Posted on 2016/1/2
2015年12月に開催された2企画、3公演のコンサート・レポートです。
久石譲が2年ぶりに「第九」を指揮する!「第九」のために捧げた序曲「Orbis」に新たな楽章をくわえ世界初演!
まずは、演奏プログラム・セットリストから。
久石譲 第九スペシャル 2015
[公演期間]
2015/12/11,12
[公演回数]
2公演
12/11 (東京 東京芸術劇場)
12/12 (神奈川 ハーモニーホール座間)
[編成]
指揮:久石譲
管弦楽:読売日本交響楽団
ソプラノ:林正子
メゾ・ソプラノ:谷口睦美
テノール:村上敏明
バリトン:堀内康雄
オルガン:米山浩子
合唱:栗友会合唱団 ※東京公演は一般公募のコーラスを含む
[曲目]
久石譲:
Orbis for Chorus, Organ and Orchestra
オルビス ~混声合唱、オルガン、オーケストラのための
I. Orbis ~環
II. Dum fata sinunt ~運命が許す間は
III. Mundus et Victoria ~世界と勝利
-休憩-
ベートーヴェン:
交響曲 第9番 ニ短調 作品125 〈合唱付き〉
I. Allegro ma non troppo, un poco maestoso
II. Molto vivace
III. Adagio molto e cantabile
IV. Presto – Allegro assai
久石譲 ジルベスターコンサート 2015 in festival hall
[公演期間]
2015/12/31
[公演回数]
1公演 (大阪 フェスティバルホール)
[編成]
指揮:久石譲
管弦楽:日本センチュリー交響楽団
ソプラノ:林正子
メゾ・ソプラノ:谷口睦美
テノール:村上敏明
バス:妻屋秀和
オルガン:片桐聖子
合唱:大阪センチュリー合唱団 大阪音楽大学合唱団 ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団 Chor.Draft
[曲目]
久石譲:
Orbis for Chorus, Organ and Orchestra
オルビス ~混声合唱、オルガン、オーケストラのための
I. Orbis ~環
II. Dum fata sinunt ~運命が許す間は
III. Mundus et Victoria ~世界と勝利
ベートーヴェン:
交響曲 第9番 ニ短調 作品125 〈合唱付き〉
I. Allegro ma non troppo, un poco maestoso
II. Molto vivace
III. Adagio molto e cantabile
IV. Presto – Allegro assai
同じ流れをくんだ「第九スペシャル 2015」「ジルベスター・コンサート 2015」は、プログラム構成も同一となっています。
会場にて配布されたコンサート・パンフレットから、久石譲のプログラム解説をご紹介します。
久石譲のプログラムノート
ベートーヴェン「第九」について
ベートーヴェンの晩年の大作である「第九」は、音楽史の頂点に位置する作品のひとつです。作曲家の視点から見ると、もうこれ以上は削れないところまで無駄を削ぎ落とした究極の作曲法です。そのスコア(総譜)が要求する音楽表現のレベルの高さを60分以上持続させるだけの緊張感が演奏では必要です。
これは僕個人の考えですが、「第九」の最大の特徴は第4楽章にあり、同時に最大の問題でもあった。それは第1~3楽章までと第4楽章では大きな隔たりがあるからです。もちろん声楽が入ることに起因しています。
今日ではマーラーなどの交響曲で声楽が入ることに何の抵抗もないのですが、当時約200年前の時代、それはあり得なかったことなのです。声楽はオラトリオやオペラなどのものであって、純器楽作品とりわけ交響曲に使用するなどと言うことは、サッカーを観に行ったら後半からラグビーになっていたくらいに違うことだった。いくらスーパースターの五郎丸が出場したとしても観客は戸惑います(実際はベートーヴェンの前に交響曲にコーラスを入れた例はあるのですが、今日ほとんど演奏されていない)。
では何故ベートーヴェンはそのアイデアに固執したのか?それは作曲家の直感だ! としか言えないのですが、冷静に見れば、第1~3楽章まではとてつもなく完成度が高い楽曲が続く。だが、決して聴きやすいわけではない。やはり重くて長い(僕は好きですが)それに続く第4楽章は? どういう楽曲を書かなければならないのか? それまでを凌駕するほどのアイデアが必要だ。悩みに悩んだ彼は閃いた「そうだ声を楽器として使おう!」
と言いたいのですが、実際は同時に声楽を使ったもう一つの交響曲を書こうとしていた。交響曲第10番に相当します。だが、さまざまな事情で頓挫してこの「第九」にそのアイデアが結集した。
おそらくその段階では論理的な整合性はそれほど考えていはいなかったと思います。誰も想像していないことを(その時代では)思いついたのはやはり天才たる由縁なのですが、大きな問題にも気づく。第1~第3楽章まで聴いてきた聴衆がいきなり第4楽章で合唱を聴いたらきっと戸惑うだろう。そのギャップに聴衆はこのが曲自体受け入れなくなるのではないか……ベートーヴェンは聴衆の反応を気にするタイプです。まあ多くの作曲家、演奏家は皆そうなのですが(笑)
そこで思いついたのが、第1~3楽章の主要主題を持ち出しては「これではない」と否定し、あの「歓喜の歌」を肯定する方法です。それによって唐突感を失くしているのです。これはシェークスピアの戯曲でもよく似た方法が使われています。本来あり得ない亡霊を登場させるために、あえてそれを皆の前で否定してみせる(そのことによって既成事実を作る)、あるいは噂話のようにさもありなんと匂わせることで、亡霊が出てもすんなり受け入れられる状況を作った。
本来作曲家のスケッチ段階のようなことを、あえてオペラチックな方法を用いてでも彼はやならければならなかった。逆にいうと、それをしてでも声楽を使うということに固執した。
だからそのような第4楽章冒頭のチェロとコントラバスのレシタティーヴォからバリトンの歌う導入部分を、まるでギリシャ神話の王様が出てくるように演奏するのに僕は抵抗があります。
実はこの演奏スタイルはワーグナーが始めた手法です。ワーグナーは長年埋もれていたこの楽曲を世間に広く知らしめた人です。持ち前の行動力でその再演を成功させるのですが、同時にスコアにかなり手を入れた。つまり書き変えた。当時はベートーヴェンの時代に比べて楽器の性能が飛躍的に進歩していたし、著作権という概念もなかったので、他の人の楽曲に手を入れることなど当たり前なことだった。そのうえ、自らの楽劇に近い強引な解釈で指揮をした。それが今日、とりわけ日本で定着した「ギリシャ神話の王様」のような第4楽章なのです。
それはそれで偉大なワーグナー伝来の手法なのでいいのですが、僕はもっとベートーヴェン自身が頭をかきむしりながら「あれも違う、これも違う!」と部屋をうろつきまわる生身の姿にしたいと考えています。
ゲーテの回想録に出てくるのですが、ある日偶然にベートーヴェンと出会った。そのとき、話題が夏の避暑地のことになり、その場所がお互いに近いことがわかって、ゲーテはなかば社交辞令のように「近くにお越しの節は…」と話したら彼が本当に来てしまった。だが、気難しく自分のことしか話さない彼に辟易した、と書いてあります。僕はこの話がとても好きです。それは「作曲家なんてみんなそんなものだ」と思っているからです(笑)
ですが、高邁な精神を持っていることと現実の生身の人間は同じ人間でも違う。その意味では「ギリシャ神話の王様」も当然あり得るのですが、高邁な精神を書き綴ったものが譜面、つまりスコアです。それを出来るだけ虚飾を取り払い忠実に演奏しようというのが、今回の意図です。つまり何もしない、ベートーヴェンが考えたことを作曲家の視点からできるだけ忠実に再現したいと考えています。
それにしても最大の問題を最大の長所(特徴)に変えたベートーヴェンはやはり偉大です。
実は他にもたくさん「第九」には不都合な場所、整合性が取れていないところがあります。今日多くの優れた指揮者がそれに対する答えを用意して、それぞれの「第九」に挑戦していますが、まるで「答えのない質問」をベートーヴェンから突きつけられているか、のようです。
僕の指揮の師匠である秋山和慶先生はすでに400回以上「第九」を指揮されていますが、それでも「毎回新しい発見があるんですよ、だから頑張ろうと」と仰っています。「第九」はその深い精神性を含めて表現しようとする指揮者、演奏家にとって永遠の課題なのかもしれません。
参考文献
*『ベートーヴェンの第9交響曲』ハインリヒ・シェンカー著(音楽之友社) *『楽式の研究』諸井三郎著(音楽之友社) *『《第九》 虎の巻』曽我大介著(音楽之友社) 他
新版「Orbis」について
2007年に「サントリー1万人の第九」のための序曲として委嘱されて作った「Orbis」は、ラテン語で「環」や「つながり」を意味しています。約10分の長さですが、11/8拍子の速いパートもあり、難易度はかなり高いものがあります。ですが演奏の度にもっと長く聴きたいという要望もあり、僕も内容を充実させたいという思いがあったので、今回全3楽章、約25分の作品として仕上げました。
しかし、8年前の楽曲と対になる曲を今作るという作業は難航しました。当然ですが、8年前の自分と今の自分は違う、作曲の方法も違っています。万物流転です。けれども元「Orbis」があるので、それと大幅にスタイルが違う方法をとるわけにはいかない。それではまとまりがなくなる。
あれこれ思い倦ねていたある日の昼下がり、ニュースでフランスのテロ事件を知りました。絶望的な気持ち、「世界はどこに行くのだろうか?」と考えながら仕事場に入ったのですが、その日の夜、第2楽章は、ほぼ完成してしまった。たった数時間です。その後、ラテン語の事諺(ことわざ)で「運命が許す間は(あなたたちは)幸せに生きるがよい。(私たちは)生きているあいだ、生きようではないか」という言葉に出会い、この楽曲が成立したことを確信しました。だから第2楽章のタイトルは日本語で「運命が許す間は」にしたわけです。何故こんな悲惨な事件をきっかけに曲を書いたのか? このことは養老孟司先生と僕の対談本『耳で考える』の中で、先生が「インテンショナリティ=志向性」とはっきり語っている。つまり外部からの情報が言語化され脳を刺激するとそれが運動(作曲)という反射に直結した。ちょっと難しいですが、詳しく知りたい方は本を読んでください。
それにしても不思議なものです。楽しいことや幸せを感じたときに曲を書いた記憶がありません。おそらく自分が満ち足りてしまったら、曲を書いて何かを訴える必要がなくなるのかもしれません。
第3楽章は「Orbis」のあとに作った「Prime of Youth」をベースに合唱を加えて全面的に改作しました。この楽曲も11/8拍子です。
ベートーヴェンの「第九」と一緒に演奏することは、とても畏れ多いことなのですが、作曲家として皆さんに聴いていただけることを、とても楽しみにしています。
平成27年12月6日 久石譲
(久石譲によるプログラムノート 「久石譲 第九スペシャル 2015」コンサート・パンフレットより)
久石譲の指揮で第九が聴ける!ということだけでも待ち望み、また公演を満足された方も多かったようです。テンポは近年傾向なのかやや速め、縦のラインをそろえた演奏が印象的でした。久石譲の言葉にもあるとおり、余計な解釈や誇張による横揺れする表現ではなく、各パートスコアに忠実な縦(拍子)をロジカルに表現した演奏とでもいうのでしょうか。またアクセントを拍子の頭やフレーズの頭で際立たせていたのも印象的でした。それもベートーヴェンという作曲家の作家性、リズムに重きを置いた作風をしっかりと具現化した表れなのでしょうか。理解度が浅いため、疑問符でとめる書き方になりすいません、演奏からの所感です。
指揮者のみならず聴く側にとっても「毎回新たな発見がある《第九》」です。頂点に君臨する作品だからこそ、一筋縄ではいかない、簡単にこうだよねと結論を出せない、奥深い魅力だと思います。
クラシック通には、もしかしたら第4楽章があることで邪道となった交響曲という見方もあるのかもしれませんが、あのシンプルで強い「歓喜の歌」はやはり世界共通旋律だなと改めて圧倒されました。なぜ現代でも愛され続けているのか?あのメロディの親しみやすさにあることは間違いないと思います。もしかしたらあの第4楽章は、クラシック音楽とポップス音楽の橋渡しになっている、ジャンルの垣根を越えたボーダレスな響き、なのかもしれません。
第1~4楽章という作品の流れにおいては整合性はないのかもしれませんが、第九~ブラームス~マーラー/ワーグナー~ロック/ポップスという時代の流れにおいては整合性がある、みたいなことを感じたわけです。やはり重要な作品をあの時代にベートーヴェンが遺した功績は大きいですね。
「新版Orbis」、新たに第2~3楽章が書き下ろされ世界初演。この作品に関しては、公演終了後まもなく先に記しましたので、そちらをご参照ください。久石譲に関心をおいたときには、もちろんこちらのほうがメインであり、一大ニュースです。
あえて取りたてて言うならば、「第九」と並列させて同一プログラム内に演目を置く。久石譲本人は例えばそれを「挑戦」と控えめに表現するかもしれませんが、対等に聴かせてしまう作品力と創作性は、聴き手として周知しておくべきことかな、と思います。
クラシック交響曲の頂点「第九」と、自作を並べてコンサートを成立させ得る作曲家は、なかなか、なかなか見渡してもいないのではないでしょうか。
Disc. 久石譲 『Orbis ~混声合唱、オルガンとオーケストラのための~ 新版』 *Unreleased
注)
ブログ項とは異なり、ディスコグラフィーでの作品紹介項では、断定口調を使用しています。読み苦しい点予めご留意ください。