Posted on 2015/11/20
クラシックプレミアム第49巻は、ブルックナーです。
今回は長いです、所感が。
久石譲のエッセイに際して、いろいろ数珠つなぎとなってしまい、久石譲が指揮をしたドヴォルザーク作品から、はたまたベートーヴェン「第九」のことまで。(そして、おまけつき)
【収録曲】
ブルックナー
交響曲 第9番 ニ短調 (ノヴァーク版)
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1988年
「久石譲の音楽的日乗」第47回は、
「商業化された大量生産」の音楽の台頭と行く末
音楽の進化をテーマに、楽典さながらの音楽講義もまじえながら、進んできたエッセイもいよいよ現代、今日の音楽のお話です。おそらく音楽業界に携わる多くの人が問題意識として、危惧していること、警鐘していること、そして久石譲の考えが正面からストレートに語られています。
「T・W・アドルノが書いた『新音楽の哲学』という本がある。その序文で「音楽現象そのものが商業化された大量生産に組み込まれることによってこうむる内的変化を立証し、同時に標準化された社会で起きている一定の人類学的変位がいかに音楽聴取の構造にまで入り込んでいるか……」などと、何回読んでも僕には意味がつかめない難しい言い回しが続く。この本自体はシェーンベルクとストラヴィンスキーを比較しながら(大雑把に言って)20世紀の音楽のあり方を論じているのだが、作者はユダヤ人でその論理的明晰さに脱帽したくなるが、読むにはかなり重度の忍耐が必要だ。」
「彼の言うように20世紀は「商業化された大量生産」の音楽が著しく台頭した時代だった。レコードの発達である。それまではホールなどに出向き、いくばくかのお金を払い、一期一会の音楽を楽しんでいたのだが、家で好きな時に好きなだけ聴けるようになった。音楽はレコードというパッケージになり、商品として流通経済の1アイテムになったわけだ。そこで誕生したのがポピュラー音楽だった。ちなみにウィキペディアで検索してみると「広く人々の好みに訴えかける音楽のことである」と書いてあった。なるほど、人々の好みか……?」
「その土台となった音楽は奴隷としてアメリカに渡った黒人と白人のあいだで生まれたデキシーランド・ジャズだということは前に書いた。それがロックンロールになり、ロックになり今日のエンターテインメント音楽になったのだが、その論理的な構造はいたってシンプル、機能和声で述べたとおりメロディーと伴奏の和音が主体である。だが小学校の教科書に載っている音楽の3要素はメロディー、和音、リズムとあるように、これほどまでにポピュラー音楽が世界を席巻したのは実はリズムの力である。先ほどのアフリカから来た黒人のリズムが入ることによって、ヨーロッパ系の機能和声中心の歌曲(一部のフォークソングを含む歌謡形式)から大きく変貌した。4リズムという編成がある。これはドラム、ベース、ギター、ピアノ(キーボード)のことをいうのだが、見事に音楽の3要素そのものではないか。これをバックにメロディーの象徴であるヴォーカルが入るのだから完璧である。だからドームを埋め尽くすコンサートライヴも小さなライヴハウスのバンドもベーシックは同じ編成なのである(もちろん弦を入れたり管楽器を入れたりコーラスを入れたりするが)。シンプル・イズ・ベスト、だが!である。目にあまる商業主義の中で、音楽は本当に豊かになったのか? プロとアマチュアの境も無く人気者が余興のように歌う音楽で(もちろんそうではない本物の歌い手もいるが)、人々は「人々の好みに訴えかける」というポピュラー音楽を心から楽しんでいるのか? 感動はあるのか? コンピューターでは音楽を情報化して定額料金で聴き放題などというふざけた話がある。それは音楽の尊厳を踏みにじる行為である。「商業化された大量生産」の音楽の行く末がこれなら、世界から本物の作曲家が消えていくだろう(食べられなくなるから)。もうこちら側に未来はないのかもしれない。」
「話を戻して、レコードの発達は一方のクラシック界にも影響を与えた。例えばソナタ形式の提示部の繰り返し(前に説明すると約束した)だが、レコード化されるときにカットされることが多くなった。レコードは片面約15~20分、両面で交響曲がやっと入る長さなのでその時間の制約が大きかった。もちろんそれだけではない。時代はたらたらした長いものより、よりコンパクトでスピードのあるもの、そして大掛かりなもの、つまりオーケストラの編成も巨大化したものを求めていった。その象徴がカラヤン、ベルリン・フィルだった。もちろん他のオーケストラも同じ道を辿っていった。」
「ソナタ形式の繰り返しは今のことから逆に辿っていくとわかる。ソナタ形式の重要なことは第1主題と第2主題にある。それが提示され、どのように展開され、またどのように再現されるか、それを聴き分けるためには第1主題と第2主題を印象づけなければならない。だから繰り返すのである。当時はホールでしか聴かなかったから(家では聴けない)繰り返す必要があった。それが提示部についているリピートマークの意味だと僕は考えているのだが、今の時代でもそのことは有効であると思っている。だから指揮をする時、提示部は繰り返すようにしている。」
「「商業化された大量生産」のパッケージはレコードからCDになり、今ではダウンロードが主流になりつつある。手軽に便利はいいことなのだろうか?」
「人の生活はものや情報で豊かにはならない。爆買する中国人を見て豊かだと思うだろうか? 我々はどこかに置いてきてしまった大事なものをもう一度取り戻さなければならない。」
なかなか重い問題提起であり、おそらく多数決でも答えのでない永遠のテーマのような気もします。そこには時代の流れ、芸術の社会的地位、そして時代が今求めているもの、いろいろな側面があるからです。
たしかに大量生産というのは、みんなが同じものを、同じ品質で、同じように、得ることができる。つまり平等で均一な満足感。
一方では、大量に存在することでの価値の低下、過度な需要供給バランス、有り難みを感じない浪費、つまり商品サイクルを短くします。希少性がない、価値が低いと感じられるモノは、流行り廃りが早いのは当然です。裏を返せば「飽きる」ということは、「入れ替わり」がいかようにでもきくという環境にあるということです。それは音楽であっても物質的なモノであっても。
久石譲の言葉を何回も読み返しながら思った結論としては、、ご本人の意図とは違うかもしれないという注釈をしたうえで、レコード化されて家でも簡単に聴けちゃうことでもなく、大量生産され商業化され音楽の尊厳を踏みにじられることでもなく、”ホンモノとしての音楽がしかるべき扱いをうけられない時代”ここなのかなと思いました。
レコード化すること、コンピューターを駆使して、オケを束ねて、あらゆる手段で音楽を作り出すこと、パッケージに残すことは、これまで音楽家にしかできなかったことです。そこには膨大なお金も時間も資源も必要だったからです。それが誰でも簡単にできるようになった。できるようになったことが悪なのではなく、そこでプロとアマの区別化が正常にされなくなってしまった。それはプロとしては精進するべきことであり、一方では聴衆側にも求められることがあります。目利き耳利きといった正常な区別をできること。
膨大なソース(人,金,資源)を使って、音楽を作り続け、伝え続けるプロ。作ることにも、伝えること(演奏披露)にも、同じように膨大なソースが必要ということです。反比例して、音楽というものはあらゆる芸術の中でも、とりわけ日常生活に密接に関わっているもの。手軽さや便利さを求めることもまたしかり。そこで登場するアマに関しては、プロほどのソースが必要なく、また手軽に音楽をつくることも伝えることもできる。
また別の角度からの音楽のパッケージ化は、受け手側からすると喜ばれることもまたしかり。・・発信側の多様化と、受け手側のニーズの多様化と・・これらの事象が分別なく交錯しすぎているからではないかと。
プロはすごい、技術力が上、アマはダメ、技術力が乏しい、のではなく、アマは一発勝負やビギナーズラックでもOK、しかしプロは継続してプロなわけです。だから同じ土俵で天秤にかけること自体がそもそも違うような気もしますね。
プロに対する正当な評価として対価を払うこと。CD、楽譜、コンサートなどお金を払って手にする対価、演奏会など足を運んで時間を払って手にする対価、その両軸のサイクルによって、聴かれつづけ、演奏されつづけ、残っていく音楽。瞬間的にアマが台頭する現代社会が仮にあったとしても、やはり長い目で見たときには、プロの作品が引き継がれていくのでは、自然と。と思ったりもします。残るものとしてカタチにすることも、一般社会に浸透させていく対マスの力も、やはりプロが優っているわけですから。
ということで、結論としては、
”ホンモノとしての音楽がしかるべき扱いをうけられない時代”
”プロに対して瞬間的な実績や評価が求められてしまう時代”
流行り廃りのサイクルが過剰な現代社会も時間の尺度として音楽家や芸術家には負のスパイラルというわけです。だからプロとしての音楽家が生き残っていけない。クラシック音楽の巨匠たちは、ひとつの作品をつくるのに、少なくとも数年、長い人で十年以上かけもしていたわけですから。これも現代と古典を同じ土俵では比較できないのです。
堂々巡り。それを現すように書いている自分も支離滅裂、収拾ついてない。答えがないですね、だから。唯一の答えがあるとするならば、それは未来にしかわからないということです。
今から300-500年以上も前の音楽が今でも愛され続けている。ベートーヴェンやモーツァルト、バッハのようなクラシック音楽です。今から300年後に、今聴かれている音楽の何が残っているか。もしくはそうなるために、これから300年間、聴かれ、演奏され続けなければいけないということです。
そう考えると、クラシック音楽(宗教音楽から19世紀まで)以外はすべて20世紀の音楽です。ジャズもロックもポップスも。そこから派生したボサノヴァもタンゴもサンバもヘヴィメタもテクノも、すべて。だからこの約100年間で繁栄してきた今の音楽が、これからどう進化するか、現代人にはわからなくて当然かもしれません。
長くなったのでこの辺にしておかないと。
そういえば、本文中に「僕は提示部を繰り返すようにしている」と書かれています。たしかにそのとおりです。今年の5月演奏会での「ドヴォルザーク 交響曲第9番 新世界より」(富山公演)のこと。
聴いたときに、あれ、なんかバージョンが違うと不思議に思った第1楽章。曲の途中でジャン!と鳴って、また聴きなじみのテーマが流れだしたので。あれは提示部を繰り返していたんですね。なかなかこの”提示部の繰り返し”ですが、名盤と呼ばれる名指揮者、名門オケのCDでも聴くことはできません。ほとんど繰り返していないからです。
だからコンサートで聴いたときに、普段耳馴染みがなかったので、一瞬で気づいてしまうインパクトだったんですね。この作品が収録されているCDをおそらく10枚以上は聴き比べました。単純に作品にハマって自分好みの1枚を探していたんです。”提示部の繰り返し”があったのは1枚でした。
それも久石譲のコンサート後に聴いた1枚からだったので、そこで”久石譲編曲!?”(そんなことするはずはありません)ではなく、あっ、これは”提示部の繰り返し”だったのか、と初めて気づいたわけです。
これに関しては、もう少し突っ込みたいところもあり、それはあらゆるクラシック音楽の作品には、スコアの版(バージョン)が複数存在するということなのです。
うーん、これを書き出すと、止まらないのですが、例えば有名なベートーヴェンの第九も、スコアが複数あるんですね。編曲されているということではなく、採譜に携わった人が違うという。
年末、第九をいろいろな指揮者によって公演する楽団は多く、12月は第九のオンパレードだから練習が楽かと思いきや、指揮者によって使用するスコアが違うと結構大変なようです。
X日 Xさん指揮の第九はX版だけど、
Y日 Yさん指揮の第九はY版なんだよね、と。
いくら演奏する音が同じであったとしても、見慣れない譜面に対応するのは、膨大な交響曲では大変なことです。さて、久石譲の「第九スペシャル 2015」では、どのスコア版が使用されるのでしょうか。
聴いてわかるわけがない!
(おまけ)
久石譲の音楽活動の歴史を見ても、久石譲の警鐘することの片鱗は見えなくもないのです。
初期はシンセサイザーを駆使していた久石譲が、ある時期を境に生音、オーケストラ楽器に移行していきます。これにもいろいろ伏線や理由はあるのでしょう。
でもひとつ言えることは、当時シンセサイザーを使うこと、そしてそこから鳴る音も含めて、アーティストとしてのオリジナリティとして扱われたわけです。何のシンセサイザーやシーケンサーを駆使しているか、どんな音をプログラムして作っているか、これもアイデンティティであり、音楽家の個性だったわけです。
それが無くなってしまった、簡単に模倣できるようになってしまった。あるいは、今後残っていかない、その時だけ鳴らすことのできる”音”。だからデジタル楽器からは距離を置いたところで、奏者と楽器と演奏技術が不可欠な生楽器へと移行していった。
これも久石譲の音楽と現代社会に対するひとつの答えゆえのような気もするのですが。どうなのでしょうか。
……
新鮮味のある音、意表をつく音、奇抜な音、ここで勝負できなくなったということは、裸にされた楽曲は残るメロディや旋律だけでの勝負となるわけです。そこで久石譲は勝負することを決意した。(推測)
そして古典クラシックを学びなおすこと、指揮すること。次に磨きをかけたことが楽曲の構成力とオーケストレーション。もちろん裸にされても核として強い旋律を突きつめ、削ぎ落としても貧弱にはならないメロディとなる。
同時にそれは短いモチーフからなる原点のミニマル・ミュージックをさらに進化させることにもつながる。そうして今の久石譲音楽があるような気がします。
だから、数年前からクラシック音楽に傾倒していることも、シンセサイザーを全面的には使わなくなってしまったことも、過去から見れば名残惜しいと思えることも、未来から見ればあながち正統な道なのかもしれません、よ。
過去のシンセサイザーは今や古びれて使われませんが、オーケストラ楽器や生楽器は何百年と続いています。久石譲の音楽が300年後に演奏されているとしたら、おのずと、、そういうことなのかもしれませんね。
今回は持論が溢れ出てしまいました。
この素材だけで「久石譲論文」が書けそうですが、それはまたゆっくりと腰を据えたときにでも。