Posted on 2018/08/08
スタジオジブリ小冊子「熱風 2018年6月号」に掲載されたものです。《特集/追悼 高畑 勲》のなかで5ページにわたって綴られています。5月15日に開かれた「高畑勲 お別れの会」でのお別れの言葉にも通じる内容になっています。
宮崎駿監督、大塚康生さん、小田部羊一さん、マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督は、「お別れの会」で語られた言葉が再録されています。
特集/追悼 高畑 勲
またいつか、どこかで 久石譲
『かぐや姫の物語』を作っていたときのことです。ダビング作業の合間に、僕が翌月指揮をしなければいけないブラームスの交響曲第3番のスコアを見ていると、ふいに高畑さんがやってきました。「それは何ですか?」と言ってスコアを手に取ると、第4楽章の最後のページを開いて、「ここです。ここがいいんです」とおっしゃいました。
第1楽章のテーマがもう一度戻ってくるところなんですが、そういうことを言える方はなかなかいない。少なくとも僕はそういう監督に会ったことがありません。それぐらい高畑さんは音楽に造詣が深かった。
高畑作品を見ていると、どれも音楽の使い方がすばらしいですよね。たとえば、『セロ弾きのゴーシュ』。よくあの時代に、あそこまで映像と音楽を合わせられたなと思いますし、『田園』(ベートーヴェンの交響曲第6番)から選んでいる箇所も絶妙なんです。音楽を知り抜いていないと、ああはできません。
『ホーホケキョ となりの山田くん』では、音楽で相当遊んでいます。マーラーの5番『葬送行進曲』を使ったかと思ったら、急にメンデルスゾーンの『結婚行進曲』がタタタターンと来る。あの映画は音楽通の人にとっては、見れば見るほど笑えるというか、すごい作品です。
すべての作品で、使うべきところに過不足なく音楽が入っている。作曲家の目から見ても、音楽のあり方が非常に的確なんです。世界を見渡しても、こんな監督はいないと思います。
論理的な楽天主義者
高畑さんと初めてお会いしたのは、『風の谷のナウシカ』のときでした。もちろん音楽のミーティングには宮崎さんも出席されましたが、作画のほうが忙しかったこともあって、音楽のほうは主にプロデューサーの高畑さんが見ていらっしゃいました。7時間以上の長時間のミーティングはあたりまえ。それを何回も何回も繰り返して、「いったいどこまで話すんだ」というぐらい音楽の話をしました。
高畑さんは論理的な方だから、必ず「なぜ」を聞きます。「なぜ、ここはこのテーマなのか。こっちでいいんじゃないですか」「いやいや、ここはぜったいこのテーマです」。何度も話し合いをしました。たぶん、僕も譲らなかったんだと思います。そうやって、一所懸命、高畑さんと戦って、『ナウシカ』の音楽はできました。
そのときのことを高畑さんは後年、「久石、宮崎両氏の出会いがいかにしあわせな”事件”であったかを思わずにはいられない」と書いてくださいました。
続く『天空の城ラピュタ』では、主題歌「君をのせて」を作るにあたって、まず宮崎さんからいただいた詞がありました。それをメロディにはめていく作業を、高畑さんと二人で何日もやったことを覚えています。いまでは世界中の人から愛されるようになったあの歌は、宮崎さんと僕、そして高畑さんがいなかったら、生まれていなかったのです。
図らずも最後の作品となった『かぐや姫の物語』で、初めて高畑作品の音楽を担当することになりました。
最初にラッシュを見せてもらったとき、かぐや姫が月に帰るクライマックスシーンの話になりました。高畑さんは、子どもみたいに笑って、「これはまだプロデューサーにも言ってないんだけど、サンバで行こうと思っているんです」とおっしゃいました。こちらは「え!?サンバですか」とびっくりです。普通に考えれば、お別れの場面ですから、悲しい音楽を想定します。ところが、高畑さんはそうは考えない。
月の世界には悩みも苦しみもない。かぐや姫も月に帰ったら、地上で起きたことをぜんぶ忘れて幸せになる。そういう悩みのない”天人”たちの音楽はなんだろうかと考えたとき、地球上にある音楽でいえばサンバになる──というのが高畑さんの発想でした。
非常に論理的に詰めていった上で、サンバへと飛躍する感覚的なすごさ。われわれ作曲家もそうですが、多くの人は、論理的な思考と感覚的なものとの間で葛藤しながら、ものを作ります。でも、高畑さんはそこの折り合い方がすごく自然で、自由だったんだと思います。
その自然さはどこから来るんだろうと、ずっと不思議に思っていたんですが、あるとき高畑さんがこうおっしゃったんです。「僕はオプティミストなんですよ。楽天主義者だから、楽しいことが大好きなんです」。それで、「ああ、なるほど」と納得しました。楽しいこと、おもしろいことに対して素直に喜ぶ。そこに基準を置きながら、論理的、意識的な活動と、感覚的なものを両立していた。それが高畑勲という人だったんじゃないでしょうか。
『かぐや姫の物語』は、映画音楽への向き合い方という意味で、僕にとって大きな転機になった作品でもあります。
高畑さんは、その前に僕が書いた『悪人』の音楽を気に入ってくれていました。「登場人物の気持ちを説明するわけではなく、シーンの状況にも付けない。観客のほうに寄っている音楽のあり方がいい」。そうおっしゃっていました。だから、『かぐや姫』に取りかかるときも、「あれと同じように、観客の感情を煽らない、状況にも付けない音楽を」と言われていたんです。
その前も多少は気をつけていましたが、それをきっかけに僕の中でスタンスがはっきりと変わりました。いわゆる普通の映画音楽は、登場人物が泣いていたら悲しい音楽、走っていたらテンポの速い音楽というように、状況に付けて、観客の感情を煽ります。でも、『かぐや姫』を作っていく中で、そういうことはいっさいやめて”引く”ようになったんです。観客が自然に映画の中に入っていって感動するのをサポートするぐらいでいいと考えるようになりました。それまでの僕のやり方は、もう少し音楽が主張していたと思うんですけど、主張の仕方を極力抑えるようになりました。
近年のハリウッド映画などは、あまりにも状況にぴったり付けることで、映画音楽が”効果音楽”に陥っているものも多いですよね。でも僕は、映画音楽にもある種の作家性みたいなものが残っていて、映像と音楽が少し対立していたほうがいいと思うんです。映像と音楽がそれぞれあって、もうひとつ先の別の世界まで連れて行ってくれるようなものが理想。高畑さんはそういう部分も尊重してくれました。
最初のうち、高畑さんの言わんとしていることを理解するまでは大変でしたけど、途中で、「あっ、ここだ」というポイントを掴んでからはスムーズに進むようになりました。最後はほとんどあうんの呼吸のようになって、ニコニコと「それでいいです」と言ってもらえることが増えた。
だから、できることなら、もう一、二本撮っていただきたかったし、できることなら一緒にやりたかった。残念ながら、それは叶いませんでしたが、高畑さんとの仕事で掴んだ方法論は、いまも僕の中で活きています。
磁石のような、羅針盤のような存在
高畑さんは僕のコンサートもよく聴きに来てくれました。「ミュージック・フューチャー」という現代の最先端の音楽を紹介するコンサートにも足を運んでくださったんですが、終わった後の感想が的確すぎるぐらい的確なので、怖いぐらいでした。「どうしてこういう楽曲になったのか」という論理構造を持たないものは、スパッと見抜かれてしまうんです。
「Young Composer’s Competition」という若い作曲家から作品を募集する企画では、審査員も務めていただきました。すでにご病気が進んでいたはずですが、引き受けていただいて、本当に感謝しています。そこでも、やはり高畑さんはきちんとした構造を持っている作品を選んでいました。
去年は長野で現代音楽のコンサートをいっしょに聴き、対談もしました。話すたびに音楽に対する深い知識に驚かされました。
僕の中で高畑さんは、「大きな磁石みたいな人」というイメージがあります。ドンとそこにいるだけで、まわりに才能のある人が集まってきて、いろんなことが始まっていく。押しつけがましくしているわけじゃないのに、なぜか人を引き寄せる。
高畑さんの中には膨大な引き出しがあって、その中で考えたあらゆることを駆使して、ひとつひとつの決断をしていく。しかも、オプティミストとして、軽やかなスタンスでそれをやっている。僕にとって、宮崎さんが憧れの”お兄さん”のような人だとしたら、高畑さんは”理想の人”です。
僕は仕事や人間関係や、いろんなことで悩むとき、よく「宮崎さんだったらどうするだろう」「鈴木敏夫さんだったらどうかな」「養老孟司先生だったらどうするだろう」と考えます。そのとき最後にはやはり「高畑さんならどうするだろう」と考える。
僕の中では、思考するときの羅針盤みたいな存在なんです。論理的なものと、感覚的なもの。自分はいまどちらを取ろうとしているんだろう? 高畑さんならこっちだろうか? そうやって考えているとき、いつも決まって浮かんでくるのは高畑さんの笑顔です。そうすると、何だか希望が湧いてきて、次の自分の行動が決まります。
そういう意味では、高畑さんは、僕の中ではいまも生きています。
無名だった僕を『ナウシカ』で起用していただいてから35年。今日の僕があるのは高畑さんのおかげです。長い間、本当にお世話になりました。いっしょに仕事ができたことを誇りに思っています。心からご冥福をお祈りします。でも、お別れは言いません。またいつか、どこかでお会いしましょう。
(作曲家 ひさいし・じょう)
(スタジオジブリ小冊子「熱風 2018年6月号」より)
なお、「ジブリの教科書19 かぐや姫の物語」(文春ジブリ文庫・2018年刊)にも同内容(別編集)で収録されています。
熱風 2018年6月号
[目次]
特集/追悼 高畑 勲
高畑 勲を偲んで(宮崎 駿)
映画製作の喜び知った瞬間/最期の外出(鈴木敏夫)
悔しくて悔しくてしょうがない(大塚康生)
パクさん戻ってきて下さい(小田部羊一)
またいつか、どこかで(久石 譲)
高畑さん(マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット)
「視座」としての、高畑映画。 ――畏友・高畑 勲さん、有難う。(大林宣彦)
どうしてもしたかった会話(池澤夏樹)
最初で最後のデート(二階堂和美)
お悔やみ(ユーリ―・ノルシュテイン)
追悼・高畑 勲監督(太田 光)
『漫画映画の志』のこと(井上一夫)
「どこか宇宙人のような感じがする人」(貝の火)
ご挨拶(高畑耕介)
連載
第10回 丘の上に小屋を作る(川内有緒)
~小屋を建てる工法を考える~
第14回 海を渡った日本のアニメ
私のアニメ40年奮闘記(コルピ・フェデリコ)
――外国人差別と心の傷
第9回 ワトスン・ノート~語られざる事件簿~(いしいひさいち)
第5回 十二の禅の言葉と「ジブリ」(細川晋輔)
――「当処即ち蓮華国」と「火垂るの墓」
第17回 グァバよ!(しまおまほ)
――お母さん、明日だいじょうぶ?
第10回 シネマの風(江口由美)
――[今月の映画]『レディ・バード』
第26回 日本人と戦後70年(青木 理)
――[ゲスト]古賀 誠さん
執筆者紹介
ジブリだより / おしらせ / 編集後記