Posted on 2022/11/21
2022年12月9日開催「第28回 四人組とその仲間たち」コンサートです。今回のゲスト作曲家として久石譲出演予定です。その連動企画として貴重な作曲家対談が実現しています。その第2回(全3回予定)です。ぜひご覧ください。
特別対談企画【久石譲×西村朗】第2回:現代音楽とバッハとミニマル・ミュージック (約16分)
今年で第28回目を迎える全音楽譜出版社主催コンサート【四人組とその仲間たち】。
今回のゲスト作曲家である久石譲に、四人組を代表してスポークスマンの西村朗が迫ります。
第2回はさらに現代音楽を深掘りした結果、古典的な音楽やミニマルミュージックなどについても幅広く音楽について語り合います。
第3回の配信は11月下旬を予定しています。
ここでしか聞けないエピソード満載!?お楽しみに!
■コンサート情報
2022年12月9日(金)開催
全音現代音楽シリーズその28 室内楽コンサート
四人組とその仲間たち2022
https://www.zen-on.co.jp/rent_news/221209_concert_c/
■チケットはこちらから
東京文化会館チケットサービス
https://www.t-bunka.jp/tickets/
TEL:03-5685-0650
※生配信も予定しています
■四人組コンサートアーカイブ
第1回(1994年開催)からの全作品の演奏が試聴できます。
https://www.zen-on.co.jp/rent_news/4ningumi_archive-2/
■第一回対談【作曲家の真意と現代音楽】はこちら
https://youtu.be/r91n076o-RE
from 全音楽譜出版社公式YouTube
あわせて作曲家によるプログラム予定の楽曲解説もぜひご覧ください。
新実徳英インタビュー「魂舞ひ バリトンとピアノのために」(全音「四人組コンサート」2022)
https://youtu.be/dTLh23qG9L0
池辺晋一郎インタビュー「バイヴァランス XVII 2本のトロンボーンのために」(全音「四人組コンサート」2022)
https://youtu.be/euG6p2_vARs
西村 朗インタビュー「キールティムカ ユーフォニアムとマリンバのための」(全音「四人組コンサート」2022)
https://youtu.be/Joe87zzICEk
(11月22日時点 3作品解説 公開中)
とてもおもしろい!興味深い!好奇心いっぱい!な内容でぜひ書き記したい。テロップを元に補完しています。
西村:
12音技法の話ですけど、結局彼らが間違った道に入り込んだのも最初からで。シェーンベルクの「ピアノ組曲作品25」が最初の非常にまとまった12音技法ですけれども、あそこからもう間違ってるんですよ。なぜかというとポリフォニーになっていて、いくつかのセリーが同時進行してるんですよね。そんなことやると12音の音の並びに純粋性なんかもうなくて、他のパートですから大丈夫ですよと同じようなことがいっぱいあったらおかしいじゃないですか。
久石:
というかあれ元々の発想自体が、調性を感じさせないために全てに比重を同じにしようという発想自体が…それ何のため?
西村:
それ自体は別にいいと思うんですよ。単旋律で置いておけば良かったんですよね。単旋律で12音セリーが色々順番に進む…単旋律ですから徹底的に純粋に無調がずっと続くわけじゃないですか。あれを多層化すると駄目なんですよね。その間違いに最初に気が付いてない。
久石:
多層化する…
西村:
だから私のヘテロフォニー的なやり方も…音楽として純粋性を保てるとも言えるわけですよね。
久石:
確かに…。僕も線の音楽やっちゃってるからね。できるだけ…いや…作曲科を出ると必ず最初にまず和声学をやるじゃないですか。
西村:
入る前にやらされますよね。
久石:
そうすると、まず作曲の基本って音のハーモニー感から始まるじゃないですか。響きですよね。響きっていうのは結局今度は純粋なというか王道の現代音楽の人たちは特殊奏法を含めてやっぱり響き中心になっちゃうんだよね。どうしてもね。だけど響き中心でやっている限り響きに論理的なことってないですよね。
西村:
まあそうですね。論理的なっていうのはないかも分からないですね。秩序というのは作ることができるかも分かりませんけれども。
久石:
例えば?
西村:
例えばスペクトル学派がやったような倍音構造
久石:
倍音構造ね、なるほどね、そういうことはあり得る。だけど、結局西洋音楽って基本的にはハーモニーの歴史、後半は、バッハ以降はなってきますよね。そうすると、ハーモニーが一番やったことっていうのは、結局感覚的に訴えるってことにも近いじゃないですか。
西村:
なんて言うんでしょうか、コード・プログレッションで、和声は次の和声と進んでいくという時に理論が成立したんですよね。属七の第7音が下降するという。まだ16世紀の頭ぐらいですかね。そこからですね、和声法というのが単なる和音の連なりから、和声法というプログレッションが生じるという。
久石:
でましたよね。でその時に要は長調短調ということで、これは人間でいうとやっぱり明るいよ暗いよみたいな感情…感覚的に訴えかけるものがすごく強くなった。
西村:
だから教会旋法から抜け出るということは相当な闘いだったと思うんですけれども。長調短調となるともう教会旋法じゃないんです。転調含みになってるし。
久石:
そうするとこれが結果的に後期ロマン派まで、それがどんどん複雑な転調を繰り返すとはいえグズグズのところまでいったときに、「もうどうすんだこれ…何か次の道はないのか」っていうことのぎりぎりまでいっちゃったわけじゃないですか。簡単に言っちゃうと。だから何か僕はいま現代でも一番考えちゃってるのは、響きに頼らない作曲法ができるだけやりたい、そうじゃないと…
西村:
響きというのは和音という意味ですか?主に
久石:
いや響きというのはもう特殊奏法なんかも含めた音の…
西村:
サウンドテクスチャーですよね。
久石:
それを中心に組み立てていくということは非常に自分の感覚中心になるということになっちゃうから、極力それは排除する。
西村:
ということは「形」というものを重視するということですか?
久石:
そうですね…フォーム? できるだけ論理的な構造になった方がシステムつくるみたいになった方がいいな。そうすると逆にいうと、ソはソの音でいいよという話に…
西村:
何の楽器であろうとね
久石:
レはレでいいっていう
西村:
もうバッハですよね、そうすると
久石:
あっそうなんですよ。気づいちゃったら感情も入れない、それで純粋に音の構造でやろうと思ったら…要するにバッハに戻るということですよね。
西村:
バッハは最強ですよね。あそこが頂点ですよね。
久石:
喜び悲しみみたいなことじゃなくて、純粋に一つの音型が浮かんだ、それに対するフーガなりの形になると純粋な音の運動性みたいなものですよね。あれっていま自分の最大の興味になりますね。
西村:
喜怒哀楽なんかは後からくっついてくるんですよね。
久石:
アメリカの作曲家もみんなそうなんですけれど、何か非常に洒落た良いタイトルをつけるじゃないですか。でもそのつけた段階である種言葉で表現するのに近い、何か意図が出てきちゃうわけじゃないですか。例えばね。そうすると僕はいまそれも邪魔くさく感じる。
西村:
「コンポジション1」とかそうなるわけですね。
久石:
そう。だから「バリエーション」とかね、できたら「ディヴェルティメント」でいいよとかね、そういうイメージになっちゃうんですよね。なんでかっていうと…一つの音型なり何かを決めた、それがどうやって純粋に運動していって行く…結果それだけであがっていると、ある人はそれで「朝」を感じるって人もいるかもしれないし、ねっ、なんか喜びだ悲しみだと感じても全然構わないし、こっちのほうは俺自身は全くそれを主張してないという考え方でやったほうが、何かこう純粋な運動性という方が今の時代にいいんじゃないかな。というか逆に言ったら、この例えばパンデミック2年3年続きましたよね。この時期何を書こうかという時に、人はどこへ消えるのかとかね、何か色々考えちゃったこととか、で、ヨーロッパの作曲家なんかもすごくいま政治問題が多いんですよ。ジャンダーとかあるいは色々なもの、政治、それに対する怒りとかね、そういうものをベースに曲を作っているのが多いんですよ。その段階で意図はもう出ちゃうわけですよね。それはもう完全な純粋な音の問題ではないですよね。だから何か、いや~みんな苦しんでるという「苦しいよね」という曲を書くのはバカでしょうとか思っちゃうから、そうするとできるだけ…シンプルな音の運動性のあるものを…というのを最近感じるんですけど西村先生どうですか?
西村:
そうですね、もしかしたら真逆かも分からない。
久石:
え、例えば? 例えば最近書いた曲っていうのは?
西村:
例えば管弦楽曲なんかだと、N響で書いた曲があるんですけど、そういうのというのは、裸で見えるものがあんまりないですね。もう冒頭の響きの塊からしてですね、なんというかな中心になっているものがもうはっきりしないというような。
久石:
わざとそういう風にして?
西村:
そういう何かが生まれ出るときに、一つの線や点から出るのではなくて、ぼわっとした何かが出るようなそういうイメージで書く。だから金属打楽器群であるとか声部を多くしたモードクラスターが揺れ動くような状態とか。だからまあ絵画でいうと印象派・後期印象派みたいな感じのぼうっとした世界ですね。はっきりしたのは見えない。
久石:
ある種じゃあ響きが重要視?
西村:
五感全体に働きかけたいなみたいな感じがあって、響きの質感とかいわゆる音色
久石:
あっ、でもそれこの前のトランペットとピアノの時もおっしゃっていましたよね? この…(昨年の四人組コンサート)
西村:
だいたいいつもそういう感じで…。だから今お話聞いてて、そうかそしたらやっぱりそういうの全部剥ぎ取っていってね、骨格の部分で果たして魅力ある部分というか、何か将来へ残り得るような強さを持った骨格のラインみたいなものを持っているかと言われると、ここはちょっと自分では考えてみなきゃいけない部分だなという風に思いながら、今お話を伺ってました。
久石:
逆にね、僕も今そんなことを考えながらやっているんだけれど、実は論理的な構造であるということはできるだけ相手にも分かるということですよね。そうするとすごいシンプルにせざるを得ない。そうするとあんまり論理的になるということは次が予想できるってことなんですよ。次が予想できる音楽なんてつまんないじゃないですか。ある意味で。そうするとそこのさじ加減ってどうする気なんだろうねと思いながら最近すごく悩んでますよね。
西村:
またバッハのような何か、そういう域を超えたあるいは普遍性に到達しているような音と音の関係性の中で…まあ調性が背後にあるわけですけど、達してしまえばそれはそれでメチャクチャ強いわけで、何回聴いても100年後でも毎日その曲を聴いていても大丈夫みたいな…何か「真理」みたいなもの。
久石:
本当はその辺に憧れたいんですけどね。
西村:
和声法の進行法なんかである種普遍的な効果が上がるもの…ゼクエンツの作り方とかありますよね。それの変形変奏がバロック時代にたくさんやられているから、もともとに戻してみれば「あ、この和声進行で作られているんだな」というところまで一応分析解体できますよね。
久石:
できますね。
西村:
だからそういうことが現代においてももしあるのであればそれはそれで非常に面白いですし。
久石:
なんかこう、どちらかというと自分は別にミニマル的なパターン…ミニマル・ミュージックの作曲家って4人しかいませんからね。単純にいうと
西村:
4人目は誰ですか?
久石:
ライヒさん(スティーヴ・ライヒ)、グラスさん(フィリップ・グラス)、テリー・ライリー、ラ・モンテ・ヤングじゃないですかね。
西村:
やっぱりヤングは入るんですね。
久石:
だと思います。そうするとこの4人以外の人はそれに影響を受けた次の人でしかないから。別にもうずいぶん昔の技法だし。ただ最近やっぱり見ててもヨーロッパ・アメリカの作曲家の若手がみんなやっぱりその影響を受けているんですよね。多分意識してない、自分はミニマル作家だとも思っていない。ところがミニマルをやっていた連中に2つタイプがいるんですよね。一つは技法として繰り返すということをベースにおいて作曲する、作曲のテクニックとしての繰り返しの人と。もう一つ構造の問題でとらえたときに、ミニマル・ミュージックって金太郎飴じゃないですか、どこを切っても変わってないからあんまり。徐々にこうやって変化はしているんだけど、たいして変わってねえよみたいなもんで。ということは、始まりがあって終わりがあって盛り上がりがあってエンディングがあるっていう、人の人生のような「出だしと終わりがある」という前提と違う構造を持ち込んだ。民族音楽もそうですよね。その方法論の音の考え方っていう、多分この2つしかないんだと思うんですよ、やり方としてはね。で、おそらく最近僕がよく考えちゃっているのは、ミニマル系の人たちの基本はジョン・ケージだと思いますよ。あそこからやっぱり派生していったんじゃないのかという気がします。どう思われます?
西村:
アメリカ人というのは玄人のやることが大嫌いで、だから学者の言うこととか、あるいは和声法とかそういうの全部否定したいわけですよね。その「否定したら何があるのか」ということから始めるから、そういう意味でのミニマルの作家たちも最初は既存の音楽的美学であるとか構造性というのを完全に無視して、3人特に、ラ・モンテ・ヤングは別として3人はね。
久石:
無視したっていうかねえ…ジョン・ケージもシェーンベルクに習ってましたよね。
西村:
最初カルフォルニアかなんかでね
久石:
で12音技法をやってるんだよね。やってるんだけど、本人ははっきり言った…音が分かんないと、うん、だから自分はもうこのスタイルは無理だ。これすごい正直ですごいなあと思ったんですよ。
西村:
だから自分が作曲の才能がないと先生からハッキリ言われた時にどういう態度を取るかのひとつは…「じゃあ音楽を変えてしまう」と。「和声法なんかいらないや」みたいな…ケージのすごさはそこですよね。
久石:
ですよね。今までのやり方の中に入っていくのと全然切り口変えてるじゃないですか。
西村:
特にライヒのやり方がすごく戦略的で。例えばマイクロフォンがこうやって動く中でハウリングがいろいろ起こって、それが彼にとっては新しい音楽の形がということで感じ取れたというのはすごいし。ピアノ・フェイズみたいに速度がちょっとずれるということで起こるモアレ現象というものの中に無限の音の変化の可能性っていうのを聞き取ったとかというのは、従来の作曲とは全然違いますよね。彼はミニマルと言われることをすごく嫌ったみたいで、位相ずれプロセスの音楽、位相がずれていくという…初期はね、後はだんだんミニマルになっていったと思うんですけど。そういう発想はやっぱりすごいですね。これはやっぱり確かにおっしゃるようにケージの発想のすごさとやっぱり淵源でつながっているなという感じがいたしますね。
久石:
結局アメリカの音楽というのはやっぱり、僕も最近指揮していてすごく考えるんですけど、結局ドイツ…うんまあほぼ中心の西洋クラシック音楽の流れというのがあった。それからもちろん片方でフランス、特に日本の現代音楽の作曲家の人はパリ音楽院スタイルと一番密接ですよね。
西村:
まあ、池内先生(池内友次郎)が出ましたからね。
久石:
我々も何かそのほうで
西村:
大迷惑を受けました(笑)
(動画より書き起こし)