連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第8回:「上手いだけのオーケストラは世界中にある」
2003年10月20日。いよいよ録音の最終日だ。
実は、この前日にトラブルがあった。2日目の録音を終え、夕方から編集作業に入った瞬間、ドボルザークホールの周辺一帯が、停電に見舞われたのだ。
録音データが消えてしまっては、2日間の録音が水の泡となる。スタッフに緊張が走ったが、ホールの職員や、何度もプラハで録音しているエンジニアの江崎友淑は、まったく動揺していない。「いつものことなんですよ」と江崎。「むしろ録音中でなくてよかった。休憩にしましょう」と慣れた態度で煙草を取り出す。ホールの外に出てみると、町の人々も慌てていないから驚きだ。
こうなると、できることは待つだけだ。
一方、必ずしも“プラハ慣れ”していないはずなのに、なぜか冷静沈着に見える男がいた。スタジオジブリの音楽担当の稲城和実だ。実際は顔に出ないだけなのかも知れないが、「いやぁ、大変ですね」と言う稲城を、久石譲は「君が言うと、全然大変だって気がしないんだよ」とからかった。
停電は、何ごともなかったように、数時間後に復旧した。幸い、データは完全な形で残っていたものの、日本のスタジオでは考えられないおおらかさだ。
最終日は、停電のおかげで前夜遅くまで編集作業をこなしていたため、久石とスタッフの疲労はピークに達していたが、残された時間を精一杯使い、録音に取り組んだ。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の集中力も、最後まで途切れることはなかった。
終了後、久石と指揮者のマリオ・クレメンスが固い握手を交わす。多くを語り合わずとも、この握手が録音の成果を何よりも雄弁に物語っていた。
久石はチェコ・フィルの演奏をこう評価した。「スラブ系特有の土の匂いがする粘り強い演奏は、やはり『ハウルの動く城』の世界観にぴったりだった。マリオの指揮による演奏も期待以上のものになり、満足している。ただ、以前『交響組曲 もののけ姫』を録音した時に比べると、少しずつ演奏が均一化されてきていて、“お仕事”っぽくなりつつある印象も受けた。チェコ・フィルには、素朴さを失わずにいてほしいんだけどね。演奏が上手いだけのオーケストラは世界中にあるから」
終わってみればあっという間だったプラハ録音を終え、翌日にはミックスダウンとマスタリング(CDにするための曲間の長さや音量の調整)を行うため、ロンドンへ旅立った。(依田謙一)
(2004年3月1日 読売新聞)