Blog. 「キーボードスペシャル 1994年2月号 NO.109」 久石譲とRoland SH-5 内容

Posted on 2019/01/10

音楽雑誌「キーボードスペシャル 1994年2月号 NO.109」に掲載された久石譲インタビューです。「なつかしのファースト・キーボード」コーナーに登場した回です。

 

 

KEYBOARD FILE No.38
なつかしのファースト・キーボード
1st KEYBOARD

久石譲とRoland SH-5

『風の谷のナウシカ』をはじめとした数々の映画音楽を手がけ、多くのファンを持つ作曲家でありキーボード・プレイヤーである久石譲さんが、現代音楽に夢中だった青春時代に初めて手にした機種は…? 華麗なる音楽キャリアとともに語っていただきましょう。

 

とてもフィットした現代音楽

僕は4歳の頃からバイオリンを始めたんですけど、すごく音楽が好きな子どもで、3~4歳の頃から毎日いろんなレコードを聴き漁っていたんですね。それで、ある日、楽器屋の前を通ったときにバイオリンが目に入って”これをやりたい”と思ったんです。

バイオリンは小学校の高学年まで続けたんですが、週1回レッスンに通っていたところでオルガンやピアノも同時に教わっていました。あくまでも付属的だったんですけどね。そのあとはしばらくブランクがあって…中学のときにブラスバンドはやっていたんですが…中学3年のときに”音楽大学に入りたい”って思って、もう1回すべてのレッスンをスタートさせたんです。

その頃はクラシックにいちばん興味が向いていて…当時は、日本で言えば武満徹であったりとか、ジョン・ケージだったりとか、そういう現代音楽を中心に聴いていました。ポップスは、やっぱり僕らの世代はビートルズで、好きだったし聴いてましたね。高校に入った時点で、ベーシストやドラマーを志すヤツがひとりでもいたら、いまみたいな道にはたぶん行ってなかったと思う(笑)。幸か不幸か、いなかったんですよ。それでけっきょく現代音楽にドップリとのめりこんでいっちゃって。ロック・バンドを組んで活動したことがないんですよ。困ったことですね(笑)。

現代音楽へのとっかかりは…なんていうのかな…”こうやっても音楽になるんだ”みたいな感覚がすごく刺激的で、現代音楽というのはそういう世界でしたからね。最初は、不協和音聴いて”なんなんだコレは?”って思ったんだけれど(笑)やっていくうちに、それが自分にはすごくフィットすることに気づいて。

 

衝撃のテリー・ライリーとの出会い

音楽大学を志望したのも”現代音楽をやりたかったから”というのがいちばんの理由で、クラシックを勉強するというよりは、音楽をやる連中が集まる場に行きたかったんですよ。見事に違いましたけどね(笑)。作曲を志す人間が何人もいれば「もうバルトークなんか古い!」って言って、当然のようにジョン・ケージだとかクセナキスだとかペンデレツキとかっていう話をすると思っていたんだけど、みんな知らないの(笑)。だから、えらくギャップがあって。

そんなある日、テリー・ライリーの「レインボウ・イン・カーブド・エア」という曲を友人に聴かされて、すごいショックを受けて、しばらく悩んで、ミニマルな作風に変えたんです。「レインボウ・イン・カーブド・エア」はドイツに”カーブド・エア”というバンドがあったぐらいで、プログレをやっていた連中…とくにロックをやっていた連中には、ものすごい影響を与えたんですよね。だから、タンジェリン・ドリームにしてもクラフトワークにしても、みんな根っこは同じですよね。

 

SH-5を買った理由はミニマル音楽に合うと思ったから

当時、僕のメイン・インストゥルメンツはオルガンでした。それもハモンドですね。ミニマル系のバンドをやっていたとき、ローランドからちょうどシンセサイザーが出始めたんですよ。ミニマル音楽というのは同じフレーズを繰り返すもので、それを全員でオルガンでやっていたんだけど、もう少し音色のチェンジが欲しいなと思っていたところにシンセが出てきたんですよ。それで、ローランドのSH-5とかストリングス・アンサンブルとかを導入していって、シンセサイザーとも、わりと自然とつながっていったんです。

ホントは、SH-3をいちばん最初に買ったはずなんだけど、あまり印象になくて。だからSH-5が僕にとっての1st Keyboardと言えますね。22歳くらいのときに買って、ずいぶん長いこと使っていましたし。その前からハモンドは使ってて…僕が持っていたのはSH-5とほぼ同時期に買った小さいタイプのものだったんで、コンサートのときは2段鍵盤の足つきのやつを借りてました。あとはね、けっこうピアノの内部奏法が多かったんですよ。ピアノの弦のあいだにゴムとか洗濯バサミとかはさんで弾くという。それとね、ドラをスーパーボールでこすると不思議な音がするんです。そういう得体のしれない打楽器とかの音色は、ずいぶん使ってました。

SH-5を選んだ理由は…当時、同じような機種がコルグからも出ていたと思うんですけど、僕にとってはローランドの音はミニ・ムーグに近い感じがして、コルグの音はアープのオデッセイの音色の華やかな感じに近い感じがしたんですよ。で、僕がやっていたミニマルにはローランドのほうが合うだろうと思って。そんなに機種がたくさんある時代じゃなかったんで、それほど選択の余地はなかったんですけどね。

SH-5は2VCOのモノフォニックで、それをなんとかポリ風に聞かせるテクはないかということで(笑)かなり苦労した思い出があります。たとえばアルペジオ風にうんと速く弾いて、それでなんとか和音的なものが出たようなフリをするとか。そんな苦労をしてました。

 

Prophet-5とフェアライト

その頃からスタジオでアレンジの仕事をやっていたから、だんだんと機材も増えていって、その次に買ったのがProphet-5。あ、SH-5レベルでの似たような楽器はいくつも買ったんですよ。ステップ・アップという意味で買った楽器がProphet-5とリンのドラムと、シーケンスとしてMC-4。それが3種の神器みたいな感じで(笑)。当時、みんなそうだったと思うんだけど。そこにDX7が入ってきて、そのレベルでの周辺機材がふえていったって感じでしたね。

ちょうど『ナウシカ』(映画『風の谷のナウシカ』サントラ)を作った頃ですかね、あるアレンジャーでギタリストの人の家でフェアライトに出会うんです。それで、うなされるほど欲しいと思って…一千何百万とか言われたんですけど、清水の舞台から10回くらい飛び降りたつもりで(笑)フェアライトIIを買ったんです。

 

現代音楽からポップスへ…

話が前後しますけど、国立音大に入学したものの、僕は突出した存在で、先生からも「授業に出なくていい」って言われちゃったんです。授業でやることは全部わかっていたんですよ。で、先生は困っちゃうわけですね。それで「単位はあげるから出ないで」って(笑)。だから、学校には行かないわりに成績よかったんです。

卒業したあとも就職するつもりはなくて、音楽のことしか考えていませんでした。4年生の頃からスタジオでの仕事をやっていたから”このラインでやっていくな”という予感はありました。メインはあくまで現代音楽なんですけどそれはお金を稼げる世界ではありませんから。

20代は、ミニマルのアンサンブルを作って、定期的なコンサートを開いたりとか…そのあたりから、オルガンなんかを使っての本格的なコンサートは多くなったんです。もちろん、小さいところでのものでしたけど。そういう活動を続けながら、片方ではレコーディングのアレンジとかをどんどんやっていきました。

転機となったのは30歳くらいのときで…当時打楽器アンサンブルを中心にしたユニットも組んでいたんですが、そこの打楽器だけを独立させて”ムクワジュ”というグループを作ったんです。そのムクワジュとしてコロムビアから日本初のミニマル・アルバムを出すことになるんですが、その段階で、クラシックの世界に身を置いていたことが、なんか違うんじゃないかと思い始めちゃったんです。というのは、超前衛音楽なのに、それをやっている人たちは前衛的な新しい思考を持っていなかったからなんです。それで”こういう状況からは、絶対新しいものは生まれない”と思っちゃったんですよ。それでフッと横を見たら、ロキシー・ミュージックからはブライアン・イーノが出てきて、で、クラフトワークもいてという状況になっていたわけですよ。彼らはロックをベースにして登りつめてきてミニマル的なことをやってて、僕は現代音楽のほうからきてミニマルをやってたんだけど、両者のやっている内容はそんなに違わなかったんですよ。それなら飛んじゃったほうがいいやと思って。ポップスというフィールドがすごく新鮮に見えたんですよ。ポップスの世界に行ったほうが、よりアヴァンギャルドなことができると思ったんです。で、僕は不器用なもので、ふたまたをかけることができなくて、ポップスの世界に入ったときからクラシックの作品を書くのはやめたんです。

 

いろいろなことが起こった1984年

それで、JAPANレコードから最初のソロ・アルバムを出したんだけど…当時、矢野顕子さんとかP-MODELとかムーンライダーズとか、前衛っぽい人たちがいっぱいいたレーベルだったんで、いいなと思って僕も契約したんですけど売れなくてね(笑)。困ったなあと思ってたら、JAPANレコードが徳間JAPANというレコードになったんです。で、社運を賭けて『風の谷のナウシカ』というアニメーションをやることになって、たまたま僕のディレクターが推薦してくれてイメージ・アルバムを作ったら、(原作者の)宮崎駿さんがすごく気に入ってくれて、そこからいわゆるメジャー路線っていうか(笑)、暗いミニマル路線から、いきなり”メロディ・メイカーの久石譲”となっちゃったんです。

『ナウシカ』が公開されたのは84年だったんですけど、あの年はいちどにいろんなことが起こりまして、映画では薬師丸ひろ子の『Wの悲劇』を担当して、アレンジでは井上陽水の『9.5カラット』をやって、CMではカネボウの男性化粧品のハシリだった商品を手がけて。それまで全然実績がなかったのに各分野でNo.1をとっちゃったんです。

それを契機にポップスの世界でどんどん仕事をしてきて、今年は『水の旅人』のサントラや中山美穂さんとの仕事もしました。いまは次のソロ・アルバムにとりかかっているところで…ホントは(93年の)2月に出るはずだったんですけどね(笑)。あとは4月から始まるNHKの朝の連続ドラマの音楽を担当することになったんで、並行しながらグジャグジャとやっているところなんです(笑)。

(キーボードスペシャル 1994年2月号 NO.109 より)

 

 

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