Blog. 「クラシック プレミアム 32 ~バロック名曲集~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/03/28

クラシックプレミアム第32巻は、バロック名曲集です。

優雅な宮廷音楽たちです。春の訪れのこの季節にもぴったりです。

 

【収録曲】
シャルパンティエ
《テ・デウム》 ニ長調より 前奏曲
サー・ネヴィル・マリナー指揮
アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

パッヘルベル
《カノン》
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮
パイヤール室内管弦楽団

リュリ
歌劇 《イシス》 より 二重唱〈恋をなさいな〉
ウィリアム・クリスティ指揮
エマヌエル・ハリミ(ソプラノ)
イザベル・オバディア(ソプラノ)
レザール・フロリサン

クープラン
《恋の夜鳴きうぐいす》
オリヴィエ・ボーモン(チェンバロ)

ラモー
《6声のコンセール》 より 〈めんどり〉
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮
パイヤール室内管弦楽団

スカルラッティ
ソナタ ホ長調 K.380
スコット・ロス(チェンバロ)

マルチェッロ
オーボエ協奏曲 ハ短調より 第2楽章
ピエール・ピエルロ(オーボエ)
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮
パイヤール室内管弦楽団

コレッリ
合奏協奏曲 ト短調 《クリスマス協奏曲》
イル・ジャルディーノ・アルモニコ

グルック
歌劇 《オルフェオとエウリディーチェ》 より 〈精霊の踊り〉
ヴォルフガング・シュルツ(フルート)
ヤーノシュ・ローラ指揮
フランツ・リスト室内管弦楽団

ヘンデル
歌劇 《セルセ》 より 〈オンブラ・マイ・フ〉
マリリン・ホーン(メゾ・ソプラノ)
クラウディオ・シモーネ指揮
イ・ソリスティ・ヴェネティ
歌劇 《リナルド》 より 〈私を泣かせてください〉
アンジェラ・ゲオルギュー(ソプラノ)
イオン・マリン指揮
コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団
ハープ協奏曲 変ロ長調
リリー・ラスキーヌ(ハープ)
ジャン=フランソワ・パイヤール指揮
パイヤール室内管弦楽団
オラトリオ 《メサイア》 より 〈ハレルヤ・コーラス〉
ニコラウス・アーノンクール指揮
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
ストックホルム室内合唱団

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第31回は、
音楽が音楽になる瞬間のこと

この「クラシックプレミアム」を通してクラシック音楽が身近なものになってくると同時に、指揮者、演奏者、録音ホール、スタジオ録音、ライブ録音、、など、同じ作品や同じ楽曲であっても、まったく鳴っている音や響き、印象や感動が変わってくるということを、身をもって体感している今日この頃です。そこがクラシック音楽を掘り下げる楽しみということが少しずつわかってきたような気がします。そして、今号のエッセイでは、そんな音楽の本質や醍醐味について久石譲の視点で語られています。

一部抜粋してご紹介します。

 

「僕がオーケストラを指揮するとき、楽譜をどこまで読み解くことができるか、作曲家が作りたかった音をどこまで読み取れるかが最大のポイントになる。とはいえ、ピッチ(音程)やリズムの乱れはどうしても気になるので、こまかく調整することになる。乱れない、間違えない、というのはアンサンブルの前提なのだ。ところが、ピッチが合っていて、リズムが正確で、強弱がしっかりしていれば感動する演奏になるかというと、それだけではならない。では、音楽が音楽になる瞬間ってどこなんだ。これがすごく難しい。」

「作曲でも同じことが言える。論理的な視点と感覚的な視点があれば音楽は作れるはずなのだが、実はそれだけでは音楽は成立しない。そこに作曲家の強い意志がなければならないのだ。これを作りたい、作らねばならないという強い思い、つまりインテンシティ(意志、決意、専心)が必要だ。演奏でもそこが問題になるのだろう。そして演奏に関して言えば、音楽が音楽になるための最後の砦、最後のチャンスがある。それが本番。観客を前にしたとき、ある種の沸騰点に達する。するとそれまで見えなかったスイッチが入り、音楽になる。僕がオーケストラを指揮するとき、最も大切にしていることはこのことだ。」

「そして、日本やアジア、ヨーロッパのさまざまなオーケストラを指揮してみて改めて思うのは、現在の日本のオーケストラのレベルの高さだ。団員それぞれの技術も優れているので、良い指揮者がいて、集中した演奏ができればどこのオーケストラも素晴らしい演奏をする。それをコンスタントにできれば一流のオーケストラだ。」

「外国のオーケストラは、みな自分のやりたいことを最大限やる。だからリハーサルでは、指揮者とオーケストラが互いに折り合いをつけながら進めていく。当然、演奏はしばしば中断することになる。いっぽう日本のオーケストラは、リハーサルのはじめからあまり止まることがない。合わせることに注力するからだ。ピッチとリズムを合わせようとする。個人個人の存在を主張するというよりは「合わせ」に入る。だからなのか、最終的にどうしてもスケール感が出なくなることがある。そういう点では、最初はハチャメチャでもなんとか折り合いをつけて一つの曲を作っていくほうが、最後はスケールが大きなものになるのではないだろうか。」

「例えば中国のオーケストラを指揮していたときのこと。とにかく団員一人一人が自己主張して、まとめるのが一苦労だった。ところが、朗々とした音を出させたら、こんな音は日本のオーケストラでは出ないのではないかというような、素晴らしくスケールの大きな音を出した。これはこれで国民性なのかなと思うのである。」

「そうした国民性の違いの上に、さらにそれぞれのオーケストラによってカラーのようなものがある。品のある音を出すオーケストラだとか、野武士のような音のオーケストラだとか、あるいは弦の鳴り方がきれいだとか……。奏者が違うのだから、各奏者の個性も当然出てくる。それが集まることでオーケストラの個性にもなっていく。」

「最後に一つ。同じ曲を同じ指揮者、オーケストラで、レコーディング用に収録したCDとライヴ演奏を聴き比べてみるとテンポが違うことがあるが、それはなぜか。」

「音だけのレコーディングでは、完璧なものをめざそうとして、とても慎重になり、テンポも正確に計算されたもので進む。いっぽうライヴでは、その時のオーケストラの調子、指揮者の体調、観客の反応、その場にしかない特別な雰囲気のなかで音楽が生まれる。いわば一期一会。だから同じ曲でも何度でも聴きに行きたくなるのだ。その時、CDをコピーするような演奏がいいはずはない。場合によっては、テンポを速めて、あえて激しくすることもある。その時のライヴ感がコンサートの醍醐味である。そこには、たしかに音楽が音楽になる瞬間の秘密が隠されている。」

 

 

聴く側としては、いろいろと考えさせられる内容でした。レコードからCDと、音楽をコンパイルし、パッケージ化して、それが主流となり定着。日常的に、どこでも音楽を楽しめる反面、機械的というか無機質、変化のない音楽を聴きつづけることにも。そうするとエッセイに書かれているような”音楽をとおしての一期一会”そんな巡り合いは減っていくのは当たり前なわけで。

スピーカーから鳴る音楽で満足してしまった現代社会。もっといえばオーディオファンも過去の話、今はスマホの小さいスピーカー。コンサートにわざわざ足を運んででも聴くことの醍醐味。ほんと遠ざかっている社会だなと自分を鑑みても思います。

そんななか、お気に入りのクラシック音楽を、指揮者、演奏者、録音方法、年代、などなど、聴き比べをしているのが最近の楽しみです。ひとつの作品でも10枚くらいのCD、つまり10パターンくらいの演奏を聴き比べてみると、ほんとおもしろい発見があります。そして自分はこういうテンポ感や鳴り方が好きなんだな、ということもわかってきたりします。

もうひとつ言えば、これはデジタル音楽ではなく、クラシック音楽、つまりはアコースティック楽器だからこそ生まれる、その瞬間の響きの違いが楽しめる醍醐味なのかもしれません。まずは日常的なところから耳を肥やして(CDなどで聴き比べ)耳や感性を育てて、次は臨場感あるライヴを体感していきたいですね。

 

クラシックプレミアム 32 バロック名曲集

 

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