Posted on 2014/08/22
「クラシックプレミアム」第12巻は、モーツァルト3です。
第2巻では、モーツァルト1として《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》などを、第6巻では、モーツァルト2として3大交響曲の第39番・第40番・第41番を、そして今回は、最後のモーツァルト特集として、ピアノ・ソナタ集となっています。
【収録曲】
ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310
エレーヌ・グリモー(ピアノ)
録音/2010年
ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330
内田光子(ピアノ)
録音/1984年
ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331 《トルコ行進曲つき》
マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)
録音/1990年
巻末の岡田暁生さんによる西洋音楽史、今回もおもしろかったです。「バッハはお好き?」というタイトルで、バッハの音楽について、わかりやすい切り口で解説されています。
少し紹介しますと、
「そもそも音楽とは、まったく対照的な、二つの矛盾した顔を持つ芸術である。一方でそれは人の情念や本能に激しく訴えかける神秘的な魔術である。しかし他方で音楽は、数学に極めて似ている。抽象的な秩序であり、構造であり、最も科学的な芸術なのだ。実際、弦の長さの比率と音程の関係を発見したピタゴラスをはじめ、古代ギリシャにおいて音楽は一種の科学だと思われていた。また中国の古代思想のように、音楽を宇宙の構造の模像のように考える伝統も珍しくない。バッハの中には、こうした数学的な音楽感が、色濃く残っている。彼の作品、とりわけフーガの類は、音で組み立てられた一つの「小宇宙」であり、「世界」の構造の鳴り響くミニチュアなのである。」
「今日の私たちは、音楽といえば人間の自己表現であり、人間の楽しみであると思い込んでいる。だが忘れてはならない。その考え方の背後にあるのは、極めて近代的な人間中心主義である。これは長い歴史の中では比較的新しく出てきた音楽観であり、決して普遍的なものではないのだ。」
「周知のように、ほとんどすべての音楽の起源は、ほぼ例外なく宗教儀式である。音楽は神に奉納されるものだったのだ。相撲などと同じである。つまり音楽は神に楽しんでいただくものであり、人間が手をつけていいものなどではなかった。神の作った宇宙を褒め称えるための、その鳴り響くミニチュアであり、音楽で人間の感情を表現するなど冒瀆であった。」
おもしろいですね。こういう読みものとの出会いで少しずつ見識が広がっていきます。
「久石譲の音楽的日乗」第12回は、「神が降りてきた」
今号でのエッセイは、今年5月に開催された台湾でのクラシックコンサートの話題を絡めながら進みます。
「Joe Hisaishi Special Concert with Vienna State Opera Chorus」と題されたこの台湾コンサートでは、「風立ちぬ 第2組曲」などに加えて、ベートーヴェン:交響曲 第9番 ニ短調 作品125 「合唱付き」などが演奏されています。
さて、エッセイタイトルになっている「神が降りてきた」どういうことだったのでしょうか。一部抜粋してご紹介します。
「神が降りてきた。そう思える演奏を僕はまだしたことがなかったのだが、台湾での2日目の《第9》のコンサートで体験した。これも音楽を伝えるという重要なテーマの一つと考えるので今回はそのことを中心に書きたい。」
「その日会場の1800人の観客のほか、場外に大きなスクリーンを設置して入場できなかった人が観られるようにしたのだが、何と2万人が詰めかけて辺りは交通渋滞、警察の出動という事態になった。クラシックがメインのコンサートでは異例のことで、翌日新聞テレビなどで大きく報道された。そしてここが大事なのだが、ほとんど聞いたことがない《第9》を屋外で観ていた観客はしんと静まり返り、真剣に聴いていた。それを俯瞰すれば、音楽を創ったのは指揮者やオーケストラだけではなく、その場に居合わせた多くの観客を含めた特別な空間だ。民族学的な言いかたをすると「祝祭的空間」ということになる。その磁場のような場所だから、想像以上の力を発揮でき、より強い音楽を伝えることもできた。そのことを人は「神が降りてきた」という。」
「多くの現代の作曲家は《第9》がベートーヴェンの他のシンフォニーに比べ、第4楽章の「合唱付き」に違和感があり、全体のフォームを崩しているという。実際僕もそう思ってきたのだが、あの第4楽章を演奏しているとき、次々に訪れるシークエンスの勢いたるや凄まじく、言葉に言い尽くせないカタルシスがあった。理屈ではないのである。全体のフォームがどうのこうのと言っていること自体が意味をなさない。だとすれば、僕ら作曲家や音楽学者が言っている、音楽の善し悪しの基準は何なのか?音楽を伝えるとは何なのか?深く考えさせられたが、音楽漬けの1週間は本当に幸せだった。」
ぜひともその場に居合わせたかった、聴衆の一人でいたかった、と思わせてくれます。聴いてみたかった、体感してみたかったですね。
もともと論理的な久石譲だと思うのですが、そんな人でも、論理的な言葉を織り交ぜながらも、ここまで感情が表現された言葉たち。「神が降りてきた」という経験が、いかに説明しづらいものなのか、むしろ言葉で説明するには足らないものなのか、というのが少し垣間見れた気がします。
最後の言葉も印象的です。
「音楽の善し悪しの基準は何なのか?音楽を伝えるとは何なのか?」
永遠のテーマなのかもしれませんが、それを自分の言葉として言い現すことができたとき、何か音楽というものを俯瞰的につかんだ境地になるのではないかなあと思います。もちろん、作曲家も演奏家も、そして聴き手としても。