタシという映画だったら、1時間15分ぐらいで「ワハハ」と笑ってオシマイになるんです。そういうのをやらなきゃいけないと思う反面、実際それをやろうとすると、やっぱりそれを本気になって作る気にはならなくなる。
久石:
それはすごくわかりますね。このあいだも、やっぱり軍隊が出てきたりとか、3重構造になって、2時間になっちゃうんだよという話をなさってましたものね。
宮崎:
やはりディティールを描かないとおもしろくないでしょ。ストーリー自体はもうだいたいいくつかしかパターンがないんです。女の子さらわれたのを、取り返してメデタシ、メデタシとか。さらわれたけれど苦労の末帰ってきて、村の危機を救ったとかね(笑)。だから、ストーリーを説明するためじゃなくて、人物がどういうことをやっているか、その中で何を感じたか、それをお客さんが見ていてくれて、あとでストーリーはわかってきたっていいんじゃないかと思うんですよね。そうすると、構造を複雑にせざるを得なくなってしまって…。
久石:
映画の根本って、ぼくもいつも思うんですけど、やっぱりシンプルな方がベストという気がしますよね。それに対する肉付けが、こんどは大事になってくる、いちばん問題になってくるんですよね。
宮崎:
ええ。よくクリスマスツリーの例を出すんだけど、幹が単純でなければいけないんだけど、お客さんが気づくのはデコレーションなんですよね。それで「よかった」と思う。でもデコレーションだけの映画だとベチャベチャになってしまうんです。
久石:
そうなんですよね(笑)。
宮崎:
映画を作るには、大きな幹を作らなければいけない。でもお客さんはそれに気づかない。気づかなくていいんですよね。シンプル・ストロングというのはそれだと思うんです。ところが、それを単純明快にすることが難しい時代なんです。映画がどうしても情報過多になってしまっている、というか、ある意味では受けとり手の側がナイーブさを持っていないのか…。
久石:
それは感じますね。なんかナタで割ったようなシンプルさみたいなものが必要だと思うんだけど、日本ではあまりにはそういう映画がないという気がしますね。でも、宮崎さんに、ぜひそういう単純明快なマンガ映画を作ってほしいと思いますね。
宮崎:
いやー、ホントにそれができればいいと思うんですけどね。
プロローグ
お2人の対談は、じつは延々3時間以上にもおよんだものだった。ここに再録したのは、そのほんの1部分、とくに前半のほうに集中していることを、おことわりしておきたいと思う。この対談をまともに収録したら、このブックレットすべてを使い切っても収まらないのではないかとさえ思われる。ここは宮崎さんのひそみにならって、自己管理し、あえて、いくつかの楽しい話題を書き残さなかった。つづきは、またの機会に……。
(対談 ~CDカラーブックレットより)
対談 久石譲×安彦良和
正統=オーソドックスを基本にしながら、映画を巨大なエンターテインメント=遊びとして考える
イントロダクション
’86年10月3日、ところは東京・西麻布にある帝王プラザホテル。初秋の午後の陽射しが窓の外にまぶしい、そのホテルの1室で、安彦さんと久石さんの久々の顔あわせ対談がおこなわれた。久石さんは’86年9月にリリースされたばかりの自作ソロ・アルバム「Curved Music」を持参した。
第1楽章
久石:
ご無沙汰してました。このアルバム、9月に出したソロアルバムなんです。「Curved Music」というタイトルで、歌も2曲入っているんです。ぜひ聞いて下さい。
安彦:
えっ?久石さんの歌ですか?
久石:
(笑)ええ。CMでも流れているんですよ。そういえば、シンフォニー編の録音のときは、チョコレートありがとうございました。
安彦:
ちょうどバレンタインデーだったんですよ。
久石:
奥様から直接ぼくにということで、いただきまして。
安彦:
それで、久石さんがソロを弾くとき、ちょっとトチってしまったという(笑)。動揺させてしまった。
久石:
あのアルバム、いかがでしたか?お聞きになって。
安彦:
良かったですね。ウチのセガレが、いっちょまえにクラシック・ピアノをやっているものだから、喜んで聞いていましてね。生を聞きたかったって言ってました。それで、生はイイゼ(笑)って…。
久石:
(笑)なるほどね。あのアルバムはA面3曲、B面3曲の計6曲で1曲が6~7分と長かったんですね。ああいう本格的なシンフォニー作りは出来ないかもしれませんね。
安彦:
出来ないというのは?
久石:
体力的なこともあるし、また普通のイージーリスニングが好きな人にとってはすこし重いんですね。本当にクラシックの好きな人が喜んでますから。あれだけ思い切ってやれたのは滅多にないんです。
安彦:
久石さんがスコアを書くときは、やっぱり目を血走らせて、根つめてやるんですか?
久石:
と、本人は思っていたんですが(笑)、うちの事務所の女の子に言わせると、経理担当の人のように、事務机の上で音符をひたすら書いて、ハイ、あがり、ハイ、あがりってやってると。それが信じられないって言ってましたね。
安彦:
「アマデウス」という映画で、モーツァルトが病気になり、サリエリという人が楽譜を書くシーンがあったでしょう。あそこを見てて、ああこうやって書くのかしらなんて思ったんだけど、ああいう神がかり的なことってあるんですか?
久石:
ありますね。あの映画を見て、あんなふうには書けないという人もいたけれど、実際にオーケストラを知り、クラシックを知っている人から見ると、あれは出来るんです。現代音楽のような複雑なものは難しいですけれど、モーツァルトの時代の古典派の様式なら、形式がものすごくはっきりしていますから、映画のような会話でやっていける部分があるんです。
安彦:
たとえば進行が見えてしまうとか?
久石:
ええ。だから、「なんでこうなる」とサリエリが驚くところなんかは、本当にスゴイところなんですね。ティンパニの上に、トランペット1本だけポッと音をのっけるというのは、サリエリが言うように本当に無茶なんですよ。要するに、当時でいえば革命的なことなわけで、サリエリは憎しみと裏腹に感動していく、あれは実際にああだったと思います。それで、その後にベートーヴェンが第9交響曲の4楽章でティンパニとトランペットだけでやっているところがあるんです。やっぱり盗んでいるというか、ちゃんと継承している。そういう会話があの映画にある、ということで戦慄モンでしたね。
安彦:
ベートーヴェンのように耳が聞こえなくても曲が書けるというのは、やはり可能なんですか?
久石:
ええ。現代のように、響きを感覚的につかまないと出来ない時代では無理でしょうけれど、古典派の時代ならあり得ますね。
第2楽章
安彦:
作曲の場合にも、やはり作り手のこだわりの部分があって、それに触れてしまって気マズイとか、そういうことって、ありますか?
久石:
ありましたよ。あるインタビューで、たまたま「ナウシカ」の音楽がとてもよかったと言われてね。「いやー、あの風の谷のナウシカの、”ナ”がいいですね」って。安田成美ちゃんの歌のことなんだけれど、あれ、オレが書いたんじゃないのに「さすがに久石さんらしい」、オレじゃないっていう(笑)、そういうことはありましたね。そこで訂正するのもオトナ気ない気がして。
安彦:
いやー、それはよくあるんですよね。あそこのシーンがよかったとかいわれて、そういうところに限って、自分が人まかせにしたところだったりしてね。
久石:
以前お話ししたときも、自分でどうしても手を出してしまう部分と、他人にまかせなければいけない部分と、それを分けるのが難しいとおっしゃっていましたね。
安彦:
そうですね。描くということから触手をのばして来ていますから、どうしてもひきずっている尾っぽが長いんですよ。だからフンギリがつかない。セリフや音楽の問題に、もうちょっと立ち入れるようになりたいなと最近は思ってるんです。
久石:
どこまで自分が管理しきるか、あるいは人を使い切るか、という問題はありますよね。
安彦:
「アリオン」でもすごく反省してしまったのは、自分の手先のハンドワークを基本にして見てるから、通してみたときに、プログラムがいいかげんなんですよね。
久石:
映画のプログラムが、ですか?
安彦:
映画ということを意識して作ったのは「アリオン」がはじめてだったんです。以前に1本やった「クラッシャージョウ」は映画という意識は全然なくて、とにかく2時間もたせりゃいいだろう(笑)ということだったし、人にもそう言っていたんだけど、「アリオン」のときはさすがに映画なんだという気がありましたね。だから久石さんとの打ちあわせもサボらず出たし(笑)。
久石:
ぼくは「アリオン」に関して言うと、ギリシャ悲劇というベーシックな部分があって、それでいつも思うんですけれど、古いものって超未来のものと共通項がありますよね。すると、ぼくはイマジネーションが出しやすいんですよ。音自体は虚構だから、大シンフォニーでもいければ、超現代サウンドでもいける。そういう意味では、こちらの切り口をストレートに出せば入っていけるという感じがありました。
安彦:
その前に「ナウシカ」をやっていて、やりにくかったということは、ありませんでしたか?
久石:
えー、ありました(笑)。ぼくよりも、まわりがやたらそういうんですよ。自分としてみれば、自分のメロディーというのはひとつしかないわけです。イギリスの片田舎の民謡っぽいものがベースにありますから「ナウシカ」だろうが「Wの悲劇」だろうが、音楽をやる姿勢は変わっていないんです。ただ、それぞれの内容を考えて、それにいちばんいいメロディーを書いているつもりなんです。ところが、アニメ関係の人たちからは、「ナウシカ」があれだけあたりましたから、「あっ『ナウシカ』に似ている」という形のリアクションが返ってきちゃう。ぼくはかなり自分なりにちがうものを作っているつもりなんですけどね。
安彦:
でも、久石さんがかなり広いスタンスをお持ちでも、そのなかで「ナウシカ」と「アリオン」はやはりある領域におさまってしまいますものね。いくらちがうといったって…。
久石:
そうなんですよね。
安彦:
似てるのがあたりまえ、というか。ぼくも何人かの人に「とても音楽がよかったけれど『ナウシカ』に似ていた」と言われたけど、それは似てるでしょう、あたりまえでしょうって(笑)言ったんですよ。
久石:
ところが今度「ラピュラ」をやったときには、その発言が皆無なんですよ。これはいったい何なのだろう(笑)。今度はわざと変えようという意識はなくって、どうせワンパターンの久石ですってやっちゃいました。ぼくはそう考えるときに、ジョン・ウィリアムズの例を考えたんだけど、あれほど天才的なオーケストラ使いで、あれほどいろんな映画音楽を書いている人でも、「スターウォーズ」「スーパーマン」とまったく同じでしょう。「E.T.」もほぼ同じなんですよ。あれを聞いたときに、すごく作家としての痛みがわかるんですよ。単なる劇伴書きだったら、今度はアレふう、今度はコレふうで書けるんですよ。ぼくもかつてはそう書いてましたよね。ところが、つきつめて自分の確信のモテる世界を持ってくると、変えようと思っても、変えられない自分というのが出てくるんですよね。たとえばJ・ウィリアムズなら頭のいい人ですから、「スターウォーズ」「スーパーマン」「E.T.」とパターン変えられるはずなのに、そうしなかった。それが作家としていちばん真摯な態度だった、真実の姿だったという気がしたんですよね。自分もやっぱり、似てるということにはこだわる必要がないと。「アリオン」のサントラを録音するときには、そのへんは吹っきれてましたね。
安彦:
打ちあわせの最初のとき、久石さんが自分から「『ナウシカ』とはちがうものを書きますよ」とおっしゃたのを覚えていますよ。
久石:
えー、意識してませんでした。
安彦:
こっちから「ちがうものをおねがいします」と言っていないのに、久石さんがそうおっしゃるから、あっ、意識してらっしゃると。
久石:
やっぱりまわりからいろいろと言われてましたからね。
安彦:
そのうち、久石さん風のを書いて下さいというようになったり。
久石:
最近あるんですよ。
安彦:
あるんですか。
久石:
とくにCMでは多い。CMのほうは、超ニューウェーブっぽいのしかやっていませんからね。プレゼンテーションといって、会社に企画を出しますよね。そのとき「久石さん風のやつをお願いします」というのが多いんですって。
安彦:
でも、そうなると、オレもちょっとしたもんだなって言っていいんじゃないかな(笑)。
久石:
もうアイツは古いとか、批判が出るようになれば一流(笑)というね(笑)。だから「アリオン」について言うと、はじめて、すべてのサウンドが融合したというところがあるんです。ぼくがやってるオーケストラっぽいものと、いわゆる最新技術の音の世界というのが完全に一緒になって、それでひとつの世界を作れた。パーカッションをずい分使いましたよね。あれがやっぱりすごくきいていたなと思うし、あれはサンプリング楽器といういちばん新しいやつを使ってるんですが、逆にオケの音とすごくまざりあって、自分でも気に入っている仕事なんです。
第3楽章
安彦:
「アリオン」の場合は30何曲ですよね、ナンバーにすると。かなりおさえたつもりだったんだけど、これも反省ですが、もうちょっと大事に使ったら曲が光ったのになあ、と思いましたね。トラック・ダウンのときかなんかに言いましたよね。「久石さん、もうすこし出し惜しみしてくれればよかったのに」って。メインはいいし、サブはいいし、1曲ぐらいあとにとっておいてくれてもよかったんじゃないかな(笑)。
久石:
映画のなかに監督のテンポってありますよね。それが生理的にあったというか、やりやすかったですよ。
安彦:
そのテンポというのがいちばん反省した部分ですね。どうしても原作のダイジェストという感じが出てしまうものですから。
久石:
安彦さんの前の作品「クラッシャージョウ」なんかを見せていただいてくらべると、従来より少し遅いのかな。やはり叙事詩というか大きい構成だから、そのへんの間のとり方は理解できましたよ。
安彦:
もっとメリハリつけようと思ったんだけど、つけきれないんですよね、やっぱり。もっと遊びがあったり、ひっぱりがあればなんとかなるんだけど、音楽がSEとぶつかってしまったり、逃げようがないんですよね。
久石:
それはいつも問題になるところですよね。ただ「アリオン」については、効果音とセリフと音楽のトラブルは比較的なかったほうですね。日本のアニメーションって、普通、効果音にたよりすぎませんか?
安彦:
そうですね。効果音もそうだし、BGMもむこうのアニメはベタツキが基本なんですよね。全部ベッタリ山盛りになってる(笑)。だから、日本のアニメもそこから出発して、だんだん整理していこうという段階ですよね。
久石:
ぼくは、みんなが効果音にどうしてあんなに入れこんでしまうのかが、わからないんだな。とにかく効果音の音量がいちばん大きい。つぎがセリフで、音楽がいちばんシボってある。しかも、効果音がすべてのきっかけになって、メリハリを作っているというのが現状の作り方で、やはり日本のアニメは、このままだったら、あまり明るくないと思ってしまうんですよね。とくに映画、劇場用の風格を持っているアニメについては、極力効果音にたよる姿勢をやめてほしいんですよね。「アリオン」の効果音は、かなりすくなかったんじゃないかという気がしているんですが。
安彦:
効果の方は、宮崎(駿)さんなんかと最近一緒にやっている方で、進境著しくて、ダサイ仕事はしないとう点では信用していました。
久石:
ぼくはどことなくタッチが映画的だと思いまいしたね。
安彦:
ドルビーの問題なんかもあって、全部仕込み直したんですよね。それがすごく大変だったって言われたけれど、そのへんも良かったんじゃないですかね。
久石:
録音監督の方でも、ピストルがバーンといったらきっかけとか、効果音をきっかけにされる方が多いんだけれど、千葉(耕市)さんはセリフのことも良くご存知だから、映画的だったと思いますね。アニメの場合、音楽を作るときに来るラッシュはセリフが入っていないんですよね。だから、こちらは動作で音楽のきっかけを作っていくのが現状ですね。実写の場合は、セリフを同録でやっている方が多いですから、セリフの方がバンバン来るんです。どうしても、だからセリフきっかけが多くなりますね、実写の場合には。
安彦:
「それから」(森田芳光監督)という映画を見たんですが、それの場合は、きっかけをハズしてしまうというか、音楽の方がドンドンさきに来ているんですよね。BGMの数は異常にすくないんだけれど、意識的にあわせてないんですよ。
久石:
それはいいことですね。音楽のつけ方にも2種類あって、オーソドックスなつけ方と、イメージ的なつけ方があるんです。最近はイメージ的な方が多いんですが、それは映像と対位法的な効果を出せるほどまで計算されてはいないんです。ですから、本当のオーソドックスなつけ方と変化球的なつけ方があるんだけれど、いまはそれがゴチャゴチャになって、映像にただ音がついている。そういう点では、日本の映画音楽の状況は悲惨ですね。
安彦:
対位法的なつけ方というと?
久石:
たとえば黒澤明の「野良犬」がありますよね。あの映画で、三船敏郎の刑事と山崎努の復員兵が郊外のドロンコのなかで格闘しますよね。そこに郊外のややお金持ちの家から、お嬢ちゃんの弾くソナチネが聞こえてきますよね。そういう意味での知的な音と映像の関係を論議できるというような、論理的コンセプトを持った映画がないんですよね。いまは情緒的になりすぎてる。だから、ぼくが澤井(信一郎)さんとやるときには、まずオーソドックスなつけ方をやるんですよ。でもオーソドックスな映画というのもあまりないから、オーソドックスなつけ方をやると新鮮なんですよ。ぼくなんかは、まずこれを徹底するところからやりたいなと思ってるんです。
安彦:
とりあえずオーソドックスでおさえちゃおうというのは、ぼくらにもあるんですよね。ただ、とりあずおさえたつもりが、すっかりカラメとられてしまったら困るなという部分もあるんです。ぼくなんかはとくに、ニューシネマとかなんかいってみんながイキがっていたころは、はたから見ててイヤだなあと思ってて、そのへんがまだあるんですよね。やっぱりあれは映画をすごく荒廃させたと思うんですよね。「オーソドックスなんて知らねえや」というのが、ただの”逃げ”だったような気がするんですよね、いま考えると。だから日本映画というのはズーッとつまんなかったような気がするんですよね。
久石:
それはやっぱりありますね。
安彦:
ちょっと状況に甘えていた部分というのはあるんじゃないかと思うんですよね。
久石:
そうですね。なんか監督さんたちが悲惨な感じでやってて、助監督が長くて、40近くになってはじめてメガホンとらしてもらってということになると、みんなホントに自分たちの食えなかった20代をふりかえる”4畳半”映画を作ってしまう。さびしいんだ、わびしいんだという世界にすぐなってしまいますよね。なぜ、そういうチャンスに、しっかりエンターテインメント映画を作らないんだろう、と思うんですよね。映画って、やっぱり巨大な遊びっていうとらえ方をしたほうがいいと思うんですよ。だからこそ人生も語れれば、なんでも語れるんだけれど、みんな私小説に走ってしまう。実写からアニメに興味を持つ人が多くなっているというのは、とりあえず夢や希望もふくめて、アニメにはそれを語れる部分があるんですよね。それにくらべて、実写は描いている世界が卑小化してしまっているという感じがする。
安彦:
相米(慎二)さんお映画で長まわしを見て、ワッすごいと思うんだけれども、逆にいままで、みんなどうしてこういうことをやらなかったんだろうって思うんですよね。
久石:
みんなマジメすぎるんですかね(笑)。たとえば、大林(宣彦)監督が珍しいですよね。CMから入ってきて、エンターテインメント映画に徹していて、最近はちょっとちがいますけど、ああいう人って、日本にもっとたくさんいてもよかったって思いますね。
安彦:
そうですね。
久石:
もうひとつ考えるのは、むかしの外国の映画には、映画音楽作家というのがいたんですよね。エンニオ・モリコーネとか、ヘンリー・マンシーニとか、ちゃんとステータスがあったんですよ。それぞれのレコードもちゃんと商品として売れてましたよね。ところが外国でも日本でも、そういうことが最近はなくなってしまった。こういう部分はもっと変革しなきゃいけない部分だと思いますね。
安彦:
やっぱりそうできなきゃいけないんだと思いますね。
久石:
ただ、映画でたくさんいい仕事をさせていただいてますけれど、ぼくたちの仕事というのが、あまりに裏のスタッフ・ワークになりすぎているという気がするんです。実写の場合はとくに、レコードが付録の商品みたいな感じでしか出ないんです。でも、アニメの場合は、ちゃんと音楽としての完成度もあるし、レコードとしても商品化される。この現状がものすごく象徴的な気がするんです。この現状をなんとか変えられないかなと思うんです。さっきもいったけれど、映画って巨大な遊びだと思うんだけれど、それが私小説におちいってしまっている現状からは、なんとか抜け出してほしいんですよね。でなければ、もっと低予算で手まわしの私小説的なメッセージ映画を作ってほしいんですよね。どっちかにしぼってほしい。中間部のあいまいなところで仕事している人が多すぎると思う。
安彦:
映像はとくにそういう綱わたり的なところがありますね。やっぱり暴力的なものでしょ。見せちゃって、どうだ、という感じで。相手に勝手にぶつけておいて、どうだ(笑)、ていう。相手は一応おののいてしまうから、半分脅迫じみたところはあるんですよね。だから、それがフィルムに傷をつけただけのものであれ、勝手にアットランダムにまわしただけのものであれ、相手はおののいてしまう。そういう甘えの構造というのはあると思うんです。そういうときに、とにかく最初にオーソドックスをふまえようというのは、いちばん強いいさめになると思うんですよね。で、そこからどうやって、遊びなんだから、とうことでリズムを作っていくかという、それはすごく遠まわしなんだけれど、そういうステップをふまないといけないんじゃないか。とくにアニメは実写以上に危険な部分があると思いますね。
久石:
あっ、なるほどね。そう思いますね。
安彦:
だって、なんでもいいわけですものね。アニメーションの場合、映像になっていなくてもいいわけでね。プロジェクターにかけて動いて見えればアニメなんだ、というひじょうに極端ですけれども、そういうアナーキーな部分をもっているわけです。
第4楽章
久石:
ところで、これからのアニメ界というのは楽観できる状態なんでしょうか?
安彦:
どうなんだろう。ちょっとわからないけれど、両方の目があるような気がするんですよね。気になるのは、私事めいた世界が、いろんな姿をまとって出てきそうな気がするんです。そのへんで、どのぐらいの人間が行き迷っちゃうんだろうか、そういうところがかなりあるんじゃないかな。かなりひいたものの言い方だけど。どのみちいい仕事する人間はそう多いわけではないし、そういう人たちがどっちをむくかなというところで決まってしまうでしょうね。できるだけ力技の方へ行ってほしいと思いますけどね。
久石:
ぼくはアニメ作品を3作品、3部作みたいな形でやらしていただいて思うことは、自分のなかでクラシックの延長線上の部分でやっている感じが強いんですよね。ぼくの仕事っていうのは、前にも言いましたが、オーケストラを使ってオーソドックスにやる部分と、反対にニューウェーブと、その両極端しかないんですよ。その両方の基盤にミニマル・ミュージックというベーシックなものがあるんですが、中途半端に、ニューミュージックや歌謡曲の世界はやっていないんですよ。すると、今後自分の姿勢として、アバンギャルド、これは貫き通すのはつらいんですけど、音楽にはこういう可能性もある、こういう可能性もある、という断面の提示でしかないんですよね。すると、それは音楽としては完成度が低いんですよね。たとえば、コップの割れた音だけでも音楽になるよとか、そういう形で音楽の幅はものすごく広がるんですよね。だから、そういう形の音楽は一生やっていくだろうし、それと、もちろん一方では、アバンギャルドだけではマズイ部分があるから、もうひとつの自分も大事にしたいと思うんです。そういうベクトルって、どんな人でも自分のなかにあるものだと思うんですよね。その両方を大事にしながらやっていきたいと思うんですよね。
安彦:
アバンギャルドというのは、もちろん元気だからそうなるということもあるし、逆に不安の表れ、という部分もあると思うんですよね。たとえばまったくモンタージュしていないフィルムのつなぎ方が前衛かなとか、そういう不安の表れだと思うんですよね。とくに、自分より若い連中のことを見ると、自分がこれかもしれないなと思ってやっているのが、やつらにとっては確信かもしれないなとか思ったり、不安は2~3倍になる。そのへんの仕組みに冷めていたいなという気がするんですよ。
久石:
あー、わかりますね。
安彦:
いま新人類とか呼ばれる若者たちが、いやおうなくぼくらの受け手になるわけで、親子ほどの年の差があるんだけれど、その年の差やことばにおびえずにいなきゃいけないな、みっともないことしないようにしてなきゃいけないなと思うんですよ。
久石:
それはまったくそうですね。いまレコードの購買層って15~16歳なんですよ。そうするとぼくより20歳も下なんですね。20歳ちがうとこれはもう同じ土俵で仕事してない部分があるんですよね。その開きに対しての自分の反応は、迎合するわけではないし、どちらかというと意識しないということになりますよね。ただ、安彦さんの「アリオン」もそうだし、ぼくの仕事もそうだし、自分で確信持ってやっていれば、若い人たちはみんなついてくるんだという自信はあるんですよ。
安彦:
彼らが価値を生み出しているのではなくて、情報を再構成してるだけなんですよね。その情報はおじさんたちが作っている。
久石:
ひとつちがうのはチョイスの仕方がうまい。
安彦:
ええ。具体的に情報を選別できるだけで、あまりちがわないと思うんですよね。そのチョイスの山のなかに自分のものをほうりこんだときにどうなるか、ということだけですよね、気になるのは。
久石:
そうですね。だから自信を持っていいと思うな(笑)。
(対談 ~CDカラーブックレットより)
コメント
久石譲の音楽は、特にこの6枚組に収められた音楽にはどこか郷愁を誘うものがある。幼い頃、母の胸に抱かれて聞いた遠い国のお話。私達はいつかそんな所へ行ってみたいと夢見つつ、大人になってゆく。イギリスという国は、そんな私達の夢想の対象としては最適な国ではないだろうか。ビッグベン、ロンドン橋、バッキンガム宮殿そして衛兵達……イギリスには、昔私達が夢見た町並みが残っている。「ラピュタ」のレコーディングが終わってから、若干の休息と今後の音楽の構想を練るために、久石譲はロンドンへ発った。いや、帰ったと言った方が正しいかもしれない。彼の創り出すメロディには、イギリスの民謡に通じるものがある。そんな彼が、自らの感性を再び活性化させる場として、ロンドンを選んだのは当然のことと言える。そして、このロンドンでの日々が、久石譲の音世界をさらに拡げたであろうことは想像に難くない。
約2ヶ月間に及ぶロンドン滞在の締めくくりとして、彼はアコースティックピアノ一台で様々な曲を弾き、何曲かが録音された。いつか、これらの曲が、あなた方に新たなる感動そして郷愁を覚えさせることができる日が、来るかもしれない。
Written by Suminobu Hamada 浜田純伸
-久石譲と宮崎駿- しあわせな出会い 高畑勲
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「風の谷のナウシカ」のイメージレコード、「鳥の人」。その第一曲「風の伝説」に針をおろす。風音の前奏に巾の広いリズムが打ちこまれ、やがてピアノが途切れがちにうたいだす……。すべてはここからはじまった。このピアノの音型は映画ナウシカの中心テーマとなり、様々な姿をとりながら、久石氏のライトモチーフとして映画「天空の城ラピュタ」の重要なテーマにまで発展していく。
イメージレコード完成の半年後、映画「風の谷のナウシカ」のオールラッシュが行われ、映画音楽の打合せに入った。おそらくこの時点で、宮崎駿の世界と久石譲の音楽がこれほど相性が良いと気付いていた人は誰もいなかっただろう。
無国籍でありながら、何らかの民俗色地方色をもち、とはいえ、土着の闇はなく、いわば都会的な「引用」であり、きわめて重いものを扱っていながら、どこか軽さがあり、現実にはあり得ない世界でありながら、密度濃いリアリティや存在感に支えられる必要があり、どんなにリアルにみえても、やはり人工的につくりあげられた自然や人物であり、自然をうたいながら、メカニックなものやスピードへの愛着もひとしおであり、飛鳥な複雑さに達しているイメージも、分解すれば、単純明快な要素の組合せであり、感情の表出は直接的であるよりは、情況のなかで支えられる必要があり……。
おもえば、アニメーションファンタジイにとって、このような世界を音楽でしっかりと支えてくれる作曲家の出現こそ、待望久しかったのである。
2
1983年夏、久石氏は音楽プロデューサー氏と共に、阿佐ヶ谷のトップクラフトナウシカ準備室にあらわれた。ナウシカのイメージレコードの制作がきまり、久石氏にその作曲を依頼したのである。映画の製作に先立ち、原作「風の谷のナウシカ」のイメージを音楽におって自由にはばたかせてもらおう、ということであった。久石氏はすでに原作を読み、意欲充分の様子だった。
壁面に宮崎氏のイメージボードが貼られているだけの、まだガランとした準備室で、宮崎氏は久石氏に熱心にナウシカを語った。音楽の話ではなかった。これから作ろうとしている映画ナウシカについて、その舞台について、そのシチュエイションについて、少女ナウシカやメーヴェについて語った。
宮崎氏の情熱的な話しぶりは初対面の人を驚かす。おそらく久石氏は、自分のやろうとしている作品について、こんなに熱意をこめて語られたことはなかったのではなかろうか。
この時点で久石氏は、基本コンセプトを「イングリッシュ・トラッド」におきたいと語った。そして参考にと、ジョン・アンダスンの「サンヒローのオライアス」というアルバムを貸してくれた。面白いアルバムだった。私は音楽にある種のローカルカラー、いまはやりの言葉でいえば、エスニックな「根っこ」がほしいと常に考えていた。ナウシカの住む風の谷のイメージには、どこかカフカスあたりの香りがあったが、それに強くこだわることもない。ナウシカの中性的な雰囲気につながる、イギリス的伝統(トラッド)に基盤をおくことに異存はなかった。
実のところ、レコード会社の推薦した久石譲という作曲家について、宮崎氏も私も、なんの知識もなく、作品を聴いたこともなかった。久石氏の手になるいくつかのアルバムを聴かせてもらっても、それらはナウシカが必要とするであろう音楽のイメージからは遠く、あまり参考にはならなかった。久石氏がいかなるものを生み出してくれるか、ただ未知なる期待と興味だけがあった。
この会談の後、宮崎氏は請われて、「風の伝説」「メーヴェ」など、いくつかの音楽的テーマをたて、そのイメージを短文にまとめ、久石氏に送った。そして絵コンテの作成に没頭しながら、曲の出来上がりを待つ。
3
宮崎氏は音楽のことはなにもしらないから、などと言うが、それはウソである。いわゆる「知識」がない、厖大にある古今東西の音楽を漁ったことがない、というだけのことであって、宮崎氏はじつに音楽好きである。いつも仕事をしながらテープやラジオを聴いている。
典型的な「ながら聴き」で、おそらく音が鳴っていても、音楽は彼の意識に入って来たり閉めだされたりを繰返しているにちがいない。だから、あきもせず繰返し同じものを聴く。そしてここが肝心なのだが、彼が好きになるものは、結局すぐれたものばかりなのである。繰返し聴いているうちに淘汰されるのだろうか、彼の気に入った音楽や唄にくだらないものはひとつもない。ただ傾向はある。
宮崎氏はどちらかといえば器楽よりも唄を好んできた。唄には歌詞があり、ドラマが凝縮しているからだろう。器楽の場合も、いわば映画音楽的な楽しみ方が身についている。描写的な音楽がよびおこす情景や雰囲気にひたるのが好き、というのではない。その音楽によって、彼自身のうちにタネのようにわだかまっている感情やドラマを昂揚させ解放する音楽、自分の好きなイメージをひきだし、いろどり、拡げるような音楽を好きになるのである。
4
イメージレコードが出来上り、試聴用のテープが届けられた。例によって宮崎氏は聴いた、繰返し。「遠い日々」「鳥の人」、二つの合体した「はるかな地へ…」などはすぐ気に入った。女の子の声があまりに稚拙なことも次第に気にならなくなる。「風の伝説」も、その名のとおりの気分が感じられて良かった。手馴れた当世風のリズムが支配するいくつかの曲を別にすれば、これらの音楽のもつ一種古風で透明な味わい、そして「巨神兵」の後半「クシャナ殿下」のバルカンやカフカスに共通する中東的なひびきもナウシカの世界にふさわしかった。宮崎氏にとって、曲は聴くほどに親しいものとなり、これらの音楽に乗って仕事をした。イメージレコードとして、このアルバムは成功だと思えた。しかし、これが製作中の「風の谷のナウシカ」とどこまでうまく交わるか、それについては何もわかっていなかった。ましてその音楽がほぼそのまま映画をいろどることになろうとは思ってもいなかったのである。
もともと、映画音楽はイメージレコードとは切りはなして、改めて作曲家をたてるというのが基本方針だった。もちろん、久石氏はその候補の一人ではあったが、他の作曲家を推薦する声も強かった。
製作がすすみ、映画音楽を誰に依頼するか決めなければならない日が迫ってきた。そして多少の紆余曲折はあったものの、結局久石氏にきまった。宮崎氏と私は大きな期待をもって久石氏を選びとったのである。何よりも決定的だったのは、宮崎氏がイメージレコードを気に入っていたことと、はじめて準備室で会った久石氏の印象が大変良かったことである。あの人なら、きっと頑張っていい映画音楽をつくってくれるはずだ。
5
音楽打合せに入った時、私はイメージレコードのなかの曲だけではとてもこの映画の音楽をまかないきれないと考えていた。場面の雰囲気をかもしだしたり、戦闘その他に駆動力を与えるような音楽のことではない。それらはミニマルの名手、久石氏の得意技だということをもう知っており、何の心配もなかった。
問題はまず中心に坐るべき音楽、ナウシカの重いテーマと複雑なシチュエイションを精神的に支えてくれる音楽のことである。
腐海の底でナウシカが目覚め、腐海のもつ深い意味、自然の営みの限りない大きさを悟るあのシーン、あるいは全篇を感銘深く締めくくるエンディングに真実の歌がほしい。そして幸か不幸か音楽打合せより前に、凄い歌に出くわしてしまったのである。ソ連のギター弾き語りの詩人、ヴィソツキイの「大地のうた」。いま、その歌詞の一部を引用してみよう。
「大地のうた」 ウラディミル・ヴィソツキイ
誰がいったのか すべてが灰になってしまったと
もう大地に種を蒔かないのか
誰がいった 大地は死んでしまったと
いや ふたたび息を吹き返している
(中略)
大地は幾多の苦しみを乗り越えて生き続けるだろう
力がないなどと思うな
誰がいったのか 大地がうたわなかったと
みずからの命を永遠に断ってしまったと
(後略)
まるで大地の底から私たちを突きゆうがすような、厳しくあらあらしい、それでいてあたたかく私たちを励ましてくれるヴィソツキイのうた、これをコピイして宮崎氏に聴かせた。「大地のうた」は宮崎氏をすっかり感動させてしまった。宮崎氏はヴィソツキイにこだわりはじめた。
ヴィソツキイそのものが使えるのか、「それ的」なものをつくるなどということが可能なのか。しかも、それをエンディングにまわすとすれば、意味からも位置からも映画の中心となる腐海の底の大樹林のシーンには、何が来ればよいか。久石氏の得意とする樹林の不思議さ大きさをあらわす音楽でその穴を埋めることは不可能だ。そこに来る音楽は作品のテーマを背負う精神的な音楽でなければならない。
6
音楽打合せは難航した。
「真実の歌」のために、久石氏は在日中のスーダンのウード弾き語り詩人、ハムザ・ウッディン氏とセッションをもってくれもした。私はまた、自分にとっても馴染みの薄い後期ロマン派の音楽をもちだしたりして更に問題を混乱させた。文明の終末にかかわる深い絶望と無限の憧憬は、結局その終末に追いこんできた西洋文明の申し子たる、世紀末の音楽のうちにしか聴きとれなかったのである。しかし突然、イメージレコードを聞きかえしてみて目からウロコが落ちた。なんと、すべての解答はこのレコードのなかにあるではないか。
単純なひとふしのメロディーが映像と結びついて人の心をゆるがす。あるいは瞬時にその場の意味を悟らせる、そういう力を知らないわけではなかったのに、ナウシカの重さによって私は妙に気負いたっていたらしい。
「遠い日々」の幼い唄声は、その透明さで無垢な幼児ナウシカの姿を彷彿させる。幼い日のかくまいからナウシカのよみがえりまで、王蟲との交感(コレスポンデンス)を信じさせるには、この唄声が喚び起す無心の力しかない。ナウシカがはじめて王蟲の触手につつまれる場面での唐突さは、むしろ衝撃力として生きてくるはずだ。そしてこの唄が、かくまった幼虫をとりあげられるナウシカの哀しみをたとえ相殺することになってもやむをえまい。王蟲とナウシカの交感がこの幼い日に発することを明確に印象づけ、最終的に青い衣も少女が黄金の野にあそぶクライマックスの歓喜を準備する方がもっと大切だ。
大空へと舞いあがる「鳥の人」の、あざやかな躍動感と中間部の古雅な舞曲への傾きは、ナウシカを慕う人々と観客の心の解き放ちを受け持ち、少女ナウシカが神話的な鳥の人であることを信じさせてくれるだろう。
いくつかの鬱屈した情況をいろどるのは、「クシャナ殿下」の中東的なモノローグ。
そして作品全体の精神性を支えるメインテーマはやはり「風の伝説」しかない。腐海の底の意味深さを語るにはやはり物足りない(とその時は思った)が、この音楽のもつ叙事詩的な格調の高さに依拠し、プロローグ(神話的なタイトルバック)、中心(腐海の底)、エピローグ(エンディング)にどっしりと据えれば、おのずと映画の風格がうかび上るはずだ。
7
テーマ主義による基本的な音楽設計が出来上ってみれば、ゆきなやんでいたことが嘘みたいに明快なのであった。久石氏は精神性の表現として必要なテーマのすべてをイメージレコードのなかに用意してくれていたわけである。そしてこのような音楽設計が成立ったということからみれば、宮崎氏ははじめからそのつもりで映像とドラマを構成したとしかおもえなくなってくる。
どうやら、宮崎氏と久石氏の間にいて、私だけが無駄な一人相撲をとっていたらしいのである。
イメージレコードというかたちで、久石氏が「風の谷のナウシカ」と切り結び、全力投球で生み出してくれた音楽。その音楽がさらに鮮やかな姿に発展編曲されて、もう当然のように映画のなかでところを得、映像との相乗作用によってひとつの世界をつくりあげているのをみる時、久石、宮崎両氏の出会いがいかにしあわせな「事件」であったかを思わずにはいられない。
希望と絶望のあやういバランスの上に構築された映画「風の谷のナウシカ」は、久石氏の音楽のおかげで明るくなった。人間への信頼、希望というものがさわやかに浮かび上った。それは宮崎氏の意図でもあっただろう。そしてこの関係は、同じくもうひとつの希望と絶望のあやういバランスの上に成立つ映画「天空の城ラピュタ」で、更に緊密なものとなって再現されることになるのである。
高畑勲
(CDカラーブックレットより)
世界に通用する映画音楽作曲家
久石さんと知りあったのは「ナウシカ」のレコードのディレクターをしていた荒川さんを通してなんです。それで、彼が作ったという「ナウシカ」のイメージアルバムを聞かせてもらったわけです。すごく壮大な感じで、オール・シンセでやっていたので、これはすごいなと思った。それが久石さんを知った最初ですね。そして「ナウシカ」のサントラ盤が一緒にやった最初のアルバムということになるわけです。それ以来、彼とはかなりたくさんの仕事を一緒にしていますよ。「アリオン」「ラピュタ」ももちろんそうだし、それ以外にも井上陽水の「9.5カラット」のなかで久石さんが2曲アレンジをやっているんですが、それも一緒のしごとです。
久石さんはいま日本を代表する映画音楽作曲家だと思うんだけれど、彼のサウンドの特徴というと、以前現代音楽をやっていたということもあって、ひじょうにエスニックなもの、たとえば民族楽器の使い方がとてもうまいし、リズムパターンがふつうの日本人にはないようなものを持っているということですね。それをうまい具合にポップスに溶け込ませている。それにプラスして、日本人独特の甘いメロディーラインを持っていて、情緒豊かで、しかも壮大なシンフォニーも書けるというところが、それまでの作曲家・アレンジャーにはまったくなかった、久石さんだけのすごさだと思います。つまりポップなリズム感と民族楽器のうまい使い方を、シンフォニーの世界とうまく融合させることの出来る唯一の人なんです。
単純なシンフォニーなら、いままでも書ける人はいたけれど、そこにシンセサイザーをからませ、独特なリズム感で味つけし、エスニックな情緒をただよわせることの出来る人は、久石さん以前にはいなかったと思う。そこがすごいなと思いますね。
音楽の表情というものは、録音した素材をどうミックスするか、つまりどう味つけするかによってかなり変わってしまうものなんですが、ぼくはわりとダイナミック・レンジを広くとって、大きいところはボリュームたっぷりに、小さいところは出来るかぎりピアニシモに、という感じに幅広くミキシングするのが好きなんです。久石さんの音楽も、ダイナミック・レンジの幅がとても広くて、ぼくのそういう方向性とピッタリあっているような気がします。
ミックスの仕方にしても、ふつうのポップスのミキシングしかしたことのない人には難しいでしょう。久石さんの音楽は、ドラムにしても、バスドラとスネアの音色がちがって入ってきたりしますしね。それと、テクニカル的にいえば、久石の音楽ではエコー感をどうつけるかが、かなり難しいんです。これについてはかなり悩みます。従来の考え方にとらわれていては、久石さんの音はつかみきれないので、常識にないようなやり方も時にはやりますし、久石さんも楽器の音色を、従来の常識とはちがうレベルでとらえているみたいですね。たとえば、ドラムのバスドラなら杭を打つ音とか、スネアなら弓を打つ音とか、すこしちがった感じでとらえていますね。そういう音をうまくシンセサイザーにのせています。
久石さんとの最初の仕事は「ナウシカ」でしたが、これは録音に約1か月くらいかけているんです。そこまで時間をかけてやる映画音楽は、おそらく日本ではなかったでしょうね。それだけクオリティの高いものがあがったし、それをちゃんと観客がわかってくれたんだと思います。音楽に対する評価もとても高かった。それと、この「ナウシカ」のサントラは「ステレオ」誌の最優秀録音賞に輝きました。
久石さんのレコーディングの場合難しいのは、フェアライトをはじめとする最新のシンセサイザーを使っているので、録音も最新技術を駆使しなければならないことと、同時に、オーケストラでシンフォニーをとるという、これまた逆にきわめてオーソドックスな録音のやり方を両方知っていなければならないということです。シンフォニーなんて、いま日本で録音するチャンスはめったにないんですよね。だから、シンフォニーをとれるということだけでかなり幸運なんですが、やはり経験のない若いエンジニアには難しい仕事でしょうね。久石さんともよく話すんだけれども、久石さんのシンセとシンフォニーという世界と、ぼくのミキサーとしての仕事の領域がすごくマッチングして、やはり幸運だったと思いますね。
シンフォニー編をとる場合でも1作ごとに研究して、そのつど最新の技術を投入してやっているんですよ。だから「天空の城ラピュタ」のシンフォニー編を聞いてもらえば、その最近の成果がわかっていただけると思っています。「アリオン」のときはオーケストラの並び方をすこし変えたりしたんだけど「ラピュタ」ではシンフォニー・ホールでやるのと同じような並び方にしてみたり、けっこうそういう点でも試行錯誤をくり返しているんです。
映画音楽の場合とても難しいなと思うのは、音楽があまり耳についてもいけないし、逆に見終わったあとで、耳に残るメロディーがなければいけない、というところだと思うんです。久石さんの場合音楽が映像のジャマをしないで、見終わったあとメロディーがポッとうかぶ、そういうことが出来る人で、上手な人だなと思いますね。
昨年3月(注・このインタビューは’87年1月に行なったものです)久石さんと一緒にロンドンに行って仕事をしたんですよ。「ラピュタ」のイメージ・アルバムのトラック・ダウンのために、ロンドンにあるエアー・スタジオというところで仕事をしたわけです。そこで仕事をしていたイギリスのエンジニアたちが、久石さんの音楽をみんな絶賛していたんです。日本はこんなにすすんでいるのか、という感じでね。
たしかにシンセサイザーのテクニックはすごいし、また久石さんのメロディーラインとか、民族楽器の使い方とかひじょうにすぐれているし、彼の音楽はほんとうに世界に出してもはずかしくないと思うんです。久石さんのなかに、彼のオリジナリティと同時に、日本人にしか出来ないオリジナリティみたいなものがあるし、それは世界に通用すると思うんです。彼が、たとえばS・スピルバーグかなんかと組んで仕事をしたら、すごいものが出来るんじゃないかな。
とにかく、久石さんと「ナウシカ」「アリオン」「ラピュタ」という3部作をやれてよかったと思いますね。とくに宮崎さんの作品の、絵と音楽のマッチングというのはすばらしいですね。ぼくも仕事を忘れて、ほんとうに楽しめる映画です。それに、音楽の使い方がほんとうにうまいと思う。セリフが一切なしで音楽がファーッと流れたりするところがあったりね。これはやっぱり、プロデューサーの高畑(勲)さんのすごさなんでしょうね。この高畑・宮崎コンビというのは音楽の使い方が日本人的じゃなくて、洋画に近いような感じなんですよね。そういう映画のダビングの手法もすごいと思います。だから、こうした映画がどんどん世界に出ていってほしいし、久石さん自身も、これから世界を舞台に活躍していってほしいと思いますね。
(注・これはインタビューを再構成したものです)
「ナウシカ」「アリオン」「ラピュタ」のサウンド・エンジニア 大川正義 (株式会社サウンドマン・チーフミキサー)
(CDカラーブックレットより)
なお、カラーブックレットには、各DISCごとのライナーノーツも収められているが、これは各CD作品に掲載されていたものと同様である。下記作品ページご参照。
Disc [1]
『風の谷のナウシカ サウントドラック はるかな地へ…』
1. 「風の谷のナウシカ」〜オープニング〜
2. 王蟲の暴走
3. 風の谷
4. 虫愛ずる姫
5. クシャナの侵略
6. 戦闘
7. 王蟲との交流
8. 腐海にて
9. ペジテの全滅
10. メーヴェとコルベットの戦い
11. 蘇る巨神兵
12. ナウシカ・レクイエム
13. 「鳥の人」〜エンディング〜
Disc [2]
『風の谷のナウシカ シンフォニー編 風の伝説』
1. 風の伝説
2. 戦闘
3. はるかな地へ…
4. 腐海
5. メーヴェ
6. 巨神兵〜トルメキア軍〜クシャナ殿下
7. 風の谷のナウシカ
8. 遠い日々
9. 谷への道
Disc [3]
『アリオン サウンドトラック -青春の彷徨-』
1. 地底王ハデス〜メインテーマ
2. アテナとアポロン〜セネカ
3. アリオン・メインテーマ
4. 戦闘
5. レスフィーナ〜想い(歌/高橋美紀)
6. プロメテウス〜海蝕洞
7. ポセイドン
8. 初陣
9. 宿命・ハデス〜ポセイドンの死
10. オリンポスへ
11. テュポーン
12. 大母神ガイア〜アポロン
13. レスフィーナとアリオン
14. ペガサスの少女(歌/後藤恭子)
Disc [4]
『交響組曲 「アリオン」』
1. 第一章
2. 第二章
3. 第三章
4. 第四章〈レスフィーナの唄〉
5. 第五章
6. 第六章
Disc [5]
『天空の城ラピュタ サウンドトラック 飛行石の謎』
1.空から降ってきた少女
2.スラッグ溪谷の朝
3.愉快なケンカ(~追跡)
4.ゴンドアの思い出
5.失意のパズー
6.ロボット兵(復活~救出)
7.合唱 君をのせて (合唱/杉並児童合唱団)
8.シータの決意
9.タイガーモス号にて
10.破滅への予兆
11.月光の雲海
12.天空の城ラピュタ
13.ラピュタの崩壊 (合唱/杉並児童合唱団)
14.君をのせて (歌/井上あずみ)
Disc [6]
『天空の城ラピュタ シンフォニー編 大樹』
1. プロローグ〜出会い
2. Gran’ma Dola
3. 空中散歩
4. ゴンドア(母に抱かれて)
5. 大いなる伝説
6. 大活劇
7. 鉱山町
8. 時間(とき)の城
EXECUTIVE PRODUCER:HIDEO OGATA, KOKI MIMURA, ISAO SAWANO
PRODUCER:JOE HISAISHI