Posted on 2018/01/07
映画情報誌「キネマ旬報 1991年4月下旬号 No.1056」に掲載された久石譲インタビューです。
「特集 映画音楽 -日本映画音楽の担い手たち-」というコーナーで、佐藤勝のインタビューや他作曲家コメント集なども掲載されています。
特集 映画音楽 -日本映画音楽の担い手たち-
映画を構成する要素はさまざまあるが、その中で音楽もまた重要なパートであることは、今さらいうまでもない。日本の映画音楽界はこれまでにも早坂文雄氏、伊福部昭氏、佐藤勝氏、武満徹氏をはじめ、世界に誇る名匠を次々と送りだしていった。彼らの多くは現在も第一線で活躍中であり、新しい才能も確実に増えはじめてきている。さらには80年代ミュージック・ビデオの急成長、衛星放送の開始など、人々の興味が映像と音楽との融合へ向かっていることは疑いようのない事実である。しかるに、日本映画界の現状は?
これから本誌では、全ての映画音楽にこだわり続けていく。今回”日本映画音楽の担い手たち”は、その序章である。
・佐藤勝 いい映画がないといい映画音楽は成り立たない
・久石譲 新しいサウンドトラックの在り方を求めて
・作曲家コメント集
・音楽プロデューサーに聞く
・八木正生追悼 秋山邦晴
新しいサウンドトラックの在り方を求めて
久石譲
エンターテインメントが少なすぎる!
今度、NECアベニューから、今まであったレーベルの中に新シリーズ”サウンド・シアター・ライブラリー”を設けて、積極的に映画音楽のCDを出していこうと思っています。基本的に大きな柱が二つあって、一つは日本の良質な映画音楽を出していこうというもので、もう一つは、映画からイメージを受けた耳で聴くサウンドトラックみたいな形で、映像を抜いた新しいサウンド・シアターというか、そういう新しい試みが出来ればいいな、と考えているんです。もっと言えば、実際にサウンドトラックで作った曲ではなく、新たに歌で作り直したりという、そういったことも当然起こってくるでしょう。もちろんベーシックには映画というものを置いてありますけど、映像との関わり合いというか、そういった関係の中で起こり得る、これからのオーディオ・ヴィジュアル時代にあるべきいろんな試みが出来ればいいと思っています。
日本のサウンドトラックというのは、今、最悪の状況になっています。映画の製作費だけでは映画音楽は作れない、それでレコード会社とタイアップで、例えば主題歌を出すからとか、サントラ盤を出すからという前提で、お金を出して貰って、両方でビジネスにしていたところが今まではあったんです。ところが、今はレコード会社自体がサウンドトラックに見切りをつけちゃって、興味がないと。それでレコード化される例も少なくなったんですね。
レコード会社はあくまで主題歌を誰に歌わせるということで、ついでにサントラ盤を出すという姿勢だった。従って、彼らはサウンドトラック自体に興味があるわけではない。主題歌に興味があるんですよ。だからその感覚で作ってくる、あくまでシングル・ヒット狙いの主題歌と、映画の内容とが毎回ぐちゃぐちゃに対立してしまうわけ。僕は監督と一緒に映画をやっているし、ヒット・ソングも作るから、両方の接点が見い出せる。それで僕は映画を全部見渡せる立場として、音楽監督を引き受けるケースが多いんです。
日本の映画音楽が悪くなった理由は三つ。一つは予算が少ない、一つは日数がない、もう一つはいい作曲家がいなかった。この最後の、いい作曲家がいないというのは非常に難しい意味があって、エンターテインメント出来る作曲家がいなかったということです。日本にもいい作曲家の方はいらっしゃるわけですけど、映画を一つのアートとして捉えたところでのワークが凄く多かった。佐藤勝先生などはエンターテインメントをよく知ってらっしゃる方ですけど、日本ではエンターテインメント映画として成り立つ分野がとても少なかった。それも大きな理由だと思います。映画音楽の厳しい点は、クラシック音楽の教養とポップスの最先端の両方の感覚を持っていないと、実は書けないということ。その両方を持っている方は、想像以上に少ないんです。いい音楽家の方は大勢いたんだけれど、映画音楽に最適の人が少なかった。映画音楽は裏方でいいと思うけど、一方で音楽の主張もあるエンターテインメント映画が中心になって、片方に芸術映画、もう片方に別の映画があるというような構造が一番いいわけ。それが日本にはなさすぎた。みんなが入りこめるいいメロディがなさすぎた。
僕はたまたま宮崎駿さんという素晴らしい監督と知り合えて、四作やっていますけど、それがたまたまアニメだったために特殊な世界に閉じこめられていることに腹が立ちます。例えば、僕は宮崎さんが日本アカデミー賞で作品賞を取れないのはおかしいと思う。アニメという偏見が日本映画をダメにした。そういうことの裏で、僕が一所懸命やった仕事が全部帳消しにされてしまう。僕と宮崎さんがやった仕事のアルバムは、既に売り上げが100万枚以上超えているわけ。それを聴いたファン層があり、やがて親になって子供をコンサートに連れてくる。これは非常に健全な図式です。こういう映画が実写にないことを本当は恥ずべきことなのに。
もっと音楽を身近なものに!
みなさん映画音楽の現状を知らなさすぎる。好きなんだけど、知らないから変に口出ししてはいけないと思ったり、知らない自分が恥ずかしいんじゃないかと敬遠する人が多すぎて、音楽家だけがガラス張りに取って置かれたような現状がありすぎた。僕が”気分はJOE JOE”のエッセイを引き受けた理由も、裸の自分を全部出すことによって、いろんな、音楽家の日常や考え方を見せていくことによって、音楽家を身近に感じてほしかったからです。単に映画だけ作っていたらいえないことや、僕が考える映画のことも体系だててはいえないけど、エッセイ風に綴りながら、みんなに音楽が身近になって貰えれば、今度は自分達が音楽にこうしてほしいとか、こういうのはどう、といえる。今はそういうレベルにも達していないんです。スタッフにしても、キャメラマンの人でも、音楽が好きな人は大勢います。監督さんも好きな人が多い。でも、なんか自分は知らないからと気遅れしちゃって、もう一歩立ち入れない状態で映画をやってきちゃったケースが非常に多いんです。これを何とかしたかった。もっと音楽は身近にならなければいけない。そういったことが、今回の”サウンド・シアター・ライブラリー”にもつながってくるんです。
”サウンド・シアター・ライブラリー”の大きな特徴は、CDに脚本が全部ついてくることです。それによって自分達が映画に対して音との関係とか、映像があるために納得してしまうようなことを、見ないために、脚本を読んで音を聴いてイメージを喚起できることもあるし、その方がよほどイマジネーション豊かなわけ。とりあえず3月21日に「仔鹿物語」を出し、同時に大林宣彦監督自身が歌っている「ふたり」のシングルを、4月にそのサウンドトラックを出す予定です。このシリーズで大事なことは、単発で出してもあまり見向いてもらいないことを、こういったシリーズにして形にすることによって注目してもらうことであり、映画音楽にスポットを当てるという意味では非常に効果的なんです。今回脚本の中に音楽が入る箇所は示さなかったんですが、何かの作品ではやると思います。ただ、専門家用の企画になると困るので、もっと一般の人に楽しめるように、あまり細かい視点までは入れないつもりです。やはりこれ自体、エンターテインメントでありたいものですよね。
今年、各社の映画の中でもよほどのものでないとCD化されないでしょうから、いい作品があって、これを出したいというのがあれば、こちらも検討してどんどん出したいと思っています。この前調べたら、ニーノ・ロータのアルバムもあまりレコード化されてないんです。あれだけたくさんの名曲を残しておきながら、悲しいことですね。ですから、ニーノ・ロータの全集も出したらいいじゃないかと。佐藤先生や武満徹さんの仕事もどんどん形になってほしい。今の状況だと、映画音楽の価値観みたいなものが復権できないんですよ。僕はいい監督と巡り会えて、みなさんに教わったことも凄く多かった。だから、恩返しの意味でも僕がこういうシリーズをやって、映画音楽を活性化させることを少しでもやっていきたい。イコール、キネ旬のような立場はなおさら重要ですよ。キネ旬だからこそ、そういうことに使命感があると思うから、キネ旬で映画音楽賞をぜひ作ってほしいですね。そうすれば変わるかもしれませんよ。僕らは映画と同じように音楽が好きでしょう。その二つがドッキングしている映画音楽なんて、実は最も興味がある分野なはずなんですよ。でも、キネ旬に音楽賞がないというのは、日本を象徴しているね。
(「キネマ旬報 1991年4月下旬号 No.1056」より)