連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第5回:「疲れるけど、疲れていられない」
2003年10月18日。録音1日目。この日は、3時間のセッションを2度行い、3曲を録音するのが目標だ。
午前9時過ぎ、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーが、プラハ市内のドボルザークホールに集い始めた。指揮者のマリオ・クレメンスも登場し、久石譲とあいさつ。笑顔を見せながらも、久石の眼差しは鋭い。
オーケストラのメンバーが楽器の調整を始めた。場内に色とりどりの音色が優しく反射する。
ドボルザークホールは、チェコ・フィルの本拠地。1200名程度収容の小規模ホールだが、天井が高いため“魔法の音が生まれる場所”と評されるほど音場が優れている。ステージの真下にコントロール・ルームがあるのも特徴だ。
午前10時。3管編成、85人のフルオーケストラが勢揃いした。久石が中央の座席に楽譜を持って陣取ると、ホール全体を、張り詰めた空気が覆った。
マリオが指揮棒を振り下ろし、「ミステリアス・ワールド」の演奏が始まった。響き渡る高らかなトランペットの音色。「ハウルの動く城」の音が初めて地上に舞い降りた瞬間だ。
チェコ・フィルの面々は、ほぼ初見のスコアであるにも関わらず、歌い上げるように演奏する。東欧独特の地を這うような粘り強い演奏と、ホールの響きが絶妙に絡み合い、それまで険しい顔が続いた久石に、確かな手応えを感じる笑みがこぼれた。
「ミステリアス・ワールド」を聞き終えた久石はコントロール・ルームヘ。「いいよね」と満足した様子を見せながらも、「ただ、グロッケンの音が前に出すぎているように聴こえる。こっちではどうだった?」と、録音エンジニアの江崎友淑に問いかける。「確かに少し前に出ていますね。マイクのセッティングを変えてみましょう」──江崎はそう答えると、コントロール・ルームを飛び出し、あっという間にマイクの位置を変えた。年に何度もドボルザークホールで録音している江崎だからこそできる“早業”だ。
マリオがメンバーに幾つか指示を出し、録音が始まった。まだ2度目であるにも関わらず、すでに演奏はほぼ完璧だ。
終了後、汗を拭きながらマリオがコントロール・ルームに現れた。久石は「演奏はとても良い」とマリオを迎えた上で、「いくつか確認したいことがあるんだけど」と楽譜を広げ、細かい希望を伝え始めた。
録音は、常に時間との戦いだ。5分の曲を演奏し、聴き直すだけで、すぐに10分が経過してしまう。しかも、オーケストラのメンバーを90分に一度休ませなければならないなど、「決まり」もあるため、一時も無駄にできない。短い時間で、2人は簡潔かつ確実に意思を交換する。
録音再開。久石もホールに戻り、耳を研ぎ澄ませる。今回はピアノ演奏がないため、曲の合間に何度もホールとコントロール・ルームを行き来しながら、細かい指示を出していく。
「疲れるけど、疲れていられないよね」と苦笑い。
この日は、予定通り3曲を録音した。順調な滑り出しだ。
しかし、録音が終了したからといって、ホテルに戻れるわけではない。引き続き、コントロール・ルームで、演奏したデータの編集作業などをこなす。
途中、データのコピーを作るバックアップ作業が行われることになり、久石が散歩に出た。コントロール・ルームには、江崎以下、久石の拠点スタジオ「ワンダーステーション」のエンジニア浜田純伸、秋田裕之と記者の4人が残された。
1日目の録音が無事に終了し、若干緊張が解けたせいか、雑談が始まった。互いの「カップラーメン観」など、他愛もない会話が続く中、このところCD全般の売れ行きが芳しくないという話が出た。
日本レコード業界の調べによると、1999年以降、国内のCD売り上げは5年連続で減少しており、一時は乱発されたミリオン・ヒットも、現在ではほとんどなくなった。音楽業界には、ここ数年「冬の時代」が続いている。
記者が、デジタルコピーの氾濫などを例に、CDが売れなくなった理由を尋ねると、浜田が打って変わって神妙な面持ちで答えた。
「売れないからといって、何かのせいにしてはいけないと思うんです。良い音楽を作り続けていれば、ちゃんと届くはずですから」
江崎と秋田が頷く。音楽業界には、まだまだ魂が息づいているようだ。
久石が戻ってきた。編集を再開。結局、初日から午前0時過ぎまで作業を行った。
「無事に10曲録れるといいんだけど」──さすがに疲れた様子の久石は、そう言ってホテルに吸い込まれていった。(依田謙一)
(2004年2月9日 読売新聞)