Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 49 ~ブルックナー~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/11/20

クラシックプレミアム第49巻は、ブルックナーです。

 

今回は長いです、所感が。

久石譲のエッセイに際して、いろいろ数珠つなぎとなってしまい、久石譲が指揮をしたドヴォルザーク作品から、はたまたベートーヴェン「第九」のことまで。(そして、おまけつき)

 

【収録曲】
ブルックナー
交響曲 第9番 ニ短調 (ノヴァーク版)

カルロ・マリア・ジュリーニ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1988年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第47回は、
「商業化された大量生産」の音楽の台頭と行く末

音楽の進化をテーマに、楽典さながらの音楽講義もまじえながら、進んできたエッセイもいよいよ現代、今日の音楽のお話です。おそらく音楽業界に携わる多くの人が問題意識として、危惧していること、警鐘していること、そして久石譲の考えが正面からストレートに語られています。

 

「T・W・アドルノが書いた『新音楽の哲学』という本がある。その序文で「音楽現象そのものが商業化された大量生産に組み込まれることによってこうむる内的変化を立証し、同時に標準化された社会で起きている一定の人類学的変位がいかに音楽聴取の構造にまで入り込んでいるか……」などと、何回読んでも僕には意味がつかめない難しい言い回しが続く。この本自体はシェーンベルクとストラヴィンスキーを比較しながら(大雑把に言って)20世紀の音楽のあり方を論じているのだが、作者はユダヤ人でその論理的明晰さに脱帽したくなるが、読むにはかなり重度の忍耐が必要だ。」

「彼の言うように20世紀は「商業化された大量生産」の音楽が著しく台頭した時代だった。レコードの発達である。それまではホールなどに出向き、いくばくかのお金を払い、一期一会の音楽を楽しんでいたのだが、家で好きな時に好きなだけ聴けるようになった。音楽はレコードというパッケージになり、商品として流通経済の1アイテムになったわけだ。そこで誕生したのがポピュラー音楽だった。ちなみにウィキペディアで検索してみると「広く人々の好みに訴えかける音楽のことである」と書いてあった。なるほど、人々の好みか……?」

「その土台となった音楽は奴隷としてアメリカに渡った黒人と白人のあいだで生まれたデキシーランド・ジャズだということは前に書いた。それがロックンロールになり、ロックになり今日のエンターテインメント音楽になったのだが、その論理的な構造はいたってシンプル、機能和声で述べたとおりメロディーと伴奏の和音が主体である。だが小学校の教科書に載っている音楽の3要素はメロディー、和音、リズムとあるように、これほどまでにポピュラー音楽が世界を席巻したのは実はリズムの力である。先ほどのアフリカから来た黒人のリズムが入ることによって、ヨーロッパ系の機能和声中心の歌曲(一部のフォークソングを含む歌謡形式)から大きく変貌した。4リズムという編成がある。これはドラム、ベース、ギター、ピアノ(キーボード)のことをいうのだが、見事に音楽の3要素そのものではないか。これをバックにメロディーの象徴であるヴォーカルが入るのだから完璧である。だからドームを埋め尽くすコンサートライヴも小さなライヴハウスのバンドもベーシックは同じ編成なのである(もちろん弦を入れたり管楽器を入れたりコーラスを入れたりするが)。シンプル・イズ・ベスト、だが!である。目にあまる商業主義の中で、音楽は本当に豊かになったのか? プロとアマチュアの境も無く人気者が余興のように歌う音楽で(もちろんそうではない本物の歌い手もいるが)、人々は「人々の好みに訴えかける」というポピュラー音楽を心から楽しんでいるのか? 感動はあるのか? コンピューターでは音楽を情報化して定額料金で聴き放題などというふざけた話がある。それは音楽の尊厳を踏みにじる行為である。「商業化された大量生産」の音楽の行く末がこれなら、世界から本物の作曲家が消えていくだろう(食べられなくなるから)。もうこちら側に未来はないのかもしれない。」

「話を戻して、レコードの発達は一方のクラシック界にも影響を与えた。例えばソナタ形式の提示部の繰り返し(前に説明すると約束した)だが、レコード化されるときにカットされることが多くなった。レコードは片面約15~20分、両面で交響曲がやっと入る長さなのでその時間の制約が大きかった。もちろんそれだけではない。時代はたらたらした長いものより、よりコンパクトでスピードのあるもの、そして大掛かりなもの、つまりオーケストラの編成も巨大化したものを求めていった。その象徴がカラヤン、ベルリン・フィルだった。もちろん他のオーケストラも同じ道を辿っていった。」

「ソナタ形式の繰り返しは今のことから逆に辿っていくとわかる。ソナタ形式の重要なことは第1主題と第2主題にある。それが提示され、どのように展開され、またどのように再現されるか、それを聴き分けるためには第1主題と第2主題を印象づけなければならない。だから繰り返すのである。当時はホールでしか聴かなかったから(家では聴けない)繰り返す必要があった。それが提示部についているリピートマークの意味だと僕は考えているのだが、今の時代でもそのことは有効であると思っている。だから指揮をする時、提示部は繰り返すようにしている。」

「「商業化された大量生産」のパッケージはレコードからCDになり、今ではダウンロードが主流になりつつある。手軽に便利はいいことなのだろうか?」

「人の生活はものや情報で豊かにはならない。爆買する中国人を見て豊かだと思うだろうか? 我々はどこかに置いてきてしまった大事なものをもう一度取り戻さなければならない。」

 

 

なかなか重い問題提起であり、おそらく多数決でも答えのでない永遠のテーマのような気もします。そこには時代の流れ、芸術の社会的地位、そして時代が今求めているもの、いろいろな側面があるからです。

たしかに大量生産というのは、みんなが同じものを、同じ品質で、同じように、得ることができる。つまり平等で均一な満足感。

一方では、大量に存在することでの価値の低下、過度な需要供給バランス、有り難みを感じない浪費、つまり商品サイクルを短くします。希少性がない、価値が低いと感じられるモノは、流行り廃りが早いのは当然です。裏を返せば「飽きる」ということは、「入れ替わり」がいかようにでもきくという環境にあるということです。それは音楽であっても物質的なモノであっても。

 

久石譲の言葉を何回も読み返しながら思った結論としては、、ご本人の意図とは違うかもしれないという注釈をしたうえで、レコード化されて家でも簡単に聴けちゃうことでもなく、大量生産され商業化され音楽の尊厳を踏みにじられることでもなく、”ホンモノとしての音楽がしかるべき扱いをうけられない時代”ここなのかなと思いました。

 

レコード化すること、コンピューターを駆使して、オケを束ねて、あらゆる手段で音楽を作り出すこと、パッケージに残すことは、これまで音楽家にしかできなかったことです。そこには膨大なお金も時間も資源も必要だったからです。それが誰でも簡単にできるようになった。できるようになったことが悪なのではなく、そこでプロとアマの区別化が正常にされなくなってしまった。それはプロとしては精進するべきことであり、一方では聴衆側にも求められることがあります。目利き耳利きといった正常な区別をできること。

膨大なソース(人,金,資源)を使って、音楽を作り続け、伝え続けるプロ。作ることにも、伝えること(演奏披露)にも、同じように膨大なソースが必要ということです。反比例して、音楽というものはあらゆる芸術の中でも、とりわけ日常生活に密接に関わっているもの。手軽さや便利さを求めることもまたしかり。そこで登場するアマに関しては、プロほどのソースが必要なく、また手軽に音楽をつくることも伝えることもできる。

 

また別の角度からの音楽のパッケージ化は、受け手側からすると喜ばれることもまたしかり。・・発信側の多様化と、受け手側のニーズの多様化と・・これらの事象が分別なく交錯しすぎているからではないかと。

 

プロはすごい、技術力が上、アマはダメ、技術力が乏しい、のではなく、アマは一発勝負やビギナーズラックでもOK、しかしプロは継続してプロなわけです。だから同じ土俵で天秤にかけること自体がそもそも違うような気もしますね。

プロに対する正当な評価として対価を払うこと。CD、楽譜、コンサートなどお金を払って手にする対価、演奏会など足を運んで時間を払って手にする対価、その両軸のサイクルによって、聴かれつづけ、演奏されつづけ、残っていく音楽。瞬間的にアマが台頭する現代社会が仮にあったとしても、やはり長い目で見たときには、プロの作品が引き継がれていくのでは、自然と。と思ったりもします。残るものとしてカタチにすることも、一般社会に浸透させていく対マスの力も、やはりプロが優っているわけですから。

 

ということで、結論としては、

”ホンモノとしての音楽がしかるべき扱いをうけられない時代”

”プロに対して瞬間的な実績や評価が求められてしまう時代”

流行り廃りのサイクルが過剰な現代社会も時間の尺度として音楽家や芸術家には負のスパイラルというわけです。だからプロとしての音楽家が生き残っていけない。クラシック音楽の巨匠たちは、ひとつの作品をつくるのに、少なくとも数年、長い人で十年以上かけもしていたわけですから。これも現代と古典を同じ土俵では比較できないのです。

 

堂々巡り。それを現すように書いている自分も支離滅裂、収拾ついてない。答えがないですね、だから。唯一の答えがあるとするならば、それは未来にしかわからないということです。

今から300-500年以上も前の音楽が今でも愛され続けている。ベートーヴェンやモーツァルト、バッハのようなクラシック音楽です。今から300年後に、今聴かれている音楽の何が残っているか。もしくはそうなるために、これから300年間、聴かれ、演奏され続けなければいけないということです。

そう考えると、クラシック音楽(宗教音楽から19世紀まで)以外はすべて20世紀の音楽です。ジャズもロックもポップスも。そこから派生したボサノヴァもタンゴもサンバもヘヴィメタもテクノも、すべて。だからこの約100年間で繁栄してきた今の音楽が、これからどう進化するか、現代人にはわからなくて当然かもしれません。

 

長くなったのでこの辺にしておかないと。

 

 

そういえば、本文中に「僕は提示部を繰り返すようにしている」と書かれています。たしかにそのとおりです。今年の5月演奏会での「ドヴォルザーク 交響曲第9番 新世界より」(富山公演)のこと。

聴いたときに、あれ、なんかバージョンが違うと不思議に思った第1楽章。曲の途中でジャン!と鳴って、また聴きなじみのテーマが流れだしたので。あれは提示部を繰り返していたんですね。なかなかこの”提示部の繰り返し”ですが、名盤と呼ばれる名指揮者、名門オケのCDでも聴くことはできません。ほとんど繰り返していないからです。

だからコンサートで聴いたときに、普段耳馴染みがなかったので、一瞬で気づいてしまうインパクトだったんですね。この作品が収録されているCDをおそらく10枚以上は聴き比べました。単純に作品にハマって自分好みの1枚を探していたんです。”提示部の繰り返し”があったのは1枚でした。

それも久石譲のコンサート後に聴いた1枚からだったので、そこで”久石譲編曲!?”(そんなことするはずはありません)ではなく、あっ、これは”提示部の繰り返し”だったのか、と初めて気づいたわけです。

 

これに関しては、もう少し突っ込みたいところもあり、それはあらゆるクラシック音楽の作品には、スコアの版(バージョン)が複数存在するということなのです。

うーん、これを書き出すと、止まらないのですが、例えば有名なベートーヴェンの第九も、スコアが複数あるんですね。編曲されているということではなく、採譜に携わった人が違うという。

年末、第九をいろいろな指揮者によって公演する楽団は多く、12月は第九のオンパレードだから練習が楽かと思いきや、指揮者によって使用するスコアが違うと結構大変なようです。

X日 Xさん指揮の第九はX版だけど、
Y日 Yさん指揮の第九はY版なんだよね、と。

いくら演奏する音が同じであったとしても、見慣れない譜面に対応するのは、膨大な交響曲では大変なことです。さて、久石譲の「第九スペシャル 2015」では、どのスコア版が使用されるのでしょうか。

聴いてわかるわけがない!

 

(おまけ)

久石譲の音楽活動の歴史を見ても、久石譲の警鐘することの片鱗は見えなくもないのです。

初期はシンセサイザーを駆使していた久石譲が、ある時期を境に生音、オーケストラ楽器に移行していきます。これにもいろいろ伏線や理由はあるのでしょう。

でもひとつ言えることは、当時シンセサイザーを使うこと、そしてそこから鳴る音も含めて、アーティストとしてのオリジナリティとして扱われたわけです。何のシンセサイザーやシーケンサーを駆使しているか、どんな音をプログラムして作っているか、これもアイデンティティであり、音楽家の個性だったわけです。

それが無くなってしまった、簡単に模倣できるようになってしまった。あるいは、今後残っていかない、その時だけ鳴らすことのできる”音”。だからデジタル楽器からは距離を置いたところで、奏者と楽器と演奏技術が不可欠な生楽器へと移行していった。

これも久石譲の音楽と現代社会に対するひとつの答えゆえのような気もするのですが。どうなのでしょうか。

……

新鮮味のある音、意表をつく音、奇抜な音、ここで勝負できなくなったということは、裸にされた楽曲は残るメロディや旋律だけでの勝負となるわけです。そこで久石譲は勝負することを決意した。(推測)

そして古典クラシックを学びなおすこと、指揮すること。次に磨きをかけたことが楽曲の構成力とオーケストレーション。もちろん裸にされても核として強い旋律を突きつめ、削ぎ落としても貧弱にはならないメロディとなる。

同時にそれは短いモチーフからなる原点のミニマル・ミュージックをさらに進化させることにもつながる。そうして今の久石譲音楽があるような気がします。

 

だから、数年前からクラシック音楽に傾倒していることも、シンセサイザーを全面的には使わなくなってしまったことも、過去から見れば名残惜しいと思えることも、未来から見ればあながち正統な道なのかもしれません、よ。

過去のシンセサイザーは今や古びれて使われませんが、オーケストラ楽器や生楽器は何百年と続いています。久石譲の音楽が300年後に演奏されているとしたら、おのずと、、そういうことなのかもしれませんね。

 

今回は持論が溢れ出てしまいました。

この素材だけで「久石譲論文」が書けそうですが、それはまたゆっくりと腰を据えたときにでも。

 

クラシックプレミアム 49 ブルックナー

 

Blog. 久石譲 「千と千尋の神隠し」 インタビュー 劇場用パンフレットより

Posted on 2015/11/19

2001年公開 スタジオジブリ作品 映画『千と千尋の神隠し』
監督:宮崎駿 音楽:久石譲

映画公開に合わせて劇場で販売されたパンフレットより、久石譲の音楽制作インタビューです。

 

 

音楽・久石譲

千尋の心情が引き立つように全体を構成

根底にあるのは素朴で懐かしい感じ

-今回の音楽はガムランであったり、沖縄民謡的なものであったり、エスニック的なものなどさまざまなものが使われている中で、メインはフルオーケストラでしっかり押さえているという印象がありますが、映画音楽全体の構成はどのように考えられていたんですか?

久石:
「実はこの作品のテーマを表現するためにオーケストラが必要かどうかっていうのは、よくわからないんですよ。主人公の心情だけを追っていくことを考えたらピアノ一本でも充分なわけだから。だけどあの世界観を表現するにはやはりフルオーケストラぐらいの広がりがないとダメだと思ったんです。それで宮崎さんもすごくその場の空気感を大事にされる方だから、今回はスタジオで収録するのではなくて、コンサートホールでライブで録ったんです。それはすごく成功していると思う。それでエスニックやガムラン、バリ島の音楽、沖縄民謡、中近東やアフリカのものまでいろんなものを使っているんだけど、それらは料理でいう飾りつけみたいなもので、実はそこにはあまり意味がないんです。意味があるとすれば、それは作品自体が限定した空間のリアリティを求めているものじゃないですから、いろんなものを使うことによって閉じた感じをなくしてどんどん広がりを出す。そのための手段として使った。それだけです。

僕がこの作品の音楽をつける時に一番考えたことは、最後まで等身大の十歳の女の子を表現するにはどうしたらいいかということだけでしたから。例えばピアノと弦楽器だけの曲であるとか、単音のピアノでメロディを弾いている曲の持つ静けさを大事にしたつもりです。そしてその千尋のテーマ曲ともいえる曲が静かな分だけ、他の楽曲をやかましくして、千尋の心情が引き立つように全体を構成していったんです」

 

-その辺りについてもう少し伺えますか?

久石:
「映画の後半に千尋が海の上を走る電車に乗って銭婆のところへ向かうシーンがあるんですけど、僕はあのシーンが宮崎さんが今回一番やりたいところだったと思っているんです。それでイメージアルバムの中にある『海』という曲が、そのシーンにすごく合うんですよ。宮崎さんもイメージアルバムを作った時にその曲を真っ先に気に入ってくれたんですけどね。だからそれが千尋のテーマ曲の根底なんです。非常に素朴で懐かしい感じ。ひとりぼっちなのに前向きに生きるひたむきさ。そしてその中にある優しさ。つまりこの映画は誰の中にもあるそういうものを表現した作品なんですよ。それでこれは宮崎さん特有のものだけど、最後に主人公を救っていない。突き放しているんです。つまり宮崎さんは子ども向けの映画の体裁をとっているんだけど、大人も含めたいろんな人に向けて自分のメッセージを発しているんですよ。その根底にあるのが、イメージアルバムの中にある『海』という曲であり、その曲が使われるシーンだと思います」

 

宮崎さんの私的な心情が色濃く出ている作品

-今回の音楽には、湯婆婆やカオナシといったキャラクターのテーマ曲も作られている感じがありますが。

久石:
「僕は登場人物それぞれに音楽をつけるのはあまり好きではないんですけどね。今回は音楽のスタンスをどこにとるかを考えた時に、最初から最後まで千尋に降りかかる災難と彼女の心の動きだけを追っていくにはあまりにエキセントリックにいろんなことが起きすぎていましたからね。彼女の周りで起こる状況にも音楽をつけざるを得なかったんです。そうすると当然、千尋の周りに出てくる個性的なキャラクターの音楽も必要になったわけです。

でもその中で、湯婆婆だけは最後までキャラクターがつかみきれなかったですね。宮崎さんの作品っていうのは複雑で、善人が悪を抱えていたり、クールなキャラクターなのにその裏には優しさがあったり、必ず二律背反している。しかもその両方を宮崎さんは求めますから。そういう意味で湯婆婆のテーマ曲は最後まで手こずりましたね。オーケストラのスコアを書いてる途中で、もう一回ベーシックから全部作り直しましたから。それで結局どういうものにしたのかというと、ピアノの一番高い音と低い音が同時になるような、通常の楽器を使っているのに通常の音がしないような、そんな感じを湯婆婆のキャラクターサウンドにしたんです。個人的には気に入っています」

 

カオナシについてはいかがですか?

久石:
「カオナシは影の主人公ですよね。短く頻繁に登場する。彼の動きをずっと見ていくと、ある意味そのキャラクターは主人公より明解なんですよ。だから逆にカオナシのテーマ曲はかなり真剣に作りました。でもそれがどういうものかというのは、言葉で説明してもしようがないので、映画を見て下さいとしか言えません」

 

-音楽作業をほぼ終えられた今、久石さんのこの作品に対する印象は?

久石:
「根底にあるものはこれまでの作品と一緒だと思うんですけど、宮崎さんの私的な心情が色濃く出ている作品だなって感じます。”豚”が登場していますが、その作品と作家としての宮崎監督の距離が近づいている印象がありますよね。そういう意味ではこの映画には宮崎さん自身が経験したことや体験したことがかなり入っているんじゃないかと思います。だからこそこの映画は宮崎さんの作品の中でも今までにない大傑作になった。そう感じています」

2001年6月6日/スタジオ ワンダーステーションにて

(映画「千と千尋の神隠し」劇場用パンフレット より)

 

 

なお、「ジブリの教科書 12 千と千尋の神隠し」(2016刊)にも再収録されています。

 

 

そのなかには下記のようなエピソードも収録されています。

 

Part 1映画『千と千尋の神隠し』誕生
スタジオジブリ物語 空前のヒット作『千と千尋の神隠し』 項より

主題歌には宮崎作詞、久石譲作曲で『あの日の川へ』という曲が予定されていた。しかし宮崎の作詞作業が難航。二週間かかっても作詞をすることができなかった。そんな折、『いつも何度でも』を思い出した宮崎は、これ以上のものは自分にはできないと、この歌を主題歌にすることを提案し、そのように決まった。

(「ジブリの教科書 12 千と千尋の神隠し」より 一部抜粋)

 

 

千と千尋の神隠し パンフレット

 

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Blog. 久石譲インタビュー「米の作曲家を見習うべき」日本経済新聞 掲載内容

Posted on 2015/11/14

日本経済新聞 10月26日付 夕刊 / Web に久石譲のインタビューが掲載されました。

短い記事ではありますが、”今の久石譲”が色濃く表れ、これからの久石譲もうっすらと見えてくるような、そんなインタビュー内容になっています。

長い音楽活動のなかで、自身ソロ活動において、ヨーロッパ、イタリアなどを題材にしたことはありましたが、ここにきて”アメリカ”。たしかに直近の新作「ミニマリズム2」収録曲や、室内交響曲、コントラバス協奏曲などは、アメリカの匂いが漂っているなと、伏線がつながった気がします。「ポスト・クラシカル」という位置づけから、”アメリカ”を捉える。とても今後が楽しみです。

 

 

2015/10/26付 日本経済新聞 夕刊

「欧州よりも米国を見習うべきだ」。西洋クラシック音楽の流れをくむ現代の音楽を作曲する上で、米国を重視するようになった。「日本と同様、西洋音楽の長い伝統がない。ガーシュインやバーンスタインら米国の作曲家から学べる」

現代の音楽の演奏会「ミュージック・フューチャー」の第2弾を9月に東京都内で開いた。自作2曲と米国の作曲家の3曲を、自らの指揮による特別編成の管弦楽団などで演奏した。「自作を含めベースにあるのは、1960年代米国で生まれたミニマル・ミュージック」。最小限の音型を微妙に変化させながら延々と反復する音楽だ。大御所のスティーブ・ライヒらの作品を精緻に再現した。

自作ではエレクトリック・バイオリンの独奏を入れた「室内交響曲」を世界初演した。「エレキバイオリン自体が電気的に作られたアメリカンな楽器」と話す。エレキギター並みにエフェクター機能も使うなど「欧州の伝統音楽にはない新しい響きを感じてほしかった」と言う。

「現代の音楽」にこだわるのは、「同じような古典作品を毎回演奏するクラシック界の現状を変えたい」からだ。「かつてリゲティらの20世紀の作品にはパワーがあった。ロックでもセックス・ピストルズやルー・リードを聴いて人生が変わった人も多い。衝撃があるべきだ」

自らを「ポスト・クラシカル」と位置付ける。ミニマルから発展し、クラシックとポップスの垣根を越える作品を書く。「ポップス発祥の地の米国に学ぶ」のが理由だ。新CD「ミニマリズム2」に続き、10月29日には新作「コントラバス協奏曲」を世界初演する。看板だったアニメの映画音楽も超えて新たな世界を切り開く。

(ひさいし・じょう=作曲家)

 

久石譲 日本経済新聞 2015

※有料会員限定記事 (無料会員登録でも閲覧は可能)

公式サイト:日本経済新聞 Web より

 

Blog. 雑誌「モーストリー・クラシック 2015年12月号」久石譲 インタビュー内容

Posted on 2015/11/14

クラシック音楽誌「MOSTLY CLASSIC モーストリー・クラシック 2015年12月号 vol.223 」(10月20日発売)に久石譲のインタビューが掲載されています。今年2015年に発表した待望の最新ソロアルバム「ミニマリズム2」のことから、8月、9月、10月、そして12月へとコンサート活動もふまえて語られています。

 

 

多忙な活動の中、CD「ミニマリズム 2」をリリース
「自分の原点のミニマルをベースに、小さい編成でコンセプトが明快なら楽しいと思って作りました」

8月には自らが立ち上げた「ワールド・ドリーム・オーケストラ(W.D.O.)2015」の全国6回のツアー、9月には現代作品だけで構成される演奏会「Music Future」両プロジェクトを指揮。10月に初演する新作コントラバス協奏曲の作曲、「題名のない音楽会」の新テーマ曲やCM楽曲などの作曲と、多忙を極める中で、8月にソロアルバム「ミニマリズム 2」を発表した。

久石:
「前作の『ミニマリズム』は、それまで作ってきたミニマル的な作品や『ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド』や『シンフォニア』などをロンドン交響楽団とレコーディングしたものです。ただ、全体的にポップスの枠内でやろうとしている部分がちょっとありましたが、今回は自分が”作品”として作ったものを集めました」

今回は、室内楽中心の編成で、2009年に宮崎駿監督に贈り、特別な機会にしか演奏されずに”幻のピアノ曲”と呼ばれた「WAVE」、戦後70周年に書かれた「祈りのうた」、マリンバ2台の「Shaking Anxiety and Dreamy Globe」、4本のサクソフォンと打楽器の「Single Track Music 1」、「弦楽四重奏曲第1番」などが収録されている。

久石:
「今回はできるだけ小さい室内楽、マリンバ2人とか、サクソフォン4人とか。コンセプトが明快だったら、楽しく聴きやすいと思って作った曲が多いです。ただ、2台マリンバの曲は、2本のギターのために書いた作品を、マリンバ用に書き直したもので、変拍子が多くとても難しい。『シングル・トラック』は、線路の単線という意味で、それぞれが単旋律のユニゾンを演奏しますが、音域やズレが様々な音風景を生んでいます」

アルバムは、ミニマル・ミュージック(最小限に抑えられた音階とパターン化された音型を反復させる音楽)のソリッドなサウンドに貫かれている。

久石:
「僕の作曲の原点がミニマル・ミュージックで、若い頃はそれをベースに作曲していましたが、長い間、エンターテインメントの方で活動して封印状態だったんです。それが、2004年にW.D.O.を始めて、もう一度クラシック音楽をやり出したとき、ベースのミニマル・ミュージックに戻ろうと」

久石:
「世間で『ミニマルは古いよ』と言われていたのが、実情は違っていて、オペラをMETで上演したニコ・ミューリーやロックバンドとクラシックの両方で活躍するブライス・デスナー(いずれの作品も『Music Future』で紹介されている)といった作曲家や、テクノ系やクラブ・ミュージックまでに影響を及ぼし、『ポスト・クラシカル』と呼ばれているけれど、元々僕がずっとやってきたようなものだから、今の活動をやる意義が自分でも明快になりましたね」

10月には読売日響で自作のコントラバス協奏曲とオルフ「カルミナ・ブラーナ」を指揮、その模様は、日本テレビで収録され、「読響シンフォニックライブ」(日テレ、BS日テレ)の枠で放送される。(放送日:「カルミナ・ブラーナは12月予定、「コントラバス協奏曲」は16年1月予定)

(雑誌「モーストリー・クラシック 2015年12月号」より)

 

モーストリー・クラシック 2015年12月号

 

Blog. 雑誌「CDジャーナル 2015年11月号」久石譲 インタビュー内容

Posted on 2015/11/14

10月20日発売 雑誌「CDジャーナル 2015年11月号」に掲載された久石譲インタビュー内容です。

これからの予定も少し垣間見れる内容です。

WDO2015CD化決定!
読響シンフォニックライブのTV放送予定!

どちらも詳細はこの段階では未確定となっています。今年後半の活動から、来年以降の展望を楽しく想像、期待したくなるようなインタビューです。

 

 

自分の原点と”内なるアメリカ”をめぐって
取材・文/前島秀国

久石譲の破竹の勢いが止まらない。8月は最新アルバム『ミニマリズム 2』リリースと同時に、新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラとのツアーを全国6ヵ所で開催し、「Symphonic Poem “NAUSICCÄ” 2015」を世界初演(CD化決定。詳細は後日発表)。9月は久石自身がセレクトした現代の優れた音楽を紹介する”Music Future Vol.2”を開催し、新作「Single Track Music 1」(サクソフォン四重奏+打楽器版)と「室内交響曲」を世界初演。10月は『題名のない音楽会』5代目司会者・五嶋龍のために書き下ろした新テーマ曲「Untitled Music」のオンエア開始と、新作「コントラバス協奏曲」(日本テレビ委嘱作品、読響シンフォニックライブで2016年1月放送予定)の世界初演。そして年末12月には混声合唱、オルガン、管弦楽のための「Orbis」新ヴァージョン初演を含む”久石譲 第九スペシャル 2015”開催と、目にも留まらぬ速さで作曲/演奏活動に打ち込んでいる。

 

音楽に入りやすいこと、身近に感じてもらうこと

まずは、久石の原点であるミニマル・ミュージックをアルバム・コンセプトに据えた『ミニマリズム 2』について。小編成の室内楽で密度を高めた本作には、久石のソロ・ピアノ曲「WAVE」と「祈りのうた」が収録されているのも、ファンにはたまらないポイントだ。

「2曲とも宮崎駿監督の誕生祝いとして書いた作品です。〈WAVE〉(2009年作曲)は”メロディ”と”ミニマル”という2つの要素をシンプルな形で結びつけた曲ですが、当初収録を予定していたピアノ・ソロアルバムがなかなか完成せず、リリースの機会を逸してしまいました。一方の〈祈りのうた〉(2015年作曲)は、戦後70年の節目を意識して書いた曲。以前から音数(おとかず)の少ない、内省的な作品を書きたいと思っていたのですが、これもなかなか機会に恵まれなくて。ところがここ数年、ペルトやグレツキの作品を(指揮者/ピアニストとして)演奏したことで、ホーリー・ミニマリズムと呼ばれる彼らのスタイルから刺激を受けました。”なるほど、できるだけ切り詰めた要素で作曲していくには、こういう方法もあるのか”と」

『ミニマリズム 2』収録の「Single Track Music 1」は、単音から24音まで増殖していく音列をユニゾンだけで演奏しながら、ヴァーチャル的にミニマル特有のズレを感じさせる新しい手法にチャレンジしている。

「基本的にはリズム中心の作品ですが、リズムというわかりやすい要素を作曲のベースに置くことで、聴き手の拒否反応を無くすことができます。つまり書く側が8分の7のような変拍子を使い、複雑な音の並べ方を試みたとしても、聴く側はリズムの勢いで音楽に入っていけるので、トータルとしては縁遠いものではなくなる。音楽に入りやすいこと、身近に感じてもらうことが、いま、自分の中でもっとも重視している要素なんです」

そこには、いち早くミニマル・ミュージックの演奏・紹介に取り組んできた、久石自身の体験が色濃く反映されているという。

「70年代から80年代にかけて、多くの演奏者がライヒ、グラス、ライリー、ヤングという4人のミニマリストの作品を何らかの形で体験しました。演奏したことがない人は、ほとんどいないと言ってもいいくらい。ただし、ほとんどの場合、みんな嫌気がさしてミニマルから離れてしまった。その気持ちは、よくわかります。今回、”Music Future Vol.2”でライヒの〈エイト・ラインズ〉を指揮しましたが、譜面を見ると自分でも嫌になりますよ。”こんなの弾くなんて、冗談じゃない”みたいな(笑)。ライヒの場合、モーダルなジャズ、コード進行というのが発想のベースに必ずあります。それを、寝食を共にするような共同体の中で少しずつ変化をつけながら、音楽を作り上げていくというのが彼の方法論なので、3~4回のリハーサルで演奏すること自体、無理があるんです。演奏者の心が入りにくい。30年前、もしも的確に指導できる人間がいれば、ミニマルと聞いただけで演奏者が溜息を洩らすような、現在の状況にはならなかったでしょう。ミニマルに欠点があるとすれば、おそらくそれが最大の欠点です。作曲家が演奏者の生理を考慮し、譜面の書き方を見直して欠点を克服していかなければなりません」

 

”ニューヨークの夜”のような世界観

”Music Future Vol.2”で久石が紹介したブライス・デスナーの弦楽四重奏曲「Aheym」(日本初演)や、ジョン・アダムズの「室内交響曲」(久石が指揮)には、そうした欠点を克服していく姿勢が感じられるという。

「デスナーの曲に聴かれるCマイナーのコード感、あれはクラシック専門の作曲家には書けないでしょうね。ロックやそのほかの音楽のエネルギーを取り込み、クラシックの書き方を勉強し直した人間でないと書けない強さがある。アダムズに関しては、リズムをわかりやすく刻むことで聴きやすい音楽を作っていますが、じつは3つか4つの雑多な要素を同時に盛り込んでいる。そうしたカオスのような多様性が、彼らアメリカの作曲家たちが持つ強みだと思うんです」

同じ”Music Future Vol.2”で世界初演された久石の新作「室内交響曲」にも、じつは”アメリカ”という要素が濃厚に現れている。

「昨年の”Music Future Vol.1”で、6弦エレクトリック・ヴァイオリンを独奏楽器に用いたニコ・ミューリーの〈Seeing Is Believing〉を指揮したのが、作曲のきっかけです。せっかくこの楽器に出会ったのだから、ひとつ自分でも曲を書いてみようと。ところが、これは予想外だったのですが、あの電気的なサウンドは間違いなく”アメリカ”ですね。気が付いたらロック・ギターのようなディストーションを使ってみたり、スコアの中にサクソフォンもフィーチャーしたりしていました。そうすると、自然と”ニューヨークの夜”のような世界観になっていく。そこで、はたと気が付いた。今回の”Music Future Vol.2”はライヒ、アダムズ、デスナー、自分の曲と、完全に”オール・アメリカン”ではないかと。これほど見事なコンセプトでプログラムが統一されているとは、自分でも驚きました」

現在作曲中の最新作「コントラバス協奏曲」も、同様に”アメリカ”が重要なキーワードになるという。

「コントラバスを独奏楽器としてイメージしてみた時、真っ先に思い浮かぶのがロン・カーターのようなジャズ・ベーシストなんですよ。そうすると、これも当然”アメリカ”になってくる。よくよく考えてみると、今年の作曲活動のポイントは、じつは”自分の内なるアメリカ”を確認し直すことだったのかと。それが必然的な流れならば構わないし、結果的に良い作品が生まれればいい。チェロ協奏曲の延長として作曲しても面白くないですから。これはすごく面白い曲に仕上がると思いますよ。期待してください」

(雑誌「CDジャーナル 2015年11月号」より)

 

CDジャーナル 2015年11月号

 

Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 48 ~新ウィーン楽派の音楽~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/11/7

クラシックプレミアム第48巻は、新ウィーン楽派です。

 

【収録曲】
シェーンベルク
《浄められた夜》 作品4 (弦楽合奏版)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1973年

ウェーベルン
《5つの楽章》 作品5 (弦楽合奏版)

ピエール・ブーレーズ指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1994年

ベルク
ヴァイオリン協奏曲 《ある天使の思い出に》
ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)
サー・コリン・デイヴィス指揮
バイエルン放送交響楽団
録音/1984年

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第46回は、
十二音音楽ってなに?

本号特集と久石譲エッセイ内容が一致するのは全巻とおしても珍しく、特集でも十二音音楽、久石譲も十二音音楽と、頭の中でグルグル回ります。いずれを読んでも、とにかく難しい。難解だと敬遠するつもりはないですが、わかりたいですが、難しい。

一部抜粋してご紹介します。

 

「十二音音楽(技法)についてこれから必要最小限の説明を試みたいのだが、その前にお断りしたい事がある。僕はこの技法を大学時代に独学し、その後、日本の十二音技法の大家、入野義朗先生についていささかレッスンを受けた。まだミニマル・ミュージックの洗礼を受ける前のことだが実は多くの作曲家、アルヴォ・ペルト、ヘンリク・グレツキ、そしてあの前衛中の前衛であるジョン・ケージでさえこの十二音技法を学んでいる。だから自分にとってこの技法を語ることは特別な事ではないのだが、音楽ファンにとってみれば、仮にたくさんのレコードを持ち、カール・リヒターとトレヴァー・ピノックのバッハ作曲《ブランデンブルク協奏曲》の違い(これは村上春樹の本に出てくる描写)が熱く語れるほど音楽に詳しい人であっても、なんだか面倒くさい話になる。理論や法則の話は誰だって好む事柄ではない。人は制限されること、例えば行動を規制させること、指図を受けることなど、自分の意志ではないことを強いられるのは嫌いだ。僕も嫌いなのだが、なぜかこういう話になるのは、たぶん自分の感性を信じていないからで(いや、人間の感覚というもの自体を)、あやふやな自分を確認するものさしとして理論を使っているからだろう。案外、正しい理論や論理との接し方かもしれない。」

「十二音音楽(技法)とは1オクターヴの12の音を使った音列(セリー)で、その音の順番を変えずに音楽を作っていく方法だ。もちろん同じ音を音列の中で2度使用する事はできないし、感覚として他の音の方がよいと思ってもそれは駄目である。ただしその音列にしたがって和音としての使用は可能だ。こうする事によってどの音にも比重が偏る事なく、対等に全部の音を扱う。これは調性音楽が主音や属音を主体に動く事からいかに離脱するか、という事から考えられた。また、その音列の最後の音から頭の音にいくのを逆行型、最初の音から同じ音程分だけ反対方向にいくものを反行型といい、逆行型も反行もいれると全部で4種類のセリーができる。やっぱりわからないね、どこがわかりやすいんだ! という声が聞こえてくるが、もう少し辛抱を。」

「作曲家は絶えず次になんの音を選ぶか悩む。シンプルなメロディーでも前後の関係性でここはソかラを選ぶか考え込む。ソナタ形式や機能和声のようなシステムがあればその基準に沿って、あるいは破壊しようと思って(本人だけ思っていて実は仏様の手の平状態なのだが)音を選んでいく。そう、システムがあれば作曲は助かるのだ。その意味でこの十二音技法は便利なのである。まず12の音を作曲者の感性と論理で配列する。これをオリジナル音列と仮に命名する。すると先ほど書いたように逆行、反行などの4種類x12半音分もの音を選ぶ材料が自然に、あるいはあらかじめ用意されたごとくできる。もちろんもっと細かな決めごとがあるのだが、あとは作曲家がそれに即して音を置いていけば曲は一応できるのである。」

「その時代はトマトが熟しすぎて腐る寸前のような状態、つまり機能和声が半音階を多用してもはや調性はどこにあるのか聴き分けることも不可能になった時代だった。そしてこのような時のトマトはおいしいと聞くが、音楽も同じで後期ロマン派の音楽は味わい深く実においしいのである。ちなみに僕はトマトが大嫌いだ! まあそんなことはどうでもいいのだけれど、そのような時代にこの技法は画期的だった。もちろんなかなか受け入れられなかったことは容易に想像できる。創始者といわれているシェーンベルク自身、十二音技法と調性音楽あるいは単に無調の音楽の間を行ったり来たりしているのである。時代は緩やかなカーブを描いて変遷する。」

「さて「音楽の進化」について書いているのだが、その冒頭でアントン・ウェーベルンの言葉を引用した(39号)。彼はシェーンベルクの弟子であり、その後の現代音楽への影響から考えれば師であるシェーンベルクよりも影響は大きかったと言える。彼はある講義で「あらゆる芸術は…合法則性に基いている」といい、それに続いていかに十二音音楽が歴史の流れの中で必然的な技法であるかを熱く語っている。それは当事者によくある我田引水のような部分もあるのだが、「音楽の進化」を考える場合、傾聴に値する内容だ。」

「つまり、単音の音楽の時代から、線の音楽になり(ポリフォニック)、それがホモフォニー(ハーモニー)になったのだが、音楽以外のもの(物語性)で飽和し限界に来たところで、今一度ポリフォニックになった、それが十二音音楽であると。つまり純音楽に戻ったと彼は言いたいのだろう。確かに十二音音楽は音列を使う分、縦ではなく横の線の動きが重要になる。ではそれがハーモニーの時代を終焉させ、新しい時代を本当に作ったのか? 次回はポップスを含めた20世紀の音楽を考えたい。」

 

 

うーん、非常に難しいですね。言葉で説明されると理屈的にはわかったような気になりますが、わからない。そしてシェーンベルクの十二音技法のピアノ曲なども聴いてみると、さらにわからなくなるという始末。

今鳴っている音楽が、解説や理論でいうところの、どこに当たるのか…耳でも言葉でも照らしあわせてわからない。ただ毛嫌いせずに、音楽の歴史において、そういう動きが起こり、それが今にも引き継がれている部分がある。そう捉えておこうと思います。

 

シェーンベルクの「浄められた夜」は、久石譲も指揮をとったことのある作品です。弦楽六重奏版と弦楽合奏版(1917年版/1943年版)がありこれらは作曲者オリジナル版となりますがそれ以外にもピアノ三重奏版なども作品化されています。

いずれをも聴いたうえで、やはり弦楽合奏版の、うねるような怒涛の弦の響きは圧巻です。歴史的名盤と評価も高い、本号にも収録されたカラヤン盤を久石譲が演奏会で取り上げるとわかってから愛聴しています。

ちなみにこの「浄められた夜」は、シェーンベルク初期作品で、無調音楽でも十二音音楽でもない位置づけになっています。とても聴きやすく詩からインスピレーションを受けた作品ということもあり、弦楽器だけで織りなすドラマティックな構成、展開となっています。神秘的 幻想的 月 生命 慈愛 詩的 こういったキーワードを連想する作品というところでしょうか。

 

2015年5月に久石譲が同作品を指揮するにあたり、ピアノ版を自ら譜面にしたというエピソードがあります。

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「それで今猛勉強中なのだが、とにかく各声部が入り組んでいるため、スコアと睨めっこしても頭に入ってこない。いろいろ考えたあげく、リハーサルの始め頃は連弾のピアノで行うので、そのための譜面を自分で書くことにした。やはり僕は作曲家なので自分の手で音符を書くことが覚える一番の近道だと考えたのだが、それが地獄の一丁目、大変なことになってしまった。」

「《浄められた夜》は室内楽なので、音符が細かい。例えば4/4拍子でヴィオラに6連符が続くと4×6=24、他の声部もぐちゃぐちゃ動いているので一小節書くのになんと40~50のオタマジャクシを書かなければならない(もちろん薄いところもある)。それが全部で418小節あるのである! そのうえ、4手用なので、弾けるように同時に編曲しなければならない。全部の音をただ書き写しても音の量が多過ぎて弾けないので、どの声部をカットするか? もう無理なのだが、どうしてもこの音は省けないからオクターヴ上げて(下げて)なんとか入れ込もうとかで、とにかく時間がかかる。実はこの作業は頭の中で音を組み立てているのだから、最も手堅い、大変だが確実に曲を理解する最善の方法なのだ。」

「もしかしたらこれは多くの作曲家が通ってきた道なのかもしれない。マーラーやショスタコーヴィチの作品表の中に、過去の他の作曲家の作品を編曲しているものが入っている。リストはベートーヴェンの交響曲を全曲ピアノに編曲している(これは譜面も出版されている)。これからはもちろんコンサートなどで演奏する目的だったと思われるが、本人の勉強のためという側面もあったのではないか? モーツァルトは父親に送った手紙の中で、確か「自分ほど熱心にバッハ等を書き写し、研究したものはいない」と書いていたように記憶している。モーツァルトは往復書簡などを見る限りかなり変わった人間ではあるが、天真爛漫な大人子供のイメージは映画『アマデウス』などが作った虚像だったのかもしれない。」

「そんなことを考えながら、何度も書いては消し、書いては消している最中にふと「久石譲版《浄められた夜》を出版しようかな」などと妄想が頭をよぎる。もちろんシェーンベルク協会みたいなものがあったらそこに公認されないと無理だろうけど。」
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Blog. 「クラシック プレミアム 35 ~モーツァルト5~」(CDマガジン) レビュー

 

新・クラシックへの扉・特別編 久石譲 「現代の音楽への扉」 2015年5月5日開催
演奏プログラムと楽曲解説は

Blog. 久石譲&新日本フィル 「現代の音楽への扉」コンサート内容

Blog. 久石譲 「モーストリー・クラシック 2015年2月号」 インタビュー内容

Blog. 「週刊文春 4月30日号」(2015) 久石譲 掲載内容紹介

 

ぜひ《久石譲版 浄められた夜》、聴いてみたいところです。

 

 

……

今号はここで終わりません。

最近よく取り上げている「キーワードでたどる西洋古典音楽史」(岡田暁生 筆)

今号でのテーマは「音楽の終わり方(上)」だったのですが、これがまた思わず唸ってしまうほど感嘆してしまいました。そういう視点はなかったなと、見方や聴き方、音楽との接し方の新しい発見。

一部抜粋してご紹介します。

 

「人はややもすると若い頃、人生が無限に続いていく錯覚を抱きがちである。早くに身近な人を亡くすというような経験があれば事情は違ってこようが、そういうことでもなければ「時の終わり」、すなわち死とは、極めて観念的な存在にすぎない。ただし私のように五十代半ばともなれば話は違ってくる。シューベルトもモーツァルトもショパンもシューマンもメンデルスゾーンも、皆とっくに亡くなっていた年齢である。ベートーヴェンが亡くなったのが56歳。あと数年で私も同じ年代だ。「終わり」が見えてくる。そして残り時間をいろいろ計算する…。」

「音楽を生業とする者にとって、「残り時間の計算」とはシャレではない。絵画や文学なら、鑑賞するスピードを上げることでもって、同じ残り時間で他人より多くの作品を知ることが可能である。しかし音楽はそうはいかないのだ。音楽は万人に平等である。ある交響曲を聴くには、誰でも同じ時間がかかる。残り時間を自分が知りたい作品数で割ると、あと一体どれだけの音楽を聴けるか?限られた量の音楽しか聴けないなら、まだ知らない作品を優先するか、それともすでに知っているお気に入りの音楽を何度も聴くか?ナンセンスな自問自答とは思いつつ、音楽が「時間芸術」と呼ばれるその含意に、思わず眩暈がしてくる。」

「「終わり方」は音楽を創り上げるプロセスにおいて、極めて重要なポイントの一つである。つまり「カッコイイ始まり方」ができる人は結構いるにしても、「然るべき終わり」へと曲を持っていける作曲家は非常に少ないのだ。」

「クラシック音楽の場合、私たちが一般に耳にするほぼすべての曲は、それなりの名曲ばかりである。それらはさも当然のように、然るべき終わり方をする。だから「然るべき終わり」が本当はどれだけの難事であるか、かえってあまり実感できない。しかし現代音楽の新作などを聴くと、ダレずに終わるということがそもそもどれほど技量を必要とすることであるか、瞬く間に明らかになる。」

「とはいえ、新作であっても「始まり方」は、それなりにたいがいがいい。最初からずっこける作品はほとんどない。曲の始まりには皆、並々ならぬ創作のエネルギーを注いでいるということであろう。そして曲の展開というか、盛り上がりについても、悪くないものは多い。しかし、終わるタイミングを見失ってしまう。もはや次の盛り上がりもなければ新しいアイデアも出てこないのに、だらだらとまだ続く。」

「想像するに「筆を置く」というのは、門外漢には思いもよらぬような、途方もない胆力を要するのではあるまいか。すべて言い切る、そして充分語ったと思ったら、もう余計なことはつけ加えず終わる。これはよほど自信がないとできないことなのだ。ここぞというタイミングで過たず終止符を打つ、名曲中の名曲とされてきたものは、さも当然のようにこの条件をクリアしている。しかしそれを自明と思ってはいけない。それは神に祝福された奇跡のごとに瞬間である。」

 

少し補足をすると、

音楽とは「時間芸術」である。

文学や絵画といった芸術は、完成した時点で「作品が生まれる」。一方、音楽というのは、最後の和音に辿りついて完成した瞬間、跡形もなく消える。(楽譜としての音楽ではなく、実際に目の前で鳴り響く音楽)

つまり曲の「曲の終わり」とは「終焉」である。

音楽の終わりとは、「夢から覚める」「祭りの終わり」などと似た時間意識をもたらす。よって、曲の終わり方は重要である。

(と、上記抜粋内容へと循環していきます)

 

「終わり方」というテーマにおいて、実際の曲の終わり方の善し悪しから、哲学的な終焉、芸術作品としてなど多角的に述べられているので変に抜粋するとつかみにくいかもですが、逆に言えば「終わり方」ひとつをとっても、こんなにも広く深い視点があるものなんだなと、感嘆した内容でした。

 

クラシックプレミアム 48 新ウィーン楽派

 

Blog. 「久石譲 PIANO STORIES ’99 Ensemble Night with Balanescu Quartet」インタビュー コンサート・パンフレットより

Posted on 2015/11/3

久石譲の過去のコンサートから「PIANO STORIES ’99 Ensemble Night with Balanescu Quartet」です。

ここではコンサート・パンフレットより、インタビューをメインにご紹介します。

 

 

PIANO STORIES ’99 Ensemble Night with Balanescu Quartet

[公演期間]24 PIANO STORIES’99
1999/10/21 – 1999/11/11

[公演回数]
12公演
10/21 倉敷・倉敷市民会館
10/23 大阪・フェスティバルホール
10/24 名古屋・愛知厚生年金会館
10/28 盛岡・盛岡市民文化ホール
10/29 仙台・宮城県民会館
10/30 秦野・秦野市文化会館
11/1 広島・広島郵便貯金ホール
11/2 広島・広島厚生年金会館
11/5 福岡・メルパルクホール福岡
11/8 札幌・札幌コンサートホール
11/10 東京・東京芸術劇場
11/11 東京・東京芸術劇場

[編成]
ピアノ:久石譲
バラネスク・カルテット
Bass:斉藤順
Marimba:神谷百子
Percussion:大石真理恵
Wood Wind:金城寛文
Wood Wind:高野正幹

[曲目]
794BDH
Sonatine
New Modern Strings

「MKWAJU」より
MKWAJU
Tira-Rin

EAST (Balanescu Quartet)

Two of Us
太陽がいっぱい
Les Aventuriers

アシタカとサン (Pf.solo)
HANA-BI (Pf.solo)

【DEAD Suite】
Movement 1
Movement 2

DA・MA・SHI・絵
Summer ※Silent Loveモチーフあり
Tango X.T.C
Kids Return

—–アンコール—–
もののけ姫
Madness
DEAD Suite Movement 2 (11/11東京)

 

 

久石譲 PIANO STORIES 99 コンサート P2

 

INTERVIEW

連続(ミニマル)の結実

昨年のツアー「PIANO STORIES ’98 -Orchestra Night-」のライブ盤「WORKS II」をリリースしたばかりだが、今回のツアーはガラッと趣が異なる。昨年がオーケストラとの仕事の集大成なら、今年は久石譲のソロ活動での集大成を目指すという。彼が長年追究してきた音楽とは、どんな世界なのだろうか。

 

久石:
なぜ、今年のコンサートはアンサンブルなのか。答えは単純です。1年置きにオーケストラとアンサンブルのツアーを行っており、今年はアンサンブルの番。そして共演は、昨年、僕が演出を担当したコンサート「京都・醍醐寺音舞台」でセッションをし、非常に相性の良かった、バラネスク・カルテットにお願いしました。その他、マリンバ、ベースなどのメンバーも「音舞台」と基本的に同じです。今回のアンサンブルに最適なメンバーを選んだのですが、加えて、今年のツアーは比較的、キャパシティの大きなホールが多いので、”スペシャルな感じの大きさ”みたいなものも考慮しました。

例えば「音舞台」の時は木管1本だったのを、今度はバリトンサックスまで入れました。マリンバも1台だったのを、2台に増やした。そうすることによってアタックの衝撃度が大きくなり、より立体的な音になると思うんです。やっぱり木管一人だと、どうしてもメロディ扱いになるけど、二人だとセクション扱いになりますから。ただでさえ、ピアノに木管、パーカッションという形態のグループは日本にいないわけですよね。これはかなり衝撃的なサウンドになると思いますよ。

ただ、形態が少し変わったので、「音舞台」の時にも演奏した「Asian Dream Song」なども、またアレンジを変えなければならない。それがちょっと面倒臭いんですけどね(笑)。

内容的には、ミニマル・ミュージックをベースにしたアンサンブルを、と考えています。ミニマルって、ただ同じ音型を繰り返すだけと思われがちですが、実はこの音楽、ミュージシャンを選ぶんですよ。例えば日本人が演奏すると、どんどん音を厚くし、クライマックスに向かっていかなきゃならないような曲調になってしまう。早い話、M・ラヴェルの「ボレロ」とミニマルの何が違うか、ということを理解できる相当知的な人じゃないと、演奏できないと思う。”同じ音型を繰り返す=ミニマル”じゃないですから。

恐らく、技術的にバラネスクより上手いミュージシャンは、日本にいくらでもいるでしょう。でも彼らは、同じミニマルをベースにしている作曲家マイケル・ナイマンの元で演奏もしています。だからミニマル・ミュージックのあり方、繰り返す事の意味を、良く理解しているんですね。

 

21世紀に繋がる音楽を自分なりにアプローチしたい

久石譲は音楽のテーマを追い求める。
ミニマル・ミュージックは長年追究している音楽。
どうしても今、演奏しておかなければならない音楽。
その答えがここに垣間見えるかもしれない。

久石:
もしかしたら今回の試みは、映画音楽の久石しか知らない方にとって、見たくない、聴きたくない音楽かもしれません。以前は自分でもそう、考えていました。自分が描く世界はこうで、映画ではこうと。割と分けていた時期があった。ところが、北野武さんの映画に書いている曲というのは、基本的に自分のソロの世界とあんまり変わらないんです。いずれにしても自分の描く音楽は、自分の世界だと思っています。中でもミニマル・ミュージックは、僕が長年追究しているテーマ。個人的にどうしても今、演奏しておかなければならない音楽なんです。

20世紀の音楽は、リズムの世紀でした。アフリカにいた黒人が米国に連れて来られ、白人と一緒になってジャズという音楽が生まれた。そして今度は、黄色人種と結びついて、ラテン音楽が出来た。19世紀の終わりまでは、我が世の春のように西洋クラシックが絶対的だと思われていたわけですが、リズムに弱かったために、20世紀に入ると急速に影響力がなくなってしまった。つまり現在の、ギター、ピアノというベースがフォーリズムである音楽が支持されるようになった歴史とは、たかだか70年程度しかないわけです。で、アンサンブルの特徴というのも、基本的にはリズムにあります。大半の曲が140~150というすさまじいテンポの中で、機械的にリズムが徐々に変わっていく。つまりミニマルな音楽が主流なんです。僕の中で、もう一度、その70年の歴史を紐解いて、自分なりのアプローチをキッチリとしておきたい。そう、考えました。

選曲に関しても、僕がソロ活動の中で、ずっと以前から追究してきた「孤独」や「死」をテーマにしたものを演奏しようと思っています。自分自身、故郷・長野から東京に出てきたというのもあって、昔から”故郷を捨ててしまった人間の悲哀”に興味がありました。人間の理想の生き方って、朝、日の出と共に目が覚めて、肉体を使った労働をして、日が暮れた時にご飯を食べ、寝る。非常にシンプルなのがいい。その中で培われた共同体や近隣の人たちなど、いろんな人との関わり合いの中で生活しているわけですよね。ところが今、家の方で根を張っているべきところを、皆が離れてしまい、”都会生活者”という根無し草になってしまった人たちが大勢いる。そういう人たちが作る経済状況の中で、兎小屋のような小さい部屋で寝泊まりし、コンビニのご飯を喰い、生きている。やっぱりそれは正しくない生き方だし、すごく苦しい事だと思うんです。で、「根無し草の人たちにとっての自然観って、何なのだろう」。そう、考えるようになった。そうして誕生したのが、「My Lost City」や「地上の楽園」といったアルバムだったのです。その中から何曲かを演奏しようと思っています。

ただ、すごくマズイのは、アルバム発表当時はバブルの絶頂期で、警鐘を込めて作っているんですね。だから今回は、ニヒリズムでやるのではなく、前向きに出来ないかと。アレンジを含めて、本番まで考えなければなりません。

それから新たに1、2曲、このツアーのために新曲を作る予定もあります。実は今回、今までのツアーと全く異なり、ツアー終了後に、バラネスクとのレコーディング企画しているんです。僕はいつも、あまり曲が煮詰まってない時点でレコーディングする事が多いんですね。それを今回は、ツアーを回って完全に完成したところで、メモリアルな意味も込めて、アンサンブルのレコーディングをしようと思っています。実はアンサンブルって3、4年前からやってるのに、珍しくレコードになっていない。だから「DA・MA・SHI・絵」も「MKWAJU」もニューバージョンでのレコーディングとなりそうです。

 

久石譲 PIANO STORIES 99 コンサート P3

 

活動は点ではなく、線でなければいけない

昨年のツアー終了後、久石は自問を繰り返したという。
「自分はなぜ、音楽を創るのか」。その答えはまだ、見つからない。
だが、立ち止まることで見えたもの。走り続けたことで得た、新しい出会いがあった。
久石の音楽に対する姿勢は、確実に変わりはじめている。

久石:
そうした新しい試みに自分自身、期待するものも大きいのですが、不安もあります。それは、昨年のツアー終了後から半年間、ピアノの演奏を観客の前でほとんどやってないということです。僕は、ピアノに向かわないと決めたら、その間、ピアノにも触りもしません。今年の8月8日に、昨年に続いて日本テレコムのイベントで久々に演奏することになり、1週間前から急激に練習を始めたのですが、腰は痛くなるし、もう体はボロボロ(笑)。ブランクが大きいと確実に、まず腕の筋肉が落ちます。その間、一生懸命ジムにも通っていたのですが、無駄だった。「ジムで造る筋肉って実用じゃないんだ」と、身にしみて分かりました(笑)。

その半年間、ピアノを弾かなかったというのは、理由があるんです。「Gene -遺伝子-」(NHKスペシャル「人体III」)などのレコーディングで忙しく、必然的に弾く機会がなかったということもありますが、それ以上に、ちょっと”間”を置きたかったというのが正直な気持ちです。

それは、「自分はなぜ、音楽を創るのか」。そう真剣に自問自答した半年間でした。長い間音楽を創っていると、惰性や習慣である程度のことができてしまう。それを一度壊して、「なぜ自分は音楽を創るのか」、「どういう音楽を創るべきか」、「何を表現したいのか」。音が鳴り出したらそれに流されるのではなく、「なぜ自分が今、この音を弾くか」ということまで。それは音楽だけじゃなく、自分がモノを創るという活動で、何をすべきかまで考えました。

結局、結論は未だに出ていませんが、きっとピアノに向かうと気持ち的に違いがでるでしょう。表現しようとする世界が変わっていくと思います。それがすごく大事な事なんですよね。

新しい映画監督との出会いも、その一環でした。今までわりと、北野武さんや宮崎駿さんなど、すごい大監督さんとやってきた。ここで一つ、世界観を変えてみたいと思って、映画「はつ恋」で篠原哲雄監督と、「川の流れのように」では秋元康監督(共に来春公開予定)と。まだ監督作2、3作品目の方たちとの仕事を経験したわけですが、新しい刺激があって面白かった。

ある意味、今回のバラネスクとの共演も、そうした世界観を変えてみたいと思っての発案だったのかもしれません。それに、活動というのは、絶対点であっちゃいけない。昨年の「音舞台」での出会いを次に生かす、”線”じゃなきゃいけないと思うんです。自分の書斎で考えている世界って小さいですから、いろんな人と出会って、いろんな可能性が広がっていく事を大切にしようと思ってます。

これは常々口にしているのですが、僕はあくまでも作曲家であって、演奏家ではない。では、なぜライブで演奏するか。本音を言えば、僕のような演奏家がもう一人居てくれたら、自分で演奏しようとは思わない(笑)。ただやっぱり、ソロアルバムや自分の世界というのは、パフォーマンスも含めて完成しないと完結しないんですよね。自分の世界というのは、聴衆の前で演奏してくれる人が必要なんですよ。だからそれはもしかしたら、久石譲オーケストラを結成して、表現することも出来るでしょう。たまたま自分がピアノを演奏するのが好きだったから、自分で表現するのがいいのかなと思っています。確かに、すっごくテクニックがある人は山ほどいる。ただ、自分がシンプルなメロディーの中に託したものを、自分の思った通りに弾いてくれる人って、そうはいない。本当は、出来るだけ早く演奏活動を辞めたいのですが(笑)。

いや、やはり、ステージは、自分の音楽の最終形態。まだまだ自分で演奏していきますよ。

(「久石譲 PIANOS STORIES ’99  」 コンサート・パンフレットより)

 

 

Related page:

 

久石譲 PIANO STORIES 99 コンサート P6

 

Blog. 「久石譲 PIANO STORIES ’99 Ensemble Night with Balanescu Quartet」 楽曲解説 コンサート・パンフレットより

Posted on 2015/11/3

久石譲の過去のコンサートから「PIANO STORIES ’99 Ensemble Night with Balanescu Quartet」です。

「醍醐寺音舞台」(1998)で共演したバラネスク・カルテットとのツアー開催。そして本ツアー終了後にレコーディングするということが事前に企画されたなかで、全国12公演で磨きあげられた楽曲たちを完成版としてセッション録音「Shoot the Violist ~ヴィオリストを撃て~」(2000年CD)へとつながっていきます。

1996年あたりからのアンサンブル形態でのコンサート集大成、そしてCD作品化へと久石譲アンサンブルのひとつの結実をむかえます。

 

 

PIANO STORIES ’99 Ensemble Night with Balanescu Quartet

[公演期間]24 PIANO STORIES’99
1999/10/21 – 1999/11/11

[公演回数]
12公演
10/21 倉敷・倉敷市民会館
10/23 大阪・フェスティバルホール
10/24 名古屋・愛知厚生年金会館
10/28 盛岡・盛岡市民文化ホール
10/29 仙台・宮城県民会館
10/30 秦野・秦野市文化会館
11/1 広島・広島郵便貯金ホール
11/2 広島・広島厚生年金会館
11/5 福岡・メルパルクホール福岡
11/8 札幌・札幌コンサートホール
11/10 東京・東京芸術劇場
11/11 東京・東京芸術劇場

[編成]
ピアノ:久石譲
バラネスク・カルテット
Bass:斉藤順
Marimba:神谷百子
Percussion:大石真理恵
Wood Wind:金城寛文
Wood Wind:高野正幹

[曲目]
794BDH
Sonatine
New Modern Strings

「MKWAJU」より
MKWAJU
Tira-Rin

EAST (Balanescu Quartet)

Two of Us
太陽がいっぱい
Les Aventuriers

アシタカとサン (Pf.solo)
HANA-BI (Pf.solo)

【DEAD Suite】
Movement 1
Movement 2

DA・MA・SHI・絵
Summer ※Silent Loveモチーフあり
Tango X.T.C
Kids Return

—–アンコール—–
もののけ姫
Madness
DEAD Suite Movement 2 (11/11東京)

 

久石譲 PIANO STORIES 99 コンサート P1

 

【楽曲解説】

■北野武監督の代表作『Sonatine』のスリリングなメロディ・ラインでオープニングを飾る今年のアンサンブルは、編成もよりいっそう華やかな、独特なスタイルを組んでいる。プログラムとしては、書き下ろしになる新作をはじめ、初演曲やダイナミクなリアレンジのラインナップで、まったく新しいサウンドを聴くことができる。『794BDH』『Venus』と、その疾走感を生かしたサウンドが続く。

■MKWAJU(ムクワジュ)からの2曲『MKWAJU』『TIRA-RIN』は、ミニマル・ミュージクを”見せる”かのような、視覚的な面白さも味わえるのが聴きどころ。多重リズムが織りなす構造がユニークな、コンサートならではの楽曲。

■『EAST』はバラネスク・カルテットのオリジナル曲。そして『New Modern Strings』、ストリングスの裏アップビートのカッティングが耳に残る、あの『Modern Strings』と、どこかが違う!? 違いはステージにあり。昨年の新譜「NOSTALGIA ~Piano Stories III」で大胆なアレンジが印象的な『太陽がいっぱい』はコンサート初演。『Les Aventuriers』(「PIANO STORIES II ~The Wind of Life」)と共に、ヨーロッパのモダンな空気感を醸し出しつつ、5拍子のスピード感に乗って響くサウンドが心地よい。

■『アシタカとサン』は、宮崎駿監督作品「もののけ姫」でラストシーンをしめくくるピアノの音色が印象深い。そして『HANA-BI』はベネチア国際映画祭グランプリ受賞以来、世界でその音色を響かせてきた。今回は新たにピアノ・ソロというスタイルで。

■『DEAD Suite』はこのコンサートのための書き下ろしの新作。そして、ミニマルの傑作『DA・MA・SHI・絵』は新編成によるアンサンブルの響きを得て、立体的なサウンドを繰り広げていく。

■『Summer』は今年の夏に公開された北野武監督の最新作「菊次郎の夏」のメインテーマ。思わず口ずさみたくなるようなメロディを爽やかに奏でる。ピアノ・ヴァイオリン・チェロによるメロディが甘く切ない『Tango X.T.C』、そしてラストをしめくくる『Kids Return』は、わきあがるようなドライブ感が気持ちの良い、人気ナンバー。ニューバージョンで、そのキレの良いリズムを聴かせる。

 

久石譲 PIANO STORIES 99 コンサート P5

 

DEAD Suite

今回このコンサートのために書いた新曲「DEAD Suite」は、僕がクラシック、現代音楽の世界から離れて19年ぶりに書き上げた楽曲だ。DEAD-英語音名で言う「レ・ミ・ラ・レ」をモティーフにして作曲された楽曲だ。いささかポップスのフィールドを逸脱したかもしれないが、20代後半にポップスの世界に転向して以来初めての本格的な現代音楽作品になる。リズムが移り変わり、不協和音ぎりぎりのところで構成されたこの楽曲は、音楽家として生きてきた、自分のアイデンティティーのための曲である。

なぜ今まで音楽をやってきたのか? を問いつめながら、今世紀末のひとつの区切りとして僕にとって通らなくてはいけない道、なくてはならない楽曲となった。最終的には4曲から成り立つ組曲を考えているが、今回のコンサートえ披露できるのはその内の2曲までになる。後は来年書き足そうと思っている。

久石譲

(【楽曲解説】 ~コンサート・パンフレットより)

 

 

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久石譲 PIANO STORIES 99 コンサート P6

 

Blog. 「クラシック プレミアム クラシック プレミアム 47 ~ハイドン~」(CDマガジン) レビュー

Posted on 2015/10/24

クラシックプレミアム第47巻は、ハイドンです。

 

【収録曲】
交響曲 第101番 ニ長調 Hob. I – 101 《時計》
交響曲 第104番 ニ長調 Hob. I – 104 《ロンドン》
フランス・ブリュッヘン指揮
18世紀オーケストラ
録音/1987年(ライヴ)、1990年(ライヴ)

 

 

前号にひきつづき「西洋古典音楽史」にてテーマとなった「即興演奏」。今号ではその後編ということで、こちらもおもしろかったので、一部抜粋してご紹介します。

 

「そもそも楽譜の一部を演奏家の自由(即興)に任せるというのは、実は18世紀までクラシック音楽では当然のように行われていたことなのであって、文句を言うような筋合いのものではないはずなのだ。伝統的な作品で「好きなようにしてよい」箇所には、「ad libitum」という指示が記される。アド・リビトゥム(自由に)、つまり「アドリブ」の語源である。」

「協奏曲のカデンツァの部分は、演奏家にとって最大の即興の腕の見せどころだった。カデンツァとは協奏曲の第1楽章(そして第3楽章)の終わりのほうに置かれる大規模なソロの部分である。技巧的に他のところより格段に難しく長く華やかなので、聴いていてすぐわかるはずだ。ただしカデンツァは単なる演奏者の技巧披露の場所ではない。単に楽譜をそのまま弾いているだけでは退屈するだろうからと、演奏者自身にも創造のファンタジーを広げるために置かれた、白紙のスペース。それがカデンツァである。」

「演奏者の自由に対する作曲家の管理がカデンツァにまで及び始めるのは、ベートーヴェン以後のことだと言っていいだろう。具体的には有名なピアノ協奏曲第5番《皇帝》である。この作品の第1楽章のカデンツァを、ベートーヴェンは自分で書いた。もちろんカデンツァを自分で書くことは、それ以前もあった。しかし例えばモーツァルトが残したカデンツァは、代用可能である。それを使ってもいいし、別の作曲家が書いたものを使っても、あるいは演奏者自身が自由に弾いてもいい。しかし《皇帝》のカデンツァは違う。それは緊密に前後の流れに組み込まれているので、他のもので代用したりできない。しかも思い切り短い。まるで「演奏者が勝手に自分を見せびらかしたりするな」と言わんばかりである。」

「ベートーヴェン以後、19~20世紀を通して、演奏家に対する作曲家の管理は加速度的に厳格になっていく。18世紀までの楽譜は、ある意味で、極めてアバウトなメモのようなものであった。テンポの指定も強弱の指定もあまりない。細かい装飾などが演奏家の即興に任されていたことも、右に書いたとおりである。バッハに至っては楽器指定がないことすらある。どの楽器を使ってもいいということだ。それに引き替え19世紀後半以後の作曲家、例えばワーグナーとかマーラーとかラヴェルの楽譜を見ていると、そのパラノイアじみた細かさに眩暈がしてくる。テンポの細かい伸び縮み、強弱の微妙なニュアンス、音色変化など、すべてが細部に至るまで指示してあるのだ。」

「パラノイアとは誇張ではない。右に挙げた作曲家たちは皆、自分の作品が-とりわけ自分のいないところ、そして自分の死後において-どう演奏されるか、病的なまでに気にしていたのだと思う。逆に言えば、バッハやモーツァルトの楽譜のアバウトさは、それをどこで誰がどう演奏しようが、彼らがあまり気にしていなかった証かもしれない。いずれにせよ、自分の作品の不滅性に対する近代の作曲家たちの執拗はすさまじいものだったのだろう。自分の作品は永遠である、だから自分の死後もそれは意図したとおりに完璧に再現されなくてはならない-古代エジプトのファラオよろしく、一種の不老不死願望を作品に託するのだ。」

「しかし不滅を希求するからこそ、皮肉にも人は実存の不安に襲われる。自分のあずかり知らぬところで演奏家が勝手に自分の作品をいじるのではあるまいか。あそこのあのパッセージの強弱はああではなくて、こうでなくてはならないのに、一体どうすれば何人にも誤解がないよう、あのニュアンスが伝わるだろうか…。こんな不安にさいなまれ始めるのである。」

「この神経症じみた不安は、バッハやモーツァルトの「お好きにどうぞ」と言わんばかりの大らかさと、あまりにも対照的である。きっとバッハやモーツァルトは、自分の作品を永遠に残そうなどと、あまり考えていなかったのだ。また彼らは他者というものを深く信頼し、敬意を払っていたのだろう。だからこそ「お好きにどうぞ」と言えたのだ。永遠の生命を得ようとして逆に他者への不信にかられる。ロマン派以後の作曲家たちの実存の不安は、今ここ限りで霞のように消えてしまう音楽というはかなき芸術の運命を、敢えてそういうものとして受け入れるところに成立する即興の精神と、あまりにも対照的である。」

(「キーワードでたどる西洋音楽史47 即興演奏再考(下)」 岡田暁生 より)

 

 

「久石譲の音楽的日乗」第45回は、
ロマン派の音楽と文学の関係

ここ数号を通して音楽形式の話、ベートーヴェン《運命》を題材にした具体的な話が続いています。今号では古典派で確立されたソナタ形式をはじめとした交響曲から、それを超えるために模索したロマン派への話です。

一部抜粋してご紹介します。

 

「もう一度、ベートーヴェンの交響曲《運命》の話に戻る。頭のジャジャジャ、ジャーン(ソソソ、ミー)はIの和音、次のジャジャジャ、ジャーン(ファファファ、レー)はVの和音で、その後もIやIV、Vを中心に和音は進行する。前に書いた機能和声のI-V-I、I-IV-I、I-IV-V-Iの基本にほぼ沿っている(43号参照)。この機能和声とソナタ形式で古典派の音楽はほぼできているのだが、作曲家は同じところに留まらない。もっと新しい和音進行やソナタ形式以外の構造はないかと考える。」

「それはそうだ。創作家は昨日と同じものを作ってはいけない。だから五里霧中の中で一筋の光明を見いだすために日々苦しんでいるのだが、掘り尽くされた炭坑(油田でもいいが)をもう一度掘って新たな石炭を探すことは新しい場所を見つけて採掘するよりもっと難しい。つまりもうぺんぺん草も生えない場所にいるより、新たな地を探す方が賢明である。」

「これがロマン派の作曲家たちが考えたことである。ソナタ形式は前の世代でやり尽くされた。どう頑張っても彼らを超す事はできない。前号に書いたとおり、ソナタ形式では第1主題と第2主題を作った段階で大方の道筋がつくという事は、誰が作ってもある程度まではいけるわけである。その分、実に大勢の作曲家が同じ道を通ったことになる。自分だけの獣道が多くの足に踏まれて道になり、やがてコンクリートの道路になる。そこには個性(これも実はいろいろ問題があるのだが)はない。」

「新しい道、それは文学だった。詩や物語が持っているストーリー(ドラマ性)に即して音楽を構成することで、ソナタ形式からの脱却を試みた。例えばコーカサスの草原を旅するロシア人と東洋人が出会うというテーマで書かれたボロディンの《中央アジアの草原にて》やアルプスの1日を描いたリヒャルト・シュトラウスの《アルプス交響曲》、シェーンベルクの《浄められた夜》だってデーメルの詩に基いて作曲されている。管弦楽曲の場合はそれを交響詩と呼ぶことが多い。この新しい波を先導していたのがフランツ・リストだった。」

「和音進行も、よりエモーショナルになって、微妙な感情の揺れを表現するようになった。つまり、より複雑になっていくのである。その最たるものがリヒャルト・ワーグナーである。もともと「楽劇」なのだからドラマ性があるのは当たり前だ。あの有名なトリスタン・コードのように、もやは和音の進行は最後まで完結せず次々に転調し続ける。それが不安、絶望などの情緒を表現することに貢献した。その彼が交響曲を書かなかった事は暗示的だ。」

「さて、文学に結びつくことがトレンド(懐かしい言葉)だった時代、一方では相変わらず前の時代の方法に固執する作曲家もいた。ヨハネス・ブラームスである(他にも大勢いた)。彼は純音楽にこだわった。純音楽というのは音だけの結びつき、あるいは運動性だけで構成されている楽曲を指す。ウイスキーに例えればシングルモルトのようなもの。シングルモルトというのは一つの蒸留所で作られたモルトウイスキーの事だ。防風林も作れないほど強い風が吹く(つまり作ってもすぐ飛ばされる)、スコットランドのアイラ島で作られるラフロイグは、潮の香りがそのまま染み付いていて個性的で強くて旨い。対してブレンドウイスキーというのは香りや色や味の優れたものをミックスして作るウイスキーだが、シングルモルトほどの個性はない。」

「ロマン派の音楽はブレンドウイスキーだった。新説! ドラマ性という劇薬を使っているから個性的には見えるが、音自体での結びつきではバロック、古典派よりも希薄になった。しかも調性はどんどん壊れていき、形式ももはや情緒的なものに成り果て、なんでもありの今日の世界や音楽と同じ状況になった。歴史は繰り返される。そのことを危惧したシェーンベルクは、音楽史上類のない新しい秩序としての方法論を発表した。十二音音楽である。」

 

クラシックプレミアム 47 ハイドン

 

Blog. 久石譲 「第11回 醍醐寺音舞台 1998」(コンサート・パンフレットより)

Posted on 2015/10/21

1998年に開催された「第11回 JALステージスペシャル 醍醐寺音舞台」久石譲の総合演出によるコンサートステージ。

 

音舞台とは
音舞台シリーズは、様々な日本文化の発祥となり、また長い歴史のなかで日本人の心の”よりどころ”としてあり続けたお寺、その中でも日本を代表する名刹と言われるお寺に”舞台”を設え、「東洋と西洋の出会い」をテーマにした音楽企画。1989年に「金閣寺」で始まったこのシリーズは、「泉涌寺」「三千院」「清水寺」「平等院」「東寺」「延暦寺」「醍醐寺」「大覚寺」「二条城」「法隆寺」「萬福寺」「薬師寺」「仁和寺」「東福寺」「唐招提寺」「東大寺」「西本願寺」と続き、いずれも日本屈指の名刹を”幻の劇場”にした一夜限りの夢の舞台を実現してきた。音舞台では、この特別な空間でしか実現できないスケール感と本物だけがもつ迫真の力を最大限に見せる舞台作りを目指し、オリジナル且つ斬新で人々の心に強く残るステージをお届けする。

毎年9月頃に、京都・奈良の歴史建造建物である寺院を舞台に、国内・海外の一流アーティストを招いて行われるコンサート。主催は京都仏教会、毎日放送。

公式サイト:音舞台 MBS

 

 

第11回 JALステージスペシャル 醍醐寺音舞台

[公演期間]
1公演(総本山醍醐寺境内 国宝・金堂前仮設ステージ)

[公演回数]
1998/9/5

[編成]
総合演出:久石譲
久石譲アンサンブル
(pf 久石譲/wood wind 金城寛文/marimba 神谷百子/bass 斉藤順)
ディープ・フォレスト
バラネスクカルテット
ニューヨーク・シティ・バレエ選抜メンバー
RIKKI(中野律紀)

[曲目]
山伏 法螺貝
EAST
THE ROBOTS
RYDEEN
MODEL
MKWAJU
794BDH
Kids Return
HANA-BI
Madness
Bolero
塩道長浜節
もののけ姫
EKUE EKUE
SWEET LULLABY
MADAZULU
BOHEMIAN BALLET
DEEP WEATHER
DEEP FOLK SONG
FREEDOM CRY
Asian Dream Song

 

 

「PIANO STORIES ’98 Orchestra Night」コンサート・パンフレットにて特集された音舞台後の久石譲インタビューおよびトピックです。

 

 

聴く人が音楽に入りやすい環境を作る
それが演出の目的だと思っています

うれしいことにパラリンピックでの開、閉会式の演出がとてもうまくいって高い評価をいただいたこともあって、あれ以来、演出を含めた形でのイベント出演のお話が増えています。演出も含めて総合的に関わる仕事というのは、自分の世界をより強烈にアピールできるという意味で、とてもやりがいを感じます。こういうスタンスもいいな、と。

今回の「音舞台」の演出の発想は、特徴ある醍醐寺・金堂の屋根をどう際立たせるか、というところから入りました。いろいろなアイデアのひとつに、途中で雨を降らせるという演出があって大量の水を使いましたが、ある程度の空間以上になるとスペクタクルなダイナミックさは必要だと思います。実際に想像以上にうまくいって、パラリンピックのときと同じくらいのクオリティーを保てたことに、とても満足しています。

ただ、一人の人間のやれる量をはるかに超えてましたね。翌日ピアノを弾くにもかかわらず、寒い中、前日の夜中2時ぐらいまで証明をチェックしたり。これはやっちゃいけないなと反省しました。本当はこう関わるべきなんだろうというのがわかってきたので、今後は演出だけ、ピアノだけというように分けていくと思います。

こうした演出の出発点は、音楽を聴く人たちがより入りやすい環境を作るということです。音楽を聴く環境を作って、総合的に人に訴えることができる。この音楽はこういう環境で聴くのが理想だろうと。そういうところまで自分で演出できることは幸せですね。

(「久石譲 PIANO STORIES ’98 Orchestra Night」 コンサート・パンフレットより)

 

久石譲 音舞台 醍醐寺

 

1989年から始まり今回で11回目を迎えた「音舞台」は、これまでに金閣寺や清水寺、平等院などの京都の名刹を舞台に”東洋と西洋が出会うとき”をテーマにした数々のステージを創り出してきた。今年は山科屈指の名刹、「醍醐の花見」でも有名な醍醐寺で開催され、久石譲がその総合演出を手がけた。国宝の金堂前に設けられた特設ステージでは、万物を生成する5大要素とされる「地」「水」「火」「風」「空」をイメージモチーフとした構成に基づき、それぞれの出演者ごとのステージなど、約20曲の演奏がくりひろげられた。演出には大量の放水や照明が効果的に使われ、会場の雰囲気が高揚したところで出演者全員のセッションによる最高潮のフィナーレを迎えた。

 

久石譲 音舞台 醍醐寺 1

久石譲 音舞台 醍醐寺 2

(同パンフレット内 特集より)

 

久石譲音楽活動の時系列において注目すべきは、この音舞台でバラネスク・カルテットと同じステージに立ったということ。出会いであり初共演となった音舞台を経て、翌年「PIANO STORIES’99 Ensemble Night with Balanescu Quartet」コンサート・ツアーは一緒にアンサンブル・ステージを展開します。

そしてオリジナル・アルバム『Shoot The Violist ~ヴィオリストを撃て~』(2000)へと結実します。つづく初監督作品『カルテット』の音楽演奏もそうです。やはり久石譲のコンサートは、創作活動の源、一期一会です。こういった単発企画からでさえ、CD作品化までつながっていくのですから。

 

音舞台の出演は、ここから13年後の2011年「西本願寺音舞台」に出演しています。

久石譲 西本願寺 音舞台

 

同コンサート・パンフレットは、ほかにもソロアルバム「Nostalgia」や「交響組曲 もののけ姫」のレコーディング日誌など、ボリューム満点の久石譲活動履歴が記録されています。

 

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