Posted on 2015/1/13
クラシックプレミアム第27巻はモーツァルト4です。
第2巻にてモーツァルト1 アイネ・クライネ・ナハトムジーク など、第6巻にてモーツァルト2 交響曲 第39番・第40番・第41番、第12巻にてモーツァルト3 ピアノ・ソナタ集 第8番・第10番・第11番、そして今号にてモーツァルト4 5大オペラ名曲集です。第35巻にてモーツァルト5 クラリネット協奏曲 他 (4月28日発売予定)が特集予定となっています。
5回にわたってその音楽が紐解かれるのは、全50巻のクラシックプレミアム・シリーズにおいて、このモーツァルトとベートーヴェンのみです。その偉大さと、名曲の多さがうかがえます。
【収録曲】
《後宮からの逃走》 K.384より
序曲/〈愛よ!お前の強さだけが頼りだ〉
イアン・ボストリッジ(テノール)
ウィリアム・クリスティ指揮
レザール・フロリサン
録音/1997年
《フィガロの結婚》 K.492より
序曲/〈もう行けまいぞ、愛の蝶よ〉
〈お授けください、愛の神様、なにがしかの慰めを〉
〈恋とはどんなものか〉〈そよ風によせる〉
マーガレット・プライス(ソプラノ)
キャスリーン・バトル(ソプラノ)
アン・マレイ(メゾ・ソプラノ)
トーマス・アレン(バス)
リッカルド・ムーティ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音/1986年
《ドン・ジョヴァンニ》 K.527より
序曲/〈愛らしきご婦人、これぞ目録です〉
〈あそこで我らは手を取り合おう〉
〈ぶって、ぶって、ねぇ、素敵なマゼット〉
バーバラ・ボニー(ソプラノ)
トーマス・ハンプソン(バリトン)
ラースロー・ポールガール(バス)
ニコラウス・アーノンクール指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音/1988年
《コジ・ファン・トゥッテ》 K.588より
序曲/〈僕は立派なセレナーデの楽隊を〉
〈ああ、見てちょうだい、妹〉〈風がおだやかにあり〉
ヒレヴィ・マルティンペルト(ソプラノ)
アリソン・ハグリー(ソプラノ)
クルト・シュトライト(テノール)
ジェラルド・フィンリー(バリトン)
トーマス・アレン(バス)
サイモン・ラトル指揮
ジ・エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団
録音/1995年
《魔笛》 K.620より
序曲/〈おれは鳥刺し〉
〈お前の魔法の調べはなんと力強いのだろう〉
〈地獄の報復が私の胸中で煮えたぎり〉
ナタリー・デセイ(ソプラノ)
ハンス=ペーター・ブロホヴィツ(テノール)
アントン・シャリンガー(バリトン)
ウィリアム・クリスティ指揮
レザール・フロリサン
録音/1995年
「久石譲の音楽的日乗」第26回は、
音楽の中の「ユダヤ的なもの」について
視覚と聴覚の問題から、話はユダヤ人の定義に飛び、その背景や芸術家におけるユダヤ人のことなどなど。その続きでもあるのですが、久石譲の原点でもあるミニマル・ミュージックについても触れられ、その枝葉はますます広がっています。なかなか抜粋が難しい構成で書かれていて、、ほぼ正確にご紹介させていただきます。
「ミニマル・ミュージックという作曲のスタイルがある。それは僕のベースになる手法だが、正確にはその後に出たポストミニマル、あるいはコンセプチュアル、ホーリー・ミニマリズムなどを経たポストクラシカルといわれるスタイルのほうがより自分には近い。」
「本来、作曲をカテゴライズすることなど意味のないことなのだが、音楽史的には「古典派」「ロマン派」「後期ロマン派」「無調」「十二音」とか「セリエル」(注1)「トーン・クラスター」(注2)など、分類する事は便利ではある。現代の多くの作曲家は、自分の感性を主体に音楽を作っていると思うが、自己の中だけで完結してしまいやすいので、世界の作曲の動き(スタイル)の中で自分がどこに位置するかを考えることも重要だと僕は思う。」
「作曲された作品は最終的に個人のものには属さない。すべては世界の音楽の歴史の中に集約されていく。ベートーヴェンの時代に彼だけがあのような音楽を書いていたのではなく、多くの作曲家が(ベートーヴェンより売れていた人もいた)マクロでは同じようなスタイルを取り、お互い意識しながら切磋琢磨していたはずだ。作曲家は意外に気が小さく、ほかの作曲家が書いたものを気にする。当然その時代に生きる作曲家同士影響し合い、方法論として同じスタイルを取ってしまう。それが「時代のスタイル」であり、その中で時代を経て生き残ったのがベートーヴェンなのだ。」
「このように時代を代表するスタイルを無視せず、迎合せず、その時代だけに通用する流行ものにとらわれず、その時代の中の永遠のテーマになり得る真実を見据え音楽を作る、それこそが作曲の基本なのである。なんだか作曲のことに触れると力んでしまう(笑)。」
「正統なミニマル・ミュージックを名乗れる作曲家は4人しかいない。ラ・モンテ・ヤング、テリー・ライリー、スティーヴ・ライヒ、そしてフィリップ・グラスなのだが、この中の半分はユダヤ人とされる。イギリスの著名なミニマリスト、マイケル・ナイマン(映画『ピアノ・レッスン』で有名)も両親のどちらかがユダヤ系であり、かなりのシンパシー(あるいはユダヤ人かも)を抱いているはずだが、前回に書いたとおりユダヤ人の定義が不明確なのではっきりわからない。」
「ミニマル・ミュージックの基本は小さなモチーフ(音型)をくり返しながら、微妙にズラしていく過程を聴く音楽だ。そしてその音形を論理的に構築していく。平たく言えば、ああすればこう成るといった明快な構造が大切だ。」
「この論理性(実はだからこそ感性は解放され、エモーショナルなものなのだが)はユダヤ人の得意分野だと思う。基礎能力、人間的レベルがきっと高いのだろう。『レナード・バーンスタイン/答えのない質問』というハーヴァード大学での音楽講座のDVDがある。テレビ放映用に作られたものだが、音楽にとどまらず詩、文学や演劇、哲学に至るまでのすべての芸術と科学の知識を駆使しながら音楽史を読み解いていく、優れたレクチャー番組だった。タイトルの『答えのない質問』はチャールズ・アイヴズの作品名から取ったもので、僕も指揮したことがあるが、1908年にこのような前衛的な作品を書いたアイヴズはもっと評価されるべきだし、このタイトルを番組名にしたバーンスタインのセンスの良さも窺える。彼もユダヤ人だ。」
「作曲家としてのバーンスタインには二つの側面がある。一つはミュージカル《ウエスト・サイド・ストーリー》に代表されるようなエンターテインメント性、もう一つは交響曲第1番《エレミア》、交響曲第3番《カディッシュ》など、ユダヤ教の影響を受けた宗教的作品だ。交響曲のほうは随分前に聴いた程度で、論じるほどの知識はない。」
「彼の作品はあまりスタイルにこだわらず、ジャズ的であったりクラシック的であったりで色々な手法が混在する。別の言い方をするとそれほど論理的ではない。先ほどミニマル・ミュージックについて書いたときにユダヤ人は論理的と言ったのとは真逆になってしまうのだが、これは単なる個人差(個体差)なのか?いや物事は相対的なものであって、ひとつの側面しか持たないという事はない。エンターテインメント性、芸術性、宗教的なものが混在し、その上でも書かなければならなかった思い(こう書くとなんだか軽いが)が優先したのだろう。それは作曲家として、あるいはユダヤ人としての宿命なのかもしれない。実はもう一人偉大なユダヤ人の作曲家がいる。グスタフ・マーラーだ。」
「彼の音楽もとりとめがなく、構成的に弱いと指摘されるのだが、意外に伝統的な交響曲の基本であるソナタ形式を踏まえて作っている。だが、全体を覆っているある種の感情、難しい言い方だが、「永遠の憂情」のようなものが、形式や構成を飛び越えて我々の耳に飛び込んでくる。それが「ユダヤ的なもの」なのか?次回に続く。」
注1)セリエル:音の高さや長さ、音色などさまざまな要素で音列を構築する手法
注2)トーン・クラスター:半音より細かく分けた音群を同時に響かせる手法