Blog. 「月刊ぴあの 2015年12月号」 久石譲 インタビュー内容

Posted on 2015/12/6

11月20日発売「月刊ぴあの 2015年12月号」に久石譲のインタビューが掲載されました。

今年の活動の総決算として、8月に発表した新作「ミニマズム2」のこと、1年間の多種多彩なコンサート、TV・CM音楽のこと、日常生活リズム、これを読めば久石譲の凝縮した一年間がわかる、そんな内容になっています。来年に届けられるであろうCD作品のことも。(個人的感想も、いっぱい書かせてもらいました)

 

 

曲を書き続けていないとわからないことがある。
ある時、パッと何かが吹っ切れる瞬間がくるんです。

アルバム『ミニマリズム』から約6年を経て、『ミニマリズム 2』を発表した。久石にとってミニマル・ミュージックは、国立音楽大学在学中に興味をもち、現代音楽の作曲家として活動を始めるきっかけにもなった音楽だ。改めてその魅力、そして今後の活動について語ってくれた。

 

現在のミニマルは無限の可能性があるんです

-『ミニマリズム 2』は約6年ぶりのミニマル・ミュージックのアルバムですね。ミニマルを作り続けることは久石さんにとって重要なことなのでしょうか。

久石:
「学生時代から30代前半まではミニマルをベースにした現代音楽をやっていましたからね。そのあとはずっと映画音楽やCMなどエンタテインメントの世界でいろいろ書いてきましたけど、オーケストラの指揮をするようになって、自分の中で、もう一回クラシックというものを見つめ直し始めたのです。学生時代には前衛音楽に傾倒していて、純粋なクラシック音楽には見向きもしなかったのですが(笑)。でも、指揮をするからには、ベートーヴェンの「運命」や、ドヴォルザークの「新世界より」などといった作品もちゃんと振ってみたほうがいいだろうと思って。実際に振ってみると、作曲家がどうやって作っているのかがよくわかります。クラシックにきちんと取り組むからこそ、まずは、自分のベースになっている、ミニマルに立ち返ってもう一度作ろう、と思ったのです。」

-アルバムを聴いて、改めて、ミニマルのおもしろさを感じました。マリンバ2台の曲「Shaking Anxiety and Dreamy Globe for 2 Marimbas」は、元々はギター2台のための曲だったんですよね。

久石:
「ギターで演奏すると、この曲はすごくエモーショナルになるんです。でも、ミニマルはリズムが命ですから、打楽器で演奏しても成立するなと思って書き直したんです。ミニマル・ミュージックの作業というのは元々、スティーヴ・ライヒ、テリー・ライリー、フィリップ・グラス、ラ・モンテ・ヤングの4人だけ。あとは、全部ポストミニマルや、ポストモダン、ポストクラシカルなどと呼ばれる(次世代の)音楽で、ある意味、まったく違う表現になっていったんです。現在のミニマルは、表現の形が広がっていて、無限の可能性がありますね。」

-現在、ポストミニマルの最先端にはどんなアーティストたちがいるのでしょうか。

久石:
「今、アメリカの30代前半の若い作曲家が、ミニマルの影響を受けた新しいスタイルを作り出しています。クロノス・カルテットがずっと委嘱している元ロック・ミュージシャンのブライス・デスナー、そしてビョークと共演したり、メトロポリタンのオペラを書いたりしているニコ・ミューリーとかね。彼らはいわゆるポストクラシカルの作曲家で、僕の姿勢と同じなんです。ミニマルをベースに、新しく、表現することに対して、ジャンルというものにこだわっていない。彼らの世代は日常的に聴いてきた音楽でもあるから、あえて”ミニマル”なんて言う必要もないんです。」

-久石さんご自身もミニマルをやり続けながら、若いアーティストの紹介もすることで、新たなリスナーが増えそうですね。

久石:
「彼らのことは日本ではまだあまり知られていない現状があるので、僕が伝えていく役目かなとも思っていて。今年の9月に「ミュージック・フューチャー」という、ミニマル、ポストクラシカルの先端を紹介するコンサートシリーズの2回目を行ったんです。さきほどの作曲家のほかにジョン・アダムズや僕の書き下ろしの曲、6弦のエレクトリック・ヴァイオリンのための「室内交響曲」も初演しました。このシリーズは続けていきたいですね。」

 

毎年、正月に宮崎駿監督に曲を届けています

-今回のアルバムの中の「WAVE」という曲は三鷹の森ジブリ美術館でも流れていますし、「祈りの歌 for Piano」はだれもが聴きやすい、美しい曲です。ミニマル・ミュージックだという意識は特別必要なく、だれもが楽しめる曲が多い印象を受けました。

久石:
「宮崎駿監督とはもう長い付き合いですからね。年に一回、宮崎さんのために正月に曲を書いて持って行くんです。持って行かない年は1年を通して調子が悪くて(笑)。ゲン担ぎみたいなものですね。「祈りの歌 for Piano」は今年の正月に持って行った曲です。正月の3日に作って、4日にレコーディングしてその日に持って行って。なんだか出前みたいですけど(笑)。この年頭の習慣が、意外と大事なんですよ。お正月だから、暗い曲を持って行くことはしないし(笑)、新年最初に心休まる曲を一曲作る、というのは、すごくいいなと思っていて。ジブリ美術館では、僕の曲を今でも使ってくれているみたいですね。」

-今後は、8月に行ったワールド・ドリーム・オーケストラのコンサートのライヴ盤がリリースされる予定だそうですね。

久石:
「はい。「The End of the World」という曲は5、6年前に作った曲で、全楽章合わせて20分くらいの長さだったものを、今回新たに全部書き直し、楽章を増やして、30分近い曲に完全にリニューアルしたのです。これは音源として残さなくてはと思って録音しました。あと「風の谷のナウシカ」も徹底的に交響作品として作り直しました。今回のナウシカは、譜面として、どこのオーケストラも演奏できるように、スタンダードなスコアとして出版する予定なんです。当然、海外でも出す予定ですよ。」

-純粋にご自分の作品を作る割合と、映画音楽などのエンタテインメント作品を制作する割合はどれくらいなんですか?

久石:
「年によって比重が変わります。今年はどちらかというと、自分の作品が多いですね。でも、CMやゲーム音楽も作っていますね。あとは五嶋龍君が司会になった『題名のない音楽会』の新テーマ曲も書かせてもらいました。この「Untitled Music」という曲は自分でもすごく気に入っています。テーマ曲というだけでなく、作品としても聴いていただけると思うのですが、リズムが相当難しくて、絶対に自分では振りたくないなぁ(笑)と思ったくらい(実際は初回放送時に五嶋と共演)。でも、あの曲を書いたことで一つ吹っ切れたところがありました。」

-何が吹っ切れたのでしょうか?

久石:
「それは書き続けていないとわからないことだと思います。何かを求めて求めて、でもなかなか上手くいかなくて、ちょっと上手くいったと思ったら、またダメだったり、それを繰り返す中で、パッと吹っ切れる瞬間がくるんです。自分でも、僕の生活はどうなっているんだ(笑)と思うようなスケジュールですけど、大量に仕事をこなしている中で、あの曲を書いた時に、何か、吹っ切れた。ハードな毎日があるからこそ、できた曲ですね。立ち止まってしまうとわからないんですよ、そういうのって。」

-年内の今後のご予定は?

久石:
「今年も12月にベートーヴェンの「第九」を演奏します。「第九」に捧げる序曲として書いた「Orbis」も楽章を足すつもりなんです。すごくいい曲だというお声をいただいているんですけど、10分くらいの長さなので、もう終っちゃうの?とオケの人も物足りなく感じるみたいで(笑)。「第九」の前に演奏するのにちょうどいいくらいの尺に仕上げようと思っています。」

-ジャンルの幅が広く、本当に膨大な仕事量ですが、普段はどのようなペースで取り組まれているのでしょうか?

久石:
「作曲のスタイルは、統一していますからね。あれ風、これ風、というのはまったく考えていなくて、自分のやりたいことを自分のやり方のまま、その範疇にエンタテインメントの要素もミニマル的なものもあると思うので。基本は、昼の2時から夜10時頃まで作業して、ご飯を食べたあとに明け方の6時頃までクラシックの勉強。ひたすらスコアを読んでいます。そんな感じがずっと続いていますね。しんどいですけど、ある程度、自分を追い込まないと新しいものは出てこないから。今までの語法にのっとって仕事をこなす、みたいになってしまうと、2、3年はそれでもつかもしれないけど、そのあと何も生まれてこなくなりますよ。気晴らし?夜中に観るアメリカのテレビドラマ(笑)。あとはジムで体を動かしたり、泳ぐことかな。」

(「月刊ぴあの 2015年12月号」より)

 

 

いろいろと今年の活動内容のことが触れられています。

これなんのことだろう?と気になる事柄もあるかもしれません。ただ、ここでなぞって振り返って説明すると足りないので、バイオグラフィーにて年表からその項目を紐解いてみてください。

 

補足をふたつ。

宮崎駿監督に持って行っているという年1回の楽曲。これは宮崎駿監督の誕生日が1月5日で、それに合わせてのプレゼント・献呈というのが事の始まりです。それが結果、年1回、一年の始まりに、ジブリ美術館BGMに、という流れになって現在に至るまで習慣化されているというわけです。その日にレコーディングにしてその日に届ける。なんとも贅沢でうらやましい限りです。

ジブリ美術館関連のBGM情報に関しては下記まとめています。

Disc. 久石譲 三鷹の森ジブリ美術館 展示室音楽 *Unreleased

 

補足ふたつめ。

「Shaking Anxiety and Dreamy Globe for 2 Marimbas」について。

たしか久石譲はいつかのインタビューにて、「ミニマル・ミュージックはプロの演奏家でも難しい」「ミニマル・ミュージックがわかっているいないでの演奏は全く異なる」そんなことを言っていたと記憶しています。だからこそ、リズムが肝となるミニマル・ミュージックにおいて、あえてギターのための作品を打楽器マリンバのために書き直したのだと思います。

ギター版はたしかにエモーショナルです。でもリズムを刻む以外にも音の強弱(弦を弾くタッチ)や、奏法ゆえの一つ一つの音の長さや残響にムラが生じます。弦の上で指をスライドさせて演奏することが基本のため音の均一化は難しく(音程や何弦を使い分けるかにもよる)、弦のスライド音も発生します。もちろんそれがギターの生き生きとした楽器としての実演の強みでもあります。

ただし、規則正しい音型・音価・リズムを刻んでこそ、そこから意図的に微細にズレていく音楽がミニマル・ミュージック。その核心があったうえで、それを具現化しやすい、マリンバという楽器を選んだということなのでしょうか。別の機会でのインタビューでも、自分の作品において、「ミニマル色に欠かせないのはハープ、マリンバ、グロッケンなど…」そんなことを言っていたとも思います。

あとは…詳しくないので中途半端に触れたくない触れていはいけないのですが、倍音構造がちがうはずです。残響音やユニゾンから発生する倍音がちがう。ギター版とマリンバ版、同じ楽曲とは思えない印象を受けるのは、楽器の音色そのものだけでなく、その倍音の響きも影響しているのでは、と。久石譲は初期(それこそMKWAJU作品など)から、マリンバは自分の作品を作るうえでの武器として熟知していますので、おそらく、、そういうことではないのかなぁと、、。マリンバの倍音構造は、同じ音を弾く際にも、叩く場所によってその音の倍音の鳴りやすい音が違うそうです。

例えば、基本ドの音の倍音は、2オクターヴ上のドとその上のミの音とのこと。なので基本ドをずっと叩きつづけるとその倍音も自然と響いてくることになります。さらに基本ドの叩く場所が違うと、2つの倍音のうち2オウターヴ上のドの音が鳴りやすくなる、もしくはその上のミの音が鳴りやすくなる、ということになります。しかも、この楽曲では「2台のマリンバのための」となっていますので、よりユニゾンによる倍音効果は発揮されるはずで、、うーん、奥が深いですね。

以前にも一度だけ「倍音」については触れたことがあると思うのですが(クラシックプレミアム・レビューにて)、久石譲音楽のひとつの核心に迫れるキーワードなのかもしれない、と最近よく思っています。なぜ、一聴して久石譲音楽と気づくのか、説明がつかない感情的に残るひっかかり、旋律や楽器の音色だけではない、直接耳もしくは脳に訴えかけてくる響き。いつか研究してみたい項目です、蛇足でした。ひとつの聴き方・とらえ方として、聞き流してください。

 

最後に。

食い入るようにインタビュー内容を何度も読み込み、久石譲の言葉じり(ちょっとしたキーワードや言い回し方)を、透けるくらい凝視し心理を推測するような感じで、…結果、やはり今後は”作品”を手がけていくつもりなのだろう!という結論です。

宮崎駿監督の長編映画引退に伴う、4-5年に1度続けてきたジブリ音楽制作が一旦休止。宮崎作品を手がけることとそこで完成された音楽は、自身音楽活動のエポック的な位置づけとしてきていました。宮崎駿×久石譲のコラボを繰り返すことで、同じように久石譲音楽もどんどん次の次元にという過程においても。そのマイルストーン的通過点がない今、自分の作品に向き合うのは自然な流れです。

そして、今年の活動のなかでも、いろいろな「発注されて作った作品」があります。それはいわば断片でしかない楽曲群です。単発ものですから、”今の久石譲”の一部は透けてみえたとしても、そこには大きな作品としてのテーマとまでは完成できない。

だからこそ、「室内交響曲 for Electric Violin and Chamber Orchestra」「Untitled Music」「コントラバス協奏曲」などを通過して、おそらく全体として統一された作品を作っていくのではないかと。これらを1枚のアルバムにまとめるということではなく、あるいは延長線上にある別の新作なのかもしれません。

 

さらに突っ込む!

もうひとつは、そのような作品の創作活動において、いい意味で”もうミニマルにはこだわらないんじゃないか”とも推測しています。上記インタビューで語っている、とある箇所が印象的でした。

 

「クラシックにきちんと取り組むからこそ、まずは、自分のベースになっている、ミニマルに立ち返ってもう一度作ろう、と思ったのです。」

「現在のミニマルは、表現の形が広がっていて、無限の可能性がありますね。」

「ミニマルをベースに、新しく、表現することに対して、ジャンルというものにこだわっていない。彼らの世代は日常的に聴いてきた音楽でもあるから、あえて”ミニマル”なんて言う必要もないんです。」

 

……

無限の可能性がある、かつ、一方で一般的にも浸透しきった、それがミニマル・ミュージックだとしたときに、もう”ミニマル・ミュージック”を謳い文句として前面に押し出すことも、ミニマル・ミュージックのなかの一部の表現方法に固執することも、今はナンセンスだ、そういう括りはもう必要ない段階にきている、そんなことをご本人は思っているのではないかと…。

久石譲が自作を創作するうえで、どんな作品になろうともそこには必ず多かれ少なかれのミニマル・エッセンスが盛り込まれます。だからこそミニマル・ミュージック=リズムを基調に、楽曲全体を統一して構成するというところから、一歩先の”普遍的な作品”への追求段階に入ったのではないかと。それが少し垣間見れたのが、上の3つの作品群です。第1主題、第2主題、提示部、展開部、コーダ、楽章…よりクラシックの語法にのっとった形式にて楽曲構成していく。リズムの動きを止めるパートを配置した緩急ある作品構成。

つまりは、ミニマル・ミュージックという狭義のジャンルや語法を突き詰める段階から、より広義なクラシックの語法を用いた普遍的な作品を目指す段階に入った。個人的に辿り着いた答えはそこでした。あくまでも一個人の勝手な見解と受け止め方です。いちファンとして、日常会話的表現方法で言うならば、「ミニマリズムは2で終っちゃうんじゃない?!次は別の新シリーズが!?」そんな言い回しがわりとわかりやすく伝わりやすいのかもですが、意図しているところとしては、そういうことです。

あえて言うまでもなく、これは、シンセサイザー、アンサンブル、オーケストラという楽器編成の変化を経ながら、その時代ごと楽器編成ごとのミニマル・ミュージックを突きつめ極めてきた。今日ではシンフォニックで構成するミニマル・ミュージックまで昇華した久石譲だからこその、次への道という自然な流れだとも思っています。

”自然な流れ”と表現してしまうと、成り行きのような軽い印象を受けてしまいそうですが、それは久石譲のあくなき創作性と新しい次元への挑戦の流れである、と補足しておきます。

 

本インタビューを読んで読んで読んで、ひっかかりをもった部分を自分の中で幾重にも迷走したうえでの一解釈ですので、当たっていなくても、、すいません。

やはり「Untitle Music」はお気に入りの渾身作か!とか、やはり「The End of the World for Vocalists and Orchestra」は録音を残しておきたいほどの完成度か!とか、そうでしょうそうでしょう!と頷きながら読みふけ。

 

2015年の久石譲音楽に感謝するとともに、2016年の久石譲音楽も期待が膨らむばかりです。少し長い時間軸で少し離れて俯瞰的に見るよう努めて…2016年ではないかもしれませんが、着実に久石譲の次のステージの音楽が待ち構えている!その片鱗が見え隠れしだした2015年だった!そう確信している(したい)ところです。

今年最後の目玉「新orbis ~混声合唱 オルガンとオーケストラのための~」新たに第2楽章が書き下ろされ改訂されたその演奏を聴いた日には、さらに確信に近づくかもしれません。(12月3公演にて初演予定)

シンプルにひとつわかっている一大企画!

2014年からスタートしたジブリ作品の交響作品化シリーズがあります。「交響詩 風の谷のナウシカ」改訂完全版で華々しく幕を開けた同企画。音楽担当したジブリ全11作を交響曲や交響詩として作品化することを始動させています。次は順当に「ラピュタ」がくるとも限りません。どの作品であってもどういう交響作品になろうとも、楽しみでしかありません。

今年の久石譲音楽活動の総括は、このインタビュー記事に関連して、派生してしまいしたので、これにて。

久石さんの誕生日にお祝いと感謝の気持ちを込めて 記

 

そういえば昨年2014年は『WORKS IV』に関連して一年を総括していました。一年ぶりに読み返してみて、当たっているところもあるような、ないような。そのときの思考や想いをまとめておくことに意義があると思っているのでご愛嬌ということでお許し下さい。

Blog. 久石譲 新作『WORKS IV』ができてから -方向性-

 

月刊ピアノ 2015 12月号 1

 

Blog. 『スタジオジブリの歌 -増補盤-』発売に思う「音楽:久石譲」の凄み

Posted on 2015/12/3

2015年11月25日『スタジオジブリの歌 -増補盤-』CDが発売されました。

内容説明を一気に言いますと、

スタジオジブリ設立30周年記念!ジブリ映画24作品の主題歌/挿入歌を網羅した究極のアニバーサリー盤。2008年リリース「崖の上のポニョ」までのを網羅したオムニバス『スタジオジブリの歌』から、以降公開された「借りぐらしのアリエッティ」「コクリコ坂から」「風立ちぬ」「かぐや姫の物語」「思い出のマーニー」の5作品を追加した30周年増補盤にして完全版。高音質のHQCDとして登場。全ての世代に愛されるスタジオジブリの永久保存版として一家に一枚。同内容のオルゴール盤『スタジオジブリの歌オルゴール -増補盤-』も同時発売。

早期購入特典や早期同時購入特典(歌盤とオルゴール盤)もありますが、いつまで入手可能かどうかはショップにてご確認ください。特典内容や詳細はディスコグラフィーにて収載しています。

 

Disc. V.A. 『スタジオジブリの歌 -増補盤-』
Disc. V.A. 『スタジオジブリの歌オルゴール -増補盤-』

 

【収録楽曲】

[DISC.1]
01. 風の谷のナウシカ(風の谷のナウシカ) 安田成美
02. 君をのせて(天空の城ラピュタ) 井上あずみ
03. さんぽ(となりのトトロ) 井上あずみ
04. となりのトトロ(となりのトトロ) 井上あずみ
05. はにゅうの宿(火垂るの墓) アメリータ・ガリ=クルチ
06. ルージュの伝言(魔女の宅急便) 荒井由実
07. やさしさに包まれたなら(魔女の宅急便) 荒井由実
08. 愛は花、君はその種子(おもひでぽろぽろ) 都はるみ
09. さくらんぼの実る頃(紅の豚) 加藤登紀子
10. 時には昔の話を(紅の豚) 加藤登紀子
11. 海になれたら(海がきこえる) 坂本洋子
12. アジアのこの街で(平成狸合戦ぽんぽこ) 上々颱風
13. いつでも誰かが(平成狸合戦ぽんぽこ) 上々颱風
14. カントリー・ロード(耳をすませば) 本名陽子
15. On Your Mark (On Your Mark) CHAGE and ASKA
16. もののけ姫(もののけ姫) 米良美一
17. ケ・セラ・セラ(ホーホケキョとなりの山田くん)山田家の人々ほか
18. ひとりぼっちはやめた(ホーホケキョとなりの山田くん) 矢野顕子

[DISC.2]
01. いつも何度でも(千と千尋の神隠し) 木村弓
02. 風になる(猫の恩返し) つじあやの
03. No.Woman, No Cry (ギブリーズepisode2) Tina
04. 世界の約束(ハウルの動く城) 倍賞千恵子
05. テルーの唄(ゲド戦記) 手嶌葵
06. 時の歌(ゲド戦記) 手嶌葵
07. 海のおかあさん(崖の上のポニョ) 林昌子
08. 崖の上のポニョ(崖の上のポニョ) 藤岡藤巻と大橋のぞみ
09. The Neglected Garden [荒れた庭](借りぐらしのアリエッティ) セシル・コルベル
10. Arrietty’s Song (借りぐらしのアリエッティ) セシル・コルベル
11. 夜明け~朝ごはんの歌(コクリコ坂から) 手嶌葵
12. 上を向いて歩こう(コクリコ坂から) 坂本九
13. さよならの夏~コクリコ坂から~ (コクリコ坂から) 手嶌葵
14. ひこうき雲(風立ちぬ) 荒井由実
15. いのちの記憶(かぐや姫の物語) 二階堂和美
16. わらべ唄(かぐや姫の物語)
17. 天女の歌(かぐや姫の物語)
18. Fine On The Outside (思い出のマーニー) プリシラ・アーン

 

 

圧巻の主題歌・挿入歌完全網羅となっています。

久石譲にフォーカスします。

宮崎駿監督作品全10作+高畑勲監督作品1作の、計11作品にて音楽を担当している久石譲。ですが、上の収録楽曲全36曲中、久石譲が作曲(編曲)したのは7曲。なんとも少ないという印象です。太文字になっている楽曲が該当曲ですが、「世界の約束」(ハウルの動く城)は編曲のみの担当です。『かぐや姫の物語』挿入歌「わらべ唄」「天女の歌」作曲は高畑勲監督です。それが久石譲作曲の劇中音楽と絶妙に織り重なって構成されているのですが。

全11作品中、7曲しか歌曲がないということは、当たり前ながら本編音楽は担当していても主題歌は別作曲家によるもの、ということになります。それなのに…なんで久石譲=ジブリというイメージが強いんだろう?それは簡潔かつ決定的に言ってしまえば、本編で流れる久石譲の劇中音楽が強烈に印象に残っているからです。

 

これまた当たり前のことだと言われてしまいそうですが、いやこれは一般的に考えてもすごく稀で特筆すべき点です。今でこそ映画音楽というジャンルは確立され一定の立場として扱われていますが、その功績の一因として数えられるのが、間違いなくジブリ音楽です。

 

”ナウシカ”と聞いて浮かんでくるメロディーは?

「海の見える街」「あの夏へ」という曲で浮かぶ映画は?

「人生のメリーゴーランド」の華麗なワルツはどの作品?

 

曲名を聞いてピンとこなくても、そのメロディを聴いた瞬間に、すぐにどのジブリ映画か即答できる人は少なくないと思います。主題歌や挿入歌ではない、歌詞や歌声のない、楽器だけが奏でるインストゥルメンタル楽曲で、強烈な印象を残すことは容易なことではありません。

一般的に記憶している楽曲を思い出して歌えるのは、メロディーに歌詞が乗っているという言葉の力による記憶補佐も大きいと思います。だから鼻歌でもなんとなくメロディを口ずさめる。それをピアノやオーケストラが奏でる旋律を、同じように鼻歌で歌えるほど人の記憶にインパクトを与える旋律の力。

久石譲コンサートでも「ナウシカが聴けた!」「千尋をやってくれた!」と大満足な感想をさしているその楽曲は、もちろん主題歌ではなく劇中音楽です。これが結構な大多数の人に認知されている、それこそがジブリ映画の『音楽:久石譲』たる凄みだと思っています。

ジブリ映画の音楽が担う役割の比重、ジブリ映画はTV放送など鑑賞回数が多い、そんな他の要因ももちろんあるかもしれませんが、…でも『耳をすばせば』という映画作品が好きだったとして、「カントリー・ロード」以外に、思い浮かぶ劇中音楽やメロディがあるか、と言われればなかなか難しいかもしれません。

 

今回発売された『スタジオジブリの歌 -増補盤-』それ自体ももちろん素晴らしいです。ここまで正規に・公平に・正統に網羅されるベスト・アルバムはどんなジャンルにおいてもなかなかありません。まさに出し惜しみしないスタジオジブリの真摯な姿勢が現れているというところでしょうか。

収録楽曲を聴いても、各々ジブリ映画の世界へと一気に誘ってくれます。プレゼントにも喜ばれている逸品のようで、まさに世代を越えた、老若男女に愛されるジブリソングがぎっしり詰まっています。映画のために書き下ろされた楽曲がほとんどで、そこにもスタジオジブリの歌や音楽に対する力点を感じますし、そういった楽曲たちが後のスタンダード曲となって引き継がれていくんだろうなあと改めて思います。

「ここまで網羅するなら3枚組にしてBGMを集めた音楽集もつけてほしかった」そんなコメントもちらほら見かけるほどで、やはりそこには久石譲音楽がジブリ作品と切っても切れないほどお茶の間に浸透している証拠なのではと思います。

 

今回はたまたま本作品の発売に際して、収録楽曲のラインナップを眺めていて思った、いや再認識した「音楽:久石譲」の凄みについてでした。

残念ながら、今企画と同類の純粋な「スタジオジブリ サウンドトラック ベスト・アルバム」のような作品は発売されていません。それでも『ジブリ・ベスト ストーリーズ』(2014)というベストアルバム作品はあります。同作品は、久石譲名義で初のジブリ・ベスト盤ですが、全曲サウンドトラック盤からではなく、久石譲が音楽作品として再構成した自身のソロ・アルバムに収録された楽曲群です。詳しいレビューは下記ご参照ください。

Blog. 久石譲 初ジブリベスト 宮﨑駿 x 久石譲 30周年 CD発売決定!
Disc. 久石譲 『ジブリ・ベスト ストーリーズ』

 

入門編としては太鼓判の作品です。もっと奥深くジブリ作品「音楽:久石譲」の世界へとのめり込みたい方は、ディスコグラフィーにてカテゴライズしています。イメージアルバム、サウンドトラックから、久石譲がオリジナル・ソロアルバムで再構成したもの、ピアノ・ソロ、オーケストラ。映画公開から数年~数十年の時が流れ久石譲によるジブリ音楽は今もなお進化しつづけていることがわかります。

ちょうど2014年久石譲はジブリ作品の交響組曲化を始動させ、記念すべき第1弾「交響詩 風の谷のナウシカ」完全版が同年コンサートでお披露目されました。久石譲が現在においても30年以上の時を越えて手を加えて、さらに完成度の高い音楽作品へと昇華する活動をしている。裏を返せば、30年以上の時を越えて、今でも聴かれつづけている、聴きたい聴衆がいつづける、色褪せることのない新鮮な魅力を保ちつづけている。ジブリ映画のおける「音楽:久石譲」はすでに未来へのスタンダード軌道に入っているのです。

Studio Ghibili ディスコグラフィー

 

スタジオジブリの歌 増補版

スタジオジブリの歌 オルゴール 増補版

 

Blog. 久石譲×今井美樹 極上コラボレーションの軌跡

Posted on 2015/11/29

久石譲と今井美樹。

90年代に一緒に仕事をしている二人ですが、なぜ今このタイミングで取り上げるかというと、「季節 ~冬~」と「オールタイムベスト盤発売」というふたつです。

最初に結論を言ってしまうと、”ぜひ「遠い街から」という隠れた名曲をこの冬聴いてください!”

 

 

出会い編

1987年公開映画「漂流教室」(監督:大林宣彦 音楽:久石譲)

この作品の劇中音楽を担当していたのが久石譲です。そしてその主題歌を歌ったのが今井美樹です。

「野性の風」
作詞:川村真澄 作曲:筒美京平 編曲:久石譲

今井美樹の2作目のシングルにしてなんとも豪華な制作陣です。ちなみにサントラ盤に収録されていたとも思いますが、今井美樹は同楽曲を英語(劇中)、日本語(エンドロール)で歌っています。

 

 

プロデュース編

そして満を持して久石譲x今井美樹のコラボレーションが実ったのが7枚目のアルバム「flow into space」(1992)です。

今井美樹オフィシャルサイトでの、作品コメントには、

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「全く新しい今井美樹」を探して、久石譲プロデュースで、東京とロンドンで録音。人気曲「The Days I Spent With You」「amour au chocolat」の2曲は布袋寅泰さんから初めての楽曲提供でした。「Blue Moon Blue」での美しいストリングスアレンジや、「かげろう」「雪の週末」など個人的にも大好きな楽曲がいっぱいです。
————————————————

とあります。

 

 

収録楽曲
1.Blue Moon Blue Re-mix (4:31)
作詞:岩里祐穂 作曲:上田知華 編曲:久石譲
2.amour au chocolat (5:25)
作詞:今井美樹 作曲:布袋寅泰 編曲:久石譲
3.素敵なうわさ (5:13)
作詞:岩里祐穂 作曲:柿原朱美 編曲:浦田恵司
4.The Days I Spent With You (5:47)
作詞:岩里祐穂 作曲:布袋寅泰 編曲:久石譲
5.かげろう Re-mix (5:48)
作詞:今井美樹 作曲:MAYUMI 編曲:久石譲
6.永遠が終わるとき (5:26)
作詞:川村真澄 作曲:久石譲 編曲:久石譲
7.雪の週末 (5:04)
作詞:岩里祐穂 作曲:柿原朱美 編曲:久石譲
8.flow into space (3:52)
作詞:今井美樹 作曲:上田知華 編曲:浦田恵司
9.遠い街から (5:24)
作詞:今井美樹 作曲:久石譲 編曲:久石譲

今井美樹 flow into space

 

久石譲が作品プロデュースを担当し、収録全9曲中、作曲2曲、編曲7曲と、久石譲カラーが強くでています。今井美樹の音楽方向性においても大きな分岐点となった作品と言われています。より透明感のある大人な女性、そして布袋寅泰との共同作業へ。

「Blue Moon Blue」はシングル曲なので、聴いたことある方もいるかもしれません。アコースティック・サウンドでとてもお洒落な仕上がりです。久石譲寄り目線で見るならば、間奏の久石譲によるピアノの旋律が、同時期作品「ぴあの」(NHK朝の連続テレビ小説 主題歌)を彷彿とさせ、聴いているだけでニンマリしていしまいます。

 

 

そしてなんといっても隠れた名曲といえば、

 

「遠い街から」

アルバムの最後を飾る「遠い街から」です。

イントロのピアノの調べから、徐々に重なりあうストリングス、透きとおった歌声。今井美樹による歌詞も遠く恋人を待ちわびる女性と冬の情景が広がる世界。久石譲プロデュース作品としては、このアルバム1作のみで、その後シングルとしてもコラボレーションは現在に至るまでないです。それだからこそ、1992年のこの作品を残してくれたことが素晴らしいの一言に尽きます。楽曲提供をしたうちのひとつになるので、久石譲としては忘れているとしても致し方ないのですが、

……

なんと2007年に久石譲自身のコンサートで取り上げています。「久石譲&新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ There is the Time」全国7公演中、3公演プログラムにて、ヴォーカルは林正子さん。忘れていなかったんですね、名曲を。

 

 

オールタイム・ベスト

2015年10月7日発売
「Premium Ivory -The Best Songs Of All Time-」 今井美樹

今井美樹デビュー30周年目のアニバーサリーイヤーに、彼女のシンガーとしての足跡を辿る全レーベルの垣根を越えたオールタイム・ベストアルバムをリリース。

数々の大ヒット曲はもちろん最新作「Colour」からも選曲、これまでとこれからの代表曲を選りすぐったCD2枚組で全31曲を収録。全曲新たにリマスタリングを行い、エンジニアには日本音楽界の至高・オノセイゲン氏を迎え、ジャケット写真には巨匠・篠山紀信氏の撮り下ろしが決定。

通常盤はCD2枚組で2,980円(税抜)というスペシャル・プライスを設定。コアファンからライトユーザーまで完全に網羅したパッケージで発売。まさにアニバーサリーイヤーを飾るに相応しい、究極のプレミアム・ベスト。 【通常盤/2CD】

(Amazon商品説明より)

●DISC 1
1. PIECE OF MY WISH
2. 瞳がほほえむから
3. Miss You
4. 遠い街から
5. Goodbye Yesterday 6. PRIDE
7. 卒業写真
8. 春の日
9. Blue Moon Blue
10. 愛の詩
11. 陽のあたる場所から
12. 雨のあと
13. 野性の風
14. 夕陽が見える場所
15. 太陽のメロディー (New Recording)

●DISC 2
1. Anniversary
2. ふたりでスプラッシュ
3. SATELLITE HOUR
4. 彼女とTIP ON DUO
5. オレンジの河
6. Boogie-Woogie Lonesome High-Heel
7. FLASH BACK
8. 氷のように微笑んで
9. ホントの気持ち
10. 夏をかさねて
11. 汐風
12. 夢
13. 中央フリーウェイ
14. 微笑みのひと
15. DRIVEに連れてって
16. 幸せになりたい

今井美樹

 

 

30周年という長い音楽活動の総決算でもありますから、おそらく候補曲もシングルからアルバムと多かったと思います。久石譲関連作品としては、「野性の風」「Blue Moon Blue」「遠い街から」の3曲が収録されています。先の2曲はシングル曲としても、「遠い街から」は過去アルバム収録曲の1曲です。30年という時間を越えて選ばれた!名曲たる所以が証明されたのではないでしょうか。

選ばれたことがうれしいというよりも、正直なところ一番おいしいのは何と言っても音質の向上です。1992年オリジナル盤と2015年オールタイム・ベスト盤、久石譲作品3曲を聴き比べもしましたが、新たにリマスタリングされたその音質のクリアさは素晴らしい!まさに甦る名曲たち!です。

約20年を経ての音響技術の進歩はすごいです。原曲が加工されるということではなく、より制作当時の、制作陣たちが聴いて作っていた音、つまりマスターテープの音質に近い音響で聴くことができる。作り手と聴き手の耳に響くサウンドがより近くなる。

この点においては、パッケージ化しておくことの、現代社会、技術発展の恩恵のひとつではとも思います。久石譲寄りばかりで申し訳ないですが…久石譲のピアノも、ほどこしたアコースティックな編曲も、すべてが生き生きと透明感たっぷりに堪能できます。もちろん、久石譲全面プロデュースによる「flow into space」を1枚まるまる聴いてみてほしいところもありますが、そのきっかけとしても、この最新オールタイム・ベスト盤は一聴の価値ありです。

そして当サイトのディスコグラフィーには、オリジナル盤「flow into space」を収載していますので、このオールタイム・ベスト盤はラインナップから外れる、ということもあり、ブログにて紹介させていただきました。

 

 

番外編

1990年代は、久石譲がJ-POP界でも活躍していた時代です。初期のアーティスト楽曲提供や編曲担当ともまた違い、どっぷりと腰を据えて、アーティスト・プロデュースをしていた時代です。今井美樹のほかにも、純名里沙、西田ひかる、本名陽子 etc…

そのほとんどは今井美樹などと同じく、自らが音楽を手がけた映画やTVドラマなどでの出会いがきっかけです。そういった『久石譲プロデュース』および『久石譲楽曲提供』はディスコグラフィー内にカテゴリーあります。ぜひご覧ください。

久石譲 プロデュース | Produce Work

 

 

「野性の風」も「Blue Moon Blue」も、久石譲のアレンジ極意をたっぷりと味わうことができます。やっぱり久石譲だな、久石譲の音だと思った、と。作曲ではないのに、編曲だけでそう思わせてしまう、やはり強烈な音楽性なのだと思います。今井美樹の歌声も素敵です。

これから寒くなる12月に聴く「遠い街から」も、クリスマスを目前に聴く「遠い街から」も、一番寒さのきびしい1-2月に聴く「遠い街から」も、温かいサウンドとぬくもりに包まれる名曲です。いつしか、シンフォニック・インストゥルメンタル・ヴァージョン、夢のまた夢で聴いてみたいと願いをこめて。

 

Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 49 ~ブルックナー~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/11/20

クラシックプレミアム第49巻は、ブルックナーです。

 

今回は長いです、所感が。

久石譲のエッセイに際して、いろいろ数珠つなぎとなってしまい、久石譲が指揮をしたドヴォルザーク作品から、はたまたベートーヴェン「第九」のことまで。(そして、おまけつき)

 

【収録曲】
ブルックナー
交響曲 第9番 ニ短調 (ノヴァーク版)

カルロ・マリア・ジュリーニ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1988年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第47回は、
「商業化された大量生産」の音楽の台頭と行く末

音楽の進化をテーマに、楽典さながらの音楽講義もまじえながら、進んできたエッセイもいよいよ現代、今日の音楽のお話です。おそらく音楽業界に携わる多くの人が問題意識として、危惧していること、警鐘していること、そして久石譲の考えが正面からストレートに語られています。

 

「T・W・アドルノが書いた『新音楽の哲学』という本がある。その序文で「音楽現象そのものが商業化された大量生産に組み込まれることによってこうむる内的変化を立証し、同時に標準化された社会で起きている一定の人類学的変位がいかに音楽聴取の構造にまで入り込んでいるか……」などと、何回読んでも僕には意味がつかめない難しい言い回しが続く。この本自体はシェーンベルクとストラヴィンスキーを比較しながら(大雑把に言って)20世紀の音楽のあり方を論じているのだが、作者はユダヤ人でその論理的明晰さに脱帽したくなるが、読むにはかなり重度の忍耐が必要だ。」

「彼の言うように20世紀は「商業化された大量生産」の音楽が著しく台頭した時代だった。レコードの発達である。それまではホールなどに出向き、いくばくかのお金を払い、一期一会の音楽を楽しんでいたのだが、家で好きな時に好きなだけ聴けるようになった。音楽はレコードというパッケージになり、商品として流通経済の1アイテムになったわけだ。そこで誕生したのがポピュラー音楽だった。ちなみにウィキペディアで検索してみると「広く人々の好みに訴えかける音楽のことである」と書いてあった。なるほど、人々の好みか……?」

「その土台となった音楽は奴隷としてアメリカに渡った黒人と白人のあいだで生まれたデキシーランド・ジャズだということは前に書いた。それがロックンロールになり、ロックになり今日のエンターテインメント音楽になったのだが、その論理的な構造はいたってシンプル、機能和声で述べたとおりメロディーと伴奏の和音が主体である。だが小学校の教科書に載っている音楽の3要素はメロディー、和音、リズムとあるように、これほどまでにポピュラー音楽が世界を席巻したのは実はリズムの力である。先ほどのアフリカから来た黒人のリズムが入ることによって、ヨーロッパ系の機能和声中心の歌曲(一部のフォークソングを含む歌謡形式)から大きく変貌した。4リズムという編成がある。これはドラム、ベース、ギター、ピアノ(キーボード)のことをいうのだが、見事に音楽の3要素そのものではないか。これをバックにメロディーの象徴であるヴォーカルが入るのだから完璧である。だからドームを埋め尽くすコンサートライヴも小さなライヴハウスのバンドもベーシックは同じ編成なのである(もちろん弦を入れたり管楽器を入れたりコーラスを入れたりするが)。シンプル・イズ・ベスト、だが!である。目にあまる商業主義の中で、音楽は本当に豊かになったのか? プロとアマチュアの境も無く人気者が余興のように歌う音楽で(もちろんそうではない本物の歌い手もいるが)、人々は「人々の好みに訴えかける」というポピュラー音楽を心から楽しんでいるのか? 感動はあるのか? コンピューターでは音楽を情報化して定額料金で聴き放題などというふざけた話がある。それは音楽の尊厳を踏みにじる行為である。「商業化された大量生産」の音楽の行く末がこれなら、世界から本物の作曲家が消えていくだろう(食べられなくなるから)。もうこちら側に未来はないのかもしれない。」

「話を戻して、レコードの発達は一方のクラシック界にも影響を与えた。例えばソナタ形式の提示部の繰り返し(前に説明すると約束した)だが、レコード化されるときにカットされることが多くなった。レコードは片面約15~20分、両面で交響曲がやっと入る長さなのでその時間の制約が大きかった。もちろんそれだけではない。時代はたらたらした長いものより、よりコンパクトでスピードのあるもの、そして大掛かりなもの、つまりオーケストラの編成も巨大化したものを求めていった。その象徴がカラヤン、ベルリン・フィルだった。もちろん他のオーケストラも同じ道を辿っていった。」

「ソナタ形式の繰り返しは今のことから逆に辿っていくとわかる。ソナタ形式の重要なことは第1主題と第2主題にある。それが提示され、どのように展開され、またどのように再現されるか、それを聴き分けるためには第1主題と第2主題を印象づけなければならない。だから繰り返すのである。当時はホールでしか聴かなかったから(家では聴けない)繰り返す必要があった。それが提示部についているリピートマークの意味だと僕は考えているのだが、今の時代でもそのことは有効であると思っている。だから指揮をする時、提示部は繰り返すようにしている。」

「「商業化された大量生産」のパッケージはレコードからCDになり、今ではダウンロードが主流になりつつある。手軽に便利はいいことなのだろうか?」

「人の生活はものや情報で豊かにはならない。爆買する中国人を見て豊かだと思うだろうか? 我々はどこかに置いてきてしまった大事なものをもう一度取り戻さなければならない。」

 

 

なかなか重い問題提起であり、おそらく多数決でも答えのでない永遠のテーマのような気もします。そこには時代の流れ、芸術の社会的地位、そして時代が今求めているもの、いろいろな側面があるからです。

たしかに大量生産というのは、みんなが同じものを、同じ品質で、同じように、得ることができる。つまり平等で均一な満足感。

一方では、大量に存在することでの価値の低下、過度な需要供給バランス、有り難みを感じない浪費、つまり商品サイクルを短くします。希少性がない、価値が低いと感じられるモノは、流行り廃りが早いのは当然です。裏を返せば「飽きる」ということは、「入れ替わり」がいかようにでもきくという環境にあるということです。それは音楽であっても物質的なモノであっても。

 

久石譲の言葉を何回も読み返しながら思った結論としては、、ご本人の意図とは違うかもしれないという注釈をしたうえで、レコード化されて家でも簡単に聴けちゃうことでもなく、大量生産され商業化され音楽の尊厳を踏みにじられることでもなく、”ホンモノとしての音楽がしかるべき扱いをうけられない時代”ここなのかなと思いました。

 

レコード化すること、コンピューターを駆使して、オケを束ねて、あらゆる手段で音楽を作り出すこと、パッケージに残すことは、これまで音楽家にしかできなかったことです。そこには膨大なお金も時間も資源も必要だったからです。それが誰でも簡単にできるようになった。できるようになったことが悪なのではなく、そこでプロとアマの区別化が正常にされなくなってしまった。それはプロとしては精進するべきことであり、一方では聴衆側にも求められることがあります。目利き耳利きといった正常な区別をできること。

膨大なソース(人,金,資源)を使って、音楽を作り続け、伝え続けるプロ。作ることにも、伝えること(演奏披露)にも、同じように膨大なソースが必要ということです。反比例して、音楽というものはあらゆる芸術の中でも、とりわけ日常生活に密接に関わっているもの。手軽さや便利さを求めることもまたしかり。そこで登場するアマに関しては、プロほどのソースが必要なく、また手軽に音楽をつくることも伝えることもできる。

 

また別の角度からの音楽のパッケージ化は、受け手側からすると喜ばれることもまたしかり。・・発信側の多様化と、受け手側のニーズの多様化と・・これらの事象が分別なく交錯しすぎているからではないかと。

 

プロはすごい、技術力が上、アマはダメ、技術力が乏しい、のではなく、アマは一発勝負やビギナーズラックでもOK、しかしプロは継続してプロなわけです。だから同じ土俵で天秤にかけること自体がそもそも違うような気もしますね。

プロに対する正当な評価として対価を払うこと。CD、楽譜、コンサートなどお金を払って手にする対価、演奏会など足を運んで時間を払って手にする対価、その両軸のサイクルによって、聴かれつづけ、演奏されつづけ、残っていく音楽。瞬間的にアマが台頭する現代社会が仮にあったとしても、やはり長い目で見たときには、プロの作品が引き継がれていくのでは、自然と。と思ったりもします。残るものとしてカタチにすることも、一般社会に浸透させていく対マスの力も、やはりプロが優っているわけですから。

 

ということで、結論としては、

”ホンモノとしての音楽がしかるべき扱いをうけられない時代”

”プロに対して瞬間的な実績や評価が求められてしまう時代”

流行り廃りのサイクルが過剰な現代社会も時間の尺度として音楽家や芸術家には負のスパイラルというわけです。だからプロとしての音楽家が生き残っていけない。クラシック音楽の巨匠たちは、ひとつの作品をつくるのに、少なくとも数年、長い人で十年以上かけもしていたわけですから。これも現代と古典を同じ土俵では比較できないのです。

 

堂々巡り。それを現すように書いている自分も支離滅裂、収拾ついてない。答えがないですね、だから。唯一の答えがあるとするならば、それは未来にしかわからないということです。

今から300-500年以上も前の音楽が今でも愛され続けている。ベートーヴェンやモーツァルト、バッハのようなクラシック音楽です。今から300年後に、今聴かれている音楽の何が残っているか。もしくはそうなるために、これから300年間、聴かれ、演奏され続けなければいけないということです。

そう考えると、クラシック音楽(宗教音楽から19世紀まで)以外はすべて20世紀の音楽です。ジャズもロックもポップスも。そこから派生したボサノヴァもタンゴもサンバもヘヴィメタもテクノも、すべて。だからこの約100年間で繁栄してきた今の音楽が、これからどう進化するか、現代人にはわからなくて当然かもしれません。

 

長くなったのでこの辺にしておかないと。

 

 

そういえば、本文中に「僕は提示部を繰り返すようにしている」と書かれています。たしかにそのとおりです。今年の5月演奏会での「ドヴォルザーク 交響曲第9番 新世界より」(富山公演)のこと。

聴いたときに、あれ、なんかバージョンが違うと不思議に思った第1楽章。曲の途中でジャン!と鳴って、また聴きなじみのテーマが流れだしたので。あれは提示部を繰り返していたんですね。なかなかこの”提示部の繰り返し”ですが、名盤と呼ばれる名指揮者、名門オケのCDでも聴くことはできません。ほとんど繰り返していないからです。

だからコンサートで聴いたときに、普段耳馴染みがなかったので、一瞬で気づいてしまうインパクトだったんですね。この作品が収録されているCDをおそらく10枚以上は聴き比べました。単純に作品にハマって自分好みの1枚を探していたんです。”提示部の繰り返し”があったのは1枚でした。

それも久石譲のコンサート後に聴いた1枚からだったので、そこで”久石譲編曲!?”(そんなことするはずはありません)ではなく、あっ、これは”提示部の繰り返し”だったのか、と初めて気づいたわけです。

 

これに関しては、もう少し突っ込みたいところもあり、それはあらゆるクラシック音楽の作品には、スコアの版(バージョン)が複数存在するということなのです。

うーん、これを書き出すと、止まらないのですが、例えば有名なベートーヴェンの第九も、スコアが複数あるんですね。編曲されているということではなく、採譜に携わった人が違うという。

年末、第九をいろいろな指揮者によって公演する楽団は多く、12月は第九のオンパレードだから練習が楽かと思いきや、指揮者によって使用するスコアが違うと結構大変なようです。

X日 Xさん指揮の第九はX版だけど、
Y日 Yさん指揮の第九はY版なんだよね、と。

いくら演奏する音が同じであったとしても、見慣れない譜面に対応するのは、膨大な交響曲では大変なことです。さて、久石譲の「第九スペシャル 2015」では、どのスコア版が使用されるのでしょうか。

聴いてわかるわけがない!

 

(おまけ)

久石譲の音楽活動の歴史を見ても、久石譲の警鐘することの片鱗は見えなくもないのです。

初期はシンセサイザーを駆使していた久石譲が、ある時期を境に生音、オーケストラ楽器に移行していきます。これにもいろいろ伏線や理由はあるのでしょう。

でもひとつ言えることは、当時シンセサイザーを使うこと、そしてそこから鳴る音も含めて、アーティストとしてのオリジナリティとして扱われたわけです。何のシンセサイザーやシーケンサーを駆使しているか、どんな音をプログラムして作っているか、これもアイデンティティであり、音楽家の個性だったわけです。

それが無くなってしまった、簡単に模倣できるようになってしまった。あるいは、今後残っていかない、その時だけ鳴らすことのできる”音”。だからデジタル楽器からは距離を置いたところで、奏者と楽器と演奏技術が不可欠な生楽器へと移行していった。

これも久石譲の音楽と現代社会に対するひとつの答えゆえのような気もするのですが。どうなのでしょうか。

……

新鮮味のある音、意表をつく音、奇抜な音、ここで勝負できなくなったということは、裸にされた楽曲は残るメロディや旋律だけでの勝負となるわけです。そこで久石譲は勝負することを決意した。(推測)

そして古典クラシックを学びなおすこと、指揮すること。次に磨きをかけたことが楽曲の構成力とオーケストレーション。もちろん裸にされても核として強い旋律を突きつめ、削ぎ落としても貧弱にはならないメロディとなる。

同時にそれは短いモチーフからなる原点のミニマル・ミュージックをさらに進化させることにもつながる。そうして今の久石譲音楽があるような気がします。

 

だから、数年前からクラシック音楽に傾倒していることも、シンセサイザーを全面的には使わなくなってしまったことも、過去から見れば名残惜しいと思えることも、未来から見ればあながち正統な道なのかもしれません、よ。

過去のシンセサイザーは今や古びれて使われませんが、オーケストラ楽器や生楽器は何百年と続いています。久石譲の音楽が300年後に演奏されているとしたら、おのずと、、そういうことなのかもしれませんね。

 

今回は持論が溢れ出てしまいました。

この素材だけで「久石譲論文」が書けそうですが、それはまたゆっくりと腰を据えたときにでも。

 

クラシックプレミアム 49 ブルックナー

 

Blog. 久石譲 「千と千尋の神隠し」 インタビュー 劇場用パンフレットより

Posted on 2015/11/19

2001年公開 スタジオジブリ作品 映画『千と千尋の神隠し』
監督:宮崎駿 音楽:久石譲

映画公開に合わせて劇場で販売されたパンフレットより、久石譲の音楽制作インタビューです。

 

 

音楽・久石譲

千尋の心情が引き立つように全体を構成

根底にあるのは素朴で懐かしい感じ

-今回の音楽はガムランであったり、沖縄民謡的なものであったり、エスニック的なものなどさまざまなものが使われている中で、メインはフルオーケストラでしっかり押さえているという印象がありますが、映画音楽全体の構成はどのように考えられていたんですか?

久石:
「実はこの作品のテーマを表現するためにオーケストラが必要かどうかっていうのは、よくわからないんですよ。主人公の心情だけを追っていくことを考えたらピアノ一本でも充分なわけだから。だけどあの世界観を表現するにはやはりフルオーケストラぐらいの広がりがないとダメだと思ったんです。それで宮崎さんもすごくその場の空気感を大事にされる方だから、今回はスタジオで収録するのではなくて、コンサートホールでライブで録ったんです。それはすごく成功していると思う。それでエスニックやガムラン、バリ島の音楽、沖縄民謡、中近東やアフリカのものまでいろんなものを使っているんだけど、それらは料理でいう飾りつけみたいなもので、実はそこにはあまり意味がないんです。意味があるとすれば、それは作品自体が限定した空間のリアリティを求めているものじゃないですから、いろんなものを使うことによって閉じた感じをなくしてどんどん広がりを出す。そのための手段として使った。それだけです。

僕がこの作品の音楽をつける時に一番考えたことは、最後まで等身大の十歳の女の子を表現するにはどうしたらいいかということだけでしたから。例えばピアノと弦楽器だけの曲であるとか、単音のピアノでメロディを弾いている曲の持つ静けさを大事にしたつもりです。そしてその千尋のテーマ曲ともいえる曲が静かな分だけ、他の楽曲をやかましくして、千尋の心情が引き立つように全体を構成していったんです」

 

-その辺りについてもう少し伺えますか?

久石:
「映画の後半に千尋が海の上を走る電車に乗って銭婆のところへ向かうシーンがあるんですけど、僕はあのシーンが宮崎さんが今回一番やりたいところだったと思っているんです。それでイメージアルバムの中にある『海』という曲が、そのシーンにすごく合うんですよ。宮崎さんもイメージアルバムを作った時にその曲を真っ先に気に入ってくれたんですけどね。だからそれが千尋のテーマ曲の根底なんです。非常に素朴で懐かしい感じ。ひとりぼっちなのに前向きに生きるひたむきさ。そしてその中にある優しさ。つまりこの映画は誰の中にもあるそういうものを表現した作品なんですよ。それでこれは宮崎さん特有のものだけど、最後に主人公を救っていない。突き放しているんです。つまり宮崎さんは子ども向けの映画の体裁をとっているんだけど、大人も含めたいろんな人に向けて自分のメッセージを発しているんですよ。その根底にあるのが、イメージアルバムの中にある『海』という曲であり、その曲が使われるシーンだと思います」

 

宮崎さんの私的な心情が色濃く出ている作品

-今回の音楽には、湯婆婆やカオナシといったキャラクターのテーマ曲も作られている感じがありますが。

久石:
「僕は登場人物それぞれに音楽をつけるのはあまり好きではないんですけどね。今回は音楽のスタンスをどこにとるかを考えた時に、最初から最後まで千尋に降りかかる災難と彼女の心の動きだけを追っていくにはあまりにエキセントリックにいろんなことが起きすぎていましたからね。彼女の周りで起こる状況にも音楽をつけざるを得なかったんです。そうすると当然、千尋の周りに出てくる個性的なキャラクターの音楽も必要になったわけです。

でもその中で、湯婆婆だけは最後までキャラクターがつかみきれなかったですね。宮崎さんの作品っていうのは複雑で、善人が悪を抱えていたり、クールなキャラクターなのにその裏には優しさがあったり、必ず二律背反している。しかもその両方を宮崎さんは求めますから。そういう意味で湯婆婆のテーマ曲は最後まで手こずりましたね。オーケストラのスコアを書いてる途中で、もう一回ベーシックから全部作り直しましたから。それで結局どういうものにしたのかというと、ピアノの一番高い音と低い音が同時になるような、通常の楽器を使っているのに通常の音がしないような、そんな感じを湯婆婆のキャラクターサウンドにしたんです。個人的には気に入っています」

 

カオナシについてはいかがですか?

久石:
「カオナシは影の主人公ですよね。短く頻繁に登場する。彼の動きをずっと見ていくと、ある意味そのキャラクターは主人公より明解なんですよ。だから逆にカオナシのテーマ曲はかなり真剣に作りました。でもそれがどういうものかというのは、言葉で説明してもしようがないので、映画を見て下さいとしか言えません」

 

-音楽作業をほぼ終えられた今、久石さんのこの作品に対する印象は?

久石:
「根底にあるものはこれまでの作品と一緒だと思うんですけど、宮崎さんの私的な心情が色濃く出ている作品だなって感じます。”豚”が登場していますが、その作品と作家としての宮崎監督の距離が近づいている印象がありますよね。そういう意味ではこの映画には宮崎さん自身が経験したことや体験したことがかなり入っているんじゃないかと思います。だからこそこの映画は宮崎さんの作品の中でも今までにない大傑作になった。そう感じています」

2001年6月6日/スタジオ ワンダーステーションにて

(映画「千と千尋の神隠し」劇場用パンフレット より)

 

 

なお、「ジブリの教科書 12 千と千尋の神隠し」(2016刊)にも再収録されています。

 

 

そのなかには下記のようなエピソードも収録されています。

 

Part 1映画『千と千尋の神隠し』誕生
スタジオジブリ物語 空前のヒット作『千と千尋の神隠し』 項より

主題歌には宮崎作詞、久石譲作曲で『あの日の川へ』という曲が予定されていた。しかし宮崎の作詞作業が難航。二週間かかっても作詞をすることができなかった。そんな折、『いつも何度でも』を思い出した宮崎は、これ以上のものは自分にはできないと、この歌を主題歌にすることを提案し、そのように決まった。

(「ジブリの教科書 12 千と千尋の神隠し」より 一部抜粋)

 

 

千と千尋の神隠し パンフレット

 

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Blog. 久石譲インタビュー「米の作曲家を見習うべき」日本経済新聞 掲載内容

Posted on 2015/11/14

日本経済新聞 10月26日付 夕刊 / Web に久石譲のインタビューが掲載されました。

短い記事ではありますが、”今の久石譲”が色濃く表れ、これからの久石譲もうっすらと見えてくるような、そんなインタビュー内容になっています。

長い音楽活動のなかで、自身ソロ活動において、ヨーロッパ、イタリアなどを題材にしたことはありましたが、ここにきて”アメリカ”。たしかに直近の新作「ミニマリズム2」収録曲や、室内交響曲、コントラバス協奏曲などは、アメリカの匂いが漂っているなと、伏線がつながった気がします。「ポスト・クラシカル」という位置づけから、”アメリカ”を捉える。とても今後が楽しみです。

 

 

2015/10/26付 日本経済新聞 夕刊

「欧州よりも米国を見習うべきだ」。西洋クラシック音楽の流れをくむ現代の音楽を作曲する上で、米国を重視するようになった。「日本と同様、西洋音楽の長い伝統がない。ガーシュインやバーンスタインら米国の作曲家から学べる」

現代の音楽の演奏会「ミュージック・フューチャー」の第2弾を9月に東京都内で開いた。自作2曲と米国の作曲家の3曲を、自らの指揮による特別編成の管弦楽団などで演奏した。「自作を含めベースにあるのは、1960年代米国で生まれたミニマル・ミュージック」。最小限の音型を微妙に変化させながら延々と反復する音楽だ。大御所のスティーブ・ライヒらの作品を精緻に再現した。

自作ではエレクトリック・バイオリンの独奏を入れた「室内交響曲」を世界初演した。「エレキバイオリン自体が電気的に作られたアメリカンな楽器」と話す。エレキギター並みにエフェクター機能も使うなど「欧州の伝統音楽にはない新しい響きを感じてほしかった」と言う。

「現代の音楽」にこだわるのは、「同じような古典作品を毎回演奏するクラシック界の現状を変えたい」からだ。「かつてリゲティらの20世紀の作品にはパワーがあった。ロックでもセックス・ピストルズやルー・リードを聴いて人生が変わった人も多い。衝撃があるべきだ」

自らを「ポスト・クラシカル」と位置付ける。ミニマルから発展し、クラシックとポップスの垣根を越える作品を書く。「ポップス発祥の地の米国に学ぶ」のが理由だ。新CD「ミニマリズム2」に続き、10月29日には新作「コントラバス協奏曲」を世界初演する。看板だったアニメの映画音楽も超えて新たな世界を切り開く。

(ひさいし・じょう=作曲家)

 

久石譲 日本経済新聞 2015

※有料会員限定記事 (無料会員登録でも閲覧は可能)

公式サイト:日本経済新聞 Web より

 

Blog. 雑誌「モーストリー・クラシック 2015年12月号」久石譲 インタビュー内容

Posted on 2015/11/14

クラシック音楽誌「MOSTLY CLASSIC モーストリー・クラシック 2015年12月号 vol.223 」(10月20日発売)に久石譲のインタビューが掲載されています。今年2015年に発表した待望の最新ソロアルバム「ミニマリズム2」のことから、8月、9月、10月、そして12月へとコンサート活動もふまえて語られています。

 

 

多忙な活動の中、CD「ミニマリズム 2」をリリース
「自分の原点のミニマルをベースに、小さい編成でコンセプトが明快なら楽しいと思って作りました」

8月には自らが立ち上げた「ワールド・ドリーム・オーケストラ(W.D.O.)2015」の全国6回のツアー、9月には現代作品だけで構成される演奏会「Music Future」両プロジェクトを指揮。10月に初演する新作コントラバス協奏曲の作曲、「題名のない音楽会」の新テーマ曲やCM楽曲などの作曲と、多忙を極める中で、8月にソロアルバム「ミニマリズム 2」を発表した。

久石:
「前作の『ミニマリズム』は、それまで作ってきたミニマル的な作品や『ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド』や『シンフォニア』などをロンドン交響楽団とレコーディングしたものです。ただ、全体的にポップスの枠内でやろうとしている部分がちょっとありましたが、今回は自分が”作品”として作ったものを集めました」

今回は、室内楽中心の編成で、2009年に宮崎駿監督に贈り、特別な機会にしか演奏されずに”幻のピアノ曲”と呼ばれた「WAVE」、戦後70周年に書かれた「祈りのうた」、マリンバ2台の「Shaking Anxiety and Dreamy Globe」、4本のサクソフォンと打楽器の「Single Track Music 1」、「弦楽四重奏曲第1番」などが収録されている。

久石:
「今回はできるだけ小さい室内楽、マリンバ2人とか、サクソフォン4人とか。コンセプトが明快だったら、楽しく聴きやすいと思って作った曲が多いです。ただ、2台マリンバの曲は、2本のギターのために書いた作品を、マリンバ用に書き直したもので、変拍子が多くとても難しい。『シングル・トラック』は、線路の単線という意味で、それぞれが単旋律のユニゾンを演奏しますが、音域やズレが様々な音風景を生んでいます」

アルバムは、ミニマル・ミュージック(最小限に抑えられた音階とパターン化された音型を反復させる音楽)のソリッドなサウンドに貫かれている。

久石:
「僕の作曲の原点がミニマル・ミュージックで、若い頃はそれをベースに作曲していましたが、長い間、エンターテインメントの方で活動して封印状態だったんです。それが、2004年にW.D.O.を始めて、もう一度クラシック音楽をやり出したとき、ベースのミニマル・ミュージックに戻ろうと」

久石:
「世間で『ミニマルは古いよ』と言われていたのが、実情は違っていて、オペラをMETで上演したニコ・ミューリーやロックバンドとクラシックの両方で活躍するブライス・デスナー(いずれの作品も『Music Future』で紹介されている)といった作曲家や、テクノ系やクラブ・ミュージックまでに影響を及ぼし、『ポスト・クラシカル』と呼ばれているけれど、元々僕がずっとやってきたようなものだから、今の活動をやる意義が自分でも明快になりましたね」

10月には読売日響で自作のコントラバス協奏曲とオルフ「カルミナ・ブラーナ」を指揮、その模様は、日本テレビで収録され、「読響シンフォニックライブ」(日テレ、BS日テレ)の枠で放送される。(放送日:「カルミナ・ブラーナは12月予定、「コントラバス協奏曲」は16年1月予定)

(雑誌「モーストリー・クラシック 2015年12月号」より)

 

モーストリー・クラシック 2015年12月号

 

Blog. 雑誌「CDジャーナル 2015年11月号」久石譲 インタビュー内容

Posted on 2015/11/14

10月20日発売 雑誌「CDジャーナル 2015年11月号」に掲載された久石譲インタビュー内容です。

これからの予定も少し垣間見れる内容です。

WDO2015CD化決定!
読響シンフォニックライブのTV放送予定!

どちらも詳細はこの段階では未確定となっています。今年後半の活動から、来年以降の展望を楽しく想像、期待したくなるようなインタビューです。

 

 

自分の原点と”内なるアメリカ”をめぐって
取材・文/前島秀国

久石譲の破竹の勢いが止まらない。8月は最新アルバム『ミニマリズム 2』リリースと同時に、新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラとのツアーを全国6ヵ所で開催し、「Symphonic Poem “NAUSICCÄ” 2015」を世界初演(CD化決定。詳細は後日発表)。9月は久石自身がセレクトした現代の優れた音楽を紹介する”Music Future Vol.2”を開催し、新作「Single Track Music 1」(サクソフォン四重奏+打楽器版)と「室内交響曲」を世界初演。10月は『題名のない音楽会』5代目司会者・五嶋龍のために書き下ろした新テーマ曲「Untitled Music」のオンエア開始と、新作「コントラバス協奏曲」(日本テレビ委嘱作品、読響シンフォニックライブで2016年1月放送予定)の世界初演。そして年末12月には混声合唱、オルガン、管弦楽のための「Orbis」新ヴァージョン初演を含む”久石譲 第九スペシャル 2015”開催と、目にも留まらぬ速さで作曲/演奏活動に打ち込んでいる。

 

音楽に入りやすいこと、身近に感じてもらうこと

まずは、久石の原点であるミニマル・ミュージックをアルバム・コンセプトに据えた『ミニマリズム 2』について。小編成の室内楽で密度を高めた本作には、久石のソロ・ピアノ曲「WAVE」と「祈りのうた」が収録されているのも、ファンにはたまらないポイントだ。

「2曲とも宮崎駿監督の誕生祝いとして書いた作品です。〈WAVE〉(2009年作曲)は”メロディ”と”ミニマル”という2つの要素をシンプルな形で結びつけた曲ですが、当初収録を予定していたピアノ・ソロアルバムがなかなか完成せず、リリースの機会を逸してしまいました。一方の〈祈りのうた〉(2015年作曲)は、戦後70年の節目を意識して書いた曲。以前から音数(おとかず)の少ない、内省的な作品を書きたいと思っていたのですが、これもなかなか機会に恵まれなくて。ところがここ数年、ペルトやグレツキの作品を(指揮者/ピアニストとして)演奏したことで、ホーリー・ミニマリズムと呼ばれる彼らのスタイルから刺激を受けました。”なるほど、できるだけ切り詰めた要素で作曲していくには、こういう方法もあるのか”と」

『ミニマリズム 2』収録の「Single Track Music 1」は、単音から24音まで増殖していく音列をユニゾンだけで演奏しながら、ヴァーチャル的にミニマル特有のズレを感じさせる新しい手法にチャレンジしている。

「基本的にはリズム中心の作品ですが、リズムというわかりやすい要素を作曲のベースに置くことで、聴き手の拒否反応を無くすことができます。つまり書く側が8分の7のような変拍子を使い、複雑な音の並べ方を試みたとしても、聴く側はリズムの勢いで音楽に入っていけるので、トータルとしては縁遠いものではなくなる。音楽に入りやすいこと、身近に感じてもらうことが、いま、自分の中でもっとも重視している要素なんです」

そこには、いち早くミニマル・ミュージックの演奏・紹介に取り組んできた、久石自身の体験が色濃く反映されているという。

「70年代から80年代にかけて、多くの演奏者がライヒ、グラス、ライリー、ヤングという4人のミニマリストの作品を何らかの形で体験しました。演奏したことがない人は、ほとんどいないと言ってもいいくらい。ただし、ほとんどの場合、みんな嫌気がさしてミニマルから離れてしまった。その気持ちは、よくわかります。今回、”Music Future Vol.2”でライヒの〈エイト・ラインズ〉を指揮しましたが、譜面を見ると自分でも嫌になりますよ。”こんなの弾くなんて、冗談じゃない”みたいな(笑)。ライヒの場合、モーダルなジャズ、コード進行というのが発想のベースに必ずあります。それを、寝食を共にするような共同体の中で少しずつ変化をつけながら、音楽を作り上げていくというのが彼の方法論なので、3~4回のリハーサルで演奏すること自体、無理があるんです。演奏者の心が入りにくい。30年前、もしも的確に指導できる人間がいれば、ミニマルと聞いただけで演奏者が溜息を洩らすような、現在の状況にはならなかったでしょう。ミニマルに欠点があるとすれば、おそらくそれが最大の欠点です。作曲家が演奏者の生理を考慮し、譜面の書き方を見直して欠点を克服していかなければなりません」

 

”ニューヨークの夜”のような世界観

”Music Future Vol.2”で久石が紹介したブライス・デスナーの弦楽四重奏曲「Aheym」(日本初演)や、ジョン・アダムズの「室内交響曲」(久石が指揮)には、そうした欠点を克服していく姿勢が感じられるという。

「デスナーの曲に聴かれるCマイナーのコード感、あれはクラシック専門の作曲家には書けないでしょうね。ロックやそのほかの音楽のエネルギーを取り込み、クラシックの書き方を勉強し直した人間でないと書けない強さがある。アダムズに関しては、リズムをわかりやすく刻むことで聴きやすい音楽を作っていますが、じつは3つか4つの雑多な要素を同時に盛り込んでいる。そうしたカオスのような多様性が、彼らアメリカの作曲家たちが持つ強みだと思うんです」

同じ”Music Future Vol.2”で世界初演された久石の新作「室内交響曲」にも、じつは”アメリカ”という要素が濃厚に現れている。

「昨年の”Music Future Vol.1”で、6弦エレクトリック・ヴァイオリンを独奏楽器に用いたニコ・ミューリーの〈Seeing Is Believing〉を指揮したのが、作曲のきっかけです。せっかくこの楽器に出会ったのだから、ひとつ自分でも曲を書いてみようと。ところが、これは予想外だったのですが、あの電気的なサウンドは間違いなく”アメリカ”ですね。気が付いたらロック・ギターのようなディストーションを使ってみたり、スコアの中にサクソフォンもフィーチャーしたりしていました。そうすると、自然と”ニューヨークの夜”のような世界観になっていく。そこで、はたと気が付いた。今回の”Music Future Vol.2”はライヒ、アダムズ、デスナー、自分の曲と、完全に”オール・アメリカン”ではないかと。これほど見事なコンセプトでプログラムが統一されているとは、自分でも驚きました」

現在作曲中の最新作「コントラバス協奏曲」も、同様に”アメリカ”が重要なキーワードになるという。

「コントラバスを独奏楽器としてイメージしてみた時、真っ先に思い浮かぶのがロン・カーターのようなジャズ・ベーシストなんですよ。そうすると、これも当然”アメリカ”になってくる。よくよく考えてみると、今年の作曲活動のポイントは、じつは”自分の内なるアメリカ”を確認し直すことだったのかと。それが必然的な流れならば構わないし、結果的に良い作品が生まれればいい。チェロ協奏曲の延長として作曲しても面白くないですから。これはすごく面白い曲に仕上がると思いますよ。期待してください」

(雑誌「CDジャーナル 2015年11月号」より)

 

CDジャーナル 2015年11月号

 

Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 48 ~新ウィーン楽派の音楽~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/11/7

クラシックプレミアム第48巻は、新ウィーン楽派です。

 

【収録曲】
シェーンベルク
《浄められた夜》 作品4 (弦楽合奏版)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1973年

ウェーベルン
《5つの楽章》 作品5 (弦楽合奏版)

ピエール・ブーレーズ指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1994年

ベルク
ヴァイオリン協奏曲 《ある天使の思い出に》
ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)
サー・コリン・デイヴィス指揮
バイエルン放送交響楽団
録音/1984年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第46回は、
十二音音楽ってなに?

本号特集と久石譲エッセイ内容が一致するのは全巻とおしても珍しく、特集でも十二音音楽、久石譲も十二音音楽と、頭の中でグルグル回ります。いずれを読んでも、とにかく難しい。難解だと敬遠するつもりはないですが、わかりたいですが、難しい。

一部抜粋してご紹介します。

 

「十二音音楽(技法)についてこれから必要最小限の説明を試みたいのだが、その前にお断りしたい事がある。僕はこの技法を大学時代に独学し、その後、日本の十二音技法の大家、入野義朗先生についていささかレッスンを受けた。まだミニマル・ミュージックの洗礼を受ける前のことだが実は多くの作曲家、アルヴォ・ペルト、ヘンリク・グレツキ、そしてあの前衛中の前衛であるジョン・ケージでさえこの十二音技法を学んでいる。だから自分にとってこの技法を語ることは特別な事ではないのだが、音楽ファンにとってみれば、仮にたくさんのレコードを持ち、カール・リヒターとトレヴァー・ピノックのバッハ作曲《ブランデンブルク協奏曲》の違い(これは村上春樹の本に出てくる描写)が熱く語れるほど音楽に詳しい人であっても、なんだか面倒くさい話になる。理論や法則の話は誰だって好む事柄ではない。人は制限されること、例えば行動を規制させること、指図を受けることなど、自分の意志ではないことを強いられるのは嫌いだ。僕も嫌いなのだが、なぜかこういう話になるのは、たぶん自分の感性を信じていないからで(いや、人間の感覚というもの自体を)、あやふやな自分を確認するものさしとして理論を使っているからだろう。案外、正しい理論や論理との接し方かもしれない。」

「十二音音楽(技法)とは1オクターヴの12の音を使った音列(セリー)で、その音の順番を変えずに音楽を作っていく方法だ。もちろん同じ音を音列の中で2度使用する事はできないし、感覚として他の音の方がよいと思ってもそれは駄目である。ただしその音列にしたがって和音としての使用は可能だ。こうする事によってどの音にも比重が偏る事なく、対等に全部の音を扱う。これは調性音楽が主音や属音を主体に動く事からいかに離脱するか、という事から考えられた。また、その音列の最後の音から頭の音にいくのを逆行型、最初の音から同じ音程分だけ反対方向にいくものを反行型といい、逆行型も反行もいれると全部で4種類のセリーができる。やっぱりわからないね、どこがわかりやすいんだ! という声が聞こえてくるが、もう少し辛抱を。」

「作曲家は絶えず次になんの音を選ぶか悩む。シンプルなメロディーでも前後の関係性でここはソかラを選ぶか考え込む。ソナタ形式や機能和声のようなシステムがあればその基準に沿って、あるいは破壊しようと思って(本人だけ思っていて実は仏様の手の平状態なのだが)音を選んでいく。そう、システムがあれば作曲は助かるのだ。その意味でこの十二音技法は便利なのである。まず12の音を作曲者の感性と論理で配列する。これをオリジナル音列と仮に命名する。すると先ほど書いたように逆行、反行などの4種類x12半音分もの音を選ぶ材料が自然に、あるいはあらかじめ用意されたごとくできる。もちろんもっと細かな決めごとがあるのだが、あとは作曲家がそれに即して音を置いていけば曲は一応できるのである。」

「その時代はトマトが熟しすぎて腐る寸前のような状態、つまり機能和声が半音階を多用してもはや調性はどこにあるのか聴き分けることも不可能になった時代だった。そしてこのような時のトマトはおいしいと聞くが、音楽も同じで後期ロマン派の音楽は味わい深く実においしいのである。ちなみに僕はトマトが大嫌いだ! まあそんなことはどうでもいいのだけれど、そのような時代にこの技法は画期的だった。もちろんなかなか受け入れられなかったことは容易に想像できる。創始者といわれているシェーンベルク自身、十二音技法と調性音楽あるいは単に無調の音楽の間を行ったり来たりしているのである。時代は緩やかなカーブを描いて変遷する。」

「さて「音楽の進化」について書いているのだが、その冒頭でアントン・ウェーベルンの言葉を引用した(39号)。彼はシェーンベルクの弟子であり、その後の現代音楽への影響から考えれば師であるシェーンベルクよりも影響は大きかったと言える。彼はある講義で「あらゆる芸術は…合法則性に基いている」といい、それに続いていかに十二音音楽が歴史の流れの中で必然的な技法であるかを熱く語っている。それは当事者によくある我田引水のような部分もあるのだが、「音楽の進化」を考える場合、傾聴に値する内容だ。」

「つまり、単音の音楽の時代から、線の音楽になり(ポリフォニック)、それがホモフォニー(ハーモニー)になったのだが、音楽以外のもの(物語性)で飽和し限界に来たところで、今一度ポリフォニックになった、それが十二音音楽であると。つまり純音楽に戻ったと彼は言いたいのだろう。確かに十二音音楽は音列を使う分、縦ではなく横の線の動きが重要になる。ではそれがハーモニーの時代を終焉させ、新しい時代を本当に作ったのか? 次回はポップスを含めた20世紀の音楽を考えたい。」

 

 

うーん、非常に難しいですね。言葉で説明されると理屈的にはわかったような気になりますが、わからない。そしてシェーンベルクの十二音技法のピアノ曲なども聴いてみると、さらにわからなくなるという始末。

今鳴っている音楽が、解説や理論でいうところの、どこに当たるのか…耳でも言葉でも照らしあわせてわからない。ただ毛嫌いせずに、音楽の歴史において、そういう動きが起こり、それが今にも引き継がれている部分がある。そう捉えておこうと思います。

 

シェーンベルクの「浄められた夜」は、久石譲も指揮をとったことのある作品です。弦楽六重奏版と弦楽合奏版(1917年版/1943年版)がありこれらは作曲者オリジナル版となりますがそれ以外にもピアノ三重奏版なども作品化されています。

いずれをも聴いたうえで、やはり弦楽合奏版の、うねるような怒涛の弦の響きは圧巻です。歴史的名盤と評価も高い、本号にも収録されたカラヤン盤を久石譲が演奏会で取り上げるとわかってから愛聴しています。

ちなみにこの「浄められた夜」は、シェーンベルク初期作品で、無調音楽でも十二音音楽でもない位置づけになっています。とても聴きやすく詩からインスピレーションを受けた作品ということもあり、弦楽器だけで織りなすドラマティックな構成、展開となっています。神秘的 幻想的 月 生命 慈愛 詩的 こういったキーワードを連想する作品というところでしょうか。

 

2015年5月に久石譲が同作品を指揮するにあたり、ピアノ版を自ら譜面にしたというエピソードがあります。

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「それで今猛勉強中なのだが、とにかく各声部が入り組んでいるため、スコアと睨めっこしても頭に入ってこない。いろいろ考えたあげく、リハーサルの始め頃は連弾のピアノで行うので、そのための譜面を自分で書くことにした。やはり僕は作曲家なので自分の手で音符を書くことが覚える一番の近道だと考えたのだが、それが地獄の一丁目、大変なことになってしまった。」

「《浄められた夜》は室内楽なので、音符が細かい。例えば4/4拍子でヴィオラに6連符が続くと4×6=24、他の声部もぐちゃぐちゃ動いているので一小節書くのになんと40~50のオタマジャクシを書かなければならない(もちろん薄いところもある)。それが全部で418小節あるのである! そのうえ、4手用なので、弾けるように同時に編曲しなければならない。全部の音をただ書き写しても音の量が多過ぎて弾けないので、どの声部をカットするか? もう無理なのだが、どうしてもこの音は省けないからオクターヴ上げて(下げて)なんとか入れ込もうとかで、とにかく時間がかかる。実はこの作業は頭の中で音を組み立てているのだから、最も手堅い、大変だが確実に曲を理解する最善の方法なのだ。」

「もしかしたらこれは多くの作曲家が通ってきた道なのかもしれない。マーラーやショスタコーヴィチの作品表の中に、過去の他の作曲家の作品を編曲しているものが入っている。リストはベートーヴェンの交響曲を全曲ピアノに編曲している(これは譜面も出版されている)。これからはもちろんコンサートなどで演奏する目的だったと思われるが、本人の勉強のためという側面もあったのではないか? モーツァルトは父親に送った手紙の中で、確か「自分ほど熱心にバッハ等を書き写し、研究したものはいない」と書いていたように記憶している。モーツァルトは往復書簡などを見る限りかなり変わった人間ではあるが、天真爛漫な大人子供のイメージは映画『アマデウス』などが作った虚像だったのかもしれない。」

「そんなことを考えながら、何度も書いては消し、書いては消している最中にふと「久石譲版《浄められた夜》を出版しようかな」などと妄想が頭をよぎる。もちろんシェーンベルク協会みたいなものがあったらそこに公認されないと無理だろうけど。」
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Blog. 「クラシック プレミアム 35 ~モーツァルト5~」(CDマガジン) レビュー

 

新・クラシックへの扉・特別編 久石譲 「現代の音楽への扉」 2015年5月5日開催
演奏プログラムと楽曲解説は

Blog. 久石譲&新日本フィル 「現代の音楽への扉」コンサート内容

Blog. 久石譲 「モーストリー・クラシック 2015年2月号」 インタビュー内容

Blog. 「週刊文春 4月30日号」(2015) 久石譲 掲載内容紹介

 

ぜひ《久石譲版 浄められた夜》、聴いてみたいところです。

 

 

……

今号はここで終わりません。

最近よく取り上げている「キーワードでたどる西洋古典音楽史」(岡田暁生 筆)

今号でのテーマは「音楽の終わり方(上)」だったのですが、これがまた思わず唸ってしまうほど感嘆してしまいました。そういう視点はなかったなと、見方や聴き方、音楽との接し方の新しい発見。

一部抜粋してご紹介します。

 

「人はややもすると若い頃、人生が無限に続いていく錯覚を抱きがちである。早くに身近な人を亡くすというような経験があれば事情は違ってこようが、そういうことでもなければ「時の終わり」、すなわち死とは、極めて観念的な存在にすぎない。ただし私のように五十代半ばともなれば話は違ってくる。シューベルトもモーツァルトもショパンもシューマンもメンデルスゾーンも、皆とっくに亡くなっていた年齢である。ベートーヴェンが亡くなったのが56歳。あと数年で私も同じ年代だ。「終わり」が見えてくる。そして残り時間をいろいろ計算する…。」

「音楽を生業とする者にとって、「残り時間の計算」とはシャレではない。絵画や文学なら、鑑賞するスピードを上げることでもって、同じ残り時間で他人より多くの作品を知ることが可能である。しかし音楽はそうはいかないのだ。音楽は万人に平等である。ある交響曲を聴くには、誰でも同じ時間がかかる。残り時間を自分が知りたい作品数で割ると、あと一体どれだけの音楽を聴けるか?限られた量の音楽しか聴けないなら、まだ知らない作品を優先するか、それともすでに知っているお気に入りの音楽を何度も聴くか?ナンセンスな自問自答とは思いつつ、音楽が「時間芸術」と呼ばれるその含意に、思わず眩暈がしてくる。」

「「終わり方」は音楽を創り上げるプロセスにおいて、極めて重要なポイントの一つである。つまり「カッコイイ始まり方」ができる人は結構いるにしても、「然るべき終わり」へと曲を持っていける作曲家は非常に少ないのだ。」

「クラシック音楽の場合、私たちが一般に耳にするほぼすべての曲は、それなりの名曲ばかりである。それらはさも当然のように、然るべき終わり方をする。だから「然るべき終わり」が本当はどれだけの難事であるか、かえってあまり実感できない。しかし現代音楽の新作などを聴くと、ダレずに終わるということがそもそもどれほど技量を必要とすることであるか、瞬く間に明らかになる。」

「とはいえ、新作であっても「始まり方」は、それなりにたいがいがいい。最初からずっこける作品はほとんどない。曲の始まりには皆、並々ならぬ創作のエネルギーを注いでいるということであろう。そして曲の展開というか、盛り上がりについても、悪くないものは多い。しかし、終わるタイミングを見失ってしまう。もはや次の盛り上がりもなければ新しいアイデアも出てこないのに、だらだらとまだ続く。」

「想像するに「筆を置く」というのは、門外漢には思いもよらぬような、途方もない胆力を要するのではあるまいか。すべて言い切る、そして充分語ったと思ったら、もう余計なことはつけ加えず終わる。これはよほど自信がないとできないことなのだ。ここぞというタイミングで過たず終止符を打つ、名曲中の名曲とされてきたものは、さも当然のようにこの条件をクリアしている。しかしそれを自明と思ってはいけない。それは神に祝福された奇跡のごとに瞬間である。」

 

少し補足をすると、

音楽とは「時間芸術」である。

文学や絵画といった芸術は、完成した時点で「作品が生まれる」。一方、音楽というのは、最後の和音に辿りついて完成した瞬間、跡形もなく消える。(楽譜としての音楽ではなく、実際に目の前で鳴り響く音楽)

つまり曲の「曲の終わり」とは「終焉」である。

音楽の終わりとは、「夢から覚める」「祭りの終わり」などと似た時間意識をもたらす。よって、曲の終わり方は重要である。

(と、上記抜粋内容へと循環していきます)

 

「終わり方」というテーマにおいて、実際の曲の終わり方の善し悪しから、哲学的な終焉、芸術作品としてなど多角的に述べられているので変に抜粋するとつかみにくいかもですが、逆に言えば「終わり方」ひとつをとっても、こんなにも広く深い視点があるものなんだなと、感嘆した内容でした。

 

クラシックプレミアム 48 新ウィーン楽派

 

Blog. 「久石譲 PIANO STORIES ’99 Ensemble Night with Balanescu Quartet」インタビュー コンサート・パンフレットより

Posted on 2015/11/3

久石譲の過去のコンサートから「PIANO STORIES ’99 Ensemble Night with Balanescu Quartet」です。

ここではコンサート・パンフレットより、インタビューをメインにご紹介します。

 

 

PIANO STORIES ’99 Ensemble Night with Balanescu Quartet

[公演期間]24 PIANO STORIES’99
1999/10/21 – 1999/11/11

[公演回数]
12公演
10/21 倉敷・倉敷市民会館
10/23 大阪・フェスティバルホール
10/24 名古屋・愛知厚生年金会館
10/28 盛岡・盛岡市民文化ホール
10/29 仙台・宮城県民会館
10/30 秦野・秦野市文化会館
11/1 広島・広島郵便貯金ホール
11/2 広島・広島厚生年金会館
11/5 福岡・メルパルクホール福岡
11/8 札幌・札幌コンサートホール
11/10 東京・東京芸術劇場
11/11 東京・東京芸術劇場

[編成]
ピアノ:久石譲
バラネスク・カルテット
Bass:斉藤順
Marimba:神谷百子
Percussion:大石真理恵
Wood Wind:金城寛文
Wood Wind:高野正幹

[曲目]
794BDH
Sonatine
New Modern Strings

「MKWAJU」より
MKWAJU
Tira-Rin

EAST (Balanescu Quartet)

Two of Us
太陽がいっぱい
Les Aventuriers

アシタカとサン (Pf.solo)
HANA-BI (Pf.solo)

【DEAD Suite】
Movement 1
Movement 2

DA・MA・SHI・絵
Summer ※Silent Loveモチーフあり
Tango X.T.C
Kids Return

—–アンコール—–
もののけ姫
Madness
DEAD Suite Movement 2 (11/11東京)

 

 

久石譲 PIANO STORIES 99 コンサート P2

 

INTERVIEW

連続(ミニマル)の結実

昨年のツアー「PIANO STORIES ’98 -Orchestra Night-」のライブ盤「WORKS II」をリリースしたばかりだが、今回のツアーはガラッと趣が異なる。昨年がオーケストラとの仕事の集大成なら、今年は久石譲のソロ活動での集大成を目指すという。彼が長年追究してきた音楽とは、どんな世界なのだろうか。

 

久石:
なぜ、今年のコンサートはアンサンブルなのか。答えは単純です。1年置きにオーケストラとアンサンブルのツアーを行っており、今年はアンサンブルの番。そして共演は、昨年、僕が演出を担当したコンサート「京都・醍醐寺音舞台」でセッションをし、非常に相性の良かった、バラネスク・カルテットにお願いしました。その他、マリンバ、ベースなどのメンバーも「音舞台」と基本的に同じです。今回のアンサンブルに最適なメンバーを選んだのですが、加えて、今年のツアーは比較的、キャパシティの大きなホールが多いので、”スペシャルな感じの大きさ”みたいなものも考慮しました。

例えば「音舞台」の時は木管1本だったのを、今度はバリトンサックスまで入れました。マリンバも1台だったのを、2台に増やした。そうすることによってアタックの衝撃度が大きくなり、より立体的な音になると思うんです。やっぱり木管一人だと、どうしてもメロディ扱いになるけど、二人だとセクション扱いになりますから。ただでさえ、ピアノに木管、パーカッションという形態のグループは日本にいないわけですよね。これはかなり衝撃的なサウンドになると思いますよ。

ただ、形態が少し変わったので、「音舞台」の時にも演奏した「Asian Dream Song」なども、またアレンジを変えなければならない。それがちょっと面倒臭いんですけどね(笑)。

内容的には、ミニマル・ミュージックをベースにしたアンサンブルを、と考えています。ミニマルって、ただ同じ音型を繰り返すだけと思われがちですが、実はこの音楽、ミュージシャンを選ぶんですよ。例えば日本人が演奏すると、どんどん音を厚くし、クライマックスに向かっていかなきゃならないような曲調になってしまう。早い話、M・ラヴェルの「ボレロ」とミニマルの何が違うか、ということを理解できる相当知的な人じゃないと、演奏できないと思う。”同じ音型を繰り返す=ミニマル”じゃないですから。

恐らく、技術的にバラネスクより上手いミュージシャンは、日本にいくらでもいるでしょう。でも彼らは、同じミニマルをベースにしている作曲家マイケル・ナイマンの元で演奏もしています。だからミニマル・ミュージックのあり方、繰り返す事の意味を、良く理解しているんですね。

 

21世紀に繋がる音楽を自分なりにアプローチしたい

久石譲は音楽のテーマを追い求める。
ミニマル・ミュージックは長年追究している音楽。
どうしても今、演奏しておかなければならない音楽。
その答えがここに垣間見えるかもしれない。

久石:
もしかしたら今回の試みは、映画音楽の久石しか知らない方にとって、見たくない、聴きたくない音楽かもしれません。以前は自分でもそう、考えていました。自分が描く世界はこうで、映画ではこうと。割と分けていた時期があった。ところが、北野武さんの映画に書いている曲というのは、基本的に自分のソロの世界とあんまり変わらないんです。いずれにしても自分の描く音楽は、自分の世界だと思っています。中でもミニマル・ミュージックは、僕が長年追究しているテーマ。個人的にどうしても今、演奏しておかなければならない音楽なんです。

20世紀の音楽は、リズムの世紀でした。アフリカにいた黒人が米国に連れて来られ、白人と一緒になってジャズという音楽が生まれた。そして今度は、黄色人種と結びついて、ラテン音楽が出来た。19世紀の終わりまでは、我が世の春のように西洋クラシックが絶対的だと思われていたわけですが、リズムに弱かったために、20世紀に入ると急速に影響力がなくなってしまった。つまり現在の、ギター、ピアノというベースがフォーリズムである音楽が支持されるようになった歴史とは、たかだか70年程度しかないわけです。で、アンサンブルの特徴というのも、基本的にはリズムにあります。大半の曲が140~150というすさまじいテンポの中で、機械的にリズムが徐々に変わっていく。つまりミニマルな音楽が主流なんです。僕の中で、もう一度、その70年の歴史を紐解いて、自分なりのアプローチをキッチリとしておきたい。そう、考えました。

選曲に関しても、僕がソロ活動の中で、ずっと以前から追究してきた「孤独」や「死」をテーマにしたものを演奏しようと思っています。自分自身、故郷・長野から東京に出てきたというのもあって、昔から”故郷を捨ててしまった人間の悲哀”に興味がありました。人間の理想の生き方って、朝、日の出と共に目が覚めて、肉体を使った労働をして、日が暮れた時にご飯を食べ、寝る。非常にシンプルなのがいい。その中で培われた共同体や近隣の人たちなど、いろんな人との関わり合いの中で生活しているわけですよね。ところが今、家の方で根を張っているべきところを、皆が離れてしまい、”都会生活者”という根無し草になってしまった人たちが大勢いる。そういう人たちが作る経済状況の中で、兎小屋のような小さい部屋で寝泊まりし、コンビニのご飯を喰い、生きている。やっぱりそれは正しくない生き方だし、すごく苦しい事だと思うんです。で、「根無し草の人たちにとっての自然観って、何なのだろう」。そう、考えるようになった。そうして誕生したのが、「My Lost City」や「地上の楽園」といったアルバムだったのです。その中から何曲かを演奏しようと思っています。

ただ、すごくマズイのは、アルバム発表当時はバブルの絶頂期で、警鐘を込めて作っているんですね。だから今回は、ニヒリズムでやるのではなく、前向きに出来ないかと。アレンジを含めて、本番まで考えなければなりません。

それから新たに1、2曲、このツアーのために新曲を作る予定もあります。実は今回、今までのツアーと全く異なり、ツアー終了後に、バラネスクとのレコーディング企画しているんです。僕はいつも、あまり曲が煮詰まってない時点でレコーディングする事が多いんですね。それを今回は、ツアーを回って完全に完成したところで、メモリアルな意味も込めて、アンサンブルのレコーディングをしようと思っています。実はアンサンブルって3、4年前からやってるのに、珍しくレコードになっていない。だから「DA・MA・SHI・絵」も「MKWAJU」もニューバージョンでのレコーディングとなりそうです。

 

久石譲 PIANO STORIES 99 コンサート P3

 

活動は点ではなく、線でなければいけない

昨年のツアー終了後、久石は自問を繰り返したという。
「自分はなぜ、音楽を創るのか」。その答えはまだ、見つからない。
だが、立ち止まることで見えたもの。走り続けたことで得た、新しい出会いがあった。
久石の音楽に対する姿勢は、確実に変わりはじめている。

久石:
そうした新しい試みに自分自身、期待するものも大きいのですが、不安もあります。それは、昨年のツアー終了後から半年間、ピアノの演奏を観客の前でほとんどやってないということです。僕は、ピアノに向かわないと決めたら、その間、ピアノにも触りもしません。今年の8月8日に、昨年に続いて日本テレコムのイベントで久々に演奏することになり、1週間前から急激に練習を始めたのですが、腰は痛くなるし、もう体はボロボロ(笑)。ブランクが大きいと確実に、まず腕の筋肉が落ちます。その間、一生懸命ジムにも通っていたのですが、無駄だった。「ジムで造る筋肉って実用じゃないんだ」と、身にしみて分かりました(笑)。

その半年間、ピアノを弾かなかったというのは、理由があるんです。「Gene -遺伝子-」(NHKスペシャル「人体III」)などのレコーディングで忙しく、必然的に弾く機会がなかったということもありますが、それ以上に、ちょっと”間”を置きたかったというのが正直な気持ちです。

それは、「自分はなぜ、音楽を創るのか」。そう真剣に自問自答した半年間でした。長い間音楽を創っていると、惰性や習慣である程度のことができてしまう。それを一度壊して、「なぜ自分は音楽を創るのか」、「どういう音楽を創るべきか」、「何を表現したいのか」。音が鳴り出したらそれに流されるのではなく、「なぜ自分が今、この音を弾くか」ということまで。それは音楽だけじゃなく、自分がモノを創るという活動で、何をすべきかまで考えました。

結局、結論は未だに出ていませんが、きっとピアノに向かうと気持ち的に違いがでるでしょう。表現しようとする世界が変わっていくと思います。それがすごく大事な事なんですよね。

新しい映画監督との出会いも、その一環でした。今までわりと、北野武さんや宮崎駿さんなど、すごい大監督さんとやってきた。ここで一つ、世界観を変えてみたいと思って、映画「はつ恋」で篠原哲雄監督と、「川の流れのように」では秋元康監督(共に来春公開予定)と。まだ監督作2、3作品目の方たちとの仕事を経験したわけですが、新しい刺激があって面白かった。

ある意味、今回のバラネスクとの共演も、そうした世界観を変えてみたいと思っての発案だったのかもしれません。それに、活動というのは、絶対点であっちゃいけない。昨年の「音舞台」での出会いを次に生かす、”線”じゃなきゃいけないと思うんです。自分の書斎で考えている世界って小さいですから、いろんな人と出会って、いろんな可能性が広がっていく事を大切にしようと思ってます。

これは常々口にしているのですが、僕はあくまでも作曲家であって、演奏家ではない。では、なぜライブで演奏するか。本音を言えば、僕のような演奏家がもう一人居てくれたら、自分で演奏しようとは思わない(笑)。ただやっぱり、ソロアルバムや自分の世界というのは、パフォーマンスも含めて完成しないと完結しないんですよね。自分の世界というのは、聴衆の前で演奏してくれる人が必要なんですよ。だからそれはもしかしたら、久石譲オーケストラを結成して、表現することも出来るでしょう。たまたま自分がピアノを演奏するのが好きだったから、自分で表現するのがいいのかなと思っています。確かに、すっごくテクニックがある人は山ほどいる。ただ、自分がシンプルなメロディーの中に託したものを、自分の思った通りに弾いてくれる人って、そうはいない。本当は、出来るだけ早く演奏活動を辞めたいのですが(笑)。

いや、やはり、ステージは、自分の音楽の最終形態。まだまだ自分で演奏していきますよ。

(「久石譲 PIANOS STORIES ’99  」 コンサート・パンフレットより)

 

 

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久石譲 PIANO STORIES 99 コンサート P6