Blog. 「クラシック プレミアム 29 ~ブラームス2~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/2/13

クラシックプレミアム第29巻は、ブラームス2です。

第13巻にてブラームス1として、交響曲 第4番、悲劇的序曲などが特集されていました。久石譲もこよなく愛するブラームスの交響曲。ベートーヴェンの後継者とも評されていたブラームスが、完成までに20年余りをかけた渾身の交響曲第1番。

ベートーヴェンを尊敬しその偉大さを讃えていただけに、なかなか交響曲を書き上げることができなかったブラームス。けれども完成後、この交響曲 第1番は、ベートーヴェンの《交響曲 第9番》に続く”第10交響曲”であるとも評され、絶大な人気を誇る作品となっています。

 

【収録曲】
交響曲 第1番 ハ短調 作品68
クリスティアン・ティーレマン指揮
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/2005年(ライヴ)

《大学祝典序曲》 作品80
リッカルド・シャイー指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音/1987年

 

 

前号巻末の西洋古典音楽史での、「なぜ指揮者がいるのか?(上)」にて、指揮者と楽団員の関係やその実態、修羅場な環境!?を一部取り上げて紹介しました。今号では、「なぜオーケストラに指揮者がいるのか?(下)」ということで、どんなお話が飛び出すのか楽しみにしていました。

一部ご紹介します。

 

「指揮者とは「タイムキーパー&サイン出し係」であると同時に、「何か」を持ってさえいれば、何もせずとも、ただそこに居るだけでいい商売だ、前回こう書いた。」

「偉大な指揮者というものは、作品を隅から隅まで掌握し尽くしているからこそ、あれこれ指示を出さずとも、ただ居るだけでメンバーを落ち着かせることができるのだと思う。今、どの楽器とどの楽器がどういうハーモニーを奏でているか。そのハーモニーは次にどちらの方向へ転調するか。次に入ってくるあの楽器が吹く音は、どんなニュアンスの不協和音か等々。」

「例外はあろうが、オーケストラ・プレーヤーたちは実は驚くほど作品の全体像を知らないケースが多い。次から次へといろいろなレパートリーをこなさなければならず、その中には少なからぬ新曲も交じっているだろう。だから自分のパートを無難にこなすことだけで精いっぱいになってしまうのは、当然といえば当然だ。自分が吹いているそのメロディーは、どういうモチーフを展開しているか。そこのその音はどちらの方向へ転調するのか。そういうことはほとんど知らずに、ただ(もちろんプロだから立派に)吹いている、そういうケースはかなりあるはずだ。」

「近代のオーケストラとは、いわば超大型空母である。4人乗りの漁師船とは違う。弦楽四重奏ではない。後者であったなら、4人全員が船の仕組みを熟知し、航海のルートもしっかり把握していて、いざとなれば誰もが船長の役割を果たすことができるということもあり得るであろう。しかし大型空母の乗務員は基本的に、自分の小さな小さな持ち場のこと以外、ほとんど何も知らない。全体像が見えていない。だからこそ、すべてを鳥瞰図的に把握している艦長の役割が桁違いに重要になってくる。そして艦長が頼りなければ、組織全体が浮足立つ。」

「想像するに、指揮者にとって最も重要な要素の資質の一つは、タイミングの勘であると思われる。指揮者とプレーヤーの関係を、異性を口説く場合に喩えるとわかりやすいかもしれない。「あの人ってタイミング悪いのよね~」という時のあれである。異性が「このタイミングでこう来てほしい」と思っている、まさにその図星の瞬間に、過たず相手にさっと手を差し出す。プレイボーイとはそういうものなのだろう。」

「多くの名指揮者は猛烈にセクシーだ。単にハンサムだとか好色だとかそういう話ではなくて、そこしかないというタイミングを過たずに衝き、そうやって思うがままに相手を操る野性的な本能のようなものが、彼らに独特の官能的な相貌を与えているのだと思う。大指揮者の相貌にはしばしば、こうした「恐怖が持つ官能」とでもいうべき魔術が宿っている。カラヤンなどはこうしたタイプの典型である。」

「何度も書いてきたように、オーケストラのプレーヤーとはいわばピラニアの群れのようなものである。ちょっとでも隙を見せたらあっという間に攻撃してくる。だからといって怖がって下手に出るとなめられる。ある意味で指揮者に必要なのは、どんな手を使ってもいいから、まずはオーケストラが絶対に自分に逆らえないようにしてしまう力なのかもしれない。芸術的な独創性がどうのなどといった高尚な事柄は、その後の話だ。ではどんな手段を使って支配するか。恐らく最も合理的な方法は、機能の圧倒的な高さでもって統率することだろう。指揮技術の高さといったものである。そしてタイミングを自在に操る駆け引きの術。これが官能に通じる。だが恐怖による支配だって、指揮者の重要な資質だ。「こいつに逆らったら何をされるかわからない」という独裁者の恐怖である。」

 

 

特に、前半の空母に喩えた、指揮者とオーケストラとの関係性が、わかりやすく、おもしろかったですね。その中での、オーケストラ(団体)と弦楽四重奏(4名)の比較もありましたが、これはプレーヤーだけではなくて聴き手にも影響を与える要素のような気がします。

たとえば交響曲を聴きながら、全楽器、全パートを聴きとってみせよう!とはあまり思いません。よっぽどスコアを片手に見聴きしない限りは。逆に四重奏や小編成、アンサンブルなどになると、全楽器、全パートの旋律が鮮明に聴こえてきます。すると、旋律のかけあいやタイミング、プレーヤー同士の呼吸まで、聴きとることができる気がしてきます。

そして「ここのかけあいがいいよね、ここの入り方が絶妙!」「あっちがこうきたから、こっちはこうきたか!すごい!」そんなことを思いながら作品の奥深くに耳を傾ける。これが小編成の醍醐味だなと思います。

それは上にも書いていたように、プレーヤーたち自身が、他の楽器や他の旋律を聴きながら、意識しながら自分の旋律を奏でているからではないか、ということにハッとつながったのです。

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第28回は、
映画『卒業』をめぐるあれこれ

視覚と聴覚の話から、空間軸と時間軸の話になり、さらにはユダヤというキーワードがクローズアップされ、前号ではマーラーを掘り下げていたエッセイ。今回は、往年の名作映画『卒業』を取り上げていますが、これもまた冒頭の数珠つなぎからの関連性のようです。

一部抜粋してご紹介します。

 

「映画『卒業』は1967年に製作されたアメリア映画だ。僕はこの映画を高校時代の終わりか大学1年生の時に観た。フランスのヌーヴェルヴァーグからフェリーニ、パゾリーニなどのイタリア映画を経て、その頃はアメリカン・ニューシネマにはまっていた。『俺たちに明日はない』『イージー・ライダ』『明日に向かって撃て!』『真夜中のカーボーイ』『ファイブ・イージー・ピーセス』などの作品は間違いなく自分自身がテーマや主人公に同化していたし、まさに『卒業』もそういう映画の一つだった。音楽はポール・サイモンとデイヴ・グルーシンが担当していた。ポール・サイモンはヴォーカル・グループ「サイモンとガーファンクル」のメンバーで、この映画は〈サウンド・オブ・サイレンス〉〈ミセス・ロビンソン〉〈スカボロー・フェア〉など後世に残る名曲が使われた。僕としては主題歌サイモンとガーファンクル、音楽担当がデイヴ・グルーシンとしたいのだが、劇中でかなり歌を使用していたので、この場合の音楽担当は両者ということになる。このこだわりは映画音楽に携わっている僕だけなのかもしれない(笑)。」

「だが、この青春映画の傑作も内田樹氏から観ればまったく別のものになってしまう。「あれはユダヤ人のブルジョア家庭の話なのです。主演のダスティン・ホフマンはユダヤ人だし、監督のマイク・ニコルズもユダヤ人だし、主題歌を歌っているサイモン&ガーファンクルもユダヤ人。あれはユダヤ人の映画なんです」ということになる。」

「いやー驚いた、確かにこの日本で、僕の知る限りそういう見方をする人はいなかった。内田氏は続けて「アメリカにおけるユダヤ人のあいまいな立場が伏線になっていることは(日本人には)理解できない。そういう人種的な記号を日本人は解読する習慣がありませんから」と強調する。そして極めつけは「ラストシーンはキリスト教の教会からユダヤ人青年が花嫁をさらってゆくわけで、これは宗教的にはかなりきわどいストーリーなのです。そういうニュアンスは日本人の観客にまず伝わりませんよね」。」

「同じ映画でも観る人によってまったく感じ方が違う。それは当たり前なのだが、あらゆる人種や宗教が入り交じる海外での見方と、この極東の島国「日本」での捉え方がこうも違うのか?もちろんこのようなユダヤ的視点で海外の人が全員観ているとは思わないが、少なくとも国内の映画評論その他でこのような意見を僕は聞くことも見たこともなかった。日本には多様な意見はないのだろうか?」

「第二次世界大戦の後70年間まったく戦争がなく、平和の中で暮らしてきた我々は、グローバルという言葉を経済用語だと勘違いしている。真のグローバルとは思いっきりドメスティックであり、多様な考えを受け入れるということである。」

「内田氏の文章を読んで、早速DVDを買って観た(ただしこれは2年前のことだが)。確かにそう見えなくはない。慣れ親しんだ、あるいは記憶の中で整理されている物事が実は別のものでもあると感じる体験は新鮮だ。ダスティン・ホフマンが若いなあ、などと思っているうちにユダヤ人の映画として観るより、段々音楽の入りかたが気になってきた。」

「デイヴ・グルーシンはフュージョン音楽が全盛の頃に活躍した作曲家、ピアニスト、アレンジャーでサックスの渡辺貞夫氏とのコラボレーションでも有名だ。映画音楽では『コンドル』『恋に落ちて』などで、とてもクリアで無駄のないスコアを書いている。」

「その彼の音楽は問題ないのだが、とにかく使われている歌の箇所が多すぎる。歌には歌詞があるので、劇中での使用はなるべく避けたほうがいい。なんとなればその歌詞がセリフを食うし、変に安っぽくなる危険もある。もちろんエンドロールは別であるが(それも個人的には好まないが)、もう少し効果的にサイモンとガーファンクルの歌を使用してほしかった、つまり使う箇所を少なくするべきだった。これはあくまでも僕の考えであって、当時はこのような使用法が斬新だったのだろう。物事は時間が経ってみなければわからない。」

 

 

クラシックプレミアム 29 ブラームス2

 

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