Posted on 2023/03/29
となりのトトロが今秋ロンドンに戻ってくる
完売した作品をもう一度見れるチャンス!
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー (RSC) は、インプロバブルおよび日本テレビと共同で、スタジオジブリの「となりのトトロ」が2023年秋に限定上演されることを発表しました。 “Info. 2023/11/21 舞台『となりのトトロ』(-2024/03/23)再演決定!!” の続きを読む
Posted on 2023/03/29
となりのトトロが今秋ロンドンに戻ってくる
完売した作品をもう一度見れるチャンス!
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー (RSC) は、インプロバブルおよび日本テレビと共同で、スタジオジブリの「となりのトトロ」が2023年秋に限定上演されることを発表しました。 “Info. 2023/11/21 舞台『となりのトトロ』(-2024/03/23)再演決定!!” の続きを読む
Posted on 2023/03/26
2024年1月12-14日、久石譲コンサートがアメリカ・シアトルで開催されます。このたび2023/2024シーズンプログラムが発表され「Subscriber Exclusives」シリーズのラインナップに久石譲登場です。日本オーケストラのシーズンプログラムでいう特別演奏会にあたると思います。共演はシアトル交響楽団。2022年「久石譲 シンフォニック・コンサート スタジオジブリ宮崎駿作品演奏会」以来の再共演です。久石譲リターンズ! “Info. 2024/01/12,13,14 「Joe Hisaishi Returns」久石譲コンサート(シアトル)開催決定!!” の続きを読む
Posted on 2023/03/20
ふらいすとーんです。
北野武監督作品について、その音楽についてふれるのは初めてかもしれません。
◇ワールドベスト収録曲「ANGEL DOLL」
◇映画『キッズ・リターン』
◇映画『HANA-BI』
◇映画『菊次郎の夏』
◇(1)~(6)をめぐって
◇サウンドトラック(国内盤/海外盤)
◇久石譲:【mládí】for Piano and Strings
世界同日リリースのベストアルバム第二弾『Songs of Hope: The Essential Joe Hisaishi Vol. 2』(2021)の1曲目を飾るのが「ANGEL DOLL」です。なんでこの曲??と思ったファンはけっこういるとかいないとか。僕も不思議でした。もっとたくさんいろんな曲あるのに…あえてのこの曲…あえての1曲目…。映画『キッズ・リターン』メインテーマのアレンジ・バージョンです。これを?と不思議に思ってしまうところです。……キッズ・リターンのサントラから入れるにしたってもっとほかに……はいストップ。
リリースから少し時間が経ったあたり、もしかしてと思うようになりました。北野武監督作品って”天使をモチーフにしたもの”がいっぱい出てくる、「ANGEL DOLL」は北野作品のコンセプトや象徴的なものかもしれないと。ワールドベストだし、北野映画の欧米人気もあるし、選曲したのはデッカはじめ海外スタッフが中心という情報もあった気もする。
そうです。「ANGEL DOLL」は『キッズ・リターン』のアレンジ違いを収録したかったわけじゃない。北野作品のなかで「天使」をテーマに据えた『キッズ・リターン』『HANA-BI』『菊次郎の夏』の3作品、その象徴的なものとして収録した。意図したコンセプトがあることを明示するように1曲目に置いた。
先にこれも言っちゃおう。「Kids Return *初収録ver.」も収録されているのに同曲アレンジ違いの「ANGEL DOLL」を同じディスクに入れるほうが不自然な気がしてきます。ファンゆえにごっちゃになってしまうところ、ワールドベスト第1弾・第2弾をまたいで同曲異編(バージョン違いのこと)はあります。例えば、「Summer」は第1弾『Dream Songs: The Essential Joe Hisaishi』にはオーケストラ・バージョンが収録されていて、第2弾『Songs of Hope: The Essential Joe Hisaishi Vol. 2』にはアンサンブル・バージョンが収録されています。ほかの曲を見比べてもそうです。そこへきて、どうしてキッズ・リターンのメロディが同じディスクに2曲入ることになったのか。不思議。
さて、答えはどうでしょうか?
いっしょに見ていきましょう。
この作品には「天使の絵」や「天使の人形」が登場します。「天使の絵」は北野武監督が描いたものでオープニングロゴのように、「天使の人形」は主人公らとは異なるサイドストーリーとして並走しています。天使というモチーフに何を込めているのか、カットごとに見ていくと10~12シーンくらい映っています。
[オープニング]
あの有名な「Kマーク」オープニングロゴが誕生する以前の映画です。映画『キッズ・リターン』ではこのカットがオープニングロゴのように使われています。この時流れているのは「Track1. MEET AGAIN」で、メインテーマのアレンジ・バージョンです。
[シーン 喫茶店]
初めて天使の人形が登場するシーンです。主人公の二人とは異なる、サイドストーリーが始まっていきます。この時流れているのは、今回のお題にもなっている「Track3. ANGEL DOLL」です。
[シーン タクシー]
主人公たちとは別の、青春時代の恋愛・就職・結婚その紆余曲折の果て。並走する物語のシーンにその登場人物らと一緒に天使の人形がよく登場しています。
この作品には「天使の絵」が登場します。北野武監督が描いたもので、オープニングとエンドロールの2回です。本編には病院に飾られている別の絵が2回映っています。「天使の人形」はありません。またオープニングロゴ「Kマーク」が初めて使用された作品です。(このことは『菊次郎の夏』で詳しくやります)
[オープニング]
オープニングロゴのあとにキャストロールです。この時流れているのは「Track5. Ever Love」で、「Angel」のアレンジ・バージョンです。
[シーン 病院]
病院の廊下に飾られている絵です。
[エンドロール]
この時流れているのはメインテーマ「Track11. HANA-BI (reprise)」です。
[エンドロール]
最後は少しずつズームアップして終わっていきます。オープニングとも違う天使のイメージです。翼ももがれ、手の位置を追うとまた深く考えさせられます。
この作品には「天使の絵」や「天使の鈴」が登場します。「天使の絵」は北野武監督が描いたもの、「天使の人形」は主人公らと物語を共にするキーファクターになっています。加えて主人公の男の子がからっているリュックにも羽がついています。それだけにカットごとに見ていくと天使にまつわるもの約25シーンも映っています。
[オープニングロゴ]
映画『HANA-BI』のときに誕生しました。実はそのときまだ音はついていません。映画『菊次郎の夏』からオープニングロゴ+サウンドロゴ(久石譲作曲)の組み合わせが生まれ、以降も北野映画の象徴として使われています。ポイントは、サウンドロゴを北野映画の象徴とみたときに、映画『キッズ・リターン』『HANA-BI』のときにはまだない、ということです。
[オープニング]
オープニングロゴのあとにキャストロールです。この時流れているのはメインテーマ「Track1. Summer」です。ポイント1は、映画『HANA-BI』と同じ絵が使われるということです。線のコンセプトを感じます。ポイント2は、映画『キッズ・リターン』『HANA-BI』『菊次郎の夏』3作品とも「天使の絵」が映るオープニングやエンドロールに、メインテーマ曲が流れているということです。『キッズ・リターン』はアレンジ曲「MEET AGAIN」。あれ?『Songs of Hope: The Essential Joe Hisaishi Vol. 2』にはこの3作品のメインテーマが全て収録されている。(あとに詳しくやります)
[オープニング/エンディング]
オープニングシーンに、映画エンディングシーンから先にもってくるのは、北野武監督作品にも見られます。過去『キッズ・リターン』もそうでした。主人公の男の子が背負っているリュックにも翼があります。そして「天使の鈴」もしっかりぶらさがっています。エンディングシーンからですがアングルの違うカットを映画冒頭にもってきています。
[シーン バス停]
バスを待っているシーンで、行きかう車を止めようとコミカルにやりとりするシーンです。この時流れているのは「Track6. The Rain」です。そういえばこの曲も『Songs of Hope: The Essential Joe Hisaishi Vol. 2』に収録されていますね。
余談です。過去インタビュー・エピソードから推察すると、当初のメインテーマはこの曲だった可能性あります。久石譲はそのつもりで想定していたけれど監督は「Summer」を選んだ。サブテーマのつもりだった「Summer」がメインになったけれど、結果この曲は重要シーンにサブテーマとして使われることになった。それが「The Rain」であり「Mother」であり。心を通わせる、雪解け、大切なシーンに。
[シーン 天使の鈴]
物語の中盤から「天使の鈴」が登場してきます。
[シーン 浜辺]
砂で作った天使です。この時流れているのは「Track8. Angel Bell」で、メインテーマ「Summer」の中間部にあたるパートそのアレンジ・バージョンです。
[エンドロール]
オープニングと同じ天使をモチーフにした絵です。この時流れているのは、もちろんメインテーマから「Track12. Summer Road」です。
映画『BROTHER』
天使にまつわるものは登場しません。
久石譲が音楽を担当した作品『あの夏、いちばん静かな海。』『ソナチネ』にも登場しません。
映画『Dolls』
[シーン 天使の人形]
この作品には2,3シーンだけ「天使の人形」が登場します。映画『キッズ・リターン』とはまた別物です。物語と絡み合うことはなく、過去作品へのオマージュや残像のような印象です。共通する何かは込められていると思います。
『あの夏、いちばん静かな海。』『ソナチネ』『キッズ・リターン』『HANA-BI』『菊次郎の夏』『BROTHER』『Dolls』の7作品です。
(2)天使にまつわるもの
『キッズ・リターン』『HANA-BI』『菊次郎の夏』の3作品で象徴的に登場します。「天使の人形」「天使の鈴」そして「天使の絵」です。
(3)天使の絵
『キッズ・リターン』『HANA-BI』『菊次郎の夏』で唯一共通しているのは「天使の絵」です。オープニングやエンドロールに映っています。北野武監督の描いた「天使の絵」こそ3作品をつなぐコンセプトだとしたら。
(4)オープニングロゴ
北野武監督作品を象徴するオープニングロゴは映画『HANA-BI』から。
(5)オープニングロゴ+サウンドロゴ
北野武監督作品を象徴するオープニングロゴ+サウンドロゴの組み合わせは映画『菊次郎の夏』から。久石譲とのコラボレーションを離れて以降も使用されていました。
(6)北野作品ベスト盤
『 joe hisaishi meets kitano films』は久石譲選曲によるベストアルバムです。『あの夏、いちばん静かな海。』『ソナチネ』『キッズ・リターン』『HANA-BI』『菊次郎の夏』『BROTHER』までの6作品から等しくセレクトされています。『Dolls』はこのあとの映画になります。
(1)~(6)をめぐって
北野映画を象徴する楽曲だったら「INTRO:OFFICE KITANO SOUND LOGO」が適しているとも思います。でも、それじゃダメだとわかりました。作品群を時系列に並べるとサウンドロゴは『菊次郎の夏』からになっています。15秒の曲です。ワールドベストにもってくるのは、、ってなるかもしれません。またこの曲を1曲目にしてしまうと北野フィルムベストのようになってしまいます。反転して、サウンドロゴは『 joe hisaishi meets kitano films』にしか収録されていない、アルバムの価値を大きく高めている1曲です。ちなみにこのとき「ANGEL DOLL」は収録されていません。
(3)北野武監督の描いた「天使の絵」こそ『キッズ・リターン』『HANA-BI』『菊次郎の夏』をつなぐコンセプト、と書きました。『Songs of Hope: The Essential Joe Hisaishi Vol. 2』には、この3作品のメインテーマ曲がきちんと収録されています。そしてまた「天使の絵」が映っているシーンに流れています。『キッズ・リターン』オープニング「MEET AGAIN」後半はほぼメインテーマと同じアレンジ、『HANA-BI』エンドロール、『菊次郎の夏』オーニング/エンドロール。
さらにズーム見ていくと、『Songs of Hope: The Essential Joe Hisaishi Vol. 2』に収録されているDsic1「ANGEL DOLL」「Summer」「Kids Return *初収録ver.」、Disc2「The Rain」「HANA-BI *初収録ver.」は、いずれも映画のなかで「天使にまつわるもの」が登場しているときに流れる曲たちです。もっと言います。このワールドベスト第2弾には、『キッズ・リターン』『HANA-BI』『菊次郎の夏』の3作品からしか収録されていません。
ワールドベスト第1弾『Dream Songs: The Essential Joe Hisaishi』には、『あの夏、いちばん静かな海。』「Silent Love」『BROTHER』「Ballade」が収録されています。おお!と思いきや、『キッズ・リターン』『HANA-BI』からもメインテーマのアンサンブル・バージョンやピアノ・ソロが収録されています。きれいに整合性はとれないものですね。
曲名から眺めてみます。
『キッズ・リターン』には「ANGEL DOLL」、『HANA-BI』には「Angel」、『菊次郎の夏』には「Angel Bell」といった曲があります。「ANGEL DOLL」はメインテーマのアレンジです。「Angel」はサブテーマです。「Angel Bell」はメインテーマの中間パートからです。さて、もしANGELの名をもつ3曲から北野作品=天使のコンセプトで選ぼうとしたらどれにしますか? 映画に漂うテーマ、儚さや刹那的なもの、この3曲からコンセプチャルにどれか1曲選ぶとしたら?(….「Angel」とても好きな曲です。でもメインテーマじゃない、映画でも主人公ではない主要人物のシーンでよく流れていた記憶あります)
サウンドトラックのジャケットやイラストも見てみましょう。国内盤と海外盤での違いから浮かびあがってくることもあるかもしれません。
『Kids Return』(国内盤)
ジャケットにもちゃんと天使はいました。
トレイ面
映画『HANA-BI』(国内盤)
ジャケット
トレイ面
映画『HANA-BI』(海外盤)
ヨーロッパ盤のジャケットです。映画エンドロールで描かれていた天使や、本編にもたびたび登場する顔を花にみたてたモチーフにつながるようです。
映画『菊次郎の夏』(国内盤)
ジャケット
トレイ面
『菊次郎の夏』(海外盤)
アメリカ盤のジャケットです。浜辺のシーンと天使の鈴が描かれています。
トレイ面も天使の鈴になっています。
『キッズ・リターン』『HANA-BI』『菊次郎の夏』の3作品、サウンドトラック日本国内盤のジャケットかトレイどちらか必ず天使は描かれていました。そして海外盤もまた同じもの、あるいはヴィジュアルを差し替えて天使は描かれていました。北野映画の欧米人気はスタジオジブリ作品人気を上回ると評されることもかつてあります。サウンドトラックを手したファンが、映画と同じようにそして余韻のように、天使のモチーフがいつも手元にあってずっと印象に残っていても不思議じゃないですよね。
久石譲:【mládí】for Piano and Strings
2017年に演奏会用作品として誕生しました。北野作品から「Summer」「HANA-BI」「Kids Return」のメインテーマを久石譲ピアノ&ストリングス版でまとめたコーナーです。もちろん全曲フルバージョンで1曲終わるたびに大きな拍手の渦です。”チェコ語で青春という意味でヤナーチェクにも同名のタイトル曲があります。”と久石譲解説にあります。くしくも世界初演はチェコ・プラハでの久石譲コンサートでもありました。
北野武監督作品の象徴として天使が重要だから、久石譲もこの3楽曲を選んだんだ、、なんて乱暴なことを言うつもりはありません。ここは映画視点と監督目線vs音楽視点と久石譲目線、しっかり切り離します。
「青春」、、ずっと考えていました。個人的に思う候補は4つあります。1.青春をテーマにした映画、『キッズ・リターン』は言うまでもない、『HANA-BI』は大人な生き方ができない不器用な主人公、『菊次郎の夏』は大人になりきれていない大人もしくは大人の青春。2.キタノブルーをイメージさせる青。3.北野武×久石譲の中期にあたる3作品。初期2作品を少年期、後期2作品を成人期として中期3作品を青春期、鋭いガチンコで火花バチバチの熱いコラボレーションの時代。4.「ブルーピリオド」というピカソの20代前半の画風を指した言葉があります。「青の時代」とも言われます。そこから転じて孤独や不安を抱える青春時代を表す言葉として用いられています。
……
うーん。個人の解釈だから羽をのばすのは自由なんですけれど、もう一度ヤナーチェクに振り戻ってみます。”『青春』は1924年に作曲した木管六重奏曲で、晩年の作品ながら「若々しい気分」の産物と看做されている”とウィキペディアにあります。深堀りしていくとさらに面白い発見がありました。
この作品の出発点となっているのは少し前に作曲された『青い服の少年たちの行進』という約2分の作品です。ピッコロと大太鼓、チューブラーベルズ(もしくはピアノ)というデュオ編成のようですが、ピッコロ&ピアノ版を聴くことができました。少年時代に所属していた合唱団を回顧した曲といわれています。その2ヶ月後に作曲されたのが『青春』という約20分の作品で楽器も6つに楽章も4つにと大きくなっています。そして、その第3楽章に聴けるモチーフや曲想こそ『青い服の少年たちの行進』です。曲尺は1分くらい伸びていて、モチーフは変容したり曲想は発展していますけれど、ふたつの曲を並べて聴いたときに、同じ曲をベースにしていることはしっかりわかると思います。大胆な言い方をすれば、『青春』という作品のなかに『青い服の少年たちの行進』はモチーフもテーマも包括されている。ヤナーチェクの室内楽作品は晩年に多く、また若い頃の出来事を思い浮かべたものが多いこともあってか、たしかに瑞々しい溌剌とした曲が多い。ウィキペディアの「若々しい気分」という表現をよくされているようです。もうひとつ付け加えるならば、この時代のヤナーチェックは、モチーフやメロディを執拗にくり返す作風で、切りつめられた素材で楽曲がつくられています。
『青い服の少年たちの行進』、つまりキタノブルー、つまり北野映画、そして行進していた少年たちには久石譲も含まれるのかもしれない。若かった頃のまぶしい回顧、北野武×久石譲の『青春』の結晶。【mládí】for Piano and Stringsは、久石譲海外公演でも人気のあるプログラムです。WDO2017で日本初演されたときの音源「Kids Return」「HANA-BI」は『Songs of Hope: The Essential Joe Hisaishi Vol. 2』に初収録されることになります。
ぐるっと一周しました。
それではまた。
reverb.
ひょんなきっかけから広がったテーマでした♪
*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number]
このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪
Posted on 2022/12/06
2022年12月9日開催「第28回 四人組とその仲間たち」コンサートです。今回のゲスト作曲家として久石譲出演予定です。当日はYouTubeにて無料配信が決定しています。 “Info. 2022/12/09 「第28回 四人組とその仲間たち」コンサート 久石譲ゲスト出演 LIVE配信!! 【3/8 Update!!】” の続きを読む
Posted on 2022/06/05
中国ゲーム「王者栄耀(おうじゃえいよう) オナー・オブ・キングス」、久石譲が楽曲提供することが発表されました。主人公をテーマにした新曲の書き下ろしです。このたび久石譲インタビュー動画が公開されました。このゲームは中国史上最大のヒット作とも呼ばれ、2018年には日本でも配信開始しているとあります。 “Info. 2022/06/05 [ゲーム]「王者栄耀 オナー・オブ・キングス」(中国)久石譲楽曲提供 【3/4 Update!!】” の続きを読む
Posted on 2023/03/01
舞台「となりのトトロ」英国演劇賞の最高峰オリヴィエ賞にノミネート!
英国演劇界で最も権威のある「ローレンス・オリヴィエ賞」のノミネート作品が2月28日(現地時間)に発表され、スタジオジブリのアニメーション映画を舞台化した「My Neighbour Totoro」(「となりのトトロ」)が、演出賞、主演女優賞、作・編曲賞など最多の9部門にノミネートされました。 “Info. 2023/03/01 舞台版『となりのトトロ』英国演劇界最高峰「ローレンス・オリヴィエ賞」最多9部門ノミネート(Webニュース各種より)” の続きを読む
Posted on 2023/03/01
1986年公開映画『天空の城ラピュタ』(監督:宮崎駿/音楽:久石譲)が中国本土で公開されることが決定しました。公開日は中国で「こどもの日」にあたる6月1日です。
スタジオジブリの代表作は2018年に『となりのトトロ』、2019年に『千と千尋の神隠し』が中国公開されています。芸術性なポスタービジュアルも話題になり、映画も高い興行収入を記録しています。 “Info. 2023/06/01 映画『天空の城ラピュタ』(1986)中国本土公開決定” の続きを読む
Posted on 2023/02/22
2月16,17,18日、久石譲指揮 日本センチュリー交響楽団×九州交響楽団によるジョイントツアーが福岡・大阪・一宮で開催されました。両楽団のシーズンプログラムから定期演奏会や特別演奏会のスケジュールにあたる3公演です。久石譲は2021年に日本センチュリー交響楽団の首席客演指揮者に就任して以来数多くの公演を行っていますが、このたび関西を越えて九州のオーケストラとの合同演奏会が実現!100名以上のラージオーケストラは大迫力と歓喜です。
2023.02.27 update
九州交響公式Facebookにアップされた写真7枚を追加しました。
特別演奏会 九響×日本センチュリー響
[公演期間]
2023/02/16
[公演回数]
1公演
福岡・アクロス福岡 シンフォニーホール
日本センチュリー交響楽団 定期演奏会 #270
[公演期間]
2023/02/17
[公演回数]
1公演
大阪・ザ・シンフォニーホール
久石譲、日本センチュリー交響楽団×九州交響楽団が奏でる 春の祭典 愛知特別公演 in 一宮
[公演期間]
2023/02/18
[公演回数]
1公演
愛知・一宮市民会館
[編成]
指揮:久石譲
管弦楽:九州交響楽団/日本センチュリー交響楽団(合同演奏)
コンサートマスター:西本幸弘
[曲目]
久石譲:Metaphysica(交響曲 第3番)
—-intermission—-
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」
マルケス:Danzón 第2番
—-encore—-
となりのトトロ
[参考作品]
まずは会場で配られたコンサート・パンフレットからご紹介します。
久石譲/Metaphysica(交響曲 第3番)
Metaphysica(交響曲第3番)は新日本フィル創立50周年を記念して委嘱された作品。新作は2021年4月末から6月にかけて大方のスケッチを終え、8月中旬にはオーケストレーションも終了し完成した。前作の交響曲第2番が2020年4月から2021年4月と1年かかったのに比べると約4ヶ月での完成は楽曲の規模からしても僕自身にとっても異例の速さだった。楽曲は4管編成(約100名)で全3楽章からなる約35分の長さで、この編成はマーラーの交響曲第1番とほぼ同じであり、それと一緒に演奏することを想定して書いた楽曲でもある。
Metaphysicaはラテン語で形而上学という意味だが、ケンブリッジ大学が出している形而上学の解説を訳すと「存在と知識を理解することについての哲学の一つ」ということになる。要は感覚や経験を超えた論理性を重視するということで、僕の場合は音の運動性のみで構成されている楽曲を目指した。
I. existence は休符を含む16分音符3つ分のリズムが全てを支配し、その上にメロディー的な動きが変容していく。
II. where are we going? は26小節のフレーズが構成要素の全て。それが圧縮されたり伸びたりしながらリズムと共に大きく変奏していく。
III. substance は ド,ソ,レ,ファ,シ♭,ミ♭の6つの音が時間と空間軸の両方に配置され、そこから派生する音のみで構成されている。ちなみにこれはナンバープレースという数字のクイズのようなゲームからヒントを得た。
久石譲
作曲/2021年 初演/2021年9月11日、東京
編成/フルート4(ピッコロ2持替)、オーボエ4(イングリッシュ・ホルン持替)、クラリネット4(E♭管クラリネット、バスクラリネット2持替)、ファゴット2、コントラ・ファゴット、ホルン6、トランペット4、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、ドラムセット、大太鼓、合わせシンバル、吊るしシンバル、小太鼓、トライアングル、タンバリン、クラベス、ウッドブロック、シェイカー、鈴、ボンゴ、タムタム、グロッケンシュピール、ヴィブラフォン、鐘、ハープ、ピアノ(チェレスタ)、弦楽5部
使用楽譜/未出版
(「月刊九響 2023年1・2・3月号」プログラムノートより)
*「春の祭典」「ダンソン第2番」の解説は割愛
*「春の祭典」「ダンソン第2番」の解説は九州交響楽団/日本センチュリー交響楽団がそれぞれ発行している冊子よりプログラムノートの音楽評論家・筆者は異なる
*「Metaphysica(交響曲第3番)」の編成は福岡公演で配布された九州交響楽団「月刊九響 2023年1・2・3月号」プログラムノートには明記
ここからはレビューになります。
久石譲:Metaphysica(交響曲 第3番)
約35分の作品。2021年新日本フィルハーモニー交響楽団と世界初演して以来2度目の登場となります。「マーラー:交響曲 第1番」とプログラムを並べたこの作品は、楽器編成も同じように4管編成16型(約100名)を想定して書かれています。
「ストラヴィンスキー:春の祭典」はさらに上をいって5管編成16型です。わかりやすいところで言うと、テューバもティンパニも2奏者を必要としています。これらの楽器はふつう各オーケストラとも1奏者、なかなか楽団単体の演奏会にはあがらなさそうです。
~おさらい~ 16型は弦16型のことです。第1ヴァイオリン16人、第2ヴァイオリン14人、ヴィオラ12人、チェロ10人、コントラバス7-8人などと少しずつ減っていきます。単純に弦楽5部で約60人になりますね。
~おさらい~ 10型は弦10型のことです。第1ヴァイオリン10人、第2ヴァイオリン8人、ヴィオラ6人、チェロ4人、コントラバス2-3人などと少しずつ減っていきます。単純に弦楽5部で約30人になりますね。
弦16型と弦10型でなんとストリングス2倍近く違うんです。このポイントをおさえると数字も体感も変わってきます。
日本センチュリー交響楽団は現在2管編成10型のオーケストラを基本としています。まず「久石譲:Metaphysica(交響曲第3番)」をプログラムしたかったら客演を呼びたい。そして「ストラヴィンスキー:春の祭典」、そこへ九州交響楽団との合同演奏会が実現することにより単純2倍(違うけど)!テューバやティンパニも解決できる!そう、ジョイントコンサートだからこそのプログラムになっています。クラシックファンのあいだでも「春の祭典聴くの2回目」なんて声もレア感があることがよくよくわかります。「久石譲:Metaphysica(交響曲第3番)」でいうと、WDOや新日本フィルなど(同じじゃないか)大所帯なオーケストラでできる、貴重なプログラムだということはぜひ覚えておこう(だから行こう)。
会場ごとに聴いただけでも、ホールの反響・座席の場所などもあって、聴こえてくる音・強調される音が違ったりします。こんなところでこんな楽器鳴ってたっけ?と変わって聴こえてくることもたくさんあります。2度目となったこの作品は全体構成は同じだったと思います。もしかしたら改訂とはいわない範囲の細かい修正はあるのかもしれません。上のプログラムノートを見たときに、初演の編成にはなくて今回の編成にある楽器に「ボンゴ」が明記されていました。ただボンゴってラージオーケストラでその音を掴み取るのはなかなか難しい、舞台奥で視認も難しい。「ボンゴ」が記載ミスとかでなければ(失礼しました)、このたびその楽器は追加されている可能性はあります。それにともなうパーカッション群の微調整もあるのかもしれません。とにもかくにも複雑に構築された交響曲です。2回聴いたくらいでわかるわけないじゃないかわかられてたまるか。レコーディング版を届けられるまで、スコアが出るまで、答え合わせは楽しみに待ちたいと思います。
初演時の前回感想にはメモ程度のことを書いていました。興味あったら下にあります、そこに編成も明記しています。今回もさほど変わらず、むらなくこの作品について語ることはできず、印象に残った点だけ記します。だからこれを見ても作品の全体像はわかりません、いつか聴くチャンスをつかんでください。
I. existence
ライブ演奏では大太鼓のパンチがとても効いていてティンパニと合わせてすごかったです。パーカッション炸裂する第1楽章、リズムも旋律も入り乱れてカオスです。前回はマーラー交響曲とのプログラムもあってホルンのベルアップ(楽器を高く掲げて演奏する)もありましたけれど、今回はなかったかも気づけませんでした。舞台スペースもぎっしりですし。ちょっとしたフレーズやハーモニー感に「TRI-AD for Large Orchestra」を連想できたりもして、いつかその序曲と交響曲第3番を並べて聴いてみたいです。
II. where are we going?
きびしく美しい楽章です。急緩急をとる第3番で緩徐楽章ともいえるこの第2楽章の印象もまた変わりました。ストリングスの重厚さがすごい。第1楽章と第3楽章の激しさに挟まれて少し落ち着きそうな印象だったのに、後半の迫りくるエモーショナルパートも一層分厚く感じて、全3楽章ともに肩を並べるほどの力強さを感じました。これはうれしい。
中間部に弦楽四重奏(+パーカッション)になるパートは、「I Want to Talk to You」などにも見られる近年の久石譲特徴のひとつです。新しく取り入れたアプローチが、室内楽と交響曲をまたいでどちらにも採用されている。単旋律の手法が室内楽作品にはじまり交響曲第2番にまで取り入れられたように。作品を線で追える楽しさです。
III. substance
久石譲楽曲解説にもある基本モチーフが幾重にも炸裂する楽章です。強烈な印象を残します。個人的なヴィオラ贔屓を差し引いても、ヴァイオリンたちよりも一番休みなくそして起点となってずっと動いている勇姿を見ることができました。これが音源だけだときっとわからない。ぜひお気に入り楽器の勇姿をしかと見届けてほしいところです。
視覚的にもおもしろい発見があったので、ここではそこにフォーカスします。久石譲のオーケストラ・フォーメーションは対向配置をとっています。このおさらいは下リンクをご参照ください。
対向配置(左)、一般配置(右)
交響曲第3番の第3楽章でとくに目立ったのは、対向配置の上をいくオーケストレーションです。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが両翼に分かれている配置です(図1)。この作品に限ったことではないですが、第1ヴァイオリンの全員が同じ旋律を弾く以外にも、第1ヴァイオリンのなかで何パートかに分かれて違う旋律を演奏(例えばハモリ)したり、必要な人数分だけ演奏することもあります。
今回、扇のようにステージ奥から前方にかけて、各セクションが分かれて演奏するさまがありました(図2)。チェロまでやってたか自信はない。第1・第2ヴァイオリンとヴィオラは、各2パートくらいに分かれて速いパッセージの旋律をディレイするようにリレーしています。
同じように、ヴィオラ、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリンの順番だったと思う(図3)。今度は前方・中方・後方の分け方で速いパッセージをこだまさせるようにつないでいく。各3-4パートくらいだったと思います。そう、野球やコンサートで客席ウェイブが起こるような動きを弦楽で見ることができるんです。この動きに気づいたり魅了されたファンはきっといたはず。これから音源になって聴いたときには、なんとでも加工技術のある昨今驚かないかもしれませんが、生演奏の時点からこのステレオ感や立体的な音響をつくっているということは、ぜひおさえておきたいポイントです。
最後にもうひとつ気づくことがあります。(図3)をみると第1ヴァイオリンで4パートに分かれています。実際は4-5だったかもしれません。もしこれが弦10型だったら、、2人ずつくらいになって、たぶんフレーズが浮き立ってきません。弦16型だったら、4人ずつで演奏することができてバチッと鋭く鳴らせる聴こえる(16人=4パートx4人)。第2ヴァイオリンやヴィオラはさらに人数が減っていくから切実以下同文。ああ、弦16型を想定して書くということは、こういうことができる如何にも関わってくるのか、と震えた次第です。
対向配置 図1
出典:Daxter Music
対向配置 図2
対向配置 図3
「久石譲:Metaphysica(交響曲 第3番)」2021年新日本フィルハーモニー交響楽団との世界初演のライブ映像から第2楽章などが公開されています。次のチャンスを楽しみにしながら聴いてみてください。
世界初演レポート(2021)
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」
めったにプログラムにあがらないことは上の編成規模で書きました。久石譲作品ではティンパニやテューバは1奏者でしたがここからは2奏者です。九州交響楽団・日本センチュリー交響楽団のファンや定期会員も多く集まるコンサート、反響もすごかったです。僕だったら、大迫力ですごかったです!くらいしか言えないところ、コンサート後のSNS感想もおのおの想い想いに賑わっていました。
今まで聴いたハルサイのなかで一番よかったとか、具体的なパートや楽器のところをさして感想があったり、とても楽しく眺めていました。なかには、久石譲交響曲とハルサイで同じアプローチをしているとか、クラシックファンからみた久石譲交響曲の解釈もあったりして、とても興味深かったです。自分にはない見方や聴こえ方を知れるっておもしろいです。
もし僕から何か追加で言えるとしたら、、『YAMATO組曲(男たちの大和)』や『坂の上の雲』もこのくらい派手にバーン!とやってほしいな、聴いてみたいな、以上です。
マルケス:Danzón 第2番
けっこう人気のある作品で楽しみにしていた観客も多かったみたいです。僕はこの公演のプログラム発表で知ったくらい、周りを見渡せば「やっぱりこの曲いいよね!」ホットな空気を感じました。序盤では第2ヴァイオリンらがまるでマンドリンやウクレレのような楽器の抱え方でピッツィカートを奏でていたり、視覚的にもラテンのおもしろさが伝わってきます。リズム音楽でありながら一本調子じゃない、めまぐるしく変わるテンポや転調そして展開に惹き込まれます。艶のある上品なラテン・クラシックは、聴かせどころのツボもいっぱい、構成もしっかりしていてクラシックファン納得なのもうなずける。シンフォニックなダンスでいうと「ウエストサイドストーリー」が有名ですが、ダンソンのほうがクラシカルな印象です。ヨーロッパの伝統ならハンガリー舞曲とかになるし、ラテンの伝統ならダンソンとかになる感じ。
久石譲指揮のリズムコントロールもいつもながら絶妙です。メロディ以外のパートを歌わせたり緩急自在。ラテンならではの軽快さのなかに、久石譲らしい重心の効いた弾力感のあるリズムはたまりません。バン!バン!じゃなくてバン!ぶぁん!
-アンコール-
久石譲:となりのトトロ
大編成だし「World Dreams」かクラシック音楽からかなと予想していたところ、なんととなりのトトロでした。演奏が始まった瞬間、そうか!「舞台 となりのトトロ 5冠」の祝福なのかもしれない、そんなふうにも思いました。ちょうどタイムリーにロンドンから飛び込んできていたニュース、久石譲もきっと喜んでいることでしょう。そうであってもそうでなくても、みんなが明るく笑顔になるお祭りのフィナーレにふさわしい一曲です。
ダブルティンパニだし『久石譲 in 武道館』を連想してしまうほどの大迫力、この演奏を聴けた観客はとても得した気分だと思います。今回のティンパニは左右対称に演奏していたのもおもしろかったです。下の写真の最後のほうを見たらわかるかもしれませんが、太鼓の配置が鏡のように反転しているんですね。だから左奏者が一番左を鳴らしているとき、お隣の右奏者は一番右を鳴らしています。おそらく太鼓の数が多いし振動や反響なんかの影響もあるのかもしれません。そういう動きが見れるだけでも楽しいです。
本公演は大掛かりな舞台配置もあって中央にピアノを置けるスペースはありません。中間部のピアノパートはオケ奏者です。いつもならピアノを弾いているその時に、久石譲指揮は第1ヴァイオリンの流れるような対旋律を「もっと聴かせて」と誘導するようにタクトを振っている姿も、なんだか貴重でうれしい。
2時間ぎっしりです。定期演奏会ベースの雰囲気と観客なのでなかなかスタオベまではいきませんが、それでもカーテンコールの拍手は演奏に負けないくらい大きいものでした。ハルサイやダンソンでブラボー言えないなんて、そんな観客も多かったかもしれません。その想いを拍手に力いっぱい込めていました。
久石譲コンサートは、ほかの公演に比べて若者層・女子層・カップル層・海外層が高いのは周知のことですね。大阪公演では、客席中央の通路なんかに補助席がずらっと並ぶほどの満員御礼でした。こういった客層をみながら、若い人が初めて聴けるジブリ音楽、海外観光客が来日期間の幸運で聴けるジブリ音楽、ああたしかに「となりのトトロ」はあってよかったと思います。
そして、それ以上に感じたこと。アンコールに違和感のないというリスナー空気感です。クラシックファンのSNS感想をみても「となりのトトロ」がそぐわないとか浮いてるみたいな感想を一切見なかった。ほら、クラシック通ならハルサイやダンソンの余韻のまま終わりたいみたいな、なんかありそうでしょ。ハルサイもダンソンも聴けてとなりのトトロまでこの振り幅がすごい、むしろそんな印象でした。これは久石譲指揮コンサートでしかできない最大の魅力です。選ぶクラシック・プログラムもいいし本家本元の自作も聴ける、そんな空気感に変化していると感じました。大切だからもう一回言いますね。プログラムの振り幅こそ久石譲指揮演奏会の魅力!バラエティに富む古典・現代・自作・映画を同じクオリティに高めて観客を大満足させてしまう!どうぞお見知りおきを。
久石譲交響曲第3番で堂々の幕開け!そしてハルサイ!ラテンも満載!大喝采!九州交響楽団×日本センチュリー交響楽団のジョイントだからこそできたプログラムはホント祭典。またやってほしい企画です。これからも久石譲指揮だからこそ振り幅いっぱいのコンサートを楽しみにしています。
ふたつの楽団が並ぶだけあってSNSも活発に発信してくれていました。ここでご紹介するリハーサル風景や公演風景のほか、楽団員リレーインタビュー動画や公演休憩時間の舞台早替え動画などもあります。盛りだくさんです。ぜひ好きなオーケストラのSNSをフォローチェックしてみてください。
リハーサル風景(福岡)
ほか
リハーサル風景(大阪)
公演風景(大阪)
ほか
from 久石譲本人公式インスタグラム
https://www.instagram.com/joehisaishi_composer/
リハーサル風景(福岡)1日目
2日目
3日目
当日 ゲネプロ
公演風景(福岡)
from 九州交響楽団 Kyushu Symphony Orchestra 公式ツイッター
https://twitter.com/KyushuSymphony
ほか 全10枚
from 九州交響楽団/Kyushu Symphony Orchestra 公式Facebook
https://www.facebook.com/TheKyushuSymphonyOrchestra
リハーサル風景(福岡)
公演風景(福岡)
リハーサル風景(大阪)
公演風景(大阪)
公演風景(一宮)
from 日本センチュリー交響楽団 公式ツイッター
https://twitter.com/Japan_Century
plus 日本センチュリー交響楽団 公式Facebook
https://www.facebook.com/JapanCentury
最後まで読んでいただきありがとうございます。
Posted on 2019/11/29
2020年6月12,13日、久石譲によるスタジオジブリ宮崎駿監督作品演奏会がスウェーデン・ストックホルムにて開催決定!
2017年6月パリ世界初演、「久石譲 in パリ -「風の谷のナウシカ」から「風立ちぬ」まで 宮崎駿監督作品演奏会-」(NHK BS)TV放送されたことでも話題になりました。 “Info. 2023/06/02,03 「久石譲 シンフォニック・コンサート スタジオジブリ宮崎駿作品演奏会」(ストックホルム) 開催決定!! 【中止 2/23 Update!!】” の続きを読む
Posted on 2023/02/20
ふらいすとーんです。
怖いもの知らずに大胆に、大風呂敷を広げていくテーマのPart.8です。
今回題材にするのは『みみずくは黄昏に飛びたつ: 川上未映子 訊く/村上春樹 語る』(2019)です。
村上春樹と久石譲 -共通序文-
現代を代表する、そして世界中にファンの多い、ひとりは小説家ひとりは作曲家。人気があるということ以外に、分野の異なるふたりに共通点はあるの? 村上春樹本を愛読し久石譲本(インタビュー記事含む)を愛読する生活をつづけるなか、ある時突然につながった線、一瞬にして結ばれてしまった線。もう僕のなかでは離すことができなくなってしまったふたつの糸。
結論です。村上春樹の長編小説と短編小説と翻訳本、それはそれぞれ、久石譲のオリジナル作品とエンターテインメント音楽とクラシック指揮に共通している。創作活動や作家性のフィールドとサイクル、とても巧みに循環させながら、螺旋上昇させながら、多くのものを取り込み巻き込み進化しつづけてきた人。
スタイルをもっている。スタイルとは、村上春樹でいえば文体、久石譲でいえば作風ということになるでしょうか。読めば聴けばそれとわかる強いオリジナリティをもっている。ここを磨いてきたものこそ《長編・短編・翻訳=オリジナル・エンタメ・指揮》というトライアングルです。三つを明確な立ち位置で発揮しながら、ときに前に後ろに膨らんだり縮んだり置き換えられたり、そして流入し混ざり合い、より一層の強い作品群をそ築き上げている。創作活動の自乗になっている。
そう思ったことをこれから進めていきます。
今回題材にするのは『みみずくは黄昏に飛びたつ: 川上未映子 訊く/村上春樹 語る』(2019)です。
この本は、一般的には小説家ふたりの対談本といえます。が、タイトルにあるとおりインタビューする人とされる人の立ち位置を明確にしたかたちをとっています。村上春樹さんは、その理由を”質問する側と答える側それぞれに役割と責任が明確になる”からだと語っています。”ちょっとつかのま席を一緒にしたような、ちょっと顔合わせをしたような対談の場合には、「まあいろいろありますよね」みたいなお茶を濁したような曖昧な会話に終始しがちでそれが嫌だ”からだと、どこかにありました。
世代の異なる作家、村上春樹本で育った若い作家がインタビュアーだから、細部まで記憶が詳しいし質問も切り込む攻め込む。同じ分野で活躍するプロとプロの濃密な対話になっています。こういうかたちで同じ土俵にあがる、いいなあ、表には現れない白熱した胸のうちが伝わってくるようです。
自分が読んだあとなら、要約するようにチョイスチョイスな文章抜き出しでもいいのですが、初めて見る人には文脈わかりにくいですよね。段落ごとにほぼ抜き出すかたちでいくつかご紹介します。そして、すぐあとに ⇒⇒ で僕のコメントをはさむ形にしています。
“そうですね。例えば『東京奇譚集』という短編集では、まさにキーワードを三つずつ選んで、五編書いたんですよね。短編だとそういう遊びみたいなことができて楽しいです。あそこに入った短編小説はそういう感じで、一気にまとめて書いています。”
~(中略)~
⇒⇒
音楽をつくるときにも同じことが言えますね。コントラバスという楽器のために作った曲、三和音をコンセプトに作った曲、など。また映画音楽にも制約(セリフとかぶらない・曲尺など)がありますが、制約をアイデアとすることで楽しめたり、新しい切り口のきっかけになることもたくさんあるんだろうと思います。自らゲームルールを作ってプレイ楽しめる人は強いです。
”それは、僕にはわからないなあ。僕は翻訳を、できるだけ実直に、原文通りにやろうと思って、それを第一義に考えて翻訳しているんだけどね。うーん、もしそうだとしたら、それはあくまで無意識にしていることですね。自分ではわからないね。僕としては、ありのままに素直に、英語を日本語に移し替えているつもりなんだけど。短いセンテンスとかパラグラフで見ると、そんなに目立たないけど、全体で見ると、僕の味みたいなのがじわっと滲み出ているのかもいれないですね。そういうのを意識したことはあまりないけど。”
~(中略)~
⇒⇒
どうしてもにじみ出てしまうオリジナリティというのはあります。翻訳をするにしても、ひとつの英単語からどの日本語を選ぶか、たくさんある日本語候補のなかから。どのようにして単語と単語をつなげてひとつひとつの文章にしていくか。小さな選択のなかにオリジナリティが含まれ、それが全体のなかに蓄積されていきます。いい意味で、忠実にしようとしても隠せないものってあると思います。隠せないものそれこそが、翻ってその人の作家性といえるのかもしれませんね。
見方を変えて、久石譲の手がけた編曲って気づくものは多いです。作曲じゃないのに編曲だけでその人とわかってしまう。いかに強固なオリジナリティの現れかと思います。編曲や指揮という間接的なもののはずなのに、自身のシグネチャをのこせるってすごいです。
“それは僕の場合、まずリズムじゃないかな。僕にとっては何よりリズムが大事だから。たとえば翻訳をする場合、原文をそのまま正確に訳すことは訳すんだけど、場合によってはリズムを変えていかなくちゃいけない。というのは英語のリズムと日本語のリズムとは、そもそも成り立ちが違うものだから。英語のリズムを日本語のリズムに、自然にうまく移行しなくてはなりません。そうすることで文章が生きてくる。文章技術はそのために必要なツールなんです。”
~(中略)~
⇒⇒
よく語られていることで同旨あります。
“で、そこで何より大事なのは語り口、小説でいえば文体です。信頼感とか、親しみとか、そういうものを生み出すのは、多くの場合語り口です。語り口、文体が人を引きつけなければ、物語は成り立たない。内容ももちろん大事だけど、まず語り口に魅力がなければ、人は耳を傾けてくれません。僕はだから、ボイス、スタイル、語り口ってものすごく大事にします。よく僕の小説は読みやす過ぎるといわれるけど、それは当然のことであって、それが僕の「洞窟スタイル」だから。
うん。目の前にいる人に向かってまず語りかける。だから、いつも言ってることだけど、とにかくわかりやすい言葉、読みやすい言葉で小説を書こう。できるだけわかりやすい言葉で、できるだけわかりにくいことを話そうと。スルメみたいに何度も何度も噛めるような物語を作ろうと。一回で、「ああ、こういうものか」と咀嚼しちゃえるものじゃなくて、何度も何度も噛み直せて、噛み直すたびに味がちょっとずつ違ってくるような物語を書きたいと。でも、それを支えている文章自体はどこまでも読みやすく、素直なものを使いたいと。それが僕の小説スタイルの基本です。結局そういう古代、あるいは原始時代のストーリーテリングの効用みたいなところに戻っていく気がするんだけど。”
~(中略)~
⇒⇒
難しい言葉や言い回しで武装する難解な小説は、同じく難解で聴く人を無視した現代音楽に近いのかもしれませんね。メロディはシンプルに、ハーモニーやリズムは技術を駆使して聴きごたえのある曲に。聴いても聴いても飽きのこない、また新しい魅力に出会えるような曲。そして人の心をつかみやすいメロディだからこそ、すっとその曲に入っていける。
“うん。文体はどんどん変化していきます。作家は生きているし、文体だってそれに合わせて生きて呼吸しています。だから日々変化を遂げているはずです。細胞が入れ替わるみたいに。その変化を絶えずアップデートしておくことが大事です。そうしないと自分の手から離れていってしまう。
そうそうそう。文章というのはあくまでツールであって、それ自体が目的ではない。ツールとして役に立てばいいんです。だから完成形なんてあり得ない。僕も、昔は書けなかったものごとが今ではわりに自由に書けるようになりました。今は書きたいものはもうだいたい書けるかな。”
~(中略)~
⇒⇒
村上春樹さんは毎日机に向かって文章を書いているそうです。久石譲さんも毎日なにかしら曲をつくっているそうです。そうやって自分のスタイルを常に磨きながら更新していく。書きたいものを書ける技術力あってこそ創造性は花開くんだ、と言うは易し大変なことです。
ツールというのは小説家にとっては言葉、村上春樹さんの場合は言葉を道具として使う。当たり前のように聞こえるかもしれませんが、実はそんなことありません。言葉を創造するというやり方もあるからです。美しい文章を書こうと凝る人や、言葉をつくろうとする人もいます。言葉に込めるものが多い、言葉そのものが独創性のあるものになっている。詩なんかもそうですね。で、村上春樹さんは、シンプルなツール(言葉)の組み立てで文章を表現する。ふだん誰でも使う道具(言葉)を使っている。
音楽でも同じですね。
ツールというのは、作曲家にとって楽器とも言えるかもしれません。一般に広く普及している生楽器を使って作曲するのか、あるいはシンセサイザーなどで自分の音色を作り込んで表現するのか。音響機材を駆使してそれらがないと鳴らせないもの。どちらが良い悪いではないですね。ただひとつ言えるのは、音色や音響に独創性(替えのきかないもの)を持たせるということは、それだけ再現性のむずかしい音楽になるということはいえます。生楽器にしても、尺八、篳篥や世界各国の民族楽器なんかは、楽器や演奏者の希少性もあって演奏機会が限られる、はたまた国を越えて演奏しにくいということも出てきます。時間(未来)と空間(接点)に広がりと普遍性を担保するということは、作品をのこす条件としてとても大切なことなのかもしれません。
“僕の場合、昔書いたことってほとんど忘れちゃってるから、そんなに気にならないというところはあります。「二世の縁」は土の中から即身仏を掘り出す話で、そこを起点に小説を書きはじめたわけだから、必然的に穴が出てくる話になってしまう。だから、これはもうしょうがないだろうと。やっぱり人間には思考パターンがあってね、どう変えてみたって、同じようなシチュエーションって必ずどこかに出てくるものだし、そのたびに少しずつ違う書き方をすればいいんじゃないか、と僕は思うけど。
うん。角度を変えたり、描き方を変えたり。道具立てが同じじゃないかと詰め寄られたら、まあ確かに同じなんだけど、でも、僕の感覚としては同じじゃないんです。そのたびに新しい。アップグレードされているとまでは言わないけど。しかし僕はなぜか穴とか井戸とか、そういうものに惹きつけられるところがあるみたいですね。自分でも不思議だけど。”
~(中略)~
⇒⇒
別の本ではこのように語っていました。”「詩人が書きたいことというのは、一生のあいだに五つか六つしかない。私たちはそれを違うかたちでただ反復しているだけなんだ」と。そういわれてみると、たしかにそうかもしれないと思う。僕らは結局、五つか六つのパターンを死ぬまで繰り返しているだけなのかもしれない。ただ、それを何年かおきに繰り返しているうちに、そのかたちや質はどんどん変わってきます。広さも深みも違ってきます。”(出典忘れ…)
僕はこの作家性やオリジナリティの考え方はもっと尊重されてほしいなと思います。あまのじゃくな何々風な作品群よりも、一本筋の通ったものから、作品ごとにテイスティングを味わう機微のようなものを大切にしたい。ラッセンがいきなりイルカじゃなくて恐竜を、海じゃなくてジャングルを描きだしたらびっくりします。イルカと海ばかりな作品たちに見えるけれど、ひとつひとつ目を凝らせば同じ作品や構図はありません。好きな人はあのテイストに魅了されているんです、きっと。
“そう、文章。僕にとっては文章がすべてなんです。物語の仕掛けとか登場人物とか構造とか、小説にはもちろんいろいろ要素がありますけど、結局のところ最後は文章に帰結します。文章が変われば、新しくなれば、あるいは進化していけば、たとえ同じことを何度繰り返し書こうが、それは新しい物語になります。文章さえ変わり続けていけば、作家は何も恐れることはない。文章さえ更新されていれば、血肉をもって動き続けていれば、すべてが違ってきます。
そうですね。響き、リズム、そういうものが自分の中で、前とは違っているという確信がなければ、やっぱり怖いんじゃないかな。文章が違ってくれば、同じ話でも進む方向性が変わってきます。作家はそうやって前進していくしかない。”
~(中略)~
⇒⇒
これは、、とても深く深く考えてしまう内容です。ひとつの考え方として、文章を「アプローチ、オーケストレーション、楽曲構成」としてみました。すぐに久石譲だとわかる久石メロディであっても、常にそのときのアプローチなんかによって楽曲はやっぱり最新版の久石譲になっている。それはオーケストレーションの違いなのか、構成の違いなのか、演奏アプローチも違うのかもしれない。いろいろ考え方はありますよね。とにかく、作家は止まっていないということです。
”四十代の半ばくらいまでは、例えば「僕」という一人称で主人公を書いていても、年齢の乖離はほとんどなかった。でもだんだん、作者の方が五十代、六十代になってくると、小説の中の三十代の「僕」とは、微妙に離れてくるんですよね。自然な一体感が失われていくというか、やっぱりそれは避けがたいことだと思う。”
~(中略)~
⇒⇒
次の引用がわかりやすくなるようにとひっぱってきました。次へ進む。
“もちろんそんなに簡単に文体を総ざらいして、新たなものをつくって、みたいなことはできません。そんなに急に、これまで使っていない筋肉を使うことはできないから。ただ気持ちとして、新しい方向性に文体を転換して行こうということです。新しい文体が新しい物語を生み、新しい物語が新しい文体を補強していく。そういう循環があるといちばんいいですね。”
~(中略)~
⇒⇒
具体的にいうと、一人称から三人称への転換などがあります。「僕は~」で書いていた小説のもつ同化や説得力から、物語や人を俯瞰的にみる三人称へ。登場人物が少ないときや主役がはっきりしているときに有効な一人称と、登場人物が多いときや対等に扱いたい複数人のときに有効な三人称、など。一人称から三人称へ、そうしないと書けない物語がある。書きたいことを書きたいように、あるいはこれまで書いたことのない世界を書きたいときに変化を遂げる。
ベートーヴェンも、ピアノソナタをつくって交響曲へと大きく拡大して弦楽四重奏曲に削ぎ落とす。こういった時代ごとの作風のサイクルに区切りをつけながら次に進んでいます。そしてその作風は決して終わったわけでも決別したわけでもなく、行きつ戻りつ、ときに確認して見つめなおしたりをくり返しながら。(久石譲語録の記憶から….)
久石譲もシンセサイザーからオーケストラへの転換などがあります。シンセサイザーでは映画の世界観を表現しきれないと、フルオーケストラへと舵を切る。そうやって軸はオーケストラに置きながらも、今もってシンセサイザーサウンドを排除したわけではない。
村上春樹はこの本の別頁でこんなふうにも語っています。”書けることだけを書いて、それはそれでまうまく機能していたんだと思う。でもそれは僕の本当に書きたかったこととは少し違うんです。自分の書きたいものがある程度書けるようになってきたのは、もっとずっとあとのほうですね”
“この前も言ったけど、僕は『ノルウェイの森』で、リアリズム小説を書き切るという実験をやりました。『スプートニク』は、これまでの文体の総決算をやってしまおうと思って書き始めました。それから『アフターダーク』では、ほとんどシナリオ的な書き方をしました。そういうふうに、「少し短めの長編」ではいつも自分なりの実験みたいなことをやっています。今回はこういうことを試してみよう、という挑戦をやっているわけです。『多崎つくる』も僕としてはわりに実験的というか、いうなればグループを描く小説です。そういうものは以前には書いたことがなかった。あれぐらいの長さの小説って、書き手としては一番実験がしやすいんです。
短編だとある程度のまとまりが必要になってくるし、長い長編だと生半可なことはできない。中途半端に実験的なことをやると収拾がつかなくなりますから。でも『スプートニク』とか『国境の南、太陽の西』とか、それから『アフターダーク』、『多崎つくる』、あのぐらいの一冊本だと、そういうわりに突っ込んだ実験ができます。感覚を思い切って解放し、新たなシチュエーションを試してみることができます。だから、僕にとってはすごく大事な容れ物なんです。でもあのサイズの小説って、おおむね読者の評判がよくないんですね。
わからない。なんでだろう(笑)。短編は短編で、ある程度評価してもらえるし、長い長編は長編として評価してもらえるんだけど、あの中くらいの小説というのは、少なくとも出した時点では、なぜか酷評されることが多いみたいですね。手を抜いているとか、これまでと同じだとか、あるいは逆に新しいことをやろうとして失敗しているとか。”
~(中略)~
⇒⇒
うーん、読者として不完全燃焼な感じがあるのでしょうか、中くらいなサイズ感もあいまって。短編のほどよい軽食感とも、長編のフルコースな満足感とも少し違う、なにか居心地のさだまらない感覚なのかもしれません。
そう言われると、久石譲『ミュージック・フューチャー・コンサート』で披露される作品って、第一印象でそういうところもあるかもしれません。時間の長さも楽器編成も中くらいな作品が多いです。そこに、そのとき旬な実験性みたいなものも含まれていて、どう受け取っていいのか、どう反応したらいいのか、まったく免疫のなかった聴衆は戸惑ってしまうような感じ。
でも不思議なもので、そういった中くらいの作品が、次の大きな作品につながっていたり、あとから振り返ったときにはおさまりよく据わっているような気もします。ああ、あの作品が節目や布石だったんだなと、余裕をもった心持ちで受け止めるときがきっと訪れることでしょう。だから、ひとつひとつの作品に愛着がある。
“小説的な面白さとか、構築の面白さとか、発想の面白さというのは、生きた文章がなければうまく動いてくれません。生きた文章があって初めて、そういうのが動き出す。でも多くの作家は、発想とか仕掛けが先にあって、文章をあとから持ってくる。意識が先にあって、身体があとからついてくる。僕の感覚からすれば、同時にあるものではなくて、まず文章がなくちゃいけない。それが引き出していくんです、いろんなものを。”
~(中略)~
⇒⇒
例えば、楽器や音色といった飛び道具を先に決めてしまって、それを使うことが最優先になってしまっている音楽ってありますよね。使うことが最大の目的になってしまっている。それが悪いわけではないんでしょうけれど、なんというか発想勝負、仕掛けの珍しさだけで突っ切ろうとしている感じ。奇をてらったものには、それなりの芯も持ち合わせていないとぐらぐら倒れてしまいます。
少し追加します。
同書からですが、テーマ(短編・長編・翻訳)からはそれるんですけれど、とても伝わる語り口だったのでぜひとご紹介します。
”朗読に使ったりするとき以外は読み返さない。もちろん自分の書いたものについて「くだらない」とか「つまらない」とか思っているわけじゃないですよ。ベストを尽くして書いたという手応えは僕の中にまだ残っているし、そのことに誇りのようなものだって持っているし、褒められればもちろん嬉しい。僕の小説が三十年経っても絶版にもならずに書店の棚に並んでいるのを目にすれば、ありがたいなと思うし、読者に感謝したいなと思う。それは当たり前のことです。作家だから。でもそれはそれとして、自分で自分の書いた小説を改めて読み返したいという気持ちにはなかなかなれない。
自分の書いたものはむずかしいね。カーヴァーのたとえば「大聖堂」とか、パン屋の話とか、「足もとに流れる深い川」とかは、今読んでもやっぱりすごいなと、手を入れるところもないよなと思うけど。自分の小説というのは、まあ、僕が書いた短編のベスト3なんてとても選べないけど、もし選べたとしても、読んだらやっぱりイライラするんじゃないかな。同じ話も、今だったら違うふうに書くと思う。
ただ、もし今僕がその自分の短編を、今の感覚と今の技術で書き直したとしても、読んだ人がよくなったと思うかというと、そうとは限らないと思う。それはあくまで僕自身の感覚の問題だからね。だからあまり読み直さないようにしているんです。読むとどうしても手を入れたくなっちゃうから。”
~(中略)~
⇒⇒
作家の思考が覗けておもしろいです。
”そういう書き方ももちろんあるわけだけど、僕はそういう書き方はしないというだけで。僕が自分の昔書いたものをまず読み返さないのは、だいたいにおいて自分の書いた文章に不満を感じるんです。でもそれは良いことだと思う。だって同じことを書いてたら、誰も読まなくなるよね。また同じかと。バージョンアップして自分を磨いて上げていかなちゃいけない。やっぱり世界は広いし、自分よりうまい人はたくさんいるし、日本のマーケットの中だけに留まっていたら、自己改革ってなかなかやるのは難しいと思う。ついつい締切りに追われたりしてね。
それから、いいところも一緒にある程度捨てていかないとね。でも、なかなか難しい話です。僕の読者でも初期の作品のほうがずっと好きだって人はたくさんいる。『ノルウェイの森』を今書いたら、もっともっとうまく書けると思うけど、きっとあればあれぐらいの段階で書いといて一番良かったんじゃないかって……。
今読むとね、青臭いなと思うとこあるんだけど、やっぱりああいうのはある程度青臭くないと、人の心は打たない。”
~(中略)~
⇒⇒
”いいところも一緒にある程度捨てていかないと”という部分が特に印象的でした。宮崎駿監督でいうと「トトロ2は作らない」になるだろうし、久石譲でいうと「過去は忘れる」になるだろうし。自身の完成モデルにすがらないということもあるんですけれど、文章を読んでいて、あの時だからこそ最も輝けるかたちで完成したことを作家が一番よくわかっている、だから捨てないといけないという逆説につながるのかもしれない、と思った次第です。
今回とりあげた、『みみずくは黄昏に飛びたつ: 川上未映子 訊く/村上春樹 語る』。村上春樹さんの本を読んだことある人なら、もちろん楽しめる本です。そうじゃなくても、本を読むことが好きな人には興味をそそられる視点ばかりです。そして、今度本を読むときには、もっとぐっと近づけて、もっと深く楽しめるようになりたい。そう思わせてくれる本です。
-共通むすび-
”いい音というのはいい文章と同じで、人によっていい音は全然違うし、いい文章も違う。自分にとって何がいい音か見つけるのが一番大事で…それが結構難しいんですよね。人生観と同じで”
(「SWITCH 2019年12月号 Vol.37」村上春樹インタビュー より)
”積極的に常に新しい音楽を聴き続けるという努力をしていかないと、耳は確実に衰えます”
(『村上さんのところ/村上春樹』より)
それではまた。
reverb.
いろんな分野からクロスして学べるって楽しい。
*「Overtone」は直接的には久石譲情報ではないけれど、《関連する・つながる》かもしれない、もっと広い範囲のお話をしたいと、別部屋で掲載しています。Overtone [back number]
このコーナーでは、もっと気軽にコメントやメッセージをお待ちしています。響きはじめの部屋 コンタクトフォーム または 下の”コメントする” からどうぞ♪