Posted on 20014/11/28
「クラシックプレミアム」第23巻は、グリーグ / シベリウス です。
一般的に北欧の音楽家として語ることの多い、二人の偉大なる作曲家が紹介されています。
【収録曲】
グリーグ
ピアノ協奏曲 イ短調 作品16
ラドゥ・ルプー(ピアノ)
アンドレ・プレヴィン指揮
ロンドン交響楽団
録音/1973年
劇付随音楽 《ペールギュント》 作品23より
第2幕 〈イングリッドの嘆き〉
第3幕 〈オーセの死〉
第4幕 〈朝〉 〈アラビアの踊り〉 〈ソルヴェイグの歌〉
バーバラ・ボニー(ソプラノ)
マリアンヌ・エクレーヴ(メゾ・ソプラノ)
エスタ・オーリン・ヴォーカル・アンサンブル
プロムジカ室内合唱団
ネーメ・ヤルヴィ指揮
エーテポリ交響楽団
録音/1987年
シベリウス
交響詩 《フィンランディア》 作品26
《悲しきワルツ》 作品44の1
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1984年
毎号巻末に収録されている岡田暁雄さんの音楽史、今テーマが「名演とは何か(上)」だったのですが、みんなが思っているクラシック音楽の疑問がわかりやすく語られていました。
少しまとめてご紹介します。
「クラシック音楽のハードルの高さの一つは、作品名の抽象性や作曲家の多さと並んで、演奏家名の多さにある気がする。ただでさえ作曲家が多いうえに、「誰々作曲の何々の誰々の演奏はスゴイ!」みたいな話になるから話のややこしさが倍増してしまうのだ。恐らく人々は19世紀くらいまで、「演奏」にはあまり興味がなかった。例えばマーラーは大指揮者としても有名だったが、彼が指揮したオペラ公演のポスターを見ても、興味深いことに彼の名前は出ていない。当時はまだまだクラシックは、どんどん新作が作られる現在進行形の音楽だったのだろう。だから人々の興味はもっぱら「誰が何を作るか」に向けられ、「誰の何を誰がどう演奏するか」などどうでもよかったのだ。」
「事情が変わるのは20世紀に入ってからである。言うまでもなくこれは、あまり新曲が作られなくなり、レパートリーが固定し始めることと関係している。クラシック音楽の古典芸能化である。定期的に同じ作品が頻繁に上演されるから、必然的に人々は有名曲を覚える。だから「今度は何を誰がどう指揮するのだろう?」という関心とともに、コンサートに臨むようになるのだ。」
「演奏家が演奏に特化するようになったことも関係しているはずだ。以前は「演奏しかしない人」など音楽家ではなかった。マーラーやシュトラウスは大指揮者だったけれども、何より彼らはそれ以前に大作曲家であった。ラフマニノフだってそうだ。生前の彼は大ピアニストとして知られていたが、何よりまず作曲家として自分を意識していた。彼らにとって演奏とは、極論すれば、生活の糧を稼ぐための行為にすぎなかった。今も昔も作曲という商売は不安定であり、腕さえあるなら演奏のほうが手っ取り早く金を稼げるのである。しかるに20世紀に入ると徐々に、「演奏しかしない大演奏家」というものの数が増えてくる。「どの曲」ではなく「誰の演奏」に人々の関心が向けられるようになるにつれ、演奏家がスターになり始めた。これが20世紀である。」
「思うにクラシック・ファンの間には、レパートリーの定番名曲についての、暗黙の「この曲、かくあるべし」のイメージがある。別の表現をするなら、「名演」とはクラシック・ファンならたいがい知っている、定番名曲においてのみ成立する概念だという言い方もできるだろう。「あの曲といえばだいたいこういうイメージ」が共有されているからこそ、それを図星で射当てるような演奏が「名演だ」ということになるのである。」
「極論すれば「名演」とは、誰でも知っていて、すでに綺羅星のような演奏がある曲について、「まさにこの曲とはこういうイメージのものだ!」と人々に確信させるような説得力をもって初めて、成立するものなのである。「名演」とは、ひとたびそれを聴いてしまうと、「もうその曲はそれ以外にはありえない」、「それこそまさに作曲者が望んでいたことに違いない」と聴衆に確信させてしまうような魔力を備えた演奏を意味するのである。もちろん「その曲はそれ以外にはありえない」などというのは幻覚錯覚の類ではあろう。「作曲家が本当に望んでいたこと」など、後世の人間にわかるはずがない。だからあくまで名演とは、「嘘か真かは別として、聴衆をしてそう思い込ませてしまうような演奏」以上のものではない、ということにもなる。」
少し長くなってしまいましたが、なぜクラシック音楽の名盤や名演と言われるものが、ひとつの楽曲に対してでさえも多数に存在し、それがゆえに一つのハードルの高さとなっている点が、わかりやすく紹介されていたので抜粋しました。
あと、19世紀、20世紀、そして21世紀、さらには未来に、クラシック音楽や現代音楽というジャンルはどう位置づけられていくんだろう?作曲家・指揮者・演奏家の関係性やポジションやバランスはどう変化していくんだろう?そんなことをふと思いふけったのもあり。
「久石譲の音楽的日乗」第23回は、
絵画に描かれた時間と音楽における空間表現
前号に続いて、時間と空間について、具体的な絵画やクラシック音楽を紹介しながら進みます。ただ、今号のエッセイが執筆されたのは10月頭。つまり10月12日の「久石譲&新日本フィル・ハーモニー管弦楽団」長野公演直前なのです。
それもあってか、夏から秋にかけてのコンサートのことが、ちょっとしたひとり言、いや日記のように記されていました。まさに今の久石譲がわかる本人によるエッセイの醍醐味です。そちらのほうが久石譲ファンとしては興味をそそられる内容でしたので一部抜粋してご紹介します。
「このところコンサートが続いている。8月のW.D.O.(ワールド・ドリーム・オーケストラ)の後、9月の初めに京都市交響楽団とチャイコフスキーの交響曲第6番《悲愴》や僕の《シンフォニア》を演奏し、北九州で久しぶりにピアノをたくさん弾いた小さなコンサートを行い、末にはミュージック・フューチャー Vol.1で自作を含め、現代の音楽を指揮しピアノを弾いた。」
「《悲愴》は第4楽章が終わった後、ずいぶん長い間拍手が来なかった。指揮の手を下ろしてもシーンとしていて、困って客席に向かってお辞儀をしたらようやく拍手が来た。拙かったのかなと思ったら逆で関係者の話によると聴衆は浸っていて感動していたのだという。オーケストラのメンバーも満面の笑みで拍手を僕に贈ってくれたのでやっと安心した。ちなみに滞在4日間のうち3日間は同じ和風キュイジーヌの店で食事した。いろいろ試すより最初に行っておいしかったら通い通したほうがいい。時間の節約にもなるし。」
「チャイコフスキーの複雑な感情のうねりにどっぷり浸った京都の後、東京に戻ってからヘンリク・グレツキやニコ・ミューリーの譜面と格闘する日々が続いた。パート練習を含めたくさんのリハーサルをこなした。室内楽が中心で、1管編成約15人(弦はカルテット)が一番大きい編成だった。この編成は面白い。オーケストラと違い1楽器に1人だからそれぞれの音がよく聞こえる上にリズムや音程のズレもよくわかる。オーケストラでももちろんわかるのだが、よりシビアに聞こえるためたくさんの練習が必要になるわけだ。自作も、弦楽四重奏曲第1番《Escher》とマリンバ2台を中心とした《Shaking Anxiety and Dreamy Globe》を初演した。ただ、実際の作曲は2~3年前に書いたもので、それを今回大幅に書き直したわけだが、個人的には新作ではないからこんなに忙しいのにどこかサボったような心底喜べないところもある。作曲家の性か。」
「また昨日は今週末にある長野のコンサートのリハーサルで、ベートーヴェンの交響曲第3番《英雄》と自作の《螺旋》などを新日本フィルハーモニー交響楽団と練習した。が、あいにくの台風で時間が短縮され、《英雄》にあまり時間をかけられなかった。こういうオーケストラにとって定番の曲は通常の落ち着きやすいところに自然に行ってしまうので、自分がやりたい音楽をしようとするには僕自身の技量の問題もあるからたくさんの練習がほしいのだが、現実はなかなか厳しい。台風のように不可抗力もあるし。次のリハーサルでできるところまで頑張ろうと決心するのだが、いずれにせよ作曲がお留守になっていることだけは確かだ。つまりコンサートが多いということは、その間分厚い交響曲のスコアを勉強するわけで明けても暮れても睨めっこし、頭の中でその音を鳴らしているから自作の構想などは全く浮かんで来ない。お仕事っぽいものはまだこなせるが、やはり両立させることは難しい。そんなじりじりした焦りにも似た気持ちの中でこの原稿を書いている、やれやれ。本題(前回のテーマの続き)に戻ろう。」
ね、面白いですよね!今年の夏から秋にかけての久石譲の活動とそれに照らし合わせるかのような自身の想いあふれるエッセイ。
”北九州で久しぶりにピアノをたくさん弾いた小さなコンサート”って何?!こればかりが気になります。オフィシャルではない、プライベートに近いお仕事でしょうか。にしてもエッセイに載せているのでパブリックな活動と受けとっていいのでしょうか。まあ、そういう大なり小なりいろんな活動があるということですね。
あとは、これだけ単発なコンサート企画が続く大変さ。ツアーではないので演奏プログラムも演奏編成も異なる。その準備の大変さと、作曲活動、創作にあてる時間や頭の切り替え。このあたりはやはり大変なんだなーとしみじみ思ってしまいました。
いろんなクラシック音楽・現代音楽を、いろんな編成で演奏した後、そのアウトプット(演奏会)を活かしての次の創作活動に期待です!
最後に、本題のテーマに関するエッセイにもふれておきます。
(視覚には時間がなく聴覚には空間がない、という前号からの)
「オーケストレーションの基本は音の立体的構築であって、本来もっていない空間性をどうそのように感じ取ってもらえるかに多くの作曲家は腐心する。このように本来持っていないものを表現する行為もまた想像(創造)なのである。」