第10回:「祝福したい関係」—前編

連載 久石譲が挑む「ハウル」の動く音 (読売新聞)
第10回:「祝福したい関係」—前編

「これまでの集大成としたい」──久石譲は、インタビューで「ハウルの動く城」への意気込みを聞かれると、必ずこう答えている。

数々の名作を世に送り出してきた宮崎駿・久石譲コンビの「総決算」である同作のサウンドトラック制作の様子を伝える前に、2人の出会いについて触れておきたい。

2人が初めて出会ったのは、1983年の夏。翌年公開予定だった「風の谷のナウシカ」のイメージアルバムの打ち合わせのためだった。41年生まれの宮崎監督はこの時43歳。

一方、50年生まれの久石は32歳。大学時代から取り組んできたクラシックに決別し、ポップスに活動の場を移したアルバム「インフォメーション」を前年に発売した後だった。

当時の久石にとって、クラシックへの決別は、大きな決意の表れだった。

久石が作曲家を志したのは20歳の時。テリー・ライリーの「A Rainbow in Curved Air」に魅せられ、ミニマル音楽の作曲家になろうと決めた。ミニマルとは、短い音のパターンをひたすら反復する音楽で、ライリーはその「発明者」だった。

延々と続くフレーズのなかで、繊細な変化を重大なものとして響かせるため、どこを切り取っても「同じ体験」として聴けるのがミニマルの特徴だ。小さい頃から西洋音楽を習い、始まりがあって終わりがあるのが音楽だと思っていた久石にとって、この方法はあまりに衝撃的だった。始まりが終わりでもあり、過去が未来でもあるという独特の時間のとらえ方に、いっぺんにはまってしまった(ちなみに、民族音楽にも同様の特性があると久石は指摘する。彼の音楽にしばしば民族音楽の要素が盛り込まれるのは、このためだろう)。

それからは、ひたすら作曲に明け暮れた。あらゆるアルバムを聴き漁り、自分なりのミニマルを探し続けた。

しかし、先行する気持ちとは裏腹に、なかなか満足のいく音楽作りができない日々が続いた。演奏会もうまくいかなかった。「僕たちは音楽に使える下僕と同じ。より高い望みのためにはどんなことをしても平気だった」と考える久石の激しいやり方に、仲間とのいざこざも絶えなくなっていた。

「古今東西のすぐれた音楽家は、この苦しさを乗り越えて自分を確立したのだ」と心に言い聞かせながらも、不安は高まる一方だった。

「暗くて長いトンネルのなかに、僕はいた。かすかな希望に夢を託したり、明日を信じたりするには、少々疲れていた」(久石譲著「Iam」より)

ミニマルを現代音楽の一つとすれば、作曲、演奏そのものが「実験」でなければならない宿命を持つ。必然的に、技量の違う奏者をまとめあげ、新しい挑戦と完成度を両立させるのは至難の業となる。久石にとっても、それは同じだった。当時の彼の音楽は「そこそこの評価と偏見に満ちた罵倒に二分されていた」(同書より)

やがて、食いつなぐためにテレビコマーシャルの仕事にも進出。悶々としたまま、気がつけば30歳を迎えていた。

そんななか、タンジェリン・ドリームやクラフトワークなど、シンプルでありながらポピュラリティーのあるテクノ音楽を聴きながら、あることに気がつく。

「ミニマルをやるのに、現代音楽というフィールドにこだわる必要はないのではないか」

自分を縛っていたのは、自分自身だと気がついたのだ。

そう考えたら、急に気が楽になった。自分の生活費の基盤としか思っていなかった場所が、もっとも可能性のある場所に思えてきた。

久石は覚悟を決めた。そして、今より「広い場所」に挑む以上、「売れなければ、正義じゃない」と肝に銘じた。

こうして、アルバム「インフォメーション」が生まれた。名義は「ワンダー・シティ・オーケストラ」となっているが、実態は久石のソロ作品だ。それまでも現代音楽のアルバムに参加していたものの、この作品が事実上のデビュー作となった。

タイトルには、限られた相手でなく、不特定多数に向けて発信したいという思いを込めた。それはそのまま、もはや古典的となった「現代」音楽と、それを含む「クラシック」に対する決別表明だった。

ミニマルを随所に織り交ぜながらも、ポップスであることを強く意識した同アルバムは、糸井重里による「おいしい生活」という宣伝コピーが話題となっていた西武百貨店の池袋店で、1年間に渡って流れ続けるというおまけも付き、名実ともに「不特定多数に向けた音楽」となった。久石の周囲には、確実に新しい風が吹き始めていた。

そして、このアルバムがきっかけで、久石は宮崎監督と出会うことになる。(依田謙一)

(2004年3月14日 読売新聞)

 

連載 ハウルの動く城 久石譲

 

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