2014年10月25日発売 雑誌「クロワッサン」(特大11/10号 No.888)の“MUSIC”コーナーに久石のインタビュー記事が掲載されています。
内容は新作『WORKS IV』関連インタビュー。「サウンドトラックがシンフォニックに。パーソナルな楽曲が普遍的な作品へ。」というタイトルで1ページのインタビューを掲載。
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2014年10月25日発売 雑誌「クロワッサン」(特大11/10号 No.888)の“MUSIC”コーナーに久石のインタビュー記事が掲載されています。
内容は新作『WORKS IV』関連インタビュー。「サウンドトラックがシンフォニックに。パーソナルな楽曲が普遍的な作品へ。」というタイトルで1ページのインタビューを掲載。
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「サウンド&レコーディング・マガジン」2014年11月号に、
久石譲のインタビューが掲載されています。
新譜「WORKS IV -Dream of W.D.O.-」のサウンド・メイキングなど
専門誌ならではの話が満載です。是非チェックしてみてください。
(久石譲オフィシャルサイト より)
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Posted on 2014/10/24
2014年10月4日 発売
雑誌「考える人 2014年秋号」(新潮社)
【特集】「オーケストラをつくろう」にて、久石譲の7ページにおよぶインタビューが掲載されています。
たとえば、映画作品や音楽作品発表時などのインタビューでは、その作品への話題に特化しています。今回のロングインタビューでは、”オーケストラ”を切り口に、様々な角度から久石譲の思いや考えを読み解くことができます。
作品や販促宣伝にとわられない、まさに久石譲が今語りたいことを語ったインタビューだと思います。かつ特集テーマを軸に、かなり掘り下げた専門的な内容にもなっています。
作曲家や音楽家はメディアにおいてその多くは「言葉の力」ではなく、発信する”音楽そのもの”で自身を表現することが多いなか、今回のインタビューは大変貴重な言葉の記録です。
要点などはまとめませんので、先入観なしに読んでみてください。
抜粋してご紹介します。
オーケストラを未来につなげるために僕は”今日の音楽”を演奏する
クラシックから映画音楽までジャンルに囚われることなく幅広い楽曲を作曲し、指揮し、ピアノ演奏する久石譲氏。今日のオーケストラが抱える問題に真摯に向き合い、「アートメント」をきちんとやりたい語る。芸術を「日常にする」ための挑戦を尋ねた。
久石 映画音楽を含めて、僕の仕事の八割から九割はオーケストラとの作業です。作曲したものも八割強がオーケストラとの仕事。指揮もする。となると、自分にとってオーケストラは、あえて何かと考える必要がないくらいに、日常的なものなわけです。昔はシンセサイザーで曲の半分を作っていた。でも今は、基本的に生の演奏を中心に考えていますから、ほとんどオーケストラです。
オーケストラについて考えてみると、実は非常に変な組織です。ジプシー音楽を想像してもらえればわかるのですが、本来弦楽器というのは、みんなポルタメント(音から音へなめらかに移動する奏法)を使い自由に弾いていた。それをオーケストラのように十数人の第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリンが、一糸乱れることなくボウイング(弓使い)も揃えて同じように弾く。ビオラもチェロも……となると、弦楽器が持っていたものと全く違うんですよ。本来はそれぞれ心のままに演奏するはずが、全員で一糸乱れぬ演奏をする。そして十八世紀以降、木管や金管も入ってプロの演奏家集団ができ、多くの演奏回数をこなすためにも指揮者を中心に一つの意思で演奏する形態になる。宗教と一緒です。神様、すべて一つに集中させる方式をとっていかないと成立しない。
では、集団で弾くのは個性や意思がないかというと、そうではない。ここからがオーケストラの神髄になる。アンサンブルの本当のおもしろさは、自分がパーツになるという意識は本来ないところ。みんな自分を主張するのが基本です。オーケストラは個人業者が集まっているようなもので、一人一人意見もあれば考えもある。その個人業者の優秀な人たちが八十人とか百人とか集まって成立している。では、思いどおりに演奏させたらどうなるか。一曲だって完成しない。いい例が、ある有名な弦楽四重奏団。一小節を弾いた瞬間、「お前の違う、こうだよ」と、二時間ぐらい議論する。またちょっと弾いては、いやそれは違う、と。一日弾いても一楽章も進まない。そういう演奏家が大勢集まるオーケストラでは、年間百回近いコンサートをこなすために、指揮者を決めて、指揮者を基本にするようになる。
常任指揮者というのは、オーケストラ側の意思を一番反映してくれて、あるいは自分たちを変えてくれる人を任命するわけです。何度もコンサートを重ねていく中で、お互いに音楽をつくりあげていくというリスペクト関係ができる。それで初めて常任としての役割も果たすし、オーケストラも変わっていく。しかし、間違いや乱れのない、音程もしっかりしている音楽をつくったらいい指揮者かというと、そうではない。みんなのメンタリティの部分を全部引き出した上で、どういう音楽をつくっていくかがわかっていることが大事です。ある種、現場監督的なことも指揮者にとって大きな役割です。映画監督と指揮者=音楽監督、それと野球の監督というのは一緒なんです。
この三つに共通しているのは、何もしないこと。指揮者は舞台に上がっていながら唯一音を出さない。野球の監督は、打ちはしないし守りもしない。映画監督は画面に映っていない。ところが、監督がどういうものを目指すかが明確でないと、野球のチームはボロボロになり、映画だって何だかわからないものができてしまう。音楽も一緒。みんなをこっちの方向に引っ張りますということをきちんと言う。ベートーヴェンならどういうベートーヴェンをつくりたいかを明確に示すのがいい指揮者です。
古典芸能にしないためには
いま僕が一番考えているテーマは、オーケストラの現状、それを未来につなげるにはどうしたらいいのかということです。現在のオーケストラは問題を多く抱えている。何より収益性。百人以上の団員がいて、一回のコンサートで大体二千人の客が入るとする。一人六千円だとしても収入は一千二百万円です。オーケストラだけのギャランティから言うと収支は合うかもしれないが、練習場や移動費などの諸経費を考えあわせると全くペイしない。
オーケストラの収入は、基本的に三分の一がチケット収入。定期演奏会などオーケストラが主催するコンサートのチケット売り上げですね。それから、歌手のバックやテレビ番組など依頼されて演奏するときの出演料が三分の一。残りの三分の一が、いわゆるスポンサード(後援のついた公演)なんです。この三つがないと、オーケストラは成立しない。
ロックと比べると対照的です。ロックバンドは五~六人でしょう。その人数でもPA(音響)で音を拡大して、二万人、三万人集めることができる。一回のツアーで十億近く稼ぐ。それに比べると効率が悪いですよね、オーケストラは。この問題は日本だけでなく、すべてのオーケストラが抱えている。音楽の本場であるドイツには、地方にもバンベルク交響楽団など非常に素晴らしいオーケストラがいっぱいある。ところが、二百近くあったのが、この十年間でかなり減っている。
最終的に僕が言いたいことは一点。クラシックが古典芸能になりつつあることへの危機感です。そうでなくするにはどうしたらいいかというと、”今日の音楽”をきちんと演奏することなのです。昔のものだけでなく、今日のもの。それをしなかったら、十年後、二十年後に何も残らない。前に養老孟司先生に尋ねたことがあります。「先生、いい音楽って何ですか」。すると、養老先生は一言で仰った。「時間がたっても残る音楽だ」と。
例えばベートーヴェンの時代、ベートーヴェンしかいなかったわけではない。何千、何万人とい作曲家がいて、ものすごい量を書いている。でも、ベートーヴェンの作品は生き残った。今の時代もすごい数の曲が書かれているけれど、未来につながるのはごくわずか。つまらないものをやると客が来なくなる。だが、やらなかったら古典芸能になってしまう。
未来につなげる努力をプログラムに取り入れなければいけないのに、その努力が足りない。年に数回、現代音楽祭という、”村社会”のコンサートのようなものはあるけれど、必要なのはそれではない。通常のプログラムの中で現代音楽を入れていかないといけない。ところが日本では圧倒的に少ない。だから、作曲家であり、指揮する自分のやり方は、必ず現代音楽をプログラムに入れて、接するチャンスを提供することです。例えば、九月二十九日に開催した「Music Future」と題するコンサートでは、ヘンリック・グレツキの「あるポーランド女性(ポルカ)のための小レクイエム」(一九九三年)や、アルヴォ・ペルトの「スンマ、弦楽四重奏のための」(一九七七/九一年)を演奏しました。
ところが、過当競争の中にある日本の指揮者は実験できないのです。多くのオーケストラが公益法人になって赤字を出すことが許されない中で、集客できる古典ばかりを演奏することになる。ベルリオーズの「幻想」が一番新しい曲になってしまう。それ以降のストラヴィンスキーなど組もうものなら集客は難しい。バルトークですら敬遠されていると聞きます。多分、今一番人気があるのはチャイコフスキーやドヴォルザークでしょう。
日本には優秀な指揮者が大勢いるから、みんな本当は新しい曲を演奏したい。でもチャンスがない。常任になると何回かは実験できるけれど、その肩書きがない限り実験はしづらい。ますます保守化する。もちろん、僕がかかわる新日本フィルハーモニー交響楽団をはじめ意欲的に組んでいる楽団はあります。だがトータルで言うと、”今日性”につなげる努力はものすごく少ない。このままだと、先細りすると心配しています。オーケストラのあり方を考えるのは、日本の音楽、文化としての音楽について考えることと一緒だと思うのです。
知れば知るほどおもしろくなる
-ある評論家が、日本では演奏人口は多いのに、聴く人口が育たないと問題提起していました。
久石 文化を培うのは、たしかに難しい。加えて、日本が抱えるもうひとつの問題は観客の高齢化です。どのコンサートも、平日の午後二時からがゴールデンタイムなのです。びっくりするでしょう。
-老人中心ということですね。
久石 高齢者の多くは、コンサートに知的な刺激を求めているわけではない。「きょうはモーツァルトを聴いていい一日だったね」。そういう一日のほうがありがたいわけです。だから、ますますプログラムが保守化する。たまたま僕の場合はジブリ映画の影響もあるおかげで、二十代くらいの若い世代も聴きに来てくれるので驚かれます。だけど、高齢化の問題をどうしたらいいかは、僕も簡単には言えない。ただ、アマチュアオーケストラで演奏する人がたくさんいるというのは悪くないことです。なぜなら、クラシックは知れば知るほどおもしろくなる。そのためには、演奏するのが一番いいのです。
-それが、聴く人の増加につながっていません。
久石 これは日本人が直面している結構根の深い問題かもしれない。全ての物事が即物的になっていますから。もしかしたら、アマチュアオーケストラに入っている人たちの目的が、クラシック音楽を知ることではなく、人とのつながりや経験を得ることなのかもしれない。音楽をする喜びを感じたくてオーケストラに参加するなら、聴くことにも喜びがあるし、勉強もする。これも養老先生が仰られていたことですが、今、学生に例えばニーチェについて論文を書けと言ったら、ニーチェの本ばかり二十冊ぐらい読む。本当は、ニーチェの本は一~ニ冊にしてその前後の哲学者も読まなければいけない。幅を広げて読むべきなのに、今の人は棒グラフのようにそれだけを読む、と。
もうひとつ、音楽が十分楽しまれていない背景に、現代人の脳が芸術野ではなく、論理的な方の脳で音楽を聴いている可能性があるかもしれません。つまり、コンピュータのように音楽を「情報」として「処理」している。ならばこれを逆手にとって、交響曲のような長い曲は、言葉を駆使して情報として伝える方策を考えないと普及しないかもしれない。
-何事もそうですが、おもしろさというのは、わかり易さと難しさとのバランスがあってこそ喜びがあり、先へ進むエンジンにもなるのですけれど。
久石 いずれにせよ、妙薬はない。たまたま僕は二十代まで現代音楽、誰も来ないようなコンサートをして、それからエンターテイメントに行った。映画も含めていろいろ担当してきた中で、もう一回クラシックに戻ってきたから客観的に見ているのですが、やはり一番大きな問題は垣根が高いことだと思うのです。それを壊す作業をしなければいけない。
ただ、それは夏休みに子供向けプログラムを提供すればいいとか、そういう問題ではない。日常的に垣根を壊していかなきゃいけない。昔ロンドンでは、ロンドン・シンフォニー・とアンドレ・プレヴィンがテレビでレギュラー番組を持った。あれでロンドン・シンフォニーのファンが増えた。山本直純さんの「オーケストラがやって来た」もそうでしょう。一般の人と触れ合うための、マスコミの使い方も踏まえた垣根の修正作業にもっと努めなければいけない。
僕が今一番思っているのは、「アートメント」をきちんとやろうということです。アートとエンターテインメントを組み合わせた言葉です。知的な喜びを、もっと日常にするということ。町を歩いている女の子のハンカチの模様がフランク・ステラやアンディ・ウォーホルの作品で、「これいいよね」とか言っているような感じ。それはたとえば、片方で「きのう、ゆずのコンサート行ったんだ」という女の子がいたら、隣で「私はベートーヴェンの第九に行った」という子もいて、それが普通の会話になる日常がいい。
芸術を日常にするには、数多く触れるしかない。以前イギリスで流行したのが、エデュケーションとエンターテイメントを合わせた「エデュテインメント」。それと同じです。文学でも、「夏目漱石はおもしろいじゃん」というところから入らないと、「純文学でござい」では敷居が高くて誰も近寄れない。スタンダールの『赤と黒』だって大衆小説でしょう、単純に言えば。でも、あれは純文学とされる。大衆小説と純文学の区分けっておかしいでしょう。ドストエフスキーの『罪と罰』だって、そんなに高邁な文学と呼ばなくていい。おもしろければ誰でも読むし、どんな本だって最初の二十ページは我慢しなきゃいけないわけだから(笑)。
クラシックも同じ。ベートーヴェンってまずおもしろいんですよ、本当に。あのパワーは、恐らく他の作曲家は到達し得なかったものです。金字塔ですよ。何ですごいのかと考えると、本当の意味でキャッチーなのです。ベートーヴェンが持っているのは、通俗的と言っていいほどキャッチーなものをベースに、それを徹底的に組み立てていく意志力でしょう。
大概の作曲家が言うことですが、第九はフォームがよくない。五番や七番に比べると、一、ニ、三楽章はいいけれど、四楽章はバランスが変。交響曲としての完成度で言うと、第九ってどうなの?と、僕を含めて多くの作曲家が疑問を持っていた。それはベートーヴェン自身にもあった。
でも、何回か第九を指揮しているうちに、そんなことは吹っ飛びました。あの四楽章の持っているカタルシス。まるでマリオブラザーズの一面クリア、二面クリア(笑)……という感じの、あの興奮。それから合唱が持つ圧倒的なエネルギーなどを考えていくと、やはり音楽は理屈じゃないのだと最後に気づきますよ。構成だ、論理的構造だとか言っていたことは一体何だったんだというのを最後に感じます。そのぐらい第九はすさまじい。
話は飛びますが、第九は日本人に合うのですよ。あれは演歌です。任侠映画と言ってもいい。耐えに耐えた主人公が、最後の最後で演歌のテーマが流れる中、刀を持って出かけていって、ちょうどワンコーラス終わると、敵相手にたどり着く。で、バーッと全部斬って終わるという。第九にはそのカタルシスがある。要するに、闘争から勝利、苦悩から歓喜へといった耐えた挙げ句のカタルシスです。
-「忠臣蔵」と第九が日本の年末の恒例というのがよくわかりました(笑)
久石 あ、「忠臣蔵」もそうですね(笑)。もともと日本で第九がはやった理由というのは、団員の餅代だったそうです。アマチュア合唱団を使うと、合唱団員一人一人に家族と親戚がついてくる。券を買ってくれる。それで多少のお金を稼いで団員に餅代を払って正月を迎える。それがいつの間にか定着した、と。だが、僕はそれだけではここまで定着しないと思うのです。やはり日本人の心に食い込むものがあったのでしょう。
-第九が持っている、人間の「声」という身体性とか、音楽の原点に訴えかける力でしょうか?
久石 そう思いますよ。これは民族音楽を訪ね歩いた小泉文夫さんという音楽学者が書いた『人はなぜ歌をうたうか』という本にあるのですが、スリランカの奥地で歌を歌う。音程は、高い音と低い音の二つしかないらしい。相手が一生懸命歌うと、その人よりもっと一生懸命大きい声で返す。また返す。こういうやりとりが歌うことの原点であり、小泉さんは感動したというのですね。実はベートーヴェンの方法も同じ気がするのです。きれいなメロディをどう料理して、どう展開するかみたいなことは余り考えてない。余り好きな言い方ではないけど、どの曲も、魂の叫びというか心の叫びというか、自分の考えていることと直裁的につながっている。ベートーヴェンは直裁的で非常に闘争的な男だから、抑圧からの解放が基本にある。
音楽史をたどると、ベートーヴェンの時代は古典派の終わりに当たります。ということは、ベートーヴェンの時代には、物語的(後の交響詩)なものがいっぱいできている。ウェーバーをはじめ、みんなつくっている。そこで音楽に初めて文学が重要になるわけです。それ以前は、純粋にフォームのある音楽を書いてきた。ソナタ形式とか。でも、もうこれ以上やってもベートーヴェンに勝てないとなった瞬間以降は、音楽に文学の要素が入ってくる。ボロディンの交響詩「中央アジアの草原にて」のように、向こうから来てあっちに去っていったり、シュトラウスの「アルプス交響曲」のように、夜が明けて嵐が来てみたいなアルプスの一日の情景描写など、構成に文学的な要素が入ってくるのです。この辺りから音楽のあり方が変わった。
これを論じたのが、Th・W・アドルノの『新音楽の哲学』という本で、これは読みづらいけれど読んでおいたほうがいい本です。ストラヴィンスキーとシェーンベルクを論じている本ですが、そこでの警鐘は、二十世紀における芸術音楽のあり方の問題です。要するに、商業化した音楽が主流になる今日の状況でそれが可能なのか? を論じている本ですが、現在はもっと深刻な状況だと僕は思っている。
音楽が抱えている問題は本当に大きい。だからそこで自分は何をするのか、ずっと考えています。
おもしろいとは、チャレンジすること
-久石さんがやってこられた映画音楽についてはどうお考えですか?
久石 過去には興味がないんだよね。それは昔の僕が書いた曲であって、今の僕と違うと思うから。
-でも、多くの人が多大な影響を受けたことは疑う余地がないと思います。
久石 もしそういう結果が出ているのだとしたら、本当に幸せなことだと思います。だって、もともと映画のためにつくってきていたわけだから、そういう結果を望んでつくったわけではない。そういう音楽ができたことはすごくうれしいけれど、自分から狙ってつくったことは一度もない。
もちろん、それはもう全身全霊でつくってきました、どの曲もね。ただ、これは作家の性で、「代表作は次だ」という意識は絶えずあるんだよね。過去のものを褒められると照れくさいし、あのときはあのときで一生懸命つくったよという気持ちでいるしかないんですよ(笑)。
ひとつ、わかっていることがあるのです。絶えずチャレンジし続けていないと観客はついてこない。僕のところに来てくれている人たちも、みんなそうです。一回でも気を抜いたコンサートをすると、離れるでしょう。最初の聴衆は自分。自分がおもしろいと思っていないものをやっても、誰にも伝わらない。おもしろいとは、チャレンジすることです。チャレンジすると、観客が一緒に育って、一緒に聴いてくれる。逆に、僕が前と同じことをしているような姿勢を見せた瞬間、観客は見事に離れます。
-怖いですね。
久石 観客って正直ですよ。この夏と秋の二つのコンサート。「World Dream Orchestra」の方は僕の映画音楽中心。すると、二ヵ所四千枚のチケットが発売後五分で完売。一方、現代の音楽を組んだ「Music Future」の方は五百枚が二ヵ月すぎても売り切れませんでした。露骨でしょう。自分がやりたい方が全然売れない(笑)。でも、僕はすごくうれしい。つまり、観客は、僕がやったら何でもオッケーじゃないんですよ。どういう内容か見て、知らないと思ったら引く。ならば、今後我々が取り組まなくちゃいけないのは、これをおもしろいと思う人間を増やしていくこと。急激にやりがいを感じて、これは来年もやるぞ、と思っています。
-「Music Future」では、世界初演の久石作品「Escher」を演奏されました。
久石 これはもう大変だった。弦楽四重奏なんだけど、メンバーに「弾けない」と言われて。「すみません」と言いながら演奏したけれど、楽しかった。僕は作曲家だから、こういう自分のやるべきことを今後もしていくけれども、オーケストラも同じだと思うのです。お客さんは実は知識で聴いていない。頭で聴くのではなくて、「何かわけがわからなかったけどおもしろかった」「今日のは、つまらなかった」と、考え方はこの二種類しかないと思うのです。その段階では、アルヴォ・ペルトであれ、グレツキであれ演奏していいと思う。何だかすごい不協和音だったけど、打楽器をいっぱい使っていておもしろかったとか、そういう感覚は残るでしょう。だから、そういうきちんとしたおもしろいものを提供していけば、今日の音楽を演奏するのは全然マイナスではない。それがアートメントです。でも実際は大変です。たとえば「World Dream Orchestra」で演奏したペンデレツキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」。演奏も大変。図形楽譜(五線譜でなく図形などで書かれた楽譜)だから。それをバッハの「G線上のアリア」と並べて演奏する。
-二つのギャップがすごいですね。
久石 それを狙ったというか、その化学反応をみたかったんです。ところで、この「広島の犠牲者に捧げる哀歌」に、未来につながるヒントがあると思っています。「超不協和音でおもしろいから聞いてよ」。僕がこう説明すると「そうですね」と言って、百人中九十五人は来ない。でも、「実はこのタイトルは後づけなんだよ。佐村河内と一緒」と言うと、これで二十人ぐらい来る(笑)。さらに、「実はこれは『哀歌 八分二十六秒』ってタイトルだったんだ」と加える。「エレジーという感情的な部分と頭で考える即物的な八分二十六秒がぶつかり合っている曲で、後で松下眞一さんという日本人作曲家の勧めで、日本公演のために『広島の犠牲者に捧げる哀歌』というタイトルをつけたんだ」。そして、こう締めくくる。「ペンデレツキはユダヤ人だから、広島、長崎、そしてアウシュビッツが結びついた。それで、このタイトルでいいと思ったんじゃないか」。これで大体六十人ぐらいが「あ、聴いてもいいわ。一回は」と思う。
-村上春樹さんの小説の中に出てくる音楽を聴きたくなるのと共通していますね。
久石 そう。潜在的にみんな聴きたいんですよ。だけど、どこから入っていいかわからない。だから僕は言葉の力を借りても、まず聴いてもらいたいと思いますね。
(雑誌「考える人 2014年秋号」 新潮社 より)
2014年10月22日 深夜24:35から放送されるフジテレビの特番「世界文化賞」において
音楽部門の受賞者アルヴォ・ペルト氏にまつわる人物として久石が登場いたします。
授賞式会場に祝福に駆けつけた久石とペルト氏との貴重な対面シーンも公開されるそうです。
是非ご覧ください。
2014年10月22日 CD発売 COCQ-85096
吹奏楽の定番と今後の定番化が期待される作品を、日本を代表する名門、東京佼成ウインドオーケストラ(TKWO)による最新のセッション録音で拡充してゆく「吹奏楽燦選」シリーズの第3弾。第1作はエバーグリーンとして定番化しつつあり専門誌でも高い評価、すでにロングセラーとなっている。第2作「フェスティーヴォ!」はレコード・アカデミー賞を受賞、チェコ吹奏楽曲の素晴らしさを広く知らしめてる。
今回の第3弾は、吹奏楽初挑戦となるクラシック界の実力派指揮者、関西フィル首席指揮者を務める藤岡幸夫とTKWOとの、実り豊かなチーム・ケミストリーに注目。藤岡は、吹奏楽オリジナル作品にはスケールの大きさと格調の高さをもたらし、ポップな曲には、タルカス等のクロスオーバー曲で吹かせた熱風を送り込んでいる。TKWOレコーディング・プロジェクトならではの委嘱作。今回は、ブリテン:青少年のための管弦楽入門の吹奏楽版といった趣の伊藤康英の意欲作『ラ・フォリア』を収録。TKWOの高い個人技と緊密なアンサンブル力をフルに発揮させる凝った逸品です。演奏会用マーチの定番『アルセナール』の勇壮な音楽、卒業式の定番曲で美しいコラールの『ロマネスク』といった新旧のオリジナルの名作に加え、2014年5月に亡くなった岩井直溥の代表作であり人気定番曲『ボレロ・イン・ポップス』、高校野球応援に必携の『アフリカン・シンフォニー』といった誰もが聞き知っている名曲が目白押し。久石譲初の吹奏楽曲である箱根駅伝の新テーマ曲など、神曲詰まり過ぎの贅沢極まりない一枚。
(メーカーインフォメーションより)
本作品に久石譲楽曲が収録されている。
「吹奏楽のための《ランナー・オヴ・ザ・スピリット》」
Runner of the Spirit for Symphonic Band
I. オープニング Opening
II. エンディング Ending
【楽曲解説】
久石譲 / 吹奏楽のための《ランナー・オヴ・ザ・スピリット》
久石譲(1950-)はスタジオ・ジブリの映画音楽などで著名な、言わずと知れた作曲家。そんな久石と吹奏楽の関係は古い。吹奏楽ポップスの歴史を培ってきた「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」のシリーズにおいて、1978年から1985年にかけて、全部で13曲のアレンジを手がけている。また、1976年から1980年の間にはバンドジャーナル誌の付録楽譜の編曲も15回担当している(本名の名義によるものも含む)。久石が商業的なデビューを果たしたのが1974年であることを考えると、初期において吹奏楽の占めたウェイトは小さくはない。
1980年代後半から久石本人による吹奏楽のスコアは世に知られていないが、その長い沈黙を破って生まれたのが、この「ランナー・オヴ・ザ・スピリット」である。毎年正月2日と3日にかけて行われる箱根駅伝の、日本テレビによる中継番組のテーマ音楽として作られたもので、2009年の放送以来、毎年使用されている。テレビ番組用だが、最初から吹奏楽編成で作られているのは珍しいケースである。ファンファーレ的な「オープニング」(CM前のジングルとしても使用されている)と、選手の健闘をねぎらい讃えるかのような「エンディング」の2曲からなる。
(CDライナーノーツ 楽曲解説 より)
本作品に収録されているこの2楽曲は、2009年から箱根駅伝のTV放送で流れている音源ではない。
2009年のオリジナル版も東京佼成ウインドオーケストラによる演奏である。楽曲構成が変わっていたり、改訂されているという意味ではなく、録音時の指揮者と団員奏者の違いによる微細な演奏の変化である。
よって同じオリジナルのスコアを使用しているなかで、指揮者の違いによる楽曲のダイナミクス、テンポ、演奏表現方法、パートごとに前面にフィーチャーされている楽器の違いによる印象と響きの違いと思われる。
それでも2009年発表から現時点(2014年)までに、久石譲名義として作品化されていないだけに、ほぼオリジナル版と言ってもいいくらいのバージョンがCD作品化されたことは、貴重でありうれしい限りである。
2009年版および以降毎年正月TV放送される際のオリジナル版、指揮は久石譲自らによる。
1.音楽祭のプレリュード (アルフレッド・リード)
2.コンサートマーチ《アルセナール》 (ヤン・ヴァンデルロースト)
3.ロマネスク (ジェイムズ・スウェアリンジェン)
4.海の男達の歌 (船乗りと海の歌) (ロバート・W・スミス)
5.マゼランの未知なる大陸への挑戦 (樽屋雅徳)
6.百年祭 (福島弘和) 2012年改訂版
7.嗚呼! (兼田敏)
8.吹奏楽のための《ランナー・オヴ・ザ・スピリット》 I. オープニング (久石譲)
9.吹奏楽のための《ランナー・オヴ・ザ・スピリット》 II. エンディング (久石譲)
10.ラ・フォリア ~吹奏楽のための小協奏曲 (伊藤康英)
11.ボレロ(イン・ポップス) (モーリス・ラヴェル/岩井直溥 編)
12.アフリカン・シンフォニー (ヴァン・ マッコイ/岩井直溥 編)
演奏:東京佼成ウインドオーケストラ
指揮:藤岡幸夫
録音:2013年9月9~10日、江戸川文化センター(東京) [96kHz/24bit録音]
Posted on 2014/10/20
「クラシックプレミアム」第21巻は、オペラの時代2 序曲・間奏曲集 です。
第16巻にて、オペラの時代1 アリア集 が特集されています。アリア集が声に焦点をあてたものであったのに対して、今号ではオーケストラに的を絞り、序曲・間奏曲・前奏曲やバレエ音楽まで、華やかでオペラを盛りたてる絶品のオーケストラ音楽が収録されています。
【収録曲】
ロッシーニ:《セビリャの理髪師》 序曲
クラウディオ・アバド指揮
ヨーロッパ室内管弦楽団
ヴェルディ:《椿姫》 第1幕への前奏曲
カルロス・クライバー指揮
バイエルン国立管弦楽団
ヴェルディ:《アイーダ》 第2幕「凱旋の場」より 〈凱旋行進曲と大合唱およびバレエ音楽〉
ニコライ・ギャウロフ(バス)
クラウディオ・アバド指揮
ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団
プッチーニ:《マノン・レスコー》 第3幕間奏曲
マスカーニ:《カヴァレリア・ルスティカーナ》 間奏曲
レオンカヴァッロ:《道化師》 間奏曲
マスネ:《タイス》より 〈瞑想曲〉
オッフェンバック:《ホフマン物語》より 〈舟唄〉 編曲:マニュエル・ロザンタル
ポンキエッリ:《ジョコンダ》より 〈時の踊り〉
ヴォルフ=フェラーリ:《マドンナの宝石》 第3幕間奏曲
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
グリンカ:《ルスランとリュドミラ》 序曲
ミハイル・プレトニョフ指揮
ロシア・ナショナル管弦楽団
「久石譲の音楽的日乗」第21回は、
視覚と聴覚のズレはどうして起こるのか?
前号からの話つづきになっています。
一部抜粋してご紹介します。
「視覚と聴覚から入る情報にはズレが生じる。では何でそういうことが起こるのか?本来映像は光だから音より速い。だとすると映像のほうが先に飛び込んで来るから、音楽を逆に先行させなければ映像にぴったり合うことはない。ところが現実は逆である。」
「そのことに関して養老孟司先生は「おそらくシナプスの数です。意識がどういう形で発生するかわかりませんけど、自分がこういうことを見ているというのと、聞こえてくるのと、脳の神経細胞が伝達して意識が発生するまでの時間が、視覚系と聴覚系とでは違う。だからズレているわけです」と僕との対談本『耳で考える』で語っている。」
「いつも気になることがある。テレビやDVDでクラシックのコンサートを観るとき、特に速いテンポのときなど指揮者の打点とオーケストラの音の出るタイミングが微妙に違うのだ。「まだ点に行き着いてないそこで音は出ないよ」といつも変な感じがするのは音が早く出過ぎているためだ。現場では音声と映像がタイムコードでしっかりシンクロしているはずだが、結果として音が早く感じる。そんなに多くはないが、僕もコンサートのDVDを作るとき、このことが気になってすべてのシーンのタイミングを合わせるために何度も徹夜したことがある。また普通に映画を観ているときでもセリフと映像のタイミング(リップシンク)のズレがとても気になる。このことも視覚と聴覚のズレが関係しているのだろうか?もっとも音声を録る機材と映像を撮る機材の(特にケーブル)問題やそれを家庭で再生するときの装置の問題でズレる場合もある。ブラウン管より液晶のほうが圧倒的に映像は遅れる。僕の家の4Kテレビでは……これは気にならない。何故なら見ている番組のほとんどがアメリカのテレビドラマだから、字幕を見るのに忙しくリップシンクにまで眼が行かない(笑)。まあ普通は気にしないだろうな、こんなこと。」
その他、ふと耳にした音楽から過去を思い出して胸を熱くすることはあっても、逆に昔の懐かしい場面を思い浮かべて、それから音楽を思い浮かべる人はそういうない、など、なるほどそう言われればそうかもな、と日常生活に置き換えて納得することも多く。
視覚(映像)と聴覚(音楽)のズレ。とても精通している専門家じゃないと気にならないような、視覚と聴覚のズレのようにも思いますが、なるほどそういう感覚なのかと思います。いざコンサートDVDを制作しようとしたときに、こういった点でも水面下の調整、苦労があるとは知りませんでした。
ただ単にLive コンサートで録画したものを編集したらいいわけではないんですね。何十本にも及ぶ録音用マイクで音はバランス調整しているのはわかりますが、映像も十数台のカメラワーク、カット割りの編集のみならず、総合的に視覚(映像)と聴覚(音楽)のズレの微調整まで。
なかなか久石譲コンサートがDVD化されないのは、こういった作曲者・指揮者の繊細な感覚と、やるなら!というこだわりからでしょうか。それでも映像作品として残してほしいことに変わりはないのですが。コンサートはLive感、その臨場感を楽しむものですから。
武道館DVDはこのズレどうなっているんだろう?など、またいろいろと気が散漫してしまいます。いつかゆっくりチェックしてみます。いや、素人よろしく楽しく鑑賞するのが一番いいのかもしれませんね。
Posted on 2014/10/18
1986年公開 スタジオジブリ作品 宮崎駿監督
映画『天空の城ラピュタ』
2014年7月16日「スタジオジブリ 宮崎駿&久石譲 サントラBOX」が発売されました。『風の谷のナウシカ』から2013年公開の『風立ちぬ』まで。久石譲が手掛けた宮崎駿監督映画のサウンドトラック12作品の豪華BOXセット。スタジオジブリ作品サウンドトラックCD12枚+特典CD1枚という内容です。
さらに詳しく紹介しますと、楽しみにしていたのが、
<ジャケット>
「風の谷ナウシカ」「天空城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」は発売当時のLPジャケットを縮小し、内封物まで完全再現した紙ジャケット仕様。
<特典CD「魔女の宅急便ミニ・ドラマCD」>
1989年徳間書店刊「月刊アニメージュ」の付録として作られた貴重な音源。
<ブックレット>
徳間書店から発売されている各作品の「ロマンアルバム」より久石譲インタビューと、宮崎駿作品CDカタログを掲載。
そして『天空の城ラピュタ サウンドトラック 飛行石の謎』もLPジャケット復刻、ライナー付き。
さらには、
●ジャケット特典/パズーとシータの複製セル画付き!
往年のジブリファン、そして久石譲ファンにはたまらない内容になっています。
そして貴重なライナーは、サントラ制作のレコーディング録音 スタジオメモです。
●6月20日(金)オールラッシュフィルム(セリフや音楽のない状態で編集されたフィルム)がほぼ完成。小雨が降り続く、深夜の東京・吉祥寺東映に関係スタッフを集めて映写された。映像のクオリティの高さに、一同息をのむ。
●6月23日(月)『ラピュタ』の制作をしている、スタジオジブリの近くにある喫茶店でBGMの本格的な打ちあわせ。3月に制作したイメージアルバム『空から降ってきた少女』をもとに、監督の宮崎駿さん、プロデューサーの高畑勲さん、音楽の久石譲さんが互いに意見を出し合って決めていく。1曲目からたちまち熱のこもった議論に。シータが捕らわれている飛行船に、海賊たちのフラップターが急襲するシーンに、音楽をつけるのかどうか、それはどんな曲か。熱論2時間、結局この曲は最後にもう一度話し合うことになった。午後4時から場所をジブリ第2スタジオ(実は仮眠室)に移して、深夜まで打ちあわせが行われた。
●6月24日(火)久石さんのワンダーステーション(スタジオ)にてレコーディング開始。「今回は徹底して絵の動きと音楽の流れを合わせることにこだわりたい」と久石さん。ラッシュフィルムのビデオをもとに、絵の動きのポイントの秒数を正確にチェック。『フェアライトIII』というスーパーシンセサイザーにデータを入れて、ベースとなるリズム体を作っていく。タイガーモス号の見張台にいるパズーとシータの曲からスタート。
●7月2日(水)連日徹夜の日が続く。海賊たちとスラッグ渓谷の親方との力くらべのシーンの曲を録る。絵のユーモラスな動きと完全に一致した曲に。楽しいシーンになりそう。
●7月7日(月)作品の最後に流れるテーマ曲『君をのせて』のボーカル録り。イメージアルバムの曲『シータとパズー』のメロディを生かした曲。作詩も宮崎さんとあって、作品にぴったり合ったテーマ曲に。井上杏美の澄んだ声がスタジオに響く。
●7月8日(火)日活スタジオでオーケストラ部分の録り。録るシーンごとに絵をスクリーンに映し、見て感じをつかんでもらってから、レコーディング開始。日活スタジオはじまって以来という総勢50名近くの大編成オーケストラの響きはさすが!
●7月10日(水)クライマックスで使用される児童合唱を録る。『ナウシカ』では4歳の女の子の歌った曲が話題になったが、今回は、杉並児童合唱団の30人の女の子を起用。3声にアレンジされた『シータとパズー』のメロディを歌う。
●7月12日(土)それぞれに録った音をひとつにまとめ上げる作業、トラックダウンを行う。最後まで課題として残っていた、作品の冒頭、フラップターの急襲シーンの曲を入れることに決定。あとはセリフや効果音とのダビング作業を待つばかりとなる。公開まであと1ヵ月弱、『ラピュタ』は4チャンネルドルビーサウンドで公開される。迫力あるラピュタサウンドが楽しめるはずだ。
●『ナウシカ』のサントラ盤を出した時、もう一度『ナウシカ』に、宮崎駿さんに会いたいと書いた。そして今、こうして『ラピュタ』のサントラをお届けできることを大変うれしく思う。あれから2年、自然と人間の調和の中に人間の未来を指し示した『ナウシカ』の叫びが起こした、様々な反響とは裏腹に世相はますます荒れすさんでいくように思える。「おとなから子どもまで、けなげにも非人間的なデジタル的なものにむりやり適応しようと涙ぐましい努力をしている現在、あらゆる面でアナログ的なものこそ人間的であると信じ、徹底してその復権を作品世界の中でめざす熱血漢・宮崎駿の、これは現代人全体への友愛の物語」(企画書の高畑さんの文章より)。という、『ラピュタ』のコンセプトは、このアルバムにも生かされている。そのサウンドに心安らぎ、胸ときめかせてほしい。 (渡辺)
(「天空の城ラピュタ サウンドトラック 飛行石の謎」 LP(復刻) ライナー より)
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偉大な芸術家たちを包む祝福の声-。東京・元赤坂の明治記念館で15日夜、第26回高松宮殿下記念世界文化賞の授賞式典に続いてカクテルレセプションと祝宴が開かれ、駆けつけた文化人らが、受賞した5人と喜びを共にした。
音楽部門は、エストニアの作曲家アルヴォ・ペルトさん。ソ連による統治時代に西側諸国の音楽を学び、独自の音楽様式を確立した現代音楽を代表する作曲家。
Posted on 2014/10/15
2015年開館予定の長野市芸術館。その芸術監督に就任した久石譲のインタビューです。10月12日に開催された「久石譲&新日本フィルハーモニー交響楽団」コンサート前のメッセージとなります。
このインタビュー内容をふまえて、コンサートレポートもお楽しみください。
こちら ⇒ Blog. 「久石譲&新日本フィルハーモニー交響楽団」(長野) コンサート・レポート
久石譲が考える長野市芸術館のすがた
芸術監督に就任して初めての舞台を前に、東京の事務所にて、開館プレイベント「久石譲&新日本フィルハーモニー交響楽団」公演によせる想いと、芸術館の未来について語っていただきました。
■ いま、やるにふさわしいものを。
-芸術監督に就任して初の長野でのコンサート。どんな想いで臨まれますか?
久石 長野で音楽を、とりわけクラシックを聴ける環境をたくさん作っていくことが僕の使命なので、今回のプログラムは僕がやりたいものをきっちりと選んだ。かなりおもしろいコンサートになると思っています。
-「風立ちぬ」第2組曲は、映画で使われた音楽がベースになっているのですか?
久石 そうですね。ただ映画では使われなかった曲もずいぶん入っていて、映画とはまったく別の、その時に書いた素材をもとに新たにオーケストラのための組曲として作り直したものです。初演は今年の5月に台湾。夏に東京でやって、長野は3回目ということになります。
-ベートーヴェンは久石さんにとってどのような存在?
久石 最高の作曲家です。彼の作品は非常に明快なロジックとエモーショナルな部分をあわせもっている。そしてキャッチーでわかりやすい。交響曲第5番や第7番とかは本人の中でも整理されているんだけど、この3番あたりはまだちょっと思いついちゃったから書いちゃった、みたいなところがあって。当時もっている勢いみたいなものが最も表れているし、各楽章のテーマがすごくハッキリしているからね。芸術監督になって最初に選ぶ曲は何がいいかずっと悩んでいたけど、『英雄』がふさわしいと思った。
■芸術監督として僕がやるべきこと
-今後のポイントを教えてください。
久石 とにかく良いプログラムを作ること。方針をもって5年10年の長いスパンで定着していくことをやっていくことですね。生活のなかでコンサートに行くことが日常になってほしい。ふだん聴く音楽のひとつにクラシックがきちんとあってほしい。そのためにも良いものを数多くやって、みなさんの生活のなかで芸術館が中心にあるようになったら、一番良いことですよね。
(長野市芸術館 広報誌準備号 vol.2 より)
なお、長野市芸術館のFacebookページでは、今回のコンサートのリハーサルから本番の様子まで紹介されています。公演前のコンサートプログラム冊子の作成過程なども。2015年の開館に向けて、いろいろなニュースやリポートも詳細に紹介していく予定になっているそうです。
公式Facebook 》 長野市芸術館 Facebook
2014年11月には、長野市芸術館 公式ウェブサイトもオープン予定とのことです。公式ウェブサイト 公式Facebookページふくめて、久石譲の最新情報もHOTに更新されるかもしれませんので、随時チェックですね。
「久石譲&新日本フィルハーモニー交響楽団」長野公演本番写真を、公式Facebookページより1枚お借りしています。
Posted on 2014/10/15
長野市芸術館 開館プレイベントとして開催された「久石譲&新日本フィルハーモニー交響楽団」 コンサート。
長野市では2015年の完成に向け、新たな文化芸術の拠点となる「長野市芸術館」の整備を進めています。それに伴い、長野市芸術館の運営の中心を担う一般財団法人長野市文化芸術復興財団が発足しました。この財団では、芸術監督・久石譲氏の監修のもと、豊かな文化に支えられた〈文化力あふれるまち 長野市〉をめざします。また、さまざまな文化芸術が身近に感じられるような機会を提供できるよう、開館に向けて準備を進めています。
(コンサートパンフレットより)
まずはセットリストから。
久石譲 × 新日本フィルハーモニー交響楽団
[公演期間]
2014/10/12
[公演回数]
1公演(長野・ホクト文化ホール)
[編成]
指揮・ピアノ:久石譲
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
バラライカ/マンドリン:青山忠
バヤン/アコーディオン:水野弘文
ギター:千代正行
[曲目]
<第一部>
久石譲:弦楽オーケストラのための「螺旋」
久石譲:バラライカ、バヤン、ギターと小オーケストラのための「風立ちぬ」第2組曲
—アンコール—
Summer
<第二部>
ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調「英雄」作品55
—アンコール—
Kiki’s Delivery Service for Orchestra
当初予定されていたプログラムから一部変更になり、上記の演奏プログラムとなっています。
曲目ごとに。
2010年コンサート「久石譲 Classics Vol.2」にて世界初演されて以来、2011年コンサート「久石譲 Classics Vol.4」で二度目の演奏後、幻の曲として沈黙を守ってきた楽曲、14分に及ぶ大作です。
当初プログラムでは「ピアノと弦楽オーケストラのための新作」もしくは「螺旋」の披露予定、どちらを演奏されたにせよ貴重なプログラムだっただけに、これはレアな演目となりました。どういう曲か? は後述の久石譲本人による解説をご参考ください。
2014年のコンサート活動を象徴する楽曲です。曲詳細については過去コンサートレビューや、新作CD「WORKS IV」にて紹介しています。
第1部のアンコールとして。久石譲の代名詞的な名曲「Summer」をピアノ&オーケストラとの共演で。CD「メロディフォニー」が基調となるシンフォニー・バージョン。
長野市芸術館のコンセプトにもあるように、さまざまな文化芸術が身近に感じてもらえるべく、久石譲作品以外から選曲されたベートーヴェンの「英雄」。第9、第5番「運命」が一般的にはポピュラーですが、「英雄」も引けをとりません。長野市芸術館の開館を前にプレイベントの演目として選ばれているだけに、「新しいなにかが始まる」、幕開け、ファンファーレのような意味合いだったかどうかは、定かではありませんが、そんな気もしています。
こちらも新作「WORKS IV」に収録された、2014年今一番ホットな楽曲です。
Program Notes
久石譲:弦楽オーケストラのための「螺旋」
弦楽オーケストラのための「螺旋」は、2010年2月16日に行ったコンサート《久石譲 Classics Vol.2》のために書いた作品である。作曲は、2010年1月20日より2週間という短い期間で一気に書き上げ、その後直しを含めて時間の許す限り手を加えた。ミニマル・ミュージックの作家としてコンテンポラリーな作品を書きたいという思いが強かったのかもしれない。
曲は、8つの旋法的音列(セリー)と4つのドミナント和音の対比が全体を通して繰り返し現れる。もちろんミニマル・ミュージックの方法論で作曲したが、その素材として上記の12音的なセリーを導入しているため結果として不協和音が全体の響きを支配している。
心がけたことは、感性に頼らず決めたシステムに即して音を選んでいくことだった。もちろんそのシステムを構築する土台は(それが良いと決めたこと自体)個人的な感性である。
曲の構成は日本の序・破・急(※)の形をとり、第1部は遅めのテンポの中で様々なリズムが交差し、第2部では同じセリーのスケルツォ的躍動感を表現している。第3部の前には、もう一度基本セリーによる静かな神秘的な部分があり、その後、急としての激しい空間のうねりが展開される。
曲のタイトルとして Spiral という言葉を最初考えていたが、この急の部分を作曲したときに「螺旋」という日本語が最もふさわしいと確信した。
(※)序・破・急 = 音楽・舞踊などの形式上の三区分。序と破と急と。舞楽から出て、能その他の芸術にも用いる。
(2011年9月7日《久石譲 Classics Vol.4》 曲目解説より一部補筆し転用)
– コンサートパンフレットより –
この久石譲本人による楽曲解説を見ても、ハテナが頭に浮かぶだけですが、キーワードとしては「ミニマル」「空間のうねり」「序・破・急」、すなわち《螺旋》です。
”不協和音が全体の響きを支配している”とありますが、とはいえミニマル・ミュージック特有のリズムがそこにはあり、躍動感と神秘性をかねそなえた弦の響きがまさにスパイラルしている楽曲。
コンサートで聴いても、その渦を巻いた弦楽オーケストラの響きに圧倒されます。今回3度目の貴重なお披露目となったわけですが、久石譲の現代音楽作品として後世に残るべき重要な作品だと思います。ぜひこれからのコンサートや、またCD作品としても聴きたい大作です。
余談。当初予定されていた「ピアノと弦楽オーケストラのための新作」。こちらもいつか聴ける日が来ることを切望していることは、言うまでもありません。
長野芸術館の芸術監督を務める久石譲は、「日常の中に音楽が入ってくるための魅力的なプログラムをつくりたい」「出身県でもあり、自分の年齢も考え、少しは世の中に貢献しようと思った」「善光寺での野外コンサートを含んだコンサート週間を柱にし、長野だけでなく全国に発信したい」、自身も毎年コンサートを開催していきたいと語っていて、2015年の開館イベントやその以降、長野から発信される久石譲音楽に期待です。
2014年、いろいろな企画・編成・形式でのコンサート活動が行われてきましたが、その最後を飾るファイナルは、「久石譲 ジルベスターコンサート 2014 in festival hall」です。12月31日大晦日のこの日、久石譲の2014年集大成、総決算です。と同時に2015年の何かを予感させてくれるコンサートとなるのでしょうか。
久石譲コンサートの歴史はひとつひとつと刻まれています。
こちら ⇒ 久石譲 Concert 2010-
最後に、今コンサート終演後のメディア情報より。
指揮者久石さん躍動 長野市芸術館開館プレイベント
建設中の長野市芸術館(新市民会館)の開館記念プレイベントとして同館芸術監督の作曲家久石譲さん(63)=中野市出身=が指揮する新日本フィルハーモニー交響楽団(東京)の特別公演が12日、長野市若里のホクト文化ホール(県民文化会館)であった。久石さんの県内公演は4年半ぶり。オーケストラの重厚な演奏が、大ホールを埋めた幅広い世代の約2200人を魅了した。
約2時間の公演で、ともに久石さん作の「弦楽オーケストラのための『螺旋(らせん)』」、昨夏公開の宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」の曲を再構成した組曲のほか、ベートーベンの交響曲第3番「英雄」を演奏。久石さんは全身を躍動させて力強い指揮を披露した。「風立ちぬ」では、指揮の合間にピアノを弾く場面もあった。曲が終わるごとに笑顔で両手を広げ、聴衆の拍手に応えた。
久石さんは公演後、「話ができないほど精いっぱい出し切り、お客さんの反応もすごく良かったので、やってよかったなあと思う」と話した。
(信濃毎日新聞[信毎日web] より一部抜粋 )