Blog. GS9 Club「MASTER OF JAPAN 世界が注目する日本人」久石譲インタビュー内容

Posted on 2022/03/28

2月18日グランドセイコー会員制ウェブサイトGS9Clubにて公開された久石譲インタビューです。「MASTER OF JAPAN 世界が注目する日本人」コーナーです。会員限定ですが、期間限定で閲覧できるキャンペーンにも恵まれました。

 

 

INTERVIEW
MASTER OF JAPAN 世界が注目する日本人

久石譲 作曲家

 

壁にぶつかるのなんて、毎日ですよ。
それでも作曲を続ける理由は、
まだ気に入った音楽ができていないから。

世界を舞台に疾走し続ける音楽家、久石譲。
「すべては良い音楽を作るため」。ブレない音楽家の覚悟に迫った。

 

ベートーヴェンと並び立つ名曲を作る

久石譲は、「行動する音楽家」だ。世界中の賞賛をほしいままにしてきたというのに、その歩みを止める気はさらさらないらしい。

スタジオジブリ作品をはじめ国内外の映画音楽などを手がけて芸術の域へ押し上げ、2018年、最先端の現代の楽曲を紹介するコンサート・シリーズ「MUSIC FUTURE」をアメリカ・ニューヨークのカーネギーホールで開催すると大きな話題に。今後もフランス、カナダ、イギリスなど各国で様々なコンサートが予定され、チケットは発売と同時に完売状態と聞く。

そんな中、50歳を過ぎて、指揮法を一から勉強するため日本を代表する指揮者の1人、秋山和慶(かずよし)氏に師事。作曲家として、自身の作品を本当の意味で理解するには自ら指揮するのが最良、という考えに至ったからだ。ホルン協奏曲を制作しようと決めると、演奏者にホルンを借りて自ら吹いてみるし、コントラバスやクラシックギターに至っては実際に購入した。

「ああ、その辺は向こう見ずですよねえ(笑)。でも、自分で指揮をしたり音を出したりすると、“体感”するんですよ。遠くにあるものをただ眺めるんじゃなく、実体験する。窓から外を見るだけじゃなく、暴風雨の中に飛び出す感覚です。すると、感じるのも10倍、100倍になりますから」

近年は、クラシック音楽の指揮にも精力的に取り組んでいる。16年に日本の若手トップの演奏家たちを集めたオーケストラを結成すると、3年かけてベートーヴェンの交響曲9曲をすべて演奏し、現在はブラームス交響曲シリーズに挑戦中だ。

「10年以上前、解剖学者の養老孟司先生とラジオ番組で対談した時、僕はすごく意地悪な質問をしたんです。『いい音楽って、何ですか』って。そしたら先生は1、2秒考えた後、『長く聴かれるもの』って、スパッとおっしゃった。要するに、長い時代を経て生き残った曲は名曲である、と。すごくシンプルだけれど、深い言葉です」

「長く聴かれるものとは何か」と考えれば、やはりクラシック音楽に行き着く。現代まで聴き継がれる音楽は、細部に至るまで非常によくできている、と久石は言う。

「音楽がどこで成立しているのか、僕は知りたい。それが、クラシックを自分で指揮する理由です。ものを作る人間の仕事って、基本がアウトプットですよね。でも、インプットがなければ、自分の中に何もなくなるから新しいものも出てこなくなる。その刺激を、自分があえて指揮することで作っているんです。どんなに苦しくても、指揮と作曲、両方やっていかなければ自分の音楽は成立しないと思う。つまり、やり続けるしかない、ということですね」

しかも久石は、長年愛されるクラシックと、自ら作った現代の音楽をあえて同じ夜のコンサートで演奏するのだ。

「図々しいよねえ(笑)。でも、その大きなプレッシャーを味わうことで、自分の音楽を少しでも良くしようとしているんです。それを繰り返していく中で、ベートーヴェンやブラームスと並べても遜色ないものに、自分の楽曲を育てていきたいから」

 

撮影中、スタジオに置かれたグランドピアノで、北野武監督の映画『菊次郎の夏』のメインテーマ『Summer』などをさらりと演奏。その場に居合わせたスタッフにとって、至福のひとときとなった。

 

仕事の時、特に指揮をする際には必ずこれらを持参するという。クリック(メトロノーム)は、テンポの確認をするために使用。巻物型の筆箱には、シャープペンシルや色鉛筆など必要最低限の筆記用具がすべて用意されている。それぞれに役目があり、いずれもスコアにメモを書き込む時に用いる。名前入りのオリジナルタオルは指揮をする際、指揮台の横に置いておき、これで汗を拭う。

 

 

作曲家人生の転機となった、1984年

3歳の時には、すでに音楽の道に進もうと心に決めていた。というより、音楽家になるのが当たり前だと思っていた。

1950年12月、長野県中野市で生まれた。両親が音楽に特に造詣が深かった、というわけではない。父は高校の化学の教師。育ったのは、いたって普通の家庭だ。だが、少年は物心ついた頃には音楽が大好きになっていた。最初に心惹かれたのは、『カルメン 前奏曲』や『トルコ行進曲』などの聴きやすいクラシック、そして歌謡曲や童謡など。4歳の時、自分から進んでヴァイオリン教室に通い始め、中学に上がるとブラスバンド部に所属して、トランペットを担当した。

「自分で言うのも何ですが、どの楽器をやってもすぐにできちゃうんですよ。でもね、あまり楽しくないんです。それより、好きな曲を聴いて自分で一生懸命音を取って、それに和音をつけて譜面を書くほうが面白かった。練習の合間にその譜面をみんなに渡して、音が出ると、『わあ、すごい』って驚くわけですよ。演奏する喜びより、何かを作ってそれが音になる喜びの方が強かったんでしょうね。中学の終わりには、『作曲家になる』と決めていました」

ラジオで流れる現代音楽を耳にして、「こんな不協和音の音楽があるのか」と驚いたのも、その頃だ。以来、作曲するのは主に現代音楽。が、国立音楽大学作曲科に在籍中だった20歳の頃、人生を決める1つめの転機が訪れる。最小限の音を使い、パターン化した音型を繰り返して構成される、60年代にアメリカで誕生したミニマル・ミュージックとの出合いだった。

「テリー・ライリーの『A Rainbow in Curved Air』という曲を聴いた時、衝撃を受けましたね。それからは、ミニマル・ミュージックの作曲にシフトしました。でも、曲が全然書けないんですよ。もちろん、その当時なんて曲をちゃんと仕上げる技術力もないし。30歳くらいになって、本当の意味で初めて書けたという感じかな」

在学時から自身や仲間の曲を発表する演奏会のプロデュースを行う一方、大学卒業後ほどなくしてテレビ番組の音楽を担当。プロとして、順調に商業デビューを飾った。以来、作曲や編曲をしながら着実に実績を重ねたが、30代前半で、久石の人生が急展開することになる。84年のことだ。

「一番大きかったのは、やっぱりアニメーション映画監督、宮崎駿さんに出会い、『風の谷のナウシカ』が公開されたことだと思います。スタジオジブリ作品を手がけたことで、世間に広く知っていただくことができました。でも、それとは無関係に、この年制作された薬師丸ひろ子さん主演の映画『Wの悲劇』の音楽も担当しているんです。さらに、当時大人気だったカネボウの男性用化粧品、『ザナックス』のコマーシャル音楽も」

この年の飛躍は、とにかく凄まじかった。こんなエピソードもある。ある日、テレビを見ていて「この歌手、うまいなあ。アレンジしたい」と思った翌日、なんとその人物から久石のもとにアレンジの依頼が舞い込んだ。それが、井上陽水だった。

「これ全部、84年に起こったんだよね。音楽業界のトップの仕事が、一気に来ちゃったという感じ。それらが一応すべて評価されたので、ラッキーだったと思う一方で、ずっと一生懸命やってきたのがよかったのかな、とも感じています」

 

 

 

音楽で世界のトップを獲る

ポップスや映画音楽など活動の幅を広げながら継続してミニマル・ミュージックや現代の音楽も手掛け、約40年にわたって最前線で疾走してきた。順風満帆に見えるが、途中で行き詰まったり壁にぶつかったりしたことはなかったのか。そう訊ねると、即座にこう答えた。

「そんなの、毎日ですよ。小さな行き詰まりは毎日だし、かなり大きな落ち込みは年に何回かあります。5年や10年単位でも波が来るし」

例えば指揮の場合、辞書ほどの厚さのある楽譜をすべて覚えなければならない大仕事だが、それでも、譜面という“もの”がすでにある。それに全力を傾けて向き合えば、多少なりとも何らかの成果はあるものだ。だが、作曲は、どれだけ努力してもフレーズが浮かばなければ、その日の収穫は何もない。

「作曲は世界で一番きつい商売の1つじゃないかな、とよく思います。ありとあらゆる忍耐や絶望、そういうマイナス要素が満載なんですよ。別に大変さを強調しているわけじゃないけれど(笑)、本当にそう思う。今日は書けても、明日は書けないかもしれないし」

想像を絶する、生みの苦しみ。それでも曲を作り続ける理由は、「まだ、気に入った音楽ができていないから」。今回はここまでできたけれど、ここがダメだった。次はそれをクリアするのが目標。少しでも良い音楽を作るために、それを繰り返すだけだ。

「それと、これは苦しみの裏返しなのだけれど、やっぱりゼロから何かを作る喜びがすべてに勝るんですよね。朝、起きた時には影も形ないけれど、1日音を紡いでいくと夕方には“何か”が生まれているかもしれない。もちろん翌日になったら『昨日のはつまらない』と思って捨てることもあるけれど、さらに手を加えていくうちに、気づいたらそれがシンフォニーになっていたりする。すごいことだよね」

久石の視線の先にあるのは、「音楽の本質を少しでも理解し、時代を超えて愛される音楽を作ること」だ。つまりそれは、未来の人たちにとっての新たなクラシックを生み出すことと同義と言っていい。

「わかりやすさや流行に頼れば、みんながすぐ喜んで拍手喝采してくれる曲ができると思います。でも、それでは先に広がっていかないんですよ。一方で、時代に左右されない本質を追い求める人たちは常に新しいものに挑み続けるから、前衛と呼ばれるんですね。でもそればかりやっていると、一般の支持は得られません。大切なのは本質を追求しながらも、その上で大勢の人に理解してもらえる努力をすること。これを怠っている音楽家が多すぎると、僕は思う」

コロナ禍になり、制作環境にも変化が生まれた。この約2年間、作曲は東京ではなく、主に軽井沢の仕事場で行ってきたという。

「軽井沢では毎日必ず1時間とか1時間半、散歩します。するとね、例えば11月の紅葉シーズンになると、黄色、赤、まだ少し緑が残る葉っぱなどが地面に落ちて、それらが本当に美しく配列されているのを目にするんです。どうやったらこんなに見事に並ぶんだろう、と不思議に思うくらい。でも、葉っぱや風景の一部だけを写真で撮っても、そこそこきれいだけれど、普通なんですよ。歩いているときに目に入る全体の美しさには、敵わない」

そこで、はたと気づいた。「作曲で必要なのはこの感覚だ」と。

「つまりこの葉っぱが音符だと考えれば、1個1個の音はソとかドとか無機質で普通のものなんだけれど、トータルで見ると完成されているんですよ。それも、わざとらしくなく。ああ、本当に目指さなきゃいけないのは、この風景と同じように音が自然に連なる音楽なんだなあ、と実感します。そこに至って、長野で生まれ育ってよかったとつくづく思う。だってそんな自然が幼い頃から日常の中にあって、そのことを体感してきたわけだから」

グランドセイコーの故郷の一つ、長野から世界へと羽ばたく「行動する音楽家」。現状に決して満足せず前進し続ける強靭な精神は、豊かな自然に育まれた繊細な感性から生まれ、時の本質を追い求めるグランドセイコーのそれと、驚くほど似ている。

「様々な分野で、『自分が世界のトップを獲る』というくらいの夢を持つ人が、日本にも大勢現れるべきだと思う。当然、僕は音楽で世界のトップを獲るつもりです」

その覚悟に、こちらまで背筋の伸びる思いがする。インタビューを終え、音楽家が穏やかな笑顔で去った後も、その場には熱気と高揚感が残り続けた。

 

 

久石 譲
ひさいし・じょう

作曲家

1950年生まれ、長野県出身。国立音楽大学作曲科在籍中からミニマル・ミュージックに心惹かれ、現代音楽の作曲家として活動を始める。84年に公開された映画『風の谷のナウシカ』以降、宮崎駿監督作品の音楽を担当。他に、滝田洋二郎監督『おくりびと』(2008年)、李相日監督『悪人』(10年)、高畑勲監督『かぐや姫の物語』(13年)、山田洋次監督『家族はつらいよ』(16年)など国内外で多数の映画音楽を手がけ、8度にわたって日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞。作曲と並行し、クラシックを作曲家の視点で指揮するプロジェクト「フューチャー・オーケストラ・クラシックス」や、世界の最先端の現代の音楽を紹介するコンサート・シリーズ「MUSIC FUTURE」などの活動も精力的に行う。20年より新日本フィルハーモニー交響楽団 Composer in Residence & Music Partner、21年より日本センチュリー交響楽団の首席客演指揮者に就任。

 

 

出典:GRAND SEIKO|GS9 Club|INTERVIEW
(*会員限定)

 

 

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