Blog. 「クラシック プレミアム 17 ~ベルリオーズ~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2014/08/30

「クラシックプレミアム」第17巻は、ベルリオーズです。

【収録曲】
ベルリオーズ
《幻想交響曲》 作品14a
シャルル・ミュンシュ指揮
パリ管弦楽団
録音/1967年

序曲《ローマの謝肉祭》 作品9
マリス・ヤンソンス指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音/1991年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第17回は、
「発想記号の使い方について」

「音楽を伝える」というテーマでエッセイが続いているなか、今号では音楽記号のなかの発想記号(強弱記号や表記記号など)を取り上げながらお話は続きます。

そして9月3日に行われるコンサート「久石譲 × 京都市交響楽団」において演奏プログラムに予定されているのが、チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 op.74 「悲愴」です。その準備段階のなかで執筆された今号のエッセイ内容ということになります。

一部抜粋してご紹介します。

 

「《悲愴》は9月3日に京都市交響楽団と演奏するのだが、久しぶりのチャイコフスキーである。ミニマルではないがあの怒涛のごとく押し寄せるフレーズのくり返しや美しいメロディーの中の沈黙、そして金管の咆哮は意外にも得意かもしれない。」

「その中で強弱を伝える記号には実は二つの側面がある。一つは物理的な意味での音量として、もう一つは心情的な意味での記号だ。例えばpは、物理的には弱く演奏するのだが、別の側面はfではなく、ということでもある。つまりfと書くと音量的な強さだけではなく力強く演奏される危険があり、あくまで優しく包み込むようなメロディーを歌う場合はpあるいはmp、mf、meno f(メノ・フォルテ=それほど強くなく)など作曲家によって様々な表現を用いる。ドビュッシーの場合はあのアンニュイな表現のためp、ppなどが多用されている。だからそのまま物理的に演奏したらまったく他の音に消されて聞こえなくなる場合も多い。」

「その点チャイコフスキーはかなり物理的な記号として書いている。《悲愴》の冒頭は6小節のテーマを2回ファゴットが演奏するのだが(それをコントラバスと後半でヴィオラが支えるというかなり大胆なオーケストレーションですばらしい)、1フレーズずつpp、p、mp、sf(スフォルツァンド=特に強く)、pと書いた上にそれぞれクレッシェンド、デクレッシェンドがついている。要は6小節にわかり、波のようにうねりながら段々盛り上がり、最後には自問するかのように小さくなるということなのだが、かなりしつこい。チャイコフスキーの性格が垣間見えるようだが、物理的な記号を駆使しながら感情的なものを伝えようと試みている。これが全楽章にわたって細かく書いてあり、あの有名な第4楽章の哀歌(個人的にそう思っている)に繋がるのである。」

「このように作曲家によって発想記号の意味はかなり異なっているのだが、彼等はその曲を作ったまたその先の理由を発想記号に込めて書き込む。音だけでは出来なかったことを含めて。」

 

エッセイ本文では、ほかにもベートーヴェンやマーラーの表情記号にも触れられていて、作曲家ごとに譜面の書き方、つまりは発想記号の書き方に特徴があること、その先の音楽の伝え方に個性が現れていることがわかります。そして自ら作曲した曲に、譜面のなかで、音符以外の記号(発想記号)を記すことで、その想いを伝える。

さらには誰が指揮をしても、誰が演奏しても、ある程度作曲者の意図をくみとり、音楽の再現性を実現するための記号。一概に譜面といっても、奥の深さを感じました。

またそれは同様に「文字」にも言えることなのかもしれません。目に入ってくる「文字」はあくまでも無機質なものであり、その単語・文脈・表現方法などによって、イメージをふくらませる。

記録としての文字や譜面の役割。媒体としての文字や譜面の役割。媒体には、発信元と受信先があるので、作曲家と聴衆の関係性としたときに、音によってなにかが触れ、揺れる。

そんなことを考えながら興味深く読んだ今号のエッセイでした。

 

久石譲という作曲家が解説するクラシック。
久石譲という指揮者が解説するクラシック。

それをコンサートで聴くことができるわけですから、今号のエッセイを頭に入れて同曲を聴けるのは贅沢かもしれませんね。

 

 

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