Posted on 2018/09/09
「週刊朝日 1998年10月2日号」の人間万歳コーナーにて5ページにわたってカラー特集されました。写真は「醍醐寺音舞台」コンサートのステージ風景などが大きく掲載されています。
ピアノと椅子との距離40センチへのこだわり、北野武監督が語る久石譲、いい曲が残るということ、むき出しの貴重な内容です。
人間万歳 NINGEN BANZAI
40センチの音楽創造 作曲家 久石譲
宮崎駿監督の「もののけ姫」、北野武監督の「HANA-BI」など、いまや日本を代表する映画には、この人の音楽が欠かせない。作曲家、久石譲(47)。コンサートでも、レコーディングでも、ピアノといすとの距離は常に40センチ。ストイックなまでに優れた音を求めてやまない久石の音楽へのこだわりとは──。
北野武は、久石を評して「聖人か君子かもしれないな」と言う。二人は、北野の三作目「あの夏、いちばん静かな海。」(91年)以来コンビを組み、ベネチア国際映画祭金獅子賞の「HANA-BI」の音楽も彼が担当した。そのほか映画音楽を手がけているのは、宮崎駿、大林宣彦、澤井信一郎と、名監督の作品ばかり。だが、いずれの監督も相当クセがある。
特に北野の場合、撮影中に脚本が変更になるのは当たり前。打ち合わせをしても、撮影後に「もう一度イメージの折り合わせを」ということになる。加えて、共同作業というわけではないらしい。
「いつも『さあ、この場面に音楽をつけてみやがれ!』といった挑発的な姿勢でやってきたので、自分の撮ったシーンと久石さんの音楽が、ある意味ケンカしているようになることもある」(北野)
こんな作業を毎回繰り返しても久石は笑顔で仕事を引き受け、しかも「お手並みには感服させられる」と北野が舌を巻くのだから、まさに彼にとっては、”聖人”となるのかもしれない。
しかしその素顔は、聖人と呼ぶには程遠い険しさに満ちていた。
それは、新作ソロアルバム「NOSTALGIA PIANO STORIES III」のレコーディングでのこと。毎回、久石担当の調律師がピアノの音を調節する。彼が最後に行うのが、測量メジャーを取り出し、ピアノの鍵盤といすの距離を測ること。約40センチ。この距離について久石は言う。
「一種のバロメーターみたいなもの。体調が悪いと、演奏するときにどうしても前かがみになるから、ピアノの鍵盤と顔の距離が近くなる。鍵盤といすとの距離をいつも同じにしておけば、『今日は調子が悪いな』とかわかるからね」
そして演奏が終われば、さっと両手に白手袋をはめ、たばこを吸うときでさえはずさない。聞けばレコーディングの期間は、重い荷物も、持たないのだという。極力、演奏以外のことで両腕に負担をかけないよう注意している。
いい曲が残るのが大切
「いい音楽を作るということと、自分が幸せになるということは、全く別のことです。極端にいえば、音楽を作るうえでは世界中の人に嫌われてもいいと思ってる。ウチのスタッフにもよく言うんです。『死ね』って。死んでもいいんだ、オレがいい曲を書ければ。それは、オレが書いたということが大事じゃなくて、 そこにいい曲が残るということが大切なんですよ。」
とにかく、音楽一筋の人なのだ。バイオリンを習い始めたのが4歳のとき。音楽好きでクラシックから歌謡曲まで空気を吸うのと同じくらい音楽に浸り、ごく自然に音楽の道を志したという。
もともとの志望は、現代音楽の作曲家。映画やドラマの仕事は当初、「収入のため」という要素が強かったようだ。もっとも、バイオリンを手にしたころ、父親に連れられ、年間約300本も映画を見ていたというのだから、歩むべくして歩んできた道なのだろう。
「でもね、基本的に映画音楽というのは、自分の仕事の中の半分がベストで、それ以上はやりたくない、映画の仕事が2、3本続くと飽きちゃうんですよ。だからといって歌手のプロデュースも年に一枚しか作りたくないと思うし、ソロアルバムの制作で『自分が、自分が』とやっていると、世界が狭くなってしまう。だからそれらを交互にやるのが、精神安定上もっともいいんですけどね(笑)」
その言葉が示すように、今年は長野パラリンピックの総合プロデューサーを務めるなど、一音楽家にとどまらぬ活動をしている。西田ひかるのアルバムのプロデュースをしたり、9月5日は京都・醍醐寺で、フランスやイギリスからアーティストを招き、「醍醐寺音舞台」と題したコンサートの演出も手がけた。実に忙しい。
「五十歳で引退」を公言
そのためコンサートでは、直前まで手がけたソロアルバムの楽譜書きで、両腕が腱鞘炎になったままステージに立った。両腕のひじから手首にかけて湿布を張り、鍵盤に顔を近づけながら、ピアノのソロ演奏も披露した。
「やっぱり、ちょっと働きすぎかな(笑)。でも、演奏家としては悔いの残るステージだけど、演出家としては満足しているから」
ところで久石は、「五十歳で引退」を公言している。といっても音楽活動をいっさいやめてしまうわけではなく、自分の好きな音楽のみを作り、「お金を頂いて作曲するのはやめよう」ということらしい。
「やっぱり映画音楽をやっていたりすると、ビジュアルというのが自分のなかで大きくなっている。例えば音と映像、音と舞台のようにトータルに何かできないかと。まっ、来年は集大成を作りますから。”何か”は、ヒミツです(笑)」
(週刊朝日 1998年10月2日号 より)