Posted on 2014/8/30
3年ぶりの復活コンサートとなった「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ 2014」。そのレポートが日本経済新聞 電子版に掲載されましたのでご紹介します。
2014年8月26日 日本経済新聞 電子版
久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ2014 鎮魂美でる旋律美、悲しみと安らぎ宿る
スタジオジブリのアニメ映画の音楽などで知られる作曲家、久石譲と新日本フィルハーモニー交響楽団による「ワールド・ドリーム・オーケストラ」が3年ぶりに復活した。テーマは「鎮魂」。自ら指揮とピアノを担当し、美しい旋律を奏でる自作のほか、ペンデレツキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」なども演奏。深い悲しみと安らぎ、そして希望をもたらす公演を聴いた。
思いだすだけで涙が出そうになる、そんなメロディーがある。長崎原爆の日にあたる8月9日、サントリーホール(東京・港)で開かれた「久石譲&ワールド・ドリーム・オーケストラ2014」。会場は若者や女性客を中心に満席だ。久石が音楽監督になって新日本フィルと2004年に立ち上げたプロジェクトだが、東日本大震災が起きた2011年を最後に公演を休止していた。3年ぶりの復活公演は「鎮魂の時」と銘打って久石が自作を中心に大管弦楽を鳴らす。終戦記念日が近づく夏、震災そして戦争の犠牲になったすべての人々の魂を鎮める願いが込められている。その音楽的魅力はもちろん、日本が世界に誇る久石譲作品の旋律美である。
この復活公演と並行して久石はもう一つ、新たなプロジェクトを立ち上げた。いわゆる現代音楽ではなく、自作を含む「現代の音楽」を幅広い層に聴いてもらうための「ミュージック・フューチャー」というコンサートだ。9月29日によみうち大手町ホール(東京・千代田)で第1回公演を開催する。この演奏会を毎秋の恒例にする考えだ。「音楽には古い新しいではなく良い悪いしかない」と久石は話す。「現代の音楽にも良いものがたくさんある。予備知識がなくても聴いて楽しんでほしい」。「弦楽四重奏第1番”Escher”」など2つの自作を世界初演するほか、アルヴォ・ペルト、ヘンリク・グレツキ、ニコ・ミューリーの作品も披露する。「復活」と「始動」の2種類のコンサートで現代作曲家としての自らの真価を世界に問う。
さて、まずは「復活」公演のほうだ。ワールド・ドリーム・オーケストラを指揮して久石が最初に鳴らしたのは、高畑勲監督のアニメ映画「かぐや姫の物語」のサントラを基にした自作「交響ファンタジー『かぐや姫の物語』」。これが世界初演だ。日本の祭りばやし風の楽想も登場する交響詩といった感じだ。ちなみに今回の公演で演奏された作品は久石の映画音楽が中心だが、その映画を全く見ていなくても音楽を十分に楽しむことができる。特定の映像を思い浮かべないほうが、音楽が生み出す世界を堪能できるとさえいえる。それだけ音楽自体が聴衆の心に直接働きかける力を持っているのだ。
2曲目から本公演のテーマである「鎮魂の時」に入る。ここから非常な衝撃と安らぎ、そして深い悲しみの音楽が続く。まずはポーランドの現代作曲家クシシュトフ・ペンデレツキの弦楽合奏曲「広島の犠牲者に捧げる哀歌」(1960年)。久石は指揮棒を持たずに指揮を始める。いきなり弦楽器群による不快極まりない不協和音がさく裂する。金切り声、悲鳴、金属的な摩擦音などを思わせるあわゆる音階による響き。ある範囲のすべての音を同時に発生させる「トーン・クラスター(房状和音)」と呼ぶ前衛手法だ。久石は指を1、2、3本と突き立てて指揮をする。旋律といえるものはない恐怖と悲鳴の音楽を、反復の回数を示すように指揮しているのだろう。不協和音は約8分続いた。
拍手をする隙もない。続けてすぐにバッハの「G線上のアリア」が始まった。ペンデレツキの曲とは打って変わって優しさと安らぎに満ちた穏やかな旋律が流れ出す。「ペンデレツキとバッハを続けて演奏する。この2曲のつなぎに最も趣向を凝らした」と久石は指揮者として語る。世界の終わりを思わせる衝撃的なトーン・クラスターの後に、鎮魂のメロディーがいつ果てるともなく流れ続ける。久石は映画音楽のイメージが強いが、国立音楽大学作曲科に在学中から現代音楽を熱心に研究していた。自ら図形楽譜を用いて前衛的な作品を書いていた時期もある。現代音楽を知り尽くした上で映画やドラマなどの「劇伴音楽」を作曲してきたのだ。しかし今は「現代音楽で既成の価値を壊す時代ではない。人々は破壊よりも安らぎを求めている」と言う。ペンデレツキの哀歌に続くバッハのアリアはこの言葉通りの演出だった。
バッハのアリアが消えるように終わったとき、久石は客席の方を向かなかった。拍手はない。聴き手も大変な衝撃と安らぎにあっけにとられたのか、全く拍手がない。そのまま久石は足早に退場する。拍手を辞退するそぶりだ。鎮魂の音楽なのである。確かにここで拍手はふさわしくない。満席の会場が静まりかえった。黙とうの時間、鎮魂の時だ。
久石がステージに戻り、指揮台に上がった。再び指揮棒を握っている。鎮魂の時は続く。今度は自作だ。福澤克雄監督の映画「私は貝になりたい」のサントラを基にした「ヴァイオリンとオーケストラのための『私は貝になりたい』」が始まった。映画を見ていなくても、深い悲しみに包まれたワルツの旋律に胸をかき乱される人は多いだろう。どしてここまで切ない旋律を書くのか。コンサートマスターの豊嶋泰嗣が哀愁のバイオリン独奏を続ける。クラシック音楽のあらゆるバイオリン協奏曲のどんな旋律よりも悲しいと言ってもいいくらいの哀歌だ。これが、どうだろう、10分、15分と続いた気がする。
久石作品の美しい短調の旋律の音楽的ツールはどこにあるのだろう。似た曲調は確かにある。例えばニーノ・ロータの「太陽がいっぱい」の映画音楽。芥川也寸志の「八つ墓村~道行のテーマ」、大野雄二の「犬神家の一族」。菅野光亮の「砂の器~宿命」といった映画音楽も聞こえてくる。ドミートリー・ショスタコーヴィチの「セカンドワルツ」を思い起こすことも可能だろう。しかし悲しみの度合いはより一層強い気がする。どこまでも誠実に悲しみに向き合う気品のようなものが感じられるのだ。
日本の童謡や演歌、歌謡曲には短調の旋律が非常に多い。昔はみんなで長調の曲を歌っていると、いつのまにか短調に変わっていた、という話を年配者に聞いたことがある。小林秀雄は「モオツァルト」の中で短調の曲を取り上げている。モーツァルトの作品は圧倒的に長調が多いにもかかわらずだ。日本は短調のメロディー大国なのだろう。こうした環境の中から久石譲作品のような世界を泣かせる「美メロ」が生まれてくるのではなかろうか。
ハンカチで目元を押さえる女性客が見受けられた。「鎮魂の時」は終わり、その後は「風立ちぬ」や「小さいおうち」などの映画音楽が続いた。久石はこの公演が自分の音楽世界のすべてだとは思っていない。「復活」と「始動」の2種類のプロジェクトのうち、半分の「始動」での「現代の音楽」は9月に明らかにされる。
ロータやショスタコーヴィチ、レナード・バーンスタインらは優れた映画音楽を書きながら、20世紀の「現代の音楽」を作曲した。彼らのようなメロディーメーカーは同時にクラシック音楽の巨匠でもあったのだ。指揮活動を通じて「ベートーベンの中に宝石がたくさんあると思うようになった」と久石は言う。今後の照準は定まっている。「古典とつながる現代の音楽を作っていきたい」と意気込む。今回の「復活」公演での美しい旋律と入念なオーケストレーションを聴いて、「始動」への期待も膨らんだ。
(編集委員 池上輝彦)
(日本経済新聞 2014年8月26日付 電子版 より)