Blog. 久石譲 「日本経済新聞 入門講座 音楽と映像の微妙な関係 全4回連載」(2010年) 内容紹介

Posted on 2015/4/23

2010年日経新聞夕刊に全4回連載された入門講座「音楽と映像の微妙な関係 久石譲」です。

この連載では、久石譲が映画音楽について語っています。しかしながら、そこには自身が手掛けた映画音楽ではなく、他の映画作品、他の映画音楽をテーマに考察しています。登場する作品は、『ベニスに死す』『グラン・トリノ』『2001年宇宙の旅』『アバター』新旧織り交ぜた不朽の名作たちばかりです。

どういう視点で映画および映画音楽を見ているのか?今日の日本映画音楽における巨匠ともなっている久石譲による貴重な映画音楽講座になっています。末尾に、雑誌インタビューで語っている「グラン・トリノ」や「2001年宇宙の旅」の話も紹介していますので、興味のある方はご参照ください。

 

 

 

音楽と映像の微妙な関係 1

映画音楽は映像の伴奏ではない__。宮崎駿監督らの作品を華麗な旋律で彩ってきた作曲家、久石譲さんは明確な信念を持つ。古今の名作を検証。映画音楽の神髄が表れたケース、逆に表現が萎縮した例などについて熱く筆を振るう。

 

「かけ算」の美学に昇華

「普通の音楽と映画に付ける音楽とは何が違うんですか?」
インタビューで受ける質問ベスト10ではかなり上位に入る。

「”ふつう”の音楽はそれだけで100%、映画なら映像と音楽を足して100%になるようにします」などと答えているが、人間は「百聞は一見に如かず」というくらい視覚のインパクトが強いので聴覚側の音楽はやはり肩身が狭い。理想は「映像と音楽が100%ずつ発揮したうえで成立する映画」なのだが、そんな不可能なことを可能にした作品を僕は知っている。

『ベニスに死す』だ。
音楽はグスタフ・マーラー、監督はルキノ・ヴィスコンティ。もちろんマーラーがこの映画のために書いたのではなく交響曲第5番の第4楽章アダージェットとして書かれた名曲を使用しているので厳密に言えば映画音楽ではない。が、まちがいなくここでは映像と音楽が足しあうのではなく、かけ算にしてみせて我々の度肝を抜くのである。

といっても、派手なものではなく冒頭の船のシーンを観るだけでわかるように、マーラーの切々とした孤高の音楽と画面の隅々まで神経を配った無駄のない映像が、晩節を迎えた老作曲家を通し人間というものを、人が生きるということを描くのではなく深く体感させるのである。

以下具体的に見ていくと音楽の入っている箇所は約12カ所でそのうちこのアダージェットが5カ所、しかもかなり長く使用している。他はホテル内での生演奏や教会の賛美歌、広場の流し芸人や美少年の弾く「エリーゼのために」などで、状況内音楽が多い。状況内音楽とはそのシーンのどこかで流れているであろう音楽のことだ。例えば喫茶店で流れるクラシック音楽、飲み屋さんの演歌、野球場での応援歌などで映像の一部に映っていることも多いので無理なくドッキングする。

それに対する状況外音楽が我々の言う映画音楽で日常流れることはあり得ない。つまり映画音楽というもの自体が不自然で非日常なのだが、映画自体がフィクション(作りもの)なのだから映画音楽が最も映画的というレトリックも成り立つ。この場合アダージェットがそれに相当する。他にマーラーの歌曲と思われる(残念ながら失念)曲も重要だ。

トーマス・マンの原作では主人公グスタフ・アッシェンバッハは老作家なのだが映画では老作曲家に変更している。しかも風貌を含めて限りなくマーラーのイメージに近づけていて追い打ちはマーラーのアダージェットなのである。これではこの主人公がアダージェットの作曲家であるグスタフ・マーラーだと言わんばかりなのだが、このイメージをダブらせるような演出こそが最大のトリックであり最大の映画的効果なのである。ヴィスコンティ恐るべし。

次回はイーストウッド症候群というプロの映画音楽家を絶滅させんばかりの強いウイルス性を持つクリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」を検証する。

(日本経済新聞(夕刊)2010年(平成22年)4月1日付 夕刊文化 より)

 

 

音楽と映像の微妙な関係 2

「監督、この殺人シーンの音楽どんなイメージですか?」
「うーん、やっぱりミスティック・リバーみたいな感じですかね」。

「ラスト、ヴォーカル入ってもいいですね、グラン・トリノみたいな」と僕。吉田修一原作、李相日監督の「悪人」という映画の音楽打ち合わせの会話である。そして話題に挙がった2本ともクリント・イーストウッドの作品だ。

「許されざる者」から最新作「インビクタス」までこれといった派手な仕掛けはなく淡々としているのだが細部に神経が行き届き、やたら感情を煽るでもないのだが深く感動させる。御年79歳、このところ精力的に映画を発表している最も旬な監督である。

それはいいのだが、大きな問題がある。音楽がヘタウマなのだ。良く言うと素朴、悪く言うと素人っぽい。白たま(全音符のこと)にピアノがポツポツみたいな薄い音楽が主体だから映像を邪魔するようなことはない。しかも監督自ら作曲することが多いので映像と音楽の呼吸感も見事なものだ。だがそれは両方兼業(特に近年)する彼にしかできないことで、修練を積んで来たプロの作曲家にヘタウマ風に書けと言っても無理なのだ。この手の音楽が主流になったら大変、そこで「グラン・トリノ」を検証してみる。

 

絶妙な抑制の響き

全部で23曲、冒頭のクレジットに流れるメインテーマはフレットレスベースのシンプルなメロディーでこの映画の音楽の要である。正直僕はこの手の先の読めるメロディー、つまりあるフレーズがありそれが和音進行に従いお決まりのコースを辿るのが嫌いだ。やれやれと思いながら見ていくと、その後インストゥルメントで、歌詞なしのスキャットで、そして歌でと6シーンにわたって流れるのだが、だんだん良く聞こえてくるのである。特にラストシーンではイーストウッド自身が1コーラス渋く歌いそのままジェイミー・カラムの歌でエンド・ロールに繋がっていくところが感動的なのだ。うまい、ちょっと参った。

原因はやはりシンプルなメロディーにある。冒頭に流れたものがストーリーの進展とともに成長していくのである。これは誰も意識してないのに確実に情動を煽る。しかもイーストウッドの場合は下品ではない。むしろ抑制を利かしている分、映画全体の品格を上げている。この他には計6回使われるサスペンス調の曲と悲劇的な曲で、以上が状況外音楽いわゆる映画音楽だ。後は基本的に先週説明した状況内BGMで、アジアン暴走族の車からのラップ、隣家の室内シーンの民族音楽などだ。

確かに映像と音楽の関係は両者を生かし素晴らしい作品となっている。が、基本的には映像を邪魔しないものに主眼が置かれているのは「映像と音楽は対等であるべきだ」と考えている僕にはやはり物足りない。

そう考えているとき「悪人」の劇場用5.1サラウンドミックスの音楽がリテイクになった。原因はエコーを多用し包み込むような優しい音響にし過ぎたせいだ。そうイーストウッドの映画のように。李監督は「録音のときの弦のすさまじい音が忘れられないんです。つまりイーストウッドというより久石さん風ですかね」。未来の大監督は清々しく笑った。

次回は巨人中の巨人、スタンリー・キューブリックを検証する。

(日本経済新聞(夕刊)2010年(平成22年)4月8日付 夕刊文化 より)

 

 

音楽と映像の微妙な関係 3

わかりやすいということは決して良いことではない。難解な映画や音楽、絵画などに接したとき「これは何?」という畏怖にも似た疑問がおこる。だから頭を働かせる。わかろうとするからだ。あるいは自分の感覚を最大限広げて感じようとする。そこにイマジネーションが湧く。もちろん優れた作品であることが前提だ。何も大衆性を否定しているわけではない。その両方がない作品に接する時間ほど無駄なものはないと考えるのだが、作る側としてはそのさじ加減が難しい。

スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」はその答えの一つである。冒頭の古代の人猿から有名な宇宙を航行する宇宙船のシーン、そして舞台は月に移りコンピューターのHALが暴走し、その後木星に行く。謎の物体「モノリス」をめぐる展開だが一貫した主役はなく各シークエンスも関連性に乏しくわかりづらい。最初予定していた解説やナレーションをキューブリックが過剰な説明は映画からマジックを奪うと考え削除したせいもある。僕は最初これは映画ではないとさえ思ったのだが、何度か見ていくうちに映像と音楽の関係性に圧倒され、今では僕の「名作中の名作」である。マーラーやブルックナーの交響曲のように何度も接しないと良さはわからないのだ。

 

突き抜けた芸術 大衆に届く

映画全体の音楽は15曲(メドレーは1曲として)で数は多くはないが一旦鳴りだすと長く使っている。その関係は映像に付けるのではなくてむしろ映画自体を引っ張っていくエンジンのような役割だ。ちなみに「博士の異常な愛情」は10曲と多くなく、オープニングとエンディングの4ビートのスタンダードナンバーを除くと爆撃機に流れる西部劇のような曲だけというシンプルさだ。

話を戻して、まず驚くのは宇宙航行にヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」を使っていることだ。無重力の漆黒の宇宙に浮いた宇宙船がワルツのリズムに乗って現れたときは仰天した。それまではホルストの「惑星」まがいの曲が主流だったのに(その後はジョン・ウィリアムズ風か)、ワルツである。今ではそれがスタンダード化したが、メインタイトルのリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」も原曲は知らなくとも誰もがこの映画で知るようになった。

その他ハチャトゥリアンの「ガイーヌ」のアダージョもあるが、なんといっても衝撃を受けるのはジェルジ・リゲティの曲の使用である。20世紀後半のもっとも重要な現代音楽の作曲家だが難解である。早い話が不協和音なのである。オープニングでは画面は何も映らず結構長く名曲「アトモスフェール」がかかり、月面の低空飛行では「ルクス・エテルナ」、それに「レクイエム」が頻繁に使われラストの白い部屋では「アヴァンチュール」である。圧巻は木星と無限の彼方(異次元への突入)で15分にわたり流れる3曲ほどのメドレー。多くの監督が望む大衆性とは真逆の姿勢をキューブリックは音楽でも貫く。そしてこの作品以降クラシック音楽を多用するようになる。

決してわかりやすい音楽と映像の関係ではないが、そこには新鮮な「何?」が必ずあり、我々のイマジネーションを駆り立てるのである。

次回は「アバター」を通してエンターテインメント映画での音楽を検証する。

(日本経済新聞(夕刊)2010年(平成22年)4月15日付 夕刊文化 より)

 

 

音楽と映像の微妙な関係 4

「アバター」を見た。監督自ら”もののけ姫”を参考にしたシーンもあると発言していたが、僕は”ラピュタ”も参考にしたと思う。雲間から見たナヴィの国は間違いなく天空の城と同じカットだった。ジェームズ・キャメロン監督はおそらく宮崎さん(宮崎駿監督)に尊敬の気持ちを込めて引用したのだろう。

彼の特徴は「ターミネーター」のロボットや「エイリアン2」の地球外生物に感情移入させることができる演出にある。「アバター」のキャラクターも最初は気が引けたがすぐ感情移入できた。では大ヒットした「タイタニック」にそういう存在はあったか? 船です、タイタニック号自体がその役目をしていた。

ドラマ設定の時間と空間が多重になっていることも良い。主人公ジェイクの現実世界と彼がシンクロするアバターが活躍する国の二重構造があり、最初はそれぞれ別のシークエンスになっているが徐々に接近し、最後はそれが一つになりクライマックスになる。これはうまい。「ターミネーター」でも時間軸を捻った同じ構造がみられる。

ただし登場人物は善と悪がはっきりしすぎていてドラマが平板。対立構造はわかりやすいが深みが感じられない。典型的なハリウッド映画だ。

「アバター」を見終えた感想は、そんな単純構造を捨てて映画を作り続ける宮崎さんの世界はいかにクオリティーが高いかということだった。

 

大衆性と芸術 共存めざせ

音楽はジェームズ・ホーナー、前回登場したジェルジ・リゲティに英国で師事する。スコットランド的などこか懐かしいメロディーラインと節度のあるオーケストレーションがいい。

2時間42分の映画のほとんどに音楽が付いているので、前回までのように全部で何曲というように数えられない。エンターテインメント映画の宿命か。こういう鳴りっぱなしの場合は音楽密度を薄くし劇と馴染ませる工夫がいる。逆に音楽が少ない場合は瞬間の凝縮力(音の厚さではなく)が要求されるわけで、どちらも難しさは変わらない。

ナヴィの住む国のテーマは耳に残るが、「ターミネーター」のパーカッションと「タイタニック」のメロディーを合わせたような音楽は新鮮味に欠ける。一番気になったのはナヴィの世界のコーラス(これは状況内音楽)がエキゾティズムを出すため第三世界、特にアフリカ系の音楽をベースにしているのが音楽帝国主義のようで好きではない。

エンターテインメント映画の場合、ストーリーで引っ張るケースが多いので音楽はそれに寄り添うしかなく、場面チェンジでの音合せが多くなる。それぞれのシーン(状況)と主人公(感情)に音楽を対立させるようなこともあまりできない。早い話が「スター・ウォーズ」のダースベイダーのテーマのように登場人物に付けることも多い。だからここには「音楽と映像の微妙な関係」は存在しない。

大勢の人に楽しんでもらうことがエンターテインメント映画の主な目的だが、多くの映画人はそれで終わらせず、何か一つ心に響くものを見る人に伝えたいと思っている。音楽も全く同じで、映像の制約の中で作品性を追求する。前回書いたわかりやすい(大衆性)ということと芸術性は共存することができるのではないか?と僕は考える。その答えを探しつつ、とりあえず今は中国映画の音楽を書いている。

(日本経済新聞(夕刊)2010年(平成22年)4月22日付 夕刊文化 より)

 

 

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